dialogue.umezu.半魚文庫

ウメズ・ダイアローグ(3)

わたしは真悟
(その1)


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樫原かずみと高橋半魚の楳図対談です。今回は長いです。[その5]まであります。

対談期間: 2000-04-15〜05-10
2000(C)KASHIHARA Kazumi / TAKAHASHI hangyo
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樫原かずみ (KASHIHARA Kazumi)
1962年9月22日、大分県生れ、同在住(38歳/男)。
乙女座A型。アマチュア漫画家。
楳図フリークで、B級ホラー映画、円谷シリーズ、萩尾望都、中島みゆき、横溝正史にも造詣が深い。動物占い「トラ」。
        

高橋半魚 (TAKAHASHI Hangyo)
1964年2月20日、新潟県生れ、石川県在住(36歳/男)。
魚座0型。近世国文学者。
北陸一(セコイ!)の楳図コレクターを自任。大学で『漂流教室』を講じている。動物占い「オオカミ」。
        


■ プログラム0[はじめに]


◆ ボクらにとって、はじめに――!!

半魚 さて、この対談。第3弾は、とうとう『わたしは真悟』です。樫原さん、何かまず一言どうぞ。

樫原 この作品は、楳図かずお後期にあたる作品であると同時に、

「漂流教室」「14歳」と並ぶ、楳図SFワールドの真骨頂

の作品であると考えております。

半魚 んー、「14歳」。しかし、そうですね。

樫原 「14歳」に関しては半魚さんは「わだかまり」を持っていらっしゃるようで・・・(笑)

半魚 うーん、あはは。まあ、いつか近い将来、きっちり対峙したいとは思ってますけど。

樫原 それぞれに、時代背景をシビアに見据えて描いた、楳図かずおの大長編でありますが、エンターテイメント性をそこかしこに打ち出したこれらの作品を今、一度読み返すことで、作品を通して

楳図かずおの「永遠のテーマ」

というものが今回の対談から見出せればそれは、私の今後の活動の指針ともなるのでは、と思ったりしております。

半魚 はい。私も、『真悟』については、きちんと言語化しうるところは、しておきたい。とまあ、おたがい決意を語りましたね(笑)。

◆ 『わたしは真悟』に出会う時――!!

半魚 『わたしは真悟』は、1982年から1986年までの間に『ビッグコミックスピリッツ』で連載されました。この時期は、隔週で15日と30日に刊行されてました。読んでらっしゃいました?

樫原 実は、この頃いわゆる楳図離れの時期でして・・・最初は単行本で3〜4巻くらいまで購入して見てたのですが、そのウチに買わなくなってしまい、ほぼリアルタイムでの読破はしておりません・・・。

半魚 そうですか。僕も読んでませんでした(笑)。だいぶ経ってから、四方田犬彦が『群像』のコラムで激賞してた記事を見て、「へー、やってんだ」と気付いたくらいで。で、ちょっと読みましたが、そもそもコツコツ週刊誌などでマンガを読むってのが出来ないし、楳図の作品は、細切れで読んでも、良くわかんないですしね。

『ビッグコミック・スピリッツ』1982年4月30日(No.8)巻頭カラー

樫原 単行本の頃は、へーっ「おろち」に似た感じの作品かな?とか思って読んでおりました。市井の人々に関わってくる機械の反乱みたいな?とか思っていましたが・・・。

半魚 スピリッツ編集部は、「ニューエイジ・コミック」なんて呼んでたみたいです。

樫原 「真悟」とガチャ目の子供との絡みあたりからなぜだか買って読まなくなってしまったのです。

半魚 ガチャ目の子供とは、トラックを暴走させるさんちゃんですか。このへん、いっちばん面白い所じゃないですか(笑)。真悟も、奇蹟前でまだ大して壊れてなくて、若々しい。

樫原 ところで、あのさんちゃんですが、パソコンの中に再登場するときはまともな目なんですよねえ・・・???

半魚 そうですね、言われてみると。

ともかく、死んだけど、その後、天国で幸せそうなので、安心は出来ますね(笑)。

樫原 それが、せめてもの救いです(笑)

自分の中で、そこまで壮大になるとは思わずに「ああ、またグチョグチョのホラーで終わるのかなー?」なんて思ったのかもしれませんねえ。子供を殺すという残酷な内容がいたたまれなかったのかも・・・。

半魚 なにを、樫原さんが……(笑)。

樫原 兎に角、描写が緻密でしょ?死にゆく経緯とか、丹念に描ききってあるトコは僕的には「カタルシス」であったりもします(笑)

半魚 いたたまれないというカタルシス(?)。

樫原 執拗な責めに抗いきれずに断念するような・・・?(もー好きにしてくれーって感じですかね?)

半魚 ははは。

樫原 でも、「漂流教室」でも無残に子供を殺してましたねえ。

半魚 殺した、ころした(笑)。小学館漫画賞を授賞した際も、楳図は、批評家には受けてない、理解されてない、と嘆いていたはずです。殺したから酷い、生かしてればOK、とかいう訳じゃないでしょうね。

樫原 「夢も希望」もある少年マンガ界でことごとくのタブーを描く楳図氏・・・。僕も実はそういうことやるの大好きだったりします。ただ、楳図かずおがほとんどのタブーを破っているので、今は、僕が何やってもチンケになってしまう(笑)

半魚 そこを、なんとか。

樫原 色々考えたものですが、僕が知っている限り変革を起こしたのは永井豪先生の「ハレンチ学園」(少年モノにオッパイを描き切った!)竹宮恵子先生の「風と樹の詩」(少女マンガに同性愛を取り入れた)ちょっと違うかもしれませんが「トイレット博士」のとりいかずよし先生(マンガであそこまで「ウ○コ」を描いたってのはなかったようで)そして、楳図かずお先生は「少女マンガ」に斯くも残酷な恐ろしい絵を描き、少年マンガでは次々と「未来」ある子供を虐殺してしまった!

半魚 ふむふむ。

樫原 このタブーを超えるものはいったい何でしょうか???(実は今、考えているのが真正面から少年ものに「性」を扱った作品など、どうかな?なんて考えていたりもします)

半魚 なるほどねえ。ただ、『わたしは真悟』の場合なんか、むしろ凄いのは、「ロボットが意識を持つ」なんていう、SFが成立して以来の、あるいはギリシャ神話以来の、ふっるくっさーいモチーフを使っているってところですよね。

樫原 そういわれてみれば確かに(笑)バックにあるのは単純な「ホラー」の要素ですよね。今と昔が混在していながら、掟破りの作品。というのが今後流行るテーマではないでしょうかねえ?

半魚 まあ、『リング』なんかも、ふるくさいモチーフのオンパレードなのに、結構コワかったから(笑)。

樫原 要は、その使用法というか、演出法でしょうねえ。

◆『スピリッツ』編集長とは何なのだろう――!?

半魚 

編集長は白井勝也で、

入社(1968年ころ?)してすぐに『少年サンデー』で、『まことちゃん』連載の初めのころまでずっと楳図担当をしていた人です。

樫原 (笑)そのヒト知ってます。

相原コージのマンガに

よく登場してましたよね?ヤーさん顔のオジサン・・・。

半魚 そうそう。『サル漫』、最初あのコピーで出てくるヤクザみたいな人、だれだか分からなかった。楳図作品に出てくるときは、美青年というパターンですからね。

樫原 はは、そうだったんですかー。(笑)

半魚 『アゲイン』のフクスケや、『おろち』の「秀才」に出てくる、時計盗みの疑いをかけられる平井君なんか、白井がモデルなんですね。

樫原 あの、唇のやたらと厚い生徒ですね(笑)

半魚 唇に目が行きますねえ。「宿」の女性とか。

樫原 ははは!ホント!昔ファンだったモモエちゃんも唇が厚かった〜。

半魚 なーんだ、モモエちゃんファンだったのかあ。実に納得。

樫原 すみません・・・唇のめくれた美人には目がないんです。江戸川乱歩の「蜘蛛男」みたいです。ボク。

半魚 ははは(と、笑っているが、仮面ライダーのクモ男しか知らない)。

樫原 怖かったスねえ・・・仮面ライダーの最初の方・・・。

◆ ほんとうに、単行本は3種類なんだろうか――!?

半魚 単行本では、いずれも小学館から、

  1. ビックコミックス版(B5判・全10巻)
  2. SVC判(B5判・全6巻)
  3. それに今刊行中のSB版(文庫判・全7巻)
この3種類が出ています。ネーム等の変化も殆ど無いようですから、テキスト的には、二色刷りを残しているビックコミックス版が一番良いようですね。「スピリッツ」初出と較べても、補筆は全く無く、扉以下全ページが単行本で再現されていると思います。ただ、「スピリッツ」の段階での、ハシラのアオリや、扉での言葉なんかは、みな削除されてますけど。

 それから、色ページも、単行本とはかなり違いますけど。

樫原 そうそう、色ページで思い出しましたが、このあたりから14歳の中途まで、楳図作品は、全体にアミがかかったような原稿になっていませんか?(気のせいかな?)特に「神の左手悪魔の右手」は微細にアミがかっているような・・・。

半魚 んー、そうっすかねえ。わからない。スクリントーンじゃなくって?(笑)

樫原 カラーを、モノクロで印刷したような感じがするんですよ。よーく見てみると・・・。

半魚 それは、雑誌で二色とかだったのが、単色の単行本になってる、ってことですかねえ?

樫原 うーん、何といえばいいんだろう・・・。全体を敢えてカラーからコピーしてモノクロに変換しているというか、とにかくこの作品は印刷技術を駆使しまくってるようです。

さすがに、完成された作品とでもいうべきか、訂正を加える隙もないほどの完璧版という感じですね。

半魚 いやいや、雑誌連載を単行本にする際の手順が、なるべくそのまま載せるという風に変わってったってだけの話だろうと思いますけど(笑)。まあ、楳図本人にしても、補筆する必要は感じてなかったのでしょうが。

樫原 しちゃ、いけません!(特に今は!)

半魚 「特に今は!」……、あはは。

おっと、単行本。それから、一つだけですが、

初出と違う部分

を発見しました。6巻137頁(4 学習-14眼 15枚目)、上の大コマの左端と右端や、下の2つのコマの中央などに、継いだ跡が見えますよね。この3コマは初出だと上段に収まってて、下段には別の記事があったのです。

樫原 なるほど、これは稀有な発見ですね。最近のではトンと無いものと思っていたからなあ・・・。

◆ 呉智英につける薬だなんて――バカな!!

半魚 傑作だと言われる反面、どうしてこうも読めてないかねえ、と思われるような評価がまかり通っているのが、この『真悟』だと思います。そんでまあ、ここでわれわれ二人で、キチンと展開してみよ〜というわけです。

樫原 ふむふむ。分かりました。そこには当時の時代背景や社会的実情が多分に影響しているかと思いますので、そのあたりからも突き止められるかもしれませんね。

半魚 社会的な影響は、ありますねえ。日本の経済侵略とか。御蔭様で、その後5、6年で日本経済は破綻し、世界から消えつつあります(笑)。

樫原 あはは!

