芸術学 Aesthetics & Art History
服部 郁美
卒業論文要旨 名取春仙 ―近代役者絵師の姿―

 大正時代に、浮世絵のルネッサンスと呼ばれる、大正新版画運動が起こる。それは、絵師・彫師・摺師という三者の協同による浮世絵の伝統的な制作方法に、大正という時代性を加味した新たな版画の誕生であった。

 我国の版画を考える上で、どうしても浮世絵の存在を無視することはできない。日本が版画大国として外国から高く評されるのも浮世絵を通じての評価であった。浮世絵は、明治末期にその生涯を閉じたと言われている。開国したことによって海外から新たな版画、新たな印刷技術、新たな印刷機器が輸入され、日露戦争の報道画を最後に、新版の浮世絵は姿を消してゆく。代わりに、海外への輸出を目的とした江戸時代の名画を複製する事業が盛んになっていった。こうした状況を嘆いたのが、渡邊庄三郎(1885〜1962)である。彼は浮世絵の研究を重ね、自ら版元となり、絵師・彫師・摺師のコラボレーションによる伝統的な制作方法に則った質の高い版画を目指して大正新版画運動を開始していく。しかしながら明治末期には、西洋の思潮に影響されて、画家自らが描き、彫り、そして摺るという「自画・自刻・自摺」を謳った創作版画運動がスタートしており、そこに作家の純粋的な造形活動を見出していった。それは我国が工房的な制作から、次第に個々の制作を重視する方向へと芸術創造の価値を認めていったということに他ならないし、近代西洋的な造形スタイルが浸透度を高めてきていたことを意味している。大正新版画運動は後ろ向きの運動だと目され、なお且つ渡邊庄三郎一代で幕を閉じた短命な運動であったため、これまであまり注目を集めてこなかった。だが渡邊庄三郎のこの試みは近代版画を築いた運動の一つとして版画史でも重要なものであった。

 名取春仙(1886〜1960)は、その大正新版画運動の旗手として活躍した役者絵師である。

 春仙は、大正5年(1916)に版元である渡邊庄三郎と出会って以来、昭和35年(1960)に自殺するまで数多くの版画を出版している。春仙は役者絵師としての仕事の他、日本画家、挿絵画家としての顔も持っていたが、本論では主に役者絵師としての側面に着目し、春仙の役者絵の代表作である、小雑誌『新似顔』に掲載された役者絵群、《創作版画春仙似顔集》を中心に、彼の役者絵の画業とその造形について考察した。小雑誌『新似顔』と《創作版画春仙似顔集》を取り上げたのは、これらの作品が春仙の役者絵を代表する作品であると同時に、近代版画と浮世絵との関係の中で重要な時代の岐点にあたる作品だと考えるからである。

 第1章では、春仙の版画の感覚を培ったであろう挿絵画家としての時期に制作した初の役者絵作品である小雑誌『新似顔』の役者絵に焦点をあてた。春仙は明治40年(1907)から東京朝日新聞社の嘱託となり(正式入社は42年)、夏目漱石の『三四郎』や『それから』を始め、泉鏡花の『白鷺』、島崎藤村の『春』など、同紙の代表的な連載小説の挿絵を数多く手掛けた。石川啄木の『一握の砂』の装丁を手掛けたのも春仙である。

 久保田米遷(1852〜1906)の司馬画塾に日本画を学び、福井江亭(1865〜1937)に洋画を学んだ春仙の画風は、挿絵の世界に洋画の構図や手法を多く取り入れたもので、新しい感覚と風格のある描写として評判を呼んでいた。それは明治・大正という、日本古来のものと外国から輸入されたものとが織り交ざった時代性を含んでおり、春仙の挿絵はいかにもモダンでハイカラな印象を与えていた。挿絵画家として成功を納めていた春仙は、『演芸倶楽部』や『演芸画報』といった演劇の雑誌にも表紙や口絵の仕事をするようになり、その縁で大正4年(1915)発行の『新似顔』(初編〜第5編)に役者絵を載せ好評をとった。「春仙の春、とこしえに美しくて」と賛がよせられた役者絵は、春仙初期役者絵の代表作であり、それらは従来の、歌川派に代表されるような役者絵とは異なった趣を醸し出していた。

