Kawade-Eureka.umezu.半魚文庫 下記の内容については、該書刊行直後にアップロードしたのだが、刊行直後、興奮していた時期に書いたせいもあって、随分気負っていて、不適切・不穏当な書き方などがありました。その点については、お侘びするとともに、きちんとした内容で再度、自分の意見を書きたいと思っていたので、ここに訂正版をアップロードすることにいたします。(2005-04-01)

  1. カワデ夢ムック『文藝別冊 楳図かずお』河出書房新社
  2. (2004年6月8日発売/\1200 ISBN4-309-97680-8)

    表紙は、『妄想の花園』の時に撮ったものの流用で、悪くはないが、黄色をメインカラーとしている点が個人的には好きではない。ストレートに赤白でよかったのでは?前後表紙の見返には、『漂流教室』のノートを転載してある。1のほうは紹介ずみだが、41は未紹介ではないかと思う。こういう点、編集が楳図先生と関係をちゃんと作り上げているのがよくわかり、一ヵ月の速攻で作った『ユリイカ』には出来なかった芸当である。

    また冒頭に掲げられた写真マンガ。内容的に見るべきものはないが、「作・出演 楳図かずお」とあり、また、一齣目は真筆ではないかと思われる。この点、断筆中の先生に作品を作らせたという点で大変評価すべきである。これも『ユリイカ』にはできなかった芸当であり、綿密な事前の打ち合わせが感じられる。

    宇川直宏との対談「僕は楳図かずおという船に乗って漂っているだけ」は思ったほど悪くない。わりと新しいネタがある。宇川と言う人は思い付きが豊富な人と思われ、記号、集合無意識、時代に添う、等、基本的には楳図とスタンスが違うことを連発して同意を求め、手前勝手に納得しているが、全体的に、楳図が新しい事を言っている、という点は大いに評価すべきである。

     エッセイ類については、私の責任において意見を言えるものを対象に、言及する。

    仲俣暁生「笑いと叫びの間にあるもの」。小谷真理の論は、引くまでもないだろう。あと、母と子とは言え、子が男の子と女の子とでは、だいぶ違うと思う。また、『漂流教室』で絶対化されているのは、「子と母の愛情」ではなく、「子の母への愛情」である。「母の子への愛情」は、高松恵美子の狂気/凶器じみた行為により、ある程度相対化されている。が、その相対化を超えて崇高さを創造し得ている(楳図が得意とした、善悪の彼岸、愛憎の非決定性)。ナレーションを「構成上の破綻」としてしまったのもエッセイとしては失策。『真悟』論の基本的スタートにさえ立っていない。読めてない。また、反復と生産は、アナロジカルな概念なのか、ちょっと私には判断出来ない。「反復」に、キルケゴール=ドゥルーズ的な文脈を加味しているのかもしれないが、これだけでは判断しえない。

    『洗礼』は反復への憎悪を描いた作品だ、という説は、実は私も納得する。サイトにも載せたが、私も以前「洗礼のアザ」というエッセイを書いたことがある。一言で言うと「反復への憎悪」。「子どもであることの二重性」は、四方田「成熟と喪失」以来の、『真悟』論のメインテーマの一つだが、私は、実はあまり有効性を感じていない。拙稿でも引いたし、河出本の熊田正史の談話にもあるように、「恋愛は罪である。その罰は、大人になること」の警句だけで、そのテーマは瓦解してしまうからである。ましてや、それは「失敗作」の原因なんかではない。エルサレムで終ったほうが良かった、と言ってしまうのも、先の二重性をまりんが大人になることで解決しようという考えによるものであろう。論旨としては、筋道が通ってはいるが、浅い。前提自体が間違っているからである。あるいは、本作を恋愛モノとしてしか理解してない、ということである。呉智英が『真悟』を「手放しで評価する」ことに違和感を述べている。私は勿論、最高傑作だと思っているが、呉が「手放し」なのは認める。もしかしたら、足も地に付いてないかもしれないくらいだと思う。呉は、『真悟』について、何一つ具体的に語っていないからである。最後の、「お母さんの話を聞こう」は、論ではなくお説教にすぎないが、氏が良い人なのは分かる。

    木村久「世界には奇蹟しかおこらない」。これは、私が読んで一番面白かった評論。たった二ページだが、今までのイアラ論で最も優れている、と私は判断する。これは良い。

    想田四氏による貸本の大々的な紹介「楳図かずおの貸本時代」に関しては、本邦初でしたし、非常に立派な企画である。今現在、これが出来るのは、いろいろな意味で想田さんしか居ない。

    作品復刻。まず『歯』、書誌もなければ、復刻の凡例もない。読むぶんにはこれで良いが資料的にはいけない。刊行年次の推定くらいはすべきである。菊池秀行の解説も、『怪談貸本まんが傑作選』(全二巻)での力のこもった解説と較べれば、やっつけ仕事。『漫画展覧会』も同様。貴重な資料で『まんだらけ』16号でほぼすべて紹介されてたものだが(この手の資料の扱い方は『まんだらけ』のほうが断然上である)、図版はそれよりも小さい。また、『漫画展覧会』という名前も不正確。「へび少女」を『少女フレンド』と題するのと同じ。また、現物は僕も未見だからはっきりは言えないが、「森の一夜」以外は、高校時代にリアルタイムで描いていた作品のはずである。だから、「中学時代の作品集」というのも間違い。

