1998年度「芸術と批評」--- 規則は行為の仕方を決定できない

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1998-10-07 (Wed)

本日が一回目です。ガイダンスをここに書きます。

  1. 概要

    今年は、S.A.クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』を読みます。L.ウィトゲンシュタインの後期の著作である『哲学的探究』を解釈した本です。

  2. 参考文献

      おおもとの『哲学(的)探究』について。

    • ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(ウィトゲンシュタイン全集8・大修館書店)
    • ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(法大出版局ウニベルシタス叢書)
    • 黒崎宏訳『哲学的探究読解』(産業図書)
    • G.E.M.Anscombe"Philosophical Investigations"Blackwell

      全集本が基本と考えていいでしょう。ウニベルシタス本の『哲学探究』は抄出で、前半の言語ゲーム論、後半の私的言語論のみおさめ、クリプキが最重要と見做す真ん中へんの「規則」に関する部分がすっぽり抜けている、というしろものゆえ、使えません。黒崎訳『探究』は、97年に出た本で、レイアウトが極端に見にくいが、クリプキに関する補説などもありよい本だろうと思います。アンスコムの英訳は、クリプキによれば不適切な訳もあるとのことですが、まあ参考までに。ドイツ語の本は持ってません。前二著は図書館にもありますが、後二著はないと思います。

    • 『総特集 ウィトゲンシュタイン』現代思想 1985年12月 臨時増刊号

      所収の黒崎宏氏の「クリプキの『探究』解釈とウィトゲンシュタインの世界」という論文が分かり易くていいです。

      黒崎宏氏は、日本のクリプキ派のおやかたみたいな人で、ほかに、

    • 黒崎宏『科学の誘惑に抗して--ウィトゲンシュタイン的アプローチ』勁草書房 1987

      など、面白そうな本があります。

      柄谷行人の本は、クリプキ=黒崎を使った哲学的評論で、まあ応用編のようなものです。クリプキを理解してから読んだほうが、妙な影響を受けずによいでしょう。これは図書館にあります。椹木野衣氏なんかは、よくあちこちの評論で柄谷の用語を使っています。

    • 柄谷行人『内省と遡行』講談社

    • 柄谷行人『探究I,II』講談社、講談社学術文庫

  3. 本日の授業

    基本的に、ガイダンスです。キーワードは次のふたつ。

    • 反哲学とは?

      哲学というのが、現象の背後に本質を見るという営為だった、そして哲学はその実体を如何に言当てるか、という事を理解する。(参考。J・デリダ「人文諸科学のディスクールにおける構造と記号と戯れ」『エクリチュールと差異』下・ウニベルシタス。この論文がデリダらしくややこしいが、こういう事が明快に書いてある)

      次に、二十世紀の諸科学において、根拠の非在をいうものが同時多発的に起っている。

      • B.ラッセルのフレーム理論(論理学)。一応ラッセルはパラドックスを解決した気分でいるのかもしれないが。
      • K.ゲーデルの不確定性定理(数学) ←(用語、間違ってます。後掲参照)
      • ハイゼルベルグの不確定性原理(物理学)

      反哲学は、いわばこれらの流れのなかで、本質主義という予見を捨てる。ポスト構造主義とウィトゲンシュタインとが、二大反哲学の潮流となる。

    • 20世紀の常識

      美大は、18世紀的な発想が多すぎるが、20世紀というのがどういう歴史だったのか、ということを理解する。

  4. 授業の進め方など

    予想外に学生が多くて、驚きました。名簿見る限り、16人もいます(因みに去年は1人)。そもそも、卒業単位としてどこにもカウントされない授業ですから、取っても何の意味もありませんよ。

    順番にレポータ形式にするか、単なる発言するだけの授業にするかは雰囲気で決めます。但し、いつもやっている如く、「全員何か毎回発言せよ」とかいうサービスはしません。喋れる学生とだけ喋る、身勝手な(笑い)授業にします。

    レポートは、試験的に電子メール提出にする予定です。


    授業後、早速学生から、次のようなメールが来ました。実名で掲げます。
    
    Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp
    X-Mailer: Denshin 8 Go V321.1b4
    Date: Thu, 08 Oct 1998 15:35:34 +0900
    From: takuo kajihara 
    To: hangyo@mail-address
    Subject: 芸術と批評について
    --------
      梶原です。先日の芸術と批評の授業で、誤ったことを発言してしまい
    それが高橋先生のホームページにも載ってしまっていたので、とり急ぎ
    訂正の連絡をしたいとおもいます。
     