半魚 呉智英なんかは、1980年代のあらゆる表現において最高傑作だ!などと誉めてますね。まあ、マンガを文化史か政治思想としてしか読めないこんなヤツに誉めてもらっても有難くもなんとも無いのですけど。

樫原 わはは!相当手厳しいですねー。

半魚 もう、ゆるせん!って感じ(笑)。下層敵です、いや仮想敵。

樫原 まあまあ・・・(笑)

半魚 いや、言わせてもらいます(笑)。文庫版の解説や『ビッグゴールド』の創刊号(文庫版解説のネタ)なんかで、

「愛は凶器だ!」を『真悟』のキャッチコピーだって言ってますけど、これ、『イアラ』愛蔵版のキャッチコピーですよ。

前から、「呉の言ってるの、へんだな〜」と思ってたのですが、最近、確認しました。『イアラ』愛蔵版は『真悟』連載中の刊行ですから、『スピリッツ』では近くのページにあったのを、間違って記憶してるんですよ。この程度なんですよ(笑)。

『ビッグコミック・スピリッツ』1984年7月30日(no.14)

樫原 あああ、また樫原に「イアラ」熱を・・・

半魚 ぜひ、座右に備えましょう(笑)。でも、脳内に記憶されてるから、樫原さんの場合は。

樫原 忘れてる方が多いのです・・・。悔しいことに・・・。

半魚 それでもって、「BSマンガ夜話」なんを見てると、ぜんぜん好みじゃないんだなあと思われるような読者がかなり居て、まあ、確かに

凡人には理解し難いテーマや展開の作品

なのかもしれません。その点では、きちんとした評価はそんなに無い。

樫原 渡されたビデオはまだ、見ていないのですが早速今日当たりじっくり見たいと思います(すみません)

半魚 かるーく見といてくださいよ。怒れますから(笑)。

樫原 はい・・・。

半魚 そいで、もうちょっと喋らしてください。

 えーと、大塚英志は「楳図は子供なんだ」と言ってますが、この人は「如何にして人は大人になるか」という、通過義礼的興味が前提で、大人になることを拒否してる楳図とは基本的にスタンスが逆です(『戦後まんがの表現空間』法蔵館)。

樫原 う〜ん、ラブリ〜っす(笑。意味不明)

 個人的見解で申し訳ないんですが、僕は「大人」と「子供」の区別ってのはどうやって区切られるのだろう?っていつも思ってしまうんです。

半魚 ふむふむ。

樫原 境目なんてのは本当にはないのかも知れないし、表面的に変化することが「大人」になるということでもないと思うんですね。ましてや内面が「大人」になるってことは本人でさえも気づかない事象ではないかと思うんです。

半魚 後でも述べますが、僕は気付きましたよ(笑)。ただ、「内面が大人になる」ってのとは、ちょっと違いますね、たぶん。

樫原 「大人」になるってことは処世術を身につけることではないし、社会的に認められるってことでもないと思ったりもします。

半魚 いやあ、やっぱり人間は、他人との関係性に成り立っている存在だから、大人になるってことは、社会的に認められるってことじゃないですかね。「大人」の役割をになう、つうか。

樫原 「大人」のふりをしたがる子供、「子供」のふりをしたがる大人。

 僕は、楳図はどう見ても後者であるような気がします。

半魚 ギョエーッ!!(爆笑)それは、禁句ですよ、きっと。言ってはいけないコトバ(笑)。僕が楳図をどう考えているかは、恐ろしくて(何が?笑い)、言えないなあ。

樫原 これは、あまりフってはいけない内容かもしれないですね。

半魚 楳図は、子どもを実に鋭く描ける大人であり、女を実に鋭く描ける男であるような、って感じですかねえ。

 そんでもって、まあ、仰しゃるように、多分「内面」的には大人性と子供性とはからまりあっているものであるから、「完全な大人」「完全な子供」などというものは存在しないでしょう。ていうか、「内面」的には変化しないじゃないですかね。人間は、他人との関係の上になりたっている存在であり、「内面だけが大人になる」なんてことは、有り得ない。オオカミ少年は大人になりえない。で、結局は、役割として大人を演じる能力と責任が出来た後に、以前の無邪気で無責任な気楽さにあこがれるだけかな。……なんて言ってしまうと、もう『わたしは真悟』論が成り立ちませんよ(笑)。なんせ、大人になる音がする作品ですから。

 それから、次いきますと。

綾辻行人は『わたしは真悟』が好きで、子供論的な視点で一貫しているようです(『二階堂黍人VS新本格推理作家--おおいにマンガを語る』メディアファクトリー)。これが分からない人とはお友達になりたくない、とか言っておいでです(笑)。掲示板なんかでの書き込みは、なーんかスカしたお兄さんて感じですが(笑)、そのへんに関しては僕も同感なので、オトモダチになってもらえるかな。

◆ お気に入りのシーンはどこなんだろうか―!?

半魚 ざっくばらんに、どのシーンが好きかとか、どういうセリフが良いか、とか、放談しましょう。僕は、

ひっこした悟の後に入ってきた女の子が活躍するシーン

です(ロリコンか、笑い)。

樫原 うーん、確かにあの子はピカ一のかわいい顔立ちですねー。

半魚 ほんと、お人形さんとはあの子のことですね。

樫原 あの子は、途中で消えちゃいましたがまだ生きているのかなあ?

半魚 血なんだかゲロなんだか、吐いたりしてますけど、ともかく生きてて欲しいですね。

樫原 きっと、真悟が奇蹟のダメ押しを(笑)

半魚 いや、もうエネルギーがない(笑)。

樫原 あはは!

 「漂流教室」での「西さん」的役回りというカンジでしょうか?

半魚 西さんは、センが細かったなあ。その割りに、めちゃくちゃ強い!エライ。で、同じく、超能力者的存在ですよね。

樫原 必ず、助け舟的存在の人物が登場しますよね。

半魚 樫原さんが好きなシーンは、どこですか。

樫原 僕は、

真悟が「アイ」と書いたあのラストシーンです。

ああっ今思い出しても涙が・・・。

半魚 んーまー、それが一番のクライマックスですよね。あのシーンを「あっけない」なんていうやつの気が知れませんよ。ともあれ、山場としちゃ、まりんのエルサレムや、隣の女の子の変身シーンなど、「奇蹟」の部分ですよね。

樫原 いちばん感動というか「泣き」が入ったのは

ノラ犬が真悟を咥えて国道を走るシーン

です。んで車に轢かれてしまい「あああっ」と思いきや、かわいい子犬になる「奇蹟」にはうるうるでした。(僕は、どうも動物がらみの話には弱いんデス)

半魚 ここ、泣く、なく(笑)。その前のおばあちゃんは、みょうにカワイイがちょっとコミカルだし、あとのヘビや虫たちには、なかなか感情移入しにくい。イヌは、しゃべりませんけど、その分、感情移入しやすいし、「奇跡」もカタルシスですしね。

樫原 この辺りからは、奇蹟のオンパレードですよね(笑)物語の見せ場といえばそうですよね。

半魚 でも(あとで言おうと思ってましたが)、「イヌは、"お前を御主人のところへ連れていってやったらおれもそこの飼犬になれるか"と言ったといいます」のナレーションは、ないですよね。

樫原 真悟は「よくない心」を少年に返したのに「ウソ」ついてますね。

 でも、僕「イヌ」の立場から見てしまい、「飼い犬」になって幸せになりたい「イヌ」の気持ち分かりますから、真悟の「ウソ」も許せるみたいな(笑)

半魚 ああ、いえいえ、これまた説明が足りなかったようで。「ウソ」なのはウソでいいと思うのですが、この作品のナレーションは、最後の「東京コンピューター研究所」のメガネ君らの取材を受けてのものかなあ、と漠然と思ってたんですけど、そうじゃないんだなあ、と。だって、イヌから取材出来ませんからね。

樫原 ああ、そういうことだったんですか?あはは!

半魚 じゃあまあ、それはおいといて。

樫原 んで、最後に子犬になったワンちゃんが真悟に「ワン」って語るシーンがありますよねえ。この個所はホンット涙涙涙の場面でした。(楳図はあっさりと描いて次に進んでますけど・・・)

半魚 そうそう、あっさり進んでいる覚めた部分も、すてきなんですねえ。

樫原 女の子の変身シーンは、ホラーの要素を全て注ぎ込んだ見せ場ですねえ。最後にたどり着くまでその全貌を全く見せないという手法は、ホラーの鉄則だ、とつくづく思いました。

半魚 あそこは、なかなかすごいシーンですよね。見せないけど、少しづつちょっとだけづつ、見せてますよね。で、最後にカワイイ女の子になる。崇高かつホラーな感じになってますよね。それから、激しいスプラッタ・シーンも、結構有りますよね。

樫原 ありますよねー。ちゃんとホラーを踏襲しているのは楳図ならではの醍醐味ですねー。

 ゴミの島で目が取れたヤクザ風の男の死体に目を挿入するシーンとか、子供を溺死させるシーンとか・・・もうおいしい(?)シーンてんこ盛りです。

半魚 ほんと、残酷シーン、おおいです。

 イギリスの暴走族が、なんと言ってもすごいですね。

樫原 とんでもない極道をやらかしてますよねー。

 エルサレムのヤマ場は、ロビンのやつ何て女の腐ったような小賢しいヤツなんだろうと、思いましたねー。ロビンはあれで死んでしまったんですよねえ。いい気味だと思いました(笑)

半魚 ははは、ほんと、いい気味ですね。でも、最後の最後で、「まりん!!君が好きだ!!」とかいうシーンでは、ちょっと感情移入しますよ。「ああ、いやなやつなんだけど、ほんと、まりんに惚れちゃったんだなあ」って。それを思えば、縁の下から出てくるシーンも、しつこくて、ちょっとカッコイイ。

樫原 ははは!確かに!

半魚 それと、その前にも、マシンガンで撃たれているみたいなんだけど、なんとも無いのですね。立派なやつです。が、さすがに胸を貫通すれば、死にますよね。

樫原 まあまあ・・・(笑)ホラーの鉄則ですね。殺しても殺してもま〜だ生きてるという(笑)

半魚 ジェイソンだったのか(笑)。

樫原 しかし、まりんが女になった瞬間に「真悟」の存在が否定されるという件は、何となく切ない気分になりました。

半魚 そうですね。ロビンの目からも、まりんが消えるのですよね。つまり、記号的に言えば、ロビンも子供しか見えないわけですよ。だから、良いヤツなんですよ、ロビンて(笑)。

樫原 あああ、そうかぁ!ロビンはロリコンだったんですね(笑)そうかー、今初めてその事実に気づきました(爆笑)

半魚 いやあ、僕はわりと、ロビン、好きだし、なーんか分かるんだなあ(笑)。

樫原 納得・・・。(笑)

◆ ボクらにとって、何がテーマなんだろうか――!?