    「その目が憎い!」の比較。この記事は、私としては非常に良いと思いました。ファイルの圧縮と解凍、などという譬喩もなかなか上手い。

    目録「楳図かずお作品リスト」は素晴らしい出来なのだが、カテナチオみたいな構えで面白味がない。かなり画期的な内容なのだが、普通の人には全然良さが分からないだろう。

  3. 青土社『ユリイカ(特集 楳図かずお)』7月号
  4. (2004年6月28日発売/\1300 ISBN4-7917-0120-6)

    岡崎乾二郎との対談「世界が終ったとき、子どもがはじまる」。これは非常に良い。さすが「333からトビウツレ」を書いた岡崎乾二郎である。まるでレベルが違う。恐らく、今までの楳図インタビューの中でも、『恐怖への招待』に匹敵するか、あるいはそれ以上の内容を含んでいると言うべき。

    特に私が心底感心したのは、『まことちゃん』に関する岡崎の意見である。世の中には、「楳図作品は好きだが『まことちゃん』は好きになれない」というタイプの人がいる。僕はリアルタイムでは『まことちゃん』は、あんまり好きでない、という程度だったが、いまではギャグ漫画としての新しさとかそんな理屈をこねた上でチャラチャラと『まことちゃん』が好き、程度の人間でしかない。浅い、極めて浅い。岡崎は大人になっていくに当って、「これでいいんだ。『まことちゃん』みたいでいいんだ。」と思ったと言う。そういう勇気付けられかたをしたという。これは、ほんとうに幸福な『まことちゃん』との出合いである。『まことちゃん』が持つ、根源的な力のひとつだろう。そして、その意味で、岡崎は「自分のなかの子どもを肯定していられるくらいの大人」だったと言えると思う。他方、『まことちゃん』を嫌いな楳図ファンは、むしろ「子どものころから、大人として扱われ、大人のふりをして生きてこなければいけなかった人。それだけ子どもだった人」だと言えるだろう。とても哀しい。5歳でうなぎ屋を継がなくてはならない幼児。3歳でチラノザウルス号に乗り込まなければならなかった少年少女たち。かれらはきっと『まことちゃん』を憎悪するだろう。それは、とても哀しいことである。

    小泉義之「恐怖のゾーエー、不安のビオス」。この人は、現在数少ない、自分の頭でものを考えられる哲学者である。私は今回事前に一番期待していた論文であった。不安だったのは、小泉が楳図をどれだけ読んでいたかという一点だったが、ちゃんと読んでいたことがこの論文から分かるし、基本的に楳図作品に敬意と愛情を持っているその態度にも好感が持てる。論理の点でももちろん優れている。

    今回は「私」的な自己の同一性の問題を、ポスト構造主義的な文脈で単純に否定してしまうというようなことはしていない。もちろん、本稿でいう「私」はもはやいわゆる狭義の哲学的な「私」ではないのであるが、ある種の同一性であるところの「自己を名づける行為」を一つの「賭」(結果がどうなるかは常に予測不能。あるいは、「奇蹟」ということ)として指摘している。具体的には、生物としての人間という面(『ママがこわい!』)、人生としての人という面(『R^ojin』)の二つにおいて、自分自身を規定していくあり方である。そして、その規定があくまで「賭」だと指摘する。そして、この「賭」をビオス(bios、精神的身体的人生)の本質的なあり方としてまず措定している。

    ビオスの対概念ゾーエー(Zoe、肉体的生命)については、まず、世界認識における、規範的な世界と従属的な世界といった二元世界論を否定する(『漂流教室』)。そして、楳図が描く別世界を、現実世界と別世界とが内在的に連続するものとして一元的に捉えた世界像であると指摘する。この部分は嬉しいことに、拙稿の『真悟』における高度のありかたと全く合致する意見である。そして、その一元性において、生きることのリアルさ・おそれをゾーエーとして措定するのである。『左手右手』において、肉体のもつ潜在的な恐怖に対して、山の辺想は、別世界への安住を求めたりはせず、その恐怖のゾーエーにたいして直接に「闘争モード」に入る、と指摘する。このあたりは、極めてかっこいい。

    「言語習得以前の恐怖」というあり方を、小泉は肯定している。ゾーエーの持つ不確定さ(潜在性。病気になるかも、死ぬかも、等)は常に現在と未来にたいする恐怖に転化する。一般には、言語等を始めとして、「人間」「人生」「私の唯一性」「別世界」など、恐怖を制御してくれるさまざまなメカニズム(=ビオス)を人間は発明してきた。根源には混沌と不安・恐怖があって、その上にそれを制御する法則・メカニズムを人間は与えた、というこの図式自体は、非常に安易で単純なものであるが、その制御のありかたを、「賭」として示し、そして、別世界を想定せず「現実世界において闘争モードに入る」こととして、示したところに、本稿のぎりぎりのかっこよさがある。そして、これらをきちんと具体的な楳図作品論として述べている。作品解釈的にもブレはない。いずれにしても、いままで楳図作品を語る際に問題となっていた、「始源的恐怖」「食う食われる関係」「現実世界と別世界」などの論点が、これでようやく現実味をもって論理化された。少なくとも、いままでのあてずっぽうな論理は、もはや言っていられなくなった。

    田中純「ムシとコドモ」。 楳図作品の諸モチーフをさまざま取り上げつつ、そこから進化論を提示しようとしているのだろう。しかし、これは、単に私が頭が悪いせいだと言ってもいいのだが、さっぱりこの論文の有効性が分からない。とにかく一言で言って散漫な印象でわかりにくい。文は平易だが、構造化されていないために横へ横へとずれていき、分量のわりには論旨が深まって行かず、私には非常に読みにくい。提起されたモチーフをじっくり吟味することなく次のモチーフが提示され、いよいよ議論は混乱してくる。