      誤>ゲーデルの不確定性原理       正>ゲーデルの不完全性定理
    
      詳しく説明するのはむずかしいのですが、
    
    <形式的理論には数学を完全に写し出す力がない>
    というのが、「ゲーデルの第一不完全性定理」で
    
    <算術ゲームを含む数学ゲームは、無矛盾である限り、自分自身の無矛盾性を
    証明する能力を持たない>
    というのが「ゲーデルの第二不完全性定理」というものらしいです。
    知ったかぶりして間違ってしまいました。
    どうもすみません。ホームページの方もお早めに御訂正下さい。
    
    それでは。
    
    金沢美術工芸大学彫刻専攻  梶原拓生 kajihara@kanazawa-bidai.ac.jp
    金沢美大 http://www.kanazawa-bidai.ac.jp 
    ------
    
    
    [高橋]ほんとだ(苦笑)。物理学のほうも、ハイゼルベルグだったっけ?なんかもう忘れています。

    手元に『現代思想』89年12月号「特集ゲーデルの宇宙」があります。つぎの2論文があるので、貸しますから読んでおいてください。

    • 黒崎宏「ウィトゲンシュタインのおけるゲーデルの影」
    • 野崎昭弘「ゲーデルの不完全性定理」

      ただ、数学が苦手な僕の場合は、

    • 飯田隆「偽テアイテトス」

      のほうが、わかりやすそう。結論だけ知りたいなら、

    • 前原昭二「ブローズ氏の原稿を見て」

      これが一番、わかりやすい(笑)。即ち、

      • 正しいけれど証明出来ない命題がある。(第一定理)

      • ある体系の無矛盾性の証明は、その体系の中ではできない。(第二定理)

    なお、野崎氏の論文を、めちゃくちゃに簡単に補足的に書いておきます。

    1. ヒルベルトという人の形式主義という数学の立場がある。これは、現代数学の基礎みたいなもので、公理主義ともいえる。即ち、理論の出発点となる基本仮定を明確に列挙し、それを「公理」と呼ぶ。次に、公理から導かれた(証明された)結論を「定理」と呼ぶ。「公理」以外にはいかなる前提も使用してはいけない。

    2. ヒルベルトの形式主義は、すべての数学はこの形式主義によって、厳密に完全に基礎付られ、完全な体系を作り上げ、そこには矛盾がなく、そしてすべての問題はいつか必ず解ける、という希望をもたらした。ヒルベルトの墓碑には「我々は知らねばならない。我々は知るだろう」ときざまれているそうです。

    3. 【用語:公理系】ある公理のもとで導かれた定理や命題など、その世界全体を公理系と呼ぶ。コンピュータの世界で、ハードのアーキテクチャー、OS、コンパイラ(言語)などを、処理系というのに似ている。

    4. 【用語:無矛盾性】矛盾というのは、例えば、ある公理から「αである」と「αでない」のどちらも導かれる、と言った状態です。こういう矛盾が無い状態を無矛盾性と呼び、これが成立っている体系は無矛盾である、という。

    5. 【用語:完全性】完全性というのは(無矛盾性から導かれる結論のようにも思うのだが)、公理系が十分に強力で、正しい命題がすべて公理から導かれることを言う。具体的には、「αである」か「αでない」のどちらか一方だけが導かれる(証明できる)公理系、それを完全性という。

    6. ところが、ゲーデルの不完全性定理というのは、「ある程度以上に複雑な公理系は、もし無矛盾であれば、形式的には不完全である」というものである。ヒルベルトの夢はやぶれる。

      (以下、証明は省略)

    うーむ、自分自身、先が思いやられる。

1998-10-14 (Wed)

  1. 概要

    この本は、全四章から構成されるが、各々の章には小見出しさえない! これは実に読みづらい。受講者は、自分で小見出しをつけて読んでゆこう。

  2. 今回読んだところ

    第二章 P11〜27

    第二章は、『探究』201節をめぐり、「懐疑論者」による挑戦がえんえん展開される。P27あたりから、懐疑論に対する反論が示されるが、反論がことごとく反論たりえぬ事を書連ねている。

  3. 要点

    1. ウィトゲンシュタインのパラドックス、『探究』201節(部分)

      我々のパラドックスは、こうであった。即ち、規則は行為の仕方を決定できない、なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから

    2. クワス関数(+)の定義

      もし x,y > 57 ならば、x (+) y = x+y

      そうでなければ、x (+) y = 5

      実際に、繰上がりが理解出来ず10までしか数えられない子ども(クワス的上限が10の子ども)は、3+5=8 と答えられるが、5+6 や 8+7 や23+22 を、すべて「いっぱい」と答えるだろう。日常的にも充分有り得る事例。

    3. プラス関数とクワス関数。
      規則の名前・記号規則(ルール)行為(の一例)
      プラス・+ プラス関数68+57=125
      クワス・(+) クワス関数68(+)57=5