半魚 それで、そもそも「この作品をどう読むか」というテーマ的な問題について、語ってみませんか。一応、テーマをリストアップ……(この作品、テーマは一つじゃないですからねえ)しておいて、あとでそれぞれ詳しく考えて行きましょう。

 でまあ、僕は敢えて推すのは、

「子供であること」

という事ですね。

樫原 そうですね。

僕はこの「わたしは真悟」というのは

何部かに分かれる

と思うのですよ。まず「さとるとまりんの出会い」編から「真悟の冒険」編などなど、主役級の3人のそれぞれの出来事が複雑に絡み合いつつ、ラストで全てがひとつになるという、いわゆる、社会派ミステリーのようなそんな印象を受けます、

半魚 いちいち尤もですが、「社会派ミステリー」は無いでしょう(笑)。

樫原 いえいえ、これは1970年代の流行小説の煽りをくらってのストーリー作りの骨子を成している手法だと、僕は感じています。いわゆる、全く別々の生活から事件が徐々に起こり、最後はこの別々の事件同士がひとつのものになるという・・・。長編になればなるほどこのパターンはどこででも通用するはずです。(同時にふたつの物語を作れるワケですから)尤も、これをどう関連づけるかは、作者の手法によりますが・・・。こういう意味を含めて「社会派」だと僕は思っているのですが・・・。

半魚 あらら……、そりは失礼いたしました。松本清張とかですか?なるほどお、公害の影響がそれぞれの別個の家庭で起きて、とかいう感じなのでしょうね。

樫原 そう、そうなんですよ。モリムラセイイチとか・・・。(笑)これは「14歳」にも見事に活かされてたように思えます。長編の良いつなげ方の見本のような・・・。

半魚 んー、まあ、『南総里見八犬伝』とかも、そういう感じで長編を作ってますかね。

樫原 あれが、江戸社会派伝奇ロマンのハシリ?(笑)

半魚 んー、まあ、現代の伝奇系ファンタジーのバイブルではありますかね。

樫原 んー、言いえてますね。

半魚 ともあれ、その「なになに編」というストーリー分類は、面白いし、便利そうですね。

樫原 不本意ながらここで大分類をしてみたいと作ってみました。半魚さんの方で変えられた方がいいと思うトコは適宜に変更したり突っ込んだりしてください。(笑)

  1. 「さとるとまりんの出会い」編(東京タワー事件までの一件)
  2. 「真悟〜成長編」(真悟が生まれ、■→▲→●に変化するまで)
  3. 「まりんとの再会」編(まりんが大人になってゆくまで)
  4. 「最終章」(これ以降のラストまで)

半魚 なるほど、なるほど。「最終章」というネーミングが気に入りませんが(笑い、すんまへん)、もろ同感ですね。

樫原 「さとるとの再会」編とでもしましょうか?

半魚 んー、なんかもっと、二字の単語とかでビチっと決めたい。

樫原 うーん、うーん「終焉」とか?(笑)

半魚 いやあ、やっぱり二字は無理ですね。

それと、2と3とは、シンゴ編とまりん編としてそれぞれ進み方としては重なってますよね。

樫原 そうそう、この区別は明確では全くありませんね。どちらか寄りの会があり、ってカンジですね。

 んで、そのエピソードごとに楳図ならではのテーマが散在している、そんな気がしています。

半魚 はいはい。

樫原 僕は、この作品全体を通してのテーマは「地球という生物の心」を楳図は描きたかったのではないかと思うのです。

半魚 ああ、そうですね。楳図の生命観ですね。ギョーなどの怪獣と、キカイ(真悟)が同じように見えることが有りますね。

樫原 「命、愛しむ」ですね(笑)

半魚 はいはい(でも、それ、なんかの言葉ですか?)。

樫原 すみません(笑)金八先生からの引用デス。

半魚 んー、金パチ先生かあ(笑)。新しいやつは、見てません。

 ところで、さっきの大分類ですが、同感と言っておきながら、やっぱりちょっとだけ違うのを。モンローも含めて、真悟はいつもメイン(?)で居るわけです。さとるとまりんがそれに絡むという感じ。で、こんな風に考えてみました。4つなのは同じで、それぞれオリジナルの編題に対応してます。

  1. 入力/さとるとまりん編 Prog:1 誕生 Prog:2 学習
  2. 自覚/しずか編 Prog:3 意識 Prog:4 感情
  3. 成長/まりん編 Prog:5 まりん Prog:6 兆し
  4. 奇跡/さとる編 Prog:7 さとる

 真悟のあり方を基本にして、サブ的に登場人物を付加させてみました。どうですか、まあまあ気に入ってんですけど(文句付けさせない!って意味じゃありません、笑い)。(でもまあ、「しずか編」は、無いかな)

樫原 うん、これでそこそこの流れが明確になりますね。

◆ ボクらにとって、ロボットとは、何なんだろうか――!?

半魚 「マンガ夜話」で、いしかわじゅんが「楳図さん、取材したんだ!」なんて驚いてますけど、このロボットに関する取材は、本作の宣伝も兼ねて、「スピリッツ」の連載開始の1回前の「スピリッツ」1982年7号で、4頁の特集記事

「楳図かずおのサイエンス・レポート/ロボットってなーに?」

なんつうのがあるのですね。

イベント的にも取材をやっているのですね。最後のページに、楳図かずおの『わたしは真悟』を描くに当っての言葉が有ります。ちょっと長いけど、引用してみます。

「ロボット…この口では言えない熱い想いを、あなたに伝えたい!!」

ロボット このあまりにも聞き慣れた言葉が、今年にはいって、まるで全能の杖に触れでもしたように、現実となって目の前に姿を現わし始めました。私達は、物語の中や、日常の会話の中で、「ロボット」という言葉を幾度となく使ってはきましたが、それはあくまでもただの空想のお話でしかなく、私達のおかれている現実とは何ら関りのない、遠く遠く、限りなく離れた遥かな存在でしかなかったのです。それがたとえ、空想のものと比べて、いかほどに幼稚であろうとも、現実として、ここに存在するという、その存在の事実は、空想と現実の距離の数ほどに等しい重さがあるのではないだろうか。その現実のものを関係者は今、"産業ロボット"と呼んでいます。そしてある日、私は、今まで心の片隅に、小さくうずまっていた想いが、突然、産業ロボットの出現により、描くための実際性を持つことができたのです。私の頭の中に、もどかしかったものが、次第に形をとりはじめてきました。

こうして私は、まず、産業ロボットの取材に入りました。私が訪れた彼等・ロボット達は、どれも、ひたすら、黙々と、指令に沿って、寸分の狂いもなく働いていました。指令に忠実に働く彼等を見ていると、その忠実さ故に、冷い機械というよりもむしろ、親しみを感じるのは、そこに人間に似た動きを見たからでしょう。インタビューを受けていただいた皆様の返答の中で共通している言葉がありました。それは、日本で、なぜロボットが隆盛に成り得たか………という問いに対して、日本人は木や草にも情をかけることができるからだ、ということです。胸に染みる言葉でした。そして私は、いよいよ次号より、胸いっぱいにふくらんだ情念をぶつけることになります。言葉では言い現わせない、熱い想いと感動を伝えたい。あなたに!!そして、あなたは、何のために、私をつかわしたのでしょうか?わかりません。言える言葉はひとつ。「愛が流行ると……が近い!?」"漂流教室"をはるかにしのぐ、スケールと感動、そしてさらに計算された現実性と崇高な願いを込めて、この一作に全てを結集して描き切ります。

楳図かずお

半魚 どうです、感動するでしょう。

樫原 もう、これだけでこの作品のテーマが分かるような(笑)

「愛が流行ると・・・・・・が近い!?」「・・・・・」は何なのだ?みたいな(笑)

半魚 結局、「・・・・・・」は、分からず仕舞いでしたよね(笑)。

樫原 「破滅」?

半魚 んー、なんですかねえ。答えは、ないんじゃないかですかね。

樫原 楳図らしい、後を残すやり方ですねー(笑)

半魚 残す、のこす(笑)。

樫原 読み直してから本編にもこれ書いてあることに気づきました(笑)

半魚 いやだなあ、かずちゃーん(いひひ笑)。

樫原 これから察すると「破壊」らしいですねえ。

半魚 えー、そうですかねえ。結局、特になんだという風には書いてないし、分からないのではないですか。

樫原 世紀末的発想なのですかねー?(僕の)

半魚 んー。でも、ともかく、一応考えてみる意義はあるような気もしてきました。

樫原 「漠然とした不安」楳図はこの言葉「おみっちゃん」にも使ってましたねえ(笑)これがマンガのフキダシだと「・・・・・」なんですよねえ(笑)

半魚 あははは。太宰治ですね。

樫原 そういえば、昔見た映画にこんなセリフがあったのを覚えています。「どんなモノにでも「魂」が宿っているんだ。作りかけのソファや壊れたオモチャにも・・・。」とかいう感じの洋画(笑)でした。

半魚 ふむふむ、洋画でしたか。

樫原 察するに日本人のみならず、人間というものは「モノ」に関する限りはそれぞれにそれ相応の愛着や愛情を持って接しているのでしょうねえ。

半魚 山川草木、八百萬の神の世界ですからね。

樫原 それを見方を変えれば人間から見た「地球」への思い、地球から見た「人間」への思い・・・そんなことを楳図は描きたかったのでは、ないかと思うのです。

半魚 で、コンピュータを中心としたテクノロジーのネットワークが、その地球をひとつにしてしまうという。まあ、いまのインターネット時代は、まさにそれですね。そういう部分に「生命」を見てしまうところが楳図ですね。

樫原 そうですね。楳図曰く「コンピューターの裏側の配線やら、基盤は人間の血管みたいですねー」と言ったのを覚えております。

半魚 ほんと、楳図先生らしい(笑)。実際、見開きなんかで出てくる基盤の絵もそういう感じですね。あらゆる物質に生命を見てしまうのは、かなり抽象的な作業だと思うのですが、楳図の場合には、それが具体的で感覚的な、血管なんかで見えてきて、しかもそれを絵にしてしまう(見開きなんかで)というあたりが、すごいなと思うわけです。

樫原 人によっては、「何だかわからない・・・」という人もいるようですが・・・。(トホホ)

半魚 んー、ふつうの人には、あれは機械に見えませんよ。大友克洋とかに慣れちゃってると。

樫原 有機的である絵ゆえに違和感を覚えるけど、実際は機械ってそんなもんじゃないですかねえ?大友克洋のは、イラストレートに過ぎないような・・・(表面を描ききってるだけの、商業的作品・・といえば御幣があるでしょうか?)

半魚 大友は大友で、まあ結構大したもんだとは思いますけど。でも、楳図とはだいーぶ違いますね。

樫原 よく使われる表現ですが、大友先生の「ドライ」なタッチに対応して楳図は「ウェット」といったトコでしょうか?

半魚 肉体はウェットで、物質はドライですかね。大友先生は、ドアとかが「バタン」とかフキダシで喋りますからね。

樫原 あはは、これは僕もよく使ってます。ただし僕は大友克洋は読まないので、おそらくよく似た少女マンガ「吉田秋生」からの物マネかな?

半魚 吉田秋生も使ってましたか。『吉祥天女』以来読んでない。

樫原 あのヒトもメジャーすぎるほどメジャーになってしまいましたねー。

半魚 いやあ、よく知らない(笑)。

樫原 なんか、テレビになったりしてませんか?

