尉翁 千歳 三番叟

〈初日〉 翁「とう/\たらり/\ら。たらりあが りらゝりとう。地「ちりやたらりたらり ら。たらりあがりらゝりとう。翁「処千代 までおはしませ。地「我等も千秋さむら ふ。翁「鶴と亀との齢にて。地「幸ひ心に任 せたり。翁「とう/\たらり/\ら。地「ち りやたらりたらりら。たらりあがりらゝ りとう。千歳「鳴るは瀧の水。/\。日は 照るとも。地「絶えずとうたりありうとう とうとう。千歳「絶えずとうたり常にとう たり。千歳之舞。千歳「処千代までおはしま せ。地「我等も千秋さむらふ。千歳「鶴と 亀との齢にて。処は久しく栄え給ふべし や。鶴は千代経る君は如何経る。地「萬代

こそ経れ。ありうとうとうとう。千歳之舞。 翁「総角やとんどや。地「尋ばかりやと んどや。翁「座して居たれども。地「参らう れんげりやとんどや。翁「松やさき。翁や 先に生れけん。いざ姫小松年くらべせ ん。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。万歳楽と諷ふた り。又万代の池の亀は。甲に三極を備へた り。渚の砂。索々として朝の日の色を朗 じ。瀧の水。冷々として夜の月鮮かに浮ん だり。天下泰平国土安穏。今日の御祈祷 なり。在原や。なぞの。翁ども。地「あれは なぞの翁ども。そやいづくの翁とうと う。翁「そよや。翁之舞。翁「千秋万歳の。歓 の舞なれば。一舞まはう万歳楽。地「万歳 楽。翁「万歳楽。地「万歳楽。

〈二日目〉 翁「とう/\たらり/\ら。たらりあが りらゝりとう。地「ちりやたらりたらり ら。たらりあがりらゝりとう。翁「処千 代までおはしませ。地「我等も千秋さむら ふ。翁「鶴と亀との齢にて。地「幸ひ心に任 せたり。翁「とう/\たらり/\ら。地「ち りやたらりたらりら。たらりあがりらゝ りとう。千歳「千歳ましませ千歳ましま せ。松の梢に。地「鶴や住むなり。あり うとうとうとう。千歳之舞。千歳「鶴や住む なり鶴や住むなり。千歳「君が千歳を経ん 事も。天つ乙女の羽衣よ。千歳ましませ 松の梢に。地「鶴や住むなり。ありうと うとうとう。千歳之舞。翁「総角やとんど や。地「尋ばかりやとんどや。翁「座して居 たれども。地「参らうれんげりやとんど や。翁「松や先。翁や先に生れけん。いざ

姫小松年くらべせん。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。万歳楽と諷ふた り。又万代の池の亀は。甲に三極を備へ たり。渚の砂。さく/\として朝の日の 色を朗じ。瀧の水。冷々として夜の月鮮 かに浮んだり。天下泰平国土安穏。今日 の御祈祷なり。在原や。なぞの。翁ども。 地「あれはなぞの翁ども。そや何くの翁 とうとう。翁「そよや。翁之舞。翁「千秋万 歳の。歓の舞なれば。一舞まはう万歳 楽。地「万歳楽。翁「万歳楽。地「万歳楽。 〈三日目〉 翁「とう/\たらり/\ら。たらりあが りらゝりとう。地「ちりやたらりたらり ら。たらりあがりらゝりとう。翁「処千代 までおはしませ。地「我等も千秋さむらふ。 翁「鶴と亀との齢にて。地「幸ひ心に任せ たり。翁「とう/\たらり/\ら。地「ちり

やたらりたらりら。たらりあがりらゝり とう。千歳「万歳ましませ。万歳ましませ 巌が上に。地「亀や住むなり。ありうとう とうとう。千歳之舞。千歳「亀や住むなり 亀や住むなり。千歳「君が万代経ん事も。

天つ乙女の羽衣よ。万代ましませ巌が上 に。地「亀や住むなり。ありうとうとう とう。千歳之舞。翁「総角やとんどや。地「尋 ばかりやとんどや。翁「座して居たれど も。地「参らうれんげりやとんどや。翁「松

や先。翁や先に生れけん。いざ姫小松年 くらべせん。地「そよやりちや。翁ワカ「凡 そ千年の鶴は。万歳楽と諷ふたり。又万 代の池の亀は。甲に三極を備へたり。渚 の砂。索々として。朝の日の色を朗じ。 瀧の水。冷々として夜の月鮮かに浮んだ り。天下泰平国土安穏。今日の御祈祷な り。在原や。なぞの。翁ども。地「あれは なぞの翁ども。そやいづくの翁とうと う。翁「そよや。翁の舞。翁「千秋万歳の。歓 の舞なれば。一舞まはう万歳楽。地「万歳 楽。翁「万歳楽。地「万歳楽。 〈四日目〉 翁「とう/\たらり/\ら。たらりあが りらゝりとう。地「ちりやたらりたらり ら。たらりあがりらゝりとう。翁「所千代 までおはしませ。地「我等も千秋さむら ふ。翁「鶴と亀との齢にて。地「幸ひ心に任

せたり。翁「とう/\たらり/\ら。地「ち りやたらりたらりら。たらりあがりらゝ りとう。千歳「鳴るは瀧の水。鳴るは瀧の 水日は照るとも。地「絶えずとうたりあ りうとうとうとう。千歳「絶えずとうた り。常にとうたり。千歳之舞。千歳「君の千歳 を経ん事も天つ乙女の羽衣よ鳴るは瀧の 水日は照るとも。地「絶えずとうたりあ りうとうとうとう。千歳之舞。翁「総角やと んどや。地「尋ばかりやとんどや。翁「座し て居たれども。地「参らうれんげりやとん どや。翁「千早振。神のひこさの昔より。 久しかれとぞ祝ひ。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。万歳楽と歌うた り。又万代の池の亀は。甲に三極を備へた り。渚の砂。索々として朝の日の色を朗 じ。瀧の水。冷々として夜の月鮮かに浮ん だり。天下泰平国土安穏。今日の御祈祷な り。在原や。なぞの。翁ども。地「あれは

なぞの翁ども。そや何くの翁とうとう。 翁「そよや。翁之舞。翁「千秋万歳の。歓の舞 なれば。一舞まはう万歳楽。地「万歳楽。 翁「万歳楽。地「万歳楽。 〈法会舞〉 翁「とう/\たらり/\ら。たらりあが りらゝりとう。地「ちりやたらりたらり ら。たらりあがりらゝりとう。翁「処千代 までおはしませ。地「我等も千秋さむら ふ。翁「鶴と亀との齢にて。地「幸ひ心に任 せたり。翁「とう/\たらり/\ら。地「ち りやたらりたらりら。たらりあがりらゝ りとう。千歳「鳴るは瀧の水。鳴るは瀧の 水日は照るとも。地「絶えずとうたりあり うとうとうとう。千歳「絶えずとうたり。 常にとうたり。千歳之舞。千歳「処千代まで おはしませ。地「我等も千秋さむらふ。 千歳「鶴と亀との齢にて。処は久しく栄え

給ふべしや。鶴は千代経る君は如何経る。 地「万代こそ経れ。ありうとうとうと う。千歳之舞。翁「総角やとんどや。地「尋 ばかりやとんどや。翁「座して居たれども。 地「参らうれんげりやとんどや。翁「松や 先。翁や先に生れけん。いざ姫小松年く らべせん。地「そよやりちや。翁ワカ「凡そ 千年の鶴は。万歳楽を歌ふたり。又万代 の池の亀は。甲に三極を備へたり。渚の 砂。索々として朝の日の色を朗じ。瀧の 水。冷々として夜の月鮮かに浮んだり。 天下泰平国土安穏。今日の御祈祷なり。 在原や。なぞの。翁ども。地「あれはなぞ の翁ども。そやいづくの翁とう/\。 翁「そよや。翁之舞。翁「万歳の亀これにあ り。千年の松庭にあり。誠にめでたき 例には。石をぞ引くべかりける。地「君が 代は。翁「千秋万歳の。歓の舞なれば。一 舞まはう万歳楽。地「万歳楽。翁「万歳楽。

地「万歳楽。 〈十二月の往来〉 翁二人「とう/\たらり/\らたらりあが りらゝりとう。地「ちりやたらりたらり ら。たらりあがりらゝりとう。翁左「所千 代までおはしませ。地「我等も千秋候は ん。翁右「鶴と亀との齢にて。地「幸ひ心に任 せたり。翁二人「とう/\たらり/\ら。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあが りらゝりとう。千歳「鳴るは瀧の水。鳴 るは瀧の水日は照るとも。地「絶えずとう たりやりうとうとうとう。千歳「絶えず とうたり。常にとうたり。千歳「所千代 までおはしませ。地「我等も千秋候はん。 千歳「鶴と亀との齢にて。処は久しく栄 え給ふべしや。鶴は千代経る君は如何経 る。地「万代こそ経れ。ありうとうとう。 翁左「総角やとんどや。地「尋ばかりやとん

どや。翁右「やあ座して居たれども。地「参ら うれんげりやとんどや。左詞「やゝ尉殿に 申すべき事の候。右詞「そもやそも何条事 にて候ふぞ。左「かゝるめでたきみぎんに は十二月の往来こそめでたう候へ。右「そ れこそ尤もめでたう候へ。左「正月の松の 風。右「八絃の琴を調べたり。左「二月の霞 は。右「天つ処女の羽衣よ。左「三月の桃の 花。右「三千年も猶さかふる。左「四月の橘 は。右「常世の国もかはらじ。左「五月の菖 蒲草。右「大御殿に葺きたり。左「六月の氷 は。右「僊のつたへなりける。左「七月の梶 の葉は。右「幸をもとむる種とかや。左「八 月の月はそも。右「尽きせぬ秋と照すな り。左「九月の菊の花。右「老いせぬ薬なる かも。左「十月の竜胆草は。右「うち日さす なへゑまはし。左「十一月の梅の花。右「新 嘗まつる心葉。左「十二月のみ雪は。右「豊 年しらす祥瑞。左「やあ千歳々々。右「ちと

せの千歳。左「やあ万歳々々。右「よろづよ の万歳。地「御たゝはします。御貢の御宝。 かぞへてまゐらん。翁ども。地「あれは何 所の翁ども。そやいづくの翁とうとう。 翁二人「そよや。二人「千秋万歳の。祝の舞 なれば。一舞まはう万歳楽。地「万歳楽。 翁「万歳楽。地「万歳楽。 〈父尉延命冠者〉 父尉「あれはなぞの小冠者ぞや。地「釈迦牟 尼仏の小冠者ぞや。生れし所は〓{新字源:2391 タウ}利天。 父尉「育つ所は鼻が。地「そのましまさば。 とくしてましませ。父の尉親子と共につ れて御祈祷申さん。父尉「一天雲治まつて 日月の影明し。雨うるほし風穏かに吹い て。時に随つて旱魃。水損の恐更になし。 人は家々に楽の声絶ゆる事なく。徳は 四海にあまり。悦は日々に増し。上は五 徳の歌を諷ひ舞ひ遊ぶ。そよや悦に。又

悦を重ぬれば。ともに嬉しく。地「物見 ざりけりありうとう/\。 阿蘇宮神主友成 従者二人 住吉明神

ワキワキツレ二人、真ノ次第「今を始の旅衣。/\。日もゆ く末ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは九州 肥後の国。阿蘇の宮の神主友成とはわが 事なり。われいまだ都を見ず候ふほどに。 此度思ひ立ち都に上り候。又よき序なれ ば。播州高砂の浦をも一見せばやと存じ 候。道行三人「旅衣。末はる%\の都路を。 /\。けふ思ひ立つ浦の波。舟路のどけ き春風の。幾日来ぬらん跡末も。いさ白 雲のはる%\と。さしも思ひし播磨潟。 高砂の浦に着きにけり。/\。 シテツレ二人、真の一セイ「高砂の。松の春風吹き暮れて。 尾上の鐘も響くなり。ツレ二ノ句「波は霞の磯

がくれ。二人「音こそ潮の満干なれ。シテサシ「誰 をかも知る人に せん高砂の。松 も昔の友ならで。 過ぎ来し世 世はしら雪の。 積り/\て老の 鶴の。塒に残る 有明の。春の霜 夜の起居にも。 松風をのみ聞き 馴れて。心を友 と。菅筵の。思

を述ぶるばかりなり。下歌「おとづれは 松にこと問ふ浦風の。おち葉衣の袖そへ て木蔭の塵を掻かうよ。/\。上歌「所は 高砂の。/\。尾上の松も年ふりて。老 の波もよりくるや。木の下蔭の落葉かく なるまで命ながらへて。猶いつまでか生 の松。それも久しき名所かな。/\。

ワキ詞「里人を相待つところに。老人夫婦 きたれり。いかにこれなる老人に尋ぬべ き事の候。シテ詞「こなたの事にて候ふか 何事にて候ふぞ。ワキ「高砂の松とは何れ の木を申し候ふぞ。シテ「唯今木蔭を清め 候ふこそ高砂の松にて候へ。ワキ「高砂住 の江の松に相生の名あり。当所と住吉と は国を隔てたるに。何とて相生の松とは 申し候ふぞ。シテ「仰の如く古今の序に。 高砂住の江の松も。相生のやうに覚えと ありさりながら。此尉は津の国住吉の者。 是なる姥こそ当所の人なれ。知る事あら ば申さ給へ。ワキ「ふしぎや見れば老人 の。夫婦一所にありながら。遠き住の江 高砂の。浦山国を隔てゝ住むと。いふはい かなる事やらん。ツレ「うたての仰候ふ ふ心づかひの。妹背の道は遠からず。 ふ心づかひの。妹背の道は遠からず。 シテ「まづ案じても御覧ぜよ。シテツレ「高

砂住の江の。松 は非情のものだ にも。相生の名 はあるぞかし。 ましてや生ある 人として年久し くも住吉より。 通ひ馴れたる尉 と姥は。松もろ ともに。此年ま で。相生の夫婦 となるものを。 ワキ「いはれを聞 けばおもしろ や。さて/\さ きに聞えつる。 相生の松の物語 を。所に言ひ置 く謂はなきか。

シテ詞「昔の人の申しゝは。これはめで たき世のためしなり。ツレ「高砂といふは 上代の。万葉集の古の義。シテ「住吉と申 すは。いま此御代に住み給ふ延喜の御事。 ツレ「松とは尽きぬ言の葉の。シテ「栄は古 今相同じと。シテツレ二人「御代を崇むる喩なり。 ワキ「よく/\聞けばありがたや。今こそ 不審はるの日の。シテ「光和らぐ西の海の。 ワキ「かしこは住の江。シテ「こゝは高砂。 ワキ「松も色そひ。シテ「春も。ワキ「のどかに 地上歌「四海波静かにて。国も治まる時つ 風。枝を鳴らさぬ御代なれや。逢ひに相 生の。松こそめでたかりけれ。げにや仰 ぎても。言も愚やかゝる世に。住める民 とて豊なる。君の恵ぞ有難き。/\。 ワキ詞「なほ/\高砂の松のめでたきいは れ。委しく御物語り候へ。地クリ「それ草木心 なしとは申せども花実の時をたがへず。 陽春の徳を具へて。南枝花始めて開く。

シテサシ「然れども此松は。そのけしき長へに して花葉時を分かず。地「四つの時至りて も。一千年の色雪のうちに深く。または 松花の色十廻とも云へり。シテ「かゝるた よりを松が枝の。地「言の葉草の露の玉。 心を磨く種となりて。シテ「生きとし生け る。もの毎に。地「敷島の陰に。よると かや。 クセ「然るに。長能が言葉にも。有情非情 のその声みな歌にもるゝ事なし。草木土 砂。風声水音まで万物のこもる心あり。 春の林の。東風に動き秋の虫の。北露に 鳴くもみな。和歌の姿ならずや。中にも 此松は。万木に勝れて。十八公のよそほ ひ。千秋の緑を為して。古今の色を見ず。 始皇の御爵に。あづかるほどの木なりと て異国にも。本朝にも万民これを賞翫 す。シテ「高砂の。尾上の鐘の音すなり。 地「暁かけて。霜はおけども松が枝の。

葉色は同じ深緑立ちよる蔭の朝夕に。か けども落葉の尽きせぬは。真なり松の葉 の散り失せずして色はなほまさきのかづ ら長き世の。たとへなりける常磐木の中 にも名は高砂の。末代のためしにも相生 の松ぞめでたき。 ロンギ地「げに名を得たる松が枝の。/\。 老木の昔あらはして。その名を名のり給 へや。シテツレ二人「今は何をかつゝむべき。こ れは高砂住の江の。相生の松の精。夫婦 と現じ来りたり。地「ふしぎやさては名所 の。松の奇特を現して。シテツレ二人「草木心な けれども。地「かしこき代とて。シテツレ二人「土 も木も。地「わが大君の国なれば。いつま でも君が代に。住吉にまづ行きてあれに て。待ち申さんと。ゆふ波の汀なる海人 の。小舟に打ち乗りて。追風にまかせつ つ。沖の方に出でにけりや沖の方にいで にけり。中入間「。

ワキ歌(三人)待謡「高砂や。此浦舟に帆をあげて。 /\。月もろともに出で汐の。波の淡路 の島影や。遠く鳴尾の沖すぎてはや住の 江に着きにけり。はや住の江につきに けり。 後シテ出端「われ見ても久しくなりぬ住吉の。 岸の姫松幾世経ぬらん。睦ましと君は知 らずや瑞籬の。久しき世々の神かぐら。 夜の鼓の拍子を揃へて。すゞしめ給へ。 宮つこたち。地「西の海。檍が原の波間よ り。シテ「あらはれ出でし。神松の。春な れや。残の雪の浅香潟。地「玉藻刈るなる 岸陰の。シテ「松根によつて腰をすれば。 地「千年の翠。手に満てり。シテ「梅花を 折つて頭にさせば。地「二月の雪衣に 落つ。神舞「。 ロンギ地「ありがたやの影向や。/\。月す みよしの神遊。御影を拝むあらたさよ。 シテ「げにさま%\の舞姫の。声も澄むな

り住の江の。松影も映るなる。青海波と はこれやらん。地「神と君との道すぐに。 都の春に行くべくは。シテ「それぞ還城楽 の舞。地「さて万歳の。シテ「小忌衣。地「さ

す腕には。悪魔を払ひ。をさむる手には。 寿福を抱き。千秋楽は民を撫で。万歳楽 には命を延ぶ。相生の松風颯々の声ぞた のしむ。/\。 官人 従者 老人 高良明神 同従者

ワキ、ワキツレ二人次第「御代も栄ゆく男山。/\。名 高き神に参らん。ワキ詞「抑是は後宇多の院 に仕へ奉る臣下なり。扨も頃は二月初卯 八幡の御神事なり。郢曲のみぎんなれば。 陪従の参詣仕れとの宣旨を蒙り。唯今 八幡山に参詣仕り候。道行三人「四つの海。 波しづかなる時なれや。/\。八洲の雲 もをさまりて。げに九重の道すがら。往 来の旅もゆたかにて。廻る日影も南なる。 八幡山にも着きにけり/\。ワキ詞「急ぎ候 ふほどに。八幡山に着きて候。心静かに

神拝を申さうずるにて候。 シテツレ二人真ノ一セイ「神祭る。日も如月の今日とて や。のどけき春の。景色かな。ツレ二ノ句「花の 都の空なれや。二人「雲もをさまり。風も なし。シテサシ「君が代は千代に八千代にさゞ れ石の。いはほとなりて苔のむす。二人「松 の葉色も常磐山。緑の空ものどかにて。 君安全に民あつく関の戸ざしもさゝざり き。本よりも君を守りの神国に。わきて 誓も澄める夜の。月かげろふの石清水。 絶えぬ流の末までも。生けるを放つ大

悲の光。げにありがたき。時世かな。 下歌「神と君と道すぐに歩を。はこぶこ の山の。上歌「松高き。枝もつらなる鳩の 嶺。/\。曇らぬ御代は久方の。月の桂 の。男山げにもさやけき影に来て。君万 歳と祈るなる。神に歩を。運ぶなり神に 歩を運ぶなり。 ワキ詞「今日は当社の御神事とて。参詣の 人々多き中に。これなる翁錦の袋に入れ て持ちたるは弓と見えたり。そも何くよ り参詣の人ぞ。シテ「これは当社に年久し く仕へ申し。君安全と祈り申す者なり。 又これに持ちたるは桑の弓なり。身の及 びなければいまだ奏聞申さず。唯今御参 詣を待ち得申し。君へ捧物にて候。ワキ「あ りがたし/\。先々めでたき題目なり。 さて其弓を奏せよとは。私に思ひよりけ るか。もしまた当社の御託宣か。分きてい はれを申すべし。シテ詞「これは御言葉と

もおぼえぬものかな。今日御参詣を待ち 得申し。桑の弓をさゝげ申す事。即ち是 こそ神慮なれ。ツレ「其上聞けば千早ぶる シテツレ二人「神の御代には桑の弓。蓬の矢に て世を治めしも。直なる御代のためしな れ。よく/\奏し給へとよ。ワキ「げにげ にこれは泰平の。御代のしるしは顕れた り。詞「まづ其弓を取り出し。神前にて拝 み申さばや。シテ詞「いや/\弓を取り出 しては。何の御用のあるべきぞ。ツレ「昔 唐周の代を。治めし国のためしには。 シテ「弓箭を包み干戈を納めし例を以て。 ツレ「弓を袋に入れ。シテ「剣を箱に納むる こそ。ツレ「泰平の御代のしるしなれ。 ツレシテ二人「それは周の代これは本朝。名に も扶桑の国を引けば。地歌「桑の弓。取る や蓬の八幡山。/\。誓の海もゆたかに て。君は船。臣は瑞穂の国々も残りなく 靡く草木の。恵も色もあらたなる御神託

ぞめでたき。神託ぞめでたかりける。 ワキ詞「桑の弓蓬の矢にて世を治めし謂な ほ/\申し候へ。クリ地「そも/\弓箭を 以て世を治めし始と謂つぱ。人皇の御代 始まりても。即ち当社の御神力なり。 シテサシ「然るに神功皇后。三韓を鎮め給ひし より。地「同じく応神天皇の御聖運。御在 位も久し国富み民も。豊に治まる天が下。 今に絶えせぬ御調とかや。クセ「上雲上の 月卿より。下万民に至るまで。楽の声 尽きもせず。然りとは申せども。君を守 りの御めぐみなほも深き故により。欽明 天皇の御宇かとよ。豊前の国。宇佐の郡。 蓮台寺の麓に。八幡宮とあらはれ。八重 旗雲をしるべにて。洛陽の。南の山高み。 曇らぬ御代を守らんとて。石清水いさぎ よき。霊社と現じ給へり。されば神功皇 后も。異国退治の御為に。九州四王寺の 峯に於て七箇日の御神拝。ためしも今は

久方の。天の岩戸の神遊。群れ居て歌ふ や榊葉の。青和幣白和幣とり%\なりし 神霊を。シテ「うつすや神代の跡すぐに。 地「今も道ある政事あまねしや神籬の。 をかたまの木の枝に。金の鈴を結びつけ て千早ぶる神遊。七日七夜の御神拝誠に 天も納受し。地神も感応の海山。治まる 御代に立ち帰り。国土を守り給ふなる。 八幡三所の神託ぞめでたかりける。 ロンギ地「げにや誓も影高き。/\。この きさらぎの神祭。かゝる神慮ぞありがた き。シテ「ありがたき。千代の御声をまつ 風の。更け行く月の夜神楽を。奏して君 を祈らん。地「祈る願も瑞籬の。久しき 代より仕へてき。シテ「我は誠は代々を経 て。地「今此年になるまでも。シテ「生ける を放つ。地「高良の神とは我なるが。此御 代を守らんと。唯今こゝに来りたり。八 幡大菩薩の御神託ぞ疑ふなとてかき消す

やうに。失せにけりかき消すやうに失せ にけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「都に帰り神勅を。/\。悉く奏 しあげぐしと。いへばお山も音楽の聞 えて異香薫ずなり。げにあらたなる奇特 かな/\。 後シテ出端「もとよりも人の国より我が国。他 の人よりも我が人と。誓の末も明らけき。 真如実相の槻弓の。八百万代に至るまで。 動かず絶えず君守る。高良の神とは我が 事なり。地「如月の。初卯の神楽おもしろ や。シテ「謡へや謡へ日影さすまで。地「袖 の白木綿返す%\も。千代の声々。うた

ふとかや。神舞「。 ロンギ地「げにや末世といひながら。/\。 神の威光はいやまして。かくあらたなる 御影向。拝むぞ尊かりける。シテ「君を守 りの御恵。本より定ある上に。殊に此君 の神徳。天下一統と守るなり。地「げに げに神代今の代の。しるしの箱の明らか に。シテ「此山上に宮居せし。地「神の昔は。 シテ「久方の。地「月の桂の男山。さやけき 影は所から。畜類鳥類鳩吹く松の風まで も皆神体とあらはれ。げに頼もしき神 慮示現大菩薩八幡の神託ぞ豊なりける神 託ぞ豊なりける。 官人 従者 樵夫 樵夫 大伴黒主の神

ワキ、ワキツレ二人次第「道ある御代の花見月。/\。 都の山ぞ長閑けき。ワキ詞「そも/\これ

は当今に仕へ奉る臣下なり。さても江州 志賀の山桜。今を盛なる由承り及び候

ふ程に。唯今志賀の山路へと急ぎ候。 道行三人「春の色。たな引く雲の朝ぼらけ。 /\。長閑けき風の音羽山今朝越え来れ ばこれぞこの。名におふ志賀の山越や。 湖遠き。眺かな/\。ワキ詞「急ぎ候ふ 程に。江州志賀の山に着きて候。暫く此 処に候ひて花を眺めうずるにて候。 シテツレ二人真ノ一セイ「さゝ波や。志賀の都の名を留 めて。昔ながらの山桜。ツレ二ノ句「春に馴れ てや心なき。二人「身にも情の。残るら ん。シテサシ「山路に日暮れぬ樵歌牧笛の声。 二人「人間万事様々の。世を渡り行く身の 有様。物毎に遮る眼の前。光の陰をや送る らん。下歌「余りに山を遠く来て雲又跡を 立ちへだて。上歌「入りつる方の白波の。 /\。谷の川音。雨とのみ聞えて松の風 もなし。実にや誤つて半日の客たりしも。 今身の上に。知られたり今身の上に知ら れたり。

ワキ詞「不思議やなこれなる山賎を見れ ば。重かるべき薪に猶花の枝を折り添へ。 休む処の花の蔭なり。これは心有りて休 むか。唯薪の重さに休み候ふか。シテ詞「仰 畏つて承り候ひぬ。先薪に花を折る事 は。道のべの便の桜折り添へて。薪や重 き春の山人と。歌人も御不審有りし上。 今更何とか答へ申さん。ツレ「又奥深き山 路なれば。松も桧原も多けれども。取り 分き花の蔭に休むを。シテ詞「唯薪の重さ に休むかとの。仰は面目なきよなう。 シテツレ二人「さりながら彼の黒主が歌のごと

く。其様賎しき山賎の。薪を負ひて花の 蔭に。休む姿は実にも又。其身に応ぜぬ 振舞なり。許し給へや上臈達。ワキ「こは 如何に優るをも羨まざれ。劣るをも賎し むなとの。古人の掟は誠なりけり優しく も。古歌の喩の心を以て。今の返答申し たり。シテ「いや/\古歌の喩とやらん も。さら/\知らぬ身なれども。賎しき身 にも思ひよりて。ワキ「彼大伴の黒主が。 心を寄する老の波。シテ「和歌のうらわ の藻塩草。ワキ「かく喩へ置く世語の。 シテ「それは黒主。ワキ「これは誠に。シテ「さ まも賎しき。ワキ「山賎の。地「身にも応ぜ ぬ事なれど。許させ給へ都人。とてもの 思ひ出に花の蔭に休まん。実にや今まで も。筆を残して貫之が。言葉の玉のおの づから。古今の道とかや。/\。 クリ地「夫れ賢かつし時代を尋ぬるに。延喜 の聖代の古。国を恵み民を撫でて万機の

政を。治め給ふ。シテサシ「しかればその御 時に至つて。和歌の道盛んにして。古今 の詠歌を選び。地「二聖六歌仙を始として。 其外の人々は。野辺の葛のはひひろご り。林の茂き木の葉の露の。色に染み行 く歌人の心は花になるとかや。シテ「実に 埋木の人知れぬ。地「ことわざまでの情と かや。クセ「そも/\。難波津浅香山の。影 見えし山の井の。浅くは誰か思草の。露 往き霜来る色なれや。浜の真砂より。数 多き言の葉の。心の花の色香までも。妙 なりや敷島の道ある御代の翫。然れば 三十一文字の。神も守護し給ひて。無見 頂相の如来も。感応垂れ給へば。君も安 全に。万民時を楽みて。都鄙円満の雲の 下四海八洲の外までも。波の声万歳の響 は。長閑けかりけり。シテ「今天皇の御代 久に。地「万の政の。道直ぐに渡る日の。 東南に雲をさまり。西北に風静かにて。

言葉の林栄ゆくや花も常磐の山松の。巷 にうたふ声までもこれ和歌の詠に漏るべ しや。天地を動かし鬼神も。感をなすと かや。 ロンギ地「実にや異なる山賎の。/\。家 路いづくの末ならん。ゆかしき心なるべ し。シテ「今は何をか包むべき。その古 は大伴の。黒主といはれしが。時代とて 此山の。神とも人や見るらん。地「そも此 山の神ぞとは。不思議やさては大伴の。 シテ「それは黒主の家の名の。地「大伴か。 シテ「我はたゞ。地「薪負ふ友もなくて独り 山路の花の蔭に長休みしつる恥ずかしや と。夕の雲に立ち隠れて志賀の。宮路に 帰りけり志賀の宮路に帰りけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「いざ今日は。春の山辺にまじ りなん。/\。暮れなばなげの花の蔭。 月に詠じて天の原。時の調子に移り来る。 舞歌の声こそ。あらたなれ舞歌の声こそ

あらたなれ。 後シテ出端「雪ならば幾度袖を払はまし。花の 吹雪の志賀の山。越えても同じ花園の。 里も春めく近江の海の。志賀辛崎の松風 までも。千声の春の。長閑けさよ。一セイ「海 越に。見えてぞ向ふ鏡山。地「年経ぬる身 は老が身の。シテ「それは老が身。これは 志賀の。地「神の白木綿かけまくも。忝し や神楽の舞。神舞「。 ロンギ地「不思議なりつる山人の。/\。 薪の斧の永き日も。残る和光のあらたさ よ。シテ「実に惜むべし君が代の。長閑け き色や春の花の。塵に交はる雪ならば。 踏む跡までも心せよ。地「実に心して春の 風。声も添ふなり御神楽の。シテ「小忌の 衣の色はへて。地「花は梢の白和幣。シテ「松 は立枝の。地「青和幣。かくるやかへるや。 梓弓春の。山辺を越え来れば道も去りあ へず散る花の。雲の羽袖を返しつゝ紅の

御袴の。そばを取り。拍子を揃へて神かぐ

ら実に面白き。奏かなげに面白き奏かな。 伊弉諾尊(前ハ老人) 臣下

ワキ(三人)次第「治まる国の始もや。/\淡路の 神代なるらん。ワキ詞「抑これは当今に仕 へ奉る臣下なり。偖もわれ宿願の子細 あるにより。住吉玉津島に参詣仕りて 候。又よきついでなれば。これより淡路 の国に渡り。神代の古跡をも一見せばや と存じ候。道行三人「紀の海や。波吹上の浦風 に。/\。跡遠ざかる沖つ舟。潮路程な く移り来て。よそに霞し島かげや。淡 路潟にも着きにけり/\。ワキ詞「急ぎ候 ふ程に。これははや淡路の国に着きて 候。此処の人を待ち。神代の古跡を尋ね ばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一声「神の代の。跡を残して海山の のどけき波の淡路潟。ツレ二ノ句「種を収めし国

なれば。二人「苗代水もゆたかなり。シテサシ「そ れ陰陽の神代より。今人界に至るまで。 二人「山河草木国土は皆。神の恵に作り田 の。雨つちくれを潤して千里万里の外ま でも。皆楽める時とかや。歌「頃しも今は 長閑なる心の池のいひがたき春のけしき も様々に。春の田を人に任せてわれ は唯。/\。花に心の憧るゝ。盛りにひか れて苗代の水に心の種蒔きて。散れば此 処もや桜田の。雪をもかへすけしきか な/\。 ワキ詞「いかにこれなる翁に尋ぬべき事あ あり。おことの風情を観るに。小田をかへ しながら水口に幣帛を立て。誠に信心の 気色なり。いかさまこれは御神田にて候

ふか。シテさん候春の田を作らんとて は、よろづ祝ぶ事の候ふ程に。あの水口 に斎串とて五十の幣帛を立て。神を祭り 候。然ればある歌に。谷水をせく水口に 斎串たて。苗代小田の種まきにけり。 詞「其上此御田は。当社二の宮の御供田 にて御座候程に。殊には内外清浄にて 御田を作り候ふよ。ワキ「偖は当社二の宮 にてましまさば。国の一の宮はいづくに てましますぞや。若し楪葉の権現にて御 座候ふやらん。シテ「畏れながら悪しく御 心得候ふものかな。当社は二の宮にてま しませばとて。国中一二の次第にあらず。 ツレ「御覧候へ当社の神達。二柱の社の御 殿なれば。シテ詞「二つの宮居を其侭にて。 二の宮と崇め奉るなり。シテツレ「これは すなわち伊弉諾伊弉冊の尊二柱の。神 代のまゝに宮居したまふ。淡路の国の。 神は一きう宮居は二つの。二の宮と崇め

申すなり。ワキ「よく/\聞けばありがた や。偖々かゝる国土の種を。普く受くる 御恩徳。唯此神の誓よなう。シテ詞「事新し き御諚かな。国土世界や万物の。出生あ まねき御神徳。唯これ当社の誓なり。 ツレ「然れば開けし天地の。伊弉諾と書い ては。シテ詞「種蒔くと読み。ツレ「伊弉冊 と書いては。シテ詞「種を収む。ツレ「これ目 前の御誓なり。シテ「其上神代は遠からず。 ツレ「今目の前にも。シテ「御覧せよ。地上歌「種 を蒔き。種を収めて苗代の。/\。水う らゝにて春雨の。あめより降れる種蒔き て。国土もゆたかに千里栄ふる富草の村 早稲の秋になるならば。種を収めん神徳 あらありがたの誓やなありがたの神の誓 やな。 ワキ詞「猶々当社の神秘ねんごろに御物が たり候へ。クリ地「それ天地開闢の昔より。 混沌未分やうやく分れて。清く明らかな

るは天となり。おもく濁れるは地となれ り。シテサシ「然れば天に五行の神まします。 木火土金水これなり。地「既に陰陽相分かれ て。木火土の精伊弉諾となり。金水の精 こりかたまつて伊弉冊と顕る。シテ「然れ ども。まだ世界ともならざりし先を伊弉 諾といひ。地「国土治まり万物出生する 所を伊弉冊と申す。すなはち此淡路の国 を始とせり。クセ「さればにや二柱の御神 の・〓{オノ}馭盧島と申すも此一島の事かとよ。 凡そ此島始めて。大八島の国を作り。紀の 国伊勢志摩日向並に。四つの海岸を作 りいだし。日神月神蛭子盞烏と申すは。 地神五代の始にて。皆此島に御出現。中 にも皇孫は。日向の国に。天降り給ひて。 地神第四の火々出見の。皇子を御誕生げ にありがたき代々とかや。シテ「天下をた もち給ふ事。地「すべて八十三万。六千八 百余歳なり。かゝるめでたき皇子達に。

御代をゆづりはの権現と。現れおはしま す。伊弉諾伊弉冊の神代も唯今の国土な るべし。 ロンギ上「げに神の代の道直に。/\。今 も妙なる秋津洲の君の御影ぞありがた き。シテ「御影ぞと。夕日隠の雲の端に。 たなびく天の浮橋の。古を現して。御客 人を慰めん。地「そも浮橋の古と。聞く はいかなる言の葉の。シテ「其神歌は烏羽 玉の。我が黒髪も。地「乱れずに。結び定 めよ小夜の手枕の歌の種蒔きし。神とも 今は白波の。淡路山を浮橋にて天の。戸 を渡り失せにけり/\。中入。 ワキ上歌三人「げに今とても神の代の。/\。 御末はあらたなりけりと。いへば虚空に 夜神楽の。月に聞えて光さす。気色ぞあ らたなりけるや気色ぞあらたなりける。 後シテ出端「わたづみのかざしに挿せる白玉 の。波もて結へる淡路島。月春の夜も長

閑なる。翠の空も澄み渡る。天の浮橋の上 にして。八島の国を求めえし。伊弉諾の神 とは我が事なり。治まるや国常立の始よ り。地「七つ五つの神の代の。シテ「御末は今 に。君の代より。地「和光守護神の扶桑の 御国に。風は吹けども山は動ぜす。神舞 ロンギ上「げにありがたき御誓。/\。そ も/\天の浮橋の。其御出所はさるにて も。いかなる所なるらん。シテ「ふりさげ

し。鉾の滴露こりて。一島となりし を。淡路よと見つけし此処ぞ浮橋の下な らん。地「げに此島のありさま東西は海漫 漫として。シテ「南北に雲峯を列ね。地「宮 殿にかゝる浮橋を。シテ「立ち渡り舞ふ雲 の袖。地「さすは御鉾の手風なり引くは。 潮の時つ風治まるは波の芦原の。国富み 民もゆたかに万歳をうたふ松の声。千秋 の秋津洲。をさまる国ぞ久しき/\。 雄略天皇の臣下 従者 老人 興玉の神

ワキ、ワキツレ二人次第「山も内外の神詣。/\。二見 の浦を尋ねむ。ワキ詞「抑これは当今に仕 へ奉る臣下なり。我此度伊勢大神宮に参 り。内外の宮めぐり殊には内外清浄の信 心私なく候。又これより二見の浦石の 鏡をも一見せばやと存じ候。道行三人「いすゞ

川清き流の深緑。/\。蔭も百枝の松風 の。治まる木々の色までも。神の恵み野御 蔭かと。処からなる心地して。眺たへな る景色かな/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。二 見の浦に着きて候。これなる小田を見れ ば。みてぐらをたて剰さへ渇仰の気色

見えて候。里人に尋ねばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一セイ「露ながら。水かけ草の種取り て。手玉も揺ぐ。袂かな。ツレ二ノ句「おりたつ田 子の数そふや。二人「御裳濯川の。水なら ん。シテサシ「有難や神のよつぎは久方の。天 のむらわせ種とりて。二人「今人の世に至 るまで。四つの時日は曇なくて。千代万世 の末かけて。流す田面の早苗とる。田子 のもすその色はへて。袂ゆたかに。楽む なり。下歌「種を蒔き種を収めし神代より。 上歌「草も木も我が大君の国なれば。/\。 いづくも同じ神と君。隔なき世に住まふ 身の誰か恵の外ならん。実にや八島の外 までも。波静かにて吹く風も。枝を鳴ら さぬ天地の。神の威徳はありがたや。/\。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事 の候。シテ「こなたの事にて候ふか何事に て候ふぞ。ワキ「これなる小田を見れば。 田水豊なるになほ川水をまかせ入れ。渇 <19a> 仰の気色見えたり。不審にこそ候へ。 シテ「さん候これは神の御田にて候。ま たこの川は御裳濯川とて。田水は豊なれ ども神水をまかせ入れ五十の水口にみて ぐらを立て。神徳長久の恵を仰ぐ祭事に て候。ワキ「扨此御裳濯川はいつの代より の名にて候ふぞ。シテ「さん候人皇十一 台垂仁天皇の皇女御名は倭姫の御子。忝 くも御神鏡をいたゞき国々を巡り給ひし に。当国にてはあの二見の浦より。此川 路について上り給ひしに。御裳の裾よご れたりしを。此川にてすゝぎ給ひしによ つて。御裳濯川とは申すなり。ツレ「其時 田作の翁のありしが。神の御鎮座になる べき所やあると御尋ありしに。シテ詞「彼の 翁申すやう。此川上に三十八万歳の間。此 山を守護し奉る者の候。御道知べ申さん とてしだつ岩根をしきて参らすると云 へり。其時の田作の翁は。今の興玉の神是

なり。ツレ「其時尋ね入り給ひしによつて。 山をば神路山といひ。シテ詞「川をば神路 川といひて。ツレ「流久しくすめる世の。 ツレシテ二人「天長地久嘉辰月令の。御影濁らぬ 御裳濯川の。神徳深き水田なれば。神に 任せて作るなり。ワキ「謂を聞けばありが たや。さて/\今の名にしおふ。其御裳 裾を濯ぎ給ひし。在所はとりわき何処の 程ぞ。シテ詞「さればさきにも申しゝ如く。 御裳濯川と名づけし事。とりわき此瀬の 辺なれば。神が瀬とこゝを申すなり。 ワキ「あら面白や神が瀬とは。神風とこそ 聞き馴れしに。シテ詞「されば常には神風 や。伊勢と申すも神の誓。ツレ「又此川に は神が瀬とて。神の渡瀬のある故に神 路川とも申すなり。シテ「然れば歌人の。 シテツレ二人「言の葉にも。地「山の辺の。三井を 見がへり神が瀬の。/\。伊勢の乙女ら。 あひみつるかなと詠みしも此倭姫の古を

詠み奉る心なり。千早振。神路の山の村 雨は種を蒔くなる神の代の。久しきうる ほひに天のをしねの天の下。広き恵に逢 ふことも。唯神徳にあらずや。有難の神 の誓やなあらありがたの誓や。ワキ「なほ なほ神慮のこさず御物語り候へ。シテ「懇 に申上げうずるにて候。地クリ「かたじけ なの御事や我等迷の凡夫として。神徳王 地の恵をうくる。仰ぎてもなほ余あり。 シテサシ「それ人は天下の神物なり。かるが故 に正直をもつて本とす。地「日月は四州を 照すとおへども。分きては唯正直の頭 に宿り給ふ。シテ「然れば二所そうべうの 御心を知らんとおもはゞ。地「正直をもつ て。本とすべし。クセ「然るにおほん神。 地神の為に皇孫を。あし原中つ国に。 下し奉らんとて。三種の神宝をみづから 授け給ひしに。其三種にも取り分きて。 八咫の鏡は殊になほ。御影を写しつゝ御

身を放ち給はず。其鏡の如くに。万形を うつしながらしかも。一物を貯へず。しん しやうを清めて正直を授け給へり。され ばいきとしいけるもの。日月の恩徳に。 あづからざるものなきものを。これもつて 当宮の御神徳にてあらざるや。シテ「然れ ば神代の昔より。今人の世に至るまで。 sンと句はあきらかに。垂仁天皇の御宇かと よ。しだつ岩根に宮居して、皇大神となり 給ふ。これまさに本覚の。和光にまじる 塵の世を。守らんための御誓。仏も同じ 御心の。しじやう真如の月よみの神とも 示現し給へり。ロンギ地「実にありがたや神 道の。/\。曇らぬ末を受けて知る人の 心ぞありがたき。二人「一河の流汲みて知 る。今日しもこゝに都人。君と神とは隔 なき御物語申すなり。地「そも老人は誰な れば。分きて委しくしらゆふの。二人「かゝ る御代ぞと仰ぎみる。地「天津空ねの。

二人「郭公。地「一声鳴くもをりからに神 の。告ぞとゆふしでの。田長と見えつる が我興玉の神よとて。御裳濯川の渡瀬な る。神が瀬をうち渡りて。跡も波に入り にけり/\。中入間「。ワキ、ワキツレ二人待謡「げに今とて も神の代の。/\。誓はつきぬしるしと て。神と君との御恵。まことなりとはあ りがたや/\。後シテ出端「君が代はつきじとぞ 思ふ神風や。御裳濯川のすまん限は。守 るべし/\。百王守護の神明として。和 光普きすべらぎの数。すべら世までも守 の神。興玉の神とは我が事なり。地「やた まがきの。内外の宮居。声みちて。シテ「月 よみの宮居。照りまさる。地「いさぎよき。

影や鏡の宮所。シテ「空すむ雲も。あさぐ まや。地「潮干の石と現れしも。済度方便 の。影なわすれそ。/\。ちはやぶるな り。ゆ立の袖。神舞。シテワカ「神風や。伊勢 の浜荻をりしきて。地「旅寝やすらんあら き浜辺に/\。シテ「清き渚の玉の数々。 地「光も天照す。シテ「天の岩戸の昔をう つす。地「榊葉の神歌。シテ「千早の袖や御 裳濯川の。地「波のしらにぎて。シテ「水の 青にぎて。取々様々の神遊鏡の宮居。 あさづまの潮時に沖より見えて白浪の。 沖より見えて白浪の。又立返り二見の浜 松の。ちよの影ある。神と君こそ。久し けれ。 賀茂の神職 従者二人 事代主命

ワキ、ワキツレ二人真ノ次第「関の戸さゝで。秋津洲や。/\。

道ある御代ぞめでたき。ワキ詞「そも/\こ

れは都賀茂の明神に仕へ申す神職の者な り。又和州葛城の明神は。当社御一体の 御事なれども。いまだ参詣申さず候ふ程に に。唯今和州葛城の明神に参詣仕り候。 三人道行「四方の国。治まる雲の果までも。 /\。君の御影はあきらけき。天つ日影の 山の端に。斯かる時世は曇なき。峯も そなたか葛城の。賀茂の宮居に着きにけ り。/\。シテツレ二人真ノ一声「葛城の。賀茂の神垣 時を得て。咲く卯の花の白和幣。ツレ二ノ句「鳴 さぬ枝も夏木立。二人「茂をさめて風も なし。シテサシ「これは当国葛城や。賀茂の社 中を清め申す者なり。二人「有難や頃は卯 月の始とて。賀茂の御生の時すでに。 夏も来にけり小忌衣の。袖白妙の木綿畳 幣とり%\の神祭。御代を護の道直に。 万歳の末を祈るなり。下歌「いざ/\庭を 清めん。/\。上歌「固よりも。塵に交は る神慮。/\。和光の影はいやましに。

栄え行くなり国々も。豊に照らす日の本 や。千里万里も治まれる。誓の海はあり がたや。/\。 ワキ詞「いかにこれなる老人。これは当社 はじめて参詣の者なり。このあたりは皆 故ある名所なるべし。眺の名所を教へ候 へ。シテ「さん候。此葛城の賀茂の宮居。 都の賀茂と御一体の御事なれば。都の人 こそ知し召さるべけれ。その上龍田初 瀬の紅葉をば。見ねども歌人の知し召す なれば。われ等が申すに及ばず。唯君万 歳の御護と。当社に祈り申すならでは。 又他事も候はず。あらめでたの御神拝や な。ワキ詞「げにげに翁の申す如く。我等本 社賀茂の社頭にありながら。当社の事を 尋ぬるは。今更なるべき事ならずや。 シテ「畏れながらこの御尋こそ。少し不 審に候へとよ。賀茂の本社と申さん事。 忝くも開闢この方の影向の始。まづ

葛城の賀茂なれば。この宮居こそ取り分 きて。賀茂の本社と申すべけれ。ワキ「げ にげにこれは理なり。まづ/\最初の 影向は。この葛城の賀茂の神。シテ「その 後天下平安城に。現れ給ふ賀茂の神山。 ワキ「其神の名を糺すの竹の。シテ「御代も治 まり七つの道も。ワキ「なほ末すぐに。 シテ「曇なき。上歌「余所までも。名は葛城の 賀茂の神。/\。御代を守りの御威光。普 ねしや/\四海の波も治まりて。国富み 民も豊なる。御影ぞ貴かりける。/\。 クリ「それ君は舟臣は水。水よく船を浮 べつゝ。臣よく君を仰ぐとかや。シテサシ「然 れば王城の鎮守として。誠に以て御名高 き。地「その水上は山陰の。賀茂の御手洗 いさぎよき。流の末は久方の。あめつち くれお動かさず。安く楽しむ時とかや。 シテ「有難しともなか/\に。地「言葉をも つても述べがたし。クセ「然るに葛城や。

高間の山と申すは。金剛の峯として。胎 金両部のその一法を現し。神も影向なる とかや。西天仏在世よりは。東北の霊峯 これ。大和の金剛山。三国不二の峯とし て。御代の宝の。山とも是を名づけたり。 そも/\葛城の。賀茂の神垣隔なく王城 の鎮守と現れ。百王守護の神山や。賀茂 の祭とて。忝くも大君の。清涼殿や長 階の。出御も絶えぬ年々に。卯月のその 日のとり%\の御遊なるとかや。シテ「千 早振る。賀茂の御生や夏引の。地「糸毛の 花車廻る日の。けふに葵の二葉より我が しめ結ひし姫小松の千代をかけて水鳥 の。鴨の羽色やしもとゆふ。葛城も同じ 神山の。一体分身の御代を譲り給ふな り。この御代を譲り給ふなり。 ロンギ「げに葛城の神の代の。/\。その 道すぐに夕霜の翁はさても誰やらん。 シテ「誰ともいはん翁さび。人なとがめそ

我こそは。事代主の翁とて御代を護り申 すなり。地「そもや事代主と聞く。其名は 如何に。シテ「音高し。地「事代主と申すこ そ。葛城の神の名なれいざや。神体を現 し。旅宿をあがめ申さんとて。葛城や高 間山の嶺の雲にかけりて天の戸に入らせ 給ひけり。/\。中入間「。 ワキ三人待歌「心も共に澄む月の。/\。光さや けき夜神楽の。御声も同じ松の風。更け 行く空ぞ静かなる/\。 後シテ出端「あら有難のをりからやな。われ劫 初よりこの山に住んで。王城を護り御代 を崇め。天下泰平の宝の山。葛城の神と 現れて。唯今こゝに来りけり。あら面白 の夜遊やな。地「標結ふ。葛城山に降る雪 は。シテ「間なく時なくおもほゆるかな。 地「それはみ冬の深雪の空。シテ「これは卯 月。卯の花の。地「雪を廻らす舞の袖。古 き大和舞。拍子を揃へて面白や。神舞

ロンギ「あら有難やありがたや。天下泰平 楽とは。いかなる舞の事やらん。シテ「怨 敵の難を遁れて。上下万民舞ひ遊ぶ。 地「さて万秋楽と申すは。シテ「兜率天の 楽にて見仏菩薩舞ひ給ふ。地「春立つ空の 舞には。シテ「春鴬囀を舞ふべし。地「秋来 る空の舞には。シテ「秋風楽を舞ふとかや。 地「舞に颯々といふ声は。楽々と響くな り。いつもその声尽きせぬは。このみぎ んなるべしやな。万歳の四方の国。道あ る御代ぞめでたき。/\。 官人 従者 老人 松尾明神

ワキ、ワキツレ二人次第「四方の山風静かにて。/\。 梢の秋ぞ久しき。ワキ詞「抑これは当今 に仕へ奉る臣下なり。さても西山松の尾 の明神は。霊神にて御座候へども。朝に 暇なき身なれば。いまだ参詣申さず候ふ 間。此度君の御暇を申し。唯今松の尾の 明神に参詣仕り候。道行三人「嵯峨の山御幸 絶えにし芹川の。/\。千代の古道跡ふ りて。行方正しき天雲の大井の入江霧こ めて。上は嵐の山風の。声も通ひて松の 尾の。神の宮居に着きにけり/\。 シテツレ一声「秋風の。声吹き添へて松の尾の。 神さび渡る。気色かな。シテサシ「有難や和 光同塵の斎垣の内には。年を迎へて般若 の真文を講じ。二人「又利生方便の社の前

にて。日を逐うて如在の霊殿を仰ぐ。神 明の納受疑なく。摂取の願望各成就 円満の霊地。今にはじめぬ神拝なれども。 まことに貴き。社内かな。下歌「時しも今は 長月の紅葉も四方の気色にて。上歌「春見 しは花の都の雲霞。/\。立つや日数も 移り来て。今ぞ時なる秋の空曇らぬ月の 都路に。ゆきゝも繁る諸人の。秋ゆたか なる心かな/\。 ワキ詞「如何にこれなる老人に尋ぬべき事 の候。シテ「老人とは此方の事にて候ふか。 まづ御姿を見奉れば。此あたりにては見 馴れ申さぬ御事なり。都より御参詣に て御座候ふか。ワキ「実によく見てあるも のかな。都より始めて当社参詣の者なり。

山の姿神館の面白さに眺め居て候。当社 の御謂委しく申し候へ。シテ「さん候此山 林は。皆神の御敷地なり。誠に御代千秋 の君が住む。都は間近き神前にて。ツレ「む かふ梅津の秋の葉は。河水に浮ぶ綾錦。 シテ詞「織りかく雲も小倉山。しぐるゝ頃 の朝な/\。ワキ「昨日は薄きもみぢ葉の。 シテ「今日は濃染の色深き。ワキ「西紅の 峯つゞき。シテ「さながら四方の。二人「錦 なれども。地「松の尾の山の梢の秋なら で。/\。唯時雨のみ年経るや。霜の後。 雪の冬木になるまでも。時しらぬ常磐木 の。いく久し神松の。落葉ばかりは塵の 世に。交はる誓頼もしや。/\。 地クリ「それ天は陽を以て徳とし。地は陰 を以て。用とす。シテサシ「然れば神は人天百 王の守護神として。地「本地寂光の都を出 で給ひ。此閻浮提に示現し。五衰の睡を 無上正覚の月に覚まし。シテ「国土豊に <24a> 民厚かれと。地「安全を守りおはします。 クセ「和光同塵は。結縁の御はじめ。実に目前 にあらたなり。仏は又常住。不滅の相を 現し有無中道を離れて。人を済度の方 便これ以て同じ悲願なり。神といひ仏と いひ唯これ。水波の隔にて。本地垂迹と 現れ三世了達の智恵を以て。現当二世界ま での道を照らし給へり。さればにや此 社。いづくともいひながら。殊に所も九 重の。雲井の西の山の端を。照らすや光 も夕月の。空さへて嵐山の。峯には実相 の声満ちて。聞法の便のみ。大井の波の 音までも。常楽我浄の結縁をなす心なり。 シテ「梅津桂の色々に。地「日も茜さす紫 野。北野平野や賀茂貴船。祇園林の秋の 風稲荷の山のもみぢ葉の。青かりし恵も 様々に。誓のイロハ変れども。此神は分き て世の。月常住の地をしめ王城を守る神

徳の。久しき国に跡垂れて。慈尊三会の 暁を。松の尾の神垣変らぬ色ぞ久しき。 ロンギ地「実にた誓の秋久に。/\。代々 を守りの御神徳。なほ行く末ぞ頼もしき。 シテツレ二人「時しも今日の御神拝。有難しとも 木綿四手の。神の夜神楽めん/\に神を すゞしめ申さん。地「さては時しも夜神楽 の声も普き数々に。シテツレ二人「すはや照り 添ふ夕月の。地「庭燎の光。シテツレ二人「榊葉を。 地「うたふ乙女の袖はえて。花の裳裾も 色々に。紅葉をかざし松の尾の神の告を 都人夜神楽を拝み給へとよ。夜神楽を拝 み給へとよ。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「実に今とても神の代の。/\。 誓は尽きぬしるしとて。神と君との御恵 まことなりけり有難や/\。 後シテ出端「それ千秋の松が枝には。万歳の緑 常磐には。御代を守りの御影山。君安全 に民栄え。五日の風も枝を鳴らさぬ松の

尾の神とは我が事なり。地「八乙女の。袖 もかざしの玉かづら。シテ「かけてぞ祈る 玉松の。地「光も塵や露も白縫の鈴も颯 颯の。舞の袂は、おもしろや。神舞。 ロンギ地「秋の夜神楽声澄みて。/\。神さ びわたる深更の朱の光は有難や。シテ「庭 燎の影も明らけき。榊葉うたふ妙文の。 こや松の尾の神風ふけ行く秋ぞ惜しまる る。地「実に惜しむべし/\。今宵の 時も逢ひにあふ。シテ「月の光も照り添ふ や。地「朱の玉垣。シテ「玉の扉。地「さし引 く袖の露かけて。光も散るなり小忌衣。 立ち舞ふ花も白妙の。雪をめぐらし千早 ふる。神ぞ久しき松の尾の。おのづから 長き夜の神楽ぞめでたかりける/\。 藤原俊家 従者 里の女 従者 佐保山神

ワキ、ワキツレ三人、次第「立つ旅衣春とてや。/\。心も のとげかるらん。ワキ詞「抑これは藤原の俊 家とは我が事なり。さても和州春日の明 神は。氏の神にて御座候ふ程に。この春 君に御暇を申し。唯今春日の明神に参詣 仕り候。道行四人「天の戸の明け行く空の朝日 影。/\。霞を分けて白雲の衣雁こし 方を。よそに南の都路や。春日の里に着 きにけり/\。ワキ詞「さても我春日に参詣 申し。四方の景色を眺むる所に。あの佐保 山の上に当つて見え候ふは雲にて候ふや らん。ワキツレ「いやこれはたゞ衣を干したる 様に見えて候。ワキ「とにかくに不審に存 じ候ふ程に。近く見ばやと思ひ候。皆々 佐保山に上り候ヘ。シテツレ真ノ一声「日にみがき。

風に晒せる玉衣の。春の日影も。匂ふな り。ツレ二ノ句「佐保山姫の雲の袖。ニ人「緑も なびく。景色かな。ニ人サシ「おもしろや名 所はさま%\多けれども。分けて誓も影 高き天の児屋根の神代より。誓の末も明 らけき。月に照りそふ春の日の。御影を 四方に春日山広き恵のありがたさよ。殊 更に時もあひあふ春の日の。東を知るも 鹿島野や緑も同じ若草の。山は南の都の 空。曇らぬ神の。時代かな。下歌「こゝはと りわき佐保山の。其山姫の衣ほす。袖白妙 の露かけて。上歌「玉葛来る年の緒の春毎 に。/\。霞の衣緯薄き。糸の乱も天つ 日ののとけき色に染めなして。猶白衣の うらゝなる。空や雲間に匂ふらん/\。

ワキ詞「我佐保山に登りて見れば。女性数多 来り給ひ。これなる衣を晒せるけしき見 えたり。そも御身は此佐保山に住む人か。 シテ「さん候これは此佐保山のあたりに住 む女にて候。又これなる衣は処から。よ しありてさらせる衣なり。立ちよりてよ く/\御覧候へ。ワキ「実に/\これなる 衣をよりて見れば。銀色かゝやき異香薫 じ。誠に妙なる白衣の。よく/\見れば 縫目もなし。さてこれは何と申す衣にて 候ふぞ。シテ「げによく御覧じ咎めて候。 これは人間の織衣にあらずある歌に。 裁ち縫はぬ衣きし人もなきものを。詞「何 山姫の布さらすらんと。かやうに詠みし も此衣なり。ツレ「もとより山に住み人 の。人間の交はりなき故に。かゝる衣も 世の常ならず。シテ「その上仙人の衣をば。 二人「裁つこともなく縫ふ事も。なき世の ためしは稀にだに。いさ白衣の羽袖の色。

妙なりと御覧候へとよ。ワキ「実に裁ち縫 はぬ衣の事。詞「仙人の衣と聞きしなり。 さては仙境にや入りぬらん。然らば御身 も仙女やらん。シテ「いや仙境まではなけ れども。処は佐保の山辺なれば。もし佐保 姫とや申すべき。ワキ「不思議やさては 佐保姫の。霞の衣とよみたれば。此裁ち縫 はぬ薄衣ももしは霞の衣やらん。二人「い や裁ち縫はぬ衣ほせばとて。ワキ「さては 霞の衣かとは。二人「あら謂なの御言葉 や。地「裁ち縫はぬ衣ほせばとて佐保姫 の。/\。袖も緑の糸はえて。縫ふ事は なくとも。霞の衣ならば。裁つことはな どかなかるべき。これは裁ちもせす縫 ひもせず。まして糸もて織る事も。嵐に なびく羽衣の。袖も褄もにほやかにうら らなる日に晒すなりうらゝなる日にや晒 さん。 地クリ「夫れ天地開闢の昔より。山海草木

に至るまで。万物悉く成仏して。皆霊 験の神所たり。シテサシ「とりわき四季を司 どる事。地「まづ春を守る神といつぱ。此 山姫の神徳として。草木森羅万象まで。 御影の緑満ち満てり。シテ「然れば処の名 にしおふ。地「佐保の山河の恵深く。千秋 万徳の春を得て。佐保山姫と。現れ給ふ。 クセ「たが為の錦なればか秋霧の。佐保 の山辺を立ち隠すらんとながめけるも此 山の。妙なる秋のけしきなり。かやうに 治まれる四つの時いく年々を送りけん。 花の春。紅葉の秋の夕時雨。古きを守る ためしまでも。あふぐや青によし奈良の 代々ぞ久しき。殊更此山は。春の日影もよ そならで。慈悲万行の神徳の。弘き誓の 海山も皆安全の国とかや。シテ「そも/\ 芦原の国つ神。地「代々に普き誓にも。御 名はことに久方の。天の児屋根の其かみ。 此秋津洲の主として皇孫をいつき給ひし

より。八島に治まる時つ風。四海に畳む 波の声万歳を呼ばふ三笠山。御影もさす や河竹の。佐保の山辺の春の色万山もの どかなりけり。 ロンギ地「実にや誓ものどかなる。/\。 佐保の山姫あらたなる言葉をかけすうれ しさよ。シテ「暫く待たせ給ふべし。とて も山路のおついでに。佐保山の神祭月の 夜遊をはじめん。地「月の夜遊と聞くより も。東の嶺に光さし。シテ「南を見れば春 日野の。地「三笠の森に花降りて。シテ「こ こにたなびく。地「山の名の。さをなぐる まの夢の夜の。程を待たせ給へやと。夕 霞の衣手に立ち隠れつゝ失せにけり立ち 隠れ失せにけるとかや。中入間「。 ワキ、ワキツレ三人歌待謡「佐保山の柞の緑かたしきて。 /\。こゝに仮寐の枕より。音楽聞え花 降りて。月春の夜ぞ有難き/\。 後シテ出端「春日野の飛火の野守出でて見よ。

影さす月の三笠山。うき雲かゝる藤山の。 若紫の名にしおふ。木々の梢ものどか なる。春の日影ののどけさよ。地「二月の。 初申なれや。春日山。シテ「峯どよむまで。 いたゞきまつれや佐保姫の袖もかざしの 玉かづら。地「かけてぞ祈る春日野の。 シテ「若草の山。水屋の御影。地「みどりも めぐみもたちたつ雲の。羽袖をかへすや。 山かづら。真ノ序ノ舞「。 ロンギ地「神楽の鼓春を得て。/\。月の夜 声も澄み渡る心をのぶる有難や。シテ「こ

や佐保姫の小夜神楽。時の鼓の数々に。 神歌の一節佐保の歌とや云ひてまし。 地「それは遊女のうたふなる。声も妙な り天乙女。シテ「天の探女が古を。地「思ひ 出づるや。シテ「久方の。地「月の御舟の水 馴棹山姫の袖。かへす霞の薄衣裁ち縫は ねども白糸の。来る春なれや永き日に。 雨つちくれを動かさで。世を守るさよ姫 の。めでたき例なるべしや。めでたき例 なるべし。 雄略天皇勅使 従者二人 老人(父) 養老山神 男(子)

ワキ、ワキツレ二人真ノ次第「風も静かに楢の葉の。/\。鳴 らさぬ枝ぞのどけき。ワキ詞「抑これは雄略 天皇に仕ヘ奉る臣下なり。さても濃川本 巣の郡に。不思議なる泉出でくる由を奏

聞す。急ぎ見て参れとの宣旨に任せ。唯 今濃州本巣の郡へと急ぎ候。道行三人「治まる や。国富み民も豊にて。/\。四方に 道ある関の戸の。秋津島根や天ざかる。

鄙の境に名を聞きし。美濃の中道ほどな く養老の滝に着きにけり養老の滝に着き にけり。 シテ、ツレ二人真ノ一声「年を経し。みのゝ御山の松蔭 に。なほ澄む水の緑かな。ツレ二ノ句「通ひなれ たる老の坂。二人「行事安き心かな。シテサシ「故 人眠早く覚めて。夢は六十の花に過ぎ シテツレ二人「心は茅店の月にうそぶき。身は板 橋の霜に漂ひ。白頭の雪は積れども。老 を養ふ。滝川の。水や心を。清むらん。 下歌「奥山の。深谷の下のためしかや。 流を汲むと。よも絶えじ流を汲むと。よ も絶えじ。上歌「長生の家にこそ。/\。 老せぬ門はあるなるに。これも年ふ る山住の。千世のためしを。松蔭の岩井 の水は薬にて。老を延べたる心こそ。な ほ行く末も。久しけれなほ行く末も久しけれ。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事

の候。シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて 候ふぞ。ワキ詞「おことは聞き及びたる親子 の者か。シテ詞「さん候これこそ親子の者に て候へ。ワキ詞「これは帝よりの勅使にてあ るぞとよ。シテ「ありがたや雲井遥に見そ なはす。我が大君の詔を。賎しき身と して今承る事のありがたさよ。これこ そ親子の民にて候へ。ワキ詞「さてもこの本 巣の郡に。不思議なる泉出でくる由を奏 聞す。急ぎ見て参れとの宣旨に任せ。こ れまで勅使を下さるゝなり。先々養老と 名づけ初めし。謂を委しく申すべし。 シテ詞「さん候これに候ふはこの尉が子にて 候ふが。朝夕は山に入り薪を採り。我ら をはごくみ候ふ所に。ある時山路の・労{つかれ} にや。この水を何となく掬びて飲めば。 世のつねならず心も涼しく労も助か り。ツレ「さながら仙家の薬の水も。かく やと思ひ知られつゝ。やがて家路に汲み

運び。父母にこれをあたふれば。シテ詞「飲 心よりいつしかに、やがて老をも忘 水の。ツレ「朝寐の床も起き憂からず。 シテツレ二人「夜の寐ざめもさびしからで。勇む 心は真清水の。絶えずも老を養ふ故に。 養老の滝とは申すなり。ワキ「げに/\聞 けばありがたや。さて/\今の薬の水。 この滝川の内にても。とりわき在所のあ るやらん。シテ詞「御覧候へこの滝壺の。少 し此方の岩間より。出でくる水の泉なり。 ワキ「さてはこれかと立ちより見れば。実 に潔き山の井の。シテ「底すみわたるさゞ れ石の。巌となりて苔のむす。ワキ「千代に 八千代のためしまでも。シテ「まのあたり なる薬の水。ワキ「誠に老を。ワキ「養ふな り。地歌「老をだに養はゞ。まして盛の人 の身に。薬とならばいつまでも。御寿命 も尽きまじき。泉ぞめでたかりける。実 にや玉水の。水上すめる御代ぞとて流の

末の我らまで。豊にすめる。嬉しさよ豊 にすめる嬉しさよ。 地クリ「実にや尋ねても蓬が島の遠き世に。 今のためしも生薬。水また水はよも尽き じ。シテサシ「夫れ行く川の流れは絶えずして。し かも本の水にはあらず。地「流に浮ぶうた かたは。かつ消えかつ結んで。久しく澄め る色とかや。シテ「殊にげに是はためしも 夏山の。地「下行く水の薬となる。奇瑞を 誰か。習ひ見し。下歌「いざや水を結ばん いざ/\水を結ばん。上歌「甕の竹葉は。 /\。かげや緑を重ぬらん。その外籬の荻 花は林葉の秋を。汲むなりや。晋の七賢 が楽。劉伯倫が翫。只この水に残れり。 汲めや汲め御薬を。君の為に捧げん。曲水 に浮ぶ鸚鵡は石にさはりて遅くとも。手 にまづ取りて。夜もすがら馴れて月を。 汲まうよや馴れて月を汲まうよ。 ロンギ地「山路の奥の水にては何れの人か

