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公開日:1999-4-12
名簿を拝見するに「友の会」の中でやまぐり文庫を実際に知っているのは、創設された高橋実先生を除けば、私くらいではないかと思う。今では記憶もあやふやになりかけているが、私にとって貴重な体験であり、前々からどこかに記しておきたいと思っていた。
やまぐり文庫はミノル先生(と呼ばせて頂く)の私設子供図書館である。一九七一(昭和四六)年ごろ、私が小学二年のときに始ったと思う。毎週土日曜日が開館日で2〜3冊ほどを貸してもらい、翌週にはまた別の本を借りてゆく。もちろん無料である。
個人毎の貸出書履歴カードもあって(厚紙にガリ版刷だったはず)、一冊毎に書名を記していたと思う。一九七二年二月二十日が私の満八才の誕生日で、この日は日曜日で、ちょうどカードが一杯になって新しいものに更新したが、ミノル先生が名前や年齢を書いてくれて「歳は幾つだ」と聞かれ「今日が誕生日らすけ八歳らて」みたいな事を言った記憶が妙に鮮明に残っている。外はもさもさと雪が降っていた。
やまぐり文庫の会員は、楢沢・上岩田を中心に新町・相野原・太郎丸・諏訪井あたりまで拡がっていた。多いときには100人はいたのではないか。この地区は、もともと結城野小学校区であったが、私が一年に上がる時(一九七〇年)に廃校となり、楢沢は中里小学校へ、上岩田の連中は上小国小へと分れた。また当時は若草保育所しかなかった時代で、小学校に上がる前にそこで小国の子供は顔見知りになるのだが、小学校入学で分れてからもやまぐり文庫で顔を合せたりすることになり、子供の教育に必要な、校区外の付合いができる場でもあった。もちろん、ここに来ない児童もいたが、私は「こねがんはだめらね」などと思っていた。
この七二年の秋だったと思うが、文庫名のねらい通り、栗ご飯の会が開かれた。子ども等は一合の米を持ってきて、ミノル先生のところの栗で栗ご飯を炊いてもらったのである。ほか季節毎にプレゼント交換会みたいなこともやったように思う。50円程度のプレゼントを持ち寄って、車座になって歌を歌いながらプレゼントを順繰りに廻し、歌が終った段階の手元の物をもらえる式のやつである。その頃の私は、座興にミカンを丸のまま飲込んで見せたようなオッチョコチョイな子どもだった。
下村だかにそろばん塾があって、ここも土日開講だった。しばらくするとそこへ行き出したためにやまぐり文庫をやめる子どももいた。私はソロバンなんざと思っていた文系な子どもでやまぐり文庫派だった。
やまぐり文庫の蔵書は絵本中心であった。「トッチくんのカレーようび」「のこぎりざめととんかちざめ」(ちょっとうろ覚え)など不思議な本だった。ほかに「モチモチの木」や「エルマーの冒険」などもここで借りて読んだはずである。
逆に、エジソンやリンカーンと言った伝記類、少年探偵団シリーズのような児童小説などはあまり無かったと思う。私の読書興味としては、絵本中心というのはすこし物足りない気もしていた。だが、今思うとその文学性の高さ、絵画表現を伴う総合芸術性(ちょっと大袈裟か)を理解させようとした、志の高い図書館だった。感想文大会のような事も一回やったような気もするが、私も大したものを書いたとは思えないし、栗ご飯やプレゼント会のほうが面白くて、児童の意識はなかなかそちらにまでは達しなかったように思う。だが、ミノル先生にしてみれば地域に根差した国語教育の一環でもあったはずである。
加えて、やまぐり文庫は私費で本を揃えて子どもに無料で貸出すという文化的な運動体であった。江戸時代など本が貴重な時代、それぞれの土地の蔵書家は、私設図書館の役割を果した。新潟県下でも下越の市島家などはその好例である。私や私の仲間はそうした江戸時代の読書空間を研究対象の一つとしている。全国的にそれがどれほどの展開を持っていたのかはまだ全然分からない段階だし、私等もほんの数例を調査しているに過ぎないが、一般的に言えるのはそこは本を囲んだ文化サロンであり、村中の噂から江戸の芝居話まで、ちょっと高級な部類では詩歌や俳諧に興じたり時には天下国家を論じる場でもあった。もっとも、読み書きを教えた寺子屋は別にしても、江戸時代に子ども対象の図書館はほとんど無かったろう。また昭和四十年代に、全国的に見ても私費を投じた子供図書館の例があったとはあまり思えない。だが、小国にはそれがあった。