半魚 んー、やっぱり分からん。

樫原 ははは。

 僕は、感情を入れ込んだ楳図の機械の方が、実際に見て感じるイメージなんだと思いますけどねえ・・・。

半魚 ははは、それは楳図ファンだからですよ〜。まあ、少なくとも配線とか構造の部分を描いてあんなに生々しい人は、ほかにいないでしょうから、普通の読者だって、そんなに見慣れてはいないでしょう。

樫原 うむ、きっとそうに違いない。僕の作品もああいう風にしか描けない(笑)

半魚 ウェットだあ。

樫原 もう、湿っぽいのなら「樫原」にお任せです(笑)

半魚 あはは。もっともっと、べとべとしてください。

樫原 うーん、夏には嫌われるタイプですね。

半魚 ははは。

樫原 何かの本で読みましたが、有機物とか無機物という区別ははっきり言っておかしい!というのを思い出しました。全ての「物」は地球から産出されているものなのだから無機物も有機物に含まれるのだ!というようなコトでした。

半魚 ジャック・モノーなんかの無機物から有機物への変化は劇的なものだという生命観だったけど、プリゴジンなんかは、カオスのなかでの単純な運動から偶然にふっと生命が生まれる、みたいなイメージなんですよね。無機物も有機物も、あんまり違いは無い、みたいな。

樫原 それを考えるとき、この世の万物というものはすべからく「生」が宿っているという考えはあながち捨てられないなあと思うのですよ。

半魚 それと同時に、非生物にも「生」が宿っていると見るのは、われわれ人間の優しさの表われでもありますよ。尊い意味での、人間らしさというか。

樫原 「優しさ」ですか・・・。うーん、怖い言葉でもありますねえ。

半魚 いやいや(笑)、怖くないほうの優しさです。

樫原 ははは。「慈愛」みたいな?

半魚 んー、いいや、「優しさ」です(笑)。「優しさ」そのもの(って、フリダシに戻る)。

樫原 優しさ・・・て怖い・・・(ってしつこいなあ、オレも・・・。)

半魚 思うに、等身大のロボット……いや、違うな(アトムも等身大だ)、日常生活、1980年代の現実のロボットなんてのを主人公にしたマンガを、ほとんど知らないわけですね。

樫原 「産業用ロボット」っていう目のつけどころは思いつかないアイテムですねえ(笑)

半魚 考えてみると、

シンゴが夜道や下水道をのたうちまわって移動するの図

は、じつにグロテスクでさえありますよね。そう思うと、いままでの人間型のロボットモノがどれほど派手なアクションをやらかしても実にスマートだったんだなあ、奇麗事だったんだなあ、と思いますよ。

樫原 そうそう、現実の中にあるリアルなおぞましさというのが色濃く描かれていますね。他のマンガ家はこういう恐怖絵というのは描かないですね。皆、芸術的でさえありますからね。

 僕は、この同じことを何度も何度もプログラム通りに動く機械を見つめてて、人生をいつも感じてましたねえ・・・。

半魚 あはは。

樫原 人生は毎日、反復と繰り返し・・・。その日常の中で起こるささいな変化をヒトは事件と呼ぶのでしょう。このマシンにもその変化が起きれば、全てが(仕事や作業が)ことごとく崩れてしまう・・・。僕の発想はここまででしたが、楳図かずおはその先を描いてしまいました。

半魚 僕は、人生や事件を見ずに、ただ「動いてるなあ」と思ってました。

◆ 想いよ、楳図に届け――ボクらの子供が終る前に!!

半魚 それでまあ、『わたしは真悟』は「子供」の物語なわけです。今の僕のように、もはや僕の子供が終ってしまった時期に入るとそうもでなくなるのですが、読んだ当時(二十歳そこそこ)は、子供というテーマでしかこの作品を読む事ができませんでした。

樫原 当初は、「さとる」と「まりん」が子供のまま「真悟」という子供を作るまでの個所にそのエッセンスの全てが注ぎ込まれていたような気がします。(二次成長に戸惑う姿や、機械の音を「言葉」として捉えるなど。)子供にとっての「愛」と大人にとっての「愛」の感じ方をこの「わたしは真悟」は真摯に問いかけているようです。そして、物語を通じて「真悟」が「さとる」に描いてみせた「アイ」という言葉ははからずも「地球」が「人間」に向けて示した「愛」ではなかったのでしょうか?などと思う次第なのです。(最初に僕のメインテーマを大出しにしてしまいました)

半魚 ずばっと言われてしまいました(笑)。

 「アイ」とは何か? かなり抽象的かつ使い古された言葉ですが、『わたしは真悟』における「アイ」の特徴な点は、そういう抽象に陥らずに、「だれからだれへ対するアイなのか?」というストーリー的な文脈が重要な点を持っている、というところですね。そもそも、そういう文脈無しで語られる愛なんてのは、現在では無意味なわけです。普遍的な愛なんて存在しませんからね。この場合、真悟からさとるへな訳ですが、それは「子供から親(子供の)へ」でもあり、また、「機械から人間へ」であり、仰しゃるように、「地球から人間へ」でもあるわけですね。

樫原 これだけで「わたしは真悟」のメインを語ってしまえますねー(笑)

半魚 なーんかね。(笑)

◆ ナレーションの効果だったといいます

樫原 そう、このナレーションはかなり変わってるという批評が載っていましたが、見てる側にはかなり興味を引く表現であり、それなりにこの物語の味を出してる気がします。

半魚 楳図のナレーション好きは、『森の兄妹』つまりデビュー作以来なわけですが、『漂流教室』以上に、大成功してるのが『真悟』ですよね。このナレーションが無かったら、魅力半減ですよ。物語半ばまで、誰が喋ってんのか分からない、なんていう構成、ほんとにしびれますよ。作者(物語の語り手)によるナレーションではなく、登場人物の一人らしい誰かであることは分るのですが、それゆえ興味がひかれるのですね。

樫原 これも手法のひとつなのでしょうねえ。勉強になります。

半魚 まあ、「わたし」が「モンロー」なのはすぐに書かれてますけど、じゃあ「真悟」って誰だ!?って感じ。

樫原 うはは!僕ふと思ったんですけど、これがいわゆる全てを見据えてる「神」である「地球」の声のような気がしています。「真悟」はやがて「神」の領域に入り「地球」と同一化してしまう、といえばこのナレーションが徐々に微妙に変化してゆくというのが見え隠れするのでは?などと考えたりします。(しかし、まだ熟読していないので、この辺りも吟味が必要ですね)

半魚 うーむ、ともかく「シンゴ」が変化してゆく存在だという点が重要だと思いますね。「地球」に同化したのは、ほぼ一瞬ですよね。でまあ、仰しゃる通り、ナレーションは、変化してますね。一番オーソドックスなナレーションてのは、第三者的な(それこそ)神の視点からのナレーションの方法ですが、一方で一人称的なナレーションというのも技法としてはあるわけで、こちらのほうが一応、高度(つうのかな)なわけです。で、楳図作品のナレーションは、総て(たぶん)一人称的なものですよね。「わたしは真悟」の場合も、シンゴの意識に添って、ナレートされていますね。

さっきのイヌのところでも言いましたけど、この作品のナレーションは、なんかパラドキシカルなんですよ。ナレーションてのは、一人称であるならば、誰が何時何処で語っているのか、てのが問題になるわけです。「誰が」は、「わたし」と言ってるのだから真悟に決まってる。では、「何時何処か」。シンゴは最初は意識を持たないし、最後に普通の四角いキカイに戻るわけですから、333から飛び移ってから「アイ」と書くまででなきゃいけないわけです。でも、実際、内容的にはどう考えても「アイ」と書いた後からの視点なんですよね。別に、作品の破綻だとか言いたいわけではないのです。シンゴの語りであるようでいて、実際は、三人称的な語りの側面が大きい。だからもしかしたら、シンゴ=地球=神のことばなのかもしれない(笑)。

樫原 「読者」自信の代弁としてのナレーターとは思っちゃいけませんか?ますますアタマこんがらがりそうですね(笑)。

半魚 ああ、なるほどね。想定される読者としての「シンゴ」かな。しっかし、いしかわじゅんは「シンゴがペン持って書いてるのかと思った(笑)」とか、バカな事を言ってますね(マンガ夜話)。

樫原 (爆笑)すみません。大笑いしてしまいました。(真悟が一生懸命ペンを持っている姿を想像してしまいました)

◆ 人類は、トビラ絵を超えられるだろうか――!?

樫原 これは、徐々に書いていきたいと思いますが、とりあえず「樫原かずみ」の目から見た「わたしは真悟」の注目すべきはその「トビラ絵」です。

半魚 はいはい(きましたね)。

樫原 きましたよー(笑)

 先にも書いたと思いますが、

物語とは別格に存在している最初の連載段階のトビラ絵は

構図といい、緻密さといいこれまでの楳図作品の集大成を遂げていると感じます。某所で行われた楳図かずお原画展でその1ページを垣間見て「このヒトはホンモノのプロだ」と自信喪失したのを今だに覚えています。

半魚 それは残念でございました(笑)。

樫原 あの「イラスト」を見るたびに自信がなくなりマス(笑)。どうやったらこんな構図描けるんだ〜ッみたいな。

『ビッグコミック・スピリッツ』1985年5月15日(no.9)

 ちなみにその「自信喪失」のイラストを取り込んでみましたので送ります(笑)。この原画を見てかなりメガトン級のダメージを受けました。

半魚 それは兎も角、物語と別格に存在している、という点が重要ですね。一部、そうじゃない扉も有るみたいですけど、ほとんどが男女の子供の扉ですね。これ、べつにさとるとまりんではないのですね。これらは、みな『スクール』みたいなイメージ・ポエムですよね。こういうのを描かせたら、文句無しに

石森章太郎なんかよりもずっと上手い

ですね。「樫原かずみ」には自信を持って頂きたいですが、でも、たぶん誰も勝てる人、いませんよ。

樫原 あのトビラ絵からは常に無言のメッセージが伝わってきます。この解釈だけでも連載分の会話が成立しそうですねー。

 あらためて読んでみて、いわゆる1〜3編までがトビラ絵をじっくりと描いています。この後から「14歳」に見られるような「続き」の個所をそのまま「トビラ」に使う手法に変えています。

半魚 「さとる編」(「最終章」編です)くらいから、『スピリッツ』が隔週刊から週刊に変ったから、手を抜いたのかな。しかし、どうして、あれをやめちゃったんですかね。

樫原 半魚さんのいちばん「グッ」とくるトビラ絵はどれでしょう?

 僕は例の「自信喪失」の絵とCGっぽい縦と横で描いた何本かのトビラ絵です。今だったらCGでどこぞのマンガ家が描くような緻密な絵を、アナログで描いた楳図はやはり「ばけもの」です(笑)。ヌーも「ばけもの」とか言われてましたねえ。

半魚 たまみちゃんも「ばけもの」と言われてましたねz(笑)。それはともかく、ヌーの「ばけもの」は、重要ですね。

樫原 ははは!