      ぼくら(普通人)も懐疑論者も、プラス関数もクワス関数も、その違いを確実に知っている。

    4. 以下、ぼくら(普通人)と懐疑論者との対話。

      1. ぼくら(普通人)は、足し算(プラス関数)を小学校の頃から勉強し、日常の買物で使っていて、足し算(プラス関数)を理解していると思っている。

        言換えると……、ぼくらは、足し算(プラス関数)という規則を把握しており、どんな場面においても、規則に従った行為をすることが出来る。この行為を『プラス』と名づけてきた。

        だから、つぎのような足し算、"68+57= "を聞かれれば、ぼくらは125と答える。(この計算は、いままでやった事のない計算だ、という前提で話は進むが、実際最終的には、既にやったことがあってもなくても同じです)。

      2. ここに、懐疑論者が出てきて、言う。「125という答えは、へんじゃないかい。君は、5 と答えるべきでしょう。だって、きみはクワスしようとしているんだろう?」

        ここで確認。プラス関数では125になる。クワス関数では5 になる。

      3. つづけて……

        懐疑論者「君はいままで計算練習をいっぱいして、ちゃんと規則を覚えた(解釈した)つもりでいるかもしれないが、君がやってきたのはプラスではなくて、クワスですよ。きみは、それがプラスだと思っているようだし、なんだか自信を持ってるけど、それはクワスだよ。だから答えは 5 になるはずだよ」

        こう言われると、なんかこっちも自信がなくなる。即ち、

        「私(普通人)は過去において『プラス』と『+』を、私が『クワス』と呼び、『(+)』によって記号的に表そうと思う関数を表すために用いていたかもしれないのである。」(P14)

        5 と答えるのは、決して「いわゆる計算マチガイ」ではない。クワス関数とプラス関数を取違えて覚えてきた(解釈してきた)のである。

        『探究』201節において、「規則」「行為」をクワスでよみかえ、とりあえず理解せよ。

    5. ルール・フォローイング問題

      1. 余談です。取り違い、という点でいうと……、例えば、分数の掛算と割算を分からないまま大人になってしまった人というのは、案外居ます。掛算と割算を取違えることは、実際にある。

        或いは、「水入りペットボトル」を、「猫避け」と思わないで、「猫の飲水を用意してあげている」と思っていた人がいます。

        または、CMYK をシアン・マゼンダ・イエロー・クロだと思っていた人がいる。

        つねに解釈(ルールの)は、間違っている可能性が有るのです。

        以上、余談終り。

      2. さて、懐疑論者の言っている事は、実はまるっきり偽である。が、それが偽であることはどうやって証明出来るのか?できない(具体的な証明、そして証明がすべて失敗することはP27以降えんえん述べられる。最終的には、真偽決定不能となる、のかな。これは後述)。即ち……、

        通常、私(普通人)は「68+57」という計算をするときは、単に暗黒の中での正当化されていない跳躍(unjustified leap in the dark)〔闇雲な挙動〕をするのではない、と思っている。私は、私が前もって私自身に与えていた指示に従うのであり、その指示が、この新しい事例において、私は125 と答えるべきである、という事を一意的に〔こたえは一つしかない。一意関数である〕決定するのである。

        しからばその指示とは何であるのか。〔そんな指示は、じつはどこにもない。即ち〕。仮定により、私は、この計算事例において「125」と言うべきである、という事を私自身に明示的に語ったことは、〔いままでに一度も〕決してないのである。

        そしてまた、私はただ単に「私が常にしてきた事と同じことをなし」さえすればよいのだ、という事も不可能である。〔なぜなら〕そのような規則は、アディション(加法)の規則であるのみならず、クワディション(クワス関数)の規則でもありうるのである。〔可能性として、ありうる。というよりは……、「ありえない」という証明はすべて失敗する(P20)〕 (P18)

      3. これらの問題を簡単にいうと、「過去の規則を新たな状況において使用するとき、その規則にはいかなる正当性が有るのか」という問題になる。これをルール・フォローイング問題と言う。

        ぼくらは日常的に、「同じ規則がいつも通用するとは限らない」ことは知っている。柳の下にどじょうはいないし、ノドをなでれば猫は喜ぶとは限らない(エドナはよく噛付く)。ふつう、これは「規則の抽出(解釈)が間違っていたのだ」と、理解して納得している。しかし、そうではない。

        ウィトゲンシュタイン=クリプキの面白いところは、そんな不確かな日常のルールのみならず、一般に厳密だと思われている数学のような分野でさえ、同じ問題が生じてくるというわけである。

      本にはもうちょっと書いてあるけど、今日はおしまい。各自、まとめよ。

    うーむ、やっぱり先が思いやられる。


1998-10-28 (Wed)