 春仙の役者絵は大正14(1925)年の《創作版画春仙似顔集》にその最盛期が形成されており、本章では『新似顔』に既に見られる、近代的な視点を持った初期の春仙役者絵の造形について分析した。春仙の役者絵は彼が手掛けた挿絵と同様に、西洋の影響、即ち奥行きや量感のある描写、明暗法を取り入れていたものだった。それ故、浮世絵の伝統的な制作方法に基づきながら、浮世絵の平面的な描写から脱却した版画が誕生していったのである。それは他の大正新版画運動の絵師たちも同じであった。第2章では、第1節で春仙が身を置いた大正新版画運動の世界について、大正新版画運動がどのような運動であったのか、創作版画運動との比較から大正新版画運動の立場を明らかにしていった。そして名取春仙と大正新版画運動の出会いから、春仙の役者絵師への転向、渡邊版から出版した春仙の新版画第1号である《初代中村鴈治郎紙屋治兵衛》の制作について述べた。

 第2節では、大正・昭和初期の歌舞伎界の動向、写真技術や印刷技術の発展の過程を通して、大正時代に求められた役者絵の姿、役者絵の最後の光芒についての考察を試みた。また、春仙の歌舞伎界との繋がり、春仙と同じく渡邊庄三郎の下から役者絵を出版した同時代の役者絵師、山村耕花(1886〜1942)との作品比較もおこなった。

 名取春仙と山村耕花は、同じ渡邊版から役者絵を出版していたからというだけでなく、彼らの作風の違いからしばしば比較される。山村耕花が役者の容貌を誇張して描くのに対し、春仙の役者絵では役者の容貌を忠実に写し取る写実が主体となっている。画面に効果的に役者を配し、鮮やかな色彩で衣装を描き出した春仙の役者絵は、その華やかさから歌舞伎の贔屓だけでなく素人受けも良かった。役者は極めて繊細な数条の線によって表現され、画面には役者の舞台像としての肖像性が探求されている。

 春仙は渡邊庄三郎とともに、「古名画を追従し、或は単なる模倣に墜りた肖像」ではなく、「役者及び役柄の気迫なり性格が深刻に現れ作家の個性が強く表示された」新しい役者絵を目指し、《創作版画春仙似顔集》を刊行した。「名優妙技の俤、名匠の霊筆によって洵に活けるが如し」と絶賛された《創作版画春仙似顔集》は写真によるブロマイドが一般的になってきていたにも関わらず、新たに15図の追加集を出版するほどの人気をみせた。この作品シリーズは海外でも紹介され、昭和5年(1930)にアメリカのオハイオ州にあるトレド美術館では《創作版画春仙似顔集》全36点が展示された。《創作版画春仙似顔集》は、大正12年(1923)の関東大震災後に起こった古き良き日本を偲ぶ浮世絵愛好の気運に乗って出版され、伝統的な歌舞伎の世界を鮮やかに描き出した春仙の版画の成功は、その時代性と合致したものであったと言えるだろう。

 第3章では、この《創作版画春仙似顔集》の出版背景、追加集を含む、シリーズ合計47点について考察した。《創作版画春仙似顔集》の中でも評価が高いのが役者絵の上半身を描いた大首絵の作品であり、《創作版画春仙似顔集》の内、特に「初代中村吉右衛門馬盥の光秀」と「5代目中村歌右衛門淀君」に注目して、春仙の役者絵の造形的特色について分析した。

 春仙が自殺したのは、昭和35年の3月である。自殺の直接的な原因はその2年前の愛娘良子の死といわれるが、世界大戦中海軍の嘱託となって関西へ移り、中央画壇から遠ざかっていた春仙は絵師として晩年不遇の時を過ごしていた。晩年でも春仙は数多くの役者絵の版下絵を残しているが、それらほとんどは描き過ぎの傾向がみられ版画にはならなかった。とはいえ版下絵の多さは、挿絵、日本画の分野にも手を染めた春仙ではあったが、やはり役者絵が大きな比重を占めていたことを推測させる。春仙の死は、他の大正新版画運動の絵師らの死と時期を同じくしており、この2年後、版元渡邊庄三郎もまた後を追ったことで、大正新版画運動はついにその幕を閉じた。江戸以来の浮世絵の伝統的な版元制度の下における、最後の役者絵師は名取春仙だった。



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