半魚 で、話をもどしますが、縦と横のやつって、プールの絵とか地下鉄の絵とかですね。僕の場合も、初めて見たときから、今でもきっちり覚えてますよ。あれはびっくりした。

僕は、まずいっちばん恐かった(笑)のが、紙袋被ってるやつですね(PROGRAM2 Apt3 回路)。こりゃ、ちょっとほかのと違って、恐いっすよ。

『ビッグコミック・スピリッツ』1982年10月30日(no.20)

あと、Program2 Apt19の黒雲も、いや〜な感じ(笑)ですね。それらは兎も角、一般的には遠近法ばりばりのダマシ絵風のものより、ケレン味なく描いてありながら廃墟風、孤独風というのがスキデス。PROGRAM2 Apt4キリンとサルの濁流や、PROGRAM3 Apt10の欄干だとか。

樫原 ああ、分かります分かります(笑)。「寂寞」といった言葉がピッタリだと思いません?どのトビラも。

半魚 はい。でも、純粋に楽しそ〜な絵もちょっとづつありますよね。

樫原 ありましたっけ?どれもこれも内容知ってるだけに妙に勘ぐってしまってマス(笑)

半魚 うーん、それは言えますね。でも、一番最初のスペースシャトル持って走ってる絵だとかは、楽しそうですよ。まあ、さとるとまりんにおかれましても、

蜘蛛の巣で天気を占ってたころは

純粋に楽しかったのでしょうから、楽しい絵があってもいいだろうと思いますよ。

樫原 どうも、僕は「裏」を見てしまう傾向にあるからなあ・・・(笑)楽しい裏側に何か作者のドス黒い「たくらみ」があるような気がして考えてしまいます。(笑)

半魚 「ドス黒い」……、あはは。


◆ ボクらは、ストーリーをキチンと把握したい――!?

半魚 それで、次に、ストーリーをきちんと把握しておきませんか。展開に破綻がある、とかよく言われている訳です。佐度が島が意味不明だとか(笑)、核爆弾はほんとに落ちてるのかどうか、とか(笑)。一応、ツッコミは最初に入れておいたほうがいいでしょうし、誤解してる部分もあると思うので。

樫原 ふむふむ。突然国家的機密事項になるあたりから、この作品の難解度が増しているような気がするのですが、壮大すぎて読者には理解の能力を超えてしまったのでしょうねえ (斯く言う私もそうだったのですが)。

 ま、このあたりはとつおいつ明確にしていただきたいと、思っております。

 とりあえずは、「まりんとさとる」編からですよねえ。物語の「起」の部分から行きますか?

 何気ないフツーの出会いが、産業ロボットの見学から始まるのですよねえ。いわゆる

80年代に「コミック界」を闊歩していた「ラブ・ロマンス」

のような形で・・・。

半魚 まあ、この時期は『少年サンデー』的なラブコメ全盛の時代ではありますね。

樫原 この頃から「少年」まんがと「少女」まんがの区別がつかなくなってしまうのですよねー。

半魚 ああ、そうですねえ。おたがいが近づいている、つうか。

樫原 この頃から「少年マンガ」に「少女マンガ」がやたらと参入してくるんですよね。

 ただ、異質なのは彼らが小学生で、大人から見れば「愛」だの「恋」だのと抜かすには認められないような一般的常識を覆しているところにケレン味(?)があるように思われます。ところが、彼らにとっての「恋愛論」というのは大人のそれとは全く違う感覚であるということなんですよね。セックスを伴わない「愛」や「恋」。プラトニックといえばそれまでだけど、純粋に近い「愛」の形を探そうとしている感がします。

 このあたりは、半魚さんからも攻めていただきたいです(笑)

半魚 ふーむ。ユーミンとかが、プラトニック・ラブとか言ったのはもう90年代に入ってからですよね。バブルがはじけて以降の、経済的負担の少ない恋愛として。

樫原 ははは、大人ってやっぱりそういう打算的なんだ(笑)。お手軽な「愛」が流行しちゃうっていう兆しだったのかなあ?

半魚 僕は、『真悟』で驚いたのは、むしろ、子供をずっと扱ってきた楳図が、きちんと「恋愛」を形而上学的に正面から捉えた、という点ですね。楳図には、『ロマンスの薬』に結実されるようなラブ・コメの作品群が営々とあったわけです。しかしそこに描かれる恋愛は、ゲームであり、駆け引きであり、展開されるべきドラマであり、言わば、「恋愛とは何か」というような問いかけは無かったわけですよ。

樫原 「起」の部分では漠然とした問いかけを暗示的に何度か見せてるんですよね。「子供」が「大人」に変わるという物理的な変化とか、市井の人々の日常を淡々と描きながらも伏線はそこかしこに張り巡らすという・・・。

半魚 主人公と思しきさとるは、周りのクラスメイトのラブコメ状況に違和感を覚える少年であり、恋愛なんかに一番縁遠い「子供性」みたいな感じで描かれていますよね。

樫原 それでいて、純愛してるからそのギャップが面白い(笑)。

しかし、どうも気になるのは4部あたりのさとるはどうも「まつげ」がついたりしてません?昔の明るさもめっきりなくなってるし・・・。(まあ、あれだけの経験したから無理もないでしょうけど)

半魚 当然です(笑)。断言します(笑)。

樫原 なぜか、少年から青年っぽい顔になってるのが(つうか表情が薄いのが少し)悲しい・・・。

半魚 まあ、さとるの変化については、おいおい問題になるでしょう。

樫原 セリフの少なさも問題ですね。

半魚 一方、「子供」論的には、子供は恋愛するもんじゃないから、結びつかなかった。まあ、この両者を結びつけたところで、形而上学的というか、まあプラトニックというカタチで、ストレートに問題を結び付けて、しかも、子供を生むという本来セクシャルな問題を生命の問題へと転化させて、しかもそれが機械という人間以外の地上の知的生命体……なーんか、自分でも悪文ですが、ともかくパラドキシカルな複雑な構造ですよね。

樫原 すいません・・・頭グチャグチャです(笑)

半魚 だはは。僕も。

樫原 僕が注目するのは「さとる」と「まりん」から生まれた機械の「真悟」が誰よりも何よりも「人間」に近かったという楳図のシニカルな物の見方ですかねえ・・・。

半魚 んー、まあ「神」にも近いんですけどね。でまあ、「機械(や異星人)のほうがほんとの人間より人間らしい」という設定から、「人間らしさとは何か」と問うて行った発想は、フィリップ・K・ディックなんかも得意とした部分なんですよね。

樫原 ここで、楳図は「神」というものの「性質」を描いてみたかったような気がしますねえ、後に描いた「14歳」でチキンジョージが「神」となっているようにこの「真悟」も「神」としての領分を描いているような気がします。まあ、尤も楳図かずおの「神」とは楳図そのものの「正義」感であるような気もしますけど、とりもなおさず、それは「人間」が持ちつづけている漠然とした感情でもあるのではないでしょうかねえ?

半魚 「神」の話は、難しいですねえ。僕は反神論者でして(笑)、最近まで「楳図って、安易な救済論者じゃないのかな」と不安に思ってましたが、いろいろな発言で、もっとシビアな発想の持ち主だと知って、嬉しく思いました。しかし、いつも「神」を描こうとしているのは事実ですね。その点で、樫原さんのように、「神の性質を描く」という言い方は、いいですね。


■ プログラム1[誕生]


◆ さとるとまりん編

半魚 さーて、では、これからチマチマと(笑)、ストーリーを追って行きましょう。多分、PROGRAM1,2 の、東京タワーから飛び移るところまでが、「さとるとまりん編」ですよね。

樫原 その通りでございます!

半魚 冒頭は、言わずと知れた……

奇蹟は 誰にでも一度おきる
だがおきたことには誰もきづかない

 ですね。この「奇蹟」って、まりんがなるような、大人になることですかね。それとも、物語後半でのシンゴの奇蹟みたいなことですかね。あるいは、シンゴが生まれること自体ですかね。

樫原 僕は「真悟」の存在そのものが「奇蹟」たりえたのでは?と思ったりもしてます。その「奇蹟」が連鎖して新たな「奇蹟」を産んだのではないかと、思われます。(奇蹟が連鎖するのか?)

半魚 そうですね。複数の奇蹟が連鎖してますね。だからまあ、「どれが具体的にその『奇蹟』か」なんて問うてもしょうがないけど、ここはやっぱり、シンゴが生れたというか、存在そのものというか、それが奇蹟だと考えますよ、ぼくは。

まあ、以前の僕なら、「大人になること(なってしまうこと)」を奇蹟の頂点と考えていたでしょうが、こうしておとな(おじさん?)になりつつあると、すこし考えが変ってきました。大事なことは、「誰もきづかない」であって、まあ「大人になること(なってしまうこと)」を気づかない人もいるかもしれないけど(笑)。シンゴが生れた事を、しずかちゃんなんかは分かっているけど、一方、その父母たるさとるもまりんも、気づいてないんですよね。二人は、シンゴという存在を知らないのですよ。この「気づかない」ことは、

『漂流教室』なんかでもずっとやってきた、「相手に届かない愛」なんですよねえ。

母と父へ言葉を届けようとするシンゴですが、実は結局、言葉しか届いていない。存在を知ってもらえてないのですね。ああ、しびれるなあ。哀しいなあ。

樫原 この「やるせなさ」が楳図漫画の魅力でもあるのでしょうねえ。

半魚 それと、最初は「クマタ機械工作」からのナレーションですね。「……そうです」や「……聞きました」は分かりますが、「……といいます」は、文章的にも、さいしょすっごい違和感がありました。

樫原 最初は、「誤植」かな?なんて思った人もいるでしょうねえ(笑)

半魚 思う、おもう(笑)。

ところで、冒頭のナレーションでは、「一九八二年のことだったと、聞きました」とありますよね。「夕日がきれいだった」とかも含めて、誰から、いつ「聞いた」んですかね。

樫原 気象衛星から・・・(笑)情報を読み取った・・・とか?

半魚 ああ、そうか。問題解決(笑)。

で、最初の1回は、ナレーションの重さに反して、さとるはアホで軽いですよね。「えらいっ!!さすがお母さんだ」なんてセリフの軽さ、じつになかなか凄いですよ。鍋のフタを左手で取って、それでお母さんが気付く、なんてあたりも、実に凝ってますよね。

樫原 おかあさんって「まことちゃん」に出てた幼稚園の先生に似てません?(名前忘れましたー)

半魚 花子先生ですよ〜。両サイドのふんわりおさげファッションが、大好きなんですよねえ、ぼくは。

 そんで、僕は初めて読んだとき、

「こんなにうまくはもう二度と書けないよ……」

というセリフに、ズシーンとしびれましたよ。これでもうこの作品の傑作を信じましたね。

 「怪獣ギョー」や「ねがい」なんかで読んでいた、「喪失感のテーマ」とでも言うか、そういうものだと思ってすごく期待しました。

樫原 その期待は、少し外れましたか?

半魚 いいえ(笑)、全く外れていません!!!!