1998-11-11 (Wed)まだ、ここをやってます。

1998-11-18 (Wed)まだ、ここをやってます、やっぱり。

1998-11-25 (Wed)まだまだ、ここをやってます。

  1. 概略

    27頁〜107頁

    以下、本書「二、ウィトゲンシュタインのパラドックス---規則の問題---」は、107頁までえんえんと、パラドックスに対する反論のパターンを掲げ、いずれもが反論たりえぬことを示してゆく。

  2. 内容

    • [反論1](P27L10)一層基本的な規則に依拠する

      1. count/quount

        プラスをカウントという規則で基礎付ようとしても、カウントがクワントでないという正当化はできない。

      2. independent/quindependent

        カウントする際に、二つのビー玉の山をそれぞれ数えることと、一つのビー玉の山を数えることと、独立している(independent。=別のことである)と言ってみても、クインディペンデントでないという正当化は出来ない。

        [参考]或いは逆の操作(山をより細かく分ける)でも同様。例えば、クワス関数が57までしか数えられない。ならば、57を10×5+7に分解し、各々の山を数えてゆく等の算術的処理によって57以下のカウントで125を導きだそうとしても、それぞれのカウントがindependent である保証は存在しない。

    • [反論2](P32L6)自分が導かれる

      2,4,6,8,a という数列において、a は何か? 知能テスト程度の問題なら10 が唯一の答えだろうが、数学に精通している人間なら、いくつもの正しい数列を作ることが可能である。

      [参考]「I love you」といえば尾崎豊の歌ですが、もうちょっと知っている人には徳永やオフコースにもあるとかプリプリにもあるとか、まあそういうレベル。Ranny Blue は徳永だが、氷室にもあるとか。

    • [反論3](P33L18)同一律

      ここはちょっと難しい。

    • [数学の問題から言語一般の問題へ](P35L16)

      テーブル/タベヤー

    • [クワス問題の再定式化](P38L16)パラドックスの一般化(無時間化、非因果性)

      はじめに我々がパラドックスを提示したときには、やむを得ず我々は、現在の意味には疑問の余地なし、として言語を用いた。今や我々は、予期されていた事だが、この暫定的な譲歩は全くの虚構であった、という事を知ったのである。何時如何なる時であろうとも、私が、「プラス」によって、あるいはその他の言語によって、意味している事に関するそれを構成している事実は、あり得ないのである。(P40)

      しかし、ふつーに考えて、「プラス」の規則は、ぼくらの心に深くきざみこまれているように思われるだろうねえ。どうしても払いのけられないような実感として。プラスの規則は「今私の心の中にあるもの」として。そしてそれが私に「指示」してくるのだ、として。しかし、クリプキは言う。

      しかし翻って考えるに、私が今私の心の中にあるものに注意を集中するとき、一体どんな指示がそこに見出され得るのだろうか。そして、何らかの指示がそこに見出されたとしても、未来において私が行為するとき、如何にして私は、それらの指示に基づいて行為しているのだと、言われ得るのだろうか。未来の私が参照するための、無限に多くの場合の計算結果の表が、私の心の中にあるわけではない。即ち、私の心の中にあり得るのは、有限個の場合の計算結果の表のみなのである。そして更に、未来において、如何に「プラス」の計算をなすべきかを私に告げるところの、ある一般法則が私の心の中にあるのだ、と言うことは、単に問題を、やはり有限個の場合の計算結果のみによって与えられていると思われるところの、他の諸規則に、移しかえているだけなのである。未来において私が行為するとき、私が使用するどんなものが、私の心の中にあり得るのだろうか。かくして、私の心の中にある意味なるものの観念は全く雲散霧消してしまうと思われるのである。(P41)

      [愚考]僕はむかし、電卓ってのはどうやって計算してるのだろうか、と疑問に思ったことがある。8桁や10桁といった上限はあるにせよ、あらゆる計算の組合せと結果の表を内包しているのかな、と思ったことがある(中学生くらいのころです、このバカは)。高校くらいのころから現在まで(あはは)繰り上がり規則を持っていて、カウントしているのだろうと推測してます。桁毎(16進で)にレジスタを用意したほうが速く計算できそうですね。コンピュータを使うようになったら分るのかとおもっていたが、たしかに8086CPUのレジスタなどの現状を分かったが、まあそのころには既に四則関数はデフォルトで用意されていて、電卓を作る機会には恵まれなかったし、そういうアルゴリズムも見たことない。しかし、掛け算なんかはどうするんでしょう?足し算に分解しているとも思えないし、九九の表を内包しているとも思えないんですが。知ってる人、教えてください。

      それで。電卓内のICは、同一性を保持しているのでしょうねえ。

    • [反論4](P42L4)傾性的分析

      傾性(dispositionally)というのは、「心の状態」の問題ではない(じゃあなんだ?)。「プラスは、x + y のとき、sum を求めるように傾性付けられている」と言う。これはすなわち「謎めいたもの」(P44)。全然説明にはならない。

