- 1998年度のまとめ
真理条件による言語像から、言明可能条件による言語像へ
[詳細] 規則は行為の仕方を決定できない
- 第4章「他人の心」
本章を読まずに授業を終えてしまった昨年度は、まことに申し訳なかった。本章こそが、本書の中心です。
- ともかく、結論。本書258,259頁を読むこと。そして、268Pから、引用します。
私が思うに、ウィトゲンシュタインはこれらの箇所において、他人に対する我々の振る舞いを彼の「内的状態」についての信念によって説明する、あるいは正当化する、如何なる試みも拒否しているのである。そのような「説明」は、本論において論じられた私的規則に関するあらゆる問題のみならず、この補遺で詳しく述べられた他人の心に関するあらゆる問題をも、引き起こすであろう。更に、ウィトゲンシュタインは、既に述べるように、そのような「説明」は正しい考え方の順序を逆転している、と見なしている、と思われる。
それにもかかわらず私は、ときおり聞く次のような結論を受け入れたいとは思わない。それは、ウィトゲンシュタインによれば、私自身の痛みの内的経験および感覚を想像する私の能力は、他人に感覚を認めるという「言語ゲーム」を私がマスターする事に関し、実際上如何なる役割をも演じない、という事であり、同じ事であるが、決して痛みを経験した事がなく、また、痛みを想像する事が出来ないにもかかわらず、しかし、他人に痛みを認めるための通常の振る舞いの基準を学習した人は、私と全く同様に痛みという語を使うのだ、という事である。
この点に関して重要な箇所は『探究』の第三〇〇節である。そこにおいて、ウィトゲンシュタインは言っている。『振る舞いの像(Bild)のみならず、痛みの像もまた、「彼は痛みを持っている」という言葉で行なわれる言語ゲームの一部である―――と人は言うかもしれない。……しかしそれは誤解である。……痛みの想像(Vorstellung)は像ではない。そしてこの想像は、この言語ゲームにおいては、我々が像と名づけるであろうものによって置き換える事は出来ない。―――痛みの想像はたしかに、ある意味で、この言語ゲームに入り込む。ただし像としてではなしに。』
私は、ウィトゲンシュタインがここで「Vorstellung(想像)」と「Bild(像)」――英訳者アンスコムはそれぞれに「image」と「picture」を当てた――によって意図した対照を、実際には十分に理解してはいない。(高橋・中略)しかし、私は、彼が考えていた事について、少なくとも以下のような部分的な理解は持っている。ここにおける「像」という語のウィトゲンシュタインの使用は、『論考』における「像」という語の彼の使用――像は現実と比較されねばならない。そしてこの事は、外的世界はその像に対応している状態にある、という事である。――と関係している。
そうだとすれば、痛みの想像を像として使用するという事は、私自身の痛みをモデルにして他人の痛みを像として想像し、そして、他人についての『彼は痛みを持っている。』という私の言明が真であるのは、まさにその言明がその像としての想像に「対応している」がゆえである、と考えようと試みる事である。(中略)
しかし、ウィトゲンシュタインが、他人の痛みを自分自身の痛みをモデルにして想像するという試みの中(第三〇二節)に見ていた問題が、もし擬似問題ではなく真に問題であるとそれば、その問題は、痛みの「想像」を「像」として使用するという試みを排除してしまう。なぜなら、想像を像として使用するという事は、その想像を適切に使用すれば、私は、他人について『彼は痛みを持っている。』と言うための、一定の真理条件を与える事が出来、そして、『彼は痛みを持っている。』というその私の言明が真であるか偽であるかを決定するためには、その真理条件が「現実と対応している」かを問いさえすればよいのだ、と思う事であるから。
ウィトゲンシュタインは、真理条件と像についてのこのような型にはまった考え方を、『探究』において拒絶しているのである。彼が、『探究』で言うところによれば、我々は、真理条件を求めるべきではなく、他人に感覚を認めるときの状況と、他人に感覚を認める事が我々の生活において演ずる役割を、求めるべきなのである。