 でもすぐ直後におやじが帰ってきて、「ロボット!?」と騒ぎ出す、ほんとに浮き沈みの激しい作品です。

樫原 このあたりは「まことちゃん」のノリが生かされてますよねえ。

半魚 そうです、そうです。

樫原 できれば、さとるの両親は仲むつまじく暮らして欲しかった(笑)

半魚 んー、そうですね。でも、そうは問屋が卸さないところが、緊張感というもんでしょうねえ。特に、お母さんが「離婚だ」って言い出して、新潟へ行って、でも、お父さんのほうも付いて行ってるんですね。で、無職のまま(たぶん)で呑んだくれてる。こういう、破壊された家族像ってのは80年代のテレビドラマなんかでもわりと普通に描かれていたのかなあ、と思うのですが、実にさりげなく描いてある。

樫原 おとうさんって、感情を露にしませんよね?生活はメチャメチャだけど、根っから「まじめ」という感じで好きなんだけどなあ・・・。

半魚 うんうん、このおとうさん(35歳で、コンドウイサムというのですね)、真面目ですよね。で、真面目な労働者だったのに、クビになってから、仕事もロクに無くて、呑んだくれるしかなかったわけですよね。そういや、この時期80年代中葉は、不況でしたね。あのころ、学校出ても就職なんか無かった(笑)。

樫原 あれー、そんな時代でしたかねえ?僕、少しボケてきたのかな?バブル全盛時代は90年代でしたっけ?

半魚 『真悟』が終ってから、ちょっとしてからでしょう。

樫原 おかあさんは生活のために何でもやるようなすごいイケイケママで・・・これも好きなんですけどねえ(笑)

半魚 そうそう、イケイケですね。このお母さんも、ファッションは普段からハデらしいし、けっこう美人だし、ともかく二人とも、善人ですよね。

樫原 そうそう(笑)良くも悪くも「善人」ですね。まりんのお母さんはけっこう「冷淡」ですよね?「おろち」の「血」の「千草」みたい・・・。

半魚 「漂流教室」の大友君のおかあさんとか。

 これらに、較べれば、まことちゃんの沢田一家は、ほんと仲むつまじいですね。

樫原 ちなみにおとうさんが素っ裸になったシーンで「洗礼」のエロチックなシーンを連想したのは私だけでしょうか?

半魚 さとるが、「洗ってあげる」って(笑)。

樫原 ははははは!怖い!!

半魚 ところで、よくみたら、さとるはスペースシャトルのジャンバーを着てますねえ。これって、1回目のトビラの子と同じですね。

樫原 当初はトビラ絵はさとるとまりんが担っていたのではないでしょうかねえ? でも、それだと面白くないので、先生わざと違う風に描いたとか・・・。

半魚 なるほどね。

で、「モンロー」と名前が付けられますが、あの投票結果のところ、笑えますよ。サチコって誰ですかね。「左」かなあ。レイコは「大原」ですかあ。サクラは、「車」ですかね、「上原」ですかね。こういう、工場のロボットに名前を付ける、とかいうこと、あちこちで実際に行なわれていたんでしょうね。日本風ですよね。

樫原 ははは!決して男の名前じゃないというのがミソですねー。

半魚 僕も、パソコンには女の子の名前付けちゃうなあ(笑)。

樫原 同じく・・・。(笑)

半魚 日本風にお秡いまでしてもらいますけど、「今も柱にその時のお札が貼られているということです……」は、ウソですね(笑)。豊工業、物語途中で壊滅しますからねえ。

樫原 ははは!それも楳図先生が「舌」を出す項目のひとつですね。

半魚 モンローを見て、幻想が崩れて行くときのさとるの想像のロボット、どうですか?

樫原 あれ、子供だったら分かりますねえ。所詮子供の持つイメージというのはあの「戦闘ロボット」ですよね。アニメ時代の子供は「ロボット」ってああいうイメージでしか組み立てられないと思いました(笑)

半魚 いやいや、それ以前のもっとミーハーな質問です。僕のロボットの基本イメージは、マジンガーZでして、でも、あのシーンのロボットは、コンバトラーVかガンダム以後のものですよね。おお、結構新しいなあ、と思いました。ただ、楳図が描くと肉感がありすぎて、なんとなく類似品(無登録のまねっこで、ウルトラマンや仮面ライダーなんかのモドキのメンコとか、むかしあったじゃないですか)みたいな感じがして、ちょっとほほえましい。ただ、さとるは「ドラムカン型?」なんて、実にオーソドックスな事を言ってもいますよね。これは、ふるいなーと思いました。

樫原 (笑)そういう意味だったんですか?

 いやー、僕ロボット系アニメというものは自分の中では排除しているものですから・・・。

半魚 あら、ウルトラマンは好きでも、ロボット系はお嫌いですか。

樫原 (笑)そうなんです。あのテの作品は背景に「戦争」がからまっていますでしょ?この流行はある意味「戦争」に対する意識を変えてしまっているようで、僕的には受け付けない材料なんです。

半魚 「戦争」が絡んでるのは「宇宙戦艦ヤマト」じゃないですか。ほかの星間戦争は、ウルトラセブンなんか以来、想像上のものではありませんか。

樫原 うーん、どうもアニメだと「かっこいい」イメージでしか「戦い」を描けないでしょう?(個人的にダメなのが声優サンのアメリカン的なしゃべり。)

半魚 (それ、同じ声優が喋ってるからじゃないですか。笑い)。

樫原 (んー、アニメの顔と声優さんのギャップもあるのでしょうねえ)

 実写だと、ある程度のリアルさも醸し出してくれるというメリットがあると思うんです。やはり、アニメ系は「サザエさん」や「ハイジ」のようなほのぼの系が好きですねえ。(笑)

半魚 「サザエさん」かあ、嫌いだなあ(笑)。

樫原 「ウルトラセブン」に関しては大人(?)になってから改めて見ますと、実に宇宙規模に描いているように見えますが、実は沖縄と本土の問題にすげ替えられているという実に根の深い作品であることに気付かされます。

半魚 そうですね。なんと言っても僕はセブン派です。一番好きなのは「ダーク・ゾーン」。ペガッサ星人の出てくるやつです。

樫原 ウルトラマンにしても、僕は「クリーチャー」なる怪獣の方がやはり愛着あるんですよねー。(笑)

半魚 はあはあ、なるほどね。

樫原 「ガンダム」というセリフがさとるから発せられていることからあれはガンダムもどきのロボットか〜?なんて単純に思っていました。

半魚 まあ、時代はもうガンダムなんでしょうね。ともかく、ガンダムもどきなので、僕にはいまいちなんですけど、「楳図、こんなロボットも描けるんだ。でも、ちょっとヘンだなあ」と。

樫原 意外な才能?

半魚 アシスタントに描かせたとかいうことはないですよね。(笑)

樫原 ウェットなアシスタントだ〜(笑)

半魚 アシスタントですけど、単行本のお仕舞いに、アシスタントの名前がありますよね。浅原一義って人は、『アゲイン』の時もアシスタントしてるはずです。でも、『まことちゃん』の時期には居たり居なかったり、って感じです。

樫原 でも、子供の不思議なトコってのは、イメージと違っていてもそれをいつのまにか受け入れちゃうトコですよね。せっせとロボットに教育(?)するあたりは愛着なくては出来ないことですものね。

半魚 理屈を言えば、幻滅したあとの作文で、働いてる姿に感動を覚えているわけですよね。単純な、よいこの作文ではなくて、また親父自慢故でもなくて、幻滅からすばやく立直って、興味を持ったんでしょうね。そして、その興味はモンロー自体の働き様であって、社会的な役割とか「くらしにどう役立っているのか」(教師)ではないのですよね。

樫原 そこから、パラレルにロボットを使って何かをやらせよう!という発想は子供ならではの「遊び心」ですよねえ。

半魚 なるほど、そうですね。

 しかし、このあたり、モンローがせっせとモーターを組み立ててるコマが延々続きますねえ。こりゃ、並みのマンガ家には描けないでしょうし、並みのファンでも読めないでしょう(たぶん、見ずに飛ばす)。

 モンローが、初めてさとるとまりんに出会うシーンも、「写真をすこしはがしてゆこう」なんてシチュエーションなのも上手いし、デジタル信号のマトリックス(でも縦588って、どういう数字なのかな)で認識したその見開きも図像もいいですよねえ。

樫原 あれを、描いた!ということがスゴイです、やっぱ!

半魚 基本的には、コンピュータが流行だしたころ、よくアルファベットでモナリザを書かせたりとかしてましたし、ギザギザの付いた文字がカッコよかったりしましたが、でも、楳図の手に掛ると、決して二番煎じみたいには見えませんね。今の、コンピュータ使った漫画より、アナログなのにずっと凄いですよね。

樫原 楳図かずお先生に聞いてみたいです。

「あの見開きのまりんとさとるのドット絵、何時間かかりましたか?」

半魚 「コンピュータで描きました」とか言われたりして。あれ、手描きだとすごく大変じゃないのかなあ。

樫原 CGっスかね〜?

半魚 当時なら、CG使うより手描きのほうがラクでしょうね。でも、アミ掛け写真の方法で処理したりもできますかね。普通に書いたものをアミ掛けて、拡大コピーする、とか。

樫原 その可能性はありますねー。

半魚 失礼!白井編集長の次のおコトバが有りました。手描きですね。

ロボットの目に意識された人間の絵というのがコミックで表現されるのは、おそらく初めてではないだろうか。それも、

コンピューター・グラフィックにみまがうばかりの、精巧な手描き

である。思わず、スゴイと、うなってしまった。コマやセリフがなくとも、一枚の絵として、語りかけてくる衝撃力…鬼才楳図かずお氏の『わたしは真悟』、いよいよ、地を這う取材の出はじめたようである(S)

(『BCスピリッツ』1982年8/15号・In High Spirits)

うん、スゴイ。

 さやえんどうのスジ取りしてるときにまりんから電話があって……なんてシーンも、くだくだと描いてあるんですけど、ぜんぜん飽きさせないコマ割りですよね。で「今、何してるところ? えっ!?電話かけてるところ!?」っていうギャグ、いまは携帯電話の時代ですから、ギャグにならない時代になってしまいましたね。

樫原 あのくだらないノリの良さ、少し好きです(笑)

半魚 Atp9「位置ぎめ」の扉のエスカレータも、すごいですよね。「遠近法バリバリはそれほどでも」などとさっき言っておきながら、やっぱりすごいと思います(笑)。1982年当時だと、こんな長いエスカレータは日本に無かったんじゃないかなあ。

樫原 なかったはずですよねえ。

半魚 地下鉄の永田町の駅のエスカレータが長いんですよ。みるたび、「わたしは真悟だ〜」とか思ってました。いまでは、東京駅なんかも長いエスカレータが増えたようです。

 「ゴールデン横丁」で、九鬼さんとおとうさんとさとるで呑んだ後、夜、おとうさんが見開き二頁を掛けて(笑)うなされてますよね。こういう一見コマの無駄遣いが、楳図の本領ですよね。