    論旨は以下の通りである。1節「反成長としての進化」。 まず成長/進化を対概念として提示する。「成長」とは目的論的な予めプログラムされた変化。これに対して、「進化」とは無目的である、と。次に、なぜ進化が起きるのか。それは、恐怖(特に、自分が食われること)から脱出するためである、と。

    前半は問題無いが、後半が良く分からない。一般に〈進化〉は、環境の変化(公害や環境破壊など)とそこへの適応に於いて果されるのではないか。そもそも楳図自身が「進化の源を「恐怖」に見た」ことなどは一度も無い。楳図は、進化を描くために社会問題を描いたのではなく、社会問題を描く中で進化を考えたのである。この見方は凡庸ではあるが、この順序を守って楳図進化論を論じない限り、空理空論に終ってしまう。

    また、本節で出てくる、「幼形成熟」(ネオテニー)も、議論を横滑りさせている。さとるとまりんの子供性が、どのようにネオテニーと関係するのか、さっぱり分からない。断言するばかりで、論じられていない。作品ストーリー的には二人の問題はまずもって「個体の選択」であり、ゆえに、彼らが「選ばれたのだ」としたら、なぜ選ばれたのか、その立論が必要である(『真悟』は『漂流教室』とは違う。また2節でのネオテニーと「青虫」との関係も、単に指摘するだけでは意義がない)。 また、「愛」がイデオロギーに過ぎない、という議論は、これは楳図自身の発言であるが、なぜそれが進化(無目的な変化)と関わるのかのか、もうすこしすっきりした立論態度が欲しい(例えば、Biosとして、等)。そもそも本節では『真悟』と『14歳』とを〈進化〉においてごっちゃに論じているが、『真悟』のほうは「愛」のイデオロギー的問題として、『14歳』のほうは「食う/食われる」の恐怖の関係として、それぞれに話を横滑り(論証か)させているが、「愛」と「恐怖」とがどういう関係に成っているのか、そこを言わない事には、本節は立論として立ち上がって来ない。構造化されていない、と指摘するその一例である。

     2節「蟲のおさな心」。地球上の進化の二系統として、〈大人=恐竜〉、〈子ども=蟲〉という二つを立てる。議論の中心は「蟲」である。そのモチーフに出されるのは、子どもを喰い散らかす『漂流』の怪虫ではなく、シンゴやゴキンチ、そして『14歳』最後の青虫であり、『14歳』のラストシーンを子供と蟲との交わりとして指摘する。ここまでは良い。というより、楳図作品をムシの視点から論じたものは、まだまだ少ない。この点、本稿の慧眼と言っておきたい。が、ならばそこだけ重点的に論ずれば良いのである。それだけで十分価値がある。しかし、田中氏は先を急ぎたそうである。

    本節で氏が述べたい事柄は二つ有る。一つは、「蟲」は善悪の彼岸にある「欲動」「生命」そのものである、ということ。二つ目は「おさな心」、すなわち「そんな子供たちやゴキンチの健気なおさな心とは、生命が自分の進化について抱くようになった自意識」である。

    まず、「欲動」については、さすがに「怪虫」を例には採らないが、シンゴでその「欲動」を述べている。これは論述上反則である。ゴキンチや青虫で述べるべきであるから。なぜしないのかと言えば、出来ないから、であろう。田中氏は、無目的な「欲動」を指摘することで、進化と繋げた気でいるのだろうが、無目的な欲動を持っていることと、進化が無目的であることとは、たとえそれぞれは首肯しうるとしても、本来全く関係が無い(あるなら、もっと明晰に書いて欲しい)。

    この両者をかなり強引に繋げていると思われるのが、「おさな心」という田中氏の概念である。これも、なんだか分かりにくいが、ここで言い換えると〈無目的な進化を遂げようとしている蟲=子供が、自身の持っている無目的な進化に対する自意識〉というものなのであろう。「進化=生き延びる」という一点だけで繋がっている、危うい概念であるが、なんでこんな「おさな心」という自意識が必要なのか、良く分からない。 これは私が無学なだけなのだろうが、〈生き延びようとする根源的な力〉の内実およびその思想的背景がよく分からないために、私には〈人間には生きようとする本能が有る〉程度の、在り来りな主張(井原西鶴だって三百年前に言ってました)にしか読めてこない。進化(=無目的な変化)と、どのように繋がっているのか。

    「おさな心」が「自意識」と呼びかえられた時点で、またも論は横滑りする。3節「次のコマへトビウツレ」である。この楳図マンガの構造自体に、上述の進化のプロセス・強制がある、という指摘は、一見ヒラメキ的で格好良いのだが、まだ説得力を持ち得ているとは到底言えないと思われた。田中氏がここで依拠している岡崎乾二郎の論文「333からトビウツレ」は、『真悟』を「自意識を持ったマンガ」と規定したが、それはまずもってマンガそれ自体のコマ割りにおける〈飛躍〉を論じている。岡崎氏はそこを踏まえて『わたしは真悟論』へと持っていった、という点でヒラメキの格好良さがあり、同時に論旨は周到である。しかし、田中論文ではその手続き無しに、マンガのコマの特徴を楳図作品特有の性質のように論じている。そうではないだろう。マンガのコマは、楳図作品に限らずどれもが飛躍である。楳図作品のコマ割りを、その特有性において論じないかぎり、「おさな心」の自意識と、マンガの自意識とが繋がることはない。

