X-Status: READ X-POP3-Rcpt: hangyo@bidai Return-Path: Received: from tosyo ([202.209.189.244]) by kanazawa-bidai.ac.jp (4.1/SMI-4.1) id AA08088; Tue, 2 Feb 99 00:03:52 JST Message-Id: <9902011503.AA08088@kanazawa-bidai.ac.jp> X-My-Real-Login-Name: kajihara@bidai Mime-Version: 1.0 Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp X-Mailer: Denshin 8 Go V321.1b4 Date: Tue, 02 Feb 1999 00:04:19 +0900 From: takuo kajihara To: hangyo@kanazawa-bidai.ac.jp Subject: 芸術と批評レポート -------- 一応の区切りとして、レポートを提出します。 甚だ不完全なものであるのは一目瞭然なので、今後のためにも ご指導お願いいたします。 「芸術と批評」レポート 1999/2/1 『ウィトゲンシュタインのパラドックス』について 彫刻3年 梶原 拓生 ソール・A・クリプキによる『ウィトゲンシュタインのパラドックス』は 後期ウィトゲンシュタインの解釈を中心にして書かれたものだが、ここでは 『哲学探求』の序文におけるウィトゲンシュタインの「新しい思想はわたく しの古い思想との対比によってのみ、またその背景の下でのみ、その正当な 照明がうけられるのではないか、と思ったのである。」という言葉に従い、 前期ウィトゲンシュタイン(いわゆる『論理哲学論考』以下『論考』)から 後期ウィトゲンシュタイン(『哲学探求』以下『探求』)への展開が、いか になされたのかを考察することによって、クリプキによる解釈をより鮮明に 理解し直してみたい。 「世界は、論理的空間における事実の総和である。」という一文をもって 始まる『論考』の主要な問題点は、思考可能なものの限界をさだめることに よって、その外側にあるものを指し示すことにあった。それは次の部分に明 らかである。 4・114 哲学は思考可能なものの限界をさだめ、それにともない、思 考不可能なものの限界をさだめねばならぬ。 哲学は、思考可能なものを通じて、思考不可能なものを内側 から境界づけねばならぬ。 “全てのクレタ島人は嘘つきであると、あるクレタ島人が言った”という 文章は論理のパラドックスをあらわしたものだが、クレタ島の人間に限らず 何かが語られ得るとすれば、それを客観的に見る視点に立たない限りそれが 真に語り得ているのかどうかは証明仕様が無い。よって自分が認識する世界 の外側に出なくてはならなくなる訳だが、すでに世界の内側に存在している 地点から外部をめざすとすれば、それは世界を内側から限界づけることによ って、その外側に出る他ない。そこで、思考可能なものと、それによって境 界づけられた思考不可能なものの二つを合わせて、はじめて世界は限界づけ られ、その外側を示し得ると考える。しかし、このような考えをもとに世界 を限界づけると、世界の外側から見た世界そのものが、いったいどこに成立 し得るのか否かがわからなくなる。よって世界を内側から限界づけた瞬間に、 世界を内側から限界づけ得たか否かも証明できなくなってしまい、「世界が あるというその事実が神秘」(『論考』6・44)となり「語りえぬものに ついては、沈黙しなければならない。」という結語に至っているのが、『論 考』の成り立ちであると私は考える。 『探求』はその序文の「自分が旧著の中で書いたことのうちに、重大な誤 りのあることを認めなければならなかった。」にあるとうり、いわば『論考』 の批判として書かれた仕事である。ではこの「重大な誤り」とは一体何を指 しているのか。 『論考』の成り立ちが、思考可能なものと、それによって内側から境界づ けられる思考不可能なものの二つからなり、その二つによって世界を内側か ら限界づけることによってその外部に出ようとしたものであることは先に説 明したとうりである。私はここにおける重大な誤りとは次のようなものであ ったと考える。つまり『論考』では「語り得ぬことについては沈黙しなけれ ばならない」ということだけは言うことができる、ということになってしま っているのだが、実は「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」 ということさえも、言い得ないことである、という視点が欠けているという 点に、その誤りがあったのではないかと思うのである。 