樫原 しかも暗いんですよね、やたらと。ホラーそのものみたい。

半魚 ほんと、そのものですよね。

 地下鉄の階段でさとるとまりんが出会って、手をつなぐシーンなんかも、「マンガ夜話」ではケナしてましたが、僕は印象深いいいシーンだとおもうんですがね。「瞬間型のコマ構成」と言うのだと学生に教えてもらいましたが、こういうスローモーション的なコマ割りが楳図には異常に多い。こういう時間の表現の仕方は、読みにくく感じる人もいるようですけど、どっぷりつかるとほんと作品に流れる時間にひたった感じで、眩暈を覚えるくらいいいですね。

樫原 これは、初めて耳にしました(笑)

 僕は個人的にマンガとアニメの決定的な違いは「動作の移行」だと思うんですね。マンガはコマの中に何とかして「動き」を描こうとするのですが、それは「ワンショット」に過ぎない。アニメならその動作を表現できるワケですから、マンガよりも伝えられるんですよね。

半魚 でも、人間には、マンガにおいても、コマの間を補完する能力があるから、動いているように読めるわけですよ。それから、単体のコマでも、「動いている絵」と「止まっている絵」があると思うのですよね。こういうのは、一種、読者に共有・学習された、文法のようなものでしょうね。

樫原 ふむふむ。これはマンガ描きとしては興味ある内容ですね。読者側の立場で見る「マンガ」と作り手側で見る「マンガ」の違いのような・・・。僕らの小さい頃(1960年代後半)あたりのマンガはコマに必ず順番がフってましたよねえ。いつのまにかそれが消えた頃から、僕らはマンガのコマの流れを自然に身に付けてしまったようですよね。

半魚 コマ番号無くなった時、困りましたよ。小学校に上がったくらいのころかな。貸本マンガには、一貫してコマ番号なんてなかったようですけどね。

樫原 僕は、マンガの世界も大人向けになったんだなあ、なんて漠然と思っていましたねえ。

 「動」と「静」に関しては、全体像を描くときは極力「動」をアップなどに近いときは「静」の中に「動」をさりげなく入れるようにと、何かのスクールで教わったような気がします。

半魚 なーるほど。

樫原 (どちらにしても、僕は成り行きで描いてますが・・・)

半魚 ははは。

樫原 しかし、「動」を小さいコマの中で描けるヒトは尊敬します(笑)

 マンガ描きの永遠のテーマなんでしょうが、この「動き」というものを表現できるのがマンガ家の真骨頂だと言えると常々思ってました。その方法のひとつとしては楳図のヒトコマごとにずらしながら動かすというのは画期的でさえもあります。

半魚 画期的というか、スローモーション的な方法を、飽きさせずに描くという点で、なかなか天才だと思いますよ。ふつうは、ああいうベタなコマ割りは、ヘタな証拠だと思うんですね。手塚や藤子Aなんかは、コマの間が離れた割り方が実にうまいし、石森なんかは『マンガ家入門』なんを読むと、もう天才だなあと思いますよ。こういうほうが、普通のマンガなんだと思います。

樫原 ふむふむ。あのベタなコマワリは「楳図」独特の世界を築き上げてるカンがしますねえ。他のマンガ家には決して出来ないコマ割りだと思っています。

半魚 特に、シンゴが夜道や下水道をのたうちまわって移動するの図(こればっか)では、ベタなコマ割りが利いてますよ。この辺は、これはこれで天才だと思いますよ。ちゃんと動いてる。

樫原 恐ろしいほどの描写力!とでも表現するのでしょうか?

半魚 でも、一方で、考えてみると、一枚の絵自体はあんまり動いてなくて、コマ送りで見ているビデオみたいな感じのコマ割りはありますね。それと、寄ったり引いたりのカメラワークが激しくて、たしかに夏目房之助が言うみたいに、「カックンとなる」というのは、まあ、その通りなのかなあ(笑)。

樫原 年のせいでしょうかねえ?このあたりの表現は感性の違いといえばそれまででしょうが・・・。

半魚 まあ、感性というか。でも、楳図の場合は「マンガの文法」がまるっきり違うというべきか。

樫原 貸し本時代の「味」を踏襲しているといえば言いすぎでしょうか?決して現代の「マンガ」にこだわっていない姿勢はすごい!と思います。

半魚 貸本マンガの時代に、あんな人、いませんでしたよ(笑)。劇画が少し近いけど、でも楳図ほどではない。

ともかく、「レゲエ」(夏目)ってわけではないけど、妙なリズム感というか、あるいはアナログなグラデーション(流れる感じ)を感じますけどね。

樫原 そうそう、他の人に(特に楳図ファンではない)楳図漫画を見せると通常のマンガよりも倍は早く見終わります。不思議に思い聞いたら流れで読めちゃう、ということでした。

半魚 ただ、丁寧に細かく描いてあるし、ゆっくり読むべき作品ですよ。『漂流教室』を初見で三時間程度で読んだという学生を、ぼくは怒りました。

樫原 ははは。まあまあ、読んでくれるだけでも僕はうれしいですよ。そして、深く読む人なら、きっと僕や半魚さんのように追求すると思いますよ(笑)

 ただキレイな「絵」や全体のバランスを考えながら描くのが「マンガ」ではないんですよね。読者側に与える「間」や「時の流れ」を与えうることが本来の「技術」なのかもしれませんね。その手法を生み出すことが、本当の「技術」と呼ぶのかもしれないですね。

半魚 弘兼みたいな、青年誌的な、「遠近法できちんと描けてます」なんて絵は、僕はたいして興味ないです。描けてあたりまえだろ!って(笑)。

樫原 ははは!それでカネもらってんだから?

 小説の「行間を読む」と同じことでしょうか?

半魚 「余韻を読ませる」つうか。まあ、文体というか。コマ間というか。


■ プログラム2[学習]


◆ ボクらは、今なにをしゃべっているのだろう――!?

半魚 話をストーリーにもどしましょう。

 PROGRAM2「学習」 Apt3の冒頭、シフトキーを押すのは、これは「マンガ夜話」で岡田斗司夫が言うまでもなく、やっぱりヘンですけど、その次の、宇宙のようなサイバー空間の表現はほんとすごいですね。コンピュータ的にも8ビットを表しているチップから、同心円的なプロッセサみたいな所に送られて、白黒で表された0 と1 との信号が、それぞれ纏まって、ラセンのようなデータとして、メモリに粘着してゆく。これなんか、理にもかなっていると思いますよ。コンピュータなんか全然知らない人(いしかわじゅん)、「楳図さん、コードが繋がってると思ってる」なんて言うのでしょうけどね。

樫原 うん、コンピューター会社にいた僕から見ても全く遜色なく、コンピューターのイメージを捕らえていると僕は思いましたけどねえ。御年ン十歳でいながらあの知識欲は目を見張りますよ、ほんと。

半魚 (あらら、樫原さんがコンピュータ会社だったって、初めて伺いましたよ。あのへんのサイバーな部分の表現についても、じゃあ、ぼくなんかより全然知ってらっしゃるじゃないですか!おお、お恥ずかしい)

樫原 (いえいえ(恥)、しかしF5とか描いてる楳図にはああ、よく観察してるんだな、とか思いました)

半魚 ( F5って、RUN ですか。これは、ベーシックだけの話なんでしょうか。それと、シンゴはベーシックで動いてるんですかね。)

樫原 (んー、たしかそうだったような・・・。この時期はBASICからMS−DOSに移りゆく時期でしたから・・・でも、あのプログラムはBASICっぽいですねー)

半魚 ですよね。

 ともかく、こういう肉体的なぺたぺたした感じで描くところ、ロボットの動作と、その裏付けたるコンピュータの働きに「生」を見ていることを実に説得力をもって的確に(?)表現していると絶賛しますよ。単純に、「いままで誰も描いたことがない」とかいうレベルじゃないと思いますよ。

樫原 シンプルイズベスト!(ちょっと違いますが)分かりやすさという意味ではこのイメージでコンピューターというものの性質を的確に表しているかと、僕は思います。

半魚 んー(笑)、まあ、普通は「コンピュータはキカイであって、ドライなもの」ってのが通念なんでしょうけどね(笑)。

樫原 楳図なりの解釈の方法は、やはり生身の人間に近いイメージなのではないでしょうか?だから、僕らはドライなヤツに「名前」を付けたりして(笑)イメージで捕らえるとすると、やはりああいう風にしか表現できないような気がします(笑)

半魚 あはは(笑)、それは樫原さんだからですよっ(笑)。ふつーは違う。

樫原 後、忘れてはいけないのが今後を通じて暗躍する「しずかちゃん」ですね。

半魚 暗躍ね(笑)。小川公園で雨に濡れて、真悟がカゼをひくんですね。そのあとに出てくる。

樫原 大爆笑したのは、しずかちゃんのお母さんが一緒に来て「他の女の子と仲良くしてるので、やめてくれないでしょうか?」とさとるんチに押しかけるシーン。

半魚 この段階のしずかちゃんは、ほんと「隣のうるさいチビ」(さとる)ですよね。

樫原 彼女の活躍なくしてはお話は進み得ないんですよねー(笑)

半魚 あんまりかわゆくなくて、単に自意識過剰でうるさいだけの感じで、さとるならずとも辟易しそうな感じなのですが、その後、きちんと活躍してくれますよね。最初にも言ったように、しずかちゃんは「シンゴ」という名前は知らないけれど(あとで、となりの子に聞いたかもしれないけど)、さとるとまりんの子供であることを知っているのは、しずかちゃんやガチャ目のさんちゃんたち、そして隣の子だけなんですよね。

樫原 そうそう、「子供」たちだけ、という面白さ。

半魚 ただ、彼らは彼らなりの打算というのがある。さとるに会えるとか、テレビに出られる、とか。決して、子供は無垢な存在としてなんか描かれていませんよ。

樫原 楳図の理論でもありますね。子供の方が「ダーク」な部分をあからさまに表現できるという。

半魚 子供であると同時に、人間でもあるという、二重の存在ですね。

樫原 なるほど!「人間」かぁ・・・。これ重要な発言のような気がします。楳図にとっての「人間論」というものがここから窺えるかもしれませんね。

 この子が「愛は与えられるものよ」と言うセリフが印象に残っています。自己中心的でありながら、真悟に翻弄される特異なキャラクターとして貴重な存在ではないでしょうか?(笑)

半魚 翻弄されてるかなあ。「こっちよ」などと適当な教え方もしたりして、翻弄してるような気もします。(笑)

樫原 あはは、僕はイヤイヤながらも結局手伝わされる、ヒトのいい、おばさん的に捉えてました。(笑)

半魚 いやあ、しずかちゃんなりに、自分の打算も働いて、真面目ではあると思いますけどね。

樫原 うん、たしかに。

半魚 この「キリンとサル」のところで、ふたりはキスするんですね。しかし、それはまあ、それが何を意味するのか分かってないレベルの行為であって、二人を関係をまわりの大人達(ヤンキー風のおねいちゃんらも含めて)が自分たちの文脈で二人を、いやらしいもののように見ている。

樫原 あの、シーンは楳図最高にして最大のエロチックシーンだと僕は読んでます。(笑)

半魚 まあ、エロチックシーンは、『イアラ』シリーズにいっぱい出てきますけどね。(笑)

樫原 あれは、「大人」の世界から見た「色」です(笑)

半魚 「色」ですね。(笑)

樫原 特に伏せ目がちのまりんの色っぽいこと!あの表情は女性マンガ家にも描けない「絵」だと今だに思っています。

半魚 すいません、どのコマですか(ぽりぽり)。

樫原 キスする瞬間の・・・ガラス越しの・・・。

半魚 ともかく、ガラス越しに見えるキスシーンは、これはどう見ても手描きですよね。これは、ラクのしようがないのでは?