しからば、如何に「痛みの想像は」――「像として」ではなしに――「たしかに、ある意味で、この言語ゲームに入り込む」のか。私の示唆したい事は、像として、ではない痛みの想像は、痛みにもだえている人に対する私の態度の形成と質に入り込む、という事である。私自身痛みを経験し、そしてそれを想像する事が出来る私は、痛みにもだえている人の状況に私自身を想像的に置くことが出来る。そして、そうすることが出来る私の能力が、その人に対する私の態度にある質を(例えば、機械とは違う)与えるのであるが、しかし、もし私が、いつ他人に痛みを認めるのか、そして他人を如何に助けるのか、についての一組の規則を、単に習っただけであるならば、痛みにもだえている人に対する私の態度には、その質が欠けているであろう。実際、痛みにもだえている人の状況に私自身を想像的に置くことが出来る、という私の能力は、その人の心的状態のある表現を同定する私の能力に入り込んでいる。――即ち、そういう私の能力は、心的状態のある表現を、それに関する別個の物理的記述を通して、ではなしに、端的に、痛みにもだえている表現として、同定することを可能にするのである。更にまた、痛みにもだえている人に対する私の態度の形成において独特な役割を演じているのは、彼らは「私が感ずるものと同じ物を感じている」という私の「信念」ではなく、「彼の状況に私自身を置く」という事を想像することが出来る、という私のこの能力なのである。ウィトゲンシュタンの謎めいた言葉――痛みの想像たしかに、ある意味で、この言語ゲームに入り込む。ただし像としてではなしに。――に関する私のこのような示唆がもし正しいとすれば、ウィトゲンシュタインは『探究』において、彼が『哲学的考察』において表明した思想――『もし私が他人について、彼は痛みを持っている、という理由で同情するとすれば、たしかに私は痛みを想像している。しかし私は、私が痛みを持っている、という事を想像しているのである。』(第六五節)――と、なお近い思想を持っている事になる。
さきに論じたリヒテンベルク的-ヒューム的問題――「心」とか「自己」とは何か、「心」とか「自己」にとって、感覚を「持っている」とはどういう事か、身体にとって、「心」とか「自己」を「持っている」とはどういう事か――についての、リヒテンベルク的-ヒューム的議論――我々はそのような諸概念は持ってはいない――は、他人の「自己」が「私」の身体の場所に痛みを「持つ」、という事を想像しようとする事を妨げるが、しかし勿論、私が、『私は痛みを持っている。』と言う事によって通常表現しようとしていることを意味している、という意味で、「痛みがある」という事を想像する事は、妨げられない。そして私が痛みにもだえている人に同情するとき、私は、「彼の状況に私自身を置き」、そこに、痛みがあり、痛みを表明している私自身を想像するのである。
(中略。「他人の心」の議論の仕方は、「規則・私的言語」の議論の仕方と、パラレルであり、懐疑的解決を与えたこと、それは今度は、独我論――私自身の心とは別の心で、それ自身の感覚と思いを持っているのが存在する、という考えは無意味、という見解――である。独我論の議論は、正しいが何も得るところが無い、と批判する)
引用、やたら長いが、とりあえず後半部分のほう。客観的事実(=像)として人の痛みを感じるモデルは、人間社会を思うに、じつに冷えた冷たい社会である。それに対して、言明可能条件的言語像から来るモデルは、よりあたたかな社会とも言えるだろう。
このへん、ぼくはめっちゃくちゃ感動したねえ。たぶん、二十世紀最大の思想的課題は、唯我論――わたしの考えは私にしか分からない、という見解――であろう。共同体のあり方の問題でもある。この問題は、ニーチェもハイデガーも、超えられなかった問題だと思う。後期ウィトゲンシュタインから見下ろせば、ニーチェはひとりよがりな超人主義を提示しただけだし、ハイデガーはナチという共同体的同一性に回収されてしまった。個/社会という図式から逃れていない。