さて、クリプキは、『探求』における「私的言語論」と通常呼ばれている 部分(第243節とそれに続く諸節)で述べられていることは、実はすでに それに先立つ諸説において述べられており、第243節以下はその系にすぎ ないという。そして『探求』において重要なのは、第243節に先立つ諸説 であるとし、それは懐疑的問題とそれに対する懐疑的解決であるという。懐 疑的問題とは第201節の次のような言葉によって代表されるものである。 『我々のパラドックスはこうであった。即ち、規則は行為の仕方を決定でき ない、なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられうるから。』 以下、懐疑的パラドックスのクリプキによる説明を要約する。 われわれは通常「68+57」という数式の答えは「125」であると考 える訳だが、たとえばその計算の規則をプラスでなくクワスと考える人がい たとする(ここではBさんとする。)Bさんにとってはこの足し算の規則は 次のようなものである。 もし X,Y<57 ならば X*Y=X+Y (*はクワスを意味する) そうでなければ X*Y=5 Bさんがこのような規則に則って「68+57=5」という答えを出した とき、われわれはその答えが間違いであると言い得るだろうか。結論としては 言い得ないのである。 通常最初に足し算を習った時、100回くらいやると「わかった」という気 持ちになるわけだが、仮にその瞬間、全く違うことがわかったとしても区別は できない。つまりどんな出鱈目な答えであっても、規則に従っているといえる のである。逆にいえば、ある規則について、それがたしかに自分が理解してい るところの規則であるという確実な根拠はないことになる。これは、あらゆる 言語に当てはまる。これが『即ち、規則は行為の仕方を決定できない、なぜな ら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられうるから。』(哲学探求第 201節)というパラドックスの指し示す所のものである。 クリプキは以上のような説明をした上で、「語について我々が行なう新しい 状況での適用は、すべて、正当化とか根拠があっての事ではなく、暗黒の中に おける跳躍なのである。如何なる現在の意図も、我々がしようとするとする如 何なる事とも適合するように、解釈され得るのであり、したがってここには、 適合も不適合も存在し得ない。この事は、ウィトゲンシュタインが『探求』の 第201節において言っている事である。」と言い、ウィトゲンシュタインは 『この命題が真であるためには、何が成立していなくてはならないのか。』と いう問いに代えて、次の二つの問いを立てたのだとする。第一に、『如何なる 条件のもとででならば、この形の言葉は適切に言明され得る(あるいは否定さ れ得るのか。』そして、この第一の問いに答えが与えられたのならば第二に、 『そのような条件のもとで、その形の言葉を言明する(あるいは、否定する) 我々の実践が、我々の生活の中で有する役割と有効性は何であるのか。』 これはクリプキが説明する通り、懐疑的問題に対する正面からの解決ではな い。しかし、それが何らかの解決になっているとすれば、私的であり得るか否 かという問題はそもそもそのような問題が存在しないのだという事を示した上 で、なぜ言語は使用し得るのかは問う事が可能であり、そこにおいては、たと え、それが私的な言語ではないとしても、それを問う事はできるということ。 つまり、真理条件によらずに(そもそも真理条件に問う事はできない)、そも そも言語そのものが可能である、というのは、如何なることなのか。そして、 それが可能である事によって、一体それは、どのような役割を演じているのか、 は問う事が可能だ、ということなのである。 では、なぜウィトゲンシュタインはそのような解決をしようとしたのか。 もしも、何らかの動機がそこにあったのだとすれば、ウィトゲンシュタイン の仕事は「倫理が普遍的足り得るとすれば、それは一体どのようにして可能な のか」を追い求めたものであるように私には思われる。 しかし、このことについては今少しの検討が必要だろう。 金沢美術工芸大学彫刻専攻 梶原拓生 kajihara@kanazawa-bidai.ac.jp 金沢美大 http://www.kanazawa-bidai.ac.jp