      • 粗い傾性的分析(P42L17)

        傾性的分析は、「X + Y が quum を求めるように傾性付けられている」と懐疑するだけで、論破される。

        加えて、傾性論者の基本的な誤りは、「私の傾性も有限である」という事を見逃している点である(P50L18)。計算出来ない大きな数も存在する(死ぬまでかかっても答えを言えないような)。

      • 正真正銘の傾性的分析(P51L14)

        「正真正銘の傾性的分析」というのは「ある条件を加えるならば」というような条件が付くらしい。条件とは、「十分に大きな数の計算も出来、ずっと健康を保ち続ける」等。すなわち、死ぬまでかかるような計算も、それをしている間は生き長らえる、というような条件ですな。

        ただし、電卓は、この条件にかなっているね。でも、考えてみると、ペンティアムプロセッサの計算マチガイの話だとか、たしかに電卓・コンピュータでも規則の問題は起ってくるのかもね。

      • 傾性的分析の変種(P61L13)

        あらら、さっきからの電卓の問題は、ここに書いてあったよ。機械に内在するような規則のプログラムを書くことは不可能なんだってさ。そして、そのプログラムが如何に常に正しく計算をしてたとしても、クワス風な懐疑をハネのける正当性は保証できない。誤作動の可能性だってあるし。

        [注]1998-11-18 今まで読んできて気付いたが、クリプキには「帰納法的有限(個)性」とでも言うべき、基本原理を持っていますね。すなわち、

        • 有限個の条件からはルールは保証不能である。
        • 有限個の条件によって、全体を代表させることは出来ない。
        とでもいうような基本原理。

        われわれは普通、帰納法的に、有限個の条件からルールを把握しているが、クリプキは一旦これを認めたうえで、「しかし、次のそのルールを適応することの正当化は出来ない」というような言い方をしてきた。だが、P40までくると、もはや話は別である。再掲すなわち、

        はじめに我々がパラドックスを提示したときには、やむを得ず我々は、現在の意味には疑問の余地なし、として言語を用いた。今や我々は、予期されていた事だが、この暫定的な譲歩は全くの虚構であった、という事を知ったのである。何時如何なる時であろうとも、私が、「プラス」によって、あるいはその他の言語によって、意味している事に関するそれを構成している事実は、あり得ないのである。

      [注]1998-11-25 電卓の話、補足。大谷先生に聞いたところ、すべて足し算に還元して計算しているのだそうです。

    • [反論5](P72L1)単純性への準拠

      1998-11-25

      • [論旨]どういう反論か。「私はプラスを意味していた、という仮説は、最も単純な仮説として選ばれるべきである、という見解」(P72)。これも反論たり得ていない。ウィトゲンシュタインの懐疑論は、「私の心の歴史あるいは私の過去の行動の中の如何なるものも----たとえ全知の神が知りうるものを全て持ち出して来たとしても----私がプラスを意味していたか、クワスを意味していたかを、確定することは不可能である、という事を示そうとしているのである」(P39)。言換えると、懐疑論的挑戦は「利用しうる事実の全てを手にいれることが出来る全知の存在でさえ、プラス仮説とクワス仮説を分別する、いかなる事実をも見出すことは出来ないであろう、と主張しているのである」(P74)。プラス仮説とクワス仮説とは、どちらも両立しうる仮説であり、同時に、その仮説を構成するような事実なるものは存在しない(P39)。

      • [補足]なお、これは認識論的問題ではない。即ち、「一体如何にして人は、私が意味していたのがプラスとクワスのどちらであったのかを知り得るのかという認識的問題であると、と見えるかも知れない。しかしながら、私の心の歴史の中にある如何なるものも、私はプラスを意味していた、という結論とも、私はクワスを意味していたという結論とも両立するのだ、という事が与えられるならば、このような懐疑論的な挑戦は実は認識論的なものではない、という事が明らかになる。」(P39)[補足終り]

      • [疑問] 「結論が両立する」つまり「競合する2つが実在する」という点を以って、「認識論的問題ではない」とクリプキは言うが、それも含めて認識論なんじゃないかな、認識論てのは。