ウィトゲンシュタンは違った。彼のモデルは、人は他人に同じ物を見出すから理解するのでもなく、また、人は他人と同じ土俵を持っているから理解するのでもない。アリストテレス以後、「共通感覚」みたいな実在としてしか捕えられなかったものとは、まったく別な方向性を示してくれた、と思えた。
- 予備的な話
しかし、2000年現在というか、10年くらい前からクリプキの議論はもはや相手にされておらず、クリプケンシュタインなどと愚弄されているという。
- 『現代思想』1998年1月号 ウィトゲンシュタイン特集号・青土社
- 飯田隆『ウィトゲンシュタイン』「現代思想の冒険者たち」第7巻 1997年・講談社
うーむ、分からない。哲学も、なんか瑣末主義に走ってんじゃないかあ(笑い)。
それから、クリプキ『名指しと必然性』を読んだ(でも、難しかった)。この本は、名指しに於ける絶対性回復の試みみたいに了解されてる本らしい。「本質主義的形而上学を現在哲学の中に復権せしめた」(訳者解説)のだそうで。ほんとかねえ(たぶんほんとなんでしょうねえ)。
しかし、「指示が連鎖することで、名指されるものを確定できる」なんて発想は、まさに形而上学とか実在論とか考える以前に、まさに状況と有用性の如何に関わる意味の成立というクリプキ的「言語ゲーム」論にパラレルなんじゃないかなあ、とか思うけど。
しかしまあ、それらはともかく、この『名指しと必然性』、「2000年度はこれを読もう」とか思ってたんですが、美大の授業の教材になるようなものではないことだけは分かりました(笑い)。
- 評価など
受講生は6人くらい。評価は授業中の発言のみ。レポート提出は自由、としました。今年は、一人だけでした(ちょっと悲しい)。でも、授業は面白かったです。
レポートを紹介します。
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油画2年6番 岸江美智子ある人は言う。「私は言葉にできないから絵を描くのだ」。しかし、言葉で分節されているものがその人の見ている世界なのだとすれば、そもそも言葉にできないことなど存在しうるであろうか。私たちは言葉によって考えさせられているのだし、言葉にできないことというもの「言葉にできないこと」として言葉にすることによって認識している。以前、私が感じていた世界は、そのような限定づけられて縛られた世界であったのかもしれない。そこにあったのは、まさに、規則が行為の仕方を決定しているかのような世界であった気がする。『ウィトゲンシュタインのパラドックス』は、私の前に新しい世界を提示してくれた。
そこで表わされていることは、私の頭の中にある如何なるものも何を表しているのかについて何も決定はしない、ということであった。我々は常に何の根拠もなしにそれを行っているが、にもかかわらずそれは成立している。我々は「言語ゲーム」を行っているのだ(ウィトゲンシュタインは、そういうあり方を「言語ゲーム」と呼んでいる)。
「食料品店へ行き、店の人に、リンゴを五つ買いたい旨を告げる人は、店の人は彼がするように教えるのであって、そうではない何か奇妙な規則などに従って教えるのではない、ということを期待している」ように、「我々の全生活は、そのような数限りない人間同士の交渉に依存し、そしてまた、他人について、彼らはある概念とか規則とかをマスターしているのだ、とする『ゲーム』――それは、我々は、彼らも我々と同じように振る舞うと期待しているのだ、という事を示している――に、依存している」のである。
ここには、ある役割と有用性があり、だからこそ人はそれを行うのだろう。我々は何の躊躇もなくそれを行ない、そしてその結果において一致する。この反応の一致と生活の形式を共有していることは、「言語ゲーム」を成立させている重要な要素である。そして、我々は共通の概念を共有しているがゆえに共通の答えを共有するということではなく、そこには事後的に「一致している」という生の事実があるだけなのだ。その事実に支えられて、私たちは、そこにはじめから規則が存在したかのように考えるだけなのである。そして、「言語ゲーム」における「規則」は、その状況により様々に変化する曖昧なものであり、そこの明確な境界線をもっていない言語像こそ、ウィトゲンシュタインが提示しているものである。