    しかし、それよりも、マンガのコマは楳図作品に限らず飛躍なのだから、別にこの二つを繋げる必要も有効性も、どこにも無いのである。

    また、3節には、岡崎の論文を祖述している部分以外で、「情報」とかの話も出てくるが、もはや私の頭が悪いせいで、まるで理解できなかった。「進化の生命」としての「情報」を、楳図が言う「形とか数とか位置や向き」だと言い(これはマンガの物理的な構造的条件だとも言う。コマを配置するマンガには形・数・位置・向きがある、ということか。なら間違ってはいないが、しかし楳図が言っている「形とか数とか」とは違う)、あるいは、シンゴのアイすなわち「文字」だと言う。そして、ここにまた「愛という名のイデオロギー」が絡んできて、その「情報」はいつのまにか「イデオロギーに基く情報」にすり変っている。そして結局、進化とイデオロギーとの論理的な関係は明示されぬままである。論文は、情報を伝えることだけはあきらめない、という「おさな心」によって読者を戦慄させてやまない、などと結ばれるが、マンガには伝えたいことがある、それが進化だ、という以上の意味としてこの論文は立ち現れて来ない。加えて、「情報」を伝えて生き延びるのは、進化ではなく、遺伝ではないのか?(などと頭の悪い私は思ってしまう)

    本誌の楳図特集号では、みんな結局似たようなことを言ってはいる。この田中論文が言わんとしているのも、楳図作品における進化の問題、神の問題、言葉の問題、コマ割りの問題、などであるのは分かる。〈散漫で横滑り〉という評語は私の印象と言われればそれまでであるが、なるべくそこから論旨自体を読み取って、私の感想を記してみた。で、氏の論じようとしているテーマ自体は分かる。その意味もあって、私はサッカー評の見立てでは、私と同じく左サイドのラインに位置させて、攻撃的MFとして7番を付けるというポジショニングを組んだ。しかし、扱う作品やモチーフの取り方、論述のプロセスなど全体に極めて散漫で、どれ一つとして私の悪い頭では明確な像を結び得なかった。だから、点数はあまり高くしなかったのである(5.5点)。

    以上、私の責任の取り方の一端として、具体的に田中氏の論文に対する私の評を記した次第です。

    なお、現代の進化論は私はよく知らないが、他方おそらく、田中論文の底にあるのは、アリストテレス=ヘーゲル的なエネルゲイア・弁証法に対する、ベルクソン=ドゥルーズ的な差異化・潜在性といった対比なのであろう。ベルクソンで言えば、空間化されない純粋持続としての時間、およびその自由性、そしてその具体的な存在様態としての創造的進化である。言いたいことは分かるつもりだが、しかしマンガのコマ割りは、私が思うに、決してベルクソン的に楽天的な純粋持続なだけではない。勿論、マンガの読書体験は、常に自由である。しかし、コマ割りは持続であると同時に常に空間化されており、かつ極めて明確なコードに拘束されている。加えて、もっと大事なことは、コマは読まれるという営為によって常に再び空間へと配置されなおしていく、という点である。読者は読みながらコマに意味を与えていく、ということである。もちろん、事後的に。

    矢部史郎「ようこそ化け物の世界へ」。冒頭部を読んでた段階では、全然納得出来なかったが、最後まで読むとよく分かる。世界の根源的な無秩序性と、そこへ与えられた秩序の欺瞞性、というような見取り図。小泉論文が問題とした二分法と同じ事態を問題としているとも読める。いわば、個人(小泉)・社会(矢部)という二面性においてそれぞれが対照的。ただし、全体としてこれが〈楳図論〉であるかどうかは疑問である。楳図作品の世界観としては、反宗教的・反神学的・反因果的と言った意味で、間違ってはいないと思われるが。また、「真倫」の誤字は、直せたらよかった。

    樫村晴香「Quid?」。一般に最近では「進化」を問題にする楳図論にあって、敢えて同一性にこだった論文。「進化=適応」などというぬるいスキーマで満足して楳図進化論を言うよりはずいぶん根本的な問いかけだし、「メタモルフォーゼの拒絶」という指摘などもなるほどとも思わされる。ただし、全体が精神分析学の文脈で語られていることもあって、私は非常にこのての論法は苦手である。だから、完全には私は論旨はともかく細部が分かっていない。また、楳図論になっているか、という点も大いに疑問。ともかく、それがヒステリー的なのかどうかは分からないが、同一性獲得という一点において進化を拒否しているという点では、示唆的(納得出来るかは別)である。

    この論旨を精神分析学ではなく記号論で置き換えて言えば、名づけることで存在(同一性)たりうるようなあり方を拒否している楳図、という図式かなとも思う。しかし、こう言ってしまうと、「賭け」や「奇蹟」を指摘した小泉・矢部よりも浅い論考ってことになってしまう。これ以上は判断保留。

    ふと思うが、精神分析でいうヒステリーや転移などは、もしかしたらその「賭け」「奇蹟」的なもの、潜在的なものなのではないのか。研究的視点としては事後的には、なるべくしてなった防衛機構のように見えてるのだが、実は、表われ方は個別的で事前には予測不能なもの、という意味で。

    また、論文の最初と最後に見える「今日性(二十一世紀性)」という点は、「社会的破局」を問題としているはずであるが、論旨においては「社会的破局」のより根本に位置するのが「存在論的破局」なわけなのだから、問題提起としては、循環している。たんなる前振りだろうというのは分かるのであるが。