      • [論旨]続けてクリプキは言う。単純性へ準拠する、というのは、二つの競合する仮説のどちらを選ぶかという場合の手助けにはなる。仮説のうち、単純なほうを「正しい」と見做そう、と言ったように。より単純であるがゆえに、より確からしい、と言ったように。しかし、その有効性と懐疑論的の挑戦とは全く別問題である。つまり、プラス仮説とクワス仮説は、「ともに純粋に事実に関する仮説ではない。それゆえ、我々は、これら二つの仮説が述べていることを理解しないと思われる。そしてもしそうとすれば、一方のほうが『より単純』であるがゆえに『より確からしい』と言うことは、一体何を意味しているのだろうか。もし二つの競合する仮説が、本物の仮説ではなく、純粋に事実について言明しているものでないならば、『単純性』を考慮しても、それがそれらの仮説を本物の仮説に、(または)純粋に事実について言明しているものに、しはしないであろう」(P73)。

        「単純性を考慮すればよい」と考える方法は、次のような時にだけ有効である。即ち、「意味しているとか、意図しているとかの事実に対しては、我々は間接的にしか近寄れない(知る事は出来ない)」という主張に対してのみ。或いは、「我々がプラスを意味しているのかクワスを意味しているのかについて、我々が知る事を(何かものかが)常に妨げているのだ」と主張している場合にのみ。すなわち、認識論的な問題に対してのみ(P74)。

      • [具体例] 電子について競合する二つの仮説が有る(粒子説、波動説、かな)。これは、実験データで確証されている。だからこれは「事実的言明」である(必ず、どちらかが正しいはず)。この場合、神のような全知の者であれば、その事実を「直接的に見る」事が出来、単純性などを考慮する必要はない。反して、全知でない我々は、間接的証拠によってどちらかを採ろうとするが、それも無理な場合、単純性で(単純なモデルのほうを)選ぶだろう(そもそも「モデル」というのはそういう発想が基礎にある)。

        しかし、ウィトゲンシュタインの懐疑論者が問題にしているのは、「事実的言明」ではない。すなわち、認識論的問題ではない。つまり、「利用し得る事実の全てを手にいれることが出来る全知の存在(神)でさえ、プラス仮説とクワス仮説を分別する、如何なる事実を見出すことは出来ないであろう、と主張しているのである」。ならば、全知の存在にとっては、単純性を考慮することは、必要でもなければ有効でもない。況や、我々においてをや。

      • [補足]P76以降は、上述の結論に対する補足説明である。

        ブラス・クワス仮説において「事実」というものが成立するとしたら(しないが)、それは、「私の未来における行為を正当化し、かつ不可避的にするものである」と言えるだろう。だから、それが事実であるためには、単なる「仮説」であってはならない。「未来において私は、……おそらく5ではなく125と答えるべきであろう、と推測し、躊躇しながら仮説的に計算してゆく」のではダメである。

    • [反論6](P78L4)内観的体験

      • [論旨] こういう反論が有る。「『プラスによってアディションを意味している』という事は、独特な質(quale)を有し、内観によって我々一人一人に直接知られているところに、他に還元不可能な経験を表しているのだ」という反論。すなわち、「『プラスによってアディションを意味している』という体験は、頭痛の感覚を持っているという経験がそうであるように、それ独自の、他には還元不可能な質を持っているのである」という反論。

        還元不能な内観とは、例えば、頭痛、くすぐったい感じ、吐き気、など。または、緑色を見る(これは「青を見る」と「黄色を見る」とに分解(還元)出来ない体験である)。

        (中略)

        (P99から)「固有で内観可能な状態」があるのだ、という見解は、そもそも誤りである。哲学者は、そういう誤りを認めさせないために、むしろ「固有で内観可能な状態」よりは「もっと独特な状態である」と言ったであろう。例えば、プラスによってアディションを意味している、という事はある原初的な状態であり、しかも感覚や頭痛といった「質的」状態に類比されるものでもなく、傾性に類比されるものでもなく、それ固有の状態である、と。

        ただし、この「想定された原初的状態」の本性は、結局神秘のままに残される。加えて、重要な事は、神秘であるのみならず、原初的状態なるものは論理的に困難であるという事である。ウィトゲンシュタインは、たんに「理解しているという「質的」状態なるものは幻想である、という事を内観(という概念が)示している」という事を論じているだけではなくて、「理解しているという「質的」状態なるものは、論理的に不可能である(あるいは少なくとも、かなり論理的に困難である)」という事を論じているのである。

      • [展開]それは具体的にどういうことか。

        1. (P101、注の三四)/今まで我々は、有限個の条件、状態について考えてきた。が、「アディションの無限個の場合について考えてきた」という人はうそつきである(そして、そもそも有限個という弱い主張について考える限り、無限個という強い主張については考える必要はない)。さてところで、私クリプキは、しかしここで「アディションの表の全ての場合について一つ一つ考えてきた」と仮定してもよい。なぜなら、そう仮定したからと言って、「68+57」を答えるのに、その表は役に立たないからだ。心の歴史を振返った時、心でしかと「68+57について問われたときは125と答えよ」と自分に指示を与えていたとしても、懐疑論者は、そのような指示もクワス風に解釈されるべきである、と言うことが実は可能なのである。ウィトゲンシュタインは言う。「もし私はそれを前もって知っているとすれば、後になって、その知識は何を私に助けてくれるのか。私の言いたい事は、こうである。そのような場合、もし私が実際に歩みを進めねばならないとすれば、そのような以前の知識でもって何を始めるべきかを、私は如何にして知るのか」(『数学の基礎に関する考察』1部3節)。

