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【資料紹介】高屋肖哲資料③ 芳崖と肖哲①~敬愛すべき師・狩野芳崖(更新日2017/11/15)

2017年11月15日

【資料紹介】高屋肖哲資料③ 芳崖と肖哲①~敬愛すべき師・狩野芳崖(更新日2017/11/15)
【資料紹介】高屋肖哲資料③ 芳崖と肖哲①~敬愛すべき師・狩野芳崖

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そもそも、高屋肖哲は『芳崖遺墨』(明治35年/画報社)の編者として知られていた名前でした。

肖哲は東京美術学校入学より先に芳崖に師事していたこともあり、生涯を通じて芳崖に対する敬愛の念を貫きます。悲母観音の模写はもちろん、肖哲の新案(オリジナル)である「千児観音」なども、その存在が大きく感じられる作品でしょう。

『雑事抄録』33.「芳崖が弟子に教えし一節ノ事」には、

「芳崖先生が弟子肖哲に教授した一節に東京美術学校藏曽我直庵筆鷹に浪の図の屏風あり 此鷹と浪とは張子の鷹に氷柱の如き浪の図なりしが今一屏風ハ花鳥にて正確に描きたる しかも綿密に描込たる図なり 両屏風を並べて肖哲の見せて曰く何れが良い絵と 思ふ□との先生の問に肖哲未だ其何れ□良画なるを知らざれ共 正格に出来たる花烏屏風を指して此の方が良き様に思ふと答へたり 先生ハ其れハふ良の画なりとて此鷹の屏風こそ名画なりと教へられたり  続て其説明せられる曰く鷹の浪に翔たきたる姿勢ハ実物の生けるが 如く浪の力らある形ちハ普通の技量にてハ画がかるべくも非す 名人にて非凡なる画工ならでハ成し得べからずと言ふ 肖哲是は狩野派の真髄を教えられたるものなりと
芳崖先生は弟子にハ斯く教えられて 先生自身画かるヽ繪画は何れも形ち言ひ遠近と言ひ墨の濃淡と言ひ着色の配合と言ひ趣きと言ひ理解と言ひ約束と言ひ 荀しくも画く処の絵画にありてハ 画家よりも學者よりも軍人にありても一言も比難し得る点を見出す能ハず 又先生自身も我が繪は学者に賞せらるゝを以て第一とすと言ふにありと」

と在りし日の芳崖の姿が描き留められており、肖哲の憧憬のまなざしが感じられます。

また、『雑事抄録』には、天城と秋水の芳崖作品の贋作制作についての記述があります。その真意については定かではありませんが、同胞である天城や秋水に対してこれだけ強く非難※しているのも、ひとえに芳崖に対する敬愛の念から来るものでしょう。
また、晩年、肖哲は芳崖の50周忌を、公式なものとは別に独自に執り行いました。いかに、肖哲にとって芳崖が大きな存在であったかを知ることができます。

※芳崖作品の贋作制作について、肖哲の秋水、天城への評価
「秋水氏は独り芳翁の偽筆を画き自ら筥書をなして憚らざるは真に芳崖先生は秋水氏を評されて村政の銘刀なりと云はれしは此にありと云ふべし」「村政の銘刀は徳川家に蔵せられて家康公前三代共に祟りたるを以て斯くは引合いに出されし也 而して家康公村政の刀を廃せられたれば諸大名も亦村政を忌む様になりし」(『雑事抄録』32.「狩野芳崖雅号就てノ事」)
「誠に天城氏ハ拙なき否名技をして却って自ら繪の奈落に墜るの一生にして 遂ひに斯界の破落戸(ならずもの)となりしハ惜しむべし」(『雑事抄録』34.「本多大城筆仁王二枚ある事」)
とだいぶ強い口調で二人を非難している。

(美術工芸研究所 非常勤学芸員 幸田美聡)

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【参考】
「高屋肖哲の新出一括資料調査報告書 『雑事抄録』翻刻・画稿類一覧および研究」金沢美術工芸大学美術工芸研究所 2000年
藤井由紀子「近代化のはざまに生きた画家高屋肖哲―時代から零れ落ちた一人の画家の足跡」「芸術学 学報」第7号 金沢芸術学研究会 2000年

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本学に収蔵されている、高屋肖哲の新出一括資料は平成27年度に寄贈されたものです。
内容は大きく「高屋肖哲履歴関連資料」72点と「高屋肖哲画稿」645点に分けられます。「高屋肖哲画稿」はほとんどが下図や図案、模写で構成されており、縮図帳やスケッチなども含まれます。また、更に「ⅰ.観音図像」「ⅱ.仏教図像」「ⅲ.道教・神像」「ⅳ.肖像」「ⅴ.山水」「ⅵ.花鳥図」「ⅶ.雑画」「ⅷ.絵巻物」「ⅸ.肖哲所蔵作品」に分けられ、肖哲の画業がいかに多岐に渡っていたかを示しています。

【高屋肖哲について】
高屋肖哲(1866-1945)は慶應2年(1866)、岐阜県大垣町の士族高屋海蔵の次男として生まれる。19歳で上京し、狩野芳崖に師事。芳崖の死後は、まわりの勧めもあって東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学。その一期生となる。卒業後は翌27年(1894)から30年(1897)まで石川県工業学校に勤めたが、退職。その後、東京美術学校図案科助教となるなどの経歴がわかっている。
肖哲の生涯は長らく不明であったが、近年の調査により図案科退職後は関西で仏教美術研究に没頭していたこと、高野山で寄宿生活をおくっていたこと、晩年は石器の研究に熱中していたこと、九州や淡路を放浪していたことなどがわかっている。

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最終更新日 2017.11.15

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2017.11.15

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