    ただし、まりんの記憶喪失に関する解釈については、極めて示唆的。よくわかった。

    加藤幹郎「フレア、瞳の爆発」。2節「漫画とその受容空間」、3節「プリミティズム」は、大いに疑問。まず、家庭で子ども部屋が出来て床屋・貸本屋での公共的読書が衰退するのと、漫画が週刊化するのと、そして、楳図に代表される恐怖漫画が流行するのと、これら六〇年代後半の日本のマンガをめぐる受容空間と特定漫画ジャンルとには相関関係があるのではないか、という趣旨が述べられる(2節)。これは勿論半分本当だが、半分はウソであろう。こういう荒っぽい読者論は唾棄すべきもの。読書における個人性と公共性については、幾つかの位相を持って分けて考えるべきである。まず、1)物理的に複数か個人か。2)物理的に複数の場合、相互の交感が成立するかどうか。3)相互の交感があったとしても、それらが共有されているかどうか。こうした位相差がある。具体的に言えば、1)の場合、一つの本をクラスの生徒全員が家で読んできて感想文を発表する、なんて形態はどれに含まれるのか。2)の典型例としては、家族団欒のテレビと映画館。両者は明らかに違うはずである。また、3)の典型例として、日本だと、近世までの読み聞かせと明治以降の黙読の違い。これは、読書体験を聴覚に依存させるか視覚に依存させるかの差異である。近世では、人情本(草双紙の一種で絵が主体)とて聴覚的な受容をする読者がいたのである。ともかく、本稿では、これらを一緒にして、複数の人間の居る場/一人で読む場、という物理的な分別だけを問題にしている。

    私は年代的にも経験者ではないが、『少女フレンド』など、女子は学校に持ってきてみんなで読んでいたんではないのか。そして、放課後、男子がそれを覗き見する、みたいな。恐怖マンガは、みんなでワイワイ読むんじゃないのか。どうかわからないが、そのへんへのケアはしてほしい。

    3節も疑問。手塚・石森らによる「コマ割りのモダニズム運動」に対して、楳図のコマ割りの凡庸さを「貸本漫画時代のプリミティヴィズム」と言う。貸本における劇画(辰巳ヨシヒロ)・駒画(松本正彦)らのムーブメント(初期モダニズム?)を、また最終的に劇画の総帥格となるさいとうたかをの初期のカッコよさ(わたしは好きではないが)、また、つげ義春を生む長井勝一の『ガロ』などは貸本漫画の嫡流である。それらを、「貸本漫画のプリミティズム」の一言で切り捨てて(だよな)しまうのは、漫画批評全体にとって不毛である。「マンガ批評」ではありえない。しかも私が思うに、石森などほとんど例外的な天才ではないか。この石森にコマ割りのダイナミズムを代表させてしまうのは問題ではないか、とも思う。手塚のコマ割りはみんなが真似しようとしたが、石森は結局だれも真似できなかったのではないか。手塚は方法論だったが、石森は個性だったからである。

    以上、ここまでは、非常に納得出来ない論文なのだが、次からは非常によくわかる。すなわち、楳図作品のコマ割りの「運動の禁止」という点。これは極めて示唆的であるただし、一応、楳図本人は映画のように運動を見せたくて、市松模様のコマ割りをしているのである(このことについては私は別の論文も書いた)。拙稿を批判的に乗り越えていく必要が(私にも)ある。

    いずれにせよ、楳図の描く絵は、運動を欠き、デッサン的にもおかしい、とよく言われてきた。また、コマ割りがいわゆる映画的でないこともよく言われてきた。ともかく、本稿はこれを課題としているのである。ただし、楳図における「運動の禁止」を「貸本的プリミティヴィズム」と言い切って仕舞うのは、「BSマンガ夜話」で『真悟』を取り上げた際の夏目房之介の「貸本マンガのB級センス」と言ってしまう杜撰さと同じレベルに立ってしまうことになる。ゆえに、結論の出し方には非常に解せないものがあります。たとえ、「むしろポストモダン的」などと言葉で誉めてみたとて。

    4節「フレア」が本稿の本題である。さきの「運動の禁止」を「登場人物が凍りつく瞬間」と呼び替え、それを成立させる必要条件的要素として(あるいは、代表的要素として)、楳図の瞳が「星」でなく、太陽のフレアであることを指摘する。ここは、ほんとうに素晴らしい洞察である。感動的である。

    「マリ子さん、事件ですよ!」を例にあげたコマ割りの分析も的確である。指摘通り、まるで映画ではない、極めて独自の論理(しか持ってない)コマ割りである。加藤はこれを、夏目房之介がやったごとくにダメなコマ割りと切り捨てることなく、そこの楳図作品の特徴を見出そうとしている。加藤は、かなり困難な課題を引き受けている。感動的であり、偉そうに言わせてもらえば楳図のみならず、マンガにおけるコマ割り理論の最も先端的でアクチュアルな課題に挑んでいる。すなわち、なぜ楳図のコマ割りは、あるいは絵は、凍り付いてしまうのか。そして、マンガにおいてそういうコマ割りは誉められるべきものなのか、という課題である。

    私自身、この課題については、コマの継起性(コマは、次のコマへと連続するもの)と並存性(複数のコマは頁・見開きで同時に読まれるもの)と二面的な性格の対比において、「楳図は、市松模様のコマ割りだけではなく、ごく初期の段階から、並存性を優先したコマ割りもしてきたのですよ」という趣旨の回答を与えてみた。これはこれで間違っていないはずだが、ある種、継起性それ自体のまずさ(と言われるもの)を「楳図には並存性もあるんですよ」と指摘することで問題を回避してしまっていたのであった。これは拙稿が所詮は石森的モダニズムの上に成り立っていると知人にも指摘された、最も欠点である。比べて、加藤の与えた回答は、コマの継起性それ自体に果敢に挑んでいるのである。最も先端を行く楳図のコマ割り理論がここにある。とは言え、一つ、皮肉を言ってみる。「言うところのフレア、そんなに毎回出てくる訳じゃないよ」と。楳図のコマの、絵の「運動の禁止」の多さに比べ、圧倒的にフレアの出現率は低いはずである。