第四章においては、他人の心に関することが述べられている。我々は、他人に感覚を認めるが、それを彼の内的状態によって説明しようとすれば、神秘的なものになってしまう。また、自分自身をモデルにして他人の感覚を想像しようとすれば、本質的に理解不能なものになってしまう。ウィトゲンシュタインは、ここでもふたたび、懐疑的パラドックスを提起するのであるが、それは次のようなものであった。「そもそも、私自身の心とは別の心で、それ自身の感覚と思いを持っているものが存在する、という考えは無意味であると思われる」。そして、ここでもまた順序の逆転により、そこに懐疑的解決が与えられる。「私が彼について、心を持っている、そして特に、痛みにもだえている、と考えている、と言われ得るのは、彼に対する私の態度と振る舞いによってなのであり、その逆ではないのである。」「我々は他人に、痛みを認めるが故に同情するのではなく、逆に、我々は他人に、同情するがゆえに、痛みを認めるのである。(もっと正確に言えば、痛みにもだえている人に対する我々の態度は、彼に対する我々の道場とかそれに類する態度によって、彼の心に対する態度である、という事が諦らにされるのである。)」
それではなぜ、我々はそのように感じるのか。それは我々が人間であるということであるだあろう。おそらくそれは原初的なものであり、我々がそういう能力を持っているということなのだ。第三章で述べられている「相手に期待している」ことや、言語ゲームの原初的なものとして示されていることから考えても、ウィトゲンシュタインの思想からは人間的なものが感じられ、他人とのかかわりというものを考えさせられる。そして、そこでは内観的なものが否定されているわけではなく、神秘的だと思われることが述べられていないだけに、本質的であるように感じられた。
最後に、美術の分野に関して、これらのことを当てはめてみると、私はある作家の姿を思い浮かべるだろう。あまり記憶がたしかでないため間違って引用するかもしれないが、彼女はおおよそ次のようなことを言っていた。
人は、私の作品がダンテの「神曲」をあらわしているという。
しかし私は何も意味していない。
そこにあるものは感覚的なものであり、エモーションである。
作品ができ、その結果世界は分節される。私がそこから感じることは、彼女はまさにそう行動したのであり、そして共同体に言明されることにより、それが規則に従っているかどうかが問われたのだ、ということだ。画家が絵を描く時、そこで彼は何かを表しているのかもしれない。、しかし、それが他者の側にどれだけ正確に伝わるのだろうか。それは曖昧なものであり、その作品の価値も、結局は他者の言及により決まっていくのではないかと思う。人がそこから何かを感じるとすれば、それもまた、言語ゲームの原初的な能力のようなものに依存しているのではないだろうか。そして、芸術の世界においても、そこに何かがあるから人はそこから何かを感じるのではなく、人がそう感じるから、そこに何かがある、ということなのである。
【高橋評】 2000-06-15 (Thr)
成績は既に付けてあります(当然)。もちろん、文句なくAです。
ただし、レポートについては、授業中のあなたの発言の良さ、鋭さなどを見ているにつけ、「もう、出しただけでOK。分量だけでOK」式には判断せず、こちらも正面切って批評しますよ。
「世界の根拠の非在」式の「ニーチェ=ポスト構造主義」的な理解は、僕らが学問として習ったのに対して、多分今日の学生はもはや感覚的に身についているのだろう、と思う。しかし、単純に感覚的に身についているだけでは、ある日、コロっと新興宗教だとか、宇宙の電波の指令だとかに走ってしまう可能性が有る。丁度、学生運動やってた連中が転向して保守や右翼になるように。僕の授業に対する僕の思い入れがあるとすれば、ほぼそのそこに尽きます。その点、岸江さんのように、きちんと言語化している姿勢は望ましいものです。