養ひし。シテ「彭祖が菊の水。したゞる露 の養に。仙徳を受けしより。七百歳を 経る事も薬の水と聞くものを。地「げにや 薬と菊の水。その養の露のまに。シテ「千 年を経るや天地の。地「ひらけし種の草木 まで。シテ「花咲き実なることはり。地「そ の折々といひながら。シテ「唯これ雨露の めぐみにて。地「養ひ得ては。花の父母た る雨露の。翁も養はれて。此水に馴衣の。 袖ひぢて結ぶ手の。影さへ見ゆる山の井 の。実にも薬と思ふより。老の姿も若水 と見るこそ嬉しかりけれ。 ワキ詞「実にありがたき薬の水。急ぎ帰 りて我が君に。奏聞せんこそ嬉しけれ。 シテ詞「翁もかゝる御めぐみ広き御影を尊 めば。ワキ「勅使も重ねて感涙して。かゝ る奇特に遇ふ事よと。地歌「いひもあへね ば不思議やな。/\。天より光かゞや きて。滝の響も声すみて。音楽聞え花降

りぬ。これ唯事と。思はれずこれ唯事と 思はれず。来序中入間「。 後シテ出端「ありがたや治まる御代の習とて。 山河草木おだやかに。五日の風や十日の。 天が下照る日の光。曇はあらじ玉水の。 薬の泉はよも尽きじ。あらありがたの奇 瑞やな。地「これとても誓は同じ法の水。 尽せぬ御代を守るなる。シテ「我はこの山 山神の宮居。地「又は楊柳観音菩薩。シテ「神 といひ。地「仏といひ。シテ「唯これ水波の 隔にて。地「衆生済度の方便の声。シテ「峯 の嵐や。谷の水音滔々と。地「拍子を揃へ て音楽の響。滝つ心を澄ましつゝ。諸天

来去の。影向かな。神舞「。 シテワカ「松蔭に。千代をうつせる。緑か な。地「さもいさぎよき山の井の水。山の 井の水山の井の。シテ「水滔々として。波 悠々たり。治まる御代の。君は船。地「君 は船。臣は水。水よく船を。浮べ/\て。 臣よく君をあふぐ御代とて幾久しさも尽 せじや尽せじ。君に引かるゝ玉水の。 上澄む時は。下も濁らぬ滝津の水の。浮 き立つ波の。返す%\も。よき御代なれ や。よき御代なれや。万歳の道に帰りな ん。/\。 勅使 従者 天つ神 天女

ワキ、ワキツレ二人、次第「四方の雲霧収まりて。四方の 雲霧収まりて。のどけき日影仰がん。

ワキ詞「これは当今に仕へ奉る臣下なり。 さても今度御即位の大典ましますによ

り。奉告の宣旨を蒙り。唯今平安神宮へ と参向仕り候。急ぎ候ふ程に。これは 早神宮に着きて候。サシ「有難や宇内に国 は多けれど。類まれなる神国の。豊葦原 の秋津洲。天人和合三才の。徳具はりて 天雲の。向伏す限り谷蟆の。さわたる極 大君の。御稜威の光普くて。五日の風 も十日の。雨も時節を違へず。地「悠紀主 基の。御田も穂に穂をさかせつゝ。/\。 天の漿に類ふべき。黒酒白酒も数々の甕 に溢るゝばかりなり。百官卿相雲客も。 千代に八千代と寿ぎて。五節の舞や種々 の。いとも妙なる音楽に。感涙肝に銘じ ける。事の由をも神前に。聞え上げんと。 伏し拝む聞え上げんと伏し拝む。ワキ詞「わ れこの宮居に詣でつゝ。奉告の式こと終 り。心を澄ます。折しもあれ。地「不思議 や社壇の方よりも。不思議や社壇の方よ りも。異香薫じて瑞雲たなびき微妙の音

楽聞え来て。天津少女の舞の袖。返す返 すも。おもしろや。天女舞「。 玉もゆらゝに少女子が。玉もゆらゝに少 女子が。羅綾の袂をひるがへし。五節 の舞の手。とり%\に。天津風さへこゝ しばし。雲の通路ふきとぢて。少女の姿 とゞむらん。神々もこれを愛でけるにや。 御殿俄に震動して。玉の階踏み轟かし。神 体出現。ましませり。シテ「あら有難の神 国やな。天地開けし初より。八百万の神達 守護し給へば。戎狄蛮夷の恐なく。万民 その堵に安んぜり。 ツレ「わきて明治聖帝の御代に至り。開国 進取の国是を定め。治に居て乱を忘れ給 はず。シテ「忠実勇武の民を養ひ。知能徳 器の成就をすゝめ。ツレ「天壌無窮の皇運 を。扶翼せよとの御志。シテ「されば今上 皇帝も。ツレ「父帝の遺詔を紹がせ給ひて。 シテ「允文允武八紘に。ツレ「国威を発揚し

給ふこと。シテ「鏡にかけて。見るごとし。 地「この聖徳を称へんと。天が下なる蒼 生も。思ひ/\に心をつくし。君が千歳 をことほげば。天の御神も万歳楽に。雲 の端袖をひるがへし。舞ひたまふ。神舞。 シテワカ「君が代は。千代に八千代に。さ ざれいしの。地「巌となりて苔のむす。巌 となりて苔のむす。幾久しとも尽せじ な尽せじ。右近の橘左近の桜も。い やましに栄え。恵の露に。霑ふ菊も。今 を盛と咲き匂ひ。鳳凰も御園の梧竹に 下り。丹頂の鶴は。汀に遊べば。図負へ る亀も。川を出でて。庭上に参向申しつ つ迦陵頻伽も御空に翔り。霓裳羽衣の曲 をなせば。山河草木。国土豊に四海の波 も。四方の国々も。靡く御代こそ。めで たけれ。 神霊の従属(男) 武内の神(前ハ老人) 鹿島神蔵

ワキ三人次第「御影を仰ぐこの君の。/\。四方 こそ静なりけれ。ワキ詞「抑これは鹿島の 神職筑波の何某とは我が事なり。偖も此 度都にのぼり。洛陽の寺社残なく拝み廻 りて候。又今日は南祭の由承り候ふ 間。八幡に参詣申さばやと存じ候。道行三人 「曇なき。都の山の朝ぼらけ。/\。気色も さぞな木幡山。伏見の里も遠からぬ。島 羽の細道うち過ぎて。淀の継橋かけまく も。忝しや神祭る。八幡の里に着きに けり/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これはは や八幡の里に著きて候。心静かに社参申 さうずるにて候。 シテ、ツレ二人真ノ一声「うろくづの。生けるを放つ川 波に。月も動くや秋の水。ツレ二ノ句「夕山松 の風までも。二人「神のめぐみの。声やら

ん。シテサシ「それ国を治め人を教へ。善を賞 し悪を去ること。直なる御代のためしな り。二人「かるが故に知れるはいよ/\万 徳を得。無知は又恵に適ひ。おのづから 積善の余慶殊に満ち。善悪の影響のごと し。かゝる御影の道広き。誓の海のうろ くづの。生きとし生ける物として。豊な る世に住まふ事。偏に当社の御利生なり。 下歌「仕へて年も千早ぶる神のまに/\ 詣で来て。此御代に。照る槻弓の八幡山。 /\。宮路のあとは久方の。雨つちくれ を湿して枝を鳴さぬ松の風。千代の声の みいや増しに。戴きまつる社かな/\。 ワキ詞「いかに是なる翁に尋ぬべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふ ぞ。ワキ「けふは八幡の御神事とて。皆々

清浄の儀式の姿なるに。翁に限り生き たる魚を持ち。真に殺生の業不審にこそ 候へ。シテ「けに/\御不審は御理。さて さて今日の御神事をば。なにとか知し召 されて候ふぞ。ワキ「さん候これは遠国よ り始めて参詣申して候ふ程に。委しき事 をば知らず候。いで此御神事をば放生会 とかや申すよなう。シテ「さればこそ放生 会とは。生けるを放つ祭ぞかし。御覧候 へ此魚は。生きたる魚をそのまゝにて。 ツレ「放生川に放さん為なり。知らぬ事を な宣ひそ。シテ「其上古人の文を聞くに。 シテツレ二人「方便の殺生だに。菩薩の万行には 超ゆると云ふ。ましてやこれは生けるを 放せば。魚は逃れわれは又。かへつて誓 の網に漏れぬ。神の恵を仰ぐなり。ワキ「げ にありがたき御事かな。さて/\生ける を放つなる。其御いはれは何事ぞ。ツレ「異 国退治の御時に。多くの敵を亡ぼし給ひ

し。幾生の善根のその為に。放生の御願 をおこし給ふ。ワキ「いはれを聞けばあり がたや。さて/\生けるを放つなる。川 は何れの程やらん。シテ詞「御覧候へこの小 河の。水の濁も神徳の。ワキ「誓は清き石 清水の。シテ「末は一つぞ此川の。ワキ「岸 に臨みて。シテ「水桶に。地「取り入るゝ。 此うろくづを放さんと。/\。裳裾も同 じ袖ひぢて。掬ぶやみづから水桶を。水 底に沈むれば。魚は悦び鰭ふるや水を穿 ちて岸陰の。潭荷葉動くこれ魚の遊ぶ有 様の。げにも生けるを放つなる御誓あら たなりけり。 ワキ詞「尚々当社の御事懇に御物語り候 へ。地「そも/\当社と申すは欽明天皇の 昔より。一百余歳の代々を経て。此山に 移りおはします。シテサシ「然るに宗廟の神と して。地「御代を守り国家を助け。文武二 つの道広く。九重続く八幡山。神にも御

名は八つの文字。シテ「それ諸仏出世の本 来空。地「真性不生の道を示し。八正道を 顕し人仏不二の。御心にて。正直のかう べに宿り給ふ。クセ「人の国より我が国。 他の人よりも我が人と。誓はせ給ふ御恵。 げにありがたやわれら如きのあさまし き。迷を照し給はんの。其御誓願まのあ たり。行教和尚の御法の袖に影うつる。 花の都を守らんと。南の山にすむ月の。 光も三つの衣手に映り給へり。さればに や宗廟の。跡明かに君が代の。すぐなる 道を顕し。国富み民の竃まで。にぎはふ 鄙の貢舟四海の波も静なり。シテ「利益諸 衆生の御誓。地「二世安楽の。神徳は猶栄 ゆくや。男山にし松立てる。梢も草も吹 く風は。皆実相の響にて。峯の山神楽。 其外里神楽。懺悔の心夢覚め。夜声もい とゞ神さびて。月かげろふの石清水の。 浅からぬ誓かな。げに浅からぬ誓かな。

ロンギ地「不思議なりとよ老人よ。/\。 かほど委しく木綿しでの。神の告かやあ りがたや。シテ「代々につかへし古も。二 百余歳の春秋を。地「送り迎へて神徳を受 けし身の齢武内の神は我なりと。名のり もあへず男山。鳩の杖にすがりて山上さ して上りけり/\。 ワキ、三人上歌待謡「猶照せ。代々に変らぬ男山。/\。 仰ぐ嶺より月影の。さやかに出でて隈も なく。声澄み上る気色かな/\。後シテ出端「あ りがたや百王守護の日の光。ゆたかに照 らす天が下。幾万代の秋ならん。和光の 影も年を経て。神と君とに仕への臣。武 内と申す老人なり。地「末社は各々出現し て。けふ待ち得たる放生の。神の御幸を 早むれば。シテ「御前飛び去る鳩の嶺。 地「山下に連なる神拝の社人。シテ「小忌 の衣の袖を連ね。地「千早ふるなり。あま 乙女。シテ「久方の。月の桂の男山。地「さ

やけき影は処から。真ノ序ノ舞 ロンギ地「さては神代も和歌を上げ。/\。 舞をまひけるめでたさよ。シテ「なか/\ 小忌の御衣をめし。おの/\舞をまひ給 ふ。地「さらば四季の和歌を上げ。其品か へて舞ひ給へ。シテ「春は霞の和歌を上げ て。喜春楽を舞はうよ。地「さて又夏にか かりては。いかなる舞をまひ給ふ。 シテ「かたへ涼しき川水に。浮みて見ゆる 盃の。傾盃楽を舞はうよ。地「始めて長 き夜も更くる。風の音に驚くは。誰が踏

む舞の拍子ぞ。シテ「秋来ぬと。目にはさ やかに見えずとも秋風楽を舞はうよ。 地「日数も積る雪の夜は。シテ「回雪の袖 を翻し。地「さて百敷の舞には。シテ「大宮 人のかざすなる。地「桜。シテ「橘。地「もろ ともに。花の冠をかたぶけてやうこくよ りも立ち廻り。北庭楽を舞ふとかや。さ のみは何と語るべき。詞の花も時を得て。 其風猶も盛にて鬼も神も納受する和歌の 道こそめでたけれ/\。 梅津某 従者二人 老人 梅男 老松の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「げに治まれる四方の国。/\。 関の戸さゝで通はん。ワキ詞「そも/\是は 都の西。梅津の何某とは我が事なり。わ れ北野を信じ。常に歩を運び候ふ所に。 ある夜の霊夢に。我を信ぜば筑紫安楽寺

に参詣申せと。あらたなる御霊夢を蒙り て候ふ間。たゞ今九州に下向仕り候。 道行三人「何事も。心にかなふ此時の。/\。 ためしもありや日の本の。国豊なる秋津 洲の。波も音なき四つの海。高麗唐も残

なき。御調の道の末こゝに。安楽寺にも 着きにけり/\。 シテ、ツレ真ノ一声「梅の花笠。春も来て。縫ふてふ 鳥の。梢かな。ツレ二ノ句「松の葉色も時めき て。二人「十返ふかき。緑かな。シテサシ「風を逐 つてひそかに開く。年の葉守の松の戸に。 二人「春を迎へて忽ちに。うるほふ四方の 草木まで。神の恵に靡くかと。春めきわ たる盛かな。下歌「歩を運ぶ宮寺の光のど けき春の日に。上歌「松が根の。岩間をつ たふ苔莚。/\。敷島の道までもげに末 ありや此山の。天ぎる雪の古枝をも。惜 まるゝ花盛。手折りやすると守る梅の。 花垣いざや囲はん梅の花垣をかこはん。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ね申すべ き事の候。シテ詞「此方の事にて候ふか何 事にて候ふぞ。ワキ「聞き及びたる飛梅と は何れの木を申し候ふぞ。ツレ「あら事も 愚や我等はたゞ。紅梅殿とこそあがめ申

し候へ。ワキ「げに/\紅梅殿とも申すべ きぞや。忝くも御詠歌により。今神木と なり給へば。あがめても猶あきたらずこ そ候へ。シテ詞「さて此方なる松をば。何と か御覧じ分けられて候ふぞ。ワキ「げにげ にこれも垣結びまはし御注連を引き。誠 に妙なる神木と見えたり。いかさまこれ は老松の。シテ詞「遅くも心得給ふ物かな。 シテツレ「紅梅殿は御覧ずらん。色も若木の 花守までも。花やかなるに引きかへて。 地歌「守る我さへに老が身の。影ふるびた る待つ人の。翁さびしき木のもとを。老 松と御覧ぜぬ神慮もいかゞ恐ろしや。 ワキ詞「猶々当社のいはれ委しく御物語り 候へ。シテサシ「まづ社壇の体を拝み奉れば。 北に峨々たる青山あり。地「朧月松閣の 中に映じ。南に寂々たる瓊門あり。斜日 竹竿のもとに透けり。シテ「左に火焔の輪 塔あり。地「翠帳紅閨の粧昔を忘れず。

右に古寺の旧跡めり。晨鐘夕梵の響絶ゆ ることなし。クセ「けにや心なき。草木な りと申せども。かゝる浮世の理をば。 知るべし/\諸木の中に松梅は。殊に天 神の。御自愛にて紅梅殿も老松も皆末社 と現じ給へり。されば此二つの木は。我 が朝よりもなほ。漢家に徳を現し。唐 の帝の御時は。国に文学盛んなれば花の 色を増し。匂常より優りたり。文学すた れば匂もなく。其色も深からず。さてこ そ文を好む木なりけりとて梅をば。好文 木とは附けられたれ。さて松を。大夫と いふ事は。秦の始皇の御狩の時。天俄に かき曇り大雨頻りに降りしかば。帝雨を。 凌がんと小松の蔭に寄り給ふ。此松俄に 大木となり。枝を垂れ葉をならべ。木の 間透間を塞ぎて。其雨を漏らさゞりしか ば。帝大夫といふ爵を贈り給ひしより松 を大夫と申すなり。シテ「かやうに名高き

松梅の。地「花も千代までの。行く末久に 御垣守。守るべし/\や神はこゝも同じ 名の。天満つ空も紅の。花も松ももろ ともに。(注)万代の春とかや千代万代の 春とかや。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「嬉しきかなやいざさらば。 /\。此松蔭に旅居して。風も嘯く寅の 時。神の告をも待ちて見ん/\。 後シテ出端「如何に紅梅殿。今夜の客人をば。 何とか慰め給ふべき。地「げにめづらか に春も立ち。シテ「梅も色そひ。地「松とて も。シテ「名こそ老木の若緑。地「空すみ渡 る神々楽。シテ「歌を歌ひ。舞をまひ。 地「舞楽を備ふる宮寺の。声も満ちたる。 有難や。真ノ序ノ舞「。 シテワカ「さす松の。地「さす枝の。梢は若木 の花の袖。シテ「これは老木の神松の。 地「是は老木の神松の千代に八千代に。 さゞれ石の。巌となりて。苔のむすまで。

シテ「苔のむすまで松竹。亀鶴の。地「齢 をさづくる此君の。行く末護れと我が神 託の。告を知らする。松風も梅も。久し き春こそ。めでたけれ。

(注) 原文は。「神さびて失せにけりあと 神さびて失せにけり。」とありしを 徳川氏の松平姓を憚りて諷ひかへ たるものなり。 白楽天 従者 漁翁 住吉明神

半開ロワキ「抑これは。唐の太子の賓客。 白楽天とは我が事なり。詞「扨も是より東 に当つて国あり。名を日本と名づく。急ぎ 彼の上に渡り。日本の智恵を計れとの宣旨 に任せ。唯今海路に赴き候。ワキ、ワキツレ二人次第「舟 漕ぎ出でて日の本の。/\。其方の国を 尋ねん。道行三人「東海の。波路遥に行く舟の。 /\。跡に入日の影残る。雲の旗手の天 つ空。月また出づる其方より。山見えそめ て程もなく。日本の地にも着きにけり。 /\。ワキ詞「海路を経て急ぎ候ふ程に。是 ははや日本の地に着きて候。暫く此処に

碇をおろし。日本のやうを眺めばやと存 じ候。 シテツレ真ノ一セイ「不知火の。筑紫の海の朝ばらけ。 月のみのこる。けしきかな。シテ「巨水漫 漫として碧浪天を浸し。二人「越を辞せし 范蠡が。扁舟に棹をうつすなる。五湖の 煙の波の上。かくやと思ひ知られたり。 あらおもしろの海上やな。下歌「松浦潟。 西に山なき有明の。上歌「月の入る。雲も 浮むや沖つ舟。/\。互にかゝる朝まだ き。海は其方か唐土の。船路の旅も遠か らで。一夜泊と聞くからに。月も程なき。

名残かな/\月も程なき名残かな。 ワキ詞「我万里の波涛を凌ぎ。日本の地に も着きぬ。是に小船一艘浮めり。見れば 漁翁なり。如何にあれなるは日本の者か。 シテ「さん候是は日本の漁翁にて候。御身 は唐の白楽天にてましますな。ワキ「不思 議や。始めて此土に渡りたるを。白楽天 と見る事は。何の故にてあるやらん。 ツレ「其身は漢土の人なれども。名は先立 つて日本に聞ゆ。隠なければ申すなり。 ワキ「たとひ其名は聞ゆるとも。それぞと やがて見知る事。あるべき事とも思はれ ず。シテツレ二人「日本の智恵を計らんとて。楽 天来り給ふべきとの。聞えは普き日の本 に。西を眺めて沖の方より。船だに見ゆ れば人毎に。すはやそれぞと心づくしに。 地歌「今や/\と松浦舟。/\。沖より。 見えて隠なき。唐土舟の唐人を。楽天と 見ることは何か空目なるべき。むつかし

や言さやぐ。唐人なれば御詞をもとても 聞きも知らばこそ。あらよしな釣竿の暇 をしや。釣垂れん暇をしや釣たれん。 ワキ詞「なほ/\尋ぬべき事あり舟を近づ け候へ。如何に漁翁。さて此頃日本には 何事を翫ぶぞ。シテ「さて唐土には何事を。 翫び給ひ候ふぞ。ワキ「唐には詩を作つ て遊ぶよ。シテ詞「日本には歌をよみて人 の心を慰め候。ワキ「そも歌とは如何に。 シテ「それ天竺の霊文を唐土の詩賦とし。 唐土の詩賦を以て我が朝の歌とす。され ば三国を和らげ来るを以て。大きに和ぐ と書いて大和歌と読めり。しろし召され て候へども。翁が心を御覧ぜんため候ふ な。ワキ「いや其儀にてはなし。いでさら ば目前の景色を詩に作つて聞かせう。青 苔衣をおびて巌の肩にかゝり。白雲帯に 似て山の腰をめぐる。心得たるか漁翁。 シテ「青苔とは青き苔の。巌の肩にかゝれ

るが衣に似たるとかや。白雲帯に似て山 の腰をめぐる。おもしろし/\。日本の 歌もたゞこれさふらふよ。苔衣着たる 巌はさもなくて。衣着ぬ山の帯をするか な。ワキ「不思議やなその身は賎しき漁翁 なるが。かく心ある詠歌を連ぬる。其身 は如何なる人やらん。シテ「人がましやな 名もなき者なり。されども歌を詠む事は。 人間のみに限るべからす。生きとし生け る物毎に。歌をよまぬは無きものを。 ワキ「そもや生きとし生ける物とは。さて は鳥類畜類までも。シテ「和歌を詠ずるそ の例。ワキ「和国に於て。シテ「証歌多し。 地歌「花に鳴く鴬。水に住める蛙まで。唐 土は知らず日本には。歌をよみ候ふぞ翁 も。大和歌をばかたの如くよむなり。 クセ「そも/\鴬の。歌をよみたる証歌に は。孝謙天皇の御宇かとよ。大和の国。 高天の寺に住む人の。しきねんの春の頃。

軒端の梅に鴬の。来りて鳴く声を聞けば。 初陽毎朝来。不遭還本栖と鳴く。文字に 写してこれを見れば。三十一文字の。詠 歌の詞なりけり。シテ「初春の。あした毎 には来れども。地「あはでぞ帰る。もとの すみかにと聞えつる鴬の声を初として。 その外鳥類畜類の。人にたぐへて歌をよ む。例は多くめりそ海の。浜の真砂の数 数に。生きとし生ける物何れも歌をよむ なり。 ロンギ地「実にや和国の風俗の/\。心有 りける蜑人の。実にありがたき習かな。 シテ「とても和国の翫。和歌を詠じて舞 歌の曲。そのいろ/\を顕さん。地「そ もや舞楽の遊とは。その役々は誰なら ん。シテ「誰なくとても御覧ぜよ。我だに あらば此舞楽の。地「鼓は波の音笛は竜の 吟ずる声。舞人は此尉が老の波の上に立 つて。青海に浮みつゝ。海青楽を舞ふべ しや。シテ「芦原の。地「国も動かじ万代

までに。来序中入間「。後シテ「山影の。うつる か水の青き海の。地「波の鼓の。海青楽。 真ノ序ノ舞「。シテワカ「西の海。檍が原の波間よ り。地「現れ出でし住吉の神。住吉の神住 吉の。シテ「現れ出でし住吉の。地「住吉 の神のカのあらん程は。よも日本をば。 従へさせ給はじ。速に浦の波。立ち帰り給 ヘ楽天。 地「住吉現じ給へば/\。伊勢石清水 賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。安芸の厳 島の明神は。娑竭羅竜王の第三の姫宮に て。海上に浮んで海青楽を舞ひ給へば。 八大竜王は。八りんの曲を奏し。空海に 翔りつゝ。舞ひ遊ぶ小忌衣の。手風神風 に。吹きもどされて。唐船は。こゝより。 漢土に帰りけり。実に有難や。神と君。 実に有難や。神の君が代の動かぬ国ぞ久 しき動かぬ国ぞ久しき。 鶴亀(謡ナシ) 皇帝 大臣

シテサシ真ノ来序「夫青陽の春になれば。四季の節 会の事始。地「不老門にて日月の。光を天 子の叡覧にて。シテ「百官卿相に至るま で。袖を連ね踵を接いで。地「其数一億百余 人。シテ「拝をすゝむる万戸の声。地「一同 に拝する其音は。シテ「天に響きて。地「夥 し。上歌「庭の砂は金銀の。/\。玉を連 ねて敷妙の。五百重の錦や瑠璃の枢。{石+車} {石+渠}の行桁瑠璃の橋。池の汀の鶴亀は。蓬

莱山もよそならず。君の恵ぞありがたき/\。 ワキ詞「いかに奏聞申すべき事の候。毎年 の嘉例のごとく。鶴亀を舞はせられ。其 後月宮殿にて舞楽を奏せられうずるにて 候。シテ詞「ともかくも計らひ候へ。地「亀 は万年の齢を経。鶴も千代をや。かさぬ らん。子方二人中ノ舞「。上歌「千代のためしの数々に。 /\。何を引かまし姫小松の。緑の亀も。 舞ひ遊べば。丹頂の鶴も。一千年の。齢 を君に。授け奉り。庭上に参向申しけ れば。君も御感の余りにや。舞楽を奏し て舞ひ給ふ。月宮殿の白衣の袂。月宮殿 の白衣の袂のいろ/\妙なる。花の袖。 秋は時雨の紅葉の羽袖。冬は冴えゆく雪 の袂を。翻へす衣も薄紫の。雲の上人

の舞楽の声々に霓裳羽衣の曲をなせば。 山河草木国土豊に。千代万代と舞ひ給へ ば。官人駕輿丁御輿を早め。君の齢も長

生殿に。/\。還御なるこそ。めでた けれ。 西王母(前ハ男) 東方朔(前ハ老人) 帝王 侍臣

ワキサシ真ノ来序「面白や四時移り易くして。春過 ぎ夏暮れ今ははや。初秋の七日七夕の。 星の祭を急ぐなり。ツレ「帝の御殿は承華 殿。ワキ「さながら花の袖を連ぬ。ワキツレ「七宝 の台金銀の床に。君を始め奉り。ワキ「官 軍おの/\。ワキツレ「並み居つゝ。上歌地「御遊 をなして種々の。/\。楽尽きぬその 気色。音に聞く喜見城も。これにはいか で勝るべき。唯これ君の御威光。広き恵 はありがたや/\。 シテ、ツレ二人真ノ一声「治まれる。御代の光に数なら ぬ。身までも安き。住まひかな。ツレ二ノ句「恵

も広き此君の。二人「御影を頼む。ばかり なり。シテ「それ賢王の御代のしるし。五 日の風や十日の雨。二人「湿ふ四方の草木 まで。靡き随ふ。この時に。生れあふ身 は頼もしや。下歌「時しもけふは七夕の。 逢ふ瀬を急ぐ頃なれや。上歌「秋来ぬと。 目に見ぬ空はおのづから。/\。音かへ て吹く風の。袖も涼しきタまぐれ。靡く 稲葉の色までも。千年の秋のはじめか な/\。 シテ詞「如何に奏聞申すべきことの候。 ワキツレ「奏聞申さんとはいかなるものぞ。 シテ「これは此国の傍に住むものにて候 ふが。申し上げたき子細の候ひて参内申 して候。ワキツレ「さらば此方へ参り候ヘ。

シテ「これは此国の傍に住む者にて候ふ が。めでたき瑞相の御座候ひて参りて 候。此程三足の青鳥御殿の上を飛び廻り 候。これ西王母が寵愛の鳥にて候。即ち 西王母此君へ参礼申すべし。此事奏聞申 さん為に参りて候。ワキ「かゝるめでたき 事こそ候はね。尚々仙人の謂懇に物語 り候へ。 クリ「それ仙郷といつぱ。人間に交はら ず。松の葉をすき苔を身に着て。年は経 れども楽尽きず。飛行自在の通を得る。 シテサシ「忝くも悉達太子は。仙人に仕へお はしまし。地「採果汲水年を経て。終に成 道し給ひて。大聖世尊となり給ふ。クセ「然 るに仙人のその数。限も知らぬ中にも。 西王母と聞えしは。西方極楽無量寿仏の

化現なれば。はかりなき命の仙人となる ぞめでたき。されば園生に植うる桃の。 三千年に一度花咲き実なる此木の仙薬と なるぞ不思議なる。シテ「今は包まじわれ こそは。地「其名も世々に隠なき東方 朔と聞えしは。此老翁が事なり。君桃実 をきこしめさば。御寿命長遠に。御身 も息災なるべし。急ぎ王母を伴なひ重ね て参内申さんと庭上を立つて帰る波の。 声ばかり残りつゝ。形は雲に入りにけり 形は雲に入りにけり。来序中入。 後シテ出端「抑これは。仙郷に入つて年久し き。東方朔とは我が事なり。さてもれれ 西王母が桃実を度々服せし其故に。寿命 既に九千歳におよべり。彼の桃実を君に さゝげ申さんとの誓あり。いかにやいか に西王母。とく/\参内申すべし。地「不 思議や西の。空よりも。/\。白雲一村 下ると見えしが。三足の青鳥。翅をならべ

て。飛び廻り。姿も妙なる王母の出立。 光も輝く衣冠を着し。斑竜に乗じで顕れ 給ふ。まのあたりなる。奇特かな。 後ツレ「王母は庭上に歩み出て。地「王母は 庭上に歩み出でて。かの桃実を捧げ持つ て。上覧に備ヘ。奉れば。帝王御感の。 余にや。糸竹の調。数を尽し。皆一同に。 奏で給ふ。舞楽の秘曲は面白や。

上「舞楽も漸う時過ぎて。/\。夕陽西 に。傾きければ。おの/\君に。御暇申 し。帰らんとせしに。帝王名残を。惜み 給ひ。かさねて参内申すべしと。宣旨を 蒙り二人は伴出でけるが。王母は斑竜 にゆらりと打ち乗り遥の雲路に攀ぢ上 り。遥の雲路に攀ぢ上つて。又天上にぞ。帰りける。 勅使 従者 漁翁 漁夫 白髭明神 天女 竜神

ワキ、ワキツレニ人次第「君と神との道直に。/\。治ま る国ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは当今 に仕へ奉る臣下なり。扨も江州白髭の明 神は。霊神にて御座候。君此程不思議の 御霊夢の御告ましますにより。急ぎ参詣 申せとの宣旨を蒙り。唯今白髭の明神に。

勅使に参詣仕り候。道行三人「九重の空も長 閑けき春の色。/\。霞む行くへは。花 園の志賀の山越うち過ぎて。真野の入江 の道すがら。鳰の浦風さえかへり。立ち 寄る波も白髭の。宮居にはやく着きにけ り/\。

シテ、ツレ二人真ノ一声「釣のいとなみ。いつまでか。隙 も波間に。明け暮れん。ツレ二ノ句「棹さしなる る海士小舟。二人「渡り兼ねたる浮世か な。シテ「風帰帆を送る万里の程。江天渺 渺として水光平かなり。二人「舟子は解 くこれ明朝の雨。おもしろや頃しも今は 春の空。霞の衣ほころびて。峯白妙に咲 く花の。嵐も匂ふ。日影かな。下歌「賎し き海士の心まで。春こそ長閑けかりけ れ。上歌「花誘ふ比良の山風吹きにけり。 /\。漕ぎ行く舟のあと見ゆる。鳰の浦 曲もはる%\と。かすみ渡りて天つ雁。 かへる越路の山までも。眺に続く気色か な/\。 ワキ詞「いかにこれなる翁。汝は此浦の者 か。シテ詞「さん候此浦の漁夫にて候ふが。 朝な/\沖に出で釣を垂れ候。まづ御姿 を見奉れば。このあたりには見馴れ申さ ね御事なり。もし都よりの御参詣にて御

座候ふか。ワキ「実によく見てあるものか な。これは当今に仕へ奉る臣下なるが。 君此程不思議の御霊夢の御告ましますに より。勅使に参詣申して候。シテ「有難や 君としてだにかほどまで。敬ひ給ふ御神 の。御威光の程こそ有難けれ。シテツレ二人「賎 しき海人の此身までも。直なる御代に。 あふみの梅の。深き恵を頼むなり。ワキ「実 に誰とても君を仰ぎ。神を敬ふ心あらば。 などか恵に預からざらん。シテ「殊更こゝ は。ワキ「処から。地歌「瑞垣の。年も経にけ り白髭の。/\。神の誓は今とても。変 らざりけり。実に有難や頼もしや。我は 心もなみ小舟。釣の翁の身ながらも。安 く楽む此時に。生れあふ身は。有難や 生れあふ身は有難や。 地クリ「夫れこの国の起家々に伝る所。お の/\別にして。其説よち/\なりとい へども。暫く記する所の一義に依らば。

天地既に分つて後。第九の減劫人寿二万 歳の時。シテサシ「迦葉世尊西天に出世し給ふ 時。地「大聖釈奠其授記を得て。都率天 に住し給ひしが。シテ「我八相成道の後。 遺教流布の地いづれの所にか有るべきと て。地「此南瞻部州を普く飛行して御覧じ けるに。漫々とある大海の上に。一切衆 生悉有仏性如来。常住無有変易の波の声。 一葉の芦に凝り固まつて。一つの島とな る。今の大宮権現の。橋殿なり。 クセ「其後人寿。百歳の時。悉達と生れ給 ひて。八十年の春の頃。頭北面西右脇臥 抜提の波と消え給ふ。されども仏は。常住 不滅法界の。妙体なれば昔。芦の葉の島 となりし中つ国を御覧ずるに時は鵜草。 葺不合の。尊の御代なれば仏法の妙事 人知らず。こゝに比叡山の麓さゝ波や。 志賀の浦の辺に釣を垂るゝ老翁あり。釈 尊かれに向つて。翁もし。此地の主たら

ば此山を我に与へよ。仏法結界の。地と なすべしと宣へば。翁答へて申すやう。 我人寿。六十歳の始より。此山の主とし て。此湖の七度まで。芦原になりしを も。正に見たりし翁なり。但この地。結 界となるならば。釣する所失せぬべしと 深く惜み申せば。釈尊力なく。今は寂光 土に。帰らんとし給へば。シテ「時に東方 より。地「浄瑠璃世界の主薬師。忽然と出 で給ひて。善きかなや。釈尊此地を弘め。 給はん事よ我人寿二万歳の昔より。此処 の主たれど。老翁いまだ我を知らず。な んぞ此山を惜み申すべきはや。開闢し給 へ我も此山の主となつて。共に後五百歳 の。仏法を守るべしと。堅く誓約し給ひ て。二仏東西に去り給ふ。其時の翁も。 今の白髭の神とかや。 ワキ詞「不思議なりとよか程まで。妙なる 神秘を語る翁の。其名は如何におぼつか

な。シテ「今は何をか包むべき。其古も 釣を垂れし翁なるが。勅使を慰め申さん とて。唯今こゝに来りたり。殊更今宵は 天灯竜灯。神前に来現の時節なれば。暫 く待たせ給ふべしと。地歌「夕の雲も立ち 騒ぎ。/\。汀に落ちくる風の音老の波 もよりくる。釣の翁と見えつるが。我白 髭の神ぞとて玉の。扉を押し開き杜壇 に入らせ給ひけり社壇に入らせ給ひけ り。来序中入間「。 地出端「八乙女の。返す袂の色々に。宜禰 が鼓も声すみて。神さび渡れるをりから かな。 後シテ「神は人の敬ふによつて威を増す。 ましてやこれは勅の使。仰ぎてもなほ余 あり。地歌「不思議や社壇の内よりも。 /\。誠に妙なる御声を出し。扉もお のづから。朱の玉垣かゝやき渡る。白髭 の。神の御姿。現れたり。

ワキ「あら有難の御事や。かゝる奇特に逢 ふ事も。唯これ君の御蔭ぞと。感涙袖を 湿せり。シテ「いざ/\さらば夜もすが ら。舞楽の曲を奏しつゝ。勅使を慰め申さ んと。地歌「神楽催馬楽とり%\に。/\。 糸竹の役々秘曲を尽し。拍子を揃へて夜 遊の舞楽は有難や。 シテ「面白や此舞楽。地「面白や此舞楽の。 鼓は自ら。磯打つ波の声。松風は琴を調 べ。心耳を澄ますをりからに。天つ御空 の雲井かゝやき渡り。湖水の面鳴動する は天灯竜灯の来現かや。出端にて天女出でゝ早苗にて竜神出づ。 地歌「天地の両灯現れて。/\。神前 に供ふる御灯の光。山河草木かゝやき渡 り。日夜の勝劣見えざりけり。竜神舞働。 シテ「かくて夜もはや明方の。地「かくて 夜もはや明方になれば。各神前に御暇 申し。帰れば明神も御声をあげて。善哉 善哉と。感じ給へば天女は天路に又立ち

帰れば。竜神は湖水の。上に翔つて波を 返し。雲を穿ちて大地に別れて飛び去り 行けば。明け行く空も。白髭の。明け行

く空も白髭の神風。治まる御代とぞ。な りにける。 竜神 宮人 天女 杵築天神(前ハ宮老人) 臣下

ワキ三人次第「誓あまたの神祭。/\。出雲の 国を尋ねん。ワキ詞「抑これは当今に仕へ 奉る臣下なり。さても出雲の国に於 て。今月は神有月とて諸神影向なり。御 神事様々のよし承り及び候ふ程に。此度 参詣仕り候。道行「朝立つや。旅の衣の遥 遥と。/\。ゆくへ時雨るゝ雲霧の。山 又山を越え過ぎて。神有月を名にしお ふ。出雲の国に着きにけり。/\。 シテツレ二人真ノ一声「八雲立つ。出雲八重垣妻こめ し。宮路にはこぶ歩かな。ツレ二ノ句「尾上の 松の梢まで。二人「神風さそふ声ならん。

シテ「実にや濁世の人間と。生れ来ぬれど 誓ある。二人「神に事ふる身にしあれば。 洩れぬ恵にかゝり来て。心のまゝの春秋 を。送り迎へて。年月の尽きせぬ代々 を頼むなり。下歌「いざや歩を運ばん。 /\。上歌「いづくにか神の宿らぬ蔭なら ん。/\。嶺もをの上も松杉も。山河海 村野田残る方なく神のます。御影を受け て。隔なき。宮人多き往来かな/\。 ワキ詞「われ出雲の国大社に参り。案内を 窺ふ所に。宮人数多来れり。いかに方々 に申すべき事の侯。シテ「これは此あたり

にては見馴れ申さぬ御事なり。いづくよ りの御参詣にて候ふぞ。ワキ「さん候是は 朝に隙なき身なれども。当国に於て今月 は神有月とて。諸神残らず影向の地と承 り及びて候へば。この度君に御暇を申し。 遥々参詣申したり。ツレ「げにありがたや 神と君との。ワキ「隔なき世のしるしと て。シテ「歩を運ぶ此神の。ワキ「恵普き。 シテ「月影も。地「神の世を。思ひ出雲の 宮柱/\。太敷き立ちて敷島の。大和 島根まで。動かぬ国ぞ久しき。げにや。紅 も。深くなりゆく梢より。時雨れて渡る 深山辺の。里も冬立つ気色かな/\。 ワキ詞「不知案内の事にて候へば。当社の 神秘委しく御物語り候へ。地クリ「そも/\ 出雲の国大社は。三十八社を。勧請の 地なり。シテ「然るに五人の王子おはし ます。地「第一は阿受岐の大明神と現れ給 ふ。山王権現これなり。シテ「第二にはみ

なとの大明神。地「九州宗像の明神と現 れ給ふ。第三は伊奈佐の。速玉の神。常 陸鹿島の。明神とかや。クセ「第四には鳥 屋の大明神。信濃の諏訪の明神と。即ち 現じおはします。第五には出雲路の大明 神。伊予の三島の明神と。現れ給ふ御誓。 げに曇なき長月や。月の晦日にとりわき て。シテ「住吉一処は影向なる。地「残の 神々は。十月一日の寅の時に悉く影向 なり。様々いろ/\の神遊。今も絶えせ ぬこの宮居。語るもなか/\愚なる誓な るべし。ロンギ「げにありがたき物語。/\。 末世ながらも隔なき。神の威光ぞあらた なる。シテ「なか/\なれや年々に。けふ の今宵の神遊。地「その役々も。シテ「数々 に。地「あらぶる神たちの舞歌の袖。引く や御注連の名はたれと。白木綿かくる玉 垣に。立ちよると見えつるが。神の告ぞ と言ひ捨てゝ。社壇に入りにけり。社壇

の内に入りにけり。来序中入。 天女出端上(謡掛)「時雨るゝ空も雲晴れて。月も輝 く玉の御殿に。光を添ふる気色かな。 後ツレ「われはこれ。出雲の御崎に跡を垂 れ。仏法王法を守の神。本地十羅刹女の 化現なり。地「容顔美麗の女体の神。/\。 光も輝く玉の笄。かざしも匂ふ。袂を返 す。夜遊の舞楽は。おもしろや。天女舞。 上「げに類なき舞の袖。/\。靡くや雲 の絶間より諸神は残らず現れ給ひ。舞楽 を奏し神前に飛行しはやとく姿を現し給 へと。夕の月も。雲晴れて。尤も朱の。 玉垣輝き。神体現れ。おはします。 ロンギ「げにや尊き御相好。/\。まのあ たりなる神徳を。受くるも君の恵かな。 シテ「とても夜遊の神祭。委しくいざや 現し。かの客人を慰めん。地「さて神楽の 役々は。地「住吉鹿島。地「諏訪熱田。其他 三千世界の諸神はこゝに影向なり。とり

どりの小忌の袖。返す%\も面白や。 地「舞楽も今は時過ぎて。/\。更け行く 空も。時雨るゝ雲の。沖より颶風。吹き 立つ波は。海竜王の出現かや。早笛竜神「抑 これは。海竜王とは我がことなり。詞さ ても毎年竜宮より。黄金の箱に小竜を入 れ。神前に捧げ申すなり。地「竜神即ち現 れて。/\。波を払ひ潮を退け。汀に上 り御箱をすゑおき。神前を拝し。渇仰せ り。その時竜神御箱の蓋を。忽ち開き。 小竜を取り出し。即ち神前に捧げ申し。 海陸共に。治まる御代の。げにありがた き。めぐみかな。舞働。 シテ「四海安全に国治まり。地「四海安全 に国治まつて。五穀成就。福寿円満にい よ/\君を守るべしと。木綿四手の数々 神々とり%\に御前を払ひ。神あげのみ 山に上らせ給へば。竜神平地に波浪を起 し。逆巻く潮に引かれゆけば。諸神は虚

空に遍満しつゝ。げにあらたなる。神は 社内。げにあらたなる神は社内。竜神は

海中に入りにけり。 勅使 従者 老人 老女 源太夫の神 橘姫

ワキ、ワキツレ二人次第「曇なき名の日の本や。/\。熱 田の宮に参らん。ワキ詞「そも/\これは当 今に仕ヘ奉る臣下なり。さても尾州熱田 の明神は霊神にて御座候ふ間。急ぎ参詣 申せとの宣旨を蒙り。唯今熱田の明神へ 参詣仕り候。道行三人「何事も道ある御代の 旅とてや。/\。関の戸さゝで逢坂の山 を都の名残にて。末も東の道遠き。行く へなれども程もなく。国々過ぎてこれぞ 此。熱田の宮に着きにけり/\。 シテツレ真ノ一声「朝清め。落葉を掃ふ程ならし。 風をも松の。木蔭かな。ツレ二ノ句「神の御前の 瑞籬の。二人「久しき代より仕ヘ来ぬ。

サシシテ「これは当社に年ひさしき。夫婦の者 にて候ふなり。二人「それ千早振る神の職 事。さま%\なりと申せども。こゝは 処も浦さびて。眺の末は海山の。雲と波 とに移り行く。気色ぞかはる明暮に。馴 れても通ふ心とて折々毎にめづらしさ よ。もとよりも誓の海の底ひなく。深き 教の彼の国に。安く至らん法の御舟。仏 の道もよそならぬ。神の恵を頼むなり。 下歌「歩を運び年月を送り迎へて老が身 の。上歌「夙に起き夜半に寐覚め仕へてぞ。 /\。ながらへ来ぬる春秋の。月に馴れ 花に添ふ心も老と身はなりて。誠を致す

志。実に神感も頼もしや/\。 ワキ詞「我暁天より星を戴き。宮中を拝す る所に。これなる老人夫婦神前を清め御 垣を囲ふ気色見えたり。御身は宮づこに てましますか。シテ「さん候これは当社の 宮づこにて候。分きては御垣守にて候ふ 程に古りたる処をかこひ。時々は庭を情 め信心を致し候。 ワキ「実に/\有難う候。大方神前に於て 御垣を囲ひ申さるゝ事と云ひながら。先 は大内の御垣守とこそ申すべけれ。分き て当社の御垣を囲ふ謂の候ふやらん。 シテ「御不審は御理にて候。忝くも当 社と申すは。出雲の大社と御一体の御事 ぞかし。ツレ「然るに往時素盞嗚の尊。出 雲の団に至り給ひ。御宮造ありし時。 シテツレ二人「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに。八 重垣作る其八重垣を。こゝにも由緒はあ るものを。不審な為させ給ひそとよ。

ワキ「謂を聞けばありがたや。さては出雲 と御一体。和光垂跡の御事なるか。なほ なほ謂を語り給へ。シテ詞「景行第三の皇子 日本武の尊と申しゝは。東夷を平らげ国 家を鎮め。終にはこゝに地を占め給ふ。 ツレ「これ素盞嗚の御再来。衆生済度の方 便にて。シテ「或は人の代。シテツレ二人「或は又。 地「神の代を思ひ出雲の宮柱。/\。立 ち添ふ雲も八重垣の。こゝも隔は名も異 に。誓は様々変れども。一体分身の御神 所。一心に仰ぎ給へや。時は三伏の夏の日 の熱田の宮路浦伝ひ。近く鳴海の磯の波。 松風の声寐覚の里。聞くにも心涼しく。老 の身も夏や忘るらん/\。ワキ詞「猶々当社 の謂委しく申し候へ。シテ「懇に申し上げ うずるにて候。地クリ「それ和光同塵の御垂 跡。何れ以て疎かならねど。威光を四方に 現し給ふは。これ八剱の神徳なり。サシシテ「然 れば景行第三の皇子。御名は日本武の尊。

地「地神五代には天照太神の兄。素盞嗚 の尊。出雲の国に跡を垂れ。暫く宮居し 給へり。シテ「こゝに簸の川上に涕哭する 声あり。地「尊至りて見給へば。老人夫婦 が中に。乙女を抱き泣き居たり。これを 如何にと尋ぬるに。クセ「老人答へて申す やう。我は手摩乳脚摩乳。娘を稲田姫と いふ者にて候ふが。大蛇の生贄を悲しむ なりと申せば。然らば其処を我に得させ よその難を遁すべしと宣へば。喜悦の心 妙にして尊に姫を奉る。シテ「やがて大蛇 を従ヘ。地「其尾にありし剱を村雲の剱と 名づけしこそ八剱の宮の御事よ。されば 簸上の明神は其時の稲田姫なり。父の老 翁名をかへて源太夫の神と現れ。東海道 の旅人を守らんと誓ひ給へり。 ワキ詞「実にありがたき神秘の教。唯人な らず覚えたり。御名を名乗り給ふべし。 シテ「今や何をか包むべき。簸の川上に現

れし。ツレ「我は手摩乳。シテ「脚摩乳。ツレ「夫 婦これまで。シテツレ二人「現れたり。地「常なら じ御身は勅諚の使なる故に。仰ぐべし 神とても。人の敬深ければ。守らん為 に来りたり。こゝにては源太夫の。神ぞ と名乗り捨てゝ。行く方見えずなりぬ行 方知らずなりにけり。来序中入間「。 ツレ出端「我はこれ。真如実相の無漏を出で て。有為の濁塵に光を交へ。結縁の衆生 擁護の神。橘姫とは我が事なり。シテ「我 はまた無縁の衆生を利益せんとて。東海 道を日夜に守る。源太夫の神とは我が事 なり。地「あら有難や。 ワキ「実に有難き御影向。感涙肝に銘じつ つ。心空なるばかりなり。ツレ詞「とても姿 を現さば。いざや舞楽の曲を尽し。かの 客人に見せ申さん。シテ「実に/\これも いはれたり。さて役々は。ツレ「糸竹の。 シテ「中に異なる太鼓の役。ツレ「即ち御

身。シテ「源太夫が。ツレ「嘉例もさぞな。 シテ「思ひ出づる。地「昔も打ちたる。太 鼓の御役。今も妙なる秘曲を添へて。撥 も数ある楽拍子。今打ち寄るも。波の調 面白やな有難や。楽 シテ「面白の遊楽や。地「面白の遊楽や。時 しもあれや月も照り添ひ。松風も涼しく て神さび渡れる折柄に。およそ人間の業 なりとも感応などか無かるべき。まして

や神仙の事業なれば。実にも妙なる御代 のしるし。治世の声は安楽にて。琴瑟は 玉殿に。せうくわていしやう官商上り下 る時に声。綾をなす舞歌の曲。程時移る かと。早明方になりぬれば。都に帰るは 勅の使。さてこそ名残の還城楽さてこそ 名残の還城楽の鼓の声や二十五声の。五 更の一点より夜は白々とぞ明けにける夜 は白々とぞ明けにける。 勅使 従者 老人 天女(謡ナシ) 三返リ翁 龍神(謡ナシ)

ワキ、ワキツレ二人真ノ次第「賢き君の勅を受け。/\。東 の旅に急がん。ワキ詞「そも/\これは延喜 の聖主に仕へ奉る臣下なり。さても信 濃の国木曽の郡に。寝覚の床とて在所あ り。かの所に三返の翁と申す者。寿命め

でたき薬を与ふる由君聞し召し及ばせ給 ひ。急ぎ見て参れとの宣旨を蒙り。唯今 信濃の国寝覚の里へと急ぎ候。道行三人「思ひ 立つ。空に重なる雲の袖。/\。靡きて 帰る雁がねも。山又山を越え過ぎて。行

けば程なき旅衣。木曽の御坂も近づくや。 嵐に更くる夜半の空。寝覚の床は。これ かとよ/\。ワキ詞「急ぎ候ふ間。これは はや寝覚の床に着きて候。この處にてか の翁を尋ぬうずるにて候。 シテツレ二人真ノ一声「信濃路や。木曽の御坂の春風 に。行方も知らぬ。花ぞ散る。ツレ二ノ句「霞 こめたる谷の戸に。二人「世を鴬の声し げし。シテサシ「所から春立つ山路分け過ぎて。 二人「採るや薪の尾上の鐘。朧々と聞き馴 れて。たどるや老の坂ならん。上歌「立 ち上る。木曽の麻衣袖しをり。/\。 賎が家居の業なれば。かけ路の橋も馴 れ/\て。幾重かさなる白雪の。解け て落ち来る谷川の。水も岩根や。伝ふら ん/\。 ワキ詞「如何にこれなる老翁に尋ぬべき事 の候。シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて 候ふぞ。見奉れば此あたりにては見馴れ

申さぬ御姿なり。もし都よりの御下向に て候ふか。ワキ「実によく見てあるものか な。これは延喜の聖主に仕へ奉る臣下な るが。この所に三返の翁と申す者。寿命 めでたき薬を与ふる由君聞し召し及ばせ 給ひ。急ぎ見て参れとの宣旨なり。かの老 翁が私宅を教へ候へ。シテ「さては勅使に て御座候ふぞや。あら有難や候。総じて この三返の翁と申すは。生所もあらず出 所もなく。ツレ「唯おのづから其まゝに て。寝覚の枕松が根を。シテ「宿とさだむ る翁なれば。定めてこゝに来るべし。 ワキ「実に/\是はいはれたりと。岩根の 枕寝覚の床に。シテ「暫く御待ち候へとよ。 ワキ「暫し休らふ。シテ「其うちに。地「日 も夕暮に程もなく。/\。なるや弥生の 空なれば。月も朧に差し出でて。山の端 白き松の風。枝を鳴らさぬ木の下に。暫 し休らふ。旅居かな/\。

なほ/\寝覚の床の謂委しく御物 語り候へ。地クリ「そも/\この寝覚の床と 申すは。役の行者暫く御座をなし給ひ て。観念の。眠を覚まし給ふ。シテサシ「然る に彼の三返の老翁は。生所も知らず出所 もなく。地「唯おのづから忽然と。現れ出 でて寝覚の床に。千年を送るそのうちに。 寿命めでたき薬を服し。三度若やぐ故に より。三返の翁と名づけたり。クセ「ある 時翁申すやう。〓{羽に廾}養射術を伝へて。其名 を雲の上にあげ。されば愛染明王は。定 の弓慧の矢にて。悪魔を従へ給ふなり。 我は又御薬の。威徳を以て大君の。代を 治めんと思ふぞと。勅使に申し上げけれ ば。勅使喜悦の色をなし汝如何にと宣へ ば。シテ「今は何をか包むべき。地「我この 所に年経たる。三返の翁なるが目前に来 りたり。勅使暫く待ち給へ。夕月の夜も すがら。舞楽を奏し見せ申し。又御薬を

与へんと。いふかと見れば老翁は。岩陰 に寄ると見えて行方知らずなりにけり行 方も知らず失せにけり。来序中入間「。 ツレ天女出下リ羽地「天つ風。/\。雲の通路吹き とぢよ。乙女の衣色々に。糸竹も音を添 へて。波の皷声澄むや。海青楽を奏しけ り。天女舞「。 後シテ「そも/\これは。医王仏の化現。 無病息災の方便のため。三返の翁仮に現 れ出でたるなり。地「その時老翁〓{新字源:2799。かんぬき}を開 き。/\。青天はるかに見渡しければ。 シテ「東南に雲晴れ。西北の風も。吹き納 まつて。地「花降り異香音楽の響。舞楽の 数々乙女の袂。返す%\も面白や。楽 地「夜遊の舞楽も時過ぎて。/\。有明 方の。月も落ちくる折からに。不思議や 川波はげしく荒れて。二龍の姿は現れた り。龍神二人出早笛地「両龍王は川波に浮み。 /\。かの御薬を。奉ぐる気色。汀に座

してぞ見えたりける。シテ「老翁悦の思 をなして。老翁悦の思をなして。かの客 人の。御慰に。神通自在の秘術をあら はして夜遊の戯。なし給ふ。龍神働 シテ「かくて時移り頃去れば。地「かくて 時移り頃去れば。かの御薬を。君に捧げ。

勅使に与へてこれまでなりと。木曽の桟 ゆらりと打ち渡り。帰り給へば。龍神も 東西に飛行の翔り。波に戯むれ巌に上れ ば夜も白々と。明方の空に。夜も白々と。 明方の空に。夢の寝覚は。覚めにけり。 勅使 従者 海女 海女 気多明神 八尋玉殿の神

ワキ、ワキツレ次第「御影曇らで君守る。/\。神の 宮居に参らん。ワキ詞「そも/\これは当今 につかへ奉る臣下なり。さても能州気多 の明神は。霊験無双の神にて御座候。御 神事の数々多き中に。霜月初午の御祭礼 の儀式。君聞し召し及ばせ給ひ。急ぎ見 え参れとの宣旨を蒙り。唯今能州に下向 仕り候。道行三人「思ひ立つ其方の空も北時

雨。/\。降り来る嶺やあらち山雪の木 の芽の山越えて。越の長浜遥々と。行方 につゞく松原の。影見えそめて程もなく 一の宮にも着きにけり。一の宮にも着き にけり。ワキ詞「急ぎ候ふ程にこれははや。 能州一の宮に着きて候。あら笑止や俄に 雪の降り来りて候。これなる松原に立ち 寄り雪を晴らさばやと存じ候。

シテツレ三人一声「降る雪の。簑代衣袖さえて。春 待ちわぶる。心かな。シテ「冬立つ波の音 までも。四人「浦さびまさる。夕かな。 シテサシ「それ国々所々に。神所垂跡多けれど も。殊更御影を仰ぐなる。四人「此神垣の 松の葉の。千代万代の末かけて。運ぶ歩 もつもる雪の。ふかき恵を。頼むなり。 下歌「我は賎しき海士の子のよその見る 目も如何ならん。上歌「誰とても隔はあ らじ神慮。/\。交はる塵の浮世にも安 く楽む身の程を。思ひかへせば勇ある此 神祭急ぐなり此神祭急ぐなり。 ワキ詞「いかにこれなる人々に尋ね申すべ き事の候。シテ詞「此方の事にて候ふか何事 にて候ふぞ。ワキ「これ程深き雪の中に。 しかも女性の御身として。かやうに歩を 運び給ふ事不審にこそ候へ。シテ「さん候 これは此浦里に住む女にて候ふが。霜月 初午の御祭礼の儀式。殊更神秘多ければ。

取り分き歩を運び候。これは此あたりに ては見馴れ申さぬ御事なり。もし都より の御参詣にて白ふやらん。ワキ「実によく 見てあるものかな。是は当今に仕へ奉る 臣下にて候ふが。今月初午の御祭礼の儀 式。君聞し召し及ばせ給ひ。急ぎ見て参れ との宣旨を蒙り。勅使に下向申して候。 シテ「さては遥々の御志。返す%\も 有難うこそ候へ。ワキ「さらば御神事の謂 委しく御物語り候へ。シテ「これ猶秘する 事なれば。あからさまには申し難しさり ながら。当国ゆのがうと申す処より荒鵜 を取りて贄に供ふ。かの鵜みづから贄に 備はり。放せばやがて飛び去る事。これ 第一の奇特なり。ワキ「これは不思議の御 事かな。さては鳥類畜類までも。シテ「贄 に備はる神の誓。ワキ「雲井を翔る翅ま でも。心なしとはいひがたし。シテ「まし てやいはん人として。ワキ「頼をかけよ。

シテ「かけまくも。地「かたじけなしや神 の代の。尽きぬ御恵。ひとへの仰ぎ給へ や。 地クリ「そも/\当社の地形を見るに。西 は蒼海漫々たり。北には青山あり。亀鶴 蓬莱山と名づく。一つの巌窟あり。七星 常住の仙境なり。シテサシ「然るに此神は。垂 跡年久しといへども。利物の風あらたな り。地「日本第三の社壇。正一位勲一等 気多不思議智満大菩薩と号し。無仏世界 度衆生。今世後世能引導の。誓を顕しお はします。クセ「然るに其昔。神功皇后の 勅を受け。干満。両顆の名珠を海底に沈 め忽ちに。新羅百済の凶族を。皆悉く 亡ぼして。天下安全に国土も豊なりけ り。そのかみ。垂仁天皇の御宇かとよ。 大入杵の神王を祭主と定め此神を勧請 し奉りけり。シテ「然れば代々の帝までも 地「神徳を仰ぎ給ひ。社禄を贈り礼典。

隙なくあがめ給ふとか。されば一度も神 前に。歩を運ぶ輩は。息災延命の徳を 得二世の願も満つ月の。影あきらかに 曇なき。当宮の御恵仰ぎても余りある べし。 ワキ詞「不思議なりとよ方々は。そも誰な ればかほどまで。神秘を残さず語り給ふ。 其名は如何におぼつかな。シテ「今は何を か包むべき。我此所に年を経て。有縁の 衆生を守るなる。地「神とやいはん恥か しや。/\。御身は。勅の使なれば。 言葉をかはすぞと。夕の月の光とともに 朱の。玉垣に隠れけり玉垣の内に隠れけ り。中入間「。 ツレ一声出端「昔は大入杵の神王と号し。今は此 地に跡を垂れ。八尋玉殿の神とは。我が 事なり。地「則ち御影を現して。即御影 を現し給ひて勅使に参拝の膝を屈し。其 後御殿に上らせ給ひ。手づから扉を開き。

給へば。誠に妙なる相好荘厳赫奕として。 現れ給ふ。有難や。 シテ「如何に八尋玉殿の神。いざもろとも い舞楽を奏し。かの客人を慰めん。ツレ「実 に客人は勅の使。さらば舞楽をなすべし と。弦管の役をすゝむれば。シテ「誠に勅 の使ぞと。聞くにつけても思ひ出づる。 地「其古の神祭。/\。安倍の貞任勅 使として。万歳楽を舞ひし事。唯今の勅 の使に。思ひ出づるも面白や。楽シテ「更 け過ぐる夜神楽の。地「更け過ぐる夜神 楽の。月も傾く空なれや。丑三つも時至 れば。神前に供ふる生贄の。真鳥もこゝ に。現れたり。早笛「空飛ぶ鳥も地に落ち

て。/\。神慮に従ふその有様まのあた りなる奇特かな。 シテ「此鳥少しも驚かず。地「此鳥少しも 驚かず。諸人の中を静かに歩み出で。階 を上り。神前に羽を垂れ伏しけるが。又 立ち帰り庭上に下れば神体ともに。立ち 出給ひ。汝よく聞け此度贄に。供はる 結縁に鳥類の身を転じ。仏果に至れと。 宣命をふくめ給ひければ。八尋立ち寄り かの鳥を抱き。海上に向ひて放ち給へば 此鳥悦び羽風を立てゝ。雲井に翔り。飛 び廻り/\。遥の沖に飛び去りぬ。実に 有難き和光の神徳。実にありがたき神徳 を見せて。神は上らせ給ひけり。 太宰府の僧 従僧 海女老人 火天 傅大士

ワキ、ワキツレ、二人次第「東に残る法の道。/\。迷はぬ

教頼まん。ワキ詞「これは筑前太宰府に居

住の僧にて候。我若年の昔より。仏法修 行の志淺からず候へども。いまだ都を 見ず候ふ程に。洛陽の自社に参り。殊に は北野の天満天神は。当社御一体の御事 なれば。参詣申さんと唯今思ひ立ちて候。 道行三人「筑紫船。法のためにと思ひ立つ。 /\。雲路につゞく天の原。出づる日影 の程もなく。難波の浦に着きしかば。こ れよりやがて旅衣/日も重なれば程もな く。都に早く。着きにけり都に早く着き にけり。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。都に着きて 候。これより北野に参らばやと思ひ候。 サシ「ありがたや釈迦一代の蔵経を。大唐 よりも渡しつゝ。末世の衆生済度のため に。輪蔵に納め結縁の。手に触れ縁を結 ばせんとの。御神の誓ぞ有難き。南無や 傅大士普建普成。現受無比楽後生清浄土。 ツレ詞呼掛「なう/\あれなる御僧。御身は筑 前の宰府より来り給ひて候ふか。ワキ「不

思議やな都始めて一見の者を。宰府の者 とは何とて見知り給ふらん。ツレ「あら愚 の仰やな。其方はしろしめされずと も我は朝夕白雲の。迷はぬ法の友人な れば。などかは知らで候ふべき。ワキ「こ れは不思議の御事かな。さて/\かや うに承る。御身は如何なる人やらん。 ツレ「今は何をか包むべき。五千余巻の御 経を。昼夜に守護し奉る。十二天のその 中に。火天これまで来りたり。ワキ「そも 火天とはまのあたり。天部を拝み申す事 よと。感涙肝に銘じつゝ。現とも更に弁 へず。ツレ「此方も御身の貴さに。ワキ「随 喜渇仰。ツレ「さま%\に。地歌「説き置き し。御法の花の色々に。/\。教は多き 道ながら。悟は一つぞ胸の月。曇らじや 三界唯一心の外ならじ。処は北の宮居。 北辰は動かず。天満つ星の廻るなる。輪 蔵を開きて。静かに拝み給へや。ワキ詞「あ

ら有難の御事や。五千余巻の御経を。一 夜に拝ませおはしませ。ツレ「五千余巻の 御経を。一夜に御僧の拝まんとは。おふ けなき御事なれどもさりながら。御身父 母の胎内を出でしより此方。五戒を乱さ ず慈愛を發し。仏道修行し給ふ事。地「其 功既に。年久し。ツレサシ「然るに此御経に於 て。大唐よりも渡されし。地「傅大士普建 普成とて。其身は俗体なりといへども。 此三人の如何なれば。かの御経に値遇の 縁。深き心の。隙もなく。昼夜に経を。 守護し給ふ。クセ「其後日本に。渡りし法 の舟の内。波路遥に漕がれ来し。心筑紫 の果よりも。仏法東漸の。都の北の宮 寺に。ツレ「納め給ひし昔より。地「今末の 世とはいひながら。類稀なる上人の結縁の 利益仰ぎつゝ。衆生を済度し給へ。我も 姿を改めて。必ずこゝに来りつゝ行道の 利益。なさんといふかと見えて失せにけ

り。云ふかと見えて失せにけり。来序中入間「。 ワキ「月は隈なき後夜の鐘。声澄み渡るを りふしに。地「不思議や異香薫じつゝ。音 楽聞え紫雲たなびく絶間より。花降り下 るぞあらたなる。地「いひもあへねば妙経 の。/\。守護神の御厨子の扉は忽ち四方 へひらけて。傅大士二童子現れたり。 シテ「釈迦一代の。御法の御箱。地「釈迦一 代の御法の御箱をかの上人に。悉く与え んと。普健普成の。二童子に持たせ。上 人の御前にさし置き給へば。シテ「傅大士 座を立つて。地「傅大士座を立つて。竹杖 にすがり。膝をかゞめて。上人を礼し。 かの御経を。読誦し給へば善哉なれや。 善哉なれと。夜遊を奏して舞ひ給ふ。 楽地「いづれも妙なる舞の袖。/\。月も 照り添ふ雲間より。天部の姿は隠れもな く。天降るこそ。有難けれ。 後ツレ早笛「そも/\これは。釈迦一代の蔵経

の守護神。十二天のその中に。火天の姿 を現すなり。地「火天忽ち天降り。/\。 程なく目前に現れ出でて。上人に向ひ。 即ち結縁の。行道の利益。めぐらし給へ と各立ち寄り。上人を誘なひ。輪蔵に 御手をかけまくも忝しと。互に推し廻 り。廻り廻るや日月の光。曇らぬ御法の。 あらたさよ。舞働「。 ツレ「これはこれ妙経の守護神なれば。

地「これはこれ妙経の守護神なれば。夜 の間に転経の儀式を顕し。上人悉く披 見の其後各御箱をとり%\に。遥の神 前に運び給ふ。傅大士伴なひ。神前に積 み置きいよ/\当社。当寺の仏法。繁昌 の霊地を崇め給へと上人に教へ。天部 は雲居に上らせ給へば、七宝荘厳の瑠璃 の座の上に。傅大士二人の童子を伴なひ /\。帰り給ふぞ。ありがたき。 従僧 天女 白太夫

ワキ、ワキツレ、二人次第「善き光ぞと名を聞や。/\。 仏の御寺なるらん。ワキ詞「かやうに候ふ者 は。相模の国の田代と申す所に。尊性と申 す者にて候。われ善光寺の如来に一七日 参籠申して候へば。あらたに御霊夢を蒙

りて候ふ程に。これより河内の国土師寺 へ参らばやと思ひ候。道行「捨てゝはや。 久しかりつる世の中を。/\。また思ひ 立つ旅衣。昨日の山を後に見てなほ行く 方は白雲の。海も見えたる西の空。夕日

がくれの霧間より。流もこれや河内なる。 土師の里にも着きにけり。/\。 シテツレ二人真の一セイ「長月の。色も梢の秋を得て。 照るや紅葉の土師の里。シテ二ノ句「なほ晴れ残 る音とてや。二人「松風ひとりしぐるら ん。シテ「これに出でたる老人は。此里の 名も土師寺の。仏神に仕へ申す者なり。 二人「有難や利生は様々多けれども。わき て誓もかげ高き。天満神の宮寺に。歩を 運ぶ御値遇。げに身を知れば心なき。わ れらがためはたのもしや。下歌「いざや歩 を運ばん/\。上歌「神さぶる。松は十 かへり千代の秋。/\。霜を重ねて下草 の。露の身ながらながらへて神に仕へ奉 る。宮路久しき瑞籬の。ふかき誓は。有 難や/\。 ワキ詞「いかにこれなる宮人に申すべき事 の候。シテ「此方の事にて候ふか何事にて 候ふぞ。ワキ「これは善光寺の如来の御夢