樫原 極致でした。あの顔・・・。

半魚 つぎの「パズル」では、同級生に対する違和感と、モンローいろいろ学習してた事を示す章。次の「ゴミ」では、コンピュータの危うさから、さとるの疎外感へと転じさせるような章ですね。あっても無くてもいいようなところは有りますが、一応伏線にはなってますね。

樫原 「大人」と「子供」の確執のような・・・。

半魚 この間で忘れてならないのが、「シアワセニ…………ナル」ですね。この場合の「…………」はあんまり問題ではないようです(笑)。

樫原 漠然とした・・・(笑)

半魚 つうか、たんなるテンテン(笑)。

 このあと、おやじさんがクビになるのと、まりんのイギリス行きが早まるのとで、物語的にも二重のダメージを抱えてゆくわけですね。うまい!

樫原 とりあえず、楳図の作品は主人公を不幸のドン底に一度は落とし込むんですよね(笑)

半魚 「メッセージ」の章には、コンピュータのことがまた出てきますね。

 「サトルクン ケッコンシナイ?」

は、さすが女の子ほうがませてるなあ、と思いました。

樫原 「女」と「男」の性というものを的確に捕らえていますね。(笑)

半魚 「コドモヲツクロウ」ってのも、すごいですね。ふつうの青年誌なら、「××しよう」というだけの意味です(笑)。

樫原 うまい表現ですよねえ。(しみじみ)

半魚 そして、最初の感動的なシーン、見開きで嵐の中の「もう、子供の時のわたし達には会えないわ!!」になるわけですね。ここはやっぱり、いま読んでも何度読んでも背筋がざわざわと鳥肌がたちますよ。

樫原 あの時点で、二人は自分のやってることが自覚できているんですよね。そしてそれが、「子供」だからできることなんだと信じている。

これも定番のシーン。ねっとりした雨の中の二人。

半魚 僕は、昔はこのシーンで、悩みを抱えつつも実に自覚的で聡明なまりんにたいして、憧れ的に完全に感情移入してましたが、そういう「子供が終ってしまった/しまいそうな自分の立場から、子供の子供性を自覚している聡明なまりんに感情移入する」という、

まさに大人的な懐かしさの構図だけで『真悟』を読んでるのは、あんまり良い享受の仕方じゃない、

と最近思ってます。むしろ、

この二人が共同の行動をとっていながらも、自覚において差があることのほうが重要だ

と思います。人ってのは、愛しているとは言っても違うんだなあ(笑)、違っていても(いるから、なんだけど、ほんとは)愛せるんだなあ、と。一般的な恋愛物語は、二人が同じであることが成就で、違うことが破綻みたいな単純な図式でしょ。

樫原 ふむふむ。

半魚 そもそも、「自分は今子供だ、子供だからこそ出来るんだ、子供のうちにしないと意味がないんだ」ということを、樫原さんの仰しゃるように、まりんは確実に完璧に自覚している。でも、さとるはそのへんについて無自覚ではないですかね。この段階で、さとるはまりんの言ってる「私の子供がおわってしまう!」の意味は、よく分かってないんじゃないかと思います。さとるはむしろ、「自分の子供だけは終らない」と思ってるんじゃないかなあ。「子供」をひとつのユートピアとすれば、それがもうすぐ崩れてしまうことに諦めを感じているまりんと、ユートピアで幸福に暮らしていたのに、環境がその破壊を迫ってくるさとる、という感じ。さとるにとっての「大人」は、ユートピアの破壊者というような、違和感のみで成り立っているというか。

樫原 うーん。さとるという男の子は本心を明かさないようないわゆる楳図の「男」の像そのままのような気がします。分かってないのか、分かっているのか?漠然としながらも形に出ない自分へのジレンマを抱えながらまりんへの「愛情」だけはある、というような・・・。

半魚 はーん、なるほどね。僕もそうだなあ(笑)。

樫原 はは、半魚さん自身もってことですか?照れ屋さんなんですね(笑)

 いっぽうで「まりん」はこれまた、楳図マンガに出る理想的な「女」の図式を表わしているかと、思われます。「影姫」と非常に類似しているといえば過言かもしれませんが、

子供である自分を殺さなければならない、その後の不幸は自分でも思い知らない、という「女」の刹那主義

をふんだんに使っているような気がしています。

半魚 男は永遠の時間を、女は瞬間の時間を……って、これじゃあ副田義也(イアラの解説)ですけど、まあ当たってるなあ。

樫原 うーん。これは一般的に言ってそういうもんではないでしょうかねえ。(今はこの考えすらも危ういとは思いますが・・・)

 これが、後々に「自分が今、できることをやろう!」という1990年代後半の風潮になっているような気がしてなりません。(さすが先見の明ありの楳図ならではでしょうか?)

半魚 ( えっ、そんな風潮が有るのですか?どういう意味で、誰が言ってるんですか。)

樫原 (んー、これは今流行りの子供向け番組ではこれらしき方向のテーマがやたらと横行しているものですから、引用したのですが・・・)

半魚 (子供向け番組とは?ポンキッキーズとか?)

樫原 (「ウルトラマンティガ」から一連の90年版ウルトラマンシリーズです)

半魚 (ふーむ)

樫原 二人は、いずれ「ばけもの」である「大人」になることがちゃんと分かっているのでしょうね。

 そして、それに抗う手段として大暴挙に出た!という僕の解釈ですが。

半魚 そうでしょうね。しかしまあ、このままだと、「追い詰められた連中は、ナニをしでかすか分からない」式の理屈になっちゃいますね(笑)。楳図は、そういう危険性も承知ではあるのでしょうけど。

樫原 この破綻が、見るものに興味を示すのでしょう。いわゆるどこにお話しがイくのかわからないと、いう面白さがコアな読者を惹きつける・・・。(笑)

半魚 たしかに、展開は見えませんね。恋愛モノなのか、SFなのかさえ、最初は分からんと思う。

樫原 根っこに「ホラー」、樹柱には「SF」、枝葉には「恋愛やコメディ」をからめた楳図という大木ですかね?(笑)

 単に流されたくない楳図の反骨精神の表れといえば語弊があるでしょうか?

半魚 いやあ、作家精神じゃないかなあ。(笑)ともかく、単なるユートピア回帰的な懐かしさとかでなく、そのユートピアを喪失してゆくプロセスを実に丹念に描ききってゆこうとする。それも、「シンゴ」という怪物(!? 笑)を産み出しながら。

樫原 秩序立った、緻密なストーリーテラーとしての、作家性はやはり、脱帽モノです。もうこういう話は見られないのかもしれませんねえ・・・。

半魚 そうです、そうです。

樫原 それから興味深いのは二人で(「ラブホテル」というより連れ込み宿」)の会話。「あんなこと」とか「子供の作り方知ってると思った」とか、なかなか子供の視点から垣間みてる大人の世界、漠然と分かってるけど、うまく解釈できないようなジレンマがよく出てますよね。

半魚 あの「ホテル夕やけ」は、まさに「連れ込み宿」ですよね、『イアラ』の「衣」に出てきたような。

樫原 ははー、和服美人の恐るべき変貌!

半魚 それにしても、さとるの会話、「おい、ちょっと小学六年生だろ、さとるクン、無邪気過ぎないかい?」みたいな気がします。「ぼく、300円もってるけど、君は?」なんてのも、無邪気ですよ。

樫原 世間知らず?

半魚 それから、「モンローに聞くしかないんだ」って言うわけですけど、この論理も大人からすれば、奇妙ですよね。「ヌーも裏切ったし」というわけで、結局、子供というのはユートピアのようでいて、友達はモンローただ一人という、孤独な存在ですね。

樫原 うーん、これは子供独特の疎外感というものかもしれませんねー。

半魚 さとるの家のベランダでのシーンでも、まりんは「わたし達には、今しかないんだもの!!わたし達が子供でいられる時間は、ちょっとだけなのよ!!」って言ってますね。この段階では、カチカチと音が聞こえてきて、子供が終る、なんていう見せ場が用意されてたなんて、だれも気づかなかったでしょうね。

樫原 改めて、読んで初めてその伏線に驚くんですよね。

半魚 翌朝、ふたりの事をテレビニュースが放映してますね。『漂流教室』でも、腕と顔半分が無い給料泥棒の学生をテレビ放送しますけど、楳図はこういうテレビがスキデスね。

樫原 さすが、もとテレビに出てただけに・・・(笑)

半魚 ははは。

それで、豊工場にゆくんですが、ここのオッカサンの髪型、両サイドでまとめてましたけど、翌日にはもろに花子先生スタイルですね。

樫原 あ、そうなんですか?もいっかい確認してみます。

半魚 

「333ノテッペンカラトビウツレ」

については、これ、背景にでっかく東京タワーが出てると、すぐに読者は気付きますよね。そいで、ストーリーとしちゃあ、救助のヘリが来て、不成功のように見えて、実際にはその通りになってしまっている。これと同じ手法、楳図の『地蔵の顔が赤くなる時』に似てますね。

樫原 ははは!そうですね。

半魚 それから、東京タワーを仰ぎ見て、まりんが落ちてくシーンなんか、ほんとにコマ送りだと思います。で、この後から、まりんは帽子のツバを逆に被るんですけど、これカワイイですよね(笑)。

樫原 さすが、ローリー半魚さん!

半魚 エレベータを登ってくシーンも、ほんとしつこい(すいません>先生)コマ割りですよね。しかも、全部にみな「ゴー」という描き文字がついてる。これもしつこい(すいません)。今のマンガ家なら、たしかにこうは描かないでしょうね。でも、縦にしたり横にしたりとアップにしたり、とやっぱりこれはこれで、「技術」(樫原)なんですよ。

樫原 そう、技術ですよ!暗黙のトラウマ製造マンガとでも呼びましょうか(笑)

半魚 言うまでもないけど、『まことちゃん』に典型なように、楳図はふつ〜のマンガ風な、リズムあるコマ割りはちゃんと描けるんですよ。だから、逆にベタなコワ割りだって、あれは意識的に描いているのですよね。

樫原 見る者の脳髄を少しづつ侵食してゆくのですよ・・・。

半魚 で、エレベータ、階段、ハシゴ。で終りかと思ったら、まだその先、ほんとのテッペンまで行くんですね。これ、高所恐怖症でなくても、こわいですよ。

樫原 あの描写も、やにリアルだった(笑)

半魚 途中で、空が白み始めますよね。でも、地上はまだ暗い。これは、タワーが高いからで、細かいところまで気を配ってますよね。

 でまあ、30センチ低いわけですが、ランドセルを加えて、トビウツるわけですね。

[その2へつづく]


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対談期間: 2000-04-15〜05-10
2000(C)KASHIHARA Kazumi / TAKAHASHI hangyo