          「有限性」という概念は、むしろ別の意味で重要になってくる。つまり、「いままで有限個の場合のみ考えた」という事実よりは、「正当化は何処かで終りにならねばならない」という事実において。

        2. (P101L9、本文)/「プラスがアディションを意味している」という状態は、我々の有限な心の中にある有限な対象である(実は無限でもよい。前注三四)。この状態は、アディションの表のすべての場合を考える(答えを知っておく)ことによって成立するものではないし、我々の脳で全て考えたり記憶しておいたりすることは出来ない。しかし、それにも関わらず、「それら一つ一つの場合は既に『何らかの意味で』、『ある奇妙な仕方で現に存在する』のではないか」。

          この「何らかの意味」とはどういう意味か。クワス風に解釈され得ない有限な状態を考えることが出来るのか(出来る。これこそ言語ゲームです)。

          さらに、クワスふうに解釈される事がありえない、という事は如何にして可能なのか。プラスによってアディションを意味している、ということ、この状態は、「因果論的に」決定されているのではない(そう考えるのは傾性論者だけである)。「奇妙な仕方で」決定されるのである。ただ、それは「もし私が今プラスによってアディションを意味しているとすれば、そのときは、もし私が、その意味を未来において思い出し、その意味と合致した計算をしようと欲し、かつ、計算間違いをしなければ68+57と問われた時、私はクワスふうにではなく125と答えるだろう」、……というわけでもないのである。たとえ私が既に68+57=125という事を知っていても、それだけでは、未来においてそう答えられるわけではない。勿論、まず他にも「意味を思い出す」「それに合致した計算をする」「計算間違いはしてはならない」と言った条件が付く。しかし、そういった条件を付加えてもなお、「任意の大きな数のアディションの問題に対してクワス風でなく答えられる」と言う事は、如何にして導かれるのか。それは神秘のまま残るのである。

    • [反論7](P105L4)数学的プラトニズム

      • [論旨] 数学的実在論者(プラトン主義者)は、数学的存在の非心的本性を強調してきた。即ち、アディション関数は人間の心とは独立した客観的存在である。「意味している」とか「意図している」とかには無関係であり、人類が滅びてもアディション関数は不滅である。

      • しかし、ここでもクワス的懐疑は避けられない。即ち、

        「懐疑的問題というものは、観念とか心的存在とかいう、私の心の中における存在が、あの意味ではなく特にこの意味の『把握』を如何にして構成し得るのか、という問題においてまさに生ずるのであるから」(P106)。

      • [敷衍]プラトン主義というのは、おおもとでは演繹法を生んできたもので(ほんとかな、そうだよな)、絶対的な真理を先に提示するような発想に近い。しかし、懐疑と言うのはそれに対して行われる何らかの心的な存在に関わるものである。

      • [結論]「ウィトゲンシュタンにとってプラトン主義は、如何にして我々の有限な心が無限に多くの場合に適応されると考えられている規則を与えることが出来るのか、という問題の回避という点については概して無能なのである」(P107L5)

      • [敷衍]ここまではっきり言われると分かるが、無限と有限には絶対的な溝があり、帰納法というのは何の根拠も無いと考えているのですね。

10/28からクワス懐疑論への反論の部分に入りました。11/4は美大祭で休講。11/11は、言語一般の問題「タベヤー」と再定式化のあたりを読みました。兎に角、二章は憂鬱な章なので、すっと読み通してください。

前にもらったメールで、ここで公開すると許可をもらってたメールです。原くんありがとう。

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X-Mailer: Denshin 8 Go V321.1b4
Date: Tue, 13 Oct 1998 13:20:36 +0900
From: tamiko hara 
To: hangyo@kanazawa-bidai.ac.jp
Subject: 芸術と批評
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クリプキ氏は、理解するとは、有る特殊な心の状態だといってる。
それはアカデミックな哲学のもとめる客観視不可能で、
むしろ頭痛にも似た個人的感覚なのだ。ということでしょうか?最初の章は。

言葉は、画家にとっての絵の具や、彫刻科にとっての石や、音楽家にとっての
音に比べて、かなり頻繁に あらゆる人々に使用されているという点で
素材的にことなっています。
わたしにとってこの授業はひじょうに重要です。先生がいいかげんであろうが
(それはないけど)単位に関係なかろうが。