想により。遥々当寺に参りて候。寺中の 人に逢ひ孟子御夢想の様を語り申し度く 候。シテ「不思議なる事を承り候ふもの かな。まづ御夢想の様をこの老人に御物 語り候へ。某 承つて寺中の 人々へひろめ申 し候ふべし。 ワキ「あら嬉し や候。さらば委 しく申し候ふべ し。寺中の人々 に御ひろめ候 へ。シテ「心得申 し候。ワキ「これ は相模の国田代 と申す所に尊性と申す聖にて候ふが。 われ念仏往生の志あるにより。此度信 濃の国善光寺へ参り。一七日参籠申す所

に。如来見ず子御厨子の御戸を開き。香の衣に 香の袈裟をかけ給ひたる老僧の。あらたな る御声にて。汝念仏往生の志誠に懇 なり。然らば五幾内河内の国土師寺は。 天神の御在所なり。かの所に神明を始め 奉り。七社の神々を勧請申されたり。 又天神は一切衆生現当二世のため。五部

の大乗経を書き供養して埋まれたり。 その軸より木〓{木へんに患:ゲン}樹の木生ひ出でたり。そ の木の実を取り珠数として念仏百万遍申 さば。往生疑あるまじきと承つて。夢 覚めぬ。なんぼう有難き御夢想候ふぞ。 シテ「かゝる有難き御事こそ候はね。やが て寺中の人々にふれ申し候ふべし。まづ 唯今仰せられ候ふ木〓{木へんに患}樹を見せ申し候ふ べし。此方へ御出で候へ。ワキ「さらばや がて御供申し候ふべし。シテ「是に神明を 初め奉り七社の神々を斎ひ申され候。 またこれなるは天神にて御座候。あれに 見えたるこそ唯今御物語り候。木〓{木へんに患}に て候。よく/\御拝み候へ。ワキ「有難や 神も仏も同一体とは申せども。天神同意 の御結縁今始めて承り候。ツレ「うた ての聖の仰やな。今に始めぬ天神の。弥 陀一体の御値遇。天神と申すにその御本 地。救世観音にてましまさずや。ワキ「げ

に/\これは理なり。昔在霊山名法華。 シテ「今在西方名阿弥陀。ワキ「娑婆示現 観世音。シテ「三世利益同一体。ワキ「その 外神や。シテ「仏とは。地上歌「たゞこれ水波 の隔にて。神仏一如なる寺の名の。道あ きらかに曇らぬ神の宮寺ぞ貴き。有難し 有難し。げに神力も仏説も。同じ和光の 影に来て拝むぞたつとかりける/\。 クリ「それ仏の昔神の今。後五の時代に 至るまで。神も濁世に応じ給ひて暫く 西都に移り給ふ。シテサシ切迄囃子「如月下の五日に して。京を出でさせ給ひつゝ。地「この土 師の里に旅宿あつて。さま%\の御神物 をとゞめ。末代値遇の御結縁今に絶ゆる ことなし。シテ「かくても留まらぬ道の べの。地「草葉の露もしをるゝばかり。 クセ「君が住む。宿の梢をゆく/\も。隠 るゝまでに。かへりみぞするとの御詠 さこそと知るぞ忝き。さてもいつしか

に。ならはせ給はぬ旅の空。名におふ心 筑紫として天ざかる鄙の国に。住まはせ 給ひしかば。あたりは都府楼の瓦。観音 寺の鐘の声朝暮に響く折々は。都の春秋 を思し召しいでぬ時はなし。シテ「家を離 れて三四月。地「落つる涙は百千行。万事 は皆夢の如し。より/\彼蒼を期すとい ふ。其御心の至にや。昨日は北欠に悲 びを被ぶる士たり。けふは西都に恥じを清 むる屍たりと。御神感あらたに。生きて の恨死しての悦。あまねしや天満陽感 ぞめでたかりける。 ロンギ「げに有難や草も木も。/\。みな 成仏の木の実まで。玉を連ぬる光かな。 シテ「枯れたる木だにも。誓の花は咲く ぞかし。ましてや面前木〓{木へんに患}樹。花咲き実なる なる。梢の色もあらたにて。シテ「法を称 ふる理を。地「思の玉の。シテ「おのづか

ら。地「あの梢の木の実こそ。この珠数の 御法なれ。必ず授け申さんとて。帰ると 見れば立ち止りて。われは天神の御使。 名をば誰とか白太夫の神と申す翁草の。 霜曇りしてげりや霜曇りに失せにけ り。中入来序間。 出端天女出「久方の。天の岩戸の神遊。今思 出もおもしろや。地「舞楽の役々とり どりに。/\。琵琶琴和琴。笛竹の。夜 は更け行けども缶の役者。などや遅きぞ 白太夫。急いで出でよと待ちやまふ。 後シテ出端、イロエ吹「月もかゝやく宮寺の。常の燈 火明々たり。後ツレ天女「如何に白太夫の神。七 社の御前に韓神催馬楽。うたふや缶笏 拍子の。役とは知らずや白太夫。シテ詞「仰 は重く候へども。既に名にだに白太夫が。 星霜積る老いが身の。役をば許し給ふべし。 天女「いやとよその役定まりたり。急いで 役をなすべきなり。シテ詞「さては辞すとも

叶ふまじ。さてその役は。天女「韓神催 馬楽。シテ「庭火の影や。天女「朱の玉垣。 地「かゝやけるその中に。白太夫が小忌 の袖より。取るや笏拍子とう/\と。 打つも寄るも老の浪の。雪の白太夫が缶 の。笏拍子おもしろや。楽。 シテ「唯今かなづる舞歌の曲。地「唯今か なづる舞歌の曲。七徳双調七拍子膝を。 屈して仏を敬ひさす腕には。魔縁を払ひ。

をさむる手には寿福を招き。千秋楽には 民を養ひ万歳楽には命を延ぶる。法の筵 を敷妙の。枕は袂。上は尊き。木〓{木へんに患}樹の 梢に翔りて降るや一味の雨風を。そゝぎ て枝々より。木の実をふるひ落してかの 尊性に与へつゝ。これこそ念の玉をつら ぬく。数は百八煩悩の。数は百八煩悩を かたどる珠数の。道明寺の鐘鼓に神楽の 夢はさめにけり。 大臣 従者二人 王仁 木花開耶姫

ワキ、ワキツレ二人、次第「山も霞みて浦の春。/\。波風 静かなりけり。ワキ詞「抑これは当今に仕へ 奉る臣下なり。われ三熊野を信じ。毎年 年ごもり仕り候。此度は所願成就し。年 帰る春にもなり候へば。唯今都に下向仕 り候。道行三人「春立つや。実にも長閑けき風

和の。/\。浜の真砂も吹上の。浦伝ひ して行く程に。早くも紀路の関越えて。 是も都か津の国の。難波の里に着きにけ り/\。 シテツレ二人真の一セイ「君が代の長柄の橋も造るなり。 難波の春も。幾久し。ツレ二ノ句「雪にも梅の冬

籠り。二人「今は春べの気色かな。シテサシ「そ れ天長く地久しくして。神代の風長閑に 傳はり。二人「皇の畏き御代の道広く。国を 恵み民を撫でて。四方に治まる八洲の波 静かに照らす日の本の。影ゆたかなる時 とかや。下歌「春日野に若菜摘みつゝ。万代 を。上歌「祝ふなる。心ぞしるき曇なき。 /\。天つ日嗣の御調物。運ぶ巷や都路 の直なる御代を仰がんと。関の戸さゝで 千里まで。普く照らす。日影かな。普く 照らす日影かな。 ワキ詞「如何にこれなる老人に尋ぬべき事 の候。シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて 候ふぞ。ワキ「不思議やな諸木こそ多き中 に。是なる梅の木蔭を立ち去らずして。 蔭を清め賞翫を給ふ事不審なり。もし此 梅は名木にて候ふか。シテ「御姿を見奉れ ば。都の人にて御座候ふが。此難波の浦 に於て。色殊なる梅花を御覧じて。名木

かとのお尋は御心なきやうにこそ候へ。 ツレ「それ大方の春の花。木々の盛は多け れども。花の中にも始なれば。梅花を 花の兄ともいへり。シテ詞「その上梅の 名所々々。国々 処は多けれど も。六義の始の そへ歌にも。難 波の梅こそ詠ま れたり。ツレ「御 代も開けし栄花 といひ。シテ「あ まねき花の佳例 といひ。二人「と にかくにも津の 国の。こや都路 の難波津に。名を得て咲くやこの花を。 名木かとのお尋は。ことあたらしき御諚 かな。ワキ詞「実に/\難波の梅の事。名木

やらんと尋ねしは。愚なりける問事か な。然れば歌にも難波津に。咲くやこの 花冬ごもり。今は春べと咲くやこの。花 の春冬かけてよめる。歌の心は如何なる ぞ。シテ「それこそ帝をそへ歌の。心詞は 顕れたれ。難波の御子は皇子ながら。 未だ位に即き給はねば。冬咲く梅の花の

如し。ワキ「御即位ありて難波の君の。位 に備はり給ひし時は。シテ詞「今こそ時の花 の如く。ワキ「天下の春をしろしめせば。 シテ「今は春べと咲くやこの。ワキ「花の 盛は大鷦鷯の。シテ「帝を花にそへ歌の。 ワキ「風もをさまり。シテ「立つ波も。 地歌「難波津に。咲くやこの花冬ごもり。 /\。今は春べに匂ひ来て。吹けども梅 の風。枝を鳴らさぬ御代とかや。実にや 津の国の。なにはの事に至るまで。豊な る世の例こそ。実に道広き。治なれげに 道広き治なれ。 地クリ「抑難波津の歌は帝の御はじめ。又 安積山の詞は。采女の土器。とり%\な り。シテサシ「昔唐国の尭舜の御代にも越えつ べし。地「万機の政おだやかにして。慈 悲の波四海に普く。治めざるに平かなり。 シテ「君君たれば。臣もまた。地「水よく船 を。浮かむとかや。クセ「高き屋に。登りて

見れば煙立つ。民のかまどは。賑ひにけ りと。叡慮にかけまくも。かたじけなく ぞ聞えける。然れば此君の。代々にため しを引く事も。実に有難き詔。国々に普 く。三年の御調ゆるされし。其年月も極 まれば。浜の真砂の数積りて。雪は豊年 の御調物。ゆるす故にはなか/\いやま しに運ぶ御宝の。千秋万歳の。千箱の玉 を奉る。シテ「然れば普き御心の。地「い つくしみ深うして。八洲の外まで波もな く。広き御恵。筑波山の陰よりも。茂き 御影は大君の。国なれば土も木も。栄え さかふる津の国の。難波の梅の名にしお ふ。匂も四方に普く一花ひらくれば天下 皆。春なれや万代の。なほ安全ぞめで たき。 ロンギ地「実に万代の春の花。/\。栄久 しき難波津の昔語ぞおもしろき。シテ「実 に名にしおふ難波津に。鳥の一声をりし もに。鳴く鴬の春の曲春鴬囀を奏せん。 地「不思議や御身誰なれば。かく心ある 花の曲。舞楽を奏し給ふべき。ツレ「我は 知らずや此梅の。春年々の花の精。地「今 一人の老人は。シテ「今ぞ顕す難波津に 地「咲くやこの花と詠じつゝ位をすゝめ 申せし百済国の王仁なれや。今も此花に 戯れ。百囀の声立て春の鴬の舞の曲。夜 もすがら。慰め申すべしや。下臥して待 ち給へ花の下ぶしに待ち給へ。中入間「。 ワキ(三人)歌待謡「見て暮す。花の下臥更くる夜 の。/\。月影ともに静かなる。けしき に染みて音楽の。花に聞ゆる不思議さよ 花に聞ゆる不思議さよ。 後シテ出端「誰かいひし春の色は。東より来る といへども。南枝花始めて開く。こゝは所 も西の海に。向ふ難波の春の夜の。月雪 もすむ浦の波。夜の舞楽はおもしろや。 夢ばし覚まし。給ふなよ。後ツレ「これは難

波の浦に年を経て。開くる代々の恵を受 くる。木花咲耶姫の神霊なり。シテ「我は 又百済国より此国に渡り。君を崇め国を 守る。王仁と云つし。相人なり。地「むか し。仁徳の御宇には。御代の鏡の影をう つし。シテ「治まる御代の栄花をなしゝ も。地「この花の匂。シテ「又は開くる言 の葉の緑。地「難波の事か法ならぬ。遊び 戯れ。いろ/\の舞楽。おもしろや。 天女舞「。ツレワカ「梅が枝に。来居る鴬。春か けて。シテ「鳴けども雪は。古き鼓の。苔 むして。打ち鳴らす。/\。人もなけれ ば。君が代に。地「懸けし鼓も。シテ「鐘も 響き。地「浦は潮の。シテ「波の声々。地「入 江の松風。シテ「むら芦の葉音。地「いづれ を聞も悦の。諫鼓苔むし難波の鳥も。 驚かぬ御代なり。有難や。神舞「。 ロンギ地「あらおもしろの音楽や。時の

子にかたどりて。春鴬囀の楽をば。シテ「春 風ともろともに。花を散らしてどうど打 つ。地「春風楽は如何にや。シテ「秋の風 もろともに。波を響かしどうど打つ。 地「万歳楽は。シテ「よろづ打つ。地「青 海波とは青海の。シテ「波立て打つは。採

桑老。地「抜頭の曲は。シテ「かへり打つ。 地「入日を招き帰す手に。/\。今の太 鼓は波なれば。よりては打ち返りては打 ち。此音楽に引かれつゝ。聖人御代にま た出で。天下を守り治むる万歳楽ぞめで たき万歳楽ぞめでたき。 昭明王の臣下 従者 海人の母 海人 富士の山神 天女

ワキ、ワキツレ二人、次第「大和唐土吹く風の。/\。音や 雲路に通ふらん。ワキ詞「是は唐土昭明王に 仕へ奉るせうけいと申す士卒なり。我日 本に渡り。此土の有様を見るに。山海草木 土壌までも。さながら仙境かと見えて誠 に神国の姿を顕せり。昔唐土の方士と云 つし者。日本に渡り。駿河国富士山に到 り。不死の薬を求めし例あり。我も其遺跡 を尋ねん為。唯今駿河国富士山に赴き候。

道行三人「唐土の空は雲居に隔て来て。/\。東 の国に至りても。なほ東路の末遠き海山 かけてはる%\と。日数を重ねて行く程に。 名にのみ聞きし富士の根や。裾野にはや く着きにけり。/\。ワキ詞「日を重ねて急 ぎ候ふ程に。これは早。富士の裾野に着き て候。御覧候へ。唐土にて聞き及びしよ りも。猶いやまさりて目を驚かしたる山 の景色にて候ふものかな。又あれを見れ

ば海人とおぼしき女性の数多来り候。か の者を相待ち事の子細をも尋ねばやと存 じ候。シテツレ二人、次第「砂長ずる山川や。/\。富士 の鳴沢なるらん。シテサシ「朝日さす高根のみ 雪空晴れて。野は夕立の富士颪。三人「雲も おり立つ田子の浦に。舟さしとめて蜑少 女の。通ひ馴れたる磯の浪のよるべ何処 に定むらん。実に心無き海士なれども。 処からとて面白さよ。下歌「松風の音信 のみに身を知るやすむ芦の屋の窓の雨。 上歌「うち寄する駿河の海は名のみにて。 /\。波静かなる朝和に。雲はうき島が原 なれど風は夏野の深緑。湖水に映る雪ま でも。妙なる山の御影かな/\。ワキ詞「い かにこれなる人々に尋ね申すべき事の 候。シテ詞「こなたの事にて候ふか何事にて 候ふぞ。ワキ「昔の唐土の方士といつし者。 此富士山に登り。不死の薬を求め得たる 例あり。其遺跡をば知り給へりや。シテ「実

に/\さる事のありしなり。昔鴬のかひ ご化して少女となりしを。時の帝皇女に 召されしに。時至りけるか天に上り給ひ し時。形見の鏡に不死薬を添へて置き給 ひしを。後日に富士の獄にして。其薬を 焼きしより。富士の烟は立ちしなり。 ツレ二人「然れば本号は不死山なりしを。郡 の名に寄せて。三人「富士の山とは申すな り。是蓬莱の。仙境たり。ワキ詞「扨は此山 仙境なるべし。先目前の有様にも。今は 六月上旬なるに。雪まだ見えて白妙なり。 これはいかなる事やらん。シテ詞「さればこ そ我が朝にても。不審多し。然れば日本 の歌仙の歌に。時しらぬ山はふじのねい つとてか。かのこ斑に雪の降るらん。是 三伏の夏の歌なり。ワキ「実に/\見聞く に謂あり。時にあたりてみな月なるに。 さながら富士は雪山なれば。時知らぬと は理かな。シテ詞「殊更今の眺の景色。浪も

揺がぬ四つの時。ワキ「暑き空にも雪見え て。シテ「さながら一季に。ワキ「夏。シテ「冬 を。地「三保の松原田子の浦。/\。何れ もあをみな月なるに。高嶺は白き富士の 雪を。実にも時知らぬ。山と詠みしも理 や。げにや天地の。開けし時代神さび て。高く貴き駿河の富士。実に妙なる 山とかや/\。地クリ「抑この富士山と申 すは。月氏七道の大山。天竺より飛来る 故に。則ち新山となづけたり。シテサシ「頂上 は八葉にして。内に満池をたゝへたり。 地「神仙人化の境界として。四季折々を 一時に顕し。天地陰陽の通道として。希 代の瑞験。他に異なり。クセ「凡そ富士の 嶺は。年に高さやまさるらん。消えぬが 上に。つもる雪の。見ればこと山の。高嶺 たかねを伝ひ来て。富士の裾野にかゝる 雲の上は晴れて青山たり。いづくより降 るやらん雲より上の白雪は。然れば此山

は仙境かくれ里の。人間に異なる其瑞 験も目のあたり。竹林の王妃として。皇 女に備はりて。鏡に経し薬をそへつゝ。別 るゝ天の羽衣の。雲路に立帰つて。神と なり給へり。シテ「帝其後かくや姫の。教 に従ひて。富士の高嶺の上にして。不死 の薬を焼き給へば。煙は万天に立ちのぼ つて雲霞。逆風に薫じつゝ。日月星宿 もさながら。あらぬ光をなすとかや。さ てこそ唐土の方士も。此山に上り不死薬 を。求め得て帰るなり。これわが朝の名 のみかは。西天唐土扶桑にも双ぶ山なし と名を得たる。富士山の粧。誠に上な かりけり。ワキ詞「富士山の謂は承り候ひ ぬ。さて/\あれに見えたる山はいかな る山と申すやらん。シテ「あれは愛鷹山と て富士に並べる高山にて。金胎両部を顕 せり。これ愛鷹の神前なり。ワキ「さて さて浅間大菩薩とは。取り分き何れの神

やらん。シテ詞「あう?浅間大菩薩とは。さの みは何といふ女の姿。地「恥かしやいつか さて。/\。其神体を顕して。誰にか見 えけん神の名を。さのみに現さば浅間の。 あさまにやなりけん。ふしの薬は与ふべ し。暫くこゝに待てしばし。芝山の雪とな つて。立ち上る富士の根行方しらずな りにけり行方しらずなりにけり。来序中入間「。 地「かゝりければ富士の御嶽の雲晴れて。 金色の光天地にみちて。明方の空は。明々 たり。後シテ出端「抑これは。富士山に住んで悪 魔を払い国土を守る。日の御子とは我が 事なり。詞「こゝに漢朝の勅使此処に来り。 不死の薬を求む。其志深き故。不老不死 の仙薬を。則ち彼に。与ふべしと。地「神 詫新たに聞えしかば。/\。虚空に音 楽聞えつゝ。姿も妙なるかくや姫の。 薬を勅使に与え給ふ。ありがたや。天女舞「。 地「簫笛琴箜篌孤雲の御声。/\。誠な

るかな富士浅間の唯今の影向。実にも妙 なる有様かな。楽「それ我が朝は粟散遍里 の小国なれども。/\。霊神威光を顕し 給ひ。悪魔を退け衆生を守る。中に異なる 富士の御嶽は。金胎両部の形を顕し。ま のあたりなる。仙境なれば。不老不死の 薬を求め。勅使は二神に御暇申し。漢朝 さして帰りければ。かくや姫は。紫雲に 乗じて富士の高嶺に上らせ給ひ。内院に 入らせおはしませば。なほ照りそふや。 日の御子の。姿は雲居によぢ上り。姿は雲 居によぢのぼつて。虚空にあがらせ給ひ けり。 勅使 従者 男漁夫 漁翁 弁財天女 童子(諷ナシ) 五頭龍王

ワキ、ワキツレ二人、真ノ次第「治まるをりを江の島や。/\。 動かぬ国ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは 欽明天皇に仕へ奉る臣下なり。扨も相模 の国江野といふ浦に。去んぬる卯月十日 あまりに。不思議の奇瑞様々あつて。海 上に一つの島湧出す。則ち江野に名ぞら へて是を江の島と号す。島の雲上に天女 顕れ給ふ。これ弁財天影向の地にて。 福寿円満の霊地なれば。急ぎ見て参れと の勅に任せ。唯今東海道の下向仕り候。 道行三人「東路も。そなたの空に行く雲の。 /\。影も涼しき鳰の海。遥けき旅を駿 河なる。富士の高嶺の月影も。幾山々の うつりこし。相模の国に着きにけり。

/\。ワキ詞「日を重ねて急ぎ候ふ程に。こ れははや相模の国江の島に着きて候。こ の浦の者を相待ち事の由をも窺はゞやと 存じ候。 シテツレ二人、真ノ一声「島つ鳥。浮海松涼し波の上。有 明残るあさぼらけ。ツレ二ノ句「波もて立つや夏 衣。二人「うらぶれ渡る沖つ風。シテ「それ 江の島は崑崙の奇を移し。五丈の垣重な ほとけれども。二人「蓬莱海の勢を伝へたる。 三壺の形あらたなり。秦皇徐市を疑はゞ。 驪山塚の春の風。なほさりがてらに渡ら めや。漢帝斉少を用ひずは。覇陵原の秋の 月。心凄くは澄まざらまし。誠に人間の妙 奇仙境の秘跡なり。歌「一度も。歩を運

ぶともがらは。三千界の内にまづ。無量 福の宝を得。一期生の後に早く。不退転の 位に至る。かゝる誓の海山も。なほ万代 の末かけて。靡き従ふ此国の。尽きせぬ 御代は有難や尽きせぬ御代は有難や。 ワキ詞「我江の島にあがり。山海の致景を 眺め。事の由を窺ふ所に。海人あまた来 れり。いかに翁。おことはこの浦の者か。 シテ「さん候この浦の者にて候ふが。毎日 この島にあがり。山上山下岩窟社々を清 め申す者にて候。さて御身はいづくより の御参詣にて候ふぞ。ワキ「これは欽明天 皇に仕へ奉る臣下なるが。この島湧出の 由聞し召され。事の子細を悉く尋ね見て 参れとの宣旨にまかせ。是まで勅使を下 さるゝなり。委しく子細を申し候へ。 シテ「さてはかたじけなくも帝よりの勅 使にてましますぞや。そも/\この島は 欽明天皇十三年。卯月十二日戌の刻より

同じく二十三日辰の刻に至るまで。江野 南海湖水港の口に雲霞暗く蔽ひて。天水 氛〓{気の中に温のつくり:ふんうん}たり。大地震動する事十日にあまれ り。とばかりありて天女雲上に現れ。童 子左右に侍り。諸々の天衆龍神水火雷電。 山神鬼魅夜叉羅刹雲上より盤石を下し。 海底より塊砂を噴き出す。ツレ「〓{かい}々た る雷の光。せいくを万天の間に飛ばし。 シテ詞「霹靂帛を裂くが如し。波浪金を涌 かすに似たり。ツレ「宕巌多く浮べ出し。 夜叉鬼神島を作る。シテ詞「或は銅杵を 持つて打ち砕き。ツレ「或は鉄杖を持つ て裂き破る。シテ詞「又は二つの岩を押し 合はせ。ツレ「又は一つの石を峙てたり。 シテ詞「とり%\に島を造り給へば。梵天 帝釈四大天王。上界の天人下界の龍神。 ツレ「残らずこゝに現れ給ひ。二人「おのお のこれを衛護し給ふ。其後靄雲収まりて。 海上に一つの島を成せり。すなはち江野

になどらへて。江野原島とこれを申すなり。 ワキ「謂を聞けばありがたや。則ちこれは 明君の。すぐなる御代のしるしをみせ て。かゝる奇特を拝む事よと。いよ/\ 御影を仰ぐなり。詞「さてこの島は天部 の影向又は如何なる御神の。鎮守と現れ 給ふらん。シテ詞「中々の事この島に。おの おの諸神まします中にも。龍の口の明神 は。天部と夫婦の御神にて。衆生済度の 御方便。あがめてもなほ余りあり。ワキ「げ に有難やかくばかり。深き恵の海山も。 なほ万歳を呼ばふなる。シテ「声か松吹く 風の音の。ワキ「涼しき巌い寄る波も。 シテ「治まる国のしるしを見せて。ワキ「豊 に住める。シテ「この時を。地上歌「万代の。始 と今日を祈りおき。始と今日を祈りおき て。今行く末も此島の。誓は尽きぬ無量 億の。楽の数々を。受けつぐ国ぞ久し き。善神は一切の福を授け。悪神は万里

の禍を払ふ浦風も。天部の誓なるとか や。頼めなほ隔なき。真如の玉も雲ら じ。ワキ詞「猶々江の島に於てめでたき子 細様々あるべし。残さず申し候へ。 地クリ「そも/\江の島と云つぱ。そのめぐ れる事三十余町。その高き事数十余丈な り。シテサシ「水は山の影をふくみ。山は水の 心に任せたり。地「〓{せん}中の砂清浅たり。 白雲の破るゝ所に。洞門開けて翆屏あら はれたり。岩窓の奥遥かに入つて峨々た る巌の間より。落ちくる水は西天の。無 熱池の池水なるとかや。シテ「禅定無漏の 仙人は。地「この地を占めて栖とし。弥陀 有縁の教主は。この島に来つて生を導く。 シテ「二世安楽のこの島に。地「誰か頼を かけざるべき。クセ「こゝに又古。武蔵 相模の境に。鎌倉海月の間に深沢といふ 湖あり。かの湖に大蛇住めり。其身一つに して。その頭五つあり。隆準の鼻胡髯の

腮。眼に。白日をつなぬき身に黒雲をまつ へり。然れば神武天皇より。垂仁天皇の 御宇までは。十一代の帝祚を経。七百余 歳の年祀を経て国中に満ちて人を取る。 シテ「景行天皇の御宇に至り。地「龍悪いよ いよ盛んなれば。人皆石窟に隠れ住み涕 哭の声限なし。時に天部は龍に向ひ。汝 が悪心を翻し殺生をとゞめこの国の守護 神とならば夫婦の語をわれなすべしと。 堅く誓約し給へば龍王もこれに応じつ つ。今より殺害をとゞめて善心を思ひ龍 の口の明神となり給ひ。国土を守護し 給ふなり。 ロンギ「はや時移る夕雲の。/\。かゝる 神秘も大方の。浦人いかで木綿四手の。 神の告かや有難や。シテ「なか/\なれや 大君の。みことかしこみ勅に今ぞ。応ず るしるしを現さん。夜すがらこゝに待ち 給へ。地「勅に応ぜんしるしとは。そも老

人は誰やらん。シテ「誰とはさても愚な り。我は五頭龍。地「今は又。天部の夫婦 の神となりし龍の口の明神とは老人を 見るべし。今宵の月に天部の御姿我が姿 をも。現すべしと夕波に。立ちまぎれつゝ 失せ給ふこそあらたなれ。来序中入間「。 ワキ「岐伯が絶技をさきに揚げ。張儀が英 声を後に馳す。これ聡明勇進弁財天の。 地「無量無辺不可思議の功徳を。様々現 しおはします。ツレ天女、出端「月も照り添ふ如意 の宝珠の。光を誰か仰がざる。地「仰げな ほ。/\。意の如しと聞く時は。天女「今 この君のそれと御影にあひにあふ。地「卞 和が玉もなにならず。かの如意宝珠を君 に捧げんと光も輝く御殿の扉。左右に開 けて十五童子。天部の御姿現れたり。 地「衆生済度のその御方便。衆生済度のそ の御方便も。まづ福寿円満の願をかなへ。 現寿無比楽後生清浄土曇らぬ宝珠を君に

捧げんと勅使にこれを授け給ひ。舞楽を 奏し。拍子を揃へ。羽袖をかへして舞ひ 給ふ。天女楽、地「天人聖衆菩薩の舞も。/\。 かくやと思ひ白波の。立ち来る沖に雲く らがつて。疾風吹きたて逆巻く潮は。五 頭龍王の。出現かや。 後シテ早笛「われ昔は深沢の池に住んで。五頭 龍王と現れ。今は国土の守護神となる。 龍の口の明神なり。地「聞きしに変ら ぬ因位の形。/\。シテ「頭は五頭龍。 地「胡髯の腮。眼に白日をつなぬき。そ の身に黒雲をまつへり。苔むす松も野べ 伏す巌の。峨々たる上にぞあらはれた る。シテ働「。 シテ「神仏水波の隔てなり。地「神仏水波 の隔なれば。同一体の。利益もさま%\ の弁財天部は威光を現し。明神諸共に 百千劫の。齢を守らんと約諾堅き。岩間 を伝ひ。涼とるてふ緑の海に。飛行し給

へば磯うつ波も龍の口の。明神忽ち威を 振ひ雲を吹き嵐にかゞやく眼の光は天地 に満ち満てりその時天部は童子を伴ひ紫 雲の上に。現れ給へば明神立ち来る黒雲

に乗じ。光を放つて島根を廻り。めぐり めぐるや暫しが程は。とり%\姿を雲中に 現しとり%\姿を雲中に現すも実に有り 難き影向かな。 室の明神の神職 里の女 別雷の神 天女

ワキ、ワキツレ二人、次第「清き水上尋ねてや。/\。賀茂 の宮居に参らん。ワキ詞「抑これは播州室の 明神に仕へ申す神職の者なり。さても都 の賀茂と当社室の明神とは御一体にて御 座候へども。いまだ参詣申さず候ふ程 に。此度思ひ立ち都の賀茂へと急ぎ候。 道行三人「播州潟。室のとぼその曙に。/\。 立つ旅衣色染むる飾磨の徒路行く舟も。 上る雲居や久方の。月の都の山陰の。賀 茂の宮居に着きにけり/\。 シテツレ二人、真ノ一声「御手洗や。清き心に澄む水の。

賀茂の河原に出づるなり。ツレ二ノ句「直にたの まば人の世も。二人「神ぞ糺の道ならん。 シテサシ「半ゆく空水無月の影更けて。秋程も なみ御秡川。二人「風も涼しき夕波に。心 も澄める水桶の。もちがほならぬ身にし あれど。命の程は千早振る。神に歩を。 運ぶ身の。宮居曇らぬ。心かな。下歌「頼む 誓は此神によるべの。水を汲まうよ。 上歌「御手洗の。声も涼しき夏陰や。/\。 糺の森の梢より。初音ふり行く時鳥な ほ過ぎがてに行きやらで。今一通り村雨

の。雲もかげろふ夕づく日。夏なき水の 川隈汲まずとも影は。疎からじ汲まずと も影はうとからじ。 ワキ詞「いかにこれなる水汲む女性に尋ね 申すべき事の候。シテ詞「これはこのあたり にては見馴れ申さぬ御事なり。何処より の御参詣にて候ふぞ。ワキ「実によく御覧 じ候ふものかな。これは播州室の明神の 神職の者にて候ふが。始めて当社に参り て候。先々これなる川辺を見れば。新し く壇を築き。白木綿に白羽の矢を立て。 剰へ渇仰の気色見えたり。こはそも何と 申したる事にて候ふぞ。シテ「さては室の 明神よりの御参詣にて候ふぞや。またこ れなる御矢は。当社の御神体とも御神物 とも。唯此御矢の御事なり。あからさま なる御事なりとも。渇仰申させ給ひ候へ。 ワキ「実に有難き御事かな。さて/\当社 の神秘に於て。さま%\あるべき其内に。

詞「分きてこの矢の御謂。委しく語り給ふ べし。シテ詞「総じて神の御事を。あざ/\ しく申さねども。あら/\一義を顕す べし。むかし此賀茂の里に。秦の氏女 と云ひし人。朝な夕な此川辺に出でて水 を汲み神に手向けけるに。ある時川上よ り白羽の矢ひとつ流れ来り。此水桶にと まりしを。取りて帰り庵の軒に挿す。主 思はず懐胎し男子を生めり。此子三歳と 申しゝ時。人々円居して父はと問へば。 此矢をさして向ひしに。此矢すなはち鳴 雷となり。天に上り神となる。別雷の神 これなり。ツレ「其母御子も神となりて。 賀茂三所の神所とかや。 シテ「さやうに申せば憚りの。誠の神秘は 愚なる。シテツレ二人「身に弁は如何にとも。 いさしら真弓。やたけの人の。治めん御 代を告げしら羽の。八百万代の。末まで も。弓筆に残す。心なり。ワキ「よく/\聞

けば有難や。さて/\其矢は上る代の。 今末の代にあたらぬ矢までも。御神体な る謂は如何に。シテ「実によく不審し給へ ども。隔はあらじ何事も。ワキ「心から にて澄むも濁るも。シテ「同じ流れのさまざ まに。ワキ「賀茂の川瀬も変る名の。シテ「下 は白川。ワキ「上は賀茂河。シテ「又其うち にも。ワキ「変る名の。地歌「石川や。瀬見の 小河の清ければ。/\。月も流を尋ねて ぞ。澄むも濁るも同じ江の。浅からぬ心 もて。何疑のあるべき。年の矢の。早くも 過ぐる光陰惜みても帰らぬはもとの水。 流はよも尽きじ絶えせぬぞ手向なりける。 下歌「いざ/\水を汲まうよ/\。 ロンギ地「汲むや心もいさぎよき。賀茂の 川瀬の水上は。如何なる所なるらん。 シテ「何処とか。岩根松が根凌ぎ来る。瀧 つ流は白玉の。音ある水や貴船川。地「水 も無く見えし大井河。それは紅葉の雨と

降る。シテ「嵐の底の。戸無瀬なる波も名 にや流るらん。地「清瀧川の水汲まば。高 嶺の深雪解けぬべき。シテ「朝日待ち居て 汲まうよ。地「汲まぬ音羽の瀧波は。 シテ「受けて頭の雪とのみ。地「戴く桶も シテ「身の上と。地「誰も知れ老いらくの。 暮るゝも同じ程なさ今日の日も夢の現ぞ と。うつろふ影は有りながら。濁なくぞ 水むすぶの神の・慮{こゝろ}。汲まうよ神の御慮汲 まうよ。 ワキ詞「実に有難き御事かな。かやうに委 しく語り給ふ。御身は如何なる人やら ん。シテ詞「誰とは今は愚なり。汝知らずや 神慮の趣き。迎へ給はゞ君を守りの。此 神徳を告げ知らしめんと。現れ出でて。 地「恥かしや我が姿。恥かしや我が姿の。 真をあらはさばあさましやなあさまにや なりなん。よし名ばかりはしら真弓の。や ごとなき神ぞかしと。木綿四手に立ち紛

れて神がくれになりにけりや。神がくれ になりにけり。来序中入間「。 後ツレ出端「あら有難のをりからやな。我此宮 居に地をしめて。法界無縁の衆生をだに。 一子とおぼし見そなはす。御祖の神徳仰 ぐべしやな。曇らぬ御代を。守るなり。 地「守るべし守るべしやな。君の恵も今 此時。ツレ「時至るなり時至る。地「感応 あらば影向微妙の。相好荘厳まのあたり に。有難や。天女舞「。 地歌「加茂の山並御手洗の影。/\。映り 映ろふ緑の袖を。水に浸して。涼とる。 涼とる。裳裾をうるほすをりからに。山 河草木動揺して。まのあたりなる別雷 の。神体来現し給へり。 後シテ早笛「我はこれ。王城を守る君臣の道。 別雷の神なり。地「或は諸天善神となつ て。虚空に飛行し。シテ「又は国土を垂跡 の方便。地「和光同塵結縁の姿。あら有難

の。御事やな。舞働「。シテ「風雨随時の御空の 雲居。地「風雨随時の御空の雲居。シテ「別 雷の雲霧を穿ち。地「光稲妻の稲葉の 露にも。シテ「宿る程だに鳴雷の。地「雨を 起して降りくる足音は。シテ「ほろ/\。 地「ほろ/\とゞろ/\と踏みとゞろか す。鳴神の鼓の。時も至れば五穀成就も

国土を守護し。治まる時には此神徳と。威 光を顕しおはしまして。御祖の神は。 糺の森に。飛び去り/\入らせ給へばな ほ立ち添ふや雲霧を。別雷の。神も天路 に攀ぢ上り。神も天路に攀ぢ上つて。虚 空に上らせ給ひけり。 延喜の帝の臣下 従者 漁翁 龍神 弁財天

ワキ、ワキツレ二人、次第「竹に生るゝ鴬の。/\竹生島詣 いそがん。ワキ詞「そも/\これは延喜の聖 代に仕へ奉る臣下なり。さても江州竹生 島の明神は。霊神にて御座候ふ間。この 度君に御暇を申し。唯今竹生島に参詣仕 り候。道行三人「四の宮や。河原の宮居末はや き。/\。名も走井の水の月。曇らぬ御 代に。逢坂の関の宮居を伏し拝み。山越

ちかき志賀の里。鳰の浦にも着きにけり /\。ワキ詞「急ぎ候ふほどに。鳰の浦に 着きて候。あれを見れば釣舟の来り候。暫 く相待ち便船を乞はゞやと存じ候。 シテサシ一声「おもしろや頃は弥生のなかばな れば。波もうらゝに海のおも。ツレ「霞み わたれる朝ぼらけ。シテ「のどかに通ふ舟 の道。ツレシテ二人「憂きわざとなき。心かな。

シテサシ「これはこの浦里に住みなれて。あけ 暮運ぶ・鱗{うろくづ}の。数をつくして身ひとつを。 助けやせんとわび人の。隙も波間に。明 けくれて。世を渡るこそ。ものうけれ。 下歌「よし/\同じ業ながら。世にこえた りなこの海の。名所多き数々に。/\。 浦山かけて眺むれば。志賀の都。花園昔 ながらの山桜。真野の入江の船よばひ。 いざさしよせて言問はん/\。 ワキ詞「いかにこれなる船に便船申さうな う。シテ詞「これは渡船にてもなし。御覧候 へ釣船にて候ふよ。ワキ「こなたも釣船と 見て候へばこそ便船とは申せ。これは竹 生島にはじめて参詣の者なり。誓の船に 乗るべきなり。シテ詞「げにこの処は霊地に て。歩を運び給ふ人を。とかく申さば御 心にも違ひ。又は神慮もはかりがたし。 ツレ「さらばお船を参らせん。ワキ「うれし やさては迎の舟。法の力とおぼえたり。

シテ詞「けふは殊更のどかにて。心にかゝ る風もなし。地下歌「名こそさゝ波や。志賀 の浦にお立あるは都人かいたはしや。お 舟にめされて浦々を眺め給へや。上歌「処 は海の上。/\。国は近江の江に近き。 山々の春なれや花はさながら白雪の。降 るか残るか時しらぬ。山は都の富士なれ や。なほさえかへる春の日に。比良の嶺 おろし吹くとても。沖こぐ船はよも尽き じ。旅のならひの思はずも。雲井のよそに に見し人も。同じ船に馴衣浦を隔てゝ行 くほどに。竹生島も見えたりや。シテ「緑 樹かげ沈んで。地「魚樹にのぼるけしき あり。月海上に浮んでは兎も波を走るか。 おもしろの島の景色や。 シテ詞「舟が着いて候ふ御上り候へ。 ワキ詞「あらうれしや軅て神前へ参り候ふ べし。シテ「この尉が御道しるべ申さうず るにて候。これこそ弁財天にて候へ。よく

よく御祈念候へ。ワキ「承り及びたるより もいやまさりて有りがたう候。不思議や な此島は。女人禁制とこそ承りて候ふに。 あれなる女人は何とて参られて候ふぞ。 シテ「それは知らぬ人の申しごとにて候。 忝くも此島は。・久成{きうしやう}如来の御再誕なれば。 殊に女人こそ参るべけれ。ツレ「なうそれ までもなきものを。地「弁財天は女体に て。/\。その神徳もあらたなる。天女 と現じおはしませば。女人とは隔なした だ知らぬ人の言葉なり。 クセ「かゝる悲願を起して。正覚年久しの 古より。利生更に怠らず。シテ「げに%\か ほど疑も。地「荒磯じまの松蔭を。たより によするあま小舟。われは人間にあらず とて。社壇の。扉をおし開き。御殿に入 らせ給ひければ。翁も水中に。入るかと 見しが白波の立ち返りわれは此海の。あ るじぞと言ひすてゝまた。波に入らせ給

ひけり。来序中入間「。 地出端「御殿しきりに鳴動して。日月光り輝 きて。山の端出づるごとくにて。現れ給ふ ぞかたじけなき。後ヅレ「そも/\これは。 此島に住んで神を敬ひ国を守る。弁財天 とは。わが事なり。地「その時虚空に音 楽聞え。/\。花ふりくだる。春の夜の。 月にかゝやく乙女の袂。かへす%\も。 おもしろや。天女舞「。 地「夜遊の舞楽も時すぎて。/\。月すみ わたる。湖づらに。波風しきりに鳴動し て。下界の龍神。現れたり。早笛「龍神湖

上に出現して。/\。光も輝く金銀珠玉 をかのまれ人に。捧ぐるけしき。ありがた かりける。奇特かな。シテ「もとより衆生 済度の誓。地「もとより衆生済度の誓。様 様なれば。あるひは天女の形を現じ。有 縁の衆生の諸願をかなへ。または下界の 龍神となつて。国土を鎮め。誓を現し。 天女は宮中に入らせ給へば。龍神はすな はち湖水に飛行して。波を蹴立て。水を 返して天地に群がる大蛇のかたち。天地 に群がる大蛇のかたちは。龍宮に飛んで ぞ。入りにける。 官人 従者 老人 氷室の神 天女

ワキ、ワキツレ二人、次第「八洲も同じ大君の。/\。御影 の春ぞ長閑けき。ワキ詞「そも/\これは亀 山の院に仕へ奉る臣下なり。我此度丹後

の久世の戸に参り。既に下向道なれば。こ れより若狭路にかゝり。津田の入江青葉 後瀬の山をも一見し。それより都に帰ら

ばやと存じ候。道行三人「花の名の。白玉椿八 千代経て。/\。緑にかへる空なれや。 春の後瀬の山続く。青葉の木蔭分け過ぎ て。雲路の末の程もなく。都に近き丹波 路や。氷室山にも着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。丹波の国氷室山に 着きて候。此処の人を待ち。氷室の謂を も委しく尋ねばやと存じ候。 シテツレ二人、真ノ一声「氷室守。春も末なる山陰や。花 の雪をも。集むらん。ツレ二ノ句「深山に立てる 松蔭や。冬の気色を残すらん。シテサシ「夫れ は常磐の色添へて。緑に続く氷室山の。谷 風はまだ音さへて。氷に残る水音の雨も 静かに雪落ちて。実に豊年を見する御代 の。御調の道も直なるべし。下歌「国土豊に 栄ゆくや千年の山も近かりき。上歌「変わ ぬや。氷室の山の深緑。/\。春の気色は 有りながら。此谷陰は。去年のまゝ深冬

の雪を集め置き。霜の翁の年々に。氷室 の御調まもるなり/\。ワキ詞「いかにこれ なる老人に尋ぬべきことの候。シテ詞「此方 の事にて候ふか何事を御尋ね候ふぞ。 ワキ「おことはこの氷室守にて有るか。 シテ「さん候氷室守にて候。ワキ「さても 年々に奉ぐる氷の物の供御。拝みは奉れ ども在所を見る事は今始めなり。さてさ て如何なる構により。春夏まで氷の消え ざる謂委しく申し候へ。シテ「昔御狩の荒 野に。一村の森の下庵ありしに。頃は水 無月半なるに。寒風御衣の袂に移りて。 さながら冬野の御幸の如し。怪しみ給ひ御 覧すれば。一人老翁雪氷を屋の内にた たへたり。かの翁申すやう。夫れ仙家に は紫雪紅雪とて薬の雪あり。翁もかくの ごとしとて。氷を供御に備へしより。氷 の物の供御始りて候。ワキ「謂を聞けば 面白や。さて/\氷室の在所々々。上代

よりも国々に。あまた替はりて有りしよ なう。シテ詞「先は仁徳天皇の御宇に。大和 の国闘鶏の氷室より。供へ初めにし氷の 物なり。ツレ「又其後は山陰の。雪も霰も さえ続く。便の風をまつが崎。シテ詞「北山 陰も氷室なりしを。ツレ「又此国に所を移 して。深谷にさえけく谷風寒気も。シテ「便 ありとて今までも。末代長久の氷の供御 のため。丹波の国桑田の郡に。氷室を定め 申すなり。ワキ「実に/\翁の申す如く。 山も処も木深き蔭の。日影もさゝぬ深谷 なれば。春夏までも雪氷の。消えぬも又 は理なり。シテ詞「いや処によりて氷の消え ぬと承るは。君の威光も無きに似たり。 ワキ「唯よの常の雪氷は。シテ詞「一夜の間 にも年越ゆれば。ワキ「春立つ風には消ゆ るものを。シテ「されば歌にも。ワキ「貫之 が。地「袖ひぢて。掬びし水の氷れるを。 /\。春立つ今日の。風や解くらんとよ

みたれば。夜の間に来る。春にだに氷は 消ゆる習なり。ましてや。春過ぎ夏たけ て。早水無月になるまでも。消えぬ雪の 薄氷。供御の力にあらでは。如何でか残 る。雪ならんいかでか残る雪ならん。 地クリ「夫れ天地人の三才にも。君を以て 主とし。山海万物の出生。即ち王地の恩 徳なり。シテサシ「皇図長く固く。帝道遥に盛ん なり。地「仏日光ます/\にして。法輪常 に転ぜり。シテ「陽徳をりを。違へずして。 地「雨露霜雪の。時を得たり。クセ「夏の日 に。なるまで消えぬ冬氷。春立つ風や。 よぎて吹くらん。実に妙なれや。万物時 に有りながら。君の恵の色添へて。都の 外の北山に。つぐや葉山の枝茂み。此面 彼面の下水に。集むる雪の氷室山。土も 木も大君の。御影にいかで洩るべき。実 に我ながら身の業の。浮世の数に有りな がら。御調にも取り別きて。なほ天照ら

す氷の物や。他にも異なる捧物。叡感以て 甚だしき。玉体を拝するも。深雪を運ぶ故 とかや。シテ「然れば年立つ初春の。地「初 子の今日の玉箒。手に取るからにゆらぐ 玉の。翁さびたる山陰の。去年のまゝにて 降り続く。雪のしづくをかき集めて。木 の下水にかき入れて。氷を重ね雪を積み て。待ち居れば春過ぎてはや夏山になり ぬれば。いとゞ氷室の構へして。立ち去る 事も夏陰の。水にも住める氷室守。夏衣 なれども袖さゆる。気色なりけり。 ロンギ地「実に妙なりや氷の物の。/\。御 調の道もすぐにある都にいざや帰らん。 シテ「暫く待たせ給ふべし。とても山路の 御序に。今宵の氷調。供ふる祭御覧 ぜよ。地「そもや氷調の祭とは。如何なる 事にあるやらん。シテ「人こと知らね此山 の。山神木神の。氷室を守護し奉り。毎夜 に神事有るなりと。地「言ひもあへねば

山くれて。寒風松声に声立て時ならぬ雪 は降り落ち。山河草木おしなべて氷を敷 きて瑠璃壇に。なると思へば氷室守の。 薄氷を踏むと見えて室の内に入りにけり 氷室の。内に入りにけり。来序中入間「。 地、出端「楽に引かれて古鳥蘇の。舞の袖こそ。 ゆるぐなれ。天女舞。後ツレ「変らぬや。氷室 の山の。深緑。地「雪を廻らす舞の袖かな。 後シテ「曇なき。御代の光も天照らす。 氷室の御調。供ふなり。地「供へよや。 /\。さも潔き。水底の砂。シテ「長じて は又。巌の陰より。地「山河も震動し天地 も動きて。寒風しきりに。肝をつゞめて。 紅蓮大紅蓮の。氷を戴く氷室の神体さえ 燿きてぞ顕れたる。 シテ「谷風水辺冴え凍りて。地「谷風水辺 冴え凍りて。シテ「月も燿く氷の面。地「万 境をうつす。鏡の如く。シテ「晴嵐梢を 吹き払つて。地「蔭も木深き谷の戸に。

シテ「雪はしぶき。地「霰は横ぎりて。岩も る水もさゞれ石の。深井の氷に閉ぢ付け らるゝを。引き放し/\。浮び出でた る氷室の神風。あら寒や。冷やかや。舞働「。 シテ「賢き君の。御調なれや。地「賢き君 の。御調なれや。波を治むるも氷。水を 鎮むるも氷の日に添へ月に行き。年を待 ちたる氷の物の供。供へ給へや。供へ給 へと采女の舞の。雪を廻らす小忌衣の。 袂に添へて。薄氷を。碎くな/\。解か すな解かすなと氷室の神は。氷を守護し。 日影を隔て。寒水をそゝぎ。清風を吹か して。花の都へ雪を分け。雲を凌ぎて北 山の。すはや都も見えたり/\急げや急 げ。氷の物を。供ふる所も愛宕の郡。捧 ぐる供御も。日の本の君に。御調物こそ。 めでたけれ。 天女(前ハ海女) 龍神 隼友神職

ワキ三人次第「隼友の神祭。/\つきせぬ御代ぞ めでたき。ワキ詞「抑これは長門の国隼友 の明神に仕へ申す神職の者なり。さても 当社に於て御祭さま%\御座候ふ中に も。十二月晦日の御神事をば。和布刈の 御神事と申し候。今夜寅の時に至つて。 龍神潮を守護し。浪四方に退いて平々た り。其時神主海中に入つて。水底の和布を 刈り神前に供へ申し候。殊に当年は不思 議の奇瑞御座候ふ間。いよ/\信心を致 し。御神事を執り行はゞやと存じ候。有難 や今日隼友の神の祭。年の極の御祭と言 つぱ。又新たまの年の始を。祝ふ心は君が 為。上歌三人「春の野に出でて摘む若菜。/\。 生ひゆく末のほどもなく。年は暮るれど 緑なる和布刈のけふの神祭。心をいたし

さまざまに。君の恵を祈るなり/\。 シテツレ二人真ノ一声「天地の。開けし御代に久方の。 神と君との。御影かな。ツレ二ノ句「けふに廻る も隼友の。二人「共に暮れ行く。年なれや。 シテサシ「ありがたやそれ秋津洲んおうちに 於て。神所の御祭さまざまなれども。 二人「此隼友の神祭。世界わたづみ隔なく て。蘊藻の礼奠感応の。海松藻浮藻の花 も咲く波をかざしの手向草。塵に交はる 神慮。誓に漏るゝ方もなし。下歌「歩を運 ふ此神に。いざ結縁をなさうよ。上歌「処は 速鞆の。/\。ゆきゝの舟も楫を絶え。 数々の捧げ物海士のしわざに至るまで。 かひあるべしや志。それこそ花の手向な れ/\。 ワキ「不思議やな夕影過ぐる神の御前に。手

向を捧ぐる人影は。そもやいかなる人や らん。ツレ「これは賎しきあま少女の。数 にはあらぬうき身なるば。手向を捧ぐる ばかりなり。シテ詞「われは又年経て住める 此浦の。漁翁の罪を恐るゝ故。賎しき者は き身を。浮べんために候ふなり。ワキ「な か/\なれや魚類までも。誓に漏れぬ此 浦の。シテ「海士の漁火焦るとも。シテツレ二人「和 光の影は曇なく。地「明かなれや天地の。 開けし神代の如くにて。すなほなるべき 人心。いやましの瑞験現れにけるぞあり がたき。上歌「海原や。博多の海も程近く。 /\。汐引島も見渡る。速鞆の友千鳥。 沖の鴎の群れ立つや。春秋の。雲居の雁 も留め得ぬ。誰が玉章の。門司の関守と 詠みし心もことわりや/\。 クリ「それ地神第四の御代火々出見の尊。 豊玉姫と契をなし。海陸の隔なかり しに。シテサシ「その御産の時豊玉姫。尊に向

ひ宣はく。地「産期に於て我が姿を。敢へ て見給ふ事なかれと。御約諾の。詔。互に 堅く誓給ふ。クセ「然れども時至り。さ すがに御気色いぶかしく思しけるかと よ。かいまみさせ給ひしを。いとあさ ましと恨みかこち。長く海路の通をたち 隠す波の玉の御子を。捨てつゝ豊玉姫は。 龍宮に入り給ふ。其後潮さしひきの。 朝暮の時はありながら。人畜類の生を背 き。境をさかりにき。シテ「然れば神代の 昔より。地「此隼友の神祭。神慮普き誓な れや。上は非想の雲の上。下は下界の龍 神まで。渇仰の心中。真に深き蒼海を。 陸地になして此国の。長門の通隔もなき。 海蔵の御宝も。心の如くなるべし。 ロンギ「げにや心の如くにて。/\。此結 縁もさま%\の。人の願のなかるべき。 ツレ「今は何をか包むべき。我が住む方は 久方の。地「天つ少女の雲の袖。シテ「か

ざしの花の手向草。地「色こそ変れ。 シテ「わたづみの。地「花は波路の底より も。龍宮の捧げ物。天地とともに渇仰の。 天つ少女は雲にのれば。翁は老の波に 隠れ入り給ひけりや隠れ入らせ給ひけ り。来序中入。 天女出端、地「汀に神幸なり給へば。/\。虚空 に音楽。松風に和して。皎月照らし。異香 薫ずる龍女は波もかざしの袖を。かへ すも立ち舞ふ。袖かな。天女舞。 後ツレ「さる程に/\。地「和布刈の時到 り。虎嘯くや風速鞆の。龍吟ずれば雲起 り雨となり。潮も光り。鳴動して。沖より 龍神現れたり。早笛、上「龍神即ち現れて。

/\。シテ「和布刈の処の水底を穿ち。 地「払ふや潮背に。こゆるぎの磯菜摘む。 シテ「めざし濡すな。沖に居れ波。地「沖に 居れ波と夕汐を退け。屏風を立てたる如 くに分れて。海底の砂は平々たり。舞働。 ワキ「神主松明。振り立てゝ。地「神主松明 振り立てゝ。御鎌を持つて岩間を伝ひ。 伝ひ下つて半町ばかりの海底の和布を刈 り。帰り給へば程なく跡に。潮さし満ち てもとの如く。荒海となつて波白妙の。 わたづみ和田の原。天を浸し。雲の浪煙の 波風海上に収まれば。波風海上に。収まれ ば蛇体は。龍宮に飛んでぞ。入りにける。 大臣 従者 天女 瀧祭の神

ワキ、ワキツレ二人、真ノ次第「大和にも織る唐錦。/\。龍

田の神に参らん。ワキ詞「そも/\是は当今

に仕へ奉る臣下なり。さても和州龍田の 明神は。霊神にて御座候ふ程に。この度 君に御暇を申し。唯今龍田に参詣仕り候。 道行三人「国々の。末は七つの都路を。/\。 夜深く出でて淀舟や立つ旅衣遥々と。な ほ雲遠き山城の。井手の下紐末かけし。 跡も昔に奈良坂や。龍田の山に着きにけ り。/\。 シテツレ二人、真ノ一声「龍田川。錦織り掛く神無月。色 づく秋の梢かな。ツレ二ノ句「紅葉の色も時めき て。二人「錦を張れる気色かな。シテ「これ は当社龍田の里に。住みて久しき者なる が。二人「農職ながら昔より。神前に仕へ 奉り。名におふ龍田の神垣や。宮路を通 ひいつとなく。頼む願も浅からず。恵 を千代と祈るなり。下歌「頃は長月廿日あ まり。紅葉も徒らに。唯闇の夜の錦なり。 上歌「神南備の。御室の岸や崩るらん。 /\。龍田の川の水の色は。濁るとも隔

てじな塵に交はる神慮。直に御影ももみ ぢ葉の。こゝは常磐の色はへて。誓も絶え ぬ瀧祭。戴く神の手向かな。/\。 ワキ詞「如何にこれなる火の光について尋 ね申すべき事の候。シテ「此方の事にて候 ふか何事にて候ふぞ。ワキ「是は此処始め て一見の者なり。宝山への道しるべして 給はり候へ。シテ「易き間の御事。これこ そ夜祭に参る者にて候へ。御道しるべ申 し候ふべし。此方へ御出で候へ。ワキ「あ ら嬉しややがて参らうずるにて候。 シテ「なう/\これこそ宝山にて候へ。 ワキ「承り及びたるより神さび殊勝にこ そ候へ。又日本第一の宝の御矛を納めし は。この御山の事にて候ふか。シテ「中々 の事この処の御事にて候。ワキ「さらばこ の山の謂を御物語り候へ。シテ「委しく語 つて聞かせ申し候ふべし。 地クリ「そも/\瀧祭の御神とは即ち当社

の御事なり。昔天祖の詔。末明らかなるみ 国とかや。シテサシ「こゝに第七代に当つて現 れ給ふを。伊弉諾伊弉冊と号す。地「時に 国常立伊弉諾に託して宣はく。豊芦原千 百五種の国あり。汝よく知るべしとて。 則ち天の御矛を授け給ふ。クセ「伊弉諾伊 弉冊は。天祖の御教。すぐなる道をあら ためんと。天の浮橋に。二神たゝずみ給 ひて。この御矛を海中に。さしおろし給 ひしより。御矛を改めて。天の逆矛と名 づけそめ。国富み民を治め得て。二神の 始より。今の代までの宝なり。その後国 土治まりて。御世平かになりしかば。瀧祭 の明神。この御矛を預かりて。所もあま ねしや。この御山に納めて。宝の山と号 すなり。シテ「そも/\御矛の主たりし。 地「名もいさぎよき瀧祭の。神の社はい づくぞと。問へば名を得し龍田山。紅葉 の八葉も。則ち矛の刄先より。照らす日影

や紅の光さしおろす矛の露。天地すなほ なる事も。こここそ宝身は知らず。国の宝 の山高み。よく/\礼し給へや。 ロンギ「げにや龍田の神の名の。/\。宝の 御矛同じくは。所を分きて見せ給へ。 シテ「むつかしの旅人や。影恥かしき龍田 山の。もみぢ衣の千早ぶる神の祭早めん と。地「颯々の鈴の声。ていとうと打つ波 の。鼓も同じ瀧祭の。神は我なりと。木綿 四手を靡かし。榊葉をうたひ夜に入りて。 月の夜声も速に入ると見えて。失せにけ り分け入ると見えて失せにけり。中入間「。 ワキ三人上歌待謡「御山の。柞の紅葉かたしきて。 /\。こゝに仮寝の枕より。音楽聞え花降 りて。異香薫ずる。不思議さよ。/\。 出端、天女出、地「楽にひかれて古鳥蘇の。舞の袖こ そゆるぐなれ。天女ノ舞「。 後シテ「そも/\是は。天の御矛を守護し 奉る。瀧祭の神。和光に出でて龍田の神。

地「或は天つ御空の御矛。シテ「又は宝山 倶利伽羅御嶽。地「戴きまつれや。シテ「驚 かし奉れや瀧祭。地「拍手響く山の雲霧。 晴行く日の。光の如くに天の御矛は現 れたり。 シテ祝詞「そも/\大日本国といつぱ神国た り。神は本覚真如の都を出でて。和光同塵 の御形。尤も仏法流布の国たるべしやな。 有難や。地「南無や帰命頂礼。大日覚王如 来、シテ「昔伊弉諾伊弉冊の尊。此矛を 携へて。天の浮橋を踏み渡り給ひ。地「則 ち御矛をさしおろし給ひ。青海原を。か き分け/\探り給へば。矛のしたゞり凝 り固まつて国となれり。シテ「まづ淡路 島。地「紀の国伊勢島筑紫四国。総じて八

つの国となつて。大八洲の国と名付け。天 地人の三才となる事も。此矛の徳なりあ ら有難や。働「。シテ「さて国々は荒島なれば。 地「さて国々は荒島なれば。さながら嶮 しき芦原なりしを。矛の手風。疾風とな つて。芦原を薙ぎ払ひ。引き捨て置けば。 山となりぬ。足引の山といひ。土はさな がら岩が根なりしを。矛の刄先にあたり 砕ば。平かなるをあらがねの土といひ。 そのほか東西南北十方を治め。悪魔を退 け豊芦原の。国治まりて。御矛を守の倶利 伽羅明王。この宝山に納め奉り。毎日め ぐるや日の本の。宝の山に龍田の神は。 /\。御矛を守りの身体なり。 大臣 従者二人 男(漁夫) 漁翁 天女 龍神

ワキ、ワキツレ二人、真ノ次第「風も涼しき旅衣。/\。朝立 つ。道ぞ遥けき。ワキ詞「ども/\是は当今 に仕へ奉る臣下なり、偖も丹後の久世 の戸は神代の古跡にて。かたじけなくも 天竺五台山の文珠を勧請の地なり。殊に 林鐘なかば彼の会式にて御座候ふ程に。 唯今参詣仕り候。道行三人「丹波路の。末遥々と 思ひ立つ。/\。旅の衣の日も幾日生野 の道も程遠き。まだ踏みも見ぬ橋立や。早 久世の戸に着きにけり。/\。ワキ詞「日を 重ねて急ぎ候ふ程に。是ははや九世の戸 に着きて候。都にて承り及びて候ふより も。天の橋立遥々と。真に妙なる眺にて 候。尚々心静かに眺めばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一声「浦風も涼しさ添へて追風とや。 波路遥に出づるない。ツレ二ノ句「蜑の海松藻 もいさみある。二人「眺妙なる気色かな。 シテサシ「所から曇らぬ空も与謝の海の。天の 橋立遥々と。二人「影踏む道に行きかふ

人も。今日の祭の時をへて。夏水無月の なかば行く。舟の渡りの。ひまもなき。 貴賎群集ぞ有難き。下歌「世渡る業はをし めどもいざや歩を運ばん。上歌「神の代 の。昔語を思出の。/\。月日曇らぬ天 つ神。地神二代を数へ来て。こゝ九世の戸 の名も高き。大聖文珠を勧請の。御影 あらたに捧ぐなる。法の灯曇なく、照 す誓は頼もしや/\。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事 の候。シテ「此方の事にて候ふか何事を御 尋ね候ふぞ。ワキ「これは都より始めて参 詣の者なり。まづこの所を久世の戸と名 づけ初めにしその謂を。委しく語り給ふ べし。シテ「われらは賎しき漁人なれば。 いかでか語り申すべきさりながら。まづ 久世の戸と名づけし事。忝くも天神七代 地神二代の御神。この国に天降り。こゝ にて天竺五台山の。文珠を勧進し給へば。

天の七代地の二代を。これ九世の戸と名 づけしなり。ツレ「されば菩薩の像体も。 これ帝釈の御作とかや。シテ詞「其後龍宮に 入り給ひ。法を弘めて程もなく。又この 島に上り給ふ。ツレ「すなはち獅子の渡 とて。今に絶えせぬ跡とめて。シテ詞「龍神 御灯を捧ぐれば。ツレ「天より天人あまく だり。シテツレ二人「天の灯龍神の御灯。此松が 枝に光をまらべ。渇仰の時節今宵なり。 有難かりける時節なり。ワキ「さては神代 の昔より。今に絶えせぬこの松に捧ぐる 御灯をまのあたり。拝まん事ぞ有難き。 シテ「なか/\の事御覧ぜよ。出でくる月 も曇なき。地「天の橋立光添ふ。/\。都 の人も浦人も。語れば思ふ事なくて。四 方の眺も面白や。松風も音しげく。立 ちくる波も白妙の。月澄み昇る気色か な。/\。 クリ「それ地神二代の御神。始めてこゝに

天降り。末世の衆生済度のために。霊像 を勧請し給へり。シテサシ「されば此地開闢の 昔。地「はや神国とあらかねの。きゝうの 祭しな%\の。衆生済度の方便生死の 相をたすけんとて。シテ「三世覚母大聖 文珠を。地「この島に安置し給ひけり。 クセ「この橋立を造らんと。約諾ありしそ の頃は。神の代いまだ遠からず。雲霧虚 空に充ち/\て。常闇の如くなりしかば。 おの/\神火をともして。日夜に土を運 びて同じく松を植ゑ給ふ。其灯のあまり を彼処に置かせ給ひしより。日置の島と て。これも故ある神所なり。シテ「かくて 神々集まりて。地「天竺五台屋mあの文珠を 勧請し給へば。上は有頂の雲を分け。下 は下界の龍神。音楽種々の花降り。御灯 を捧げ奉る。その影向のありさま語るも 愚なりけり。 ロンギ「げに有難き神の代の。/\。昔語

も今の世に。残る灯曇なき。御影を松の 木陰かな。シテ「短夜の。空も更けゆく浦 風の。音を静めて待ち給へ。必ず御灯現 れん。地「不思議やさてもかくばかり。委 しく語る浦人の。その名をなのり給へや。 シテ「今は何をかつゝむべき。われは知ら ずや此寺の。地「大聖文珠の御前なる。さ いしやう老人はわれなり。御身信心清浄 の。心を感じ来りたりと。いひ捨てゝ其 姿。松の木陰に失せにけり。来序中入間「。 ツレ天女出端「久方の。雲井に渡る橋立は。天 つ御空の御橋かな。地「月も更けゆく天の 原。/\。紫雲〓{たなび}き異香薫じ。天の少女 の雲の羽袖。光も妙なる御灯を捧げ。松 の梢に天降り。天降る。かゝりければ龍 宮より捧ぐる御灯の光。海上に浮かんで見 えたる粧。あらたなりける出現かな。 後シテ早笛「本光あまねき灯の。龍宮の内裏 を照らすなり。地「空には実月灯明仏。

/\。シテ「又下界には龍神の灯火。地「潮 に揺られ浮き沈めども。光はいとゞかゞ やきあがりて。天地の両灯一つになり合 ひ。久世の戸の明け方明々たり。働「。 シテ「固より龍神は飛行自在に。地「固よ り龍神は飛行自在に。通力遍満の奇特を 見せんと。平地に波瀾を起しつゝ。海山 虚空に飛びかけつて。嵐を蹴立て雨を起 して吹き曇り/\震動すれども御灯の光 は。明かに。なほ澄み昇るや。天つ少女 の姿も雲井に入らせ給へば又龍神は波を 蹴立て。逆巻く潮の廻ると共に。/\。 引かれて波にぞ入りにける。 建御雷神 神霊 天女 奉幣使 従者

ワキ、ワキツレ二人、次第「動かぬ御代の例とて。/\。鹿 島の宮に参らん。ワキ詞「抑是は当今の詔 によりて。鹿島の宮に詣づる奉幣使なり。 さるによりて旅の衣手取粧ひ。唯今常陸 の国へと急ぎ候。道行三人「行末も踏みなたが へそあきつしま。/\。日本の国をかなめ にて。正しき道を行く程に。高天の原に 着きにけり。高天の原につきにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これははや高天の 原に着きて候。暫し此処に休らひて。四 方の景色を眺めうずるにて候。ワキツレ「然る べう候。シテツレ真ノ一声「霰ふり。鹿島の宮居神 さびて。尊かりけることゝかや。ツレ二ノ句「天 の浮橋かけまくも。二人「かしこき御代は 此神の。功とこそ人も知れ。上歌「沼の尾

の池の玉水神代より。/\。絶えぬは深き 誓にて。それのみならず年経ても濁らぬ 御代を仰ぎつゝ。今を昔といふ世までも。 この御神の尊め。治まるや豊あし原の 中津国。つのぐむ芦の末葉まで。恵の露 は押しなべて。かゝる大御代ぞ類なき。 かゝる大御代ぞ類なき。ワキ詞「いかにこれ なる人々に申すべき事の候。シテ「此方の 事にて候ふか。何事にて候ふぞ。ワキ「人々 は此辺の者にてわたり候ふか。シテ「さん 候この辺に住居する夫婦の海人にて候 ふが。日毎に此御神に詣で候へば。また 今日も参らばやと存じ。この処に来りて 候。まづ御姿を見奉れば。このあたりに ては見なれ申さぬ御事なり。そもいづく