ただまあ、もうちょっと整理が必要だなあ。キーワードとして「真理条件」「言明可能条件」なんかは在ったほうがいいし、「言語ゲーム」についても、もっときちんと説明したほうがよいと思います。レポートでは、単純に「共同体主義」「社会的規制」のようには書かれていないので、それは良いが、しかしいまひとつぴりっときませんなあ。
しかし、冒頭の「言葉にできないこと」の問題は、ちょっと感動しました。ぼく自身かつて最高の思想と考えていたソシュール=丸山圭三郎の世界観――言語(シニフィアン、およびシーニュ)によって分節される世界像――に鋭くメスを入れましたね。そうか、丸山の場合その世界分節は「たわむれうごきつつある」世界なんだが、それでもウィトゲンシュタインから見れば、まーだまだ、シーニュ(記号)のイデア論なのかもしれないねえ。(でも、多分、岸江さんの理解と僕の理解は違うと思う)
なお、『ウィトゲンシュタインのパラドックス』を読まずに、このレポートだけを読む人は、結論部分で急に「それが人間だ」式な安易な結論に陥ってるように見えるかも知れない。これは、彼女のために弁明しておくが、書き方がちと唐突なためそんな風に感じられるかもしれないけど、本書第四章はまさに「倫理学」であり、人間のあたたかな生き方を問題にしているのです。だからこれでいいのです。
しかし、最後に引用した女性芸術家の言葉などは、たぶん、ふつうなら単純な反イデア論で理解されてしまうだろう部分、ウィトゲンシュタインで解釈しなおしたところなんかは、まあ、よいと思います。(ところで、誰?)
ただし、ウィトゲンシュタイン(=クリプキ)の真骨頂は、単純に「根拠は事後的に見出されるに過ぎない」という事を指摘している点にあるのではないだろうと思うのですよ。これだけなら、フランス現代思想なんかで十分である。
以下、ちょっと書かせてもらいます。
大雑把に言って、ニーチェ=ポスト構造主義的な「世界の根拠の非在」、「文化相対主義」なんかが投げっぱなしで無責任なのに比べて、ウィトゲンシュタイン(=クリプキ)が素晴らしいのは、その先まで見通してくれていることです。
ポスト構造主義の思想は、あらゆる構造さえも流動的であり、しかも(なのに)資本主義は壊れないシステムであり、だから結局は世界はケセラセラ……的な悲観主義に陥る。ニーチェみたいに「しかし、そこを、だからこそ強く生きろ」みたいに言ったって、みんなが強く生きれるわけではない。加えて、「強く生きる」という思想はあくまで個人のものであって、他者や共同体の問題としては提示されていない。一人勝手に強く生きてるやつは、つまはじきにされてお仕舞でしょうね。
ウィトゲンシュタイン(=クリプキ)の「その先」とは、「世界の根拠の非在」を、困難な二つの面を乗り越えていることであろう。一つは、唯我論に陥らないこと。もうひとつは共同体主義に陥らないこと。おそらくは、この古くて新しい問題に解決を与えている。(ニーチェ=ポスト構造主義は、社会論的には共同体主義に亜流であり、道徳哲学的には唯我論から抜け出せてない。)
ウィトゲンシュタインのやり方の一つには、アングロサクソン系特有のものではあろうが、「自己」や「意識」という観念論を、懐疑論的議論をぶつけることでまず排除している。これらの観念論的概念無しで説明(証明!)しうる世界を作り上げている。
同時に、アングロサクソン的な数学主義というか関数主義というか、事実と言葉とが対応するという言語(=世界)像――すなわち『論理哲学論考』の――をも捨てた(懐疑論をぶつけることで)。
ウィトゲンシュタイン(=クリプキ)が見出した(証明した)可能性は、人が行為を行うことや、他人の気持ちを分ることにおける、イデア論的神秘主義の解体と、同時に、それにもかかわらず世界を成立させることが出来る(しかも、思いやりのある温かな社会)、という点である。
本当なら、フランス現代思想も、「それにも関わらずコードは厳然として存在している(ある一定の条件の下で)」という現実を直視してたはずだし、ソシュールの言う「言語の恣意的必然」なんて概念も、そういうぎりぎりのところを行ってたはずなんだが、なんか、ノーテンキな放任主義みたいに捕えられるか、逆に、資本主義は不滅です悲しい、的な悲観主義に陥ってたように思う。
以上、評価終り。
(多分つづく)