彫刻3年 原

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うむ。ちょっと違うと思うけどな。それは、内観理論というやつで、パラドックスからのがれらません。

それで。ぼくも重要な授業にしたいとおもいます、はい。

98-11-18 [補足] ウィトゲンシュタインのパラドックスというが、パラドックスというのは、そもそもなんだ?逆説と訳すが、なおさら分かりにくい。ドクサ(臆見、俗信)をパラ(超える)のがパラドックス。つまり、ふつうに信じられている事を信じられなくするような論理を言う。

具体的には、「クレタ島のパラドックス」や「ゼノンのパラドックス」(アキレスと亀)などがその例である。パラドックスは、敢えて訳せば「論理矛盾」てな感じだね。

しかし、実際のパラドックスは、そのまた逆である。パラドックス自体が「ふつうには全然信じられない事」であり、「信じる必要もない些事」である。どんなに競争してみても、アキレスのほうが早いし、うそつきかどうかは、ちゃんと筋道立てて話せば、まあ、判明する。(フレームなんて面倒な事を言わなくても言い。例えば、「正しい事を言った時は右手を挙げよ。そうしないと殺す」と言っておいてから、石を指差し「これは何か」と、聞いて行けばよい。クレタ人はうそつきもおおいが、せこいやつも多いので、正しく答えちゃうよ、ははは)。

ウィトゲンシュタインのパラドックスも同様。「プラスはプラスに決ってんだろうよ。それ以上、何が有るってんだい」。

ところがですね。パラドックスというのは、じゃあ、単なる勘違いや思込みか、といえば決してそうではない。たとえていうなら、我々が信じきっていて、いわゆる日常生活では困らないような事態においても、それじゃあそれはしっかりした基盤の上に建っている日常生活なのか、といえば、そうではなくて、何の根拠もないんだというようなことを明らかにしてくれるようなものなのである。

哲学というのは、日常から脱出したところに存在しているのです。よく言いますね。日常に立脚しない思想は無意味だ、なんてさ。それはうそっぱちです。日常なんてのは、実にウソばっかりで、ウソの上になりたっているのです。そういう地点から少しでも浮上がろうとしない限り、われわれの生に夢見る力は与えられません。丁度きみらが、「日常生活」には不要な美術やなんやらをやっているのと同じです。デザインなんかも「日常から発想しよう」みたいな事を言いますが、それはもう「日常」なんかじゃないですよ。「日常」ってのは、ほんとにひどいものです。そういう「日常」を、きみたちはまだ知らない。


1998-12-9

だいたい、つぎのような内容です。対応する頁は、自分で読んで理解してみよう。

  1. 第三章・その解決と「私的言語論」

    [準備] 私的言語とは?

    • 「それを話している者だけが知りうること、つまり直接的で私的なその者の感覚、を指し示す」(『探究』243節)
    • 「この場合の私的言語とは、単独の使用者にそれが固有であるという意味のそれ(私的)ではなくして、その言語中の語が、われわれ各人にとりその意味を獲得したのは、本質的に私的な過程---すなわち、そのうちでは経験の適切な標本が語に伴われ、また連合されているような内的な直示的定義---によってなのだという意味での、私的言語である。」(アンソニー・ケニー『ウィトゲンシュタイン』P237。この本、案外いいよ)。

    [補足] 『探究』では、あくまで、感覚を指示す語のみを問題にしているように見えるが、クリプキの分析ではそうではなくて、おそらくはすべての語それ自体が私的言語に堕する可能性を持つ。私的ルールと言ってもいいのだろう。

    例えば、「痛い」は私的な過程だが、「空が青い」は(ほかの人も見えるから)私的言語ではない、とかは言えない。五感に刺戟する、という点では、「痛さ」も「青さ」も対等である。

    なお逆に、すべての言語は公的言語にもなりうるのだろうと思う。この公的言語こそが、言語ゲームなのでしょうね。

    [内容] 

[学生のレポートなど] 1999-02-23 この授業は、登録者は16人もいたのですが(10人以上は教科書も買っているはず)、クワスに呆れたのでしょう、さすがに2〜3回で5人くらいまでに減りました。その後は、4〜6人くらいで推移してました。まあ、こんなもんでしょう。で、どこにも加算されない完全自由科目ですから、レポートもテストも無し、と思っていたのですが、残った連中のレベルが高いので、レポートを課しました。学生の了解は得ていますので、ここに掲げます。哲学科の学生でない事を鑑みれば、よく書けている(のもある)と思うのですが。それに、学部の二年生でここまで読めれば(出席も皆勤じゃないし/笑い)、立派なもんですよ。

なお、レポートの締切りは2月16日(水曜日)です。電子メールじゃなくて、紙でも良いです。



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