よりの御参詣にて候ふぞ。ワキ「これは当 今より奉幣使を命ぜられ。初めて此地に 下り候ふが。余りに眺よきまゝに。暫し此 処に休ひ申し候。偖この浦は何と申し候 ふぞ。シテ「これこそ高天の浦と申し候へ。 ワキ「さては余所に見て袖や濡れなんと詠 みしもこの処なり。音に聞えし高天の浦。 なみならぬ浜の眺かな。又あなたに見ゆ る山は何と申し候ふぞ。シテ「あれこそ三 笠山と申し候へ。ワキ「三笠山。さしてゆく べき霰ふり。鹿島の宮も程近う候な。 シテ「さん候程近うこそ候へ。ワキ「程近 ければ急ぐべきにもあらず。まづ鹿島と は何故に申し候ふ名やらん。シテ「さん候 鹿島とは鹿の棲む故の名とも申し。 ツレ「又は神の鎮まる島ゆゑに。神島とい ふを省きし事とかや。 ワキ「謂をきけば面白や。扨天にては鹿島 の宮といひ。シテ「地にては豊鹿島の宮と

名づくるは。ワキ「鹿の群れ居る。シテツレ二人「島 なればなり。地「夏野ゆく牡鹿の角の束 の間も。/\。恵はもれぬ秋津洲は。皆 この神の。いさをしにあるなれば。昔よ りかく宮柱。ふとしく立てゝ万代も。仰ぐ かしまの神ぞかし/\。ワキ詞「猶々此辺に 於て神の功の伝はりたるを委しく承り度 く候。シテ「承り及びたる所を申し上げう ずるにて候。語「抑皇孫日子穂の邇々杵 の尊天降り給へる時。豊芦原の水穂の国 は。五月蠅なる荒振国津神おほければ。 平定給はんとて。高皇産霊の尊。天照大御 神の勅もて。思兼の神八百万の神等議 り択みて。天の穂日の神を遣はされしに。 大国主の神に媚び給ひて。三年が間復命 申さず。ツレ「又天若彦を降しつるが。是 も心の悪しければ。シテ「下照姫を娶りつ つ。此国を得んと思ひはかりて。八年が間 かへりごと申さず。さるによりて天照大

御神。いづれの神をつかはさば速に言迎 せんと宣へば。八百万の神等神議り給ひ て。建御雷の男の神ぞと申すにより。天 の島ぶねの神を副へて下し給ふに。御稜 威を振ひ悉く。荒振る夷を・帰服{まつろは}しめ。皇孫 の尊を安らかに天降し給へるは。皆この 神の功なり。ワキ「よく/\聞けばありが たや。恵は海のそこひなく。シテ「深きは神 の処にて。ワキ「国も豊に。シテワキ二人「民栄え。 地「安国と治まる御代は久方の。天も静 かにあらかねの地も動かず鹿島野や。桧 原杉原常磐なる。君の栄を仰ぐなり/\。 地クリ「抑日本の国の道といつぱ。君と臣 との礼を尽し。父母を敬ひ子を愛でて。天 地初めて開くるより。八百万世の末迄も。 君を尊み民を撫でて。天に二の日なきが 如く。四方の海の外にては。かゝる国こそ なかりけれ。シテサシ「故に日本の国は。文武二 道を盛んにして。正道を守り異端をさけ。

地「乱るゝ世にも治を思ひ。治まる世に も乱を忘れず。此大国に生れくる人は。 上下男女の差別なく。恩を報じて夷を防 ぐを予めすといへり。シテ「唯神徳を仰ぐ とて。地「わがなす業を怠りて。弘安四年 の神風をたのみとせず。 クセ「然れば大国は。扶桑の御名を負ひぬ れば。弓箭の道をはげむべく。治まりて 世は安国となりぬるも。鹿島の神の恵と かや。梓弓春の海辺はのどかにて。名さ へ高天の浦波の音も静かに打向ふ。夏見 の山の松も桧も。緑の色に茂り合ひて。枝 も鳴さず秋来れば。千種の花の色々に。眺 も尽きずあられ降り鹿島の景色面白や。 シテ「世の中に。何はあれども春の海。 地「秋の山辺にますものぞ。渚の千鳥打群 れて。通ふが如く大神に。歩みを運ぶ人々 の。目にも定かに恵ある。世の風の色は 民草の。靡けるのみか大日本。たけひの国

は久方の。月さへもまたすみよからんと。 見ゆるばかりの御国かな。ほの%\と日 もはや登るいざさらば。/\。長物語 よしなや。まづ神に詣で給へ我も。導き 申さんと。立つかとすれば潮霧に。行方 見えずなりにけり/\。中入間「。ワキ「これは はや社壇にて候ふ程に。神拝申さうずる にて候。かけまくもかしこき神の広前に。 詔を述ぶるとて。青和幣白和幣。種々の 物を奉り。おろがみて?申さく君安らかに 国栄え。夷等を平和し。取伝へたる梓弓。 八百万代の春秋津島。治め給ひて此原の。 緑色添ふ若松の。常磐に堅磐に茂し御代 を。守り給へと畏み/\も申す。神拝もす みて候ふ間。急ぎ都へ上らばやと存じ候。 不思議や夫婦の老人の。言葉を聞けば神 の功昔を今に。見んよしもがな。後ツレ、出羽「あ らありがたや妾は是。神宮の沢の亀卜を もて。ものいみと定まりければ。心も身を

も清くして。此御神に仕ふるなり。今日は 正月七日の夜にて。御戸開の神事なれば。 去歳の幣を取下して新に納め奉らん。 地「をさむべし/\。神御慮に叶ひたれ ば。いかでか受納なかるべき。ツレ「受納あ れ。地「受納あるらん心も潔く。身も清々 に五百千の人に勝れければ。いかでか入 納なかるべき。天女舞「。地「あらたなりける 幣帛を持ちて。/\。神の御前に参らすれ ば。神も物忌の清き心を感じ給ひて。昔の 功を見せ給へと。御戸をひらくに頻に宮 殿鳴動するは。此御神のいでますかや。 早笛「。シテ「抑これは。天照太神の詔を以て。 〓{ふつ}の御霊を賜り天降り来る。建御雷の神

なり。地「神の御稜威は四方国に広く。剣 の光は天地に輝き。シテ「利を名づけてふ つといふ。地「利は常磐に異る事なく。 〓は夷の胆をひやして。鹿島の宮に。お はします。舞働「。シテ「布都の霊の剣を持つ て。地「布都の御霊の剱を持つて。秋津洲 の中。国々のあらぶる夷を追儺ひ/\石 根木根立青水沫。草の片葉も言止めて。 八島の国を悉く平らげ。皇孫の尊を天降 し敬ひ。青人くさを恵み給ひて。ゆく末 までもやす国と。納め給へるしるしをた てゝ。堅くぞ契る要石の。堅くぞ契る要 石の。動かぬ御代こそ。目出度けれ。 勅使 臣下 花守の姥 花守の尉 子守の明神 勝手の明神 蔵王権現

ワキ、ワキツレ二人 次第「吉野の花の種とりし。/\。嵐 の山に急がん。ワキ詞「そも/\これは当今 に仕へ奉る臣下なり。さても和州吉野の 千本の桜は。聞しめし及ばれたる名花な れども。遠満十里の外なれば。花見の御 幸かなひ給はず。さるにより千本の桜を 嵐山にうつしおかれて候ふ間。此春の花 を見て参れとの宣旨を蒙り。唯今嵐山へ と急ぎ候。道行三人「都には。げにも嵐の山桜。 /\。千本の種はこれぞとて。尋ねて今 ぞ三吉野の。花は雲かと眺めける。その 歌人の名残ぞと。よそ目になれば猶しも の。眺妙なるけしきかな。/\。詞急ぎ 候ふ程に。これははや嵐山に着きて候。 心静かに花を眺めうずるにて候。 シテツレ二人真の一声「花守の。住むや嵐の山桜。雲も 上なき梢かな。ツレ二ノ句「千本に咲ける種なれ や。二人「春も久しきけしきかな。シテ「これ はこの嵐山の花を守る。夫婦の者にて候

ふなり。二人「それ遠満の外なれば。 花見の御幸なきまゝに。名におふ吉野の 山桜。千本の花の種とりて。この嵐山に 植ゑおかれ。後の世までの例とかや。これ とても君の恵かな。下歌「げに頼もしや御 影山治まる御代の春の空。上歌「さも妙な れや九重の。/\。内外に通ふ花車。轅 も西にめぐる日の影ゆく雲の嵐山。戸無 瀬に落つる白波も。散るかと見ゆる花の 瀧。盛久しき気色かな/\。 ワキ詞「不思議やなこれなる老人を見れば。 花に向ひ渇仰の気色見えたり。おことは いかなり人やらん。シテ「さん候これは嵐 山の花守にて候。又嵐山の千本の桜は。 皆神木にて候ふ程に。花に向ひ渇仰申し 候。ワキ「そも嵐山の千本の桜の。神木た るべき謂はいかに。シテ「げに御不審は御 理。名におふ吉野の千本の桜を。移しお かれしその故に。人こそ知らね折々は。

木守勝手の神ともに。この花に影向なる ものを。ワキ「げにやさしもこそ厭ふ憂き 名の嵐山。詞とりわき花の名所とは。何 とて定め置きけるぞ。シテ「それこそなほ も神慮なれ。名におふ花の奇特をも。顕 さんとの御恵。シテツレ二人「げに頼もしや御 影山。靡き治まる三吉野の。神風あらば おのづから。名こそ嵐の山なりとも。 地下歌「花はよも散らじ。風にも勝手木守 とて。夫婦の神はわれぞかし。音たかや 嵐山。人にな知らせ給ひそ。 地上歌「笙の岩屋の松風は。/\。実相の 花盛。開くる法の声立てゝ今は嵐の山桜。 菜摘の川の水清く。真如の月の澄める世 に。五濁の濁ありとても。ながれは大堰 川その水上はよも尽きじ。いざ/\花を 守らうよ/\。春の風は空に満ちて。 /\。庭前の木を切るとも。神風にて吹き かへさば妄想の雲も晴れぬべし。千本の

山桜のどけき嵐の山風は。吹くとも枝は 鳴らさじ。この日もすでに呉竹の。夜の 間を待たせ給ふべし。明日も三吉野の山 桜。立ちくる雲にうち乗りて。夕陽残 る西山や。南の方に行きにけり/\。 中入来序間。 下り羽ツレ出「三吉野の。/\。千本の花の種植 ゑて。嵐山あらたなる神あそびぞめでた き此神あそびぞめでたき。後ツレ二人「いろ/\ の。地「いろ/\の。花こそまじれ白雪の。 子守勝手の。恵なれや松の色。ツレ二人「青 根が峯こゝに。地「青根が峯こゝに。小 倉山も見えたり。向は嵯峨の原。下は大 堰川の。岩根に波かゝる亀山も見えたり。 万代と。/\。囃せ/\神あそび。千早 ぶる。天女舞。 地「神楽の鼓声澄みて。/\。羅綾の袂を ひるがへし飄す舞楽の秘曲も度重なり て。感応肝に銘ずるをりから。不思議や

南の方より吹きくる風の。異香薫じて瑞 雲たなびき。金色の光輝きわたるは。蔵 王権現の来現かや。 後シテ早笛「和光利物の御姿。/\。シテ「我本覚 の都を出でて。分段同居の塵に交はり。 地「金胎両部の一足をひつさげ。シテ「悪 業の衆生の苦患を助け。地「さて又虚空 に御手を上げては。シテ「忽ち苦海の煩悩

を払ひ。地「悪魔降伏の青蓮のまなじり に。光明を放つて国土を照らし。衆生を 守る誓を顕し。子守勝手蔵王権現。同体 異名の姿を見せて。おの/\嵐の山に攀 ぢのぼり。花に戯れ梢にかけつて。さな がらこゝも金の峰の。光も輝く千本の桜。 光も輝く千本の桜の。栄ゆく春こそ久し けれ。 勅使 従者 老人 天太玉命

ワキ、ワキツレ二人、次第「風も静かに楢の葉の。/\。鳴 さぬ枝ぞ長閑けき。地「抑これは桓武天 皇に仕へ奉る臣下なり。さても山城の国 愛宕郡に。平の都を立て置き給ひ。国土 安全の砌なり。同じく当国伏見の里に。 大宮造あるべきとの勅諚を蒙り。唯 今伏見に下向の仕り候。ワキサシ「それ久方の神

代より。天地ひらけし国の起。天の瓊矛 の直なるや。名も二柱の神こゝに。八洲 の国を作り置き。皇代なれや大君の。御 影のどけき。時とかや。上歌「青丹よし楢の 葉守の神慮。/\。末暗からぬ都路の。 直なるべきか菅原や伏見の里の宮造。大 内山の陰高き。雲の上なる玉殿の。月も

光や磨くらん/\。 シテサシ「あら貴の御造や。聞くも名高き雲の 垣。霞の軒も玉簾。かゝる時代に逢ふ事 よと。命うれしき長生の。あつぱれ老の 思出や。 ワキ詞「不思議やな参詣の人々多き中に。け したる宜禰御幸の先に進むぞや。そも御 身はいづくより参詣の人ぞ。シテ「これは 伊勢の国あこぎが浦に住む者なるが。当 社伏見の大宮造。天も納受し地もうるほ ふ。王法を尊み来りたり。ワキ「そも王法 を尊むとは。いかなる望のあるやらん。 シテ詞「そもかゝる身の望とは。そら恐し や此年まで。命すなほに愁もなく。上直 なれば下までも。豊に治まるこの国の。 地下歌「千代をこめたる竹の杖伏見はこれ か宮所。参りて拝むこそ。朝恩を知れる 心なれ。上歌「春は花山の木を伐れば。 /\。袂にかゝる白雪。深き井桁を切る

なるは。欄井の釣瓶縄。又泰山の山下水 その巌石を切石。 ロンギ地「車を作る椎の木。/\。シテ「船を 作する揚柳。地「木の間になさん槻の木。 シテ「それは秋立つ桐の木。地「君に齢を ゆづり葉や。シテ「千年の松は伐るまじ。 地「名は春の木の枝ながら。花はなど榊 葉。これは神の宿木。恐あり伐るまじ。 シテ詞「あら不思議や。天より金札の降り下 りて候。すなはち金色の文字すわれり読 み上げ給へ。ワキ「げに/\天より金札の 降り下りて候ふぞや。取りあげ読みて見 れば何々。そも/\我が国は。真如法身の 玉垣の。内に住めるや御裳濯川の。流絶え せず守らんために。伏見に住まんと誓を なす。シテ詞「さてこの伏見とは。何とか知 し召されて候ふぞ。ワキ「事も愚や伏見の 宮居。この御社の事なるべし。シテ詞「あら 愚や伏見とは。総じて日本の名なり。伊奘

諾伊奘册の尊。天の磐座の苔筵に。臥し て見出したりし国なれば。伏見とはこの 秋津洲の名なるべし。地「人知らぬ事なり この国も伏見里の名も。伏し見る夢とも 現とも。分かぬ光の中よりも。金の札をお つ取つて。かき消すやうに失せけるが。し ばし虚空に声ありて。シテ「これは伊勢大 神宮の御つかはしめ。天津太玉の神なり。 詞「なほしも我を拝まんと思はゞ。重ねて 宮居を作り崇むべしと。地「迦陵頻伽の声 ばかり。虚空に残り。雲となり雨となるや 雷の。光の中に入りにけり/\。中入間「。 地「楽に引かれて古鳥蘇の。舞の袖こそゆ るくなれ。 後シテ「守るべし。我が国なれば皇の。万代 いつと。限らまし。地「限らじな限らじ な。栄ゆく御代を守りのしるし。シテ「た だ重くせよ。神と君。地「重くすべしや 重くすべしや扉も金の御札の神体光もあ

らたに見え給ふ。 地「四海を治めし御姿。/\。シテ「あらた に見よや君守る。地「八百万代のしるし なれや。シテ「悪魔降伏の真如のつき弓。 さて又次にはさばへなす。荒ふる神も祓 のひもろぎその神託は数々に。左も右も 神力の。悪魔を射払ひ清をなすも。金胎 両部の。形なり。働

シテ「とても治まる国なれば。地「とても 治まる国なれば。中々なれや君は船、臣 は瑞穂の国も豊に治まる代なれば東夷西 戎。南蛮北狄の恐なければ。弓をはづ し。剣を収め。君もすなほに民を守りの 御札は宮に。納まり給へば影さしおろす 玉簾。影さしおろす玉簾の。ゆるがぬ御 代とぞなりにける。 勅使 従者 童子(天の探女) 龍神

ワキ、ワキツレ二人次第「げに治まれる四方の国。/\。 関の戸さゝで通はん。ワキ詞「そも/\これ は当今に仕へ奉る臣下なり。さても我が 君賢王にましますにより。吹く風枝を鳴 らさず民戸ざしをさゝず。誠にめでたき 御代にて候。さる間摂州住吉の浦に。始 めて浜の市を立て。高麗唐土の宝を買ひ

とるべしとの宣旨に任せ。唯今津の国住 吉の浦に下向仕り候。道行三人「何事も。心に 叶ふ此時の。/\。ためしもありや日の 本の。国豊なる秋津洲の波も音なき四つ の海。高麗唐土も残なき。御調の道の末こ こに。津守の浦に着きにけり/\。 シテ真ノ一琴「松風も。のどかに立つや住吉の。

市の巷港出づるなり。シテサシ「それ遠満十里 の外なれども。こゝは処も住吉の。神と 君とは隔なき。誓ぞ深き瑞籬の。久しき 世々の例とて。こゝに御幸を深緑。松に たぐへて千代までも正しき君の御旅居。 いづくも同じ日の本の。もれぬ恵ぞ有難 き。下歌「いざ/\市に出汐の月面白き 松の風。上歌「伊勢島や汐干に拾ふたま /\も。/\。待ちえにけりな此御代に。 鸚鵡の玉鬘かゝる時しも生れ来て。民豊 なる楽を何に譬へん秋津洲や。高麗唐土 も隔なき。宝の市に出でうよ/\。 ワキ詞「不思議やなこれなる市人を見れば。 姿は唐人なるが。声は大和詞なり。又銀盤 に玉をすゑて持ちたり。そも御身はいか なる人ぞ。シテ「さん候かゝる御代ぞと仰 ぎ参りたり。又是なる玉は私に持ちたる 宝なれども。余りにめでたき御代なれば。 龍女が宝珠とも思し召され候へ。詞「これは

君に捧物にて候。ワキ「ありがたし/\。そ れ治まれる御代の験には。賢人も山より 出で。聖人も君に仕ふと云へり。然れば御 身は誰なれば。かゝる宝を捧ぐるやらん。 委しく奏聞申すべし。シテ「あらむつかし と問ひ給ふや。唐土合浦の玉とても。宝 珠の外に其名は無し。これも津守の浦の 玉。心の如しと思しめせ。ワキ「心の如し と聞ゆるは。さては名におふ如意宝珠を。 我が君にさゝげ奉るか。シテ「運ぶ宝や高 麗百済。ワキ「唐船も西の海。シテ「檍が原 の波間より。ワキ「現れ出でし住吉の。 シテ「神も守りの。ワキ「道すぐに。地「こゝに 御幸を住吉の。神と君とは行合の。目のあ たりあらたなる。君の光ぞめでたき。 ロンギ地「千代までと菊売る市の数々に。 /\。四方の門辺に人さわぐ。住吉の浜の 市宝の数を買ふとかや。シテ「春の夜の一 時の。千金をなすとても。喩はあらじ住吉

の。松風値なき金銀珠玉いかばかり。 地「千顆万顆の玉衣の。浦ぞ津守の宮柱。 シテ「立つ市館かず/\に。地「籬もつゞ く片そぎの。シテ「みとしろ錦綾衣。地「頃 も秋たつ夕月の。影に向ふや淡路潟。 シテ「絵島が磯は斜にて。地「松の隙行く 捨小舟。シテ「寄るか。地「出づるか。シテ「住 吉の。地「岸うつ浪は茫々たり松吹く風は 切々として。蜜語かくやらん。その四つ の緒の音を留めし潯陽の江と申すとも。 これにはよもまさじ面白の浦の景色や。 シテ詞「又岩船のより来り候。ワキ「そも岩 船のより来るとは。御身は如何なる人や らん。シテ「げに旅人はよも知らじ。天も 納受喜見城の。宝を君に捧げ申さんと。天 の岩船雲の波に。高麗唐土の宝の御船を。 唯今こゝに寄すべきなり。地「今は何をか 包むべき。其岩舟を漕ぎよせし。天の探女 は我ぞかし。飛びかける天の岩船尋ねて

ぞ。秋津島根は宮柱住吉の松の緑の空の。 嵐とともに失せにけり/\。来序中入間「。 地「久方の。天の探女が岩船を。とめし神 代の。幾久し。後シテ早笛「我はまた下界に住ん で。神を敬ひ君を守る。秋津島根の。龍 神なり。地「或は神代の嘉例をうつし。 シテ「又は治まる御代に出でて。地「宝の御 船を守護し奉り勅もをもしや勅もをもし や此岩船。働「。地「宝をよする波の鼓。拍子 を揃へてえいや/\えいさらえいさ。 シテ「引けや岩船。地「天の探女か。シテ「波 の腰鼓。地「ていたうの拍子を打つなり やさゞら波経めぐりて住吉の松の風吹き よせよえいさ。えいさらえいさと。おすや 唐艪の/\潮の満ちくる浪に乗つて。八 大龍王は海上に飛行し御船の綱手を手に くりからまき。汐にひかれ波に乗つて。 長居もめでたき住吉の岸に。宝の御船を 着け納め。数も数万の捧物。運び入るゝや

心の如く。金銀珠玉は降り満ちて。山の 如くに津守の浦に。君を守りの神は千代

まで栄ふる御代とぞ。なりにける。 彦火々出見尊 豊玉姫 玉依姫 海神 天女

半開ロワキサシ「それ天地ひらけ始まりしより。 天神七代地神四代に至り。火々出見尊と は我が事なり。詞「さても兄火闌降命の。 釣針を。かりそめながら海辺に釣を垂れ しに。かの釣針を魚に取られぬ。此由を兄 尊に申せども。唯もとの針を返せと宣ふ 間。剣をくづし針に作りて返すといへど も。なほもとの鈎を責る。さらば海中に 入り。かの釣針を尋ねんと思ひ立ちて候。 わたつみのそことも知らぬ塩土男の。 翁の教に従ひて。無目籠の猛き心。歌「直 なる道を行く如く。/\。波路遥に隔て 来てこゝぞ名におふわたつみの。都と

知れば水もなく。広き真砂に着きにけり /\。詞「さても我塩土男の翁が教に従 ひ。わたつみの都に入りぬ。これに瑠璃 の瓦を敷ける衡門あり。門前に玉の井あ り。この井の有様銀色かゝやき世の常な らず。又ゆつの桂の木あり。木の下に立 ち寄り。暫く事のよしをも窺はゞやと思 ひ候。 シテツレ二人真ノ一声「はかりなき。齢を延ぶる明暮の。 長き月日の。光かな。ツレ二ノ句「いとなむ業も 手ずさみに。二人「掬ぶも清き。水ならん。 シテサシ「濁なき心の水の泉まで。老いせぬ齢 を汲みて知る。二人「薬の水の故なれや。老

いせぬ門に出で入るや。月日曇らぬ久方 の天にもますや此国の。行末遠き。住居 かな。下歌「くり返す玉の釣瓶の掛縄の。 上歌「ながき命を汲みて知る。/\。心の底 も曇なき。月の桂の。光添ふ枝を連ねて もろともに。朝夕なるゝ玉の井の。深き 契は。頼もしや深き契は頼もしや。 ワキ詞「我玉の井の辺にたゝずむ所に。その 様けだかき女性二人来り。玉の釣瓶を持 ち水を汲む気色見えたり。言葉をかけん も如何なれば。これなる桂の木陰に立ち より。身を隠しつゝ佇みたり。シテ「人あ りとだにしら露の。玉の釣瓶を沈めんと。 玉の井に立ち寄り底を見れば。桂の木蔭 に人見えたり。これは如何なる人やら ん。ワキ「忍ぶ姿も現れて。あさまになり ぬさりながら。なべてならざる御姿。い かなる人にてましますぞ。シテ「あら恥か しや我が姿の。見えける事も我ながら。

忘るゝ程の御気色。形も殊にみやびやか なり。唯人ならず見奉る。御名を名乗り おはしませ。ワキ詞「今は何をか包むべき。 我は天孫地神四代。火々出見尊とは我が 事なり。ツレ「あら有難や天の御神の。御 孫の尊を目のあたり。見奉るぞ不思議な る。シテ詞「いやさればこそ始より。天孫の 光隠れなし。さてこれまでの臨幸は。 そも何事の故やらん。ワキ「実に御不審は 御理。我釣針を魚に取られ。遥々これま で尋ね来る。こゝをば何処と申すやらん。 委しく語り給ふべし。シテ詞「知しめさねば 御理。これは龍宮わたつみの宮。ワキ「か く言の葉をかはし給ふ。二人の御名は。 シテ「豊玉姫。ツレ「我は妹の玉依姫。地「互 に連枝の名乗して。つゝましながら御 神の。みやびやかなるに。早打ち解けて 木綿四手の。神にぞ靡く大幣の引く手あ またの。心かな引く手あまたの心かな。

シテ詞「いかに申し上げ候。うちつけなる御 事なれども。やがて父母に逢はせ奉り。 かの釣針をも尋ぬべし。御心安く思し召 され候へ。ワキ「さらばやがて伴ひ申し。 宮中へ参り給ふべし。 地クリ「忝くも天の御神の御孫。わたつみ の都にいたり給ふ事。有難かりける。御 影かな。シテサシ「然れば高垣姫垣調ほり。 地「高殿屋照りかゝやき。雲の八重畳を敷 き。尊を請じ入れ奉り。シテ「父母の神。 いつきかしづき。地「臨幸の意趣を語り 給ふ。クセ「我兄の釣針を。かりそめなが ら波間行く。魚に取られて無き由を。歎き 給へどその針に。あらずは取らじととに かくに。せうとを痛めさま%\に。猛き心 の如何ならんと。語り給へば父の神御心 安く思し召せ。まづ釣針を尋ねつゝ御国 に帰し申すべし。シテ「なほ兄の怒あらば。 地「潮満潮干の。二つの玉を尊に奉りなば

御心に。任せて国も久方の。天より降る 御神の。外祖となりて豊姫もたゞならぬ 姿有明の。月日程なく三年を送り給へり。 ワキ詞「かくて三年になりぬれば。我が国に 帰り上るべし。海路の案内いかならん。 シテ「御心安く思し召せ。綿津見の宮主伴 ひて。海中の乗物様々あり。地「大鰐に乗 じはやてを吹かせ。陸地に送りつけ申さ ん。其程は待たせおはしませ。来序中入間「。 後ツレ二人出端「光散る。潮満玉のおのづから。 くもらぬ御影。仰ぐなり。地「各玉を。捧 げつゝ。各玉を捧げつゝ。豊姫玉依二人 の姫宮。金銀碗裏に玉を供へ。尊に捧げ。 奉り。かの釣針を。待ち給ふ。綿津見の 宮主。持参せよ。大〓{大漢和:22529。べし}後シテ「まうとの君の 命に随ひ。綿津見の宮主釣針を尋ねて。 天孫の御前に。奉る。 地「潮満潮干二つの玉を。/\。釣針に取 り添へ捧げ申し。舞楽を奏し。豊姫玉依。

袖をかへして。舞ひ給ふ。天女舞「。 地「いつれも妙なる舞の袖。/\。玉のか んざし桂の黛。月も照り添ふ花の姿。雪 を廻らす。袂かな。 シテ「わたづみの宮主。舞働。地「姿は老龍 の。雲に蟠り。かせ杖にすがり。左右に返 す。袂も花やかに。足踏はとう/\と。

拍子をそろへて時移れば。尊は御座を。立 ち給ひ。帰り給へば袂にすがり。わたづ みの乗物を奉らんと五丈の鰐に。乗せ奉 り。二人の姫に。玉を持たせ。龍王立ち 来る。波を払ひ。潮を蹴立て。遥に送り つけ奉り。遥に送りつけ奉りて。又龍宮 にぞ帰りける。 周穆王 臣下 女(ナシニモ) 西王母 侍女(謡ナシ)

ワキサシ真ノ来序「有難や三皇五帝の昔より。今この 御代にいたるまで。かゝる聖主のためし はなし。地「その御威光は日のごとく。 ワキツレ「その御心は海のごとくに。地「豊に 広き御恵。ワキ「天に輝き地に満ちて。 上歌「北辰の共ずる数々の。/\。満天に 廻る星の如く。百官卿相雲客や。千戸万 戸の旗を靡かし。鉾を横たへ。四方の門

べにむらがりて。市をなし。金銀珠玉。光 を交へ。光明赫奕として日夜の勝劣見え ざりけり。かゝるためしは喜見城。その 楽も如何ならん。/\。 シテツレ二人一セイ「桃李ものいはず。下おのづから 市をなし。貴賎交はり。隙もなし。シテ「面 白や四季折々の時をえて。草木国土おの づから。二人「皆これ真如の花の色香。妙

なる法の三つの心。うるほふ時や至りけ ん。三千年に咲く。花心の。をり知る春 の。かざしとかや。下歌「いざや君に捧げ ん。いざ/\君にさゝげん。上歌「すめら ぎの。その御心は普くて。/\。隙行く 駒の法の道。千里の外までうへもなき道 に至りて明らけき。霊山会場の法の場。 広き教の実ある。君々たれば誰とても。 勇ある世の。心かな/\。 シテ詞「いかに奏聞申すべき事の候。ワキ「奏 聞とはいかなる者ぞ。シテ「これは三千年 に花咲き実なる桃花なるが。今此御代に いたり花咲く事。たゞこの君の御威徳な れば。仰ぎて捧げ参らせ候。ワキ「そも三 千年に花咲くとはいかさま是は聞き及び し。その西王母が園の桃か。シテ「なか なかにそれとも今はものいはじ。ワキ「さ ればこそそれぞことさら名におふ花の。 シテ「桃李ものいはず。ワキ「春いくばくの

年月を。シテ「送り迎へて。ワキ「この春 は。上歌「三千年に。なるてふ桃の今年よ り。/\。花咲く春にあふ事も。たゞこ れ君の四方の恵。あつき国土の千々の種 桃花の色ぞ妙なる。 ロンギ「さては不思議や久方の。天つ少女の まのあたり。姿を見るぞ不思議なる。 シテ「疑の。心なおきそ露の間に。やど るか袖の月の影。雲の上までその恵。あ まねき色にうつりきぬ。地「移ろふものは 世の中の。人の心の花ならぬ。シテ「身は 天上の。地「楽に。明けぬ暮れぬと送り 迎ふ年は経れど限もなき。身の程も隔な く。真はわれこそ西王母の。分身よまづ 帰りて花の身をもあらはさんと。天にぞ 上りける天にぞ上り給ひける。中入間「。 ワキ三人上歌待謡「糸竹呂律の声々に。/\。しらべ をなして音楽の。声すみわたる天つ風。雲 の通路。心せよ。/\。下リ羽後シテ出地「面白や。

かゝる天仙理王の。来臨なれば。数々の。孔 雀鳳凰迦陵頻伽。飛び廻り声々に。立ち 舞ふや袖の羽風天つ空の衣ならん天の衣 なるらん。後シテ「いろ/\の捧げもの。 地「いろ/\の捧げものの中に妙に見え たるは西王母のその姿。光庭宇をかゞや かし。黄錦の御衣を着し。シテ「剣を腰に さげ。地「剣を腰にさげ。真〓{糸+嬰}の冠を着。 玉觴に盛れる桃を侍女が手より取りか

はし。シテ「君に捧ぐる桃実の。地「花の 盃取りあへず。中ノ舞「。 地「花も酔へるや盃の。/\。手まづさへ ぎる曲水の宴かや御溝の水に。戯れ戯 るゝ。たをやめの。袖も裳裾もたなびき たなびく。雲の花鳥。春風に和しつゝ雲 路にうつれば王母も伴ひ攀じのぼる。王 母も伴ひ上るや天路の。行方も知らず ぞ。なりにける。 官人 従者二人 里の女 里の女 呉織の霊 漢織の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「道の道たる時とてや。/\。国 国豊なるらん。ワキ詞「そも/\これは当今 に仕へ奉る臣下なり。我此間は摂州住吉 に参詣申して候。又これより浦づたひし。 西の宮にまゐらばやと存じ候。道行三人「住の 江や。のどけき浪の浅香潟。/\。玉藻

刈るなる海士人の道もすぐなる難波が た。ゆくへの浦も名を得たる。呉服の里 に着きにけり/\。 シテツレ二人真ノ一声「くれはとり。綾の衣の浦里に。 年経て住むや。あま乙女。ツレ二ノ句「立ちよる 浪もしら糸の。二人「機織り添ふる。音し

げし。シテサシ「これは津の国呉服の里に。住 みて久しき二人の者。二人「我この国にあ りながら。身は唐土の名にしおふ。女工 の昔を思ひ出づる。月の入るさや西の海。 波路はるかに来し方の身は唐土の年を経 て。こゝに呉服の。里までも。身に知ら れたる。名所かな。下歌「これもかしこき 御代のため送り迎へし機物の。上歌「大和 にも。織る唐衣のいとなみを。/\。今 しきしまの道かけて。言の葉草の花まで もあらはしぎぬの色そへて。心をくだく 紫の。袖も妙なるかざしかな袖も妙なる かざしかな。 ワキ詞「さても我此松原に来て見れば。やご となき女性二人あり。一人は機を織り。 今一人は糸を取り引き。互に常の里人と は見え給はず。そも方々はいかなる人 ぞ。二人「はづかしや里ばなれなる松蔭の。 うしほも曇る夕月の。影にまぎれて浦波

の声にたぐへて機物の。音きこえじと思 ひしに。知られけるかや恥かしや。ワキ「何 をか包み給ふらん。其身は常の里人なら で。詞「此松蔭に隠れ居て。機織り給ふは 不審なり。いかさま名のり給ふべし。 シテ詞「これは応神天皇の御宇に。めでたき 御衣を織りそめし。呉織漢織と申しゝ 二人の者。今又めでたき御代なれば。 現に現れ来りたり。ワキ「不思議の事を聞 くものかな。それは昔の君が代に。唐国 よりも渡されし。詞「綾織二人の人なる が。今現在に現れ給ふは。何といひたる 事やらん。シテ詞「はやくも心得給ふものか な。まづ此里を呉服の里と。名づけそめ しも何故ぞ。我此処にありし故なり。 ツレ「又あやはとりとは機物の。糸を取り 引く工ゆゑ。綾の紋をなす故に。あやは とりとは申すなり。シテ詞「くれはとりとは 機物の。糸引く木をばくれはと云へば。呉

服取る手によそへつゝ。くれはとりとは 申すなり。ツレ「されば二人の名によせ て。シテ「くれはとり。ツレ「あやとは申し 伝へたり。二人「然ればわれらは唐人なれ ば。やまと詞は知らねども。シテ「くれは とりあやに。恋しくありしかば。二村山 とよみし歌も。二人を思ふ心なり。地歌「く れはとり。怪しめ給ふ旅人の。/\。御 目の程はさすがげに。名にしおふ都人の。 所から唐人とわれらを御覧ぜらるゝは。 実にかしこしや善き君に。仕ふる人か。 ありがたや仕ふる人かありがたや。 地クリ「それ綾と云つぱ。もろこし呉郡の地 より織りそめて。女工の長き営なり。 シテサシ「然るに神功皇后の三韓を従へ給ひし より。地「和国異朝の道広く。人の国まで 靡く世の。我が日の本はのどかなる。御 代の光はあまねくて国富み民ゆたかな り。シテ「東南雲。収まりて。地「西北に風

静かなり。クセ「応神天皇の御宇かとよ。 呉国の勅使此国に。始めて来り給ひしに。 綾女糸女の女婦を添へ。万里の。滄波を 凌ぎ来て西日影のこりなく。呉服の里に 休らひ連日に立つる機物の。錦を折々の 綾の御衣を奉る。勅使奏覧ありしかば。叡 感殊に甚だし。それより名づけつゝ。袞 龍の御衣の紋。いとなみも名たかき山鳩 色を移しつゝ。気色だつなり雲鳥の。羽 ぶさをたゝむ綾となすいともかしこかり けり。シテ「然れば万代に絶えせぬ御調な るべしと。地「御定ありしより呉服の 文字をやはらげて。呉織漢織と名づけ させ給へば年を迎へて色をなす。綾の錦 の唐衣。かへす%\も君が袖。古きため しを引く糸のかゝる御代ぞめでたき。 ロンギ地「これにつけても此君の。/\。め でたきためし有明の。夜すがら機を織り 給へ。シテツレ二人「いざ/\さらば機物の。錦

を織りて我が君の。御調に備へ申さん。 地「げにや御調の数々に。錦の色は。 シテツレ二人「小車の。地「丑三つの時過ぎ暁の 空を待ち給へ。姿をかへて来らん。さら ばといひて呉織。漢織は帰れども。鶏は また鳴かずや夜長なりと待ち給へ。夜な がくとても待ち給へ。中入間「。 ワキ歌「うれしきかなやいささらば。/\。 此松蔭に旅居して。風も嘯く寅の時。神 の告をも待ちて見ん/\。 後シテ出端「君が代は天の羽衣まれにきて。撫づ とも盡きぬ巌ならなん。千代に八千代を 松の葉の。散り失せずして色はなほ。正木 のかづら長き代の。ためしに引くや綾の 紋雲らざりける。時とかや。地「此君の。か しこき世ぞと夕浪に。声立て添ふる。機の 音。シテ「錦を織る機物の内に。相思の字を あらはし。衣うつ砧の上に。怨別の声。松 の風。又は磯うつ浪の音。地「しきりに

ひまなき機物の。シテ「取るや呉服の手繰 の糸。地「我が取るはあやは。シテ「踏木 の足音。地「きりはたりちやう。シテ「き りはたり。ちやう/\と。地「悪魔も恐る る。声なれや。げに織姫の。かざしの 袖。中ノ舞「。 地「思ひ出でたり七夕の。/\。たま/\ 逢へる旅人の。夢の精霊妙幢菩薩も。影向 なりたる夜もすがら夜もすがら。宝の綾 を織り立て織り立て。我が君に捧物。御代 のためしの二人の織姫。呉服あやはのと り%\に。くれはあやはのとり%\の御 調物そなふる御代こそ。めでたけれ。 鹿島明神の神主 従者二人 女二人又は四人 桜葉の神

ワキ、ワキツレ二人次第「四方の山風のどかなる。/\雲 井の春ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは鹿 島の神職何某とは我が事なり。われ此度 都に上り。洛陽の名花残なく一見仕り て候。また北野右近の馬場の花。今をさか りなるよし承り候ふ間。今日は右近の馬 場の花を眺めばやと存じ候。道行三人「雲の行 く。そなたやしるべ桜狩。/\。雨は降 りきぬ同じくは。ぬるとも花の蔭ならば いざや宿らん松かげの。ゆくへも見ゆる 梢より。北野の森もちかづくや。右近の 馬場に着きにけり/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程 に。これは早右近の馬場に着きて候。あ れを見れば花見の人々と見えて。車をな らべ輿を続け。まことおもしろう候。暫

く休らひ花を眺めばやと存じ候。 シテサシ一声「春風桃李花の開くる時。人の心 も花やかに。あくがれ出づる都の空。げに のどかなる時とかや。シテツレ「見渡せば。 柳桜をこきまぜて。錦をかざる。花車。 シテ「くる春ごとにさそはるゝ。シテツレ「心も ながき。気色かな。地下歌「花見車の八重一 重。見えて桜の色々に。上歌「ひをりせ し。右近の馬場の木のまより。/\。影 も匂ふや朝日寺の。春の光も天満てる神 の御幸のあとふりて。松も木高き梅がえ の。立枝も見えて紅の。初花車めぐる日 の。轅や北につゞくらん。/\。 ワキ「のどかなる頃は弥生の花見とて。右 近の馬場の並木の桜の。かげふむ道に休

らへば。シテ「げにや遥に人家を見て。花 あれば則ち入るなれば。木蔭に車を立てよ せけり。ワキ詞「向を見れば女車の。処から なる昔語。思ひぞいつる右近の馬場の。 ひをりの日にはあらねども。見ずもあら ず。見もせぬ人の恋しくは。詞「あやなく 今日や眺めくらさん。これ業平の此処に て。女車をよみし歌。今更思ひ出でられ たり。シテ「あらおもしろの口ずさみや。 右近の馬場のひとりの日。詞「向に立 てる女車の。処からなる昔語。恥かしな がら今はまた我が身の上に業平の。何か あやなく分きていはん。思のみこそしる べなりしを。ワキ「左様にながめし言の葉 の。其旧跡もこゝなれば。今またかやう に言問ふ人も。いつ馴れもせぬ人なれど も。シテ「たゞ花故に北野の森にて。ワキ「言 葉をかはせば。シテ「見ずもあらず。地「見 もせぬ人や花の友。/\。知るも知らぬ

も花の蔭に。相宿して諸人の。いつし か馴れて花車の。榻立てゝ木のもとに。 下り居ていざや眺めん。げにや花の下に 帰らん事を忘るゝは。美景によりて花心 馴れ/\そめて眺めんいざ/\馴れて眺 めん。百千鳥。花になれゆくあだし身は。 はかなき程に羨まれて上の空の心なれや 上の空の心なれ。 ロンギ地「げに名にしおふ神垣や。北野の春 も時めける。神の名所のかず/\に。 シテ「眺むれば。都の空のはる%\と。霞 み渡るや北の宮居。御覧ぜよ時をえて。 花桜葉の宮所。地「花の濃染の色分けて。 紅梅殿や老松の。シテ「緑より明けそめ て。一夜松も見えたり。地「日影の空も茜 さす。シテ「紫野行。しめ野ゆき。地「野 守は。見ずや君が袖。古き御幸の見物と て。車も立つや御輿岡これぞ此神の御旅 居の。右近の馬場わたり神幸ぞ尊かり

ける。 ワキ詞「あらありがたの御事や。かくしも委 しく語り給ふ。社々の御本地を。なほ/\ 教へおはしませ。シテ詞「まことは我は此神 の。末社とあらはれ君が代を。守の神 と思ふべし。ワキ「よく/\聞けば有難や。 守の神とはさて/\いづれの霊神に て。かやうにあらはれ給ふらん。シテ詞「あ ら恥かしや神ぞとは。あさまには何と岩 代の。地「待つこと有りや有明の。/\。 月も曇らぬ久方の。天照神にては。桜の 宮と現れ。こゝに北野の桜葉の。神とゆ ふべの空晴れて月の夜神楽を待ち給へと 花に隠れ。失せにけりや花に隠れ失せに けり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人、歌待謡「げに今とても神の代の。/\。 誓は尽きぬしるしとて。神と君との御恵 誠なりけり有難や/\。 後シテ出端「天皇の賢き御代を守るなる。右近の

馬場の春を得て。花上苑に明かにして。軽 軒九陌の塵に交はる神慮。和光の影も曇 なき。君の威光も影高く。花もゆるがず治 まる風も。のどかなる代の。めでたさよ。 地「曇なき。天照神の恵を受けては。桜 の宮居とあらはれ給ひ。シテ「こゝに北野 の。神の宮居に。地「花桜葉の神とあらは れ。曇らぬ威光を顕衣の。袖もかざし の。花盛。中ノ舞「。 地「月も照りそふ花の袖。/\。雪をめぐ らす神かぐらの手の舞足ぶみ拍子をそろ へ。声すみわたる。雲の棧。花に戯れ。 枝にむすぼほれかざしも花の。糸桜。 シテ「治まる都の花盛。地「治まる都の花 盛。東南西北も音せぬ浪の。花も色添ふ 北野の春の。御池の水に。御影をうつし。 うつしうつろふ。桜衣の裏吹きかへす梢 にあがり。枝に木伝ふ花鳥の。とぶさに かけり。雲に伝ひ。遥に上るや雲の羽風。

遥に上るや雲の羽風に神は上らせ給ひ

けり。 天細女命(謡ナシ) 手力雄命(謡ナシ) 天照大神(前ハ老翁) 勅使

ワキ三人次第「治めしまゝに世を守る。/\。伊 勢の宮居にまゐらん。ワキ詞「抑これは大炊 の帝に仕へ奉る臣下なり。偖も我が君伊 勢大神宮を信じ給ひ。数の御宝を捧げ給 ふ。其勅を蒙り。唯今伊勢参宮仕り候。 道行三人「風は上なる松本や。/\。雲雀落ち 来る粟津野の。草の茂みを分け越えて。 瀬田の長橋打ち渡り野路篠原の草枕。夢 も一夜の旅寝かな/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程 に。これははや勢州斎宮に着きて候。今夜 は節分にて。此処に絵馬を掛くると申し 候ふ間。今夜は此処に逗留し。絵馬を掛 くる者を見ばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一声「あらたまの。春に心を若草の。

神も久しき恵かな。ツレ二ノ句「霞も雲も立つ春 を。二人「去年とやいはん年のくれ。シテサシ「そ れ馬を華山の野に放ち。牛を桃林に繋ぐ こと。二人「皆聖人の諺かな。それは賢き 世の習。時に引かれて四方の海の。浜の真 砂を数へても君が千年のある数を。たと へても猶ありがたや。下歌「千早ぶる神代 を聞けば久方の。上歌「天つ日嗣の代々古 りて。/\。人皇末代の子孫までありし 恵を受け継ぎて。治まる御代のわれら まで。及ばぬ君を仰ぎつゝ夜昼つかへ奉 る。/\。 ワキ詞「いかに是なる人々に尋ぬべき事の 候。シテ「こなたの事にて候ふか何事にて

候ふぞ。ワキ「今夜は此処に絵馬を掛くる と申し候ふは真にて候ふか。シテ「さん候 即ちわれらが絵馬を掛け候ふよ。ワキ「そ れは何の謂に依つて掛けられ候ふぞ。 シテ「是は唯一切衆生の愚痴無智なるを象 り。馬の毛により明年の日を相し。又雨 滋き年をも心得べき為にて候。ワキ「偖々 今夜はいかなる絵馬を掛け。明年の日を 相し給ふ。ツレ「誓は何れも等しけれども。 詞「先雨露の恵を受け。民の心も勇みある よみぢの黒の絵馬を掛け。国土豊にな すべきなり。シテ詞「暫く候。耕作の道の 直なるをこそ。神慮も悦び給ふべけれ。 まづ此尉が絵馬を掛け。民を悦ばせばや と思ひ候。ツレ「さやうに謂を宣はゞ。こ なたも更に劣るまじ。詞「力をも入れず して。天地を動かし目に見ぬ鬼神の。猛 き心を和ぐる。歌は八雲をさきとして。 天ぎる雪のなべてふる。これらはいかで

嫌ふべき。シテ詞「かくしも互に争はゞ。隙 行く駒の道行かじ。いざや二つの絵馬を 掛けて万民楽しむ世とならん。ツレ「げに いはれたり此程は。一つ掛けたる絵馬な れども。シテ「今年始めて二つ掛けて。雨 をも降らし。ツレ「日をも待ちて。シテ「人 民快楽の。ツレ「御めぐみを。地「かけま くも忝なや。これをぞ頼む神垣に。絵馬 は掛けたりや。国土豊になさうよ。上歌「賀 茂の御あれのひをりの日。/\。是を物 見に御随身。色めく紙の四手つけて。駆 けならべたる駒くらべ。掛けてやさしく 聞えしは。松風の上の藤波。尾上の花に吹 き添へて。たなびく白雲。又掛けて色を ますな。 クセ「僧正遍昭は。歌のさまは得たれ ども。まこと少し喩へば。絵にかける 遊女の姿にめでて徒らに。心を動かす は浅緑糸よりかけて繋ぐ駒は二道掛けて

なか/\恨みしは。恋路のそら情。逢 ふさへ夢の手枕。シテ「忍ぶ今宵のあらは れて。地「詞をかはす此上は。何をか包む べきわれらは伊勢の二柱。夫婦と現じ立 ち出づる。信ずべし信ぜば疑波の川竹 の。夜も明けゆかば内外にて。待ち得て まみえ申さんと夜半にまぎれて失せにけ り/\。来序中入。 出端地(謡掛)「雲は万里に収まりて。月読の明神 の。御影の尊容を照らし。出で給ふ。 後シテ「われは日本秋津島の大頭領。地神五 代の祖。天照大神。地「和光利物の御裳濯 川の。水を蹴立つる波の如し。されども 誓は虚空に満ち来る五色の雲も。輝き出 づる。日神の御姿。ありがたや。シテ「処 は斎宮の名に古りし。地「処は斎宮の名 に古りし神墻しどろに木綿四手の。あら はに神体現れ給ふ。ありがたや。神舞。 シテ「昔。天の岩戸に閉ぢ籠りて。地「天の岩

戸に閉ぢ籠りて。悪神を懲らしめ奉らん とて日月二つの御影を隠し。常闇の世の さていつまでか。荒ぶる神々これを歎き ていかにも御心取るや榊葉の。青和幣。 白和幣色々さま%\に歌ふ神楽の韓神催 馬楽。千早ぶる。天女神楽力神急舞。 シテ「面白や。地「おもて白やと覚えず岩 戸を少し開いて。感じ給へば。いつまで 岩戸を手力雄の尊は引き開け御衣の袂に すがれり。引き連れ現れ出で給ふ有様。又 珍しき神遊の。面白かりしを。思しめし 忘れず。高天の原に神とゞまつて。天地 二度開け治まり国土も豊に月日の光。長 閑けき春こそ久しけれ。 北条時政 従者 女人 弁財天

ワキ、ワキツレ次第「八百万代を治むなる。/\。弓矢 の家ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは北条 の四郎時政にて候。我弓矢の家に生るゝ といへども。いまだ旗の紋定まらず候ふ 程に。江の島の弁財天に此事を祈り申さ ん為。唯今参詣仕り候。サシ「それ弓矢は天 地陰陽をかたどり。七徳五行の姿なり。 ワキツレ「されば神農の作りし桑の弓。怨敵 破戒を滅ぼして。ワキ「国家の為となすと かや。ワキワキツレ「又は仏法王法の。/\静か なる国となる事も一張の弓の勢月心に あり。これぞ真如のつき弓の。悪魔もいか で恐れざる/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。こ れは早江の島に着きて候。まづ/\社壇 に参らばやと存し?候。

シテ詞呼掛「なう/\時政に申すべき事の候。 ワキ「不思議やな人家も見えぬ方よりも。 女性一人現れて。我が名をさして宣ふは。 何といひたる事やらん。シテ「愚の仰せ候 ふや。年月歩を運びつゝ。信心深き其故 に。望をかなへ申さんため。これまで現 れ来りたり。ワキ「そもや望を叶へんと は。如何なる人にてましますぞ。シテ詞「い や我が名をば名乗らずとも御身信の志深 く。ワキ「神を敬ふ恵にて。シテ「国も豊 に。シテワキ二人「民栄え。地「治まれる御代の しるしも今更に。/\。見えて栄ふる芦 原の。国なれや降る雨も時をたがへぬ此 君の。千年をかけて御注連縄。永くも代 代を守るなり/\。

ロンギ地「実にや誓の数々に。御代を守り の御告とは如何なる人におはします。 シテ「今は何をか包むべき。我此島に跡を 垂れ。地「潮の落つる暁は。沖の鴎に心そ へ。汀の千鳥鳴く田鶴も。和光の影のか ず/\に。かき集めたる藻塩草夜の汀を 待ち給へ。のぞみを叶へ申さんと。いふ かと見えて其まゝ。社壇に入らせ給ひけ り/\。来序中入間「。 地出端「御殿しきりに鳴動して。日月光り雲 晴れて。山の端出づる如くにて。現れ給 ふ有難さよ。 後シテ「我はこれ。此島を守護し衆生を助 くる。胎蔵界の弁財天とは我が事なり。 地「晴れたる空に旗さしの。名も久方の月 の桂も手に取るばかり。弓矢の家を守り の証ぞと。時政に旗をたび給ひ。数々の 童子。神楽の役々月も照り添ふ花の姿。 雲を廻らす。袂かな。シテ「謹上。地「再

拝。神楽「。 地「かくて夜遊も時過ぎて。/\。我世の 中にあらん程。たとひ四敵の寄せ来ると も。此旗をさし上げば我神通の身と現じ て。六通三明の剣を引つ提げ。無明懺悔の

敵を払はゞ。其身も息災安穏なるべし唯 信心を致すべしと。あらたに神託なし給 ひ。天女は御殿の扉を開きて。御帳の内 にぞ。入り給ふ。 勅使 従者

ワキ、ワキツレ二人次第「光のどけの日の本や。/\。内外 の宮に参らん。ワキ詞「抑これは当今に仕へ 奉る臣下なり。扨も我が君伊勢大神を信 じ給ひ。急ぎ参詣仕れとの宣旨を蒙り。唯 今勢州の旅に赴き候。道行三人「春立つや矢走 の浦の朝霞。/\。たな引く末を水海や。 影もときはにみえわたる鏡の峯をよそに 見て。松の嵐も鈴鹿川。関の戸さゝでこ れぞこの。伊勢の宮居に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。伊勢の宮居に着き

て候。心静かに神拝申さうずるにて候。 シテツレ二人一セイ「治まれる。神代の恵も神風や。伊 勢の宮居に出づるなり。ツレ二ノ句「曇らぬ夜半 の星までも。シテツレ二人「和光に余る。影なら ん。シテサシ「有難や五十鈴の清き宮柱。太しく 立ちて秋津洲の。シテツレ二人「神の御稜威は異 国に。仰ぎてもなほ余りあり。卑しき賎の 身にしありとも心を磨くに。隔はなし。 下歌「神さぶる伊勢の内外の宮柱。上歌「た てし誓にふた心。/\。あらずは末は栄

えなん。皇太神の御慮に叶はんとしも思ひ なば。唯正直を本として。仰ぎて仕へ申せ とよ/\。ワキ詞「いかに是なる宮人に申す べき事の候。シテ「此方の事にて候ふか何 事にて候ふぞ。ワキ「是は当今に仕へ奉る 臣下なるが。勅使に参詣仕りあるぞとよ。 シテ「何と勅使にて御座候ふとや。ワキ「な か/\の事。シテ「唯今の御参宮返す%\ も御めでたうこそ候へ。ワキ「急ぎ祝詞を 参らせ候へ。シテ「畏つて候。謹上再拝。高 天の原に神集りまして。天の岩戸をおし 開き。天の八重雲をいづの千分にちわき て聞しめせ。抑天長地久上直なれば下ま でも。安く楽しむ御恵。仰ぎ願はくば秡殿? の神。八百万の神等聞し召し給へと。恐み こと申し候。地「実に有難や此神の。/\。 深き恵の道広く。万物も出生し四海の浪 も静かにて。実に君は船臣は水。水よく船 を浮ぶなる。此日の本は有難き/\。

地クリ「それ神の御孫の末長く。君臣親子 夫婦兄弟。ともに礼儀をなすとかや。 シテサシ「中にも人は天地の恵を受け。地「父母 の身を分け生れ来て。赤子の身より哀憐 の情によるとて人となる。シテ「されども 君の恵ずば。一時の命も保ちえじ。地「これ ぞ神君父母の重恩。詞に尽し。がたかるな り。クセ「日月は六合を照らせども真は正 真の。頭を照らす印を。水晶の玉の中に。 御影をうつし給へり。其如く人の身も。 清浄心の頭を深く天照らす皇太神の御神 事はありがたや。君に仕へて義を守り。 己を尽し身を研き忠臣に仕へ申すべし。 孝行の其道。多き中にも父母の。我が子 は心に。信の深きものなれば。いかなる遠 国にひとりありとても行末の。心にかゝ る事なしと楽をなさせ申すを先とする。 シテ「友と交はり信ありて。地「私の意趣 を以て。身を捨つる事なかれ。たとひ我と

は不和なりとも。君の為によき人をば。 徳を挙げて褒むべし。此理を弁へば。夫 婦兄弟朋友。子孫家人に至るまで。五常 の道に叶ひなん。これ本立ちて道成る印 とこそは見えにけれ。ワキ詞「実にありがた き物語。心に染みて覚えたり。また時 刻も来りてある間。急ぎ神楽を参らせ候 へ。シテ「畏つて候。いかに申し候。急ぎ神 楽を参らせ候へ。ツレ「心得申して候。物着。 「さる程に時移り。地「さる程に時移り宜

禰が鼓も数到りて月も雲も白妙の。袖を 返して神かぐら。ツレ「千早振る。神楽、ツレ「五 日の風や十日の。地「雨も潤ふ。獅子の舞 地獅子「かくて明行く山風に。物着「かくて明 け行く山風に。波の鼓も声うち添へて。 幾万代の舞ひおさむれば。星月神灯白み 渡るや東の空に五色の雲も輝き出づる 日神の御姿照らし給へば夜も明け行くや 内外の宮居。/\の。栄行く春こそ久し けれ。 旅僧 従僧二人 花守の童子 坂上田村麿

ワキ、ワキツレ二人次第「鄙の都路隔て来て。/\。九重 の春に急がん。ワキ詞「これは東国方より出 でたる僧侶にて候。我未だ都を見ず候ふ程 に。此春思ひ立ちて候。道行三人「頃もはや。 弥生なかばの春の空。/\。影ものかど? に廻る日の。霞むそなたや音羽山。瀧の響 も静かなる。清水寺に着きにけり。/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是は都清水寺とかや 申すげに候。是なる桜の盛とみえて候。 人を待ちて委しく尋ねばやと思ひ候。 シテ一セイ「おのづから。春の手向となりにけ り。地主権現の。花ざかり。サシ「それ花の 名所多しといへども。大悲の光色添ふ故 か。この寺の地主の桜にしくはなし。さ

ればにや大慈大悲の春の花。十悪の里に 芳しく。三十三身の秋の月。五濁の水に。 影清し。下歌「千早振。神の御庭の雪なれ や。上歌「白妙に雲も霞も埋れて。/\。 いづれ。桜の梢ぞと。見渡せば八重一重 げに九重の春の空。四方の山なみ自ら。 時ぞとみゆる気色かな。/\。 ワキ詞「いかにこれなる人に尋ね申すべき 事の候。シテ詞「こなたの事にて候ふか何事 にて候ふぞ。ワキ「見申せばうつくしき玉 箒を持ち。木蔭を清め候ふは。若し花守 にて御入り候ふか。シテ「さん候これは この地主権現に仕へ申す者なり。いつも 花の頃は木蔭を清め候ふほどに。花守と

や申さん又宮つことや申すべき。いづれ によしある者と御覧候へ。ワキ「げに/\ よしありげに見えて候。まづ/\当寺の 御来歴。委しく語り給ふべし。 シテ詞「そも/\当寺清水寺と申すは。大同 二年の御草創。坂上の田村丸の御願なり。 昔大和の国子島寺といふ所に。賢心とい へる沙門。正身の観世音を拝まんと誓ひ しに。ある時木津川の川上より金色の光 さしゝを。尋ね上つて見れば一人の老翁 あり。かの翁語つていはく。我はこれ行叡 居士といへり。汝一人の檀那を待ち。大伽 藍を建立すべしとて。東をさして飛び去 りぬ。されば行叡居士といつぱ。これ観音 薩〓{た}の御再誕。又檀那を待てとありしは。 これ坂の上の田村丸。地上歌「今もその。名 に流れたる清水の。/\。深き誓も数々 に。千手の。御手のとり%\様々の誓普く て国土万民を漏らさじの。大悲の影ぞ

ありがたき。げにや安楽世界より。今こ の娑婆に示現して。我らが為の観世音。仰 ぐも愚かなるべしや。/\。ワキ詞「近頃おも しろき人に参り逢ひて候ふものかな。又 見え渡りたるは皆名所にてぞ候ふらん。 御教へ候へ。シテ詞「さん候皆名所にて候。 御尋ね候へ教へ申し疏lふべし。ワキ「まづ 南に当つて塔婆の見えて候ふは。いかな る所にて候ふぞ。シテ「あれこそ歌の中山 清閑寺。今熊野まで見えて候へ。ワキ「ま た北に当つて入相の聞え候ふはいかなる 御寺にて候ふぞ。シテ「あれは上見ぬ鷲の 尾の寺。や。御覧候へ音羽の山の嶺よりも 出でたる月の輝きて。この地主の桜に映 る景色。まづ/\これこそ御覧い事なれ。 ワキ「げに/\これこそ暇惜しけれ。こと 心なき春の一時。シテ「げに惜むべし。 ワキ「惜むべしや。シテワキ二人「春宵一刻価千金。 花に清香。月に影。シテ「げに千金にも。

かへしとは。今此時かや。地「あら/\面 白の地主の花の景色やな。桜の木の間に 漏る月の。雪もふる夜嵐の。誘ふ花とつ れて散るや心なるらん。クセ「さぞな名に しおふ。花の都の春の空。げに時めける 粧青楊?の影緑に て。風邪のどかなる。 音羽の瀧の白糸 の。くり返しかへ しても面白やあり がたやな。地主権 現の。花の色も異 なり。シテ「たゞ頼 め。標茅が原のさ しも草。地「我世の 中に。あらんかぎりはの御誓願。濁らじ ものを清水の。緑もさすや青柳の。げに も枯れたる木なりとも。花桜木の粧い づくの春もおしなめて。のどけき影は有

明の。天も花に酔へりや。面白の春べや。 あら面白の春べや。 ロンギ地「げにやけしきを見るからに。たゞ 人ならぬ粧のその名いかなる人やらん。 シテ「いかにとも。いさやその名も白雪の。 跡を惜まば此寺に帰る方を御覧ぜよ。 地「帰るやいづくあしがきの。ま近きほど か遠近の。シテ「たづきも知らぬ山中に。 地「おぼつかなくも。思ひ給はゞわが行く

方を見よやとて。地主権現の御前より。下 るかと見えしが。くだりはせで坂の上の 田村堂の軒もるや。月のむら戸を押しあ けて。内に入らせ給ひけり内陣に入らせ 給ひけり。中入間「。 ワキ三人歌待謡「夜もすがら。ちるや桜の蔭に居 て。/\。花も妙なる法の場。迷はぬ月 の夜と共に。此御経を。読誦するこの御 経を読誦する。 後シテ一声「あら有難の御経や?な。清水寺の瀧つ 波。真]一河の流を汲んで。他生の縁ある 旅人に。言葉を交す夜声の読誦。是ぞ則 ち大慈大悲の、観音擁護の結縁たり。 ワキ「ふしぎやな花の光にかゝやきて。男 体の人の見え給ふは。いかなる人にてま しますぞ。シテ「今は何をかつゝむべき。 人皇五十一代。平城天皇の御宇に有りし。 坂上の田村丸。地「東夷を平げ悪魔を鎮 め。天下泰平の忠勤たりしも。即ち当時の

仏力なり。サシ「燃るに君の宣旨には。勢 州鈴鹿の悪魔を鎮め。都鄙安全になすべ しとの。仰によつて軍兵を調へ。既に赴 く時節に至りて。此観音の仏前に参り。 祈念を致し立願せしに。シテ「不思議の瑞 験あらたなれば。地「歓喜微笑の頼を含 んで。急ぎ凶徒に。打つ立ちけり。クセ「普 天の下。卒?土の内いづく王地にあらざる や。やがて名にしおふ。関の戸さゝで逢坂 の。山を越ゆれば浦波の。粟津の森やかげ ろふの。石山寺を伏し拝み是も清水の一 仏と。頼はあひに近江路や。勢田の長橋ふ みならし駒も足なみ勇むらん。シテ「す でに伊勢路の山近く。地「弓馬の道もさ きかけんと。勝つ色みせたる梅が枝の。 花も紅葉も色めきて。猛き心はあらがね の。土も木もわが大君の神国に。もとよ り観音の御誓仏力といひ神力も。なほ数 数にますらをが。待つとは知らでさを鹿

の。鈴鹿の禊せし世々までも。思へば嘉 例なるべし。さるほどに山河を動かす鬼 神の声。天に響き地に満ちて。万木青山 動揺せり。カケリ「。シテ詞「いかに鬼神もたし かに聞け。昔もさるためしあり。千方と いひし逆臣に仕へし鬼も。王位を背く天 罰にて。千方を捨つれば忽ち亡び失せし ぞかし。ましてやま近き鈴鹿耶麻。地「ふり さけ見れば伊勢の海。/\。阿濃の松原 むらだち来つて。鬼神は。黒雲鉄火をふ らしつゝ。数千騎に身を変じて山の。如 くに見えたる所に。シテ「あれを見よ不思 議やな。地「あれを見よ不思議やな。味方 の軍兵の旗の上に。千手観音の。光をは なつて虚空に飛行し。千の御手ごとに。 大悲の弓には。知恵の矢をはめて。一度 放せば千の矢先。雨霰とふりかゝつて。 鬼神の上に乱れ落つれば。こと%\く矢 先にかゝつて鬼神は残らず討たれにけ

り。ありがたし/\や。誠に呪詛。諸毒 薬念彼。観音の力をあはせてすなはち還

着於本人すなはち還着於本人の。敵は亡 びにけりこれ。観音の仏力なり。 従僧 漁翁 漁夫 源義経の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「月も南の海原や。/\。八島の。 浦を尋ねん。ワキ詞「これは都方より出でた る僧にて候。我いまだ四国を見ず候ふほ どに。此度思ひたち西国行脚とこゝろざ し候。道行三人「春霞。浮き立つ浪の沖つ舟。 /\。入日の雲も影そひて。其方の空と行 くほどに。はる%\なりし舟路へて。八 島の浦に着きにけり/\。ワキ詞「急ぎ候ふ 程に。これは早讃岐の国八島の浦に着き て候。日の暮れて候へば。これなる塩屋に 立ち寄り。一夜を明かさばやと思ひ候。 シテサシ一声「おもしろや月海上に浮んでは波 涛夜火に似たり。ツレ「漁翁夜西岸にそう

て宿す。二人「あかつき湘水を汲んで楚竹 を焚くも。今に知られて芦火のかげ。ほ の見えそむるものすごさよ。シテ「月の出 汐の沖つ波。ツレ「霞の小舟。漕がれ来て。 シテ「海士の。よびこゑ。二人「里ちかし。 シテサシ「一葉万里の舟の道。唯一帆の風に任 す。ツレ「夕の空の雲の浪。二人「月のゆく へに立ち消えて。霞に浮ぶ松原の。影は 緑にうつろひて。海岸そことも知らぬ火 の。筑紫の海にやつゞくらん。下歌「こゝ は八島の浦づたひ海士の家居もかず/\ に。上歌「釣のいとまも波の上。/\。かす みわたりて沖ゆくや。海士の小船の。仄々

と。見えて残る夕ぐれ。浦風までものどか なる。春や心をさそふらん/\。シテ詞「ま づ/\塩屋に帰り休まうずるにて候。 ワキ詞「塩屋の主かへりて候。立ちこえ宿を 借らばやと思ひ候。いかにこれなる塩屋 の内へ案内申し候。ツレ「誰にてわたり候 ふぞ。ワキ「諸国一見の僧にて候。一夜の宿 を御かし候へ。ツレ「暫く御待ち候へ。主 に其由申し候ふべし。いかに申し候。諸 国一見の僧の。一夜の御宿とおほせ候。 シテ「やすきほどの御事なれども。あまり に見ぐるしく候ふほどに。御宿は叶ふま じき由申し候へ。ツレ「御宿の事を申して 候へば。余りに見ぐるしく候ふほどに。 叶ふまじき由おほせ候。ワキ「いや/\見 ぐるしきは苦しからず候。殊にこれは 都方の者にて。此浦はじめて一見のこと にて候ふが。日の暮れて候へば。ひらに 一夜とかさねて御申し候へ。ツレ「心得申