    さて、フレアは、「凍り付かせるもの」としての典型的代表的要素なのか、あるいは唯一の特権的対象なのか、それが本論文の試金石である。私は、加藤論文を今後引用する際に(絶対今後参照されるべき論文である)、代表と見るだろう。絵柄として読者の視線を凍り付かせる要素は、楳図作品には他にも沢山有る。「目」は確かに一番目立つものだが、楳図作品は背景の細かさなどに典型なように、実際焦点がしぼりにくいらしい。見るべきモノが何なのか結構わかりづらく、地と図とを決定するのがむつかしい(これに関連する事態は石岡論文113頁下でも指摘されている)。その図地決定の難しさと、加藤のいうフレアによる凍り付きとは、すこしニュアンスはずれるだろうが(前者は単に認知的な困難さかもしれない。まだよく分からない。後者は人物の内面を表現し、極めて芸術的に昇華されている)、両者とも「運動の禁止」を促す要素だと言えるように思う。その代表的なあり方が瞳のフレアなのではないか。

    5節は、時間表現の問題を扱い、2節の個人的受容の問題と重ねているようだが、その点はあまり消化されていないように思う。しかし、拙稿ではマンガにおける時間の伸縮性を、読者の任意に速度で読める点にではなく、マンガに内在するとされる物語的時間の伸縮性の問題として捉えた。前者は当たり前すぎて論点にできなかったが、手がかりをいただいた感じがする。

    なお、最後の節は、さっぱり意味が分からない。もったいない。しかも最後には、フレアを代表と見ず、唯一化しているようにも読める。

    石岡良治「ユメの実在、恐怖のシークエンス」。秋田サンデー『怪』の袖にある悪文の見本のような楳図の文言は、私もずっと気になっていたが、本稿はここから攻めてくる。なかなか読ませてくれる。しかし、途中、既存ジャンルの「読み替え」とか、「母ものが主流だった『少女フレンド』」とか言うところで私はすこしゲンナリしてしまう。『フレンド』で「母もの」や泣かせはもはや主流ではない。石岡氏は『フレンド』を実際に読んでいるのか。また、「恐怖マンガ」という命銘については、勿論事実としては『口が耳までさけるとき』(『虹』29号)で何ら問題無いが、「(見た目が怖い、グロテスクに)見えなくても、なんかゾッとするような話」(楳図『恐怖への招待』)の部分を引用するなら、楳図が言わんとする趣旨を誤解されてしまうことになる。『口が耳まで』しか今は一般に読めないので、『恐怖への招待』で楳図が言わんとしたところを実感するのは現在、実は難しい。多分石岡君は、『虹』30号の、同じく「恐怖マンガ」の冠を附した『あなたの青い火がきえる』に、「こわい・こわい・といいながら女の子は意外にシンゾウが強い。前回の恐怖マンガは、見せ物的な恐怖「口が耳までさける時」でしたが、今回は少々、ゾーッとする恐怖を…」と楳図自身によるアオリ文句があることを知らないようである(普通は知らないだろうが)。『口が耳まで』はシチュエイションの怖さよりも見た目の怖さが勝ってしまった作品なのである。以上、そんなこんなでゲンナリするが、後半の『左手右手』に行くと、この論文、急に面白くなる。

    「シークエンス上のズレを含んだコマによって形成される実在物」の指摘も見事である。論旨のメインであるところの、幻影・夢の「実在性」を、まずコマ割りの運動として、表現論の側面から指摘している。この指摘を「それをふつう、カットバックというんだよ」などと揶揄するのは馬鹿のやることである。(ただし、タンカー船内のヴィジョンは、あれは本当に船員に見えているのである。『真悟』からヴィジョンをあげるなら、まりんの背後のカチカチ(オノマトペだが)やどくろで良いのではないか(同一コマに描かれるが)。あとはやはり『まことちゃん』の恐竜シリーズであろうか。)

    次に、夢の「実在」は、登場する人物(特に怪物)の問題として取り上げられる。物語的過剰としての可視的なクリーチャーが楳図作品の因果応報譚からの質的区別を保証する、という。平たく言えば、楳図作品では、もう脈絡無く、怖いへんなモノ(怪物)が突然出てきちゃう、って事なのだが、んーまあそんなもんかな楳図作品。しかし、本論文の冴えは、そのクリーチャーとヴィジョン(幻影)との結節点に『左手右手』を持ってきたところである。結論だけ言えば、可視化されたヴィジョン(幻影)としてのクリーチャーは『左手右手』の連作において徐々にその「実在」化への変遷をたどっていく、という事なのだが、これを「ヘビ少女時代に戻っただけでは?」とか論文読者は思ってはいけない。