今では違うと思うが、当時の小国は娯楽や文化施設の揃った土地ではないし、貸本屋はおろかまともな新刊本屋さえ無かった。そんな中で、こうした私設図書館があり、それを作った人がいたというそれ自体が稀有なことである。私がこうした環境の中で育つことができたのは、当時は全然分かっていなかったが、実に幸せなことである。思えば、いま現在国文学研究を自分の仕事にしている身としても、数年の経験とはいえ、やまぐり文庫で得た影響は大きい。新しい『へんなか』を読むたびにいつもやまぐり文庫を思い出しては、その歴史もこの本の中に記されるべき価値のあるものだと思っていた。ミノル先生にしてみればおもはゆい面もおありかとも思うが、具体的資料をもとにどこかに書留めておくことはできませんか。蔵書の冊数や種類、会員数など、そうした資料は残ってらっしゃいませんか。
一九七四年すなわち僕が四年に上がった年の記憶はあまりない。しばらくぶりで行って(会員の中心も私の下の世代になっていたと思う)新しい本を見て蔵書傾向が変っていたことに気付いたのが、その頃だったかもしれない。既に私より上の学年はほぼ「卒業」した感じになっていた。そしてこの後しばらくしてミノル先生は異動で一時小国を離れられた。そのために、やまぐり文庫は休館となり、蔵書は中里・上小国両校へ寄贈された。やまぐり文庫旧蔵本を初めて見付けた時に、一つの場の喪失にうつろな悲しい気分になったことを今でもよく覚えている。それは、初夏の日差しに照らされて妙に明るかった中里小の図書室での記憶であった。
たかはし・あきひこ 「友の会」会員
金沢美術工芸大学助教授 (楢沢出身・昭和三九年生れ)
初出:「小国芸術村」友の会編『友の会だより』改定3号 1999-2-1発行
[HTML補記]1999-04-12
この『友の会だより』で、僕の文章を受けて、ミノル先生が、当時の資料等により、「子供図書館『やまぐり文庫』創設の頃」と題して、くわしくその沿革を記してくださいました。で、僕の記憶が随分間違っていることも知りました。おはずかしい。「100名は居た」などと書きましたが、30人くらいだったようです。
ミノル先生のエッセイ全文をご紹介したいくらいですが、ちょっと入力の手間を惜しんでしまいます。長いのです。
やまぐり文庫の最後のお別れ会の際の写真が掲載されています。なぜか、僕は居ないのですが、実に懐かしいので転載させて頂きます。
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あははー。見事にみんな、田舎の子ですね〜。
左奥でメガネをかけてらっしゃるのが、高橋実先生。右奥の女子4人と、その左であさってのほうを向いてるワルガキが、僕の同級生でした。ただし、小学校は別。本文にも書いたように、保育園で顔を知り、小学校で別々。中学に上がると一緒になった、というパターンです。ほかの子供は、小学校も学年も違うせで、2人くらいしか分からない。
あー、懐かしいので、いろいろ恥ずかしいことも書いちゃおかな(笑)。僕は、案外マセたガキで、保育園の頃は、右から4番目の恵理子さんがどうやら好きだったらしい。らしい、というのは、自分ではあんまりよく分かってないのですよ。僕が随分積極的だったらしくて、中学になってまでいろんなやつらに冷やかされたが、実はそれほど好きだったわけじゃないのですよ。でもまあ、この写真ウツリはいまいちだが、たしかにこういう田舎の子の中で、小学3年生とは思えぬちょっと美少女っぽいのだよ。右から3番目が恵美子さん、2番目が真由美さん。基本的には、キツネとタヌキなどと言ってからかっていたが、中学生になるころには、ふたりとも美しい娘サンに成長してましたよ、なはは(なんか、おやじっぽい言い草)。この二人のことは、実は好きだったなあ(なはは)。中学2年のとき、真由美さんと恵美子さんといっしょにクラスになったのだが、その頃はもう、僕の感情をセーブできるくらいには育っていたが、真由美ちゃんは可愛かったなあ(基本的にタヌキ系が好きなんだな)。恵美子さんはピアノが上手で、合唱なんかの際の伴奏はいつも彼女だった。中学校の頃には、竹宮恵子の少女マンガの少年みたいな顔してましたよ。やっぱりこっちも好きだった、はは。一番右の子は、クラスが一緒になったこともないので、あまり記憶が無いが、この写真で見る限り、一番まともそうな顔に写ってますな。
ここまで書けば、一応、ワルガキの丈久君についても触れておくか。保育園の頃には、結構いじめられた記憶が有る。やまぐり文庫でも、僕はその記憶からいつもタジタジだったように思うが、中学になってみれば、僕のほうが勉強も運動も圧倒的に上だった。なんだか恨みがましい言い草ですな。ともかく、当時は、恐かったのよ。
中学卒業以来、まったく会ってないが(真由美さんには、大学のころ実家近くのバス停で一度だけ会った。話すればよかった)、みんな元気かな。参考までに書いておくと、中学の頃は、好きな女の子は、めちゃくちゃ一杯いました(笑)。そのわりに、「これは!」と思っても、行動に移したりすると、そういうのは失敗してました。以上、まあ時効時効。