し候。唯今の由申して候へば。旅人は都 の人にて御入り候ふが。日のくれて候へ ば。ひらに一夜と重ねて仰せ候。シテ「何 旅人は都の人と申すか。ツレ「さん候。 シテ「げに痛はしき御事かな。さらば御宿 を貸し申さん。ツレ「もとより住みかも芦 の屋の。シテ「たゞ草枕とおぼしめせ。 ツレ「しかも今宵は照りもせず。シテ「曇り もはてぬ春の夜の。シテツレ二人「朧月夜に。し く物もなき海士の苫。地「八島に立てる高 松の。苔の筵は痛はしや。地歌「さて慰 は浦の名の。/\。群れゐる田鶴を御ら んぜよ。などか雲居に帰らざらん。旅人 の故郷も。都と聞けばなつかしや。我等 ももとはとてやがて涙にむせびけりやが て涙にむせびけり。 ワキ詞「いかに申し候。何とやらん似合はぬ 所望にて候へども。古此処は源平の合戦 の巷と承りて候。よもすがら語つて御聞

かせ候へ。シテ詞「やすき間の事かたつて聞 かせ申し候ふべし。語「いで其頃は元暦元 年三月十八日の事なりしに。平家は海の おもて一町ばかり舟を浮べ。源氏は此汀 にうち出で給ふ。大将軍の御出立には。 赤地の錦の直垂に。紫裾濃の御着背長。鎧 ふんばり鞍かさにつゝ立ち上り。一院の 御使。源氏の大将検非違使五位の尉。源 の義経と名のり給ひし御骨がら。あつぱ れ大将やと見えし。今のやうに思ひ出で られて候。ツレ「其時平家の方よりも。言葉 戦こと終り。兵船一艘漕ぎよせて。波打 際に下り立つて。詞「陸の敵を待ちかけし に。シテ「源氏の方にも続く兵五十騎ば かり。中にも三保の谷の四郎と名のつて。 真先かけて見えし所に。ツレ「平家の方に も悪十兵衛景清と名のり。三保の谷を目 懸け戦ひしに。シテ詞「彼の三保の谷は其時 に。太刀打ち折つて力なく。すこし汀に

引き退きしに。ツレ「景清追つかけ三保の 谷が。シテ詞「着たる兜の錏をつかんで。 ツレ「うしろへ引けば三保の谷も。シテ「身 を遁れんと前へ引く。ツレ「互にえいや と。シテ「引く力に。地「鉢付の板より。引 きちぎつて。左右へくわつとぞ退きにけ るこれを御覧じて判官。御馬を汀にうち よせ給へば。佐藤継信能登殿の矢先にか かつて馬より下に。どうど落つれば。舟 には菊王も討たれければ。共にあはれと 思ぼしけるか舟は沖へ陸は陣に。相引に引 く汐のあとは鬨の声たえて。磯の浪松風 ばかりの音さびしくぞなりにける。 ロンギ地「不思議なるとよ海士人の。あまり 委しき物語。其名を名のり給へや。シテ「我 が名を何と夕浪の。引くや夜汐も朝倉や。 木の丸殿にあらばこそ名のりをしても行 かまし。地「げにや言葉を聞くからに。其 名ゆかしき老人の。シテ「昔を語る小忌衣。

地「頃しも今は。シテ「春の夜の。地「潮の落つ る暁ならば修羅の時になるべし其時は。 我が名や名のらんたとひ名のらずとも名 のるとも。義経の浮世の夢ばし覚まし給 ふなよ夢ばしさまし給ふなよ。中入間「。 ワキ詞「ふしぎや今の老人の。其名をたづね し答にも。よしつねの世の夢心。さまさ で待てと聞えつる。歌待謡「声も更け行く 浦風の。/\。松が根枕そばだてゝ。思 をのぶる苔筵。かさねて夢を待ちゐたり /\。後シテ一声「落花枝にかへらず。破鏡ふた たび照らさず。然れどもなほ妄執の瞋恚 とて。鬼神魂魄の境界にかへり。我と此 身を苦しめて。修羅の巷によりくる波の。 浅からざりし。業因かな。 ワキ「ふしぎやな早暁にもなるやらんと。 思ふ寝覚の枕より。甲冑を帯し見え給ふ は。もし判官にてましますか。シテ詞「我義 経の幽霊なるが。瞋恚に引かるゝ妄執に

て。なほ西海の浪にたゞよひ。生死の海 に沈淪せり。ワキ「おろかやな心からこそ 生死の。海とも見ゆれ真如の月の。シテ 「春の夜なれど曇なき。心も澄める今宵の 空。ワキ「昔を今に思ひいづる。シテ「舟と 陸との合戦の道。ワキ「所からとて。シテ「忘 れえぬ。地歌「武士の。八島にいるや槻弓 の。/\。もとの身ながら又こゝに。弓 箭の道は迷はぬに。迷ひけるぞや。生死 の。海山を離れやらで。帰る八島の恨め しや。とにかく執心の。残りの海の深きよ に。夢物語申すなり夢物語申すなり。 地クリ「忘れぬものを閻浮の故郷に。去つて 久しき年波の。夜の夢路に通ひきて。修 羅道の有様あらはすなり。シテサシ「思ひぞい づる昔の春。地「月も今宵にさえかへり。 地「本の渚はこゝなれや。源平互に矢先を そろへ。舟を組み駒をならべて打ち入れ /\足なみにくつばみを浸して攻め戦

ふ。シテ詞「其時何とかしたりけん。判官弓 を取り落し。浪にゆられて流れしに。 地「其をりしもは引く汐にて。遥に遠く流 れゆくを。シテ詞「敵に弓を取られじと。駒 を浪間におよがせて。敵船ちかくなりし 程に。地「敵はこれを見しよりも。船をよ せ熊手にかけて。既にあやふく見え給ひ しに。シテ詞「されども熊手を切りはらひ。 終に弓を取り返し。もとの渚にうちあが れば。地「其時兼房申すやう。くちをしの 御振舞やな。渡辺にて景時が申しゝも。 これにてこそ候へ。たとひ千金を延べた る御弓なりとも御命には換へ給ふべきか と。涙を流し申しければ。判官これを聞し めし。いやとよ弓を惜むにあらず。クセ「義 経源平に。弓矢を取つて私なし。然れど も。佳名は未だ半ならず。されば此弓を。 敵に取られ義経は。小兵なりといはれん は。無念の次第なるべし。よしそれ故に討

たれんは。力なし義経が。運の極と思ふ べし。さらずは敵に渡さじとて浪に引か るゝ弓取の。名は末代にあらずやと。語り 給へば兼房さて其外の。人までも皆感涙 をながしけり。シテ「知者は惑はず。地「勇 者は恐れずの。やたけ心の梓弓。敵には 取り伝へじと。惜むは名のため惜まぬは。 一命なれば。身を捨てゝこそ後記にも。佳 名を留むべき弓筆の跡なるべけれ。 シテ「又修羅道の鬨の声。地「矢叫びの音。 震動せり。カケリ「。シテ詞「今日の修羅の敵は 誰そ。なに能登の守教経とや。あらもの ものしや。手なみは知りぬ。思ひぞいづ る壇の浦の。地「其船軍今は早。/\。閻 浮にかへる生死の。海山一同に。震動し て。舟よりは。鬨の声。シテ「陸には波の 楯。地「月に白むは。シテ「剣の光。地「潮 に映るは。シテ「兜の。星の影。地「水や空 空ゆくもまた雲の波の。打ち合ひ刺し違

ふる。船軍の懸引。浮き沈むとせし程に 春の夜の浪より明けて。敵と見えしは群 れゐる鴎。鬨の声と。聞えしは。浦風な

りけり高松の浦風なりけり。高松の朝嵐 とぞなりにける。 旅僧 従者 梶原景季

ワキ、ワキツレ二人次第「春を心のしるべにて。/\。憂 からぬ旅に出でうよ。ワキ詞「これは西国方 より出でたる僧にて候。我未だ都を見ず 候ふ程に。此度都に上り洛陽一見と志し 候。道行三人「旅心。筑紫の海の船出して。/\。 八重の潮路を遥々と分けこし方の雲の 波。煙も見えし松原の。里の名問へば須 磨の浦。生田の川に着きにけり/\。 シテ次第「来る年の矢の生田川。流れて早き 月日かな。サシ「飛花落葉の無常は又。常 住不滅の栄をなし。一色一香の縁生は。 無非中道の眼に応ず。人間個々円成の観

念。なほ以て至り難し。あら定めなの身 命やな。下歌「人間有為?の転変は。眼子の 中に現れて。上歌「閻浮に帰る妄執の。 /\。その生死の海なれや。生田の川の 幾世まで夜の巷に迷ふらん。よしとても 身の行方定ありとても終には夢の直路に 帰らん夢の直路に帰らん。 ワキ詞「いかに申すべき事の候。これなる梅 は名木にて候ふか。シテ「さん候これは箙 の梅と申し候。ワキ「あらおもしろや箙の 梅とは。いつの世よりの名木にて候ふぞ。 シテ「いや名木ほどの事は候はねども。た

だわたくしに申しならはしたる異名にて 候。ワキ「よし/\わたくしに名づけた る異名なりとも。委しく御物語り候へ。 シテ詞「そも/\この生田の森は。平家十万 余騎の大手なりしに。源氏の方に梶原平 三景時。同じき源太景季。色殊なる梅花 の有りしを。一枝折つて箙にさす。此花 則ち笠印となりて。景色あらはに著く。功 名人に勝れしかば。景季かへつて此花を 礼し。則ち八幡の神木と敬せしよりこの かた。名将の古跡の花なればとて。箙の梅 とは申すなり。ワキ「実にや名将の古跡と 云ひ名木と云ひ。名残つきせぬ年々に。 シテ詞「ふるはほどなき春雨の。ふるきに帰 る名を聞けば。ワキ「その景季の盛なり し。シテ「若木の花のしらま弓。ワキ「箙の 梅の。シテ「今までも。地上歌「名をとめし。 主は花の景季の。/\。末の世かけて生 田川の。身を捨てゝこそ。名は久しけれも

のゝふの。やたけ心の花にひく弓筆の名 こそ妙なれや弓筆の名こそ妙なれ。 クリ「さるほどに平家は去年播磨の室山。 備中の水島二箇度の合戦に打ち勝つて。 山陽道南海道。合 はせて十四箇国の つはもの。都合十 万余騎。津の国一 の谷にぞ籠りけ る。シテサシ「東は生田 の森。西は一の谷 をかぎつて。その あひ三里が程は充 ち満ちたり。地「浦 浦には数千艘の船 をうかべ。陸には赤旗いくらも立てなら べ。春風になびき天に翻るありさま。猛火 雲を焼くかと見えたり。シテ「総じてこの 城の。前は海後は山。地「左は須磨右は明

石の。とよりかくより。行きかふ舟の。 ともねの千鳥の声々なり。クセ「時しもき さらぎ上旬の空のことなれば。須磨の若 木の桜もまだ咲きかぬる薄雪のさえかへ る浪こゝもとに。生田のおのづからさか りを得て。かつ色見する梅が枝一花開け ては天下の春よと。軍の門出を祝ふ心の 花もさきかけぬ。さるほどに味方の勢。

六万余騎を二手に分けて。範頼義経の大 手からめての。海山かけて須磨の浦。四 方をかこみて押し寄する。シテ「魚鱗鶴翼 もかくばかり。地「後の山松に群れゐる は。残りの雪の白妙に。ねぐらをたゝぬ まなづるの。ちばさをつらぬるそのけし き。雲にたぐへておびたゞし。浦には 海人さま%\の。漁父の船かげかず見え て。いさりたく火もかげろふや。あらし も波も須磨のうら野にも山にも漕ぎ寄す る。兵船はさながら。天の鳥船もかくや らん。 ロンギ「はや夕ばえの梅の花。月になりゆく かり枕。一夜の宿をかし給へ。シテ「われ はやどりも白雪の。花の主と思し召さば したぶしに待ち給へ。地「花の主と思へ とは。御身いかなる人やらん。シテ「今は 何をか包むべき。われはこの世になき景 の。地「跡訪はれんといふ草の。シテ「その

景季が幽霊なり。地「御身他生の縁あり て。一樹の蔭の花の緑に。鴬宿梅の木の もとに。宿らせ給へわれはまた世を鴬の 塒はこの花よとて失せにけりこの花よと てぞ失せにける。中入間「。 ワキ上歌三人待謡切迄囃子「うば玉の。夜の衣を返しつゝ。 /\。更け行くまゝに生田川水音も澄む 夜もすがら。花の木蔭に臥しにけり/\。 後シテ一声「魂は陽に帰り。魄は陰に残る。執心 却来の修羅の妄執。去つて生田の名にし おへり。地「地は〓鹿{たくろく}の河となり。シテ「紅 波楯を流しつゝ。地「白刄骨を砕く苦。月 をも日をも。手に取る影かや。長夜のや み/\と眼もくらみ。心も乱るゝ。修羅 道の苦御覧ぜよ。 ワキ「不思議やなそのさまいまだ若武者 の。胡〓{やなぐひ:竹冠に録}に梅花の枝をさし。さも華やかに 見え給ふは。いかなる人にてまします ぞ。シテ「今は何をか包むべき。これは源

太景季。他生の縁の一樹の蔭に。夢中の対 面向顔をなす。御身貴き人なれば。法味 を得んと魄霊の。魂にうつりて来りたり。 跡とひ給へといはんとすれば。カケリ「又嗔 恚の敵の責。あれ御覧ぜよ御聖。ワキ「げに げに見れば恐ろしや。剣は雨と降りかゝ つて。シテ「天地をかへす如くにて。ワキ「山 も震動。シテ「海も鳴り。ワキ「雷火も乱れ。 シテ「悪風の。地「紅焔の旗を靡かし紅焔の 旗を靡かして。閻浮に帰る生田河の。浪を たて水をかへし。山里海川も。皆修羅道の 巷となりぬ。是はいかにあさましや。 シテ「暫く心を静めて見れば。地「心を静め て見れば。所は生田なりけり。時も昔の 春の。梅の花さかりなり。一枝手折りて 箙にさせば。もとより窈窕たる若武者に。 相逢ふ若木の花かづら。かくれば箙の花 も源太も我さきかけんさきかけんとの。 心の花も梅も。散りかゝつて面白や。敵

のつはものこれを見て。あつぱれ敵よ遁 がすなとて。八騎が中にとりこめらるれ ば。シテ「兜も打ち落されて。地「大童の姿 となつて。シテ「郎等三騎に後をあはせ。 地「向ふ者をば。シテ「拝みち。地「又め ふり合へば。シテ「車斬。地「蜘蛛手かく縄

十文字。鶴翼飛行の秘術を尽すと見えつ るうちに。夢覚めて。しら/\と夜も明く れば。是までなりや旅人よ。いとま申して 花は根に。鳥は古巣に帰る夢の鳥は古巣 に帰るなり。よく/\弔ひて給び給へ。 旅僧 従僧 老樵夫 薩摩守平忠度の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「花をも憂しと捨つる身の。 /\。月にも雲は厭はじ。ワキ詞「これは・俊成{しゆんぜい} の・御内{みうち}に在りし者にて候。扨も・俊成{としなり}な くなり給ひて後。かやうの姿となりて候。 又西国を見ずに候ふ程に。此度思ひ立ち西国行脚 と志し候。・城南{せいなん}の離宮に赴き都 をへだつる山崎や。関戸の宿は名のみし て。泊りも果てぬ旅の習。憂き身はいつ も交の。塵の浮世の芥川。猪名の小篠

を分け過ぎて。下歌三人「月も宿かる・昆陽{こや}の池 水底清く澄みなして。上歌「芦の葉分の風 の音。/\。聞かじとするに憂き事の。 捨つる身までも。有馬山隠れかねたる世 の中の。憂きに心はあだ夢の。覚むる枕 に鐘ほとき。難波は跡に鳴尾潟沖浪遠き。 小舟かな沖浪遠き小舟かな。 シテサシ一声「実に世を渡る習とて。かく憂き業 にもこりずまの。汲まぬ時だに塩木を運

べば。乾せども隙は馴衣の。浦山かけて 須磨の海。一セイ「海人の呼声ひまなきに。 しばなく千鳥音ぞ遠き。サシ「抑この須磨の 浦と申すは。淋しき故に其名を得る。わく らはに問ふ人あらば須磨の浦に。もしほ たれつゝわぶと答へよ。実にや漁の海人 小舟。藻塩の煙松の風。いづれか淋しから ずと云ふ事なき。詞「又此須磨の山陰に一木 の桜の候。これはある人の亡き跡のし るしの木なり。殊更時しも春の花。手向 の為に逆縁ながら。足引の山より帰る折 ごとに。薪に花を折りそへて。手向をな して帰らん手向けをなして帰らん。 ワキ詞「いかにこれなる老人。おことは此山賎 にてましますか。シテ詞「さん候此浦の海 人にて候。ワキ「海人ならば浦にこそ住む べきに。山ある方に通はんをば。山人と こそいふべけれ。シテ詞「そも蜑人の汲む 汐をば。焼かで其まゝ置き候ふべきか。

ワキ「実に/\これは理なり。藻塩たくな る夕煙。シテ「絶間を遅しと塩木とる。 ワキ「道こそかはれ里ばなれの。シテ「人音 稀に須磨の浦。ワキ「近き・後{うしろ}の山里に。 シテ「柴といふ物の候へば。地「柴といふ物 の候へば。塩木の為に通ひ来る。シテ「余 りに愚{おろか}なる。・御僧{おそう}御諚かなやな。地「実 にや須磨の浦・余{よ}の所にやかはるらん。そ れ花につらきは嶺の嵐や山おろしの。音 をこそ厭ひしに。須磨の若木の桜は海少 しだにも隔てねば。通ふ浦風に山の桜も 散る物を。ワキ詞「如何に尉殿。・早{はや}日の暮れ て候へば一夜の宿を御かし候へ。シテ詞「う たてなや此花の蔭ほどの御宿の候ふべき か。ワキ「実に/\これは花の宿なれども さりながら。誰を・主{あるじ}と定むべき。シテ「行 き暮れて木の下蔭を宿とせば。花や今宵 の主ならましと。詠めし人は此苔の下。痛 はしや我等が様なる海人だにも。常は立

ち寄り弔ひ申すに。御僧達はなど逆縁な がら。弔ひ給はぬ。愚にまします人々か な。ワキ詞「行き暮れて木の下蔭を宿とせ ば。花や今宵の主ならましと。詠めし人 は薩摩の守。シテ詞「忠度と申しゝ人は。此 一の谷の合戦に討たれぬ。ゆかりの人の 植ゑ置きたる。しるしの木にて候ふなり。 ワキ「こはそも不思議の・値遇{ちぐ}の縁。さしも さばかり俊成の。シテ「和歌の友とて浅か らぬ。ワキ「宿は今宵の。シテ「主は人。地「名 も忠度の声聞きて。花の台に座し給へ。 シテ「有難や今よりは。かく弔の声聞き て仏果を得んぞ嬉しき。地「不思議や今の 老人の。手向の声を身に受けて。喜ぶ気色 見えたるは何の故にてあるやらん。 シテ「御僧に・弔{と}はれ申さんとて。これまで 来れりと。地「夕の花の蔭に寐て。夢の告 をも待ち給へ。都へ言づて申さんとて花 の蔭に宿木の行くかた知らずなりにけり

行く方知らずなりにけり。中入間「。 ワキ詞「先々都に帰りつゝ。・定家{ていか}に此事申さ んと。三人待謠「夕月早くかげろふの。/\。 おのが友よぶ村千鳥の。跡見えぬ磯山の 夜の花に旅寝して。浦風までも心して。 春に聞けばや音すごき。須磨の関屋の。 旅寐かな須磨の関屋の旅寐かな。 後シテ一声「恥かしや亡き跡に。姿を帰す夢のう ち。覚むる心は・古{いにしへ}に。迷ふ・雨夜{あまや}の物語。 申すさんために魂魄にうつりかわりて来り たり。さなぎだに妄執多き娑婆なるに。 何中々の千載集の。歌の品には入りたれ ども。勅勘の身の悲しさは。よみ人知ら ずと書かれし事。妄執の中の第一なり。 されども。それを撰じ給ひし。俊成さへ 空しくなり給へば。御身は御内にありし 人なれば。今の定家・君{きみ}に申し。然るべく は作者をつけてたび給へと。夢物語申す に。須磨の浦風も心せよ。

地クリ「実にや和歌の家に生れ。その道を嗜 み。敷島のかげに依つし事・人倫{じんりん}に於て専 らなり。ワキサシ「中にも此忠度は。文武二道 を受け給いて世上に・眼{まなこ}高し。地「そも/\ 後白河の院の御宇に。千載集を撰はる。 五条の三位俊成の卿。承つてこれを撰ず。 下歌「年は寿永の秋の頃。都を出でし時な れば。上歌「さも忙しかりし身の。/\。 心の花か蘭菊の。狐川より引き返し。俊成 の家に行き歌の望を嘆きしに。望足り ぬれば。又・弓箭{きゆうせん}にたづさはりて。西海の 波の上。暫しと頼む須磨の浦。源氏の住 み所。平家の為はよしなしと知らざりけ るぞはかなき。 地「さる程に一の谷の合戦。今はかうよと 見えし程に。皆々舟に取り乗って海上に 浮ぶ。シテ詞「我も船に乗らんとて。汀の方 に打ち出でしに。後を見れば。武蔵の国の 住人に。岡部の六弥太忠澄と名のって。六

七騎にて追つかけたり。これこそ望む所 よと思ひ。駒の手綱を引つかへせば。六弥太 やがてむづと組み。両馬が・間{あひ}にどうど 落ち。彼の六弥太を取つておさへ。既に刀 に手をかけしに。地「六弥太が郎等御後よ り立ちまはり。上にまします忠度の。右 の腕を打ち落せば。左の御手にて六弥太 を取つて投げのけ今は叶はじと思し召し て。そこのき給へ人々よ。西拝まんと宣 ひて。光明偏照十方世界念仏衆生摂取不 捨と宣ひし。御声の下よりも。痛はしや あへなくも。六弥太太刀を抜き持ち。つ ひに御首を打ち落す。 シテ「六弥太。心に思ふやう。地「痛はしや 彼の人の。御死骸を見奉れば。其年もま

だしき。長月頃の薄曇。降りみ降らずみ 定なき。時雨ぞ通ふ村紅葉の。錦の直垂 はたゞ世の常によもあらじ。いかさまこ れは公逹の。御中にこそあるらめと。御名 ゆかしき所に。箙を見れば不思議やな。 短冊を附けられたり。見れば旅宿の題を すゑ。行き暮れて。木の下蔭を宿とせば。 カケリ「。シテ「花や今宵の。主ならまし。忠度 と書かれたり。地「さては疑あらしの音に 聞えし薩摩の守にてますぞ痛はしき。 キリ地「御身此花の。蔭に立ち寄り給ひし を。かく物語り申さんとて日を暮らしと どめしなり。今は疑よもあらじ。花は根に 帰るなり。我が跡とひてたび給へ。木陰を 旅の宿とせば。花こそ主なりけれ。 藤原俊成 平忠度 岡部六弥太 俊成従者

ワキ詞「かように候ふ者は。武蔵の国の 住人。岡部の六弥太忠澄にて候。さても今度 西海の合戦に。薩摩の守忠度をば。某が手 にかけ失ひ申して候。御最期の後・尻籠{しこ}を 見奉れば。短冊の御座候。又承り候へば。 五条の三品俊成卿と。和歌の御知遇の由 申し候ふ間。此短冊を持ちて参り。俊成卿 の御目に書けばやと存じ候。いかに案内 申し候。トモ「誰にて渡り候ふぞ。ワキ「岡部 の六弥太忠澄が参りたる由御申し候へ。 トモ「心得申し候。いかに申し上げ候。 ツレ「何事にてあるぞ。トモ「岡部の六弥太忠澄 の伺候申されて候。ツレ「こなたへと申し 候へ。トモ「畏つて候。こなたへ御参り候 へ。ワキ「心得申し候。ツレ「いかに忠澄。扨 唯今何の為に来り給ひて候ふぞ。ワキ「さ ん候唯今参る事余の儀にあらず。西海の 合戦に薩摩の守忠度をば。某が手にかけ 失ひ申して候。御最期の後・尻籠{しこ}を見候へ

ば。短冊の御座候。承り候へば。忠度とは 浅からぬ和歌の御値遇の由承り候ふ間。 御目にかけばやと存じ。唯今持ちて参り て候。ツレ「こなたへ賜り候へ。げにや 弓馬の道ならねど。いつしか世に名を残し 置き給ふ事の哀さよ。詞「なに/\旅宿の 花と云ふ題にて。行き暮れて木の下蔭を 宿とせば。花や今宵の主ならまし。 地上歌「いたはしや忠度{たゞのり}は。/\。破戒無慙 の罪を恐れ。仁儀礼智信。五つの道も正し くて。歌道に達者たり弓矢に。名を揚げ 給へば。文武二道の忠度の。船をえて彼 の岸の。台にいたり給へや/\。 シテサシ「前途程遠し。思を雁山の夕の雲に 馳す。八重の潮路に沈みし身なれども。 猶九重の春にひかれ。共にながめし花の 色。我が面影や見えつらん。命たゞ心に かなふものならば。何か別の。物憂かる べき。詞「いかに俊成卿。忠度こそこれま

で参りて候へ。ツレ「不思議や・夢現{ゆめうつゝ}とも分 かざるに。薩摩の守の御姿。現れ給ふ不 思議さよ。シテ詞「さても千載集に。一首の 歌を入れさせ給ふ。御志は嬉しけれども。 読人知らずと書かれしこと。心にかゝり 候。ツレ「尤もそれはさることなれども。 詞「朝敵の御名を現さんは世のはゞかりな り。よしや此歌あるならば。・御名{おんな}は隠れ もあらじ。・御心安{おんこゝろやす}く思しめせ。シテ「われ もさこそとしら雪の。古き世までも歌あ らば。ツレ「其名もさすが武蔵鐙。隠はあ らじわれ人の。シテ「情の末も深見草。 ツレ「引くや詠歌も心ある。シテ「故郷の花 といふ題にて。地「さゝ波や。志賀の都は 荒れにしを。志賀の都は荒れにしを。昔 ながらの。山桜かなと。詠みしも永き世 の。ほまれをのこす詠歌かな。げにや憂世 は電光。胡蝶の夢の・戯{たはぶれ}に。謡へや舞へ や津の国の。なにはの事も忠度なり。疑

はせ給ふなわれ疑はせ給ふな。 ツレサシ「凡そ歌には六義あり。これ六道の巷 に詠じ。地「千早振神代の歌は。文字の 数も定なし。シテ「其後・天照大神{あまてるおほんがみ}の・御兄{おんこのかみ}。 地「・素盞鳴尊{そさのをのみこと}より。三十一字に定め置き て。末世末代の。ためしとかや。クセ「其 ゆゑ。素盞鳴尊の。女と住み給はんと て。出雲の国に居まして。大宮作せし所 に。八色雲の立つをご覧じて尊の。一首の 御詠かくばかり。八雲立つ出雲八重垣妻 ごめに。八重垣つくる。その八重垣をと。 神詠もかたじけなや今の世のためしなる べし。さてもわれ須磨の浦に。旅寝して 眺めやる。明石の浦の朝霧と。詠みしも 思ひ知られたり。シテ「・人丸{ひとまる}世に亡くなり て。地「歌の事とゞまりぬと。紀の貫之も 躬恒もかくこそ。書き置きしかども。松 の葉の散り失せず。・真折{まさき}のかづら。永く 伝はり鳥の跡あらん其ほどは。よも尽せ

じな敷島の。歌には神も納受の。男女。 夫婦の媒とも此歌の情なるべし。あら 名残惜しの。夜すがらやな。カケリ「。 ツレ「不思議や見れば忠度の。けしき変り て・気疎{けうと}き有様。こはそもいかなる事や らん。シテ詞「あれ御覧ぜよ修羅王の。梵天 に攻め上るを。帝釈出で逢ひ修羅王を。 もとの下界に追つ下す。地「すは敵陣は乱 れ合ひ。/\。・喚{をめ}叫べば忠度も。嗔恚 の焔は荒磯の。波の打物抜いて。切つて かゝれば・敵人{てきじん}は。矛を揃へてかゝり給へ ば。忠度相向つて打ち払へば其まゝ見え ず。敵を失ひあきれて立てば。天よりは。

火車降りかゝり。地より鉄刀足を貫き立 つも立たれず居るも居られぬ。修羅王の 責。こはいかにあさましや。シテ「やゝあ つてさゝ波や。地「やゝあつてさゝ波や。 志賀の都はあれにしを。昔ながらの。山 桜かなと。梵天感じ給ひしより。剣の責 を免れて。暗やみとなりしかば。灯火を 背けては。共に憐む深夜の月。花を踏ん では同じく惜しむ。少年の春の夜も。は や白々と明けわたれば。ありつる姿は 消え/\と。ありつる姿は・鶏籠{けいろう}の山。 ・木隠{こがく}れて失せにけりあと木隠れて失せに けり。 仁和寺僧僧都行慶 平経政

ワキ僧詞「是は仁和寺御室に仕へ申す。僧都 行慶にて候。さても平家の一門但馬の守

経政は。いまだ童形の時より。・君{きみ}御寵愛 なのめならず候。然るに・今度{こんど}西海の合戦

に討たれ給ひて候。又・青山{せいざん}と申す御琵琶 は。経政存生の時より預け下されて候。彼 の御琵琶を仏前に据ゑ置き。・管絃講{くわんげんかう}にて 弔ひ申せとの御事にて候ふ程に。役者 を集め候。げにや一樹の蔭に宿り。一河の 流を汲む事も。皆是他生の縁ぞかし。ま してや多年の御値遇。・恵{めぐみ}を深くかけまく も。忝くも宮中にて。法事をなして夜も すがら。平の経政・成等正覚{じやうとうしやうがく}と。弔ひ給ふ 有難さよ。地上歌「ことに又。彼の青山と云 ふ琵琶を。 /\。・亡者{まうじや}の為に手向けつゝ。 同じく・糸竹{いとたけ}の。声も仏事をなしそへて。 ・日々夜々{にち/\やゝ}の法の門貴賎の道もあまねしや /\。シテサシ「・風{かぜ}・枯木{こぼく}を吹けば・晴天{はれてん}の雨。月 ・平沙{へいさ}を照らせば夏の夜の。霜の・起居{おきゐ}も安 からで。仮に見えつる草の蔭。露の身なが ら消え残る。妄執の縁こそつたなけれ。 ワキ「不思議やなはや深更になるまゝに。 夜の灯火・幽{かすか}なる。光の内に人影の。ある

かなきかに見え給ふは。いかなる人にて ましますぞ。シテ詞「われ経政が幽霊なる が。御弔の有難さに。是まで現れ参り たり。ワキ「そも経政の幽霊と。答ふる方 を見んとすれば。 又消え%\と形も なくて。シテ「声は ・幽{かすか}に絶え残つて。 ワキ「まさしく見え つる人影の。 シテ「あるかと見れば。 ワキ「又見えもせで。 シテ「あるか。ワキ「な きかに。シテ「かげ ろふの。上歌地「幻 の。常なき身とて経政の。/\。もとの 浮世に帰り来て。それとは名のれどもそ の主の。形は見えぬ妄執の。・生{しやう}をこそ隔 つれどもわれは人を見る物を。げにや

呉竹の。筧の水はかはるとも。すみあかざ りし宮のうち。まぼろしに参りたり。・夢幻{ゆめまぼろし} に参りたり。 ワキ詞「不思議やな経政の幽霊かたちは消 え声は残つて。なほも詞をかはしけるぞ や。よし夢なりとも現なりとも。法事の 功力成就して。亡者に詞を交す事よ。あら 不思議の事やな。シテ詞「われ若年の昔より

宮の内に参り。世上に面をさらす事も。偏 に君の御恩徳なり。中にも手向け下さる る。青山の御琵琶。娑婆にての御許されを 蒙り。常に手馴れし四つの緒に。地下歌「今 もひかるゝ心故。聞きしに似たる撥音の。 これぞまさしく妙音の。誓なるべし。 地上歌「さればかの経政は。/\。未だ 若年の昔より。外には仁義礼智信の。五常 を守りつゝ。内には又花鳥風月。詩歌管 絃を専らとし。春秋を松蔭の草の露水の あはれ世の心にもるゝ。花もなし/\。 ワキ詞「亡者のためには何よりも。娑婆にて 手馴れし青山の琵琶。おの/\楽器を調 へて。糸竹の手向を進むれば。シテ詞「亡者 も立ち寄り灯火の影に。人には見えぬも のながら。手向の琵琶を調ぶれば。ワキ「時 しも頃は夜半楽。・眠{ぬぶり}を覚ますをりふし に。シテ詞「不思議や晴れたる空かき曇り。 俄に降りくる雨の音。ワキ「頻に草木を払

ひつゝ。時の調子もいかならん。シテ「いや 雨にてはなかりけり。あれ御覧ぜよ雲の 端の。地「月に・双{ならび}の岡の松の。・葉風{はかぜ}は吹き 落ちて。村雨の如く音づれたり。面白や をりからなりけり。大絃は〓{口へんに曹}々として。 村雨の如しさて。小絃は・切々{せつ/\}として。 ・私語{さゝめごと}に異ならず。クセ「第一第二の絃は。索 索として秋の風。松を払つて・疎韻{そゐん}落つ。 第三第四の絃は。冷々として夜の鶴の。 子を思つて・籠{こ}の内になく。鶏も心して。 夜遊の・別{わかれ}とゞめよ。シテ「一声の鳳管 は。地「秋・秦嶺{しんれい}の雲を動かせば。・鳳凰{ほうわう}もこれに めでて。・梧竹{きりたけ}に飛び下りて。・翅{つばさ}を連ねて舞 ひ遊べば。律呂の声々に。・心{こゝろ}・声{こゑ}に発す。 声・文{あや}をなす事も。昔を返す・舞{まひ}の袖。衣笠山 も近かりき。おもしろの夜遊やあらお もしろの夜遊やな。あらなごり惜しの夜 遊やな。カケリ「。 シテ詞「あら恨めしやたま/\閻浮の夜遊

に帰り。心をのぶる折節に。また嗔恚の ・発{おこ}る恨めしや。ワキ「さきに見えつる人影 の。なほあらはるゝは経政か。シテ「あら 恥かしや我が姿。はや人々に見えけるぞ や。あの灯火を消し給へとよ。地「灯火を 背けては。/\。ともにあはれむ深夜の 月をも。手に取るや帝釈修羅の。・戦{たゝかひ}は火 を散して。嗔恚の・猛火{みやうくわ}は雨となつて。身 にかゝれば。払ふ剣は他を悩し。我と 身を切る。紅波はかへつて猛火となれ ば。身を焼く苦患。恥かしや。人には見 えじものを。あの灯火を消さんとて。そ の身は・愚人{ぐにん}夏の虫の。火を消さんと飛び 入りて。嵐とともに灯火を吹き消して。 くらまぎれより。・魄霊{はくれい}は。失せにけり魄霊 の影は失せにけり。 従僧 漁翁 若女 平通盛 小宰相局

ワキ詞「是は阿波の鳴門に・一夏{いちげ}を送る僧に て候。扨も此浦は。平家の一門はて給ひ たる処なれば痛はしく存じ。毎夜此磯辺 に出でて御経を読み奉り候。唯今も出で て弔ひ申さばやと思ひ候。歌「磯山に。暫 し岩根のまつ程に。/\。誰が夜舟とは 白波に。楫音ばかり鳴門の。浦静かなる。 今宵かな。ワキワキツレ「浦静かなる今宵かな。 ツレ一声サシ「すは・遠山寺{とほやまでら}の鐘の声。この磯辺近 く聞え候。シテ「入相ごさめれ急が給へ。 ツレ「程なく暮るゝ日の数かな。シテ「昨日 過ぎ。ツレ「今日と暮れ。シテ「明日またか くこそ有るべけれ。ツレ「されども老に頼 まぬは。シテ「身のゆくすゑの日数なり。 シテツレ二人「いつまで世をばわたづみの。あ

まりに隙も波小舟。ツレ「何を頼に老の身 の。シテ「命のために。二人「使ふべき。 地歌「憂きながら。心のすこし慰むは。 /\。月の出汐の海士小舟。さも面白き 浦の秋の景色かな。処は夕浪の。鳴門の 沖に雲つゞく。淡路の島や離れ得ぬ浮世 の業ぞ悲しき浮世の業ぞ悲しき。 シテサシ「暗濤月を埋んで清光なし。ツレ「舟に 焚く海士の篝火更け過ぎて。二人「苫より くゞる夜の雨の。芦間に通ふ風ならで は。音する物も波枕に。夢か現か御経の 声の。嵐につれて聞ゆるぞや。・楫音{かぢおと}を静 め唐櫓を抑へて。聴聞せばやと思ひ候。 ワキ「誰そや此鳴門の沖に音するは。シテ「泊 定めぬ海士の釣舟候ふよ。ワキ「さもあら

ば思ふ子細あり。この磯近く寄せ給へ。 シテ「仰に随ひさし寄せ見れば。ワキ「二 人の僧は巖の上。シテ「漁の舟は岸の陰。 ワキ「芦火の影を仮初に。御経を開き読誦 する。シテ「有難や漁する。業は芦火と思ひ しに。ワキ「善き燈火に。シテ「鳴門の海の。 シテワキ二人「弘誓深如海歴劫不思議の機縁に よりて。五十展転の随喜功徳品。地下歌「実 にありがたやこの経の。面ぞくらき浦風 も。芦火の影を吹き立てゝ。聴聞するぞ ありがたき。上歌「竜女変成と聞く時は。 /\。姥も頼もしや祖父はいふに及ばす。 願も三つの車の芦火は清く明かすべ しなほ/\お経。遊ばせなほ/\お経あ そばせ。ワキ詞「あら嬉しや候。火の光にて 心静に御経を読み奉りて候。先々此浦 は。平家の一門果て給ひたる処なれば。 毎夜此磯辺に出でて御経を読み奉り候。 取り分き如何なる人此浦にて果て給ひて

候ふぞ委しく御物語り候へ。シテ詞「仰の 如く或は討たれ。又は海にも沈み給ひ て候。中にも小宰相の局こそ。や。もろ ともに御物語り候へ。 ツレ「さる程に平家の一門。馬上を改め。 海士の小船に乗りうつり。月に棹さす時 もあり。シテサシ「こゝだにも都の遠き須磨の 浦。二人「思はぬ敵に落されて。実に名を 惜む武士の。おのころ島や淡路潟。阿 波の鳴門に着きにけり。ツレ「さる程に小 宰相の局乳母を近づけ。二人「いかに何と か思ふ。我頼もしき人々は都に留まり。 通盛は討たれぬ。誰を頼みてながらふべ き。此海に沈まんとて。主従泣く/\手 を取り組み舟端に臨み。ツレ「さるにても あの海にこそ沈まうずらめ。地下歌「沈むべ き身の心にや。涙の兼ねて浮ぶらん。 上歌「西はと問へば月の入る。/\。其方 も見えず大方の。春の夜や霞むらん涙

もともに曇るらん。乳母泣く/\取り付 きて。此時の物思君一人に限らず。思し 召し止り給へと・御衣{おんきぬ}の袖に取り付くを。 振り切り海に入ると見て老人も同じ満汐 の。底の水屑となりにけり/\。 ワキワキツレ歌「此八軸の誓にて。/\。一人も 洩らさじの。方便品を読誦する。ワキ「如 我昔所願。 後シテ出端「今者已満足。ワキ「化一切衆生。 シテ「皆令入仏道の。地「通盛夫婦。御経に 引かれて。立ち帰る波の。シテ「あら有難 の。御法やな。 ワキ「不思議やなさも艶めける御姿の。波 に浮びて見え給ふは。いかなる人にてま しますぞ。ツレ「名ばかりはまだ消え果て ぬあだ波の。阿波の鳴門に沈み果てし。 小宰相の局の幽霊なり。ワキ「今一人は甲 胃を帯し。兵具いみじく見え給ふは。い かなる人にてましますぞ。シテ「これは生

田の森の合戦に於て。名を天下に掲げ。 武将たつし誉を。越前の三位通盛。昔を 語らん其為に。これまで現れ出でたるな り。地サシ「そも/\此一の谷と申すに。前 は海。上は険しき鵯越。まことに鳥なら では翔り難く獣も。足を立つべき地にあ らず。シテ「唯幾度も追手の陣を心もとな きぞとて。地「・宗徒{むねと}の一門さし遣はさる。 通盛も其随一たりしが。忍んで我が陣に 帰り。小宰相の局に向ひ。クセ「既に軍。 明日にきはまりぬ。痛はしや御身は通盛 ならで此うちに頼むべき人なし。我とも かくもなるならば。都に帰り忘れずは。 亡き跡弔ひてたび給へ。名残をしみの御 盃。通盛酌を取り。指す盃の宵の間も。 転寝なりし睦言は。たとえば唐土の。項 羽高祖の攻を受け。数行虞氏が。涙も是 にはいかで増るべき。燈火暗うして。月 の光にさし向ひ。語り慰む所に。シテ「舎

弟の能登の守。地「早甲胃をよろひつゝ。 通盛は何くにぞ。など遅なはり給ふぞと。 呼ばはりし其声の。あら恥かしや能登の 守。我が弟といひながら。他人より猶恥か しや。暇申してさらばとて。行くも行か れぬ一の谷の。所から須磨の山の。後髪 ぞ引かるゝ。カケリ「。 シテ詞「さる程に合戦 も半なりしかば。但馬の守経政も早討たれ ぬと聞ゆ。ワキ「さて薩摩の守忠度の果は いかに。シテ「岡部の六弥太。詞「忠澄と組 んで討たれしかば。あつぱれ通盛も名あ

る侍もがな。討死せんと待つ所に。すは あれを見よ好き敵に。地「近江の国の住人 に。/\。木村の源吾重章が鞭を上げて駈 け来る。通盛少しも騒がず。抜き設けたる 太刀なれば。兜の。真向ちやうと打ち返す 太刀にてさし違へ共に修羅道の苦を受く る。憐を垂れ給ひ。よく弔ひてたび給へ。 キリ地「読誦の声を聞く時は。/\。悪鬼 心を和らげ。忍辱慈悲の姿にて。菩薩も こゝに来迎す。成仏得脱の。身となり行 くぞ有難き/\。 旅僧 舟人 今井四郎兼平の霊

ワキ次第「始めて旅を信濃路や。/\。木曽の 行方を尋ねん。詞「これは木曽の山家より 出でたる僧にて候。さても木曽殿は。江 州粟津が原にて果て給ひたる由承り及び

び候ふ程に。かの御跡を弔ひ申さばやと 思ひ。唯今粟津が原へと急ぎ候。道行「信 濃路や。木曽の梯名にしおふ。/\。其 跡とふや道のべの草の蔭野の仮枕。夜を

重ねつゝ日を添へて。行けばほどなく近 江路や。矢橋の浦に着きにけり/\。 シテ一セイ「世のわざの。憂きを身に積む柴舟 や。焚かぬ先より。漕がるらん。ワキ詞「な う/\其船に便船申さうなう。シテ詞「是は 山田矢橋の渡舟にてもなし。御覧候へ柴 積みたる船にて候ふ程に。便船は叶ひ候 ふまじ。ワキ「此方も柴舟と見申して候へ ども。折節渡に舟もなし。出家の事にて 候へば別の御利益に。舟を渡してたび給 へ。シテ「実にも/\出家の御身なれば。 詞「余の人にはかはり給ふべし。実に御経 にも如渡得船。ワキ「船待ち得たる旅行の 暮。シテ「かゝるをりにも近江の海の。 二人「矢橋をわたる船ならば。それは旅人 の渡舟なり。地歌「是は又。浮世を渡る柴 舟の。/\。干されぬ袖も水馴棹の。見 馴れぬ人なれど。法の人にてましませば。 船をばいかで惜むべきとく/\召され

候へとく/\召され候へ。ワキ詞「如何に船 頭殿に申すべき事の候。見え渡りたる浦 山は皆名所にてぞ候ふらん。御教へ候へ。 シテ詞「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ 教へ申し候ふべし。ワキ「まづ向ひに当つ て大山の見えて候ふは比叡山候ふか。 シテ「さん候あれこそ比叡山にて候へ。麓 に山王二十一社。茂りたる峯は八王子。 戸津坂本の人家まで残なく見えて候。 ワキ「さてあの比叡山は。王城より艮に当 つて候ふよなう。シテ「なか/\の事それ 我が山は。王城の鬼門を守り。悪魔を払 ふのみならず。一仏乗の嶺と申すは。伝 へ聞く鷲の御山を象れり。又天台山と号 するは。震旦の四明の洞をうつせり。 詞「伝教大師桓武天皇と御心を一つにし て。延暦年中の御草創。我が立つ杣と詠 じ給ひし。根本中堂の山上まで残な く見えて候。ワキ「さて/\大宮の御在所

橋殿とやらんも。あの坂本のうちにて候 ふか。シテ「さん候麓に当つて。少し木 深き影の見えて候ふこそ。大宮の御在所 橋殿にて御入り候へ。ワキ「有難や一切衆 生悉有仏性如来と聞く時は。我等が身ま でも頼もしうこそ候へ。シテ「仰の如く仏 衆生通ずる身なれば。御僧も我も隔は あらじ。一仏乗の。ワキ「峰には遮那の梢 をならべ。シテ「麓に止観の海をたゝへ。 ワキ「又戒定恵の三学を見せ。シテ「三塔と 名づけ。ワキ「人は又。地「一念三千の。機を 顕して。三千人の衆徒を置き円融の法も 曇なき。月の横川も見えたりや。さて又 麓はさゝ波や。志賀辛崎の一つ松。七社の 神輿の御幸の梢なるべし。さゝ波の水馴 棹こがれ行く程に。遠かりし。向の浦波 の。粟津の森は近くなりてあとは遠き細 波の。昔ながらの山桜は青葉にて。面影 も夏山の移り行くや青海の。柴舟のしば

しばも。暇ぞ惜しき細波の寄せよ寄せよ 磯ぎはの。粟津に早く着きにけり/\。 ワキ歌待謡「露を片敷く草筵。/\。日も暮れ夜 にもなりしかば。粟津の原のあはれ世 の。亡きかげいざや。弔はんなきかげい ざや弔はん。 後シテ一声「白刃骨を砕く苦。眼晴を破り。紅波 楯を流す粧。簗杭に残花を乱す。一セイ「雲 水の。粟津の原の朝風に。地「鬨つくり添 ふ。声々に。シテ「修羅の巷は騒がしや。 ワキ「不思議やな粟津の原の草枕に。甲冑 を帯し見え給ふは。如何なる人にてまし ますぞ。シテ「愚と尋ね給ふものかな。御 身是まで来り給ふも。我なき跡をとはん 為の。御志にてましまさずや。兼平こ れまで参りたり。ワキ「今井の四郎兼平 は。今は此世に亡き人なり。さては夢に て有るやらん。シテ詞「いや今見る夢のみ か。現にもはや水馴棹の。舟にて見みえ

し物語。早くも忘れ給へりや。ワキ「そも や舟にて見みえしとは。矢橋の浦の渡守 の。シテ詞「其舟人こそ兼平が。現に見みえ し姿なれ。ワキ「さればこそ始より。様あ る人と見えつるが。扨は昨日の舟人は。 シテ「舟人にも非ず。ワキ「漁夫にも。シテ「あ らぬ。地歌「武士の。矢橋の浦の渡守。矢 橋の浦の渡守と。見えしは我ぞかし。同じ くは此舟を。御法の舟に引きかへて。我を 又かの岸に。渡してたばせ給へや。 地クリ「実にや有為生死の巷。来つて去る事 早し。老少もつて前後不同。夢幻泡影。 いづれならん。シテサシ「唯これ槿花一日の 栄。地「弓馬の家にすむ月の。わづかに残 る兵の。七騎となりて木曽殿は。此近江 路に下り給ふ。シテ「兼平瀬田より参りあ ひて。地「又三百余騎になりぬ。シテ「其後 合戦度々にて。又主従二騎に討ちなさる。 地「今は力なし。あの松原に落ち行きて。

御腹召され候へと。兼平すゝめ申せば。 心細くも主従二騎。粟津の松原さして落 ち給ふ。クセ「兼平申すやう。後より御敵。 大勢にて追つかけたり。防矢仕らんとて。 駒の手綱を返せば。木曽殿御諚ありける は。多くの。敵を遁れしも。汝一所にな らばやの。所存ありつる故ぞとて同じく かへし給へば。兼平又申すやう。こは口 惜しき御諚かな。さすがに木曽殿の。人 手にかゝり給はん事。末代の御恥辱。唯 御自害あるべし。今井もやがて参らんと の。兼平に諫められ。又引つ返し落ち給 ふ。さて其後に木曽殿は。心細くも唯一 騎。粟津の原のあなたなる。松原さして 落ち給ふ。シテ「頃は正月の末つ方。地「春 めきながら冴えかへり。比叡の山風の。 雲行く空もくれはとり。あやしや通路の。 すゑ白雪の薄氷。深田に馬をかけ落し。 引けども上らず打てども行かぬ望月の。

駒の頭も見えばこそこは何とならん身の 果。せん方もなくあきれはて。此まゝ自害 せばやとて。刀に。手を掛け給ひしが。さ るにても兼平が。行方如何にと遠方の跡 を見返り給へば。シテ「何処より来りけん。 地「今ぞ命は槻弓の。矢一つ来つて内兜に からりといる。痛手にてましませば。た まりもあへず馬上より。をちこちの土と なる。所はこゝぞ我よりも。主君の御跡 を。先弔ひてたび給へ。ロンギ地「実に痛は しき物語。兼平の御最期は。何とかなら せ給ひける。シテ「兼平はかくぞとも。知 らで戦ふ其隙にも。御最期の御供を。心 にかくるばかりなり。地「扨其後に思はず も。敵の方に声立てゝ。シテ「木曽殿討た れ給ひぬと。地「呼ばはる声を聞きしよ り。シテ「今は何をか期すべきと。地「思ひ 定めて兼平は。シテ「是を最期の広言と。 地「鐙ふんばり。シテ「大音上げ木曽殿の。

御内に今井の四郎。地「兼平と。名乗りか けて。大勢に。割つて入れば。もとよ り。一騎当千の。秘術を顕し大勢を。粟津 の汀に追つつめて磯打つ波の。まくり 切り。蜘蛛手十文字に。打ち破り。かけ

通つて。其後。自害の手本よとて。太刀 をくはへつゝ逆さまに落ちて。貫かれ失 せにけり。兼平が最期の仕儀目を驚かす 有様なり目を驚かす有様。 平知章(前ハ里男)

ワキ次第「春を心のしるべにて。/\。・憂{う}か らぬ旅に・出{い}でうよ。詞「これは・西国方{さいこくがた}より 出でたる僧にて候。われいまだ都を見ず 候ふ程に。唯今思ひたち・都{みやこ}・一見{いっけん}と志し候。 道行「旅衣。八重の潮路をはる%\と。 /\。猶末ありと行く波の。雲をも分く る沖つ船。われも浮世の道出でて。いづ くともなき・海際{うみぎわ}や。浦なる関に着きにけ り。/\。詞「さてもわれ鄙の国よりはる ばると。これなる磯辺に来て見れば。新

しき卒都婆を立ておきたり。亡き人の追 善と思しくて。・要文{えうもん}さま%\書記し。 ・物故{もっこ}平知章と書かれたり。・知章{ともあきら}とは平 家の御一門の・御中{おんなか}にては。誰にてかまし ますらん。あら痛はしや候。 シテ詞呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ぞ。 ワキ「是は遠国より上りたる僧にて候ふ が。これなる卒都婆を見れば。物故平知章 と書かれて候。御一門の御中にて候ふや らんと痛はしく存じ。一遍の念仏を廻向

申して候。シテ「げに/\遠国の人にてま しませば。知ろしめさぬは・御理{おんことわり}。知章とは 相国の三男新中納言知盛の・御子{おんこ}にて候。 二月七日の・合戦{かせん}に。此一の谷にて討たれ させ給ひて候。されば其日も今日にあた りたれば。・縁{ゆかり}の人の立てたる卒都婆にて 候。時もこそあれ御僧の。今日しもこゝに 来り給ひ。廻向し給ふありがたさよ。一樹 の蔭一河の流。これ又他生の縁なるべし。 よく/\弔ひ給ひ候へ。ワキ「げに/\仰 のごとく。他生の縁のあればこそ。かり そめながらこゝに来て。シテ「無縁の利 益をなす事よと。ワキ「思の玉の数繰り て。シテ「弔ふ事よさなきだに。シテワキ二人「一 見卒都婆・永離三悪道{やうりさんあくだう}。・何凉造立者{がきやうざうりふしや}。必生 安楽国。物故平知章・成等正覚{じやうとうしやうがく}。地下歌「昨日 は人の上。けふはわれをも知らぬ身の。 しかも弓馬の・家人{かじん}ならば。・法{のり}にひかれつ つ。仏果に至り給へや。上歌「唯一念の功

力だに。/\三悪の罪は消えぬべし。ま して・妙{たえ}にも説く法の。道のほとりの亡き 跡を逆縁もなどかなかるべき/\。 ワキ詞「さて知盛の御最期は何とかならせ 給ひて候ふぞ。シテ詞「さん候知盛は。あ れに見えたる釣舟のほどなりし。遥の 沖の御座船に。追ひつき助かり給ひて 候。ワキ「さてあれまでは小船に召されて 候ふか。シテ「いや・馬上{ばしやう}にて候ひし。其頃 ・井上黒{いのうへぐろ}とて屈竟の名馬たりしが。二十余町 の海の面を。やす/\と泳ぎ渡り。・主{ぬし}を 助けし馬なり。されども船中に処なかり し間。乗する人もなくして。又・本{もと}の汀に 泳ぎ上り。此馬主の・別{わかれ}を慕ふかと思し くて。沖の方に向ひ・高嘶{たかいなゝき}し。・足掻{あしがき}して ぞ立つたりける。畜類も心ありけるよ と。見る人哀を催しけり。地「・越鳥南枝{ゑつてうなんし}に 巣をかけ・胡馬北風{こばほくふう}にいばえしも・旧郷{きゅうごう}を忍 ぶ故なりとか。胡馬は北風を慕ひ。此馬 <120 b> は西に行く船の。・纜{ともづな}に繋がれても。行か ばやと思ふ心なり。 ロンギ上「さる程に。日もはや暮れて須磨の 浦。海人の磯屋に・宿{やどり}して。逆縁ながら弔は ん。シテ「げにありがたやわれとても。よそ 人ならず一門の。・内外{うちと}にかよふ夕月の後 の世の闇をとひ給へ。地「そも一門の内ぞ とは。御身いかなる人やらん。シテ「今は何 をかつゝみ・井{い}の。・水隠{みがく}れて住むあはれ世 に。地「亡き跡の名は。シテ「白真弓の。地「帰 る方を見れば。須磨の里にも野山にも。行 かで汀のかたをなみ。芦辺をさしてゆく ・田鶴{たづ}の。浮きぬ沈むと見えしまゝに。・後影{うしろかげ} も失せにけりや後影も失せにけり。中入。 ワキ上歌待謡「夕波千鳥友寐して。/\。処も須 磨の浦づたひ。野山の風もさえかへり。 心も墨の衣手に。此御経を読誦する/\。 後シテ一声「あらありがたの御弔やな。われ修 羅道の苦の。隙なき中にかくばかり。

・魄霊{はくれい}にひかれて来りたり。浮むべき。波 こゝもとや須磨の浦。地「海少しある通路 の。シテ「・後{うしろ}の山風上野のあらし。地「草木 国土有情非情も。悉皆成仏の。かの岸の 海際に。浮み出でたるありがたさよ。 ワキ「不思議やなさもなまめきたる若武者 の。波に浮みて見え給ふは。いかなる人 にてましますぞ。シテ詞「誰とはなどや愚な り。御弔のありがたさに。知章これまで参 りたり。ワキ「さては平家の公達を。まのあ たりに見奉る事よと。昔にかへる浦波の。 シテ「・浮織物{うきおりもの}の直垂に。つま・匂{にほひ}の鎧着て。 ワキ「さも・華{はな}かなる・御{おん}姿。シテ「処もさぞな。 ワキ「須磨の浦に。地上歌「朧なる雁の姿や月 の影。/\。うつす絵島の島隠れ。行く船 を。惜しとぞ思ふ我が父に。別れし船影の 跡白波も懐しや。よしとても・終{つい}に我が。 憂き身を捨てゝ西海の藻屑となりし浦の 浪。重ねて・弔{と}ひてたび給へ。/\。

ワキ詞「さらば其時の有様委しく御物語り 候へ。地クリ「さても其時のありさま語るに つけて憂き名のみ。竜田の山の紅葉葉の。 くれなゐ靡く旗のあし。散り%\になる 気色かな。シテサシ「主上二位殿をはじめ奉り。 その外大臣殿父子。地「一門皆々船に取り 乗り。海上に浮むよそほひ。唯・滄波{さうは}のう ねに浮き沈む水鳥の如し。シテ「其中にも 親にて候ふ新中納言。われ知章監物太郎。 主従三騎に討ちなされ。地「御座船をうか がひ此汀にうち出でたりしに。・敵手{かたきて}しげ くかゝりし間。又ひつかへし打ちあふ程 に。知章監物太郎。主従こゝにて討死す る。シテ「その隙に知盛は。地「二十余町の 沖に見えたる。大臣殿の御船まで。馬を 泳がせ追ひついて。御船に乗りうつり。 かひなき御命助かり給ふ。クセ「知盛其時 に。おほいどのゝ御前にて。涙を流し宣 はく。武蔵の守も討たれぬ監物太郎頼賢

も。あの汀にて討たるゝを。見すてゝこ れまでまゐる事。面目もなき次第なり。 いかなれば。子は親のため。命を惜まぬ 心ぞや。いかなる親なれば。子の討たるゝ を。見捨てけん。命は惜しきものなりとて。 さめ%\と泣き給へばよその袖も濡れ にけり。おほいどのも宣はく。武蔵の守 はもとよりも。心も剛にしてよき大将と 見しぞとて。御子清宗の方を。見やりて 御涙を。流し給へば船の・中{うち}に。連れる人々 も。鎧の袖をぬらしけり。シテ「武蔵の守 知章は。地「生年二八の春なれば。清宗も 同年にて。ともに若葉の・磯馴松{そなれまつ}千代を重 ねて栄ゆくや。累葉枝を連ねつゝ。一門 かどをならべしも。今年のけふはいかな れば。処も須磨の山桜。若木は散りぬ埋 木の。浮きてたゞよふ船人となりゆく果 ぞかなしき。ロンギ上「げに痛はしき物語。 同じくは御最期を。懺悔に語り給へや。

シテ「げにや最期{さいご}の有様を慙愧懺悔にあら はし修羅道の苦患免れん。地「げに修羅道 の苦の。その一念も最期より。シテ「聞 きつるまゝの敵にて。地「すはや寄せく る。シテ「浦の波。地「団扇の旗児玉党か。 物々しと云ふまゝに。監物太郎が放つ矢 に。敵の旗さしの。首の骨のぶかに射 させて真逆さまにどうと落つれば。 シテ「主人とおぼしき武者。地「主人とおぼ しき武者の新中納言を目にかけて。駈け よせて討つ所を。親を討たせじと。知章 かけ塞がつて。むずと組んで。どうと落 ち。取つて押さへて首かき切つて。起き あがる処を又。敵の郎等落ち合ひて。知 章が首をとれば。終にこゝにて討たれつ つ。其まゝ修羅の。業に沈むを。思はざる に御僧の。とぶらひはありがたや。是ぞ真 の法の友よ。これぞまことの知章が。跡と ひてたび給へ。亡き跡を弔ひてたび給へ。 旅僧 老人 源三位頼政

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我此程 は都に候ひて。洛陽の寺社残なく拝み。廻 りて候。又これより南都に参らばやと思 ひ候。道行「天雲の。稲荷の社伏し拝み。 /\。なほ行くすゑは深草や。木幡の関 を今越えて。伏見の沢田見え渡る。水の 水上たづねきて。宇治の里にも。着きに けり宇治の里にも着きにけり。狂言シカ%\「。 ワキ詞「げにや遠国にて聞き及びにし宇治 の里。詞「山の姿川のながれ。遠の里橋の 景色。見所おほき名所かな。詞「あはれ里 人来り候へかし。 シテ詞呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ふぞ。 ワキ詞「是は此所はじめて一見の者にて候。 この宇治の里に於て。名所旧跡残なく御

教へ候へ。シテ「所には住み候へども。い やしき宇治の里人なれば。名所とも旧跡 とも。いさ白波の宇治の川に。舟と橋と は有りながら。渡りかねたる世の中に。 住むばかりなる名所旧跡。何とか答へ申 すべき。ワキ詞「いや左様には承り候へど も。勧学院の雀は蒙求を囀るといへり。 処の人にてましませば御心にくうこそ候 へ。先喜撰法師が住みける庵は。いづく の程にて候ふぞ。シテ「さればこそ大事の 事を御尋ねあれ。喜撰法師が庵は。我が 庵は都の巽しかぞ住む。詞「世を宇治山と 人はいふなり。人はいふなりとこそ。主 だにも申し候へ。尉は知らず候。 ワキ詞「又あれに一村の里の見えて候ふは

槙の島候ふか。シテ「さん候槙の島とも申 し。又宇治の河島とも申すなり。ワキ「是 に見えたる小島が崎は。シテ「名に橘の 小島が崎。ワキ「向に見えたる寺は。いか さま恵心の僧都の。御法を説きし寺候ふ な。シテ「なう/\旅人。あれ御覧ぜよ。 歌「名にも似ず。月こそ出づれ朝日山。 地「月こそ出づれ朝日山。山吹の瀬に影見 えて。雪さし下す島小舟。山も川も。お ぼろおぼろとして是非をわかぬ景色か な。げにや名にしおふ。都に近き宇治の 里聞きしにまさる名所かな/\。 シテ詞「いかに申し候。此所に平等院と申 す御寺の候ふを御覧ぜられて候ふか。 ワキ詞「不知案内の事にて候ふ程に。いまだ 見ず候御をしへ候へ。シテ「此方へ御出で 候へ。これこそ平等院にて候へ。また是 なるは釣殿と申して。おもしろき所にて 候よく/\御覧候へ。ワキ「げに/\おも

しろき所にて候。またこれなる芝を見れ ば。扇の如く取り残されて候ふは。何と 申したる事にて候ふぞ。シテ「さん候此 芝について物語の候。語つて聞かせ申し 候べし。昔この処に宮軍ありしに。 源三位頼政合戦に打ち負け給ひ。この処 に扇を敷き自害し果て給ひぬ。されば名 将の古跡なればとて。扇のなりに取り残 して。今に扇の芝と申し候。ワキ「痛はし やさしも文武に名を得し人なれども。跡 は草露の道の辺となつて。行人征馬の行 くへの如し。あら痛はしや候。シテ詞「げに よく御弔ひ候ふものかな。しかも其宮軍 の月も日も今日に当りて候ふは如何に。 ワキ「何と其宮軍の月も日も今日当りた ると候ふや。シテ「かやうに申せば我な がら。よそにはあらず旅人の。草の枕の 露の世に。姿見えんと来りたり。現とな思 ひ給ひそとよ。地歌「夢の浮世の中宿の。

/\。宇治の橋守年を経て。老の波も打ち 渡す遠方人に。物申す我頼政が幽霊と名 のりもあへず。失せにけり名のりもあへ ず失せにけり。 ワキ詞「さては頼政の 幽霊かりに現れ。 我に言葉をかはし けるぞや。いざ や御跡弔はんと。 歌「思ひよるべの浪 枕。/\。汀も近 し此庭の扇の芝を 片敷きて。夢の契 を。待たうよ夢 の契を待たうよ。 後シテ一声「血は琢鹿の河となつて。紅波楯を流 し。白刃骨を砕く。世を宇治川の網代の 波。あら閻浮恋しや。伊勢武者は。皆緋 縅の鎧着て。宇治の網代に。かゝりける

かな。うたかたの。あはれはかなき世の 中に。地「蝸牛の角の。争も。シテ「はかな かりける。心かな。詞「あら尊の御事や。 なほ/\御経読み給へ。 ワキ「不思議やな 法体の身にて甲胃を帯し。御経読めと承 るは。いかさま聞きつる源三位の。その 幽霊にてましますか。シテ詞「げにや紅は

園生に植ゑても隠なし。名のらぬさき に。詞「頼政と御覧ずるこそ恥かしけれ。 たゞ/\御経読み給へ。ワキ「御心やすく 思し召せ。五十展転の功力だに。成仏ま さに疑なし。ましてやこれは直道に。 シテ「弔ひなせる法の力。ワキ「あひにあひ たり所の名も。シテ「平等院の庭の面。 ワキ「思ひ出でたり。シテ「仏在世に。地歌「仏 の説きし法の場。/\。こゝぞ平等大慧 の。功力に頼政が。仏果を得んぞありが たき。 シテ「今はなにをかつゝむべき。これは源 三位頼政。執心の波に浮き沈む。因果の 有様あらはすなり。地「抑治承の夏の頃。 よしなき御謀叛を勧め申し。名も高倉の 宮の内。雲居のよそに有明の月の都を忍 び出でて。シテ「憂き時しもに。近江路や。 地「三井寺さして落ち給ふ。クセ「さるほ どに。平家は時をめぐらさず。数万騎の

兵を。関の東に遣はすと。聞くや音羽の 山つゞく。山科の里近き。木幡の関を。 よそに見て。こゝぞ憂き世の旅心宇治の 河橋打ち渡り。大和路さして急ぎしに。 シテ「寺と宇治との間にて。地「関路の駒の 隙もなく。宮は六度まで御落馬にて煩は せ給ひけり。これは先の夜御寝ならざる 故なりとて。平等院にして。暫く御座を 構へつゝ宇治橋の中の間。引きはなし。 下は河波。上に立つも。共に白旗を靡か してよする敵を待ち居たり。 シテ詞語「さる程に源平の兵。宇治川の南北の 岸に打ちのぞみ。閧の声矢叫の音。波に たぐへておびたゝし橋の行桁をへだて て戦ふ。味方には筒井の浄妙。詞「一来法 師。敵味方の目を驚かす。かくて平家の 大勢。橋は引いたり水は高し。さすが難 所の大河なれば。詞「左右なう渡すべきや うも無かつし処に。田原の又太郎忠綱と

名のつて。詞「宇治川の先陣我なりと。名 のりもあへず三百余騎。地「くつばみを揃 へ河水に。少しもためらはず。群れゐる 群鳥の翅を並ぶる羽音もかくやと。白波 に。ざつ/\と。打ち入れて。浮きぬ沈 みぬ渡しけり。シテ「忠綱。兵を。下知し ていはく。地「水の逆巻く所をば。岩あり と知るべし。弱き馬をば下手に立てゝ。 強きに水を。防がせよ。流れん武者には 弓弭を取らせ。互に力を合はすべしと。 唯一人の。下知に依つて。さばかりの大 河なれども一騎も流れず此方の岸に。を めいてあがれば味方の勢は。我ながら踏 みもためず。半町ばかり。覚えずしさつ て。切先を揃へて。こゝを最期と戦うた り。さる程に入り乱れ。我も/\と戦へ ば。シテ「頼政が頼みつる。地「兄弟の者も 討たれけば。シテ「今は何をか期すべき と。地「唯一筋に老武者の。シテ「是までと

思ひて。地「是までと思ひて。平等院の庭 の面。是なる芝の上に。扇を打ち敷き。 鎧ぬぎ捨て座を組みて。刀を抜きながら。 さすが名を得し其身とて。シテ「埋木の。 花さく事もなかりしに。身のなるはては

あはれなりけり。地「跡弔ひ給へ御僧よ。 かりそめながらこれとても。他生の種の 縁にいま。扇の芝の草の蔭に。帰るとて 失せにけり立ち帰るとて失せにけり。 従僧二人 老人 斉藤別当実盛

狂言口開ワキ「それ西方は十万億土。遠く生 るゝ道ながら。こゝも・己心{こしん}の弥陀の国。 貴賎群集の称名の声。ツレ「・日々{にちにち}・夜々{やゝ}の ・法{のり}の・場{にわ}。ワキ「げにも誠に摂取不捨の。 ツレ「ちかひに誰か。ワキ「残るべき。三人「独 なほ。仏の・御名{みな}を尋ね見ん。/\。おのお の帰る法の場。知るも知らぬも心ひく誓の 網に漏るべきや。知る人も。知らぬ人 をも渡さばやかの国へ行く法の船浮むも 安き。道とかや浮むも安き道とかや。