    ただし、私はこの論文を完全に読み切れてはいないのだが、「ジャンルの読み替え」的なマニエリスム的文脈だけでこの論文を理解しては全然面白くないと思う。本論文の潜在的な生産性は、むしろ山の辺想のヴィジョンが実在化していく過程において、変身することが、変遷的・成長的であるということによって許容されていく、という点を指摘したところである。クリーチャー(ヌーメラウーメラ)への想の変身は、変身することの恐怖を含んでおり、そのために、恐怖自体を想自らが受け入れるプロセスの変遷になっている、という指摘である。これはものすごく示唆的である。平たく言えば、ビビリながらも頑張っている想はエライ!ってことではあるが、たんなる〈スプラッタ映画へのカウンターパンチとしての『左手右手』観〉をきっちり乗り越え、新たな地平を築いてくれている。

    加えて、派生的な事柄ではあるが、この指摘は、見事に樫村論文のヒステリーとしての同一性説と対立もしている。なお、この対立を統一的に止揚してくれているのが、楳図の描く複数世界批判を論じた小泉論文ということになると思われる。山の辺想は、自分のまわりにある恐怖を、そして自分がこれから大人になっていくであろうことの恐怖を、ヒステリー的に拒否などはまったくしておらず、無意識の中でではあるが、そして、つねにいつも泣きながら恐怖におののきながらではあるが、ヌーメラウーメラに変身することで肯定し引き受けようとするのである。ヌーメラウーメラは、あこがれるべき夢の正義のヒーロー(左手)でもなく、現実世界のまともさ・平穏さを保証する根源的な恐怖の象徴(右手)でもない。そして、夢と現実と、どちらとも平等に対等に、その闘争モードにおいて引き受けていくのである。かっこいい! 軽く、かっこいい!とか言うな、というほど、かっこいい。しかし、僕らも子供のころは、多かれ少なかれ、そうだったのではないのか。いやあ、もっとずるく、恐怖を回避してきたのかなあ。

    ともかく、夏目房之介が切り開いたマンガ表現論は、日照りに耐えてこうしてすくすく育ち始めている。それは、たしかに、ある意味で日常に風景になっている。

    これまでの論文はみな、作品を相互に関連付けたものになっていて、ストイックに作品論として書かれたのは、高橋の『真悟』論と栗原の『14歳』論だけである。議論という点では、このストイックさは、地味に見えるよな。まあ、中盤の底で頑張ってるのよ。

    高橋明彦「わたしはシンゴ、内在する高度」(わたしのです)は、一度ちゃんと『真悟』論を書いておきたかった、ということなのですが。まあ、さとるのクツと人工衛星の破片を繋げるのは、人によってはアナロジーに過ぎないと言うかも知れない。そして、どうも身近な読者のご意見をまとめると「内在」の意味が伝わりにくかったようでもある。素人がドゥルーズをつかっちゃったりなんかして、もうあぶなっかしくて見てられない、みたいな感じもあるだろう。しかし、テクスト理論・記号論がシミュレーショニズムに陵辱されて、「芸術」が機能不全におちいってしまった90年代以後において、ひとつの方向性としてウィトゲンシュタイン=クリプキの言語ゲーム論がその突破口になるのと同時に、小泉義之が描いたドゥルーズ像もより強力な武器となりうると私は確信しているのだから、しかたない。私が問題にしているのは、いわゆる哲学とか現代思想ではなく、あくまで芸術体験の問題である。

    あと論文としては、注釈的細部に一応こだわりました。所詮、文学研究者ですから。タワーのてっぺんの位置の指摘や、岩のドームなどへの言及は新見です。他方、コマ割りに関する表現論的なアプローチは中途半端で終ってしまったが。

    栗原裕一郎「『14歳』と楳図神学の蓋然性」については、栗原さんのサイトでも少し感想を書いた。本人は、随分卑下しているが、本筋は正しく、非常に良い論文です。今までまともな『14歳』論が無かった、というだけでなく。ていうか、彼と私とはほとんど議論の前提や課題を共有していますから(笑)。特に私が勉強になったのは、『真悟』と『14歳』とを対比的に捉える、その具体性を与えたところ。論文の中では、多宇宙的な『真悟』に対して、その宇宙の階層構造(クラインの壺的な)にまで踏み込んだ『14歳』というところまでしか書いていないようにも読めるが、私が引用した『恐怖への招待』の部分の解釈をめぐる部分に関しては、栗原の指摘を受けて今後もっと議論されるべき問題となるだろう。

    あと、基本的な功績を押さえておくと、狂牛病とかの具体的な注釈は私にはよかった。また、それら既存の科学論を楳図作品に単純にあてはめる態度への批判を前提としている点も良い。ただし、これは一つ間違うと(栗原がでなく、栗原論文を読む者が)、注釈の拒絶に成ってしまい、議論の先細りを生む可能性もあるのだが。

    作品目録について。こうしたアプローチにおいては、大事なのは根気よりも素質である。まず、良かった点としては、マンガの目録として、初出目録では駄目だ、という方針を打出せたこと。今後、他の作家の目録も真似してってほしいところ。次に、発表順を目指したこと。これは、高橋正彦・成瀬正祐・辻中雄二郎といった豪華メンバーのご協力を仰いだので、貸本作品も含めて、かなり良い線行っているはずです。また、諸版の異同も問題にできて、よかった。あと、未見・未調査の本に関しては、サイトでは、×印を付けて、厳密に追認可能性を保持していましたが、今回のユリイカ版においては、そういう内輪の事情を言っても言い訳になりませんから、しませんでした。その分、なかなか厳しかった。

    逆に、決定的なシーンが、四つあります。

    まず、「青い大きい鹿の死」「歌手物語」(ともに『ゆりかご』東邦図書出版)を1961年に配置してしまったこと。これはオウンゴール。1962年が正しい。成瀬さんからのセイフティなパスをトラップしそこねてオウンゴール、みたいな感じ。これは、成瀬さんが間違っていたわけではありません。