シテサシ「・笙歌{せいか}・遥{はるか}に聞ゆ孤雲の上。・聖衆{しやうじゆ}来迎す 落日の前。あら・尊{たつと}や今日も又紫雲の立つ て候ふぞや。詞「鐘の・音{おと}・念仏{ねぶつ}の声の聞え候。さ ては聴聞も今なるべし。さなきだに立居 くるしき老の波の。よりもつかずは法の 場に。よそながらもや聴聞せん。一念称名 の声の内には。摂取の光明曇らねども。 老眼の通路なほ以て明かならず。よしよ し少しは遅くとも。こゝを去る事遠かる まじや。・南無阿弥陀仏{なみあむだぶ}。

ワキ詞「いかに・翁{おきな}。さても毎日の称名に怠る 事なし。されば志の者と見る所に。お ことの・姿{すがた}・余人{よじん}の見る事なし。・誰{たれ}に向つて ・何事{なにごと}を申すぞと皆人不審しあへり。・今日{けふ} はおことの名をなのり候へ。シテ詞「これは 思ひもよらぬ・仰{おほせ}かな。もとより所は天ざ かる。鄙人なれば人がましやな名もあら ばこそ・名告{なのり}もせめ。只上人の・御下向{おんげかう}。 ひとへに弥陀の来迎なれば。かしこうぞ・長生{ながいき} して。此称名の時節にあふ事。・盲亀{まうき} の・浮木{ふぼく}・優曇華{うどんげ}の花侍ち得たる心地して。 老いの・幸{さいわひ}・身{み}に越え。悦の涙・袂{たもと}に余る。さ れば此身ながら。安楽国に生るゝかと。 無比の歓喜をなす所に。・輪廻妄執{りんゑまうしふ}の・閻浮{えんぶ} の名を。又あらためて名のらん事。口惜し うこそ候へとよ。ワキ「げに/\翁の申す 所ことわり至極せりさりながら。ひとつ は懺悔の・廻心{ゑしん}ともなるべし。たゞおこと が名を名のり候へ。シテ「さては名のらで

は叶ひ候ふまじか。ワキ「中々のこと急 いで名のり候へ。シテ「さらば・御前{おんまへ}なる人 をのけられ候へ。近う参りて名のり候ふ べし。ワキ「もとより翁の姿余人の見る事 はなけれども。所望ならば人をばのくべ し。近うよりて名のり候へ。シテ「昔長井 の斎藤別当実盛は。この篠原の・合戦{かせん}に討 たれぬ。聞しめし及ばれてこそ候ふら め。ワキ「それは平家の・侍{さむらひ}弓取つての 名将。その・軍{いくさ}物語は・無益{むやく}。唯おこと の名を名のり候へ。シテ「いやさればこそそ の実盛は。此御前なる池水にて・鬢髭{びんひげ}をも 洗はれしとなり。さればその執心残りけ るか。今も此あたりの人には幻の如く 見ゆると申し候。ワキ「さて今も人に見え 候ふか。シテ「深山木のその梢とは見えざ りし。桜は花に顕れたる。・老木{おいき}をそれと 御覧ぜよ。ワキ「不思議やさては実盛の。 昔を聞きつる物語。人の上ぞと思ひし

に。身の上なりける不思議さよ。詞「扨はお ことは実盛の。その幽霊にてましますか。 シテ「われ実盛が幽霊なるが。・魂{こん}は冥途に ありながら。・魄{はく}は此の世にとゞまりて。 ワキ「なほ執心の閻浮の世に。シテ詞「二百余 歳の程は経れども。ワキ「浮みもやらで篠原 の。シテ「池のあだ波夜となく。ワキ「昼 とも分かで心の闇の。シテ「夢ともなく。 ワキ「現ともなき。シテ「思をのみ。歌「篠 原の。・草葉{くさば}の霜の翁さび。地「草葉の霜の 翁さび。人な咎めそ仮初に。あらはれ出 たる実盛が。名を洩し給ふなよ。亡き ・世語{よがたり}も恥かしとて。・御前{おんまへ}を立ち去りて。 行くかと見れば篠原の池の・辺{ほとり}にて姿は幻 となりて。失せにけり幻となりて失せにけり。中入間「。 ワキ「いざや・別時{べちじ}の称名にて。かの幽霊を 弔はんと。ワキワキツレ二人待謡「篠原の。池のほとり の法の水。/\。深くぞ頼む称名の。声

すみわたる弔の。初夜より後夜に至る まで。心も西へ行く月の光と共に曇なき。 鐘を鳴らして夜もすがら。ワキ「南無阿 弥陀仏なむあみだぶ。 後シテ出端「極楽世界に行きぬれば。長く・苦界{くかい}を 越え過ぎて。輪廻の・故郷{ふるさと}隔たりぬ。・歓喜{くわんぎ} の心いくばくぞや。処は・不退{ふたい}の所。命は 無量寿仏となう。頼もしや。念々相続する 人は。地「念々ごとに。往生す。シテ「南無 と言つぱ。地「即ち是帰命。シテ「阿弥陀と 言つぱ。地「その行この義を以ての故に。 シテ「必ず。往生を得べしとなり。地「あり がたや。 ワキ「不思議やな・白{しら}みあひたる池の・面{おも}に。 ・幽{かすか}に浮み寄る者を。見ればありつる翁な るが。・甲冑{かつちう}を帯する不思議さよ。シテ「・埋木{うもれぎ) の人知れぬ身と沈めども。心の池の言 ひがたき。修羅の苦患の数々を。浮めてた ばせ給へとよ。ワキ「これほどに・目{ま}のあた

りなる姿言葉を。余人は更に見も聞きも せで。シテ詞「唯上人のみ明らかに。ワキ「見 るや姿も残の雪の。シテ「鬢髭白き老武者 なれども。ワキ「その・出立{いでたち}は花やかなる。シテ「・粧{よそほひ} 殊に曇なき。ワキ「月の光。シテ「ともし火 の影。地「・闇{くら}からぬ。夜の錦の直垂に。 /\。・萌黄匂{もえぎにほひ}の鎧着て。・黄金作{こがねづくり}の・太刀{たち}刀。 今の身にては。それとても。何か宝の。 池の・蓮{はちす}の・台{うてな}こそ宝なるべけれ。げにや疑 はぬ。法の・教{をしへ}は朽ちもせぬ。・黄金{こがね}の言葉多 くせば。などかは至らざるべき/\。 シテクリ「それ・一念弥陀仏即滅無量罪{いちねんみだぶつそくめつむりやうざい}。地「すな はち・廻向発願心{ゑかうほつぐわんしん}。心を残す。事なかれ。 シテ「時いたつて今宵逢ひ難き御法を受 け。地「・慚愧懺悔{ざんぎさんげ}の物語。なほも昔を忘れ かねて。忍ぶに似たる篠原の。草の陰野の 露と消えし有様語り申すべし。シテ詞語「さて も。篠原の・合戦{かせん}破れしかば。源氏の方に ・手塚{てづか}の太郎・光盛{みつもり}。木曽殿の・御前{おんまへ}に参りて

申すやう。光盛こそ奇異の・曲者{くせもの}と組んで 首取つて候へ。大将かと見ればつゞく・勢{せい} もなし。又侍かと思へ錦の直垂を着 たり。名のれ/\と責むれども・終{つひ}に名の らず。声は・坂東声{はんどうごゑ}にて候ふと申す。木曽 殿天晴。長井の斎藤別当実盛にてやある らん。然らば鬢髭の・白髪{はくはつ}たるべきが。黒 きこそ不審なれ。樋口の次郎は見知りた るらんとて召されしかば。樋口参り唯一 目見て。涙をはら/\と・流{なが}いて。あな無残 やな。斎藤別当にて候ひけるぞや。実盛 常に申しゝは。六十に余つて・軍{いくさ}をせば。 若殿原と争ひて。先をかけんも大人気な し。又老武者とて人々にあなづられんも 口惜しかるべし。鬢髭を墨に染め。若や ぎ討死すべきよし。常々申し候ひしが。 誠に染めて候。洗はせて御覧候へと。申 しもあへず首を待ち。地「・御前{おんまへ}を立つてあ たりなる。この池波の岸に臨みて。水の

緑も影うつる。柳の糸の枝たれて。歌「気 晴れては。風・新柳{しんりう}の髪を・梳{けづ}り。氷消えて は。波・旧苔{きうたい}の。髭を洗ひて見れば。墨は 流れ落ちてもとの。・白髪{はくはつ}となりにけり。 げに名を惜む・弓取{ゆみとり}は。誰もかくこそある べけれや。あらやさしやとて。皆感涙を ぞ流しける。 クセ「又実盛が。錦の直垂を着る事。・私{わたくし}な らぬ望なり。実盛。都を出でし時。・宗盛公{むねもりこう} に申すやう。故郷へは錦を着て。帰る といへる・本文{ほんもん}あり。実盛・生国{しやうごく}は。越前の 者にて候ひしが。近年。・御領{ごりやう}に附けられ て。武蔵の長井に・居住{きよぢう}・仕{つかまつ}り候ひき。此 度・北国{ほくこく}に。罷り下だりて候はゞ。定めて。 討死仕るべし。老後の思出これに過ぎじ 御免あれと望みしかば。・赤地{あかぢ}の錦の直垂 を下し賜はりぬ。シテ「然れば古歌にも もみぢ葉を。地「分けつゝ行けば錦着て。家 に帰ると。人や見るらんと詠みしもこの

本文の心なり。されば古の。・朱買臣{しゆばいしん}は。 錦の袂を会稽山に翻へし。今の実盛は名 を北国の巷に揚げ。かくれなかりし弓取 の。名は末代に有明の。月の夜すがら懺悔 物語申さん。 ロンギ地「げにや懺悔の物語。心の水の底清 く。・濁{にごり}を残し給ふなよ。シテ「その執心の 修羅の道。・廻{めぐ}り/\てまたこゝに。木曽 と組まんとたくみしを。手塚めに隔てら れし。無念は今にあり。地「つゞく・兵{つはもの}誰 誰と。名のる・中{なか}にも・先{まづ}すゝむ。シテ「手塚 の太郎光盛。地「・郎等{らうどう}は・主{しう}を討たせじと。 シテ「かけ隔たりて実盛と。地「押し並べて 組む所を。シテ「あつぱれ。おのれは・日本一{につぽんいち} の。・剛{がう}の者と。くんでうずよとて。鞍 の。・前輪{まへわ}に押しつけて。首かき切つて。 捨てゝけり。地「其後手塚の太郎。実盛が 弓手にまはりて。草摺を畳みあげて。・二刀{ふたかたな} さす所をむずと組んで二疋が間に。ど

うと落ちけるが。シテ「老武者の悲しさ は。地「・軍{いくさ}には・為疲{しつか}れたり。風にちゞめる。 ・枯木{こぼく}の力も折れて。手塚が下に。なる所 を。・郎等{らうどう}は落ちあひて。・終{つひ}に首をば掻き

落とされて。篠原の。土となつて。影も形 もなき跡の影も形も・南無阿弥陀仏{なむあみだぶ}。弔ひ てたび給へ跡弔ひてたび給へ。 淡津三郎 清経の妻 左中将平清経の霊

ワキ次第「八重の汐路の浦の浪。八重の汐路の 浦波九重にいざや帰らん。詞「是は左中将 清経の御内に仕へ申す。淡津の三郎と申 す者にて候。さても頼み奉り候ふ清経は。 過ぎにし筑紫の軍に打ち負け給ひ。都へ はとても帰らぬ道芝の。雑兵の手にかゝ らんよりはと思し召しけるか。豊前の国 柳が浦の沖にして。更け行く月の夜船よ り身を投げ空しく為り給ひて候。又船中 を見奉れば。御形見に鬢の髪を残し置か れて候ふ間。かひなき命助かり。御形見

を持ち唯今都へ上り候。道行「此程は。鄙 の住居に馴れ/\て。/\。たま/\帰 る故郷の。昔の春に引きかへて。今は物 うき秋暮れてはや時雨ふる旅衣。しをる る袖の身のはてを忍び/\に。上りけり 忍び忍び/\に上りけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是は早都に着きて 候。如何に案内申し候。筑紫より淡津の 三郎がまゐりて候それ/\御申し候へ。 ツレ「何淡津の三郎と申すか。人までもな し此方へ来り候へ。さて只今は何の為の

御使にてあるぞ。ワキ「さん候面目もなき 御使に参りて候。ツレ「面目もなき御使と は。若し御遁世にてあるか。ワキ「いや御 遁世にても御座なく候。ツレ「過ぎにし筑 紫の軍にも。御つゝがなきとこそ聞きつ るに。ワキ「さん候過ぎにし筑紫の軍にも 御つゝが御座なく候ひしが。清経心に思 し召すやうは。都へはとても帰らぬ道芝 の。雑兵のてにかゝらんよりはと思し召 されけるか。豊前の国柳が浦の沖にして。 更け行く月の夜船より。身を投げ空しく なり給ひて候。ツレ「なに身を投げ空しく なり給ひたるとや。恨めしやせめて討た れもしは又。病の床の露とも消えなば。力 なしとも思ふべきに。我と身を投げ給ふ 事。偽なりつるかねことかな。実に恨み てもそのかひの。なき世となるこそ悲し けれ。地歌「何事もはかなかりける世の中 の。上歌「此程は。人目をつゝむ我宿の。

/\。垣ほの薄吹く風の。声をも立てず 忍音に泣くのみなりし身なれども。今は 誰をか憚の。有明月の夜たゞとも。何か 忍ばん時鳥名をも隠さで。鳴く音かな名 をもかくさで鳴く音かな。 ワキ詞「又船中を見奉れば。御形見に鬢の髪 を残し置かれて候。是を御覧じて御心を 慰められ候へ。ツレ「是は中将殿の黒髪か や。見れば目もくれ心消え。猶も思のま さるぞや。見る度に心尽しの髪なれば。 うさにぞかへす本の社にと。地歌「手向け かへして夜もすがら。涙と共に思寝の。 夢になりとも見え給へと。寝られぬにか たぶくる。枕や恋を。知らすらん枕や恋 を知らすらん。 シテサシ「聖人に夢なし。誰あつて現と見る。 眼裏に塵あつて三界すぼく。心頭無事に して一生ひろし。実にや憂しと見し夢。 つらしと思ふも幻の。いづれ跡ある雲水

の。行くも。帰るも閻浮の故郷に。たど る心の。はかなさよ。転寝に恋しき人を 見てしより。夢てふものは。頼み初めて き。如何にいにしへ人。清経こそ参りて 候へ。ツレ「不思議やなまどろむ枕に見え 給ふは。実に清経にてましませども。正 しく身を投げ給へるが。夢ならで如何で 見ゆべきぞ。よし夢なりとも御姿を。見 みえ給ふぞ有難き。さりながら命を待た で我と身を。捨てさせ給ふ御事は。偽な りけるかねことなれば。唯恨めしう候。 シテ「さやうに人をも恨み給はゞ。我も恨 は有明の。詞「見よとて贈りし形見を ば。何しに返させ給ふらん。ツレ「いやとよ 形見を返すとは。思ひあまりし言の葉の。 見る度に心づくしの髪なれば。シテ詞「う さにぞかへすもとの社にと。さしも贈り し黒髪を。あかずは留むべき形見ぞかし。 ツレ「愚と心得給へるや。慰とての形見

なれども。見れば思の乱髪。シテ「わきて 贈りしかひもなく。形見をかへすはこな たの恨。ツレ「われは捨てにし命の恨。 シテ「互にかこち。ツレ「かこたるゝ。シテ「形 見ぞつらき。ツレ「黒髪の。地歌「恨をさへ に言ひそへて。/\。くねる涙の手枕 を。ならべて二人が逢ふ夜なれど恨むれ ば独寝の。ふし%\なるぞ悲しき。実に や形見こそ。中々憂けれこれなくは。忘 るゝ事もありなんと思ふもぬらす。袂か な思ふもぬらす袂かな。 シテ詞「古の事ども語つて聞かせ申し候 ふべし。今は恨を御晴れ候へ。シテ「さて も九州山鹿の城へも。敵よせ来ると聞き し程に。取る物も取りあへず夜もすがら。 高瀬舟に取り乗つて。豊前の国柳といふ 所に着く。地「実にや所も名を得たる。浦 は並木の柳蔭。いと仮初の皇居を定む。 シテ「それより宇佐八幡に御参詣あるべし

とて。地「神馬七疋。其外金銀種々の捧物。 即ち奉幣のためなるべし。 ツレ「かやうに申せば猶も身の。恨に似た る事なれども。さすがに未だ君まします。 御代のさかひや一門の。果をも見ずして 徒らに。御身一人を捨てし事。誠によしな き事ならずや。シテ「実に/\是は御理 さりながら。頼みなき世のしるしの告。 語り申さん聞き給へ。地「そも/\宇佐八 幡に参籠し。さま%\祈誓怠らず。数の 頼みをかけまくも。忝くも御戸帳の錦の内 よりあらたなる。御声を出してかくば かり。シテ「世の中の。宇佐には神も。な きものを。何祈るらん。心づくしに。地「さ りともと。思ふ心も。虫の音も。弱りは てぬる。秋の暮かな。シテ「さては。仏神 三宝も。地「捨てはて給ふと心細くて。一 門は。気を失ひ力を落して足弱車のす ご/\と。還幸なし奉るあはれなりし有

様。クセ「かゝりける所に。長門の国へも 敵むかふと聞きしかば。また船に取り乗 りていづくともなくおし出す。心の内 ぞあはれなる。実にや世の中の。うつる夢 こそ誠なれ。保元の春の花寿永の英気の紅 葉とて。散々になり浮ぶ。一葉の船なれ や。柳が浦の秋風の。追手がほなる跡の 波白鷺の群れ居る松見れば。源氏の旗を なびかす多勢かと肝を消す。こゝに清経 は。心にこめて思ふやう。さるにても八 幡の。御託宣あらたに心魂に残ることわ り。誠正直の。頭にやどり給ふかと。 唯一筋に思ひ取り。シテ「あぢきなや。と ても消ゆべき露の身を。地「なほ置き顔に 浮草の。波に誘はれ船に漂ひていつまで か。憂き目を水鳥の。沈みはてんと思ひ 切り。人には言はで岩代の待つ事ありや 暁の。月に嘯く気色にて船の舳板に立 ち上り。腰よりやうでう抜き出し。音も

速に吹き鳴らし今様を歌ひ朗詠し。来し 方行く末をかゞみて終にはいつかあだ波 の。帰らぬは古止らぬは心づくしよ。 此世とても旅ぞかし。あら思ひ残さずや と。よそ眼にはひたふる狂人と人や見る らん。よし人は何とも見る眼を仮の夜の 空。西に傾ぶく月を見ればいざや我もつ れんと。南無阿弥陀仏弥陀如来。迎へさせ 給へと。唯一声を最期にて。舟よりかつ ぱと落汐の。底の水屑と沈みゆくうき身 の果てぞ悲しき。ツレ「聞くに心もくれはと り、憂き音に沈む涙の雨の。恨めしかり ける契かな。 シテ「いふならく。奈落も同じ。うたかた の。あはれは誰も。かはらざりけり。 キリ「さて修羅道に。をちこちの。地「さて 修羅道にをちこちの。たづきは敵。雨は 矢先。土は清剣山は鉄城。雲の旗手をつ いて。驕慢の。剣をそろへ。邪見の眼の

光。愛欲貪一通玄道場。無明も法性も。 乱るゝ敵。打つは波。引くは潮。西海四 海の因果を見せて。是までなりや。誠は

最期の十念乱れぬ御法の船に。頼みしま まに。疑もなく実にも心は清経がげにも 心は。清経が仏果を得しこそ有難けれ。 清凉寺の僧 従僧 青墓長者の女 侍女 従者 大夫進源朝長

ワキ詞「これは嵯峨清凉寺より出でたる僧 にて候。さても此度平治の乱に。義朝都 を御ひらき候。中にも大夫進朝長は。美 濃の国青墓の宿にて自害し果て給ひたる 由承り候。我等も朝長の御ゆかりの者に て候ふほどに。急ぎ彼の所に下り。御跡 をも弔ひ申さんと思ひ立ちて候。道行三人「近 江路や。瀬田の長橋うちわたり。/\。 なほ行くすゑは鏡山。老曽の森を打ち過 ぎて。末に伊吹の山風の。不破の関路を 過ぎ行き青墓の宿に。着きにけり青墓の 宿に着きにけり。

シテツレ二人次第「花の跡訪ふ松風や。/\。雪に も恨みなるらん。シテサシ「これは青墓の長者に て候。三人「それ草の露水の泡。はかなき 心のたぐひにも。哀をしるは習なるに。 これは殊更思はずも。人の嘆を身のうへ に。かゝる涙の雨とのみ。しをるゝ袖の 花薄。穂に出すべき言の葉も。なくば かりなる。ありさまかな。下歌「光の陰を 惜めども。月日の数は程ふりて。上歌「雪 の中。春は来にけりうぐひすの。/\。 氷れる涙今は早。解けても寝ざれば夢に だに御面影の見えもせで。痛はしかりし

有様を思ひ出づるも。あさましや思ひ出 づるもあさましや。 シテ詞「ふしぎやなこの御墓所へ我ならで は。七日々々に参り。御跡弔ふ者もなき に。旅人と見えさせ給ふ御僧の。涙を流 し懇に弔ひ給ふは。如何なる人にてま しますぞ。ワキ詞「さん候これは朝長の御 ゆかりの者にて候ふが。御跡弔ひ申さん ためこれまで参りて候。シテ「御ゆかりと はなつかしや。さて朝長の御ため如何な る人にてましますぞ。ワキ「これは朝長の 御めのと。何某と申す者にて候ひしが。 さる事有りて御暇たまはり。はや十箇年 に余り。かやうの姿となりて候。とくに も罷り下り。御跡弔ひ申したくは候ひつ れども。怨敵のゆかりをば。出家の身を も許さねば。抖〓{ソウ:大漢和12912}行脚に身をやつし。忍 びて下向仕りて候。シテ「さては取り分 きたる御なじみ。さこそは思し召すらめ。

わらはも一夜の御宿に。あへなく自害し 果て給へば。たゞ身のなげきの如くに て。かやうに弔ひ参らせ候。ワキ「実に痛 はしや我とても。もと主従の御契。是も 三世の御値遇。シテ「わらはも一樹の蔭の 宿。他生の縁と聞く時は。実にこれとて も二世の契の。ワキ「今日しも互にこゝに きて。シテ「弔ふ我も。ワキ「朝長も。地歌「死 の縁の。処も逢ひに青墓の。/\。跡の しるしか草の蔭の。青野が原は名のみし て古葉のみの春草は。さながら秋の浅茅 原。荻の焼原の跡までも。げに北〓{ホウ:大漢和39282}の夕煙

一片の。雲となり消えし空は色も。形も なき跡ぞあはれなりけるなき跡ぞあはれ なりける。 ワキ詞「いかに申し候。朝長の御最期の有様 委しく語つて御聞かせ候へ。シテ語「申すに つけて痛はしや。暮れし年の八日の夜に 入りて。門を荒けなく敲く音す。誰なるら んと尋ねしに。鎌田殿と仰せられしほど に門を開かすれば。武具したる人四五人 内に入り給ふ。義朝御親子。鎌田金王 丸とやらん。わらはを頼みおぼしめす。 明けなば川船にめされ。野間の内海へ御 落あるべきとなり。又朝長は。都大崩 にて膝の口を射させ。とかく煩ひ給ひし が。夜更け人静まつて後。朝長の御声に て。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と二声の たまふ。鎌田殿まゐり。こはいかに朝長 の御自害候ふと申させ候へば。義朝驚き 御覧ずれば。はや御肌衣も紅に染みて。

目もあてられぬ有様なり。其時義朝。何 とて自害しけるぞと仰せられしかば。朝 長息の下より。さん候都大崩にて膝 の口を射させ。既に難儀に候ひしを。馬 にかゝりこれまでは参り候へども。今は 一足も引かれ候はず。路次にて捨てられ 申すならば。犬死すべく候。唯返す%\ 御先途をも見届け申さで。かやうになり ゆき候ふ事。さこそいひかひなき者と。 おぼしめされ候はんずれども。道にて敵 に逢ふならば。雑兵の手にかゝらん事。あ まりに口惜しう候へば。是にてお暇たま はらんと。地「これを最期のお言葉にて。 こときれさせ給へば。義朝正清とりつき て。嘆かせ給ふ御有様は。よその見る目 も哀れさをいつか忘れん。歌「悲しきかな や。形をもとむれば。苔底が朽骨見ゆるも の今は更になし。さてその声を尋ぬれば。 草径が亡骨となつて答ふるものも更にな

し。三世十方の。仏陀の聖衆もあはれむ 心あるならば。亡魂幽霊もさこそうれし と思ふべき。 地下歌「かくて夕陽影うつる。/\。雲たえ だえに行く空の。青野が原の露分けて。 かの旅人を伴ひ青墓の宿に。帰りけり青 墓の宿に帰りけり。 シテ詞「御僧に申し候。見ぐるしく候へど も。暫くこれに御逗留候ひて。朝長の御 跡を御心しづかに弔ひ参らせられ候へ。 ワキ詞「誠に御志有難う候。暫くこれに候 ふべし。シテ「誰かある罷り出でて。御僧に 宮仕へ申し候へ。中入間「。 ワキ「さても幽霊朝長の。仏事はさま%\ おほけれども。ワキツレ「とりわき亡者の尊み 給ひし。ワキ「観音懺法読みたてまつり。 三人待謡「声満つや。法の山風月ふけて。/\。 光やはらぐ春の夜の。眠を覚ます〓{ハツ:大漢和40271}鼓。 時も移るや後夜の鐘。音澄みわたるをり

からの。御法の夜声感涙も。浮ぶばかり の。気色かな浮ぶばかりの気色かな。 後シテ出端「あらありがたの懺法やな。昔在霊山 名法華。今在西方名阿弥陀。娑婆示現観 世音。三世利益同一体。まことなるかな。 誠なるかな。頼もしや。きけば妙なる法 の御声。地「吾今三点。シテ「楊枝浄水唯願 薩〓{タ:大漢和05190}と。地「心耳を澄ませる。玉文の瑞 諷。感応肝に銘ずるをりから。シテ「あら 尊の弔やな。 ワキ「ふしぎやな観音懺法声すみて。灯の 影幽なるに。まさしく見れば朝長の。影の 如くに見え給ふは。若し/\夢か幻か。 シテ「もとより夢幻の仮の世なり。その 疑を止め給ひて。なほ/\御法を講じ 給へ。ワキ「げに/\かやうにま見え給ふ も。偏に法の力ぞと。念の珠の数くりて。 シテ「声を力にたよりくるは。ワキ「まこと の姿か。シテ「幻かと。ワキ「見えつ。シテ「か

くれつ。ワキ「面影の。地歌「あはれとも。 いはゞ形や消えなまし。/\。消えずは いかで灯を。背くなよ朝長を共にあはれ みて。深夜の。月も影そひて光陰を惜み 給へや。げにや時人を。待たぬ浮世のな らひなり。唯何事もうち捨てゝ。御法を 説かせ給へや。/\。 シテクリ「それ朝に紅顔あつて。世路にほこる といへども。地「夕には白骨となつて郊原 に。朽ちぬ。シテサシ「昔は源平左右にして。 朝家を守護し奉り。地「御代を治め国家を 鎮めて。万機の政すなほなりしに。保 元平治の世の乱。いかなる時か来りけん。 シテ「思はざりにし。弓馬の騒。地「ひとへ に時節到来なり。クセ「さる程に嫡子悪源 太義平は。石山寺に籠りしを。多勢に無勢 かなはねば。力なく生捕られて終に誅せ られにけり。三男。兵衛の佐をば弥平兵 衛が手にわたりこれも都へぞ捕られけ

る。父義朝はこれよりも。野間の内海に 落ちゆき長田を頼み給へども。頼む。木 のもとに雨もりてやみ/\と討たれ給ひ ぬ。いかなれば長田は云ひかひなくて主 君をば。討ち奉るぞや。如何なれば此 宿の。あるじはしかも女人のかひ%\し くも。頼まれて一夜の情のみか。かやう に跡までも。御弔になる事は。シテ「そ も/\いつの世の契ぞや。地「一切の男子 をば。生々の父と頼み。万の女人を生々 の母と思へとは今身の上に知られたり。 さながら親子の如くに。御嘆あれば弔 も。誠に深き志。請け。よろこび申すな り。朝長の後生をも御心やすくおぼし めせ。 ロンギ地「げに頼むべき一乗の。功力ながら になどされば。いまだ瞋恚の甲冑の。御 有様ぞいたはしき。シテ「梓弓。もとの身 ながら玉きはる。魂は善所におもむけど

も。魄は。修羅道に残つてしばし苦を 受くるなり。地「そも/\修羅の苦患と は。いかなる敵に合竹の。シテ「此世にて 見しありさまの。地「源平両家。シテ「入り 乱るゝ。地「旗は白雲紅葉の。散りまじり 戦ふに。運の。極の悲しさは。大崩に て朝長が。膝の口を。のぶかに射させて 馬の。太腹に。射つけらるれば。馬は頻 に跳ねあがれば。鐙をこして。下り立 たんと。すれども難儀の手なれば。一足 も。ひかれざりしを。乗替に。かきのせら れて。憂き近江路を。しのぎ来て此の青墓 に下りしが。雑兵の手にかゝらんよりは と思ひさだめて。腹一文字に。かき切つ て。其まゝに。修羅道にをちこちの。土 となりぬる青野が原の。亡き跡とひて。 たびたまへ亡き跡を。弔ひてたび給へ。 里女

ワキ次第「行けば深山も・麻裳{あさも}よい。/\。木曽路 の旅に出でうよ。ワキ詞「これは木曽の山家 より出でたる僧にて候。われ未だ都を 見ず候ふ程に。此度思ひ立ち都に上り候。 道行「旅衣。木曽の・御坂{みさか}を遥々と。/\。思 ひ立つ日も美濃尾張。定めぬ宿の暮ごと に。夜を重ねつゝ日を添へて。行けば程 なく近江路や・鳰{にほ}の海とは。これかとよ。 /\。詞「急ぎ候ふ程に。江州粟津の原と やらんに着きて候。此所に暫く休らはば やと思ひ候。シテサシ会釈「面白や鳰の浦波静か なる。粟津の原の松蔭に。神を・斎{いは}ふやまつ りごと。げに神感も頼もしや。ワキ詞「不思 議やなこれなる・女性{によしやう}の神に参り。涙を流 し給ふ事。返す/\も不審にこそ候へ。

シテ「御僧はみづからが事を仰せ候ふか。 ワキ「さん候神に参り涙を流し給ふ事を 不審申して候。シテ「おろかと不審し給ふ や。伝へ聞く行教和尚は。宇佐八幡に 詣で給ひ一首の歌に曰く。何事のおはし ますとは知らねども。詞「忝さに涙こぼ るゝと。かやうに詠じ給ひしかば。神も 哀とや思し召されけん。・御衣{おんころも}の袂に・御影{みかげ} をうつし。それより都男山に誓を示し 給ひ。国土安全を守り給ふ。ワキ「やさしやな女性なれ どもこの里の。都に近き住居とて。名に しおひたるやさしさよ。シテ詞「さて/\御僧 の住み給ふ。在所はいづくの国やらん。 ワキ「これは信濃の国木曽の山家の者にて

候。シテ「木曽の山家の人ならば。粟津が 原の神の御名を。問はずは如何で知り給 ふべき。これこそ御身の住み給ふ。木曽 義仲の御在所。同じく神と斎はれ給ふ。 拝み給へや旅人よ。ワキ「不思議やさては 義仲の。神とあらはれこの処に。ゐまし 給ふは有難さよと。神前に向ひ手を合は せ。地上歌「古の。これこそ君よ名は今も。 /\。有明月の義仲の。仏と現じ神とな り。世を守り給へる誓ぞ。有難かりけ る。旅人も一樹の蔭。他生の縁とおぼし めし。この松が根に旅居し夜もすがら経 を読誦して。・五衰{ごすゐ}を。慰め給ふべし。有 難き・値遇{ちぐう}かなげに有難き値遇かな。さる ほどに暮れて行く日も山の端に。入相の 鐘の音の。・浦回{うらわ}の波に響きつゝ。いづれ も物凄き折節に。われも亡者も来りたり。 その名をいづれとも。知らずはこの里人 に。問はせ給へと夕暮の草のはつかに入

りにけり/\。中入間「。 ワキ上歌待謡「露をかたしく草枕。/\。日も暮 れ夜にもなりしかば。粟津が原のあはれ 世の。・亡影{なきかげ}いざや。弔はん/\。後シテ一声「落花 空しきを知る。流水心無うしておのづか ら。すめる心はたらちねの。地「罪も報 も因果の・苦{くるしみ}。今は浮まん御法の功力に 草木国土も成仏なれば。況や生ある・直道{ぢきだう}の 弔。かれこれ何れも頼もしや。頼もしや あら有難や。 ワキ「不思議やな粟津が原の草枕を。見れ ば有りつる女性なるが。甲胄を帯する不 思議さよ。シテ詞「なか/\に巴といひし 女武者。女とて御最後に。召し具せざりし そのうらみ。ワキ「執心残つて今までも。 シテ「・君辺{くんべん}に仕へ申せども。ワキ「怨みは猶 も。シテ「荒磯海の。地「粟津の汀にて。波 の討死・末{すゑ}までも。御供申すべかりしを。 女とて御最後に。捨てられ参らせし恨め

しや。身は恩のため。・命{めい}は義による理。 誰か・白真弓取{しらまゆみとり}の身の。最後に臨んで功名 を。惜まぬ者やある。 クセ「さても義仲 の。信濃を出で させ給ひしは。 五万余騎の御勢・轡{くつばみ}をならべ攻 め上る。礪波山 や倶利伽羅志保 の合戦に於て も。分捕功名の その数。誰に面 を越され誰に劣 る振舞の。なき ・世語{よがたり}に。名をを し思ふ心かな。 シテ「されども時刻の到来。地「・運{うん}・槻弓{つきゆみ}の引 く方も。渚に寄する粟津野の。草の露霜

と消え給ふ。所はこゝぞお僧達。同所の 人なれば順縁に・弔{と}はせ給へや。ロンギ「さて 此原の合戦にて。討たれ給ひし義仲の。 最後を語りおはしませ。シテ「頃は睦月の 空なれば。地「雪はむら消に残るをたゞ

かよひぢと汀をさして。駒をしるべに落 ち給ふが。薄氷の深田に駆けこみ。弓手 も馬手も鐙は沈んでおりたゝん便もな くて。手綱にすがつて鞭を打てども。引 く方もなぎさの浜なり前後を・忘{ほう}じて控へ 給へり。こは如何に浅ましや。かゝりし 所にみづから駆けよせて見奉れば。重手 はおひ給ひぬ乗替に召させ参らせ。この 松原に御供し。はや御自害候へ。巴も供 と申せば。その時義仲の仰には。汝は女 なり。しのぶ便もあるべし。これなる ・守小袖{まもりこそで}を。木曽に届けよこの旨を。背か ば主従三世の契絶えはて。ながく不興 とのたまへば。巴はともかくも。涙にむ せぶばかりなり。 かくて御前を立ち上り。見れば・敵{かたき}の大勢 あれは巴か女武者。余すな漏らす なと。・敵手{かたきて}繁くかゝれば。今は引くとも 遁るまじ。いで・一軍{ひといくさ}嬉しやと。巴少しも

騒がすわざと敵を近くなさんと。薙刀引 きそばめ。少し怒るゝ気色なれば、敵は 得たりと。切つてかゝれば。薙刀・柄{え}長く おつ取りのべて。・四方{しほう}を払ふ・八方払{はつぱうばらひ}。 一所に当る木の葉返し。嵐も落つるや花 の・瀧波{たきなみ}枕をたゝんで戦ひければ。皆一方に。切り立てられて跡も遥に見えざりけ り。/\。 シテ「今はこれまでなりと。地「立ち帰り我 が君を。見たてまつればいたはしや。は や御自害候ひて。この松が根に伏し給ひ 御枕のほどに御小袖。肌の守を置き給ふ

を。巴泣く/\賜はりて。死骸に御暇申 しつゝ。行けども悲しや行きやらぬ。君 の名残を如何にせん。とは思へどもくれ ぐれの。御遺言の悲しさに。粟津の汀に 立ちより。上帯切り。物の具心静かに脱 ぎ置き。梨打烏帽子同じく。かしこに脱 ぎ捨て。御小袖を引きかづき。その際ま での・佩添{はきそ}への。小太刀を・衣{きぬ}に引き隠し。 処はこゝぞ近江なる。・信楽笠{しがらきがさ}を木曽の里 に。涙と巴はたゞひとり落ち行きしうし ろめたさの執心を・弔{と}ひてたび給へ/\。 蓮生上人 草刈男 同上 平敦盛の霊

ワキ次第「夢の世なれば驚きて。/\。捨つる や現なるらん。詞「これは武蔵の国の住 人。熊谷の次郎直実出家し。・蓮生{れんせい}と申す

法師にて候。さても敦盛を手に懸け申し し事。余りに御痛はしく候ふ程に。かや うの姿となりて候。又これより一の谷に

下り。敦盛の御菩提を弔ひ申さばやと思 ひ候。道行「九重の。雲井を出でて行く月 の。/\。南に廻る小車の淀山崎を打ち 過ぎて。昆陽{こや}の池水生田川波こゝもと や須磨の浦一の谷にも着きにけり一の谷 にも着きにけり。詞「急ぎ候ふ程に。津の 国一の谷にも着きて候。誠に昔の有様今の やうに思ひ出でられて候。又あの上野に 当つて笛の音の聞え候。此人を相待ち。 此あたりの事ども委しく尋ねばやと思 ひ候。 シテツレ次第「草刈笛の声添へて。/\吹くこそ 野風なりけれ。シテサシ「かの岡に草刈る男野 を分けて。帰るさになる夕まぐれ。二人「家 路もさぞな須磨の海。すこしが程の通路 に。山に入り浦に出づる。憂き身の業こそ 物うけれ。下歌「問はゞこそひとりわぶと も答へまし。上歌「須磨の浦。もしほ誰とも 知られなば。/\。我にも友のあるべき

に。余りになればわび人の親しきだにも 疎くして。住めばとばかり思ふにぞ憂き にまかせて過すなり憂きにまかせて過す なり。 ワキ詞「如何に是なる草刈達に尋ね申すべ き事の候。シテ詞「此方の事にて候ふか何事 にて候ふぞ。ワキ「唯今の笛はかた%\の 中に吹き給ひて候ふか。シテ「さん候我 等が中に吹きて候。ワキ「あらやさしや其 身にも応ぜぬわざ。返す%\もやさしう こそ候へ。シテ「其身にも応ぜぬ業と承れ ども。夫れ優るをも羨まざれ。劣るをも 賎しむなとこそ見えて候へ。其上樵歌牧 笛とて。シテツレ「草刈の笛樵の歌は。歌人の 詠にも作りおかれて。世に聞えたる笛竹 の。不審を為させ給ひそとよ。ワキ「実に 実にこれは理なり。さて/\樵歌牧笛と は。シテ「草刈の笛。ワキ「樵の歌の。シテ「憂 き世を渡る一節を。ワキ「歌ふも。シテ「舞

ふも。ワキ「吹くも。シテ「遊ぶも。地歌「身 の業の。好ける心に寄竹の。/\。小枝 蝉折さま%\に。笛の名は多けれども。 草刈の 吹く笛ならばこれも名は。青葉の 笛と思し召せ。住吉の汀ならば高麗笛に やあるべき。これは須磨の塩木の海人の 焼きさしと思しめせ海人焼きさしと思 しめせ。 ワキ詞「ふしぎやな。余の草刈達は皆々帰り 給ふに。御身一人とゞまり給ふ事。何の 故にて有るやらん。シテ「何の故とか夕波 の。声を力に来りたり。十念授けおはし ませ。ワキ「やすき事十念をば授け申すべ し。それにつけてもおことは誰そ。シテ「誠 は我は敦盛の。ゆかりの者にて候ふなり。 ワキ「ゆかりと聞けばなつかしやと。掌 を合はせて南無阿弥陀仏。シテワキ二人「若我成 仏十方世界。念仏衆生摂取不捨。地「捨て させ給ふなよ。一声だにも足りぬべきに

毎日毎夜の御弔。あら有難や我が名をば。 申さずとても明暮に。向ひて回向し給へ る。其名は我と言ひ捨てゝ姿も見えず。失 せにけり姿も見えず失せにけり。中入間「。 ワキ歌待謡「これに付けても弔の。/\。法 事をなして夜もすがら。念仏申し敦盛の。 菩提をなほも弔はん/\。 後シテ一声「淡路潟かよふ千鳥の声きけば。寝覚 も須磨の。関守は誰そ。如何に蓮生。敦 盛こそ参りて候へ。ワキ「不思議やな・鳧鐘{ふしよう} を鳴らし法事をなして。まどろむ隙もな き所に。敦盛の来り給ふぞや。さては夢 にて有るやらん。シテ詞「何しに夢にて有る べきぞ。現の因果を晴らさん為に。これ まであらはれ来りたり。ワキ「うたてやな 一念弥陀仏即滅無量の。罪障を晴らさん 称名の。法事を絶えせず弔ふ功力に。 何の因果は荒磯海の。シテ「深き罪をも訪 ひ浮べ。ワキ「身は成仏の得脱の縁。シテ「こ

れ又他生の功力なれば。ワキ「日頃は敵。 シテ「今は又。ワキ「誠に法の。シテ「友なり けり。地「これかや悪人の友を振り捨て て。善人の敵を招げ?とは。御身の事か有 難や。有難し/\。とても懺悔の物語夜 すがらいざや。申さん夜すがらいざや申 さん。 地クリ「夫れ春の花の樹頭に上るは。上求菩 提の機をすゝめ。秋の月の水底に沈むは。 下化衆生の。形を見す。シテサシ「然るに一門 門を並べ。累葉枝を連ねし粧。地「誠に槿 花一日の栄に同じ。善を勧むる教には。逢 ふ事かたき石の火の。光の間ぞと思はざ りし身の習はしこそはかなけれ。シテ「上 に在つては。下を悩まし。地「富んでは驕 を。知らざるなり。クセ「然るに平家。世を 取つて二十余年。誠に一昔の。過ぐるは 夢の中なれや。寿永の秋の葉の。四方の 嵐に誘はれ散々になる一葉の。舟に浮き 波に臥して夢にだにも帰らず。籠鳥の雲 を恋ひ。帰雁列を乱るなる。空定なき旅 衣。日も重なりて年月の。立ち帰る春 の頃此一の谷に籠りてしばしはこゝに須 磨の浦。シテ「うしろの山風吹き落ちて。 地「野もさえかへる海ぎはに。舟のよると なく昼となき。千鳥の声も我が袖も。波 にしをるゝ磯枕。海人の苫屋に共寝して 須磨人にのみ磯馴松の。立つるや夕煙柴 と云ふもの折り敷きて。思を須磨の山 里の。かゝる処に住居して。須磨人にな りはつる一門の果ぞかなしき。 シテ詞「さても二月六日の夜にもなりしか ば。親にて候ふ経盛我等を集め。今様を うたひ舞ひ遊びしに。ワキ「さては其夜の 御遊なりけり。城の内にさもおもしろき 笛の音の。寄手の陣まで聞えしは。シテ「そ れこそさしも敦盛が。最期まで持ちし笛 竹の。ワキ「音も一節をうたひ遊ぶ。シテ「今

様朗詠。ワキ「声々に。地「拍子を揃へ声を あげ。中ノ舞「。 シテ「さる程に。御舟をはじめて。地「一門 皆々船に浮めば。乗りおくれじと。汀に うちよれば。御座舟も兵船も遥にのび給 ふ。シテ「せんかた波に駒をひかへ。あ きれはてたる有様なり。かゝりける所に。 地「うしろより。熊谷の次郎直実。のがさ じと。追つ懸けたり敦盛も。馬引き返し。

波の打物ぬいて。二打三打は打つとぞ見 えしが馬の上にて引つ組んで。波打際に。 落ち重なつて。終に。討たれて失せし身 の。因果は廻りあひたり敵はこれぞと討 たんとするに。仇をば恩にて。法師の念 仏して弔はるれば。終には共に。生るべ き同じ蓮の蓮生法師。敵にては無かりけ り跡弔ひてたび給へ跡弔ひてたびたへ。 敦盛遺子 平敦盛 法然上人の従者

ワキ詞「これは黒谷法然上人に仕へ申す者 にて候。又これにわたり候ふ人は。或る時 上人賀茂へ御参詣御下向の時。さがり松 の下に二歳ばかりなる男子の美しきを。 手箱の蓋に入れ尋常に拵へ捨ておきて候 ふを。上人不便に思しめされ抱かせ御帰

候ひて。色々育て給ひ候ふ程に。はや 十歳に御余り候。父母のなき事を嘆き給 ひ候ふ程に。説法の後此事を御物語り候 へば。聴衆の内より若き女性の走り出で。 我が子にて候ふ由仰せ候ふを。密に御尋 ね候へば。一年一の谷にて討たれ給ひし

敦盛の御子にておはしまし候。此事を聞 き給ひて。夢になりとも父の姿を見せて 賜はり候へと。賀茂の明神へ祈誓有るべ き由仰せられ候ひて。一七日詣で給ひ。今 日は早満参にて候ふ程に。同道申し賀茂の 明神へ。参詣申し候。これは早賀茂の明神 にて御座候。よく/\御祈誓候らへ。 子方サシ「ありがたや処からなる御社の。あけ の玉垣神さびて。心も澄める御手洗の。ふ かき恵を頼むなり。下歌「夢になりともた らちねの其面影を見せ給へ。かくばかり。 祈る心の末遂げば。/\。恵になどか洩 るべきと。誓糺の神ともに。願ひ適へお はしませ/\。 子方詞「あら不思議や。少し・睡眠{すゐめん}のうちに。 あらたに御霊夢を蒙りて候。ワキ「あらめ でたやな御霊夢のやうを御物語り候へ。 子方「あの御宝殿のうちよりも。あらたな る御声にて。汝夢になりとも父を見んと

思はゞ。これより津の国生田の森へ下れ と。あらたに霊夢を蒙りて候。ワキ「是は 不思議なる事にて候ふものかな。黒谷へ 御帰あるまでもなく候。これより生田 の森へ御供申し候ふべし。軈て思しめし 立ち候へ。道行「山陰の。賀茂の宮居を立ち いでて。/\。急ぐ行方は山崎や。霧立ち 渡る水無瀬川。風も身にしむ旅衣。秋は 来にけりきのふだに。訪はんと思ひし津 の国の。生田の森に着きにけり/\。 ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。これは早津の国生 田の森にて候。森の気色川の流。都にて 承り及びたるにもいや勝りて面白き名所 にて候。あれに見えたる野辺は生田の小 野にてもや候ふらん。立ち寄り眺めばや と思ひ候。こゝかしこを眺め候ふ程に。 はや日の暮れて候ふはいかに。あれに灯 火の影の見えて候ふは人家にてありげに 候。立ち寄り宿を借らばやと思ひ候。

シテサシ「五薀もとよりこれ皆空。何によつて 平生此身を愛せん。躯を守る幽魂は夜月 に飛び。屍を失ふぐ魄は秋風に嘯く。あ ら心すごのをりからやな。 ワキ「不思議やなこ れなる草の庵の内 に。さも花やかな る若武者の。甲冑 を帯し見え給ふぞ や。これはいか なる事やらん。 シテ「愚の人の心や な。詞「面々これま で来り給ふも。わ れに対面のためな らずや。恥かしながら古の。敦盛が幽 霊来りたり。子方「なう敦盛とは我が父か と。身にも覚えず走りより。地「袂にすが りたえこがれ。/\。なく音に立つる鴬

の。逢ふ事の嬉しさも。憂き身にあまる ばかりなり。かくは思へど頼まれぬ。夢 の契を。現に返すよしもがな。 シテサシ「無慙やな忘れ形見の撫子の。花やか なるべき身なれども。衰へはつる墨染の。 袂を見るこそ哀なれ。さても御身孝行の 心深き故。賀茂の明神に歩を運び。夢に なりとも我が父の。姿を見せてたび給へ

と祈誓申す。明神憐みおはしまし。閻 王に仰せつかはさる。閻王仰を承り。 暫の暇を賜はるなり。親子の契も今を限 なるべし。地「更け行く月の夜もすがら昔 をいざや語らん。クセ「然るに平家の。栄花 を極めしその始。花鳥風月の戯詩歌管 絃の様々に。春秋を送り迎へしに。いかな るをりか来りけん。木曽のかけはし懸け てだに。思はぬ。敵に落されて。主上を始 め奉り一門の人も悉く。花の都を立ち出 で西海の空に赴きぬ。習はぬ旅の道すが ら。山を越え海を渡り。暫は天ざかる。 鄙の住まひの身なりしに。又立ち帰る浦 波の。須磨の山路や一の谷。生田の森に 着きしかば。こゝは都も程近しと。一門 の人々も喜をなしゝをりふしに。シテ「範 頼義経のその勢。地「雲や霞の如くにて。 しばらく戦ふといへども平家は運も槻弓 の。弥猛心も弱々と。皆散々になりはて

て。哀も深き生田川の。身を捨てし物 語。語るぞよしなかりける。 シテ「嬉しやな夢の契の仮初ながら。親子 鸚鵡の袖ふれて。地「名残つきせぬ心か な。中ノ舞「。 シテ詞「あれに見えたるはいかなる者ぞ。 なに閻王よりの御使とや。片時の暇とあ りつるに。今までの遅参心得ずと。閻王 怒らせ給ふぞと。地「言ふかと見れば不思 議やな。/\。黒雲俄に立ち来り。・猛火{みやうか} を放ち。剣を降して。其数知らざる修羅の 敵。天地を響かし満ち/\たり。シテ「物 物しあけくれに。地「馴れつる修羅の。敵 ぞかしと。太刀真向に。さしかざし。こ こやかしこに走り廻り。火花を散して戦 ひしが。暫くありて黒雲も。次第に立 ち去り修羅の敵も忽ち消え失せて。月 澄み渡りて明々たる暁の空とぞなりたり ける。シテ「恥かしや子ながらも。地「かく

苦をみる事よ。急ぎ帰りてなき跡をね んごろに弔ひてたび給へと。泣く/\袂 を引き別れ。立ち去る姿はかげろふの。 小野の浅茅の露霜と形は消えて失せにけ り/\。 旅僧 里の女 六条御息所の霊

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我此 ほどは都に候ひて。洛陽の名所旧跡残な く一見仕りて候。また秋も末になり候へ ば。嵯峨野の・方{かた}ゆかしく候ふ間。立ちこ え一見せばやと思ひ候。これなる森を人 に尋ねて候へば。野の宮の旧跡とかや申 し候ふほどに。逆縁ながら一見せばやと 思ひ候。われ此森に来て見れば。・黒木{くろぎ}の 鳥居小柴垣。昔にかはらぬ有様なり。こ はそも何といひたる事やらん。よし/\ かゝる時節に参りあひて。拝み申すぞあ りがたき。下歌「伊勢の神垣隔なく。・法{のり}の 教の道すぐに。こゝに尋ねて宮所心も 澄める。夕かな心も澄める夕かな。

シテ次第「花に馴れ来し野の宮の。/\。秋 より後は如何なら ん。サシ「をりしも あれ物のさみしき 秋暮れて。なほし をりゆく袖の露。 身を砕くなる夕ま ぐれ。心の色はお のづから。・千草{ちぐさ}の 花にうつろひて。 衰ふる身のならひ かな。下歌「人こそ 知らね今日ごとに昔の跡に立ち帰り。 上歌「野の宮の。森の・木枯{こがらし}秋ふけて。/\。

身にしむ色の消えかへり。思へば・古{いにしえ}を 何と忍ぶの草衣。来てしもあらぬ仮の世 に。行き帰るこそ。恨なれゆきかへるこ そ恨なれ。 ワキ詞「われ此森の陰に居て古を思ひ。心 を澄ますをりふし。いとなまめける・女性{によしやう} 一人忽然と来り給ふは。いかなる人にて ましますぞ。シテ詞「いかなる者ぞと問は

せ給ふ。そなたをこそ問ひ参らすべけれ。 是は古・斎宮{さいぐう}に立たせ給ひし人の。仮に移 ります野の宮なり。然れども其後は此事 絶えぬれども。長月七日の今日は又。昔 を思ふ年々に。人こそ知らね宮所を清め。 御神事をなす所に。行方も知らぬ御事な るが。来り給ふははゞかりあり。とく/\ 帰り給へとよ。ワキ詞「いや/\これは苦 しからぬ。身の行末も定なき。世を捨人 の数なるべし。さて/\こゝは・旧{ふ}りにし 跡を今日毎に。昔を思ひ給ふ。いはれはい かなる事やらん。シテ詞「光源氏この処に 詣で給ひしは。長月七日の日けふに当れ り。其時いさゝか持ち給ひし榊の枝を。 ・忌垣{いがき}の内にさし置き給へば。・御息所{みやすどころ}とり あへず。神垣はしるしの杉もなきもの を。詞「いかにまがへて折れる榊ぞと。よ み給ひしも今日ぞかし。ワキ「げに面白き 言の葉の。今持ち給ふ榊の枝も。昔にかは

らぬ色よなう。シテ詞「昔にかはらぬ色ぞ とは。榊のみこそ常磐の陰の。ワキ「森の ・下道{したみち}秋暮れて。シテ「・紅葉{もみぢ}かつ散り。ワキ「・浅茅{あさぢ} が原も。歌地「うらがれの。草葉に荒る る野の宮の/\。跡なつかしきこゝにし も。其長月の・七日{なぬか}の日も。今日にめぐり 来にけり。ものはかなしや小柴垣いとか りそめの・御住居{おんすまい}今も・火焼{ひたき}屋のかすかな る。光は我が・思{おもい}内にある色や外に見えつ らん。あらさ・び{ミ}し宮所あらさびし此宮所。 ワキ「なほ/\御息所のいはれ懇に御 物語り候へ。クリ地「そも/\此御息所と申 すは。桐壺の帝の・御弟{おんおとゝ}。・前坊{ぜんぼう}と申し奉り しが。時めく花の色香まで妹背の心浅か らざりしに。シテサシ「・会者定離{えしやぢやうり}のならひもと よりも。地「驚くべしや夢の世と。程なく おくれ給ひけり。シテ「さてしもあらぬ身 の露の。地「光源氏のわりなくも忍び/\ に行き通ふ。シテ「心の末の。などやらん。

地「また絶々の中なりしに。クセ「つらき ものには。さすがに思ひ果て給はず。遥 けき野の宮に。分け入り給ふ御心。いと 物あはれなりけりや。秋の花みな衰へて 虫の声もかれ%\に松吹く風の響まで も。さびしき道すがら秋の哀しみも果な し。かくて君こゝに。詣でさせ給ひつゝ。 情をかけて様々の。言葉の露も。色々の 御心の内ぞあはれなる。シテ「其後桂の御 祓。地「・白木綿{しらゆふ}かけて川波の。身は浮草の よるべなき心の水に誘はれて。ゆくへも 鈴鹿川・八十瀬{やそせ}の波にぬれ/\ず。伊勢ま で誰か思はんの。言の葉は添ひゆく事も ためしなきものを。親と子の。多気の都 路に赴きし心こそ。恨なりけれ。 ロンギ地「げにやいはれを聞くからに。唯 人ならぬ御気色。其名を名のり給へや。 シテ「名のりても。かひなき身とてはづ かしの。もりてやよそに知られまし。よ

しさらば其名もなき身とぞ問はせ給へ や。地「なき身と聞けば不思議やな。さて は此世をはかなくも。シテ「去りて久しき 跡の名の。地「御息所は。シテ「我なりと。 地「夕暮の秋の風。森の・木{こ}の間の・夕月夜{ゆうづくよ}。 影かすかなる木の下の。黒木の。鳥居の ・二柱{ふたばしら}に立ちかくれて失せにけり跡たちか くれ失せにけり。中入間「。 ワキ歌待謡「かたしくや。森の木蔭の苔衣。 /\。同じ色なる草むしろ。思を述べて 夜もすがら。かの御跡を。弔ふとかやか の御跡を弔ふとかや。 後シテ一声「野の宮の。秋の千草の。花車。 われも昔に。めぐり来にけり。ワキ「ふしぎ やな月の光も幽かなる。車の音の近づく 方を。見れば・網代{あじろ}の・下{した}すだれ。思ひかけ ざる有様なり。いかさま疑ふ所もなく。 御息所にてましますか。さもあれ如何な る車やらん。シテ詞「いかなる車と問はせ給

へば。思ひ出でたりその昔。シテカカル「加茂の祭の車 ・争主{あらそひぬし}は誰とも・白露{しらつゆ}の。ワキ「所せきまで 立てならぶる。シテ「物見車のさま%/\に 殊に時めく葵の上の。ワキ「・御車{おんぐるま}とて人を 払ひ。立ちさわぎたる其中に。シテ「身は ・小車{おぐるま}の遣る方もなしと答へて立て置きた る。ワキ「車の前後に。シテ「ばつと寄り て。地歌「人々・轅{ながえ}に取り付きつゝ人だまひ の奥に。押しやられて物見車の力もなき 身の程ぞ思ひ知られたる。よしや思へば 何事も・報{むくい}の罪によも洩れじ。身はなほ牛 の。小車のめぐり/\来ていつまでぞ妄 執を晴し給へや妄執を晴し給へや。 シテ「昔を思ふ。花の袖。地「月にと返す。

気色かな。序ノ舞「。シテ「野の宮の。月も昔や。 思ふらん。地「影さびしくも森の下露森の 下露。シテ「身の置き処も。あはれ昔の。 地「庭のたゝずまひ。シテ「よそにぞかは る。地「気色も仮なる。シテ「小柴垣。地「露う ちはらひ。訪はれし我も其人も。唯夢の 世とふりゆく跡なるに・誰{たれ}松虫の・音{ね}は。り ん/\として風茫々たる。野の宮の夜す がら。なつかしや。破ノ舞「。地「こゝはもとより 忝くも。神風や。伊勢の・内外{うちと}の鳥居に 出で入る姿は・生死{しやうぢ}の道を。神は受けずや。 思ふらんと。また車にうち乗りて火宅の ・門{かど}をや。出でぬらん火宅の門。 旅僧 里の女 紀有常の女井筒姫

ワキ詞「是は・諸国一見{しょこくいっけん}の僧にて候。我この 程は・南都七堂{なんとしちだう}に参りて候。又これより初

瀬に参らばやと思ひ候。これなる寺を人 に尋ねて候へば。・在原寺{ありはらでら}とかや申し候ふ

程に。立ちより・一見{いっけん}せばやと思ひ候。さ ては此・在原寺{ありはらでら}は。いにしへ・業平{なりひら}・紀{き}の・有常{ありつね} の・息女{そくじょ}。・夫婦{ふうふ}住み給ひし・石上{いそのかみ}なるべし。 風ふけば・沖{おき}つ・白浪{しらなみ}たつ・田山{たやま}と・詠{えい}じけん も。・此処{このところ}にての事なるべし。下歌「昔・語{がたり}の 跡とへば。その・業平{なりひら}の友とせし。・紀{き}の・有常{ありつね} の常なき世。・妹背{いもせ}をかけて・弔{とむ}らはん /\。 シテ次第「・暁{あかつき}ごとの・閼伽{あか}の水。月もこ ころ澄ますらん。サシ「さなきだに物の ・淋{さみ}しき秋の夜の。・人目{ひとめ}まる・古寺{ふるてら}の。 ・庭{には}の松風更け過ぎて。月も・傾{かたむ}く・軒端{のきば}の 草。・忘{わす}れて過ぎし・古{いにしへ}を。忍ぶ・顔{がほ}にてい つまでか待つ事なくてながらへん。げに ・何事{なにごと}も。思ひ出の。人には残る世の中か な。下歌「唯いつとなく・一筋{ひとすぢ}に頼む・仏{ほとけ}の・御手{みて} の・糸{いと}・導{みちび}きたまへ・法{のり}の声。上歌「・迷{まよひ}をも。 照らさせ給ふ・御誓{おんちかひ}。/\。げにもと見え て有明の。ゆくへは西の山なれど。なが

めは・四方{よも}の秋の空。松の声のみ聞ゆれど も。・嵐{あらし}はいづくとも。・定{さだめ}なき世の・夢心{ゆめごころ}。 何の音にか・覚{さ}めてまし。/\。 ワキ詞「我この寺に・休{やす}らひ。心を澄ますを りふし。いとなま めける・女性{によしやう}。・庭{には}の ・板井{いたい}をむすび上げ ・花水{はなみづ}とし。これな る・塚{つか}に・回向{えかう}の・気色{けしき} 見え給ふは。いか なる人にてましま すぞ。シテ詞「是は此 あたりのに住む者な り。この寺の・本願{ほんぐわん} ・在原{ありはら}の・業平{なりひら}は。世 に名を・留{と}めし人なり。されば其跡しる しもこれなる・塚{つか}の・陰{かけ}やらん。・妾{わらは}も・委{くは}しく は知らず候へども。・花水{はなみづ}を・手向{たむ}け・御跡{おんあと}を ・弔{とぶら}ひ参らせ候。ワキ「げに/\・業平{なりひら}の・御事{おんこと}

は。世に名を・留{と}めし人なりさりながら。 今は・遥{はるか}に遠き世の。・昔語{むかしがたり}の跡なるを。し かも・女性{によしやう}の・御身{おんみ}として。かやうに・弔{とぶら}ひ給 ふ事。その・在原{ありはら}の・業平{なりひら}に。いかさま故あ る・御身{おんみ}やらん。シテ「故ある身かと問はせ 給ふ。その・業平{なりひら}はその時だにも。・昔男{むかしをとこ} といはれし身の。ましてや今は遠き世に。 故もゆかりもあるべからず。ワキ「もつと

も・仰{おほせ}はさる事なれども。こゝは昔の・旧跡{きょうせき} にて。シテ「・主{ぬし}こそ遠く・業平{なりひら}の。ワキ「あと は残りてさすがにいまだ。シテ「聞えは・朽{く} ちぬ・世語{よがたり}を。ワキ「語れば今も。シテ「・昔男{むかしをとこ}の 。地歌「名ばかりは。・在原寺{ありはらでら}の・跡旧{あとふ}りて。/\。 松も・老{お}いたる・塚{つか}の草。これこそそれよ・亡{な} き跡の。・一村{ひとむら}ずすきの・穂{ほ}に出づるはいつ の・名残{なごり}なるらん。・草{くさ}・茫々{ばう/\}として・露{つゆ}・深々{しん/\}と ・古塚{ふるつか}の。・真{まこと}なるかな・古{いにしへ}の。跡なつかし き・景色{けしき}かな/\。ワキ詞「なほ/\・業平{なりひら}の・御事{おんこと} ・委{くは}しく・御物語{おんものがた}り候へ。地クリ「昔・在原{ありはら}の ・中将{ちうじやう}。・年経{としへ}てこゝにいその・上{かみ}。ふりにし ・里{さと}も花の春。月の秋とて。住み給ひしに。 シテサシ「其頃は・紀{き}の・有常{ありつね}が・娘{むすめ}と・契{ちぎ}り。・妹背{いもせ} の心・浅{あさ}からざりしに。地「又・河内{かはち}の国・高安{たかやす} の・里{さと}に。知る人ありて・二道{ふたみち}に。忍びて通 ひ給ひしに。シテ「風ふけば・沖{おき}つ・白波{しらなみ}・立田山{たつたやま}。 地「・夜半{よは}には君がひとり行くらんとお ぼつか波の・夜{よる}の道。ゆくへを思ふ・心{こころ}・遂{と}げ

てよその・契り{ちぎり}はかれ%\なり。シテ「げに・情{なさけ} ・知{し}る。うたかたの。地「あはれを述べしも ・理{ことわり}なり。クセ「昔この国に。住む人の有 りけるが。・宿{やど}をならべて・門{かど}の・前{まへ}。・井筒{ゐづつ}に よりてうなゐ子の。・友達{ともだち}かたらひて。・互{たがひ} に・影{かげ}を・水鏡{みずかゞみ}。・面{おもて}ならべ袖を懸け。心の 水も・底{そこ}ひなく。うつる・月日{つきひ}も・重{かさ}なりて。お となしく・恥{は}ぢがはしく。たがひに今はな りにけり。・其後{そののち}かのまめ男。言葉の露の・玉章{たまづさ} の。心の花も色そひて。シテ「・筒井筒{つゝゐづつ}。 ・井筒{ゐづつ}に・懸{か}けしまろが・丈{たけ}。地「・生{お}ひしにけらし な。・妹{いも}・見{み}ざる間にと・詠{よ}みて・贈{おく}りける程 に。その時・女{をんな}もくらべこし・振分髪{ふりわけがみ}も・肩{かた}・過{す} ぎぬ。君ならずして。・誰{たれ}かあぐべきと・互{たがひ} に・詠{よ}みし故なれや。・筒井筒{つゝゐづつ}の女とも。聞 えしは・有常{ありつね}が。娘の・旧{ふる}き名なるべし。 ロンギ地「げにや・旧{ふ}りにし・物語{ものがたり}。聞けば・妙{たへ} なる有様の。あやしや名のりおはしませ。 シテ「・誠{まこと}は我は・恋衣{こひごろも}。・紀{き}の・有常{ありつね}が娘と

も。いさ・白波{しらなみ}の・立田山{たつたやま}・夜半{よは}にまぎれて来 りたり。地「ふしぎやさては・立田山{たつたやま}。色に ぞ出づるもみぢ・葉{は}の。シテ「・紀{き}の・有常{ありつね}が娘 とも。地「又は・井筒{ゐづつ}の・女{をんな}とも。シテ「恥かし ながら我なりと。地「いふや・注連縄{しめなは}の・長{なが}き ・夜{よ}を。・契{ちぎ}りし年は・筒井筒{つゝゐづつ}・井筒{いづつ}の陰に隠れ けり・井筒{ゐづつ}の陰にかくれけり。中入間「。 ワキ歌待謡「更けゆくや。・在原寺{ありはらでら}の・夜{よる}の・月{つき}。 /\。昔を返す・衣手{ころもで}に。・夢{ゆめ}待ちそへて・仮枕{かりまくら}。 ・苔{こけ}の・莚{むしろ}に。・臥{ふ}しにけり・苔{こけ}のむしろに ・臥{ふ}しにけり。 後シテ一声「あだなりと名にこそ立てれ・桜花{さくらばな}。 ・年{とし}に・稀{まれ}なる人も待ちけり。かやうに・詠{よ}み しも我なれば。・人待{ひとま}つ・女{をんな}ともいはれしな り。・我{われ}・筒井筒{つゝゐづつ}の昔より。・真弓槻弓{まゆみつきゆみ}・年{とし}を経 て。今は亡き世に・業平{なりひら}の。・形見{かたみ}の・直衣{なほし}。身 に・触{ふ}れて。恥かしや。・昔男{むかしをとこ}に・移舞{うつりまひ}。地「雪 をめぐらす。・花{はな}の・袖{そで}。序ノ舞「。シテワカ[こゝに来 て。昔ぞかへす。・在原{ありはら}の。地「・寺井{てらゐ}に・澄{す}める。

月ぞさやけき。月ぞさやけき。シテ「月や あらぬ。春や昔と・詠{なが}めしも。いつの頃ぞ や。・筒井筒{つゝゐづつ}。地「つゝゐづつ。・井筒{ゐづつ}にかけ し。シテ「まろがたけ。地「・生{お}ひしにけらし な。シテ「・老{お}いにけるぞや。地「さながら・見{み}み えし・昔男{むかしをとこ}の。・冠直衣{かぶりなほし}は。女とも見え

ず。男なりけり。・業平{なりひら}の・面影{おもかげ}。シテ「見れ ばなつかしや。地「我ながらなつかしや。 ・亡婦魄霊{ばうふはくれい}に・姿{すがた}はしぼめる花の。色なうて ・匂{にほひ}。残りて・在原{ありはら}の寺の鐘もほの%\と。 明くれば・古寺{ふるてら}の松風や・芭蕉葉{ばせうは}の夢も。破 れて覚めにけり夢は破れ・明{あ}けにけり。 旅僧 従者 梅の精

ワキ、ワキツレ二人次第「年立ちかへる春なれや。/\ 花の都に急がん。ワキ詞「これは東国方より 出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候 ふほどに。この春思ひ立ち都に上り候。 道行三人「春立や。霞の関を今朝越えて。/\。 果はありけり武蔵野を分け暮らしつゝ跡 遠き。山また山の雲を経て。都の空も近 づくや。旅までのどけかるらん/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これははや都に着

きて候。又これなる梅を見候へば。今を 盛と見えて候。いかさま名のなき事は候 ふまじ。此辺の人に尋ねばやと思ひ候。 狂言シカ%\「。ワキ詞「扨は此梅は和泉式部と申 し候ふぞや。暫く眺めばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧。其梅を人 に御尋ね候へば。何と教へ参らせて候ふ ぞ。ワキ詞「さん候人に尋ねて候へば。和 泉式部とこそ教へ候ひつれ。シテ「いやさ

やうには云ふべからず。梅の名は好文木。 又は鶯宿梅などとこそ申すべけれ。知ら ぬ人の申せばとて用ひ給ふべからず。此 寺いまだ上東門院の御時。和泉式部此梅 を植ゑおき。軒端の梅と名づけつゝ。目 がれせず眺め給ひしとなり。かほどに妙 なる花の縁に。御経をも読誦し給はゞ。 逆縁の御利益ともなるべきなり。詞「これ こそ和泉式部の植ゑ給ひし軒端の梅にて 候へ。ワキ「さては和泉式部の植ゑ給ひし 軒端の梅にて候ひけるぞや。又あの方丈 は。和泉式部の御休所にて候ふか。シテ「な か/\の事和泉式部の臥処なりしを。造 も替へずそのまゝにて。今に絶えせぬ眺 ぞかし。ワキ「ふしぎやさても古の。名 を残しおく形見とて。シテ「花も主を慕ふ かと。年々色香もいやましに。ワキ「さも みやびたる御気色。シテ「なほもむかしを。 ワキ「思ふかと。地歌「年月をふるき軒端の

梅の花。古き軒端の梅の花。主を知れば 久方の。天ぎる雪のなべて世に。聞えた る名残かや。和泉式部の花心。 ロンギ地「げにや古を。聞くにつけても思 出の。春や昔の春ならぬ我が身ひとりぞ 心なき。シテ「ひとりとも。いさしら雪の 古事を。誰に問はまし道芝の。露の世にな けれども。此花に住むものを。地「そも此 花に住むぞとは。とぶさに散るか花鳥の。 シテ「同じ道にと帰るさの。地「先だつあ とか。シテ「花の蔭に。地「やすらふと見え しまゝに。我こそ花の主よとゆふぐれな ゐの花の蔭に。木がくれて見えざりき木 がくれて見えずなりにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「終夜。軒端の梅の蔭に居て。 /\。花も妙なる法の道。迷はぬ月の夜と 共に。此御経を読誦する/\。後シテ一声「あ らありがたの御経やな。あらありがた の御経やな。たゞいま読誦し給ふは譬

喩品よなう。詞「思ひ出でたり閻浮のあり さま。此寺いまだ上東門院の御時。御堂 の関白この門前を通り給ひしが。御車の 内にて法華経の譬喩品を高らかに読み給 ひしを。式部この門の内 にて聞き。門の外法の車 の音きけば。我も火宅を。 出でにけるかなと。かや うによみし事。今のをり から思ひ出でられて候ふ ぞや。ワキ詞「げに/\此歌 は。和泉式部の詠歌ぞと。 田舎まで聞き及びしなり。 詞「さては詠歌の心の如く。 火宅をばはや出で給へり や。シテ詞「なか/\の事火宅は出でぬさ りながら。詠みおく歌舞の菩薩と成りて。 ワキ「なほこの寺に澄む月の。シテ「出づる は火宅。ワキ「今ぞ。シテ「すでに。地歌「三

界無安の内を去りて三つの。車にのりの 道。すはや火宅の門を今ぞ。和泉式部は 成等正覚を得るぞ有難き。 地クリ「それ和歌といつぱ。法身説法の妙 文たり。たま/\後世に知らるゝ者はた だ。和歌の友なりと。貫之もこれを書き たるなり。シテサシ「かるが故に天地を動かし 鬼神を感ぜしむる事業。地「神明仏陀の冥

感に至る。殊に時ある花の都。雲居の春 の空までものどけき心を種として。天道 にかなふ。詠吟たり。クセ「所は九重の。 東北の霊地にて。王城の鬼門を守りつゝ。 悪魔を払ふ雲水の。水上は山陰の賀茂川 やすゑしら河の波風も。いさぎよき響は 常楽の縁をなすとかや。庭には。池水を たゝへつゝ。鳥は宿す池中の樹僧は敲く 月下の門。出で入る人跡かず/\の。袖 をつらね裳裾を染めて。色めく有様はげ に/\花の都なり。シテ「見仏聞法のかず /\。地「順逆の縁はいやましに。日夜 朝暮に怠らず九夏三伏の夏たけて秋来に けりと驚かす。澗底の松の風一声の秋を 催して。上求菩提の機を見せ池水に映る 月影は。下化衆生の相を得たり。東北陰 陽の時節もげにと知られたり。春の夜の。 序ノ舞「。シテワカ「春の夜の。闇はあやなし梅の 花。地「色こそ見えね。香やは隠るゝ香や

は隠るゝ。/\。シテ「げにや色に染み。 香にめでし昔を。地「よしなや今更に。思 ひ出づれば我ながらなつかしく。恋しき 涙を遠近人に。洩らさんも恥かし。いと ま申さん。シテ「これまでぞ花は根に。 地「今はこれまでぞ花は根に。鳥は旧巣

に帰るぞとて。方丈のともし火を。火宅 とや。なほ人は見ん。こゝこそ花の台に 和泉式部が臥所よとて。方丈の室に入る と見えし夢はさめにけり見し夢はさめて 失せにけり。 藤原某 従者 梅の精

ワキ詞「これは五条わたりに住居する藤原 の何某にて候。さてもわれ未だ難波津を 見ず候ふ程に。此度一見せばやと思ひ候。 サシ「津の国の難波の春のゆかしさに。 けふ思ひ立つ旅衣。三人「日影長閑けき都 の空。霞隔たる山崎や。関戸の宿も名の みにて。戸さゝぬ御代は行きかふ人の。 姿さへげにゆたけしや。下歌「こゝは何処 ぞ旧年の。木の葉も積る芥川しばしなが らの旅心。上歌「芦の若葉のなごはしみ。

芦の若葉のなごはしみ。風も音せでよる 波の。響はさすが聞きて恋ふ。難波の浦の うららなる。春の景色を今ぞ見ん春の景 色を今ぞ見ん。ワキ詞「面白や難波の浦の春 の景色。里は花咲き匂満ち。遠の山々う ち霞み。青海原は白波の。八重折る上に 蜑小船。行きかふさまは古の。家持の 卿の詠まで思ひ出でられて候。桜花 今盛なり難波の海。おしてる宮にきこ し召すなへ。詞「今は花いまだ含みて梅の

盛にて候。 シテ呼掛「なう/\今の歌をば。など誠のま まに吟じさせ給ひ候はぬぞ。ワキ「不思議 やなかの歌は。万葉集にありつるを。た だそのまゝに口ずさみしに。誤ありや 覚束な。シテ「尤も今の草子にはさなんめ れど。この歌は家持の卿いまだ兵部の輔 なりし時。公事にてこの国にませし程。 二月の十まり三日詠み給へり。さて三月 の三日に。ふゝめりし花の始に来しわれ や。詞「散りなん後に都へ行かんと。春の 始都を出でて。今暫しますべきにかくよ み給ひしかば。かの二月の中の三日は。 梅の花こそ盛ならめ。その上おしてる宮 にきこし召すなへとは。大鷦鷯の天皇の 御位に即かせ給ひし事なれば。かた%\ いかで桜の歌なるべき。ワキ「げに理なり 古き書には。文字の違のやゝあれば。 よくわきまへて見るべかりけり。詞「さて

さてかくまで分き給ふ。御身はいかなる 人やらん。シテ「いや誰とても理の。ま にまに聞し召さんには。その人の名は不 用ならん。まづ/\さきの御言葉の末に。 花いまだ含みて梅の盛と宣ひき。梅の 盛は花ならずや。ワキ「まことにこれも 誤なり。何の花をもそれのみにては。 花とのみよめど異花と。ならべていふに 桜をのみ。花といふなる古言は。いかで その跡荒磯海。シテ「浜の真砂はよみぬと も。歌の言葉の数々は。ワキ「人の心を種 として。詠み出づるなるものからに。 シテ「よも尽きせじなさりながら。地歌「うら やすの。安き神代の伝とて。安き神代の 伝とて。まうけでよみ出づる歌の道。直な ればこそ鬼神をも。和しむくなれいかで さる。浮める古歌のあるべき。ロンギ地「聞 けばいよ/\著き。歌の理木綿四手の。 神の示かありがたや。シテ「神かとは。

うたてはかなき天少女。たゞ夕風に難波 江の。あしやよしやもわきまへで。そよ と聞えし恥かしや。地「今はさのみな包み 井の。深き心の底ひなく。聞かまくほし や。シテ「さもあらば。地「この木の本に下 臥して。待たせ給はゞ夜もすがら月の影 もさし出でて。朧ながらも慰めんと梅の 蔭に入ると見えて跡も見えずなりに けり。跡をも見せずなりにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「春の夜の。月待ちがての枕さ へ。月待ちがての枕さへ。取りあへずま く衣手に。移るその香は隠なき。闇にも しるき。木蔭かな闇にも。梅の木蔭かな。 後シテ一声「月うつる難波の海の。夜の波。心 もゆたに面白や。いかに客人この夜ら は。空もいとよう晴れわたり。月の光も 昼なして。花の姿もあらはならん。人に な洩らし給ひそとよ。ワキ「こはいかにあ りし女の顔ばせながら。錦の衣玉鬘(縵)。か

かる姿は木の花の。精とも今はおもほえ ず。シテ詞「しろし召さねば御理。固よ り梅の精なれば。たゞその折に従ひて。 定まる姿もあらぬ上。舞をかなでて慰め んと。かくは顕れ来りたり。ワキ「まづま つかしこしさりながら。かたへに人の影 もなし。琴笛鼓は誰やせん。シテ詞「天にま す神のおきての風のまに。松の小枝は琴 を調め。ワキ「汀の芦は。シテ「笛を吹き。 ワキ「岸打つ波は。シテ「覆槽の音。地「お のづからなるものゝ音は。神さぶるこの 浦の。昔を返す袖ならめ。地クリ「そも/\ 神代のならはし。草を賎み木を貴む。そ の木の中にかばかりの。形色香の花なけ れば。梅花をよみして。木の花といへり。 シテサシ「さて梅の名はさる花の。咲き出る のみかうるはしき。地「薬の実さへ結びつ つ。木の肌妙に木立まで。異木に勝れく はしければ。シテ「うまてふ言を。通は

せて。地「梅のその名をゆりたるなり。 クセ「その上神事の。御先に立たす宮人 に。とらするも本はこの。ずはえに限る事 なりき。又御仏の御教にも。行にはかな らず梅のずはえをとれよとぞ。天皇の。 大儀の御場にも。主殿の舎人等が。梅 のずはえを捧げつゝ。紫の蓋の。頭に仕 ん奉れるは。御先を払ふよしにして。や がて神代のつたへなり。シテ「初春の。七日 の豊の明には。地「舞の台の飾らひに。梅 と柳を立てらるゝ。さて木綿花は古にも てはやせしもこの花を。とこしへに見ま ほしく。思ひて作りそめにけん。又毎年 の大嘗に。したがふ小忌の人達も。昔の 髻華の心ばせ。木の花の木を冠の。巾子 に添へ立て久方の。天の日陰のかづら垂。 黒酒白酒の神酒たうべ。千代万代も限ら じと。謡ひ舞ふその袖を。うつしていざや 奏でん。月もおしてる。難波の浦。序ノ舞「。 シテワカ「鴬の。声ものどけき。春かぜに。 地「梅の匂や。天に満つらん天に満つら ん。天に満つらん。シテ「ゆたけしや。難 波のことか大君の。地「恵に洩れねば草木 まで。時をり/\を。違へずして。花咲 き実を結び。シテ「人民もたゞ安らかに。 地「人民もたゞ安らかに。明くれば暮るゝ くるれば明け方の東の山の端。匂ひそめ て。霞ながらに明け行くまにまに。緑の 空に。たなびく白雲は。天つ少女の天つ 猪領巾。撫づとも/\尽きせぬ巌も。わ が君が代のたとしへに足らじな。たゞ 幾久に天地の。たゞ幾久に。天地の共に 栄えまさなん。めでたさよ。 旅僧 従僧 里の女 仏御前の霊

ワキワキツレ二人次第「よそは梢の秋深き。/\雪の ・白山{しらやま}尋ねん。ワキ詞「これは・都方{みやこがた}より出でた る僧にて候。・我{われ}未だ・白山禅定{しらやまぜんぢやう}せず候ふ程 に。此秋思ひ立ち・白山禅定{しらやまぜんぢやう}と志して候。 道行三人「・遥々{はる/\}と。・越{こし}の・白山{しらやま}知らざりし。/\。 ・其方{そなた}の雲も・天照{あまて}らす。神の・柞{はゝそ}の紅葉ば の。・誓{ちかひ}の色もいや高き・峯々{みね/\}早く・廻{めぐ}り来て 参詣するぞ有難き参詣するぞありがた き。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これは早・加賀{かゞ}の ・国{くに}の仏の原とやらん申し候。日の暮れて 候ふ程に。これなる・草堂{さうだう}に立ち寄り。 ・一夜{いちや}を明かさばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる・御僧{おんそう}。何とて其 ・草堂{さうだう}には・御{おん}泊り候ふぞ。ワキ「不思議やな 道もなく里もなき方より。・女性{によしやう}・一人{いちにん}来り つゝ。我に言葉をかけ給ふは。如何なる

人にてましますぞ。シテ「これは此仏の原 に住む女にて候。時もこそあれ今宵しも。 この・草堂{さうだう}に御・泊{とまり}こそ。有難き機縁にてま しませ。今日は思ふ日に当れり。・御経{おんきやう}を 読み仏事をなしてたび給へ。さなきだに ・五障三従{ごしやうさんじう}の此身なれば。・迷{まよひ}の雲も晴れ難 き。心の水の。・濁{にごり}を澄まして。涼しき道 に・引導{いんだう}し給へ。ワキ詞「・御経{おんきやう}を読み仏事を なせと承る。これこそ出家の・望{のぞみ}なれ。 さて/\・弔{とぶら}ひ申すべき。・亡者{まうじや}は誰にて ましますぞ。シテ「さらば其名を・顕{あらは}すべ し。いにしへ・仏御前{ほとけごぜん}と申しゝ・白拍子{しらびやうし}は。 此国より出でし人なり。都に上り・舞女{ぶぢよ}の ほまれ世に勝れたまひしが。・後{のち}には・故郷{こきやう} なればとて此国に帰り。終りにこゝにて空 しくなる。跡のしるしも此・草堂{さうだう}の。露と

消えにし其跡なり。ワキ「不思議やさては ・古{いにしへ}の。其名に聞えし・仏{ほとけ}御前の。亡き跡 までも名を・留{と}めて。シテ詞「仏の原といふ ・名所{などころ}も。昔をとゞむる名残なれば。ワキ「今 ・弔{とぶら}ふも・疑{うたがひ}なき。・成仏{じやぶつ}の縁ある其人の。 シテ「名も頼もしや・一仏成道{いちぶつじやうだう}。ワキ「・観見法界{くわんけんほふかい}。 シテ「・草木国土{さうもくこくど}。 二人「・悉皆成仏{しつかいじやうぶつ}と聞 く時は。地歌「仏の原の・草木{くさき}まで。/\。 皆成仏は疑はず。有難やをりからの。野も せにすだく。虫の音までも・声仏事{こゑぶつじ}をやな しぬらん。・山風{やまかぜ}も・夜嵐{よあらし}も。声澄み渡る此 原の草木も心。あるやらん草木も心ある やらん。 ワキ詞「なほ/\・仏{ほとけ}御前の・御事{おんこと}・委{くは}しく・御物{おんもの} 語り候へ。 クリ地「昔・平相国{へいしやうこく}の御時。・妓王妓女{ぎわうぎぢよほ} ・仏刀自{とけとじ}とて。・温顔{おんがん}・舞曲{ぶきよく}花めきて世上 に名を得し・遊女{いうぢよ}有りしに。シテサシ「はじめは 妓王を召し置かれて。・遊舞{いうぶ}の寵愛甚しく て。地「・色香{いろか}を飾る・玉衣{たまぎぬ}の。袖の白露おき

ふしの。・御簾{ぎよれん}の・中{うち}を立ち去らで。さなが ら・宮女{きうぢよ}の如くなりしに。シテ「思はざるに をりを得て。地「・仏{ほとけ}御前を召されしより。 ・御心{おんこゝろ}うつりていつしかに妓王は・出{いだ}され 参らせて。シテ「世を秋風の。音・更{ふ}けて。 地「涙の雨も。をやみもせず。クセ「・実{げ}に や思ふ事。叶わねばこそ浮世なれ。我は 本より・優色{いうしよく}の。花・一時{いつとき}の・盛{さかり}なれば。散る を・何{なに}と恨みんや。嵐は吹けども松はもと より常盤なり。いつ歎き。いつ驚かん浮 世ぞと。思へばかゝるをりふしの。来る こそ・教{をしへ}なれ。しかも・迷{まよひ}を照らすなる。 シテ「・弥陀{みだ}の・御国{みくに}も・其方{そなた}ぞと。地「・頼{たのみ}をか けて・西山{にしやま}や。浮世の嵯峨の奥深き草の ・庵{いほり}の・隠家{かくれが}の隠れて住むと思ひしに。・思{おもひ}の 外なる仏御前の。様を変へ来りたり。 こはそもさるにてもかく捨つる身となり ぬれど。猶も御身の恨めしさの。・執心{しふしん}は残 るにそもかゝる心持つ人かや。今こそ誠

の。仏にてましませとて。・妓王{ぎわう}は・手{て}を合 はせ感涙を流すばかりなり。 ロンギ地「・昔語{むかしがたり}はさて置きぬ。さて今跡 を・弔{と}ひ給ふ。御身如何なる人やらん。 シテ「・我{われ}は誰とか・岩代{いはしろ}の。松の葉結ぶ露 の身の。・行方{ゆくへ}を何と問ひ給ふ。地「行方い づくとしら雪の。跡を見よとは此原の。 シテ「草の庵はこゝなれや。地「露の身を 置く。シテ「・草堂{さうだう}の。地「・主{あるじ}は・仏{ほとけ}よといひ捨 てゝ。立ち去る影は・草衣{くさごろも}。尾花が袖の露 分け・草堂{さうだう}の・内{うち}に入りにけり草堂の内に入 りにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「松風寒き此原の。/\。草の 仮寐のとことはに・御法{みのり}をなして夜もすが ら。・彼{か}の・跡{あと}・弔{と}ふぞ有難き/\。 後シテ一声「あら有難の・御経{おんきやう}やな。・早{はや}・明方{あけがた}にも なるやらん。遠寺の鐘も・幽{かすか}に響き。月落 ちかゝる山かづらの。嵐烈しき仮寐の床 に。夢ばし覚まし給ふなよ。ワキ「不思議

やな仏の原の草枕に。遊女の影の見え給 ふは。いかさま聞きつる・仏{ほとけ}御前の。幽霊 にぞましますらん。シテ詞「恥かしながら ・古{いにしへ}の。仏といはれし名を・便{たより}にて。・輪廻{りんゑ} の姿も歌舞をなす。ワキ「極楽世界の・御法{みのり} の声。シテ「仏事をなすや。ワキ「此原の。 シテ「仏の舞の。・妙{たへ}なる袖。地「草木も・靡{なび} く。気色かな。序ノ舞「。 シテワカ「ひとりなほ。仏の・御名{みな}を。尋ね 見ん。地「おの/\帰る。・法{のり}の・場人{にはびと}。・法{のり} の・場人{にはびと}の。シテ「・法{のり}の教も。幾程の世ぞや。 地「・前仏{ぜんぶつ}は過ぎぬ。シテ「・後仏{ごぶつ}はいまだな り。地「夢の・中間{ちうげん}は。シテ「此世の内ぞや。 地「鐘も響き。シテ「鳥も・音{ね}を鳴く。地「・夜半{よは} の内なる・夢幻{ゆめまぼろし}の。・一睡{いつすゐ}の・内{うち}ぞ。仏も 有るまじ。まして人間も。シテ「嵐吹く・雲水{くもみづ} の。シテ「嵐吹く・雲水{くもみづ}の。・天{てん}に浮べる波 の。一滴の露の・始{はじめ}をば。何とかかへす舞 の袖・一歩{いつぽ}。挙げざる先をこそ。仏の舞と

はいふべけれとうたひ捨てゝ失せにけり

やうたひ捨てゝ失せにけり。 旅僧 従僧 里の女 采女の霊

ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。我此程 は都に候ひて。洛陽の寺社残りなく拝み 廻りて候。又これより南都に参らばやと 思ひ候。サシ「頃は弥生の十日余り。花の都 を旅立ちて。まだ夜をこめて東雲の。 道行三人「影ともに。我も都を下り月。/\。 残る朝の朝霞。深草山の末つゞく。木幡 の関を今朝越えて。宇治の中宿井出の里。 過ぐれば。これぞ奈良坂や。春日の里に 着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。春日の里に着きて 候。心静かに社参申さばやと思ひ候。 シテ次第「宮路正しき春日の/\寺にもい ざや参らん。サシ「更闌け夜静かにし て。四所明神の宝前に。耿々たる灯も。

世を背けたる影かとて。共に憐む深夜の 月。朧々と杉の木の間を洩りくれば。神 の御心にも。如く物なくや思すらん。 下歌「月に散る花の陰行く宮めぐり。 上歌「運ぶ歩の数よりも。/\。積もる桜の 雪の庭。又色添へて紫の。花を垂れたる 藤の門。明くるを春の。景色かな明くる を春の景色かな。

ワキ詞「如何に是なる女性に尋ね申すべき 事の候。シテ詞「此方の事にて候ふか何事 にて候ふぞ。ワキ「見申せばこれ程茂りた る森林に。重ねて木を植え給ふ事不審に こそ候へ。シテさては当社始めてご参詣 の人にて御入り候ふか。ワキ「さん候始め てこの処に参りて候。当社の謂詳しく御 物語り候へ。シテ詞「そも/\当社と申す は。神護景雲二年に。河内の国平岡より。 この春日山本宮の峰に影向ならせ給ふ。 さればこの山。もとは端山の陰浅く。木陰 一つもなかりしを。陰頼まんと藤原や。氏 人よりて植えし木の。もとより恵深き故。 程なくかやうに太山となる。然れば当社 の御誓にも。人の参詣はうれしけれども。 木葉の一葉も裳裾に着きてや去りぬべ きと。惜しみ給ふも何故ぞ。人の煩茂 き木の。陰深けれと今も皆。諸願成就 を植え置くなり。されば慈悲万行の日の

影は。三笠の山に長閑にて。五重唯識の 月の光は。春日の里に隈もなし。地歌「陰 頼みおはしませ。唯かりそめに植うると も。草木国土成仏の。神木と思し召しあ だなにな思ひたまひそ。上歌「あらかねのそ の始め。/\。治まる国は久方の。あめ はゝこぎの緑より。花開け香残りて。仏 法流布の種久し。昔は霊鷲山にして。妙 法華経を説き給ふ。今は衆生を度せんと て大明神と現れこの山に住み給へば。鷲 の高嶺とも。三笠の山を御覧ぜよ。さて 菩提樹の木陰とも。盛りなる藤咲きて松に も花を春日山。長閑けき陰は霊山の浄土 の春に。劣らめや浄土の春に劣らめや。 シテ詞「如何に申し候。猿沢の池とて隠れ なき名地の候ふを御覧ぜられて候ふか。 ワキ詞「承り及びたる名地にて候御教へ候 へ。シテ「此方へ御出で候へ。これこそ猿 沢の池にて候へ。又思ふ子細の候へば。

この池の辺にて御経を読み仏事をなして 賜り候へ。ワキ「やすき間の事仏事をば なしと申すべし。さて誰と志して廻向申し 候ふべき。シテ「これは昔采女と申しゝ 人。この池に身を投げ空しくなりしな り。されば天の帝の御歌に。吾妹子が寝 ぐたれ髪の猿沢の。詞「池の玉藻と見るぞ 悲しきと。よめる歌の心をば。知ろし召 され候はずや。ワキ「実に/\此歌は承り 及びたるやうに候。委しく御物語り候へ。 シテ語「昔天の帝の御時に。一人の采女有り しが。采女とは君に仕へし上童なり。始め は叡慮浅からざりしが。程なく御心変り しを。及ばず乍ら君を恨み参らせて。此池 に身を投げ空しくなりしなり。ワキ「実に 実に我も聞き及びしは。帝あはれと思し 召し。この猿沢に御幸なつて。シテ詞「采女 が死骸を叡覧あれば。ワキ「さしもさば かり美しかりし。シテ「翡翠のかんざし嬋娟

の鬢。ワキ「桂の黛。シテ「丹花の唇。ワキ「柔 和の姿引きかへて。シテワキ二人「池の藻屑に乱 れ浮くを。君もあはれと思い召して。 地歌「わぎもこが。寝ぐたれ髪を猿沢の /\。池の玉藻と。見るぞ悲しきと。叡 慮に懸けし御情。かたじけなやな下とし て。君を恨みしはかなさは。たとへば及 びなき水の月取る猿沢の。生ける身と思 すかや我は采女の幽霊とて。池水に入り にけり池水の。底に入りにけり。中入間「。 ワキ三人歌待謡「池の波。夜の汀に座をなして。 /\。仮に見えつる幻の。采女の衣の色 色に。弔ふ法ぞまことなる/\。 後シテ一声「有難や妙なる法を得るなるも。心 の水と聞くものを。さわがしくとも教へ あらば。浮かぶ心の猿沢の。池の蓮の台に 坐せん。よく/\弔ひ給へとよ。ワキ「不 思議やな池の汀に現れ給ふは。采女と聞 きつる人やらん。シテ詞「恥かしながら古

の。采女が姿を現すなり。仏果を得し めおはしませ。ワキ「もとよりも人々同じ 仏性なり。なに疑も波の上。シテ「水の 底なる鱗や。ワキ「及至草木国土まで。 シテ「悉皆成仏。ワキ「疑なし。地「まし てや。人間に於てをや。竜女が如く我も はや。変成男子なり采女とな思ひ給ひ そ。しかも所は補陀洛の。南の岸にいた りたり。これぞ南方無垢世界生れん事 も。頼もしや生まれけん事も頼もしや。 地クリ「実にや古に奈良の都の代々を経 て。神と君との道すぐに国家を守る誓と かや。シテサシ「しかれば君に仕人。その品 品の多き中に。地「わきて采女の花衣の。 裏紫の心を砕き。君辺に仕へ奉る。 シテ「されば世上にその名を広め。地「情 内にこもり言葉外に顕るゝためし。世 以て類多かりけり。クセ「葛城の王。勅 に従ひ陸奥の。忍ぶもぢずり誰も皆。こ

ともおろそかなりとて設けなどしたりけ れど。なほしもなどやらん王の心解け ざりしに。采女なりける女の土器取りし 言の葉の露の情に心解け叡感以て甚し。 さらば浅香山。影さへ見ゆる山の井の。 浅くは人を思ふかの。心の花開け。風も をさまり雲静かに。安全をなすとかや。 シテ「然れば采女の戯の。地「色音に移 る花鳥の。とぶさに及ぶ雲の袖。影も 廻るや杯の。御遊の御酒の折々も。采女 の衣の色添へて。大宮人の小忌衣。桜を かざす朝より。今日も呉織声の綾をなす 舞歌の曲。拍子を揃へ。袂を翻へして。 遊楽快然たる采女の衣ぞ妙なる。取り分 き忘れめや曲水の宴の有りし時。御土器 度々廻り。有明の月更けて。山時鳥。誘

ひ顔なるに叡慮を受けて遊楽の。月に鳴 け。序の舞「。 シテワカ「月に鳴け。同じ雲井の時鳥。地「天 つ空音の。万代までに。シテ「万代と。限 らじものを。天衣。無づとも尽きぬ。巌 ならなん。松の葉の。地「松の葉の。散り 失せずして。正木のかづら長く伝はり。 鳥の跡絶えず。天地おだやかに。国土安 穏に。四海波。静かなり。ジテ「猿沢の池 の面。地「猿沢の池の面に。水滔々として 波又。悠々たりとかや。石根に雲起つて 雨はそうようを打つなり。遊楽の夜すが らこれ。采女の、戯と思すなよ。讃仏 乗の。因縁なる物を。よく弔はせ給へや とて又波に。入りにけり又波の底に入り にけり。 里の女 芭蕉の精

ワキ詞「これは唐土楚国の傍。小水と申す 所に山居する僧にて候。さても我法華持 経の身なれば。日夜朝暮彼の御経を読み 奉り候。殊更今は秋の半。月の夕すがら 怠る事なし。こゝに不思議なる事の候。 この山中に我ならで。又住む人もなく候 に。夜な/\読経の折節。庵室のあた りに人の音なひ聞え候。今夜も来りて候 はゞ。如何なる者ぞと名を尋ねばやとお もひ候。サシ「既に夕陽西にうつり。山峡 の陰冷ましくして。鳥の声幽に物凄き。 歌「夕の空もほの%\と。/\。月にな り行く山陰の。寂莫とある柴の戸に。此 御経を。読誦する此御経を読誦する。 シテ次第「芭蕉に落ちて松の声。/\。あだ にや風の破るらん。サシ「風破窓を射て 灯きえ易く。月疎屋を穿ちて夢なり難 き。秋の夜すがら所から。物すさましき 山陰に。住むとも誰か白露の。ふり行く

末ぞ哀なる。下歌「あはれ馴るゝも山賊の 友こそ。岩木なりけれ。上歌「見ぬ色の。 深きや法の花心。/\。染めずはいかゞ 徒に。其唐衣の 錦にも衣の珠はよ も掛けじ。草の袂 も露涙移るも過ぐ る年月は。廻り廻 れどうたかたの哀 れ昔の秋もなしあ はれ昔の秋もなし。 ワキ詞「さても我読 誦の声怠らず。夢 現とも分からざる に。女人の月に見 え給ふは。如何な る人にてましますぞ。シテ「これは此あた りに住む者なるが。さも逢ひ難き御法を 得。花を捧げ礼をなし。結縁をなすばか

りなり。とても姿を見え参らすれば。何 をか今は憚の。言の葉草の庵の内を。 露の間なりと法の為は。結縁に貸させ給 へよと。ワキ詞「実に/\法の結縁は。誠に 妙なる御事なれどもさりながら。なべて ならざる女人の御身に。いかで御宿を参

らすべき。シテ詞「其御心得はさる事なれど も。よそ人ならず我もまた。住家はこゝ ぞ小水の。ワキ「同じ流を汲むとだに。 知らぬ他生の縁による。シテ「一樹の陰の。 ワキ「庵の内は。地歌「惜まじな。月も仮寝 の宿。/\。軒も垣ほも古寺の。愁は。崖寺 のふるに破れ。魂は山行の。深きに痛 ましむ月の影も凄ましや。誰かいひし。 蘭省の花の時。錦帳の下とは。廬山の雨 の夜草庵の中ぞ思はるゝ。 ワキ詞「余りに御志深ければ。御経読誦 の程内へ御入り候へ。シテ「さらば内へ参 り候ふべし。あら有難や此御経を聴聞 申せば。我等如きの女人。非情草木の類 までも頼もしうこそ候へ。ワキ「実によく 御聴聞候ふものかな。たゞ一念随喜の信 心なれば。一切の非情草木の類までも。 何の疑の候ふべき。シテ「さては殊更有 難や。さて/\草木成仏の。謂晴をなほも

示し給へ。ワキ「薬草喩品現れて。草木国 土有情非情も。皆これ諸法実相の。シテ「峰 の嵐や。ワキ「谷の水音。二人「仏事をなす や寺井の底の。心も澄めるをりからに。 地歌「灯を背けて向ふ月の下。/\。共 に憐む深き夜の。心を知るも法の人の。教 のまゝなる心こそ。思の家ながら。火宅 を出づる道なれや。されば柳は緑。花 は紅と知る事も。唯其まゝの色香の草木 も。成仏の国土ぞ成仏の国土なるべし。 ロンギ地「不思議やさても愚なる。女人と 見るにかくばかり。法の理白糸の解く ばかりなる心かな。シテ「なか/\に。何 疑か有明の。末に闇路をはるけずは。 今逢ひ難き法を得る身とはいかゞ思は ん。地「実に逢ひ難き法に逢ひ。受け難き 身の人界を。シテ「受くる身ぞとやおほす らん。地「恥かしや帰るさの。道さやかに も照る月の。影はさながら庭の面の雪の

中の芭蕉の。いつはれる姿の真を見えば 如何ならんと。思へば鐘の声。諸行無常 となりにけり/\。中入間「。 ワキ詞「さては雪の中の芭蕉の。偽れる姿 と聞こえしは。疑もなき芭蕉の女と。現 れけるこそ不思議なれ。歌待謡「たゞこれ法 の奇特ぞと。/\。思へばいとゞ夜もす がら。月も妙なる法の場。風の芭蕉や。 つたふらん風の芭蕉や伝ふらん。 後シテ一声「あら物すごの庭の面やな。/\。 有難や妙なる法の教には。逢ふ事まれな る優曇華の。花待ち得たる芭蕉葉の。御 法の雨も豊かなる。露の恵を受くる身の。 人衣の姿。御覧ぜよ。かばかりは。うつ り来ぬれど花もなき。地「芭蕉の露の。旧 りまさる。シテ「庭のもせ山陰のみぞ。 ワキ「寝られねば枕ともなき松が根の。 現れ出づる姿を見れば。ありつる女人の 顔ばせなり。さもあれ御身はいかなる人

ぞ。シテ詞「いや人とは恥かしや。誠は我は 非情の精。芭蕉の女と現れたり。ワキ「そ もや芭蕉の女ぞとは。何の縁にかか かる女体の。身をば受けさせ給ふらん。 シテ詞「その御不審は御あやまり。何か定は 荒金の。ワキ「土も草木も天より下る。 シテ「雨露の恵を受けながら。ワキ「我とは 知らぬ有情非情も。シテ「おのづからなる 姿となりて。ワキ「さも愚かなる。シテ「女 とて。地歌「さなきだに。あだなるに芭蕉 の。女の衣は薄色の。花染ならぬに袖の。 ほころびも恥かしや。 地クリ「それ非情草木といつぱ誠は無相真 如の体。一塵法界の心地の上に。雨露霜 雪の形を見ず。サシシテ「然るに一枝の花を捧 げ。地「御法の色をあらはすや。一花開け て四万の春。長閑けき空の日影を得て揚 梅桃李数々の。シテ「色香に染める。心ま で。地「諸法実相。隔もなし。クセ「水に

近き楼台は。まづ月を得るなり陽に向へ る花木は又。春に逢ふ事易きなる。其理 も様々の。実に目の前に面白やな。春過 ぎ夏たけ秋来る風の音信は。庭の荻原先 そよぎそよかゝる秋と知らすなり。身は 古寺の軒の草。忍とすれど古も。花 は嵐の音にのみ。芭蕉葉の。もろくも落 つる露の身は。置き所なき虫の音の。蓬 がもとの心の。秋とてもなどか変らん。 シテ「よしや思へば定なき。地「世は芭蕉 葉の夢の中に。牡鹿の鳴く音は聞きなが ら。驚きあへぬ人心。思ひいるさの山は あれど。唯月ひとり伴なひ馴ぬる秋の

風の音。起き臥し茂き小笹原。しのに物 思ひ立ち舞ふ袖。暫しいざやかへさん。 シテ「今宵は月も。白妙の。地「氷の衣。霜 の袴。序ノ舞「。シテワカ「霜の経。露の緯こそ。弱 からし。地「草の。袂も。シテ「久方の。地「久 方の。天つ少女の羽衣なれや。シテ「これ も芭蕉の羽袖をかへし。地「かへす袂も芭 蕉の扇の。風茫々と物すごき古寺の。庭 の浅茅生。女郎花刈萓。面影うつろふ露 の間に。山おろし松の風。吹き払ひ/\。 花も千草もちり%\。に。花も千草もち り%\になれば。芭蕉は破れて残りけ り。 峯雄 里の男 花の精

ワキ次第「色香もさぞな深草の/\。野辺の 桜を尋ねん。ワキ詞「これは旧院に仕へ申 しゝ。峯雄がなれる果にて候。誠や良峯

も御別を悲しみ。比叡山に頓世と聞き。 一人に限らぬ思の色深草山に分け入り て。古院の常に叡覧ありし。花をもせめて <161a> 眺めばやと思ひ候。下歌「都出づれば日も 既に。竹田の里はこれやらん。上歌「一夜 伏見の夢にだに/\。思ひ絶えにし別路 の末こそ知らね深草の花は昔や慕ふら ん/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。深草に着きて候。 我この陵に来て見れば。人跡絶えたる木 の下は。なほ深草の花の色。誰と咎むる 気色もなし。詞「何となく思ひ連ねて候。 深草の野辺の桜し心あらば。この春ばか り墨染に咲け。詞「この歌を短冊に写し。 枝につけて帰らばやと思ひ候。 シテ詞「なう/\あれなる御僧に申すべき 事の候。ワキ「此方の事にて候ふか何事に て候ふぞ。シテ「今の詠歌の有難さに。こ れまで現れ参りたり。ワキ「不思議やな花 を眺むる友かと見ればさはなくて。今の 詠歌の有難きとは。いかなる人にてまし ますぞ。シテ詞「この花なくはいかにして。

かゝる詠歌のましますべき。唯今手向の 言の葉にも。深草の野辺の桜し心あら ば。此春ばかり墨染に。地「咲けとは今は 恨めしや。/\。浮世の春のあだ桜。風 吹かぬ間もあるべきか。あぢきなの習や な。我も浮世を捨衣。君がためなる薫物 の。沈香ながら切髪の。ながらへはてぬ 世の中に。様かへてたび給へ我が様かへ てたび給へ。ワキ詞「さて何故の御発心にて 候ふぞ。シテ「これは御詠歌故候ふよ。 ワキ「そも詠歌故とは候。シテ「唯今の御 詠歌に。此春ばかりと遊ばしたる。此春 ばかりを引きのけて。此春よりはと詠じ 給はゞ。なほ行末も久方の。尽きぬ逢瀬 の言葉を添へて。地「花はこれまで青柳 の。暇申してさらばとて。立つかと見れ ば薄霞。木の間の月の影暗く花曇して失 せにけり花曇して失せにけり。中入間「。 ワキ詞「さては此花の精現れて。我に詞を

かはしけるぞや。いざや成道なすべし と。説くや御法の言の葉は。/\。深草 野辺の草衣。かたしく袖もうば玉の墨の 衣の旅寝かな墨の衣の旅寝かな。 後シテ一声「あら有難の御経やな。/\。クリ「草 木国土悉皆成仏。地「実に頼もしやこの文 は。中陰経の妙文。シテ「尊や我こそ草 木国土に色香を見せて花の名の。地「深草 野辺の墨染桜。これ見給へや。御僧よ。 シテサシ「それ桜は諸木にすぐれ。水を生ず る徳あり。地「これに依つて火難の恐をな す事なし。されば帝都を花洛と号し。陽 花殿月花門。左近の桜に至るまで禁中に 移し置かれたり。シテ「主上此木に向はせ 給ふ。地「これに依つて玉簾に。木向とい ふ紋を。現すなり。クセ「かほどめでたき 花の徳。誰かは仰がざるべき。中にもこ の桜は。旧院の御愛木。花の新に開けし 日は。初陽潤ふ御顔も歓ばせおはしまし

鳥の老いて帰る時。薄暮くもれる御気色。 無常の嵐吹き来り。花より先に散り給ふ。 心なき草木も。歎の色に出でざらん。此 春ばかり墨染に咲けとの詠は恥かしや。 シテ「皆人は。花の衣になりぬなり。地「苔 の袂やせめてなど。かわかざらめや雨と 降り。嵐にだにも誘はれて日数をめぐる あだ桜。うき世の春の隠家と。墨染衣衣 更着の。仏の縁を受けつぎて。草木も成

仏の。御法ぞ嬉しかりける。深草の。舞 シテ「深草の野辺の桜し。心あらば。地「此 春より墨染に咲け。/\/\。シテ「花の 袂も風吹かぬほどぞ。地「雨にも誘はれ。 シテ「露にもしをれ。地「契少なき花衣。墨 染桜こずゑに残る霞も雲も明けゆく空に。 霞も雲も明けゆく空に松風ばかりや音す らん。 女の亡霊 日蓮上人

ワキサシ「凡そ方便現涅槃。星霜二千二百余 廻。後五百歳中いま少し。広宣流布の時 を待ちて。妙法しゆとう繁昌の日。めで たかるべき。時節かな。地下歌「寂寞無人 声読誦この経典の窓の内。上歌「一念三千 の花薫じ。/\。我爾時為現清浄。光明 身の床の上に。一心三観の月満てり。衆生

の遊楽も今こゝに。身延山の風水も。読 誦の声添へて自然の露地なりけり。 シテ次第「松吹く風も法の声。/\。聞くやい かにと音すらん。サシ「面白や四方の梢も 秋ふけて。野辺の千草もさま%\に。錦 を彩る白露の。おのが姿をそのまゝに。 もみぢに置けばくれなゐなり。下歌「われ

もこの身をこのまゝに成仏の法ぞ頼もし き。上歌「いとけなき身の母にあひ。母に 逢ひ。飢ゑたる者の食を求め。はだかな る者の衣を得たるごとくなり。如渡得船 の海の面。さゝでそのまゝ至るべき。さ を投ぐる間も急げ人。御法に後るなよ御 法に後れ給ふな。 ワキ詞「われ心観の窓に向ひ。御経読誦の をりごとに。御身一時も怠る事なし。実に 心ざしの人と見えたり。そもいづくより 来れる人ぞ。シテ「これはこの山の遥の麓 に。草結びする女なるが。かく上人のこ の処に。いたり給ふは上行菩薩の。御再 誕ぞと忝くて。かゝる妙なる御法には。 値ふことかたき女人の身の。今待ち得 たる法の場に。いかでか怠り候ふべき。 ワキ詞「げに/\これは理なり。されども 遥の麓より。時を違へぬ御参詣。猶しも思 へば不審なり。御身はこの世になき人な。

委しく語り給ふべし。シテ詞「早くも心得給 ひたり。これはこの世に亡き者なるが。 さもありがたき上人の。御法に知遇の度。 重なりて。苦患を免かれ今は早。妙覚無 為に至るべき。妙法蓮華経の功徳。不可 思議なるかな妙なるかな。いよ/\仏 果を。授け給へ。地「妙なる御法の花の 縁。深きまよひも忽ちに。変成男子われ なりと。正覚の跡を追ひ。竜女にいかで 劣らん。上歌「か程妙なる御事を。知らで 過ぎにしいにしへの。身を知れば先だた ぬ。悔の八千たび悲しきは。流るゝ喜の 汗涙。身の毛もよだちてさてもわれ。か かる御法に逢ふ事よと。上人の御前に涕 泣するぞ哀なる。クリ「げにや恩愛愛執の 涙は四大海より深し。聞法随喜の其為に は。一滴もおとすことなし。シテサシ「ありが たや衆罪如霜露恵日の光に。消えて即身 成仏たり。地「かの調達が五逆の因に。沈

みはてにし阿鼻の苦。終に法義の台に 変ず。シテ「況や受持し読誦せんをや。 地「たゞ一時も結縁せば。それこそ即ち。 仏心なれ。クセ「帰命妙法蓮華経。一部八 巻四七品。文々こと%\く神力を示しの べ給ふ。濁乱の衆生なれば。此経はたも ちがたし。暫くもたもつ者は。我則歓喜 して。諸仏もしかなりと一乗の。妙文な るものを。深着虚妄法。堅受不可捨ぞ悲 しき。シテ「始め華厳の御法より。地「般若 に及ぶ四十余年。未顕真実の方便成仏の まことあらはれて妙法蓮華経ぞかし。正 直捨方便無上の道にいたるべし。げにあ りがたや此経に。値ふ事難き優曇華の。 花待ちえたり嬉しの今の機縁や。 シテ「おもしろや。妙なる法の華の袖。地「夕 日や連れて。めぐるらん。序ノ舞「。シテ「報謝 の舞の袖の上に。地「紫雲たなびき光さ し。千草にすだく虫の音までも。妙法蓮

華の。となへかな。地上歌「げにありがたき法 の道。末暗からぬ燈の。永き闇路を照 らしつゝ。三つの絆もこと%\く。得脱 成仏の御法なり。げにありがたや頼もし や。シテ「御法の御声も時過ぎて。地「御法の

御声も時過ぎて。すでに此日も入相の。 鐘響き月出でて。げにも妙なる法の場。 身延の山の風の音。水の御声もおのづか ら諸法実相と響きつゝ。草木国土皆成仏 の霊地なりけり成仏の霊地なりけり。 女(夕顔の精)

ワキ詞「これは都紫野雲林院に住居する 僧にて候。さてもわれ一夏の間花を立て 候。はや安居も過方になり候へば。色よ き花を集め。花の供養を執り行はばやと 存じ候。敬つて白す立花供養の事。右非情 草木たりといへども。此花広林に開けた り。豈心なしといはんや。なかんづく泥を 出でし蓮。一乗妙典の題目たり。この結 縁に引かれ。草木国土悉皆成仏道。シテ「手 に取ればたぶさに穢る立てながら。三世 の仏に花奉る。ワキ詞「不思議やな今まで

は。草花りよようとして見えつる中に。 白き花のおのれ独り笑の眉を開けたる は。いかなる花を立てけるぞ。シテ「愚の 御僧の仰やな。たそがれ時のをりなるに。 などかはそれと御覧ぜざる。さりながら 名は人めきて賎しき垣ほにかゝりたれ ば。知しめさぬば理なり。これは夕顔 の花にて候。ワキ「げに/\さぞと夕顔 の。花の主はいかなる人ぞ。シテ「名のら ずと終には知しめさるべし。われはこの 花の蔭より参りたり。ワキ「さては此世に

亡き人の。花の供養に逢はんためか。それ につけても名のり給へ。シテ「名はありな がら亡き跡に。なりし昔の物語。ワキ「何 某の院にも。シテ「常はさむらふ真には。 地「五条あたりと夕顔の。/\。空目せし まに夢となり。面影ばかり亡き跡の立花 の蔭に隠れけり/\。中入。 ワキ「ありし教に従つて。五条あたりに 来て見れば。げにも昔の座所。さながら やどりも夕顔の。瓢箪しば/\空し。草 顔淵が巷に滋し。後シテ一声「藜〓深く鎖せり。 夕陽のざんせい新に窓を穿つて去る。 地「しうたんの泉の声。シテ「雨原憲が樞を 湿す。下歌地「さらでも袖を湿すは。廬山 の雪の曙。窓東に向ふ朗月は。/\。琴 榻にあたり。しう上の秋の山。物凄の気 色や。 ロンギ「げに物凄き風の音。簀戸の竹垣あ りし世の。夢の姿を見せ給へ。菩提をふ

かくとむらはん。シテ「山の端の。心も知 らで行く月は。上の空にて絶えし跡の。 又いつか逢ふべき。地「山賎の。垣は荒る ときをり/\は。シテ「哀をかけよ撫子の。 地「花の姿をまみえなば。シテ「跡訪ふべ きか。地「なか/\に。シテ「さらばと思ひ 夕顔の。地「草の半蔀おし上げて。立ち出 づる御姿見るに涙の留まらず。 クセ「其頃源氏の中将と聞えしは。此夕 顔の草枕。たゞ仮臥の夜もすがら。隣を 聞けば三吉野や。御嶽精進の御声にて。 南無当来導師。弥勒仏とぞ称へける。今 も尊き御供養に其時の思ひ出でられてそ ぞろに濡るゝ袂かな。猶それよりも忘れ ぬは。源氏この宿を。見初め給ひし夕つ 方。惟光を招きよせ。あの花折れと宣へ ば。白き扇のつまいたうこがしたりし に。此花を折りて参らする。シテ「源氏つ く%\と御覧じて。地「うち渡す遠方人に

問ふとても。それ某花と答へずば。終に 知らでもあるべきに。逢ひに扇を手に触 るゝ。契の程の嬉しさ。折々尋ねよるな らば。定めぬ海士の此宿の。主を誰と白 浪の。よるべの末を頼まんと。一首を詠 じおはします。折りてこそ。序ノ舞 シテワキ二人「折りてこそそれかとも見め。 地「たそがれに。地「ほの%\見えし。花

の夕顔。/\。/\。シテ「終の宿は知ら せ申しつ。地「常にはとむらひ。シテ「おは しませと。地「木綿付の鳥の音。シテ「鐘も 頻に。地「告げ渡る東雲。あさまにもな りぬべし。明けぬ先にと夕顔の宿明けぬ 先にと夕顔のやどりの。また半蔀の内に 入りて其まゝ夢とぞ。なりにける。 旅僧 従僧 里の女 夕顔の上

ワキ次第「これは豊後の国より出でたる僧に て候。さても松浦箱崎の誓も勝れたると は申せども。なほも名高き男山に参らん と思ひ。此程都に上りて候。今日もまた 立ち出で仏閣に参らばやとおもひ候。 サシ「たづね見る都に近き名所は。まづ名 も高く聞えける。雲の林の夕日影。うつ ろふ方は秋草の。花紫の野を分けて。

三人歌「賀茂の御社伏し拝み。/\。糾 の森も打ち過ぎて帰る宿は。在原の。 月やあらぬとかこちける。五条あたりの あばら屋の。主も知らぬ処まで。尋ね訪 ひてぞ暮しける/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程 に。これは早五条あたりにてありげに 候。不思議やなあの屋づまより。女の歌 を吟ずる声の聞え候。暫く相待ち尋ねば

やと思ひ候。 シテ、アシラヒ出「山の端の。心も知らで。行く月 は。うはの空にて。影や絶えなん。巫山 の空は忽ちに。陽台のもとに消えやすく。 湘江の雨はしば/\も。楚畔の竹を染む るとかや。サシ「こゝは又もとより所も名 も得たる古き軒端の忍草。しのぶかたが た多き宿を。紫式部が筆の跡に。たゞ何 某の院とばかり。書き置きし世は隔たれ ど。見しも聞きしも執心の。色をも香を も捨てざりし。下歌「涙の雨は後の世の。 さはりとなれば今もなほ。上歌「つれな くも。通ふ心の浮雲を。/\。払ふ嵐の 風の間に真如の月も晴れよとぞ空し き空に。仰ぐなる空しき空に仰ぐなる。 ワキ詞「いかにこれなる女性に尋ね申すべ き事の候。シテ「此方の事にて候ふか何事 にて候ふぞ。ワキ「さてこゝをば何くと申 し候ふぞ。シテ「これこそ何某の院にて候

へ。ワキ「不思議やな何某の山何某の寺は。 名の上の唯かりそめの言の葉やらん。又 それを其名に定めしやらん承りたくこそ 候へ。シテ「さればこそ始より。むつかし げなる旅人と見えたれ。紫式部が筆の跡 に。唯何某の院とかきて。其名をさだかに あらはさず。然れどもこゝは旧りにし融 の大臣。住み給ひし所なるを。其世をへ だてゝ光君。また夕顔の露の世に。上な き思を見給ひし。名も恐ろしき鬼の形。 それもさながら苔むせる。河原の院と御 覧ぜよ。ワキ「うれしやさては昔より。名 におふ処を見る事よ。詞「我等も豊後の国 の者。その玉葛のゆかりとも。なして今 又夕顔の。露きえ給ひし世語を。かたり 給へや御跡を。及びなき身も弔はん。 シテクリ「そも/\ひかる源氏の物語。言葉 幽艶をもとゝして。理浅きに似たりとい へども。地「心菩提心をすゝめて義殊に深

し。誰かは仮にも語りつたへん。シテサシ「中 にも此夕顔の巻は。殊にすぐれてあはれ なる。地「情の道も浅からず。契り給ひて 六条の。御息所に通ひ給ふ。よすがにより し中宿に。シテ「唯休らひの玉鉾の。地「便 に。立てし御車なり。クセ「ものゝあやめ も見ぬあたりの。小家がちなる軒のつま に。咲きかゝりたる花の名も。えならず見 えし夕顔の。をり過さじとあだ人の。心 の色は白露の。情おきける言の葉の。末 をあはれと尋ね見し。閨の扇の色ことに たがひに秋の契とは。なさゞりし東雲の。 道の迷の言の葉も。此世はかくばかり。 はかなかりける・蜉蝣{ひをむし}の。命懸けたる程も なく。秋の日やすく暮れはてゝ。宵の間 過ぐる故郷の松のひゞきも恐ろしく。 シテ「風にまたゝく灯の。地「消ゆると 思ふ心地して。あたりを見ればうば玉の。 闇の現の人もなく如何にせんとか思川。

うたかた人は息消えて。帰らぬ。水の泡 とのみ。散りはてし夕顔の。花は再び咲 かめやと。夢に来りて申すとて。有りつ る女も掻消すやうに。失せにけりかき消 すやうに失せにけり。中入間「。ワキ、ワキツレ二人歌待謡「い ざさらば夜もすがら。/\。月見がてら に明かしつゝ。法華読誦の声たえず。弔 ふ法ぞ誠なる/\。 後シテサシ一声「さなきだに女は五障の罪ふか きに。聞くも気疎きものゝけの。人うし なひし有様を。あらはす今の夢人の。跡 よく弔ひ給へとよ。ワキ「不思議やさては 宵の間の。山の端出でし月影の。ほの見え そめし夕顔の。末葉の露の消えやすき。 本の雫の世語を。かけて顕し給へるか。 シテ「見たまへこゝもおのづから。気疎き 秋の野らとなりて。ワキ「池は水草に埋も れて。古りたる松の陰暗く。シテ「又鳴き 騒ぐ鳥の枯声身にしみわたるをりから

を。ワキ「さも物すごく思ひ給ひし。シテ「心 の水は濁江に。ひかれてかゝる身となれ ども。優婆塞が。行ふ道をしるべにて。 地「来ん世も深き。契絶えすな契絶えす な。序の舞「。 シテ「御僧の今の。弔を受けて。地「御 僧の今の。弔を受けて。かず/\うれし やと。シテ「夕顔のゑみの眉。地「開くる法

華の。シテ「花房も。地「変成男子の願のま まに。解脱の衣の。袖ながら今宵は。何 を包まんと言ふかと思へば。音羽山。嶺 の松風かよひ来て。明けわたる横雲の。 迷もなしや。東雲の道より。法の出づる ぞと。明けぐれ?の空かけて。雲のまぎれ に。失せにけり。 旅僧 雪の精

ワキ次第「末の松山はる%\と。/\。行方 やいづくなるらん。詞「これは諸国一見の 僧にて候。我此ほどは奥州に候ひしが。 又思い立ち津の国天王寺へ参らばやと思 ひ候。道行「墨染の衣ほすてふ日も出で て。/\。そなたの雲も天ざかる。鄙に 馴れゆく旅の空。野に伏し山を分け過ぎ て。これぞ名におふ津の国や野田の渡

に着きにけり野田の渡に着きにけり。 地「急ぎ候ふほどに。これは早野田の里と かや申し候。あら笑止や。晴れたる空俄 に曇り雪ふり。東西を弁へず候。暫く此 処にて雪を晴らさばやと思ひ候。 シテ「あら面白の雪の中やな。/\。暁 梁王の園に入れば。雪群山に満てり。夜 〓公が樓に上れば。月千里に明らかなり。

我も真如の月出でて。妄執の雪消えなん 法の。恵日の光を頼むなり。ワキ「不思議 やなこれなる雪の中よりも。女性一人現 れ給ふは。いかなる人にてましますぞ。 シテ「誰とはいかで白雪の。唯おのづか ら現れたり。ワキ「我とは知らぬ白雪と は。さてはおとこは雪の精か。シテ詞「いや さればこそ我が姿。知らぬ迷を晴らし給 へ。ワキ「さては不思議や雪の女に。言葉 をかはすも唯これ法の。功力を疑ひ給は ずして。とく/\成道なり給へ。シテ「あ らありがたの御事や。妙なる一乗妙典を。 うたがふ心は荒金の。地「地に落ち身は消 えて。古事のみを思草仏の縁を結べか し。クセ「我とはいさや白雪の。積る思は いやましに。有明さむみ夜半の月。シテ「峯 の雪。汀の氷ふみ分けて。地「君にぞ迷ふ。 道は迷はじな津の国の。野田の川波高瀬 漕ぐ袖の柵ひぢまさり。岩にせかるゝ沖

つ船。やる方もなき我が心。浮べ給へや 御僧と。月にひるがへす花衣実に廻雪の 袖ならん。 シテ「朝ほらけ。野田の川霧。あさぼら け。序の舞「絶え%\に。地「あらはれわ

たる。シテ「姿もさすが白雪の。地「姿のさ すが白雪の。峯の横雲。シテ「立ちのぼる 東雲も。地「明けなば恥かし暇申して帰る 山路の梢にかゝるや雪の花。/\。又消 え。きえとぞなりにける。 方士 楊貴妃

ワキ次第「我がまだ知らぬ東雲の。/\。 道を何処と尋ねん。詞「是は唐土玄宗皇帝 に仕へ申す方士にて候。扨も我が君政 正しくまします中に。色を重んじ艶を専 とし給ふにより。容色無双の美人を得給 ふ。楊家の娘たるに因つて其名を楊貴妃 と号す。然れどもさる子細あつて。馬嵬が 原にて失ひ申して候。余りに帝歎かせ給 ひ。急ぎ魂魄の在所を尋ねて参れとの宣 旨に任せ。上碧落下黄泉まで尋ね申せど も。更に魂魄の在所を知らず候。茲に未

だ蓬莱宮に至らず候ふ程に。此度蓬莱宮 にと急ぎ候。道行「尋ね行く。幻もがなつ てにても。/\。魂の在所は其処としも。 波路を分けて行く船の仄に見えし島山の。 草の仮寐の枕ゆふ。常世の国に着きにけ り。/\。詞「急ぎ候ふ程に。 蓬莱宮に着き て候。この処にて委しく尋ねばやと存じ 候。狂言シカ/\「。ワキ「有りし教に随つて蓬莱 宮に来て見れば。空殿盤々として更に辺 際もなく。荘厳巍々としてさながら七宝 をちりばめたり。漢宮万里の粧。長生驪

山のありさまも。これにはさらになぞら ふべからず。あら美しの所やな。詞「又教 の如く宮中を見れば。太真殿と額の打た れたる宮あり。まづこの所に徘徊し。事 の由をもうかゞはゞやと存じ候。 シテ「昔は驪山の春の園に。共に眺めし 花の色。移れば変る習とて。今は蓬莱の 秋の洞に。独り眺むる月影も。濡るゝ顔 なる袂かな。あら恋しの古やな。 ワキ「唐の天子の勅の使。方士これまで 参りたり。玉妃は内にましますか。シテ「な に唐帝の使とは。何しにこゝに来れるぞ と。九華の帳を押しのけて。玉の簾をか かげつゝ。ワキ「立ち出で給ふ御姿。シテ「雲 の鬢づら。ワキ「花の顔ばせ。寂寞たる御 眼のうちに。涙を浮べさせたまへば。 地「梨花一枝。雨を帯びたる粧の。/\。 太液の芙蓉の紅。未央の柳の緑も。これ にはいかで優るべき。実にや六宮の粉黛

の顔色の無きも。理や顔色のなきも 理や。 ワキ詞「如何に申し上げ候。さても后宮世 にまし/\し時だにも。朝政は怠り給 ひぬ。況んやかく ならせ給ひて後。 唯ひたすらの御歎 に。今は御命も危 く見えさせ給ひて 候。然れば宣旨に 任せ是まで尋ね参 り。御姿を見奉る 事。唯これ君の御 志浅からざりし 故と思へば。いよ いよ御痛はしうこそ候へ。シテ詞「実に/\ 汝が申す如く。今はかひなき身の露の。 有るにもあらぬ魂のありかを。これまで 尋ね給ふ事。御情には似たれども。訪ふ

につらさのまさり草。枯々ならば中々 の。便の風は恨めしや。又今更の恋慕の 涙。旧里を思ふ魂を消す。 ワキ「さてしも有るべき事ならねば。急 ぎ帰りて奏聞せん。詞「さりながら御形見 の物をたび給へ。シテ「これこそありし形 見よとて。玉の釵とり出でて。方士に与 へ給びければ。ワキ詞「いやとよこれは世の

中に。たぐひ有るべき物なれば。いかで か信じ給ふべき。御身と君と人知れず。 契り給ひし言の葉あらば。それをしるし に申すべし。シテ詞「実に/\これも理な り。思ひぞ出づる我も又。その初秋の七 日の夜。二星に誓ひし事の葉にも。地「天 に在らば願はくば。比翼の鳥とならん。 地に在らば願はくは。連理の枝とならん と誓ひし言を。密に伝へよや。私語なれ ども今洩れ初むる涙かな。地歌「されども 世の中の。/\。流転生死のならひと て。その身は馬嵬に留まり魂は。仙宮に 至りつゝ。比翼も友を恋ひ独り翅をかた しき。連理の枝朽ちて。忽ち色を変ずと も。同じ心の行くへならば。終の逢ふ瀬 を頼むぞと語り給へや。 ワキロンギ「さらばといひて出舟の。伴ひ申し帰 るさと。思はゞ嬉しさのなほ如何ならん その心。シテ「我は又。なになか/\に三

重の帯。廻り逢はんも知らぬ身に。よし さらば暫し待て。有りし夜遊をなすべし。 地「実にや驪山の宮の内。月の夜遊の羽 衣の曲。シテ「そのかざしにて舞ひしと て。地「又取りかざし。シテ「さす袖の。 地次第「そよや霓裳羽衣の曲。そよや霓裳 羽衣の曲そゞろに。濡るゝ袂かな。物着「。 シテ「何事も夢幻のたはぶれや。地「あは れ胡蝶の舞ならん。イロヱ「。 シテクリ「それ過去遠々の昔を思へば。いつを 衆生の始と知らず。地「未来永々の流転。 更に生死の終もなし。シテサシ「然るに二十五 有の内。何れか生者必滅の理に洩れん。 地「先天上の五衰より。須弥の四州のさ ま%\に。北州の千年つひに朽ちぬ。 シテ「いはんや老少。不定の境。地「歎の 中の歎とかや。シテ「我もそのかみは。上 界の諸仙たるが。往昔のちなみありて。 仮に人界に生れ来て。楊家の。深窓に養

はれ。いまた知る人なかりしに。君聞し 召されつゝ。急ぎ召しいだし。后宮に定 め置き給ひ。偕老同穴のかたらひも縁尽 きぬれば徒らに。又この島にたゞ一人。帰 り来りて澄む水の。あはれはかなき身の 露の。たまさかに逢ひ見たり。静かに語れ 憂き昔。シテ「さるにても。思ひ出づれば 恨ある。地「その文月の七日の夜。君とか はせし睦言の比翼連理の言の葉も枯々に なる私語の。笹の一夜の契だに。名残は 思ふ習なるに。ましてや年月馴れて程経 る世の中に。さらぬ別のなかりせば。千 代も人には添ひてましよしそれとても遁 れ得ぬ。会者定離ぞと聞く時は。逢ふこ そ別なりけれ。地「羽衣の曲。序ノ舞「。シテ「羽 衣の曲。稀にぞ返す。乙女子が。 地「袖打ち振れる。心しるしや。/\。 シテ「恋しき昔の物語。地「恋しき昔の物 語。尽くさば月日も移り舞の。しるしの釵

又賜はりて。暇申してさらばとて。勅使 は都に帰りければ。シテ「さるにても/\。 地「君にはこの世逢ひ見ん事も蓬が島

つ鳥。浮世なれども恋しや昔はかなや 別の。常世の台に。伏し沈みてぞ留ま りける。 旅僧 従僧 里の女 江口の君 遊女

ワキワキツレ二人次第「月は昔の友ならば。/\。世の 外いづくならまし。ワキ詞「是は諸国一見の 僧にて候。我いまだ津の国天王寺に参ら ず候ふ程に。此度思ひ立ち天王寺に参ら ばやと思ひ候。道行三人「都をば。まだ夕深きに 旅立ちて。/\。淀の川舟行末は。鵜殿の 芦のほの見えし。松の煙の浪よする。江口 の里に着きにけり/\。狂言シカ%\「。ワキサシ「さ てはこれなるは江口の君の旧跡か や。痛はしや其身は土中に埋むといへ ども。名はとゞまりて今までも。昔語 りの旧跡を。今見る事のあはれさよ。 詞「実にや西行法師此処にて。一夜の宿

を借りけるに。主の心なかりしかば。世 の中を厭ふまでこそ難からめ。詞「仮の宿 を惜む君かなと詠じけんも。此処にての 事なるべし。あら痛はしや候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧。今の歌を ば何と思ひよりて口ずさみ給ひ候ふぞ。 ワキ詞「不思議やな人家も見えぬ方より も。女性一人来たりつゝ。今の詠歌の口ず さみを。如何にと問はせ給ふ事。そも何 故に尋ね給ふぞ。シテ「忘れて年を経し物 を。又思ひ染む言の葉の。草の蔭野の露 の世を。厭ふまでこそ難からめ。仮の宿 を惜むとの。其言の葉も恥かしけれ

ば。さのみは惜み参らせざりし。其理 をも申さん為に。これまで現れ出でた るなり。ワキ詞「心得ず仮の宿を惜む君 かなと。西行法師が詠ぜし跡を。唯何と なく弔ふ所に。さのみは惜まざりにし と。ことわり給ふ御身はさて。如何なる 人にてましますぞ。シテ詞「いやさればこそ 惜まぬよしの御返事を。申しゝ歌をば 何とてか。詠じもせさせ給はざるらん。 ワキ「実に其返歌の言の葉は世を厭ふ。 シテ「人とし聞けば仮の宿に。詞「心とむな と思ふばかりぞ。心とむなと捨人を。諌 め申せば女の宿に。とめ参らせぬも理 ならずや。ワキ「実に理なり西行も仮の 宿を捨人といひ。シテ詞「此方も名におふ 色好の。家にはさしも埋木の。人知れぬ 事のみ多き宿に。ワキ「心とむなと詠じ給 ふは。シテ「捨人を思ふ心なるを。ワキ「唯惜 むとの。シテ「言の葉は。地上歌「惜むこそ。

惜しまぬ仮の宿なるを。/\。などや惜 むと夕波の。返らぬ古は今とても。捨 人の世語に。心な留め給ひそ。 ロンギ地「実にやうき世の物がたり。聞けば 姿もたそがれに。かげろふ人は如何なら ん。シテ「黄昏に。たゝずむ影はほの%\ と。見え隠れなる川隈に。江口の流の君 とや見えんはづかしや。地「さては疑あ ら磯の。波と消えにし跡なれや。シテ「仮 に住み来し我が宿の。地「梅の立枝や見え つらん。ワキ「思の外に。地「君が来ませる や。一樹の蔭にや宿りけん。または一河 の流の水。汲みても知し召されよや。江 口の君の幽霊ぞと声ばかりして。失せに けり。声ばかりして失せにけり。中入間「。 ワキ詞「さては江口の君の幽霊仮に現 れ。我に言葉をかはしけるぞや。いざ弔 ひて浮めんと。歌三人待謡「言ひもあへねば不思 議やな。/\。月澄み渡る河水に。遊女