    あと、『人形少女』の連載開始を 3月にしたこと。これは、正彦氏からずっと1月開始だと言われていたのですが、私は現物未見でしたし、楳図自身が3月とあちこちで言及していたので、その通りにしていました。パス、私のフィジカルでは追い付けなかった。河出本の想田氏の目録では正確に1月としていますね。

    『蝶の森』の初出が分からなかったこと。初出が『怪談』94号のはずはないのですが、ともかく分からんかったので。

    「赤い服の少女」に『少女フレンド』版があったこと。これは、知らなかった。

    目録は、その後、所収書の漏れなども早速指摘して頂いています(夏樹晋より)。ただ、想田さんのものと合わせれば、現段階でほぼ完璧な、所収書も網羅した発表順目録にはなるだろうと思われます。ただし、これで目録作成作業がほぼ終了した、という訳でもない。より綿密な調査は無限遡及的に可能であるし、また、そもそも「どこまで作品と見做し、リストに載せるべきか」という問題がある。また、初出・諸所収書の校異など、多くの課題は、未だ多い。

    年譜のほうが、むしろ宣伝したいです。読み物的にも、けっこう面白く読めると思う。研究的には、今回は、かなり無理を言って頁を取らせていただいたので、それなりに自由に出来ましたが、より豊富な話題、綿密な調査が必要だし可能です。ともかく、始まったばかりです。そもそも、この年譜というアイディアは編集部からのもので、僕は全くいままで楳図年譜を作る予定は無かった。今回やって見て、分かってたつもりでも分からないことが思いのほか多いことが自分の中ではっきりしました。これは今後も続けていこうと思います。

    ともかく、『森の兄妹』の執筆を開始する、手塚へのファンレターを出す、改漫クラブへ入る、というこの3つの出来事が、メビウス的に循環していたのを、今回正してみました。

    しかし、一つ大きな訂正を。1994年1月の「なお、ラジオ講座でイタリア語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語を習い始めたのは、このイタリア旅行がきっかけ、とも言われる。」は全面削除。1987年に1度目のイタリア旅行をしており、その時がきっかけでした。なんか矛盾してるなあ、と思いながら載せていたのですが、結局はどこも矛盾はなかった。2004年5月のNHK「生活ほっとモーニング」での発言「イタリア旅行がきっかけで外国語を習い始めた」に引きづられて書いてしまったが、入稿後、1994年のNHK-BS「ローマの道は異界へ通ず」のビデオを見直したら、「8年前のイタリア旅行がきっかけで」ときっちり発言していた。失敗しました。その他にも、間違いがありそうだが、あまり気付いていない。気付きました(1)、藤子不二雄の宝塚の手塚寓訪問は「中学卒業の春休み」ではなく「高校卒業の春休み」でした。あー、失敗。

    永野のりこ、高橋のぼる、鳩山郁子、呪みちるの4氏によるイラスト、これが素晴らしい。これ、出来前にコピーで編集長から見せてもらったのですが、彼らの楳図への思いを想像し、そしてその思いを表現できる力をもっている彼らのあり方を思い、ちょっとウルっときましたよ。ファンというのは所詮消費的な存在なのだが、それがファンの唯一のありかたではない。

    「お百度少女」の復刻。本作だけでも1300円出す価値あります。復刻作品を何を載せるか、ずいぶん迷いましたが、現時点で最も正しい選択だったはずです。編集上、長編作品は載せられないので、短編でかつ完全なる未復刻作品、かつ面白い作品(かつ、自前で用意できる)という選択でした。本作、明らかに『赤んぼ少女』の原型的作品だし、絵柄的に違和感がある人もいるのだろうけど、サスペンスの作り出し方などの非凡さは、十分に理解できるはず。また、縮尺ナシで、かつ原体をほぼ再現した編集部の努力、アイディアも認められるべきです。

    以下、まとめ

    論文等は『ユリイカ』らしく、悪い意味でもかなり難解でしたが、しかし、明らかに楳図作品解釈のレベルはあがった。このレベルか、これ以上で論じるのでなければ、楳図作品の評論なんかもう書く必要はない。執筆者が事前に集って二三度勉強会をやったかのような、見事な連系プレイが見られたと思う。その分、みな似たり寄ったりな事を言っている、というのはあるのだが。しかし、これらの論文が問題としている、進化、複数世界、同一性、恐怖、幻想、コマ割り、時間と空間などの論点において、楳図論の次元が一つ上がった。「難解」であることはある意味罪だが、悪ではない。読む人が読めば、中味が有ることは分かるのであるから。こういう人たちがいるかぎり、そして読もうと努力してくれる読者がいるかぎり、楳図を真剣に論ずることはむなしくない。今までサブカルチャーの文脈でしか語られなかった「楳図かずお」が、今回初めてきっちりカルチャーの文脈で語られたと言える。小説や詩、映画など他の芸術ジャンルの作家に較べても「楳図かずお」は対等以上だ、とはずっと言われてきたけれど、結局はまだだれもそれを実際に形にできなかった。今回、初めてそれがなされたと思う。まあ、遅かったわけではあるが。ともかく、こういう記念碑的な号に私も参加できてて、ほんとうに良かった。

    しかし、こういう点はともかくも、本特集でもっともアピールすべき点は、岡崎対談「お百度少女」です。ともかく、このふたつのために買うべき一冊です。

    最後に、いろいろとわがままを聞いてくれた、郡編集長に感謝申し上げます。一ヶ月間という短い期間でしたが、非常に充実していて楽しかった。





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