のうたふ舟遊。月に見えたる不思議さよ 月に見えたる不思議さよ。 地歌一声「川舟を。とめて逢瀬の波枕。/\。 浮世の夢を見習はしの。驚かぬ身のはか なさよ。佐用姫が 松浦潟。かたしく 袖の涙の唐土船の 名残なり。また宇 治の橋姫も。訪は んともせぬ人を待 つも。身の上とあ はれなり。よしや 吉野の。よしや吉 野の花も雪も雲も 波もあはれ世にあ はゞや。 ワキ「ふしぎやな月澄み渡る水の面に。遊 女のあまたうたふ謡。色めきあへる人影 は。そも誰人の舟やらん。後シテ「何此舟を

誰が舟とは。恥かしながら古の。江口 の君の川逍遥の月の夜舟を御覧ぜよ。 ワキ「そもや江口の遊女とは。それは去り にし古の。シテ詞「いや古とは。御覧ぜよ 月は昔にかはらめや。ツレ女二人「我等もかやう に見え来るを。いにしへ人とは現なや。 シテ詞「よし/\何とか宣ふとも。ツレ二人「い はじや聞かじ。シテ「むつかしや。シテツレ三人「秋

の水。みなぎり落ちて。去る舟の。シテ「月 もかげさす。棹の歌。地「うたへや歌へう たかたの。あはれ昔の恋しさを今も。遊女 の舟遊。世を渡る一節を歌ひて。いざや 遊ばん。クリ地「夫れ十二因縁の流転は車の 場に廻るが如し。シテ「鳥の林に遊ぶに似 たり。地「前生又前生。シテ「曽て生々の前 を知らず。地「来世なほ来世。更に世々の 終をわきまふる事なし。シテサシ「或は人中 天上の善果を受くといへども。地「顛倒迷 妄して未だ解脱の種を植ゑず。シテ「或は 三途八難の悪趣に堕して。地「患にさへら れて既に発心のなかだちを失ふ。シテ「然 るに我等たま/\受けがたき人身を受け たりといへども。地「罪業深き身と生れ。 殊にためし少なき河竹の流の女となる。 前の世の報まで。思ひやるこそ悲し けれ。 クセ「紅花の春の朝。紅錦繍の山粧なす

と見えしも。夕の風に誘はれ紅葉の秋の 夕。黄纐纈の林。色を含むといへども朝 の霜にうつろふ。松風羅月に言葉をかは す賓客も。去つて来る事なし。翠帳紅閨 に。枕をならべし妹背もいつのまにかは 隔つらん。凡そ心なき草木。情ある人倫 いづれ哀を遁るべき。かくは思ひ知りな がら。シテ「ある時は色に染み貪着の思浅 からず。地「又ある時は。声を聞き愛執の 心いと深き心に思ひ口に言ふ妄舌の縁と なるものを。実にや皆人は六塵の境に迷 ひ六根の罪を作る事も。見る事聞く事に。 迷ふ心なるべし。地「おもしろや。序ノ舞「。 シテワカ「実相無漏の大海に。五塵六欲の風

は。吹かねども。地「随縁真如の波の。立 たぬ日もなし/\。シテ「波の立居も何故 ぞ。仮なる宿に。心とむる故。地「心とめ ずはうき世もあらじ。シテ「人をも慕はじ。 地「待つ暮もなく。シテ「別路も嵐吹く。 地「花よ紅葉よ。月雪のふることも。あ らよしなや。シテ「思へば仮の宿。地「思へ ば仮の宿に。心とむなと人をだに。諌 めし我なり。これまでなりや帰るとて。 すなはち普賢菩薩と現はれ舟は白象とな りつゝ。光とともに白妙の白雲に打ち乗 りて西の空に。行き給ふ有難くぞ覚ゆる 有難くこそは覚ゆれ。 旅僧 従僧 里の女 式子内親王の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「山より出づる北時雨/\行方 や定なかるらん。ワキ詞「これは北国方よ

り出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず 候ふ程に。この度思ひ立ち都に上り候。

道行三人「冬立つや。旅の衣の朝まだき。/\。 雲も行きかふ・遠近{をちこち}の。山又山を越え過ぎ て。・紅葉{もみぢ}に残るながめまで。花の都に着 きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これは早都千本の あたりにて有りげに候。暫く此あたりに 休らはゞやと思ひ候。面白や頃は神無月 十日余。木々の梢も冬枯れて。枝に残の 紅葉の色。所々の有様までも。都の景色 は一しほの。眺ことなる夕かな。あら笑 止や。俄に時雨が降り来りて候。これに 由有りげなる・宿{やどり}の候。立寄り時雨を晴ら さばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\御僧。何しに其宿へは立 ち寄らせ給ひ候ふぞ。 ワキ詞「唯今の時雨を晴らさんために立ち 寄りてこそ候へ。シテ「それは時雨の・亭{ちん}と てよしある所なり。其心をも知し召して 立ち寄らせ給ふかと。思へばかやうに申

すなり。ワキ「・実{げ}に/\これなる額を見れ ば。時雨の亭と書かれたり。折柄面白う こそ候へ。これは如何なる人の建て置か れたる所にて候ふぞ。シテ「これは藤原の ・定家{さだいへ}の卿の建て置き給へる所なり。都の 内とは申しながら。心すごく時雨ものあ はれなればとて此亭を建て置き。時雨の 頃の年々は。こゝにて歌をも詠じ給ひし となり。古跡といひ折柄といひ。其心を も知し召して。逆縁の・法{のり}をも説き給ひ て。彼御菩堤を御弔ひあれと。勧め参ら せん其ために。これまで現れ来りたり。 ワキ詞「さては藤原の定家の卿の建て置き 給へる所かや。さて/\時雨をとゞむ る宿の。歌はいづれの言の葉やらん。 シテ「いやいづれとも・定{さだめ}なき。時雨の 頃の年々なれば。分きてそれとは申し難 しさりながら。時雨時を知るといふ心 を。・偽{いつわり}のなき世なりけり神無月。詞「・誰{た}が

誠よりしぐれそめけん。此言がきに私の 家にてと書かれたれば。もし此歌をや申 すべき。ワキ「実にあはれなる言の葉か な。さしも時雨はいつはりの。なき世に 残る跡ながら。シテ「人はあだなる・古事{ふるごと} を。語れば今も仮の世に。ワキ「他生の縁 は朽ちもせぬ。これぞ一樹の蔭の宿。 シテ「一河の流を汲みてだに。ワキ「心を 知れと。シテ「折りからに。地歌「今降るも。 宿は昔の時雨にて。/\。心澄みにし其 人の。あはれを知るも夢の世の。実に定 なや定家の。軒端の夕時雨。古きに帰る 涙かな。庭も・籬{まがき}もそれとなく。・荒{あれ}のみ増 さる・叢{くさむら}の。露の宿も枯々に物すごき夕な りけりもの凄き夕なりけり。 シテ詞「今日は志す日にて候ふ程に。・墓所{むしよ} へ参り候ふ御参り候へかし。ワキ詞「それこ そ出家の望にて候へ。やがて参らうずる にて候。

シテ「なう/\是なる石塔御覧候へ。 ワキ「不思議やなこれなる石塔を見れば。 星霜ふりたるに蔦葛はひまとひ形も見え ず候。是は如何なる人のしるしにて候ふ ぞ。シテ「これは式子内親王の御墓にて候。 又此かづらをば・定家{ていか}葛と申し候。ワキ「あ ら面白や定家葛とは。如何やうなる謂に て候ふぞ御物語り候へ。シテ「式子内親王 始めは賀茂の・斎の院{いつきのみや}に備はり給ひしが。 程なく下り居させ給ひしを。定家の卿忍 び忍びの御契浅らず。その・後{のち}式子内親王 程なく空しくなり給ひしに。定家の執心 葛となつて御墓にはひ纏ひ。互の苦み離 れやらず。共に邪淫の妄執を。御経を 読み弔ひ給はゞ。なほ/\語り参らせ候 はん。 地クリ「忘れぬものを古の。心の奥の・信夫{しのぶ} 山。忍びて通ふ道芝の露の。・世語{よがたり}よし ぞなき。シテサシ「今は玉の緒よ絶えなば絶

えねながらへば。地「忍ぶる事の弱るな る。心の秋の・花薄{はなずすき}。穂に出でそめし契と て又枯々の中となりて。シテ「昔は物を。 思はざりし。地「後の心ぞ。はてしもなき。 クセ「あはれ知れ。霜より霜に朽ち果て て。世々に奮りにし山藍の。袖の涙の身 の昔。憂き恋せじと御祓せし。賀茂の斎 の院にしも。備はり給ふ身なれども。神 や受けずもなりにけん。人の契の色に出 でけるぞ悲しき。包むとすれどあだし世 の。あだなる中の名は洩れて。よその聞 えは大方の。空恐ろしき日の光。雲の・通路{かよひぢ} 絶え果てゝ。乙女の姿とゞめ得ぬ。心 ぞつらきもろともに。シテ「実にや嘆くと も。恋ふとも逢はん道やなき。地「君かづ らきの嶺の雲と。詠じけん心まで。思へ ばかゝる執心の。定家葛と身はなりて。 此御跡にいつとなく。離れもやらで蔦紅 葉の。色こがれまとはり。・荊{おどろ}の髪もむす

ぼほれ。露霜に消えかへる妄執を助け給 へや。 ロンギ地「古りにし事を聞くからに。今日 も程なくくれはとり。怪しや御身誰やら ん。シテ「誰とても。亡き身の果は・浅茅生{あさぢふ} の。霜に朽ちにし名ばかりは。残りても猶 よしぞなき。地「よしや草葉の忍ぶとも。 色には出でよ其名をも。シテ「今は包まじ。 地「此上は。我こそ式子内親王。これま で見え来れども。誠の姿はかげろふの 石に残す形だに。それとも見えず蔦葛苦 みを助け給へといふかとみ見えて失せにけ り。いふかと見えて失せにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人、歌待謡「夕も過ぐる月影に。/\。松 風吹きてもの凄き草の蔭なる露の身を。 思ひの玉の数々に。弔ふ縁は有り難や/\。 後シテ「夢かとよ闇の。現の。宇津の山。 月にもたどる。蔦の細道。昔は・松風蘿月{しようふうらげつ} に詞をかはし。翠帳紅閨に枕をならべ。

地「さま%\なりし情の末。シテ「花も紅 葉もちり%\に。地「・朝{あした}の雲。シテ「夕の雨 と。地「古事も今の身も。夢も現も。幻も。 共に無常の世となりて跡も残らず。何な か/\の草の蔭。さらば・葎{むぐら}の・宿{やど}ならで。 外はつれなき定家かづら。これ見給へや 御僧。ワキ「あら痛はしの御有様やなあら 痛はしや。仏平等説如一味雨。随衆生性 所受不同。 シテ「御覧ぜよ身は仇波の・起居{たちゐ}だに。亡 き跡までも・苦{くるしみ}の。定家葛に身を閉ぢら れて。かゝる苦隙なき所に。有難や。 唯今読誦し給ふは薬草喩品よなう。 ワキ「中々なれや此妙典に。洩るゝ草木の あらざれば。執心のかづらをかけ離れて。 仏道ならせ給ふべし。シテ「あら有難や。シテ詞「実 にも/\。これぞ妙なる法の教。ワキ「・普{あまね} き露の恵を受けて。シテ「二つもなく。 ワキ「三つもなき。地「一味の御法の雨の

したゞり皆湿ひて。草木国土。悉皆成仏 の機を得ぬれば。定家葛もかゝる涙も。 ほろ/\と解けひろごれば。よろ/\と 足弱車の火宅を。出でたる有難さよ。此 報恩にいざさらば。有りし雲居の花の袖。 昔を今に返すなる。其舞姫の・小忌衣{をみごろも}。 シテ「おもなの舞の。地「有様やな。序ノ舞「。 シテワカ「おもなの舞の。有様やな。地「おも なや面はゆの。有様やな。シテ「・本{もと}より此

身は。地「月の顔ばせも。シテ「曇りがちに。 地「桂の黛も。シテ「落ちぶるゝ涙の。 地「露と消えてもつたなや蔦の葉の。・葛城{かづらき} の神姿。恥しやよしなや。夜の契の。 夢の・中{うち}にと有りつる所に帰るは葛の葉 の。元の如く。はひ・纏{まと}はるゝや定家葛。 はひ纏はるゝや定家葛の。儚なくも形は ・埋{うづも}れて。失せにけり。 狩野介宗茂 千手 平重衡

ワキ詞「これは鎌倉どのゝ・御内{みうち}に。・狩野介{かのゝすけ} ・宗茂{むねもち}にて候。さても相国の御子・重衡{しげひら}の卿 は。此たび一の谷の・合戦{かせん}に生捕られ給ひ候 ふを。・某{それがし}預り申して候。朝敵の御事と は申しながら。頼朝いたはしく思し召さ れ。よく痛はり申せとの御事にて。昨日 も・千手{せんじゆ}の前を遣はされて候。かの千手の

前と申すは。・手越{てごし}の・長{ちやう}が娘にて候ふが。 ・優{いう}にやさしく候ふとて。おん身近く召し 使はれ候ふを遣はされ候ふ事。まことに 有難き御志にて御座候。今日はまた雨 中御つれ%\。酒を勧め申さばやと存 じ候。 シテ次第「琴の・音{ね}添へて訪るゝ/\これ

や東屋なるらん。サシ「それ春の花の樹頭 に栄え。秋の月の水底に沈むも。世のは かなさの有様を。見てもあはれや重衡の。 その古は雲の上。かけても知らぬ身のゆ くへ波に漂ひ舟に浮き。さらばよるべの。 よそならで。有りしにかへる。有様かな。 下歌「都にだにも。留めぬ御涙なるを痛は しや。上歌「・陸奥{みちのく}の。しのぶに堪へぬ雨の 音。/\。降りすさみたるをりしもは。 思の露もちり%\に心の花もしを/\ と。しをるゝ袖の色までも。今日のゆふ べの。たぐひかな今日のゆふべのたぐひ かな。 シテ詞「いかに案内申し候はん。ワキ詞「誰に てわたり候ふぞ。シテ「千手の前が参りた るよし。それ/\御申し候へ。ワキ「暫く 御待ち候へ。御機嫌を以て申さうずるに て候。 ツレサシ「身はこれ・槿花{きんくわ}一日の栄。命は・蜉蝣{ふいう}

の定なきに似たり。心は蘇武が胡国 に捕はれ。岩窟の内に籠められて。・君辺{くんべん} を忘れぬ志。それは・やうり{衛律/揚李}が・謀{はかりこと}にて。 敵を亡ぼし旧里に帰る。我はいつとなく 敵陣に籠められて。・縲絏{るゐせつ}の責を受くる。 知らず今日もや限ならん。あら定なや ・候{ざふろふ}。 ワキ詞「いかに申し上げ候。千手の御参 にて候。ツレ詞「唯今は何のためにて候ふ ぞ。よし/\何事にてもあれ。今日の対 面は叶ふまじきと申し候へ。ワキ詞「畏つて 候。いかに申し候。御参の由申して候 へば。何と思し召し候ふやらん。今日の 御対面は叶ふまじきよし仰せ出されて 候。シテ詞「これも私にあらず。頼朝よりの 御諚にて。琵琶琴持たせて参りたり。此由 かさねて御申し候へ。ワキ詞「御諚の趣申し て候へば。これも私にあらず。頼朝より の御諚にて。琵琶琴持たせて参りたり。

よし/\御憚はさる事なれども。ワキ「たゞ こなたへと請ずれば。シテ「その時千手立 ちよりて。地歌「妻戸をきりゝと押し開 く。御簾の追風にほひ来る。花の都人に。 恥かしながら見みえん。げにや・東{あづま}のはて しまで。人の心の奥深き。その情こそ都 なれ。花の春紅葉の秋。誰が思出となり ぬらん。 ツレ詞「いかに千手の前。昨日あからさま に申しつる。出家の御暇の事聞かまほし うこそ候へ。シテ詞「さん候其由申して候 へば。朝敵の御事なるを私として。出家 を許し申さん事。思ひも寄らずとこそ候 ひつれ。わらはも御心のうち。おしはか り参らせて。いかほど・細々{こま%\}と申して候へ ども。かひなき出家の・御望{おんのぞみ}。痛はしうこ そ候へ。ツレ「口惜しや・我{われ}一谷にて如何に もなるべき身の生捕られ。今は東のはて までも。かやうに・面{おもて}をさらす事。・前世{ぜんぜ}の

報といひながら。又思はずも父命により。 仏像を亡ぼし人寿を断ちし。現当の罪の 果すこと。前業よりなほ恥かしうこそ候 へ。シテ「げに/\是は・御理{おんことわり}さりなが ら。かゝる・例{ためし}は・古今{いにしへいま}に。多き習と聞く ものを。独とな嘆き給ひそとよ。ツレ「げ によく慰め給へども。たぐひはあらじ憂 き身の果。シテ「昨日は都の花と栄え。 ツレ「今日は東の春に来て。ツテ「移り変 れる。ツレ「身の程を。地歌「思へたゞ。世 は空蝉の唐衣。/\。着つゝ馴れにし妻 しある。都の雲居を立ち離れ。はる%\ 来ぬる。旅をしぞ思ふ・衰{おとろへ}の。憂き身の はてぞ悲しき。水ゆく川の八橋や。蜘蛛 手に物を思へとは。かけぬ情の中々に馴 るゝや恨なるらん馴るゝや恨なるな らん。 ワキ「今日の雨中の夕の空。御つれ%\を 慰めんと。・樽{そん}を抱きて参りつゝ既に酒宴

を始めんとす。シテ「千手も此よし見るよ りも。御酌に立ちて重衡の。御前にこそ 参りけれ。ツレ「今はいつしか憚の。心 ならずに思はずも。手まづ遮る盃の。心 一つに思ふ・思{おもひ}。ワキ「それ/\いかに何 にても。御肴にと勧むれば。シテ「その時 千手とりあへず。羅綺の・重衣{ちようい}たる。情な き事を機婦に妬む。シテ、ワキ、ツレ三人「只今詠じた まふ朗詠は。忝くも北野の・御作{ごさく}。此詩 を詠ぜば聞く人までも。守るべしとの御 誓なり。ツレ「さりながら重衡は今生の望 なし。三人「たゞ来世の便こそ聞かまほし けれと宣へば。シテ「わらは仰を承り。 十悪といふとも・引摂{いんぜふ}すと。地「朗詠して ぞ。奏でける。イロヱ「。 シテクリ「さてもかの重衡は。相国の末の御子 とは申せども。地「・兄弟{けいてい}にも勝れ一門にも 越えて。・父母{ぶも}の寵愛。かぎりなし。シテサシ「さ れども時うつり。平家の運命こと%\く。

地「月の夜すがら声たてゝ。鳴くや牡鹿 の津の国の。生田の河に身を捨てゝ防ぎ 戦ふと申せども。シテ「森の下風木の葉の 露。地「落されけるこそあはれなれ。 クセ「いまは梓弓。よし力なし重衡も。引 かんとするにいづかたも。網を置きたる 如くにて。遁れかねたる淀鯉の。生捕ら れつゝ有りて憂き。身をうろくづの其ま まに。沈みは果てずして。名をこそ流せ 川越の。重房が手に渡り心の・外{ほか}の都入。 シテ「げにや世の中は。地「定めなきかな 神無月。時雨降りおく奈良坂や。衆徒の 手に渡りなば。とにもかくにも果てはせ で。また鎌倉に渡さるゝ。こゝは何処ぞ 八橋の。雲居の都。いつか又。三河の国 や遠江。足柄箱根うち過ぎて。明けもや すらん星月夜。鎌倉山に入りしかば。憂き 限ぞと思ひしに。馴るればこゝも・忍音{しのびね}に あはれ昔を・思妻{おもひづま}の。灯暗うしては・数行{すかう}虞

氏が涙の。雨さへしきる夜の空。シテ「四 面に楚歌の声の内。地「何とか返す舞の 袖。思の色にや出でぬらん涙を添へて廻 らすも。雪の・古枝{ふるえ}の枯れてだに花咲く。 千手の袖ならば。重ねていざや返さん。 地「忘れめや。序ノ舞「。シテワカ「一樹の蔭 や。一河の水。地「皆これ他生の縁といふ。 白拍子をぞ謡ひける。ツレ「その時重衡興 に乗じ。地「その時重衡興に乗じ。琵琶を 引きよせ弾じ給へばまた玉琴の。・緒合{をあはせ}に。 シテ「合はせて聞けば。地「峰の松風通ひ 来にけり。琴を枕の短夜のうたゝ寝。夢 も程なく。東雲もほの%\と。明けわた る空の。シテ「あさまにやなりぬべき。 地「あさまにやなりなんと。酒宴を止め 給ふ御心のうちぞいたはしき。 地「かくて重衡勅により。/\。また都 にとありしかば。・武士{ものゝふ}守護し出で給へ ば。シテ「千手も泣く/\立ち出で。地「なに

中々の憂き契。はやきぬ%\に。引き 離るゝ袖と袖とのつゆ涙。げに重衡の有

様目もあてられぬ。気色かな目もあてら れぬ気色かな。 勝手明神の神職 菜摘の女 静か御前の霊

ワキ詞「これは三吉野・勝手{かつて}の御前に仕へ申 す者にて候。扨も当社におき・御神事{ごじんじ}さ ま%\御座候ふ中にも。正月七日は菜 摘川より若菜を摘ませ神前に供へ申し 候。・今日{こんにち}に相当りて候ふ程に。女どもに 申し付け。菜摘川へ遣はさばやと存じ候。 とう/\女どもに菜摘川へ出でよしと申し 候へ。 ツレ一セイ「見渡せば。松の葉白き吉野山。幾 世つもりし。雪ならん。サシ「深山には松の 雪だに消えなくに。都は野辺の若菜摘 む。頃にも今や。なりぬらん。思ひやる こそゆかしけれ。上歌「・木{こ}の芽はる・雨{さめ}降る

とても。/\。なほ消え難きこの野辺の。 雪の下なる若葉をば今・幾日{いくか}有りて摘まゝ し。春立つと。云ふばかりにや三吉野の 山の霞みて・白雪{しらゆき}の消えし跡こそ。道とな れ消えし跡こそ道となれ。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる人に申すべき 事の候。ツレ詞「如何なる人にて候ふぞ。 シテ「三吉野へ御帰り候はゞ・言伝{ことづて}申し 候はん。ツレ「何事にて候ふぞ。シテ「三吉 野にては社家の人。其外の人々にも言伝 申し候。あまりに・妾{わらは}が罪業の程悲しく候 へば。一日・経{きゃう}かいて我が跡・弔{と}ひてたび給 へと。よく/\仰せ候へ。ツレ「あら恐ろし

の事を仰せ候ふや。事伝をば申すべし。 さりながら御名をば誰と申すべきぞ。 シテ「まづ/\此由仰せ候ひて。もしも疑 ふ人あらば。其時妾おことにつきて。委 しく名をば名乗るべし。かまへてよくよ く届け給へと。地下歌「ゆふ風迷ふあだ雲 の。憂き水茎の跡かき消すやうに 失せにけりかき消すやうに失せにけ り。中入間「。 ツレ詞「かゝる恐ろしき事こそ候はね。急 ぎ帰り此由を申さばやと思い候。いかに 申し候。唯今帰りて候。ワキ詞「何とて遅く 帰りたるぞ。ツレ「不思議なる事の候ひ て遅く帰りて候。ワキ「さていかやうなる 事ぞ。ツレ「菜摘川の・辺{ほとり}にて。・何処{いづく}ともな く女の来り候ひて。あまりに罪業の程悲 しく候へば。一日経書いて跡・弔{とぶら}ひて賜は れと。三吉野の人。取り分け社家の人々 に申せとは候ひつれども。誠しからず候

ふ程に。申さじとは思へども。なに誠し からずとや。うたてやなさしも頼みしか ひもなく誠しからずとや。唯よそにてこ そ三吉野の。花をも雲と思ふべけれ。近 く来ぬれば雲と見 し。桜は花に現は るゝものを。あ ら恨めしの疑や な。 ワキ「言語道断。 不思議なる事の候 ふものかな。狂気 して候ふは如何 に。さて如何やう なる人の・憑{つ}き添ひ たるぞ名を名乗り給へ。跡をば懇に弔 ひて参らせ候ふべし。ツレ「何をか包み参 らせ候ふべき。・判官殿{ほうぐわんどの}に仕え申せし者な り。ワキ「判官殿の・御内{みうち}の人は多き中にも。

殊に衣川の・御{お}最期まで・御{おん}供申したりし十 郎権頭。ツレ「兼房は判官殿の御死骸。心 静かに取りをさめ。腹切り焔に飛んで入 り。殊にあはれなりし忠の者。されども それには。なきものを。誠は我は女なり しが。此山までは御供申し。こゝにて捨 てられ参らせて。絶えぬ思の涙の袖。 地「つゝましながら我名をば。しづかに

申さん恥かしや。 ワキ詞「さては静御前にてましますかや。 静にて渡り候はゞ。かくれなき舞の上手 にて有りしかば。舞をまうて御見せ候へ。 跡をば懇に弔ひ申し候ふべし。ツレ「我が 着し舞の装束をば。勝手の御前に納めし なり。ワキ「さて舞の衣裳は何色ぞ。ツレ「袴 は・精好{せいがう}。ワキ「水干は。ツレ「世を秋の野の 花づくし。ワキ詞「これは不思議の事なりと て。宝蔵を開き見れば。実に/\疑ふ所 もなく舞の衣装の候。これを召されてと く/\御舞ひ候へ。物着「静御前の舞を御 舞ひ有るぞ。皆々寄りて御覧候へ。 ツレ「実に恥かしや我ながら。昔忘れぬ心 とて。ワキ「さもなつかしく思出の。ツレ「時 も来にけり。ワキ「静の舞。ツレ「今三吉野 の川の名の。後シテ「菜摘の女と。思ふなよ。 地「川淀近き山陰の。香もなつかしき。 袂かな。シテツレ二人「さても義経兇徒に準ぜら

れ。既に討手向ふと聞えしかば。小船に 取り乗り。渡辺神崎より押し渡らんとせ しに。海路心に任せず難風吹いて。もと の地に着きし事。天命かと思えば。科な かりしも。地「科有りけるかと身を恨むる ばかりなり。 クセ「さる程に。次第々々に道せばき。御 身となりて此山に。分け入り給ふ頃は春。 所は三吉野の。花に宿かる・下臥{したぶし}も。長閑 ならざる夜嵐に。寝もせぬ夢と花も散り。 まことに一栄一落まのあたりなる浮世と て又此山を落ちて行く。シテツレ二人「昔清見原 の天皇。地「大友の皇子に襲はれて。彼の山 に踏み迷い。雪の木陰を。頼み給ひける 桜木の宮。神の宮滝。・西河{にしかう}の滝。我こそ落 ち行け落ちても波はかえるなり。さるに ても三吉野の。頼む木陰の花の雪。雨も たまらぬ奥山の音さわがしき春の夜の。 月は朧にて。なほ足引の。山深み分け迷

ひ行く有様は。シテツレ二人「唐土の・祚国{さこく}は花に 身を捨てゝ。地「・遊子残月{いうしざんげつ}に行きしも今身 の上にしら雲の。花を摘んでは同じく惜 む少年の。春も夜も。静かならで。さわ がしき三吉野の。山風に散る花までも。 追手の声やらんと。跡をのみよし野の奥 深く。急ぐ山路かな。 地「それのみならず憂かりしは。頼朝に 召し出され。静は舞の上手なり。とくと くと有りしかば。心も解けぬ舞の袖。返 す%\も恨めしく。昔恋しき時の和歌。 シテツレ二人「賎やしづ。序ノ舞「賎やしづ。賎 の苧環。繰り返し。地「昔を今に。なすよ しもがな。シテツレ二人「思いかへせば古も。 地「思いかえせば古も。恋しくもなし憂 き事の。今も恨の衣川。身こそは沈め。 名をばしづめぬ。シテツレ二人「武士の。地「物毎 に浮世のならひなればと思ふばかりぞ 山桜。雪に吹きなす。花の松風静が跡を。

弔ひ給へ静が跡を・弔{と}ひ給へ。 風の精(前ハ里女) 旅僧

ワキ三人次第「思ひやるさへ遥かなる。/\。東の 旅に出でうよ。ワキ詞「これは洛陽の辺よ り出でたる僧にて候。われいまだ東国を 見ず候ふ程に。此秋思ひ立ち陸奥の果ま でも修行せばやと思ひ候。道行三人「逢坂の。 関の杉むら過ぎがてに。/\。行くへも 遠き湖の。舟路を渡り山を越え。幾夜な 幾夜なの草枕。明け行く空も星月夜鎌倉 山を越え過ぎて。六浦の里に着きにけ り/\。 ワキ詞「千里の行も一歩より起るとかや。 遥々と思ひ候へども。日を重ねて急ぎ 候ふ程に。これははや相模の国六浦の里 に着きて候。此渡をして安房の清澄へ参

らうずるにて候。又あれによしありげな る寺の候ふを人に問へば。六浦の称名 寺とかや申し候ふ程に。立ちより一見せ ばやと思ひ候。なう/\御覧候へ。山々の 紅葉今を盛と見えて。さながら錦を晒せ る如くにて候。都にも斯様の紅葉の候ふ べきか。又これなる本堂の庭に楓の候ふ が。木立余の木に勝れ。唯夏木立の如く にて一葉も紅葉せず候。いかさまいはれ のなき事は候ふまじ。人来りて候はゞ尋 ねばやと思ひ候。 シテ呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ふぞ。 ワキ「さん候これは都より始めて此処一見 の者にて候ふが。山々の紅葉今を盛と見

えて候ふに。これなる楓の一葉も紅葉せ ず候ふ程に。不審をなし候。シテ「げによく 御覧じとがめて候。いにしへ鎌倉の中納 言為相の卿と申しゝ人。紅葉を見んとて 此処に来り給ひし時。山々の紅葉いまだ なりしに。この木一本に限り紅葉色深く たぐひなかりしかば。為相の卿とりあへ ず。いかにして此一本にしぐれけん。 詞「山にさきたつ庭のもみぢ葉と詠じ給 ひしより。今に紅葉を停めて候。ワキ「面 白の御詠歌やな。われ数ならぬ身なれど も。手向のためにかくばかり。古りはつ る此一本の跡を見て。袖の時雨ぞ山にさ きだつ。 シテ詞「あらありがたの御手向やな。いよ いよ此木の面目にてこそ候へ。ワキ「さて さてさきに為相の卿の御詠歌より。今に 紅葉を停めたる。いはれはいかなる事 やらん。シテ「げに御不審は御理。さき

の詠歌に預かりし時。此木心に思ふやう。 かゝる東の山里の。人も通はぬ古寺の庭 に。われ先だちて紅葉せずは。いかで妙 なる御詠歌にも預かるべき。功成り名遂 げて身退くは。詞「これ天の道なりといふ 古き言葉を深く信じ。今に紅葉を停めつ つ。唯常磐木の如くなり。ワキ「これは不 思議の御事かな。此木の心をかほどまで。 しろしめしたる御身はさて。いかなる人 にてましますぞ。シテ「今は何をか包むべ き。われは此木の精なるが。御僧たつとく まします故に。唯今現れ来りたり。今宵は こゝに旅居して。夜もすがら御法を説き 給はゞ。重ねて姿を見え申さんと。地「夕 の空も冷ましく。この古寺の庭の面。霧 の籬の露深き。千ぐさの花をかき分けて。 行くへも知らずなりにけり/\。 ワキ三人上歌待謡「処から心に適ふ称名の。/\。 御法の声も松風もはや更け過ぐる秋の夜

の。月澄み渡る庭のおも寝られんものか 面白や。/\。 後シテサシ一声「あらありがたの御弔やな。妙 なる値遇の縁に引かれて。二度こゝに来 りたり。夢ばしさまし給ふなよ。ワキ「不 思議やな月澄み渡る庭の面に。ありつる 女人とおぼしくて。影の如くに見え給ふ ぞや。草木国土悉皆成仏の。この妙文を 疑ひ給はで。猶々昔を語り給へ。 シテクリ「それ四季をり/\の草木。己々の 時を得て。地「花葉さま%\のその姿を。 心なしとは誰かいふ。シテ「それ青陽の春 の初。地「色香妙なる梅が枝の。かつ咲 きそめて諸人の心や春になりぬらん。 シテ「又は桜の花盛。地「唯雲とのみ三吉 野の。千本の花に如くはなし。クセ「月日 経て。移ればかはる眺かな。桜は散りし 庭の面に。咲きつゞく卯の花の。垣根や 雪にまがふらん。時移り夏暮れ秋も半に

なりぬれば。空定なきむら時雨。昨日 は薄きもみぢ葉も。露時雨もる山は。下 葉残らぬ色とかや。シテ「さるにても。東 の奥の山里に。地「あからさまなる都人 の。哀も深き言の葉の露の情に引かれつ つ。姿をまみえ数々に。言葉をかはす値 遇の縁。深き御法を授けつゝ。仏果を得 しめ給へや。 シテ「更け行く月の、夜遊をなし。地「色な き袖をや。返さまし。序ノ舞「。シテワカ「秋の夜の。 千夜を一夜に。重ねても。地「詞残りて。 鳥や鳴かまし。 シテ「八声の鳥も。かず/\に。地「八声の 鳥も。かず/\に。鐘も聞ゆる。シテ「明 方の空の。地「処は六浦の浦風山風。吹き しをり吹きしをり散るもみぢ葉の。月に 照り添ひてからくれなゐの庭の面。明け なば恥かし。暇申して。帰る山路に行く かと思へば木の間の月の。/\。かげろ

ふ姿と。なりにけり。 里の女 藤の精 旅僧

ワキ次第「山又山を遥々と。/\。越路の旅に 出でうよ。詞「これは都方より出でたる僧 にて候。われ此程は加賀の国に候ひて。 こゝかしこの名所を一見仕りて候。又 これより善光寺へ参らばやと思ひ候。 道行「雪消ゆる。白山風も長閑にて。/\。 日影長江の里も過ぎ。さゝぬ刀奈美の関 越えて。青葉に見ゆる紅葉川。そなたと ばかり白雲の。氷見の江行けば名に聞き し。多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦にも着きにけり。 ワキ詞「これははや越中の国多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦とか やに着きて候。此所は藤の名所と承り及 びたるに。真にあれなる藤の今を盛と見 えて候。立寄り見候ふべし。げに面白く

咲きて候。おのが波に同じ末葉のしをれ けり。藤咲く多〓{ゴ 大漢和 24671}のうらめしの身ぞ。 詞「古事の思ひ出でられて候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる旅人に申すべき 事の候。ワキ「此方の事にて候ふか何事に て候ふぞ。シテ「これは多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦とて藤の 名所なり古き歌に。たごの浦や汀の藤の 咲きしより。波の花さへ色に出でつゝ。 詞「かやうの歌をも詠じ給はで。おのが 浪に同じ末葉のしをれけりなど口ずさび 給ふは。あら心なの旅人やな。ワキ「思ひ よらずや人ありとも。知らで吟ぜし古歌 ながら。シテ「花のためにはいかならん。 ワキ「同じ末葉のしをれぬる。シテ「怨みな

らずや怨めしや。かの縄麻呂の歌に。 地上歌「多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦。底さへ匂ふ藤波を。藤 波を。かざして行かん。見ぬ人のためと 詠みたりし。此花を心なく。詠じ給ふは うらめしや。げにや思へば咲く花の。色 をも香をも知る人ぞ知ると詠みしもこと わりや知ると詠みしもことわりや。 ロンギ地「不思議やさてもかくばかり。其 白露のふる事を語り給ふは誰やらん。 シテ「われを誰とか夕日影。紫匂ふ花鬘。 心にかけてたび給へ。地「心に懸けて思へ とは。梢にかゝる藤波の。シテ「多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦 回に。地「名にしおふ花の精なりと。夕雲 の足早み。多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦風うち靡き。花の波 立つもとに寄るかと見せて失せにけり寄 るかと見えて失せにけり。中入「。 ワキ上歌待謡「霞む夜の。月は出でてもうば玉 の。/\。よるべ定めぬ浮れ鳥。鳴く音 も法の声添へて。花の跡訪ふ春の風。声

物凄き波枕。仮寝の夢や覚すらん/\。 後シテ一声「いかなれば虚しき。空に。散る花 の。あだなる色に。迷ひそめけん。ワキ「不 思議やな夜も更け過ぐる月影に。あらは れ出づる姿を見れば。ありつる女人の顔 ばせなり。いかさま疑ふ所もなく。花の 精にてましますか。シテ「恥かしながら花 の精。妙なる御法の一味の雨に。開くる 花の笑みの眉。これまで現れ出でたるな り。ワキ「あらありがたやさりながら。か くしも詞をかはす事。何の故にてあるや らん。シテ「意性化身自在不滅の。縁に引 かれて夜もすがら。歌舞をなさんと参り たり。ワキ「げにやもとより狂言綺語も。 シテ「讃仏乗の因縁。わき「隔はあらじ。 シテ「紫も。地「ゆかりの色も縁ならめ。 ゆかりの色も縁ならめと。教の外なる 法までも。今こそ悟の開くる。心の花なれ や。されば非情の草も木も。成仏こゝに

荒礒海深きは法の道ぞかし/\。 クリ「げにや春を送るに。舟車を動かす事 を用ひず。たゞ残鴬と落花とに。別る。 シテサシ「紫藤の露のもとに残る花の色。 地「げに面白や水 の面に。月の霞め る春もはや。紫 匂ふ花葛かゝる致 景は又世にも。 シテ「奈〓{ゴ 大漢和 24671}の浦回 も。程近く。地「眺 につゞく。景色 かな。クセ「なつか しき。色のゆかり と思ふにも。心に かゝる藤波の。夜昼わかで徒らに。送り 迎ふる年月の。春の花散りて青葉に。夏 たちばなの匂ふにぞ。見ぬ世の人もしの ばるれ。桐の葉落ちて秋来ぬと。しるくも

月の影澄むや。浦吹く風に小夜更けて。 暁と白浪。立ち騒ぐ群千鳥。友よぶ 声や霜雪に。冬の気色の知らるらん。 シテ「かやうに移ろふ四つの時。ことわり なれや夏かけて。盛久しき藤波の。花に 立ち添ふ朝霞。暮れゆく春のかたみぞ と。惜む心も紫の。深く頼を松が枝に。 かゝる契りぞたのもしき。

シテ「面白や。序ノ舞「。ワキ「面白や。ゆたに 吹くなる。春かぜに。地「誘はれつゝ も。千代を唱ふる千代を唱ふる。/\。 シテ「松に懸りて咲く藤の。地「薄紫の 雲の羽袖を返す舞姫。シテ「歌へや歌 へ折る柳落つる梅。地「あるひは花の。

シテ「藤生野も。地「隔てぬ色も匂も深海 松の。英遠の浜風。多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦回に吹き。 寄すも音さゆる。波も文どる舞の袂。月 に翻す。影も映るや紫の。/\。曙に薫 りて。たなびく霞に。入りにけり。 旅僧 杜若の精

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我此 間は都に候ひて。洛陽の名所旧跡のこり なく一見仕りて候。又これより東国行脚 と心ざし候。道行「夕々の仮枕。/\。宿 はあまたにかはれども。同じ憂き寝の美 濃尾張。三河の国に着きにけり/\。 詞「急ぎ候ふ間。程なう三河の国に着き て候。又これなる沢辺に杜若の今を盛と 見えて候。立ちより眺めばやと思ひ候。

げにや光陰とゞまらず春過ぎ夏も来て。 草木心なしとは申せども。時を忘れぬ花 の色。かほよ花とも申すやらん。あら美 しの杜若やな。 シテ詞呼掛「なう/\御僧。何しにその沢には 休らひ給ひ候ふぞ。ワキ詞「これは諸国一見 の者にて候ふが。杜若のおもしろさに眺 め居て候。さてこゝをばいづくと申し 候ふぞ。シテ「これこそ三河の国八橋とて。

杜若の名所にて候へ。さすがにこの杜若 は。名におふ花の名所なれば。色も一し ほ濃紫のなべての花のゆかりとも。思ひ なぞらへ給はずして。取りわき眺め給へ かし。あら心なの旅人やな。ワキ詞「げにげ に三河の国八橋の杜若は。古歌にもよま れけるとなり。いづれの歌人の言の葉や らん承りたくこそ候へ。シテ「伊勢物語に いはく。こゝを八橋といひけるは。水行 く川の蜘蛛手なれば。橋を八つ渡せるな り。其沢に杜若のいと面白く咲き乱れた るを。ある人かきつばたといふ五文字を 句の上に置きて。旅の心をよめと言ひけ れば。唐衣着つゝなれにし妻しあれば。 はる%\来ぬる旅をしぞ思ふ。これ在原 の業平の。此杜若をよみし歌なり。ワキ「あ ら面白やさてはこの。東のはての国々ま でも。業平は下り給ひけるか。シテ詞「こと 新しき問事かな。此八橋のこゝのみか。猶

しも。心の奥ふかき名所々々の道すがら。 ワキ「国々ところは多けれども。とりわき 心の末かけて。シテ「思ひわたりし八橋の。 ワキ「三河の沢の杜若。シテ「はる%\ きぬる旅をしぞ。ワキ「思の色を世に残 して。シテ「主は昔になり平なれども。 ワキ「かたみの花は。シテ「今こゝに。 地歌「在原の。跡な隔てそ杜若。/\。沢 辺の水の浅からず。契りし人も八橋の蜘 蛛手に物ぞ思はるゝ。今とても旅人に。 昔を語る今日の暮やがて馴れぬる。心か なやがて馴れぬる心かな。 シテ詞「いかに申すべき事の候。ワキ詞「何事 にて候ふぞ。シテ「見ぐるしく候へども。わ らはが庵にて一夜を御明し候へ。ワキ「あ らうれしややがて参り候ふべし。物着「。 シテ「なう/\此冠唐衣御覧候へ。ワキ「不 思議やな賎しき賎の臥処より。色もかゝ やく衣を着。透額の冠を着し。これ見よ

と承る。こはそも如何なる事にて候ふぞ。 シテ「これこそ此歌によまれたる唐衣。高 子の后の御衣にて候へ。又此冠は業平の。 豊の明の五節の舞の冠なれば。かたみの 冠唐衣。身に添へ持ちて候ふなり。 ワキ「冠唐衣は先々置きぬ。さて/\御身 は如何なる人ぞ。シテ「誠は我は杜若の精 なり。植ゑおきし昔の宿の杜若と。よみ しも女の杜若に。なりし謂の言葉なり。 又業平は極楽の。歌舞の菩薩の化現なれ ば。詠みおく和歌の言の葉までも。皆法 身説法の妙文なれば。草木までも露の恵 の。仏果の縁を弔ふなり。ワキ「これは末 世の奇特かな。正しき非情の草木に。言 葉をかはす法の声。シテ「仏事をなすや業 平の。昔男の舞の姿。ワキ「これぞ即ち歌 舞の菩薩の。シテ「仮の衆生となり平の。 ワキ「本地寂光の都を出でて。シテ「普く 済度。ワキ「利生の。シテ「道に。地次第「はる

ばる来ぬる唐ころも。/\。着つゝや舞 を奏づらん。シテ「別れこし。跡の恨の唐 衣。地「袖を都に。返さばや。イロエ「。 シテクリ「そも/\この物語はいかなる人の何 事によつて。地「思の露の信夫山。忍びて 通ふ道芝の。始もなく終もなし。シテサシ「昔 男初冠して奈良の京。春日の里に知るよ しして狩にいにけり。地「仁明天皇の御宇 かとよ。いともかしこき勅をうけて。大 内山の春がすみ。立つや弥生の初めつか た。春日の祭の勅使として透額の冠を許 さる。シテ「君の恵の深き故。地「殿上にて の元服の事。当時その例稀なる故に。初 冠とは申すとかや。 クセ「然れども世の中の。一度は栄え。一 度は。衰ふる理の誠なりける身のゆく へ。住所求むとて。東の方に行く雲の。 伊勢や尾張の海面に立つ波を見て。いと どしく過ぎにし方の恋しきに。羨ましく

も。かへる浪かなとうち詠めゆけば信濃 なる。浅間の嶽なれや。くゆる煙の夕気 色。シテ「さてこそ信濃なる。浅間の嶽に 立つ煙。地「遠近人の。見やはとがめぬと 口ずさみ猶はる%\の旅衣三河の国に着 きしかば。こゝぞ名にある八橋の。沢辺 に匂ふ杜若。花紫のゆかりなれば。妻 しあるやと思ひぞ出づる都人。然るに此 物語。その品おほき事ながら。とりわき此 八橋や。三河の水の底ひなく。契りし人 人のかず/\に。名をかへ品をかへて。 人待つ女物病み玉すだれの。光も。乱れ て飛ぶ蛍の。雲の上までいぬべくは。秋 風吹くと。仮にあらはれ衆生済度の我ぞ とは知るや否や世の人の。シテ「暗きに行 かぬ有明の。地「光普き月やあらぬ。春 や昔の春ならぬ我が身ひとつは。もとの 身にして。本覚真如の身を分け陰陽の神 といはれしも。唯業平の事ぞかし。斯様に

申す物がたり疑はせ給ふな旅人遥々来ぬ る唐衣。着つゝや舞をかなづらん。 シテ「花前に蝶まふ。紛々なる雪。地「柳上 に鶯飛ぶ片々たる金。序ノ舞「。シテ「植ゑ 置きし。昔の宿の。かきつばた。地「色ば かりこそ昔なりけれ。/\色ばかりこそ。 シテ「むかし男の名を留めて。花橘の。匂 うつる。菖蒲の鬘の。地「色はいづれ。似 たりや似たり。杜若花菖蒲。梢に鳴くは。 シテ「蝉の唐衣の。地「袖白妙の卯の花の 雪の。夜も白々と。明くる東雲の浅紫 の。杜若の。花も悟の。心開けて。すは や今こそ草木国土。すはや今こそ。草木 国土。悉皆成仏の御法を得てこそ。失せ にけれ。 従者 老人 在原業平の霊

ワキワキツレ二人次第「花にうつろふ嶺の雲/\かゝ るや。心なるらん。ワキ詞「かやうに候ふ者 は。下京辺に住居する者にて候。さて も大原野の花。今を盛なる由承り及び 候ふ間。若き人々を伴ひ申し。唯今大原 山へと急ぎ候。サシ「おもしろやいづくは あれど処から。花も都の名にし負へる。 大原山の花桜。三人歌「今を盛とゆふ花 の。/\。手向の袖もひとしほに。色そ ふ春の時を得て。神もまじはる塵の世 の。花や心に。まかすらん花や心にまか すらん。 シテ一セイ「しをりして。花をかざしの袖なが ら。老木の柴と。人や見ん。年ふれ ば齢は老いぬしかはあれど。花をし見れ

ば物思ひも。なしとよみしも身の上に。 今白雪を戴くまで。光にあたる春の日 の。長閑けき御代の時なれや。歌「散りも せず。咲きも残らぬ花ざかり。/\。四 方の景色も一しほに。にほひ満ち色にそ ふ。情の道にさそはるゝ。老な厭ひそ。 花心。老な厭ひそ花心。 ワキ詞「ふしぎやな貴賎群衆の其中に。こ とに年たけたる老人花の枝をかざし。さ も花やかに見え給ふは。そも何くより来 り給ふぞ。シテ「思ひよらずや貴賎の中に。 わきて言葉をかけ給ふは。さも心なき山 賎の。身にも応ぜぬ花ずきぞと。お笑ひ あるか人々よ。姿こそ山のかせきに似た りとも。心は花にならばこそ。なさばな

らめや心からに。地「をかしとこそは御覧 ずらめ。よしやこの身は埋木の。朽ちは。 果てし無や心の。色も香も知る人ぞ知ら ずな問はせ給ひそ。 ワキ詞「あら面白のたはぶれやな。よも誠 には腹立て給はじ。いかさま故ある心言 葉の。奥床しきを語り給へ。シテ詞「何と語 らん花盛。いふに及ばぬけしきをば。い かゞは思ひ給ふらん。 ワキ「げに/\妙なる梢の色。うつろふか げも大原や。シテ詞「小塩の山の小松が原よ り。煙る霞の遠山桜。ワキ「里は軒端の家 ざくら。シテ「匂ふや窓の梅も咲き。ワキ「あ かねさす日も紅の。シテ「霞か。ワキ「雲 か。シテ「八重。ワキ「九重の。地歌「都辺は。 なべて錦となりにけり。/\。桜を織らぬ 人し無き。花衣着にけりな。時も日も月 もやよひ。あひにあう眺かな。げにや大原 や。小塩の山も今日こそは神代も思ひ。

知られけれ。神代も思ひ知られけれ。 ワキ詞「かゝる面白き人に参りあひて候ふ ものかな。此まゝ御供申し花をも眺めう ずるにて候。又唯今の言葉のすゑに。大 原や小塩の山も今日こそは。詞「神代の事 も思ひ出づらめ。今処から面白う候。こ れはいかなる人の御詠歌にて候ふぞ。 シテ詞「事あたらしき問事かな。この大原野 の行幸に。在原の業平供奉し給ひし時。 忝くも后の御事を思ひいでて。神代の 事とはよみしとなり。申すにつけて我な がら。空恐ろしや天地の。神の御代より 人の身の。妹背の道は浅からぬ。地歌「名 残をしほの山深み。/\。のぼりての世 の物語。かたるも昔男。あはれ旧りぬる 身の程歎きても。かひなかりけり歎きて もかひぞなかりける。 ロンギ地「げに山賎のさもしげに。しばふ るひとと見ゆるにも。心ありける姿かな。

シテ「心知らればとても身の。姿に恥ぢぬ 花の友に馴れてさらばまじらん。地「ま じれやまじれ老人の。心若木の花の枝。 シテ「老隠るやとかざさん。地「かざしの 袖を引き引かれ。このもかのもの蔭ごと に。シテ「貴賎の花見。地「輿車の。花の轅 をかざしつれて。よろぼひさぞらひとり どりにめぐる盃の。天も花にや酔へるら ん紅うづむ夕霞。かげろふ人の面影あり と見えつゝ。失せにけりありと見えつゝ 失せにけり。中入間「。 ワキ詞「ふしぎや今の老人の。唯人ならず

見えつるが。さては小塩の神代の古跡。 和光の影に業平の。花に映じて衆生済度 の。姿現はし給ふぞと。三人歌待謡「思の露も たまさかの。/\。光を見るも花心。妙 なる法の道のべに。なほも奇特を待ち居 たり/\。 後シテ一セイ「月やあらぬ。春や昔の春ならぬ。 我が身ぞ本の。身も知らじ。ワキ「ふしぎ やな今までは。立つとも知らぬ花見車の。 やごとなき人の御有様。これは如何なる 事やらん。シテ「げにや及ばぬ雲の上。花 の姿はよも知らじ。詞「ありし神代の物 語。姿現すばかりなり。ワキ「あら有難の 御事や。他生の縁は朽ちもせで。シテ「契 りし人も様々に。ワキ「思ひぞいづる。 シテ「花も今。地歌「今日来ずは。あすは雪 とぞ降りなまし。/\。消えずはありと。 花と見ましやと詠ぜしに。今はさながら 花も雪も。皆白雲の上人の桜かざしの袖

ふれて花見車。くるゝより月の花よ待た うよ。 地クリ「それ春宵一刻値千金。花に清香月 に影。惜まるべきは唯此時なり。シテサシ「思 ふ事いはで唯にや止みぬべき。地「我にひ としき人しなければ。とは思へども人し れぬ。心の色はおのづから思内より言 の葉の。露しな%\に洩れけるぞや。 クセ「春日野の。若紫のすり衣。しのぶ の乱。限知らずとも詠ぜしに。陸奥の しのぶもぢずり誰故乱れんと思ふ。我な らなくにと。よみしも紫の色に染み香 にめでしなり。または唐衣。着つゝ馴れ にしつましあれば。はる%\きぬる。旅 をしぞ思ふ心の奥までは。いさ白雲のく だり月の都なれや東山。これもまたあづ まの。はてしなの人の心や。シテ「むさし 野は。今日はな焼きそ。若草の。地「妻もこ もれり我もまたこもる心は大原や。小塩

につゞく通路の。ゆくへはおなじ恋草の。 忘れめや今も名は昔男ぞと人もいふ。 シテ「昔かな。序ノ舞「。ワカ「昔かな。花も 処も。月も春。地「ありし御幸を。シテ「花 も忘れじ。地「花も忘れぬ。シテ「心やをし

ほの。地「山風ふき乱れ。散らせや散らせ。 散りまよふ木のもとながら。まどろめば。 桜に結べる夢かうつゝか世人定めよ夢か 現か世人定めよ。寝てか覚めてか。春の 夜の月。曙の花にや。残るらん。 芦屋公光 従者 老人 在原業平の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「藤咲く松も紫の。/\。雲の 林を尋ねん。ワキ詞「これは津の国芦屋の里 に。公光と申す者にて候。我幼かりし 頃よりも。伊勢物語を手馴れ候ふ所に。 ある夜不思議なる霊夢を蒙りて候ふ程 に。唯今都に上らばやと存じ候。サシ「花 の新に開くる日初陽潤へり。鳥の老いて 帰る時。薄暮くもれる春の夜の。月の都 にいそぐなり。下歌「芦屋の里を立ち出で て。我は東に赴けば。名残の月の西の海。

汐のひる子の浦とほし/\。上歌「松蔭 に。煙をかづく尼が崎。/\。暮れて見 えたる漁火のあたりを問へば難波津に。 咲くや木の花冬ごもり。今は現に都路の。 遠かりし。ほどは桜にまぎれある雲の林 に着きにけり雲の林につきにけり。 ワキ「遥に人家を見て花あれば則ち入る なればと。木蔭に立ち寄り花を折れば。 シテ詞「誰そやう花折るは。今日は朝の霞 消えしまゝに。夕の空は春の夜の。殊に

長閑に眺めやる。嵐の山は名にこそ聞け。 真の風は吹かぬに。詞「花を散らすは鶯 の。羽風に落つるか松の響か人か。それ かあらぬか木の下風か。あら心もとなと 散らしつる花や。詞「や。さればこそ人の 候。落花狼藉の人そこのき給へ。ワキ「そ れ花は乞ふも盗むも心有り。とても散る べき花な惜み給ひそ。シテ「とても散る べき花なれども。花に憂きは嵐。それも花 ばかりをこそ散らせ。おことは枝ながら 手折れば。風よりもなほ憂き人よ。ワキ「何 とて素性法師は。見てのみや人に語らん 桜花。手毎に折りて家土産にせんとは詠 みけるぞ。シテ「さやうによむも有り。又 ある歌に。春風は花のあたりをよぎて吹 け。心づからやうつろふと見ん。実にや 春の夜の一時を千金に替へじとは。花に 清香月に影。千顆万顆の玉よりも。宝と 思ふ此花を。折らせ申す事は候ふまじ。

ワキ「実に/\これは御理。花物いはぬ 色なれば。人にて花を恋衣。シテ詞「軽漾激 して影唇を動かせば。我は申さずとも。 ワキ「花も惜しきと。シテ「いひつべし。 地歌「実に枝を惜むため又は春の手折 るは。見ぬ人の為。惜むも乞ふも情あ り。二つの色の争ひ柳桜をこきまぜて。 都ぞ春の。錦なる都ぞ春の錦なる。 シテ詞「いかに旅人。御身は何方より来り 給ふぞ。ワキ詞「これは津の国芦屋の里に。 公光と申す者にて候ふが。我幼かりし頃 よりも。伊勢物語を手馴れ候ふ所に。あ る夜の夢に。とある花の蔭よりも。紅の 袴召されたる女性。束帯給へる男。伊勢 物語の草紙を持ちたゝずみ給ふを。あた りにありつる翁に問へば。あれこそ伊勢 物語の根本。在中将業平。女性は二条の 后。処は都北山陰。紫の雲の林と語る と見て夢覚めぬ。余りにあらたなる事に

て候ふ程に。これまで参りて候。シテ「さ ては御身の心を感じつゝ。伊勢物語を授 けんとなり。今宵はこゝに臥し給ひ。別 れし夢を待ち給へ。ワキ「嬉しやさらば木 の本に。袖を片敷き臥して見ん。シテ詞「其 花衣を重ねつゝ。又寝の夢を待ち給はゞ。 などか験のなかるべき。ワキ「かやうに委 しく教へ給ふ。御身は如何なる人やら ん。シテ詞「其様年の古びやう。昔男とな ど知らぬ。ワキ「さては業平にてまします か。シテ「いや。地歌「我が名を何とゆふばえ の。/\。花をし思ふ心故木隠れの月に現 はれぬ。誠に昔を恋衣一枝の花の蔭に寝 て。我が有様を見給はゞ。其時不審を晴ら さんと。ゆふべの空の一霞思ほえずこそ なりにけれおもほえずこそなりにけれ。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「いざさらば。木蔭の月に臥し て見ん。/\。暮れなばなげの花衣。袖 をかたしき臥しにけり/\。

後シテ一声「月やあらぬ。春や昔の春ならぬ。 我が身ひとつは。もとの身にして。 ワキ「不思議やな雲の上人にほやかに。花 にうつろひ現れ給ふは。いかなる人に てましますぞ。シテ詞「今は何をか包むべ き。昔男の古を。語らん為に来りた り。ワキ「さらば夢中に伊勢物語の其品々 を語り給へ。シテ詞「いで/\さらば語らん と。花の嵐も声添へて。ワキ「其品々を。 シテ「語りけり。 クリ「抑この物語は。いかなる人の何 事によつて。地「思の露を染めけるぞと。 言ひけん事も。理なり。 シテサシ「まづは 弘徽殿の細殿に。人目を深く忍び。地「心 の下簾の徒然と人はたゝずめば。我も花 に心を染みて。共にあくがれ立ち出づる。 クセ「二月や。まだ宵なれど月は入り。 我等は出づる恋路かな。抑日の本の。中 に名所と云ふ事は。我が大内にあり彼の遍

昭が連ねし。花の散り積る芥川を打ち渡 り。思ひ知らずも迷ひ行く。かづける衣 は紅葉襲。緋の袴踏みしだき。誘ひ出づ るやまめ男。紫の。一本ゆひの藤袴。 しをるゝ裾をかい取つて。シテ「信濃路や。 地「園原しげる木賊色の。狩衣の袂を冠 の巾子にうちかづき。忍び出づるや二月 の。黄昏月も早入りて。いとゞ朧夜に。 降るは春雨か。落つるは涙かと。袖打ち払 ひ裾を取り。しを/\すご/\と。たど り/\も迷ひ行く。

シテ「思ひ出でたり夜遊の曲。地「返す真 袖を。月や知る。序ノ舞「。キリ「夜遊の舞楽も時 移れば。/\。名残の月も。山藍の羽袖。 かへすや夢の黄楊の枕。此物語。語ると も尽きじ。シテ「松の葉の散り失せず。 地「松の葉散り失せず。末の世までも。 情知る。言の葉草のかりそめに。かく現 はせる古の。伊勢物語。かたる夜もす がら覚むる夢となりにけりや覚むる夢と なりにけり。 一遍上人 従僧 里の女 和泉式部の霊

ワキ、ワキツレ二人、次第「教の道も一声の。/\。御法 を四方に弘めん。ワキ詞「これは念仏の行者 一遍と申す聖にて候。我此度三熊野に参 り。一七日参籠申し。証誠殿に通夜申

  して候へば。あらたに霊夢を蒙りて候。 六十万人決定往生の御札を。普く国土 に弘めよとの霊夢にまかせ。まづ都へと 志して候。道行三人「弥陀頼む。願も三つの御

山を。/\。今日立ち出づる旅衣紀の関 守が手束弓。出で入る日数重なりて。時 もこそあれ春の頃。花の都に着きにけ り/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これは早都誓願寺 に着きて候。告にまかせて札を弘めばや と思ひ候。有難や実に仏法の力とて。貴 賎群集の色々に。袖を連ね踵をついで。 知るも知らぬもおしなべて。念仏三昧の 道場に。出で入る人の有難さよ。 シテサシ「処は名におふ洛陽の。花の衣の今更 に。心は空にすみぞめの。ワキ「夕の鐘の 声々に。称名の御法。シテ「鳧鐘の響。 ワキ「聴衆の人音。シテ「軒の松風。ワキ「お のれ/\と。シテ「かはれども。地歌「弥陀 頼む。心は誰も一声の。/\。うちに生 るゝ蓮葉の。濁にしまぬ心もて何疑の 有るべき。有難や此教洩らさぬ誓目のあ たり。受け悦ぶや上人の御札をいざや保   たん御札をいざやたもたん。 シテ詞「如何に上人に申すべき事の候。 ワキ詞「何事にて候ふぞ。シテ「この御札を 見奉れば。六十万人決定往生とあり。 扨々六十万人より外は往生に漏れ候ふべ きやらん。返す%\も不審にこそ候へ。 ワキ「実によく御不審候ふものかな。これ は三熊野の御夢想に四句の文有り。其四 句の文の上の字を取りて。証文のために 書きつけたり。たゞ決定往生南無阿弥 陀仏と。此文ばかり御頼み候へ。シテ「さ て/\四句の文とやらんは。如何なる事 にて有るやらん。愚痴の我等に示し給へ。 ワキ詞「いで/\語つて聞かせ申さん。六 字名号一遍法。十界依正一遍体。万行離 念一遍証。人中上々妙好華。此四句の文 の上の字なれば。六十万人とは書きたる なり。シテ詞「今こそ不審春の夜の。闇をも 照らす弥陀の教。ワキ「光明遍照十方世

界に。漏るゝ方なき御法なるを。僅かに 六十万人と。人数をいかで定むべき。 シテ「さてはうれしや心得たり。此御札 の六十万人。その人数をばうち捨てゝ。 ワキ「決定往生南無阿弥陀仏と。シテ「唯 一筋に念ずならば。ワキ「それこそ即ち決 定する。シテワキ二人「往生なれや何事も。皆う ち捨てゝ南無阿弥陀仏と。地歌「称ふれば。 仏も我もなかりけり。/\。南無阿弥陀 仏の声ばかり。至誠心深心廻向。発願の 鉦の声耳に染みて有難や。誠に妙なる此 教。十声一声数分かで。悟をも迷をも 迎へ給ふぞ有難き。さる程に。夕陽雲に うつろひて。西にかげろふ夕月の寄るの念 仏を急がん夜念仏をいざや急がん。 口ンギ地「早更け行くや夜念仏の。聴衆の 眠覚まさんと。鉦うち鳴らし念仏す。 シテ「有難や五障の雲のかゝる身を。助け 給はゞ此世より。二世安楽の国に早生れ 行かんぞ嬉しき。地「実に安楽の国なれ や。安く生るゝ蓮葉の台の縁ぞ誠なる。 シテ「有難や。/\。さぞな始めて弥陀の 国。涼しき道ぞ頼もしき。地「頼ぞまこ と此教。或は利益無量罪。シテ「又は余経 の後の世も。地「弥陀一教と。シテ「聞くも のを。地「有難や/\。八万緒聖教。皆是 阿弥陀仏なるべし。この御本尊も上人も 唯同じ御誓願寺ぞと。仏と上人を一体に 拝み申すなり。 シテ詞「いかに申すべき事の候。ワキ「何事 にて候ふぞ。シテ「誓願寺と打ちたる額を 除け。上人の御手跡にて。六字の名号にな して賜はり候へ。ワキ「これは不思議なる 事を承り候ふものかな。昔より誓願寺と 打ちたる額をのけ。六字の名号になすべ き事。思ひもよらぬ事にて候。シテ「いや これも御本尊の御告と思し召せ。ワキ「そ も御本尊の御告とは。御身はいづくに住 む人ぞ。シテ「わらはが住家はあの石塔に て候。ワキ「不思議やなあの石塔は。和泉 式部の御墓とこそ聞きつるに。御住家と は不審なり。シテ詞「さのみな不審し給ひそ よ。我も昔は此寺に。値遇の有れば澄む 水の。春にも秋や通ふらし。地「結ぶ泉の 自が。名を流さんも恥かしや。よしそ れとても上人よ。我が偽は亡き跡に。 和泉式部は我ぞとて。石塔の石の火の。 光と共に失せにけり/\。中入間「。 ワキ詞「仏説に任せ誓願寺と打ちたる額を 除け。六字の名号を書きつけて。仏前に 移し奉れば。三人待謡「不思議や異香薫じつ つ。/\。花降り下り音楽の声する事の あらたさよ。これにつけても称名の。心 一つを頼みつゝ。鉦打ち鳴らし同音に。 ワキ「南無阿弥陀仏弥陀如来。 後シテサシ、出端「あら有難の額の名号やな。末世 の衆生済度のため。仏の御名を顕して。

仏前に移す有難さよ。我も仮なる夢の世 に。和泉式部といはれし身の。仏果を得 るや極楽の歌舞の菩薩となりたるなり。 二十五の。地「菩薩聖衆の御法には。紫雲 たなびく夕日影。シテ「常の灯。影清く。 地「さながらこゝぞ極楽世界に。生れけ るかと有難さよ。 地クリ「そも/\当寺誓願寺と申し奉る は。天智天皇の御願。御本尊は慈悲万行 の大菩薩。春日の明神の御作とかや。 シテサシ「神と云ひ仏と云ひ。唯これ水波の隔 なり。地「然るに和光の影広く。一体分 身現れて衆生済度の御本尊たり。シテ「さ れば毎日一度は。地「西方浄土に通ひ給ひ て。来迎引摂の。誓を現しおはします。 クセ「笙歌。遥に聞ゆ。孤雲の上なれ や。聖衆来迎す。落日の前とかや。昔在 霊山の御名は法華一仏。今西方の弥陀如 来。慈眼視衆生現れて。娑婆示現観世

音。三世利益同一体有難や我等がための 悲願なり。シテ「若我成仏の。光を受くる世 の人の。地「我が力には行き難き。御法の 御舟の水馴棹さゝでも渡る彼の岸に。至り 至りて楽を極むる国の道なれや。十悪 八邪の迷の雲も空晴れ。真如の月の西方 も。こゝを去ること遠からず。唯心の浄 土とは此誓願寺を拝むなり。シテ「歌舞の 菩薩も。さま%\の。地「仏事をなせる。 心かな。序ノ舞「。シテ「ひとりなほ。仏の 御名を。尋ね見ん。地「各帰る法の場人。 法の場人法の場人の。シテ「実にも妙なる 称名の数々。地「虚空に響くは。シテ「音 楽の声。地「異香薫じて。シテ「花降る雪の。 地「袖をかへすや返す%\も。貴き上人 の。利益かなと。菩薩聖衆は。面々に。 御堂に打てる。六字の額を。皆一同に。 礼し給ふは。あらたなりける。奇瑞かな。 漁夫白竜 漁夫 天女

ワキ、ワキツレ二人一セイ「風早の。三穂の浦回をこぐ舟 の。浦人さわぐ。浪路かな。ワキサシ「これは 三保の松原に。白竜と申す漁夫にて候。 三人「万里の好山に雲忽ちにおこり。一楼 の明月に雨はじめて晴れり。げにのどか なる時しもや。春のけしき松原の。浪立 ちつゞく朝霞。月ものこりの天の原。及 なき身のながめにも。心そらなるけしき かな。下歌「わすれめや山路をわけて清見 がた。はるかに三保の松原に。たちつれ いざや。通はんたちつれいざや通はん。 上歌「風向ふ。雲の浮浪たつと見て。/\。 釣せで人やかへるらん。待てしばし春な らば吹くものどけき朝風の。松は常磐の 声ぞかし。浪は音なき朝なぎに。釣人お

ほき。小舟かな釣人多き小舟かな。 ワキ詞「われ三保の松原にあがり。浦の景 色を眺むる所に。虚空に花降り音楽聞 え。霊香四方に薫ず。これ唯事と思はぬ 所に。これなる松に美しき衣かゝれり。 寄りて見れば色香妙にして常の衣にあら ず。いかさま取りて帰り古き人にも見 せ。家の宝となさばやと存じ候。 シテ詞呼掛「なうその衣はこなたのにて候。何 しにめされ候ふぞ。ワキ「これは拾ひたる 衣にて候ふ程に取りて帰り候ふよ。 シテ「それは天人の羽衣とて。たやすく 人間にあたふべき物にあらず。本のごと くに置き給へ。ワキ「そも此衣の御ぬしと は。さては天人にてましますかや。さも

あらば末世の奇特にとゞめおき。国の宝 となすべきなり。衣をかへす事あるま じ。シテ「かなしやな羽衣なくては飛行の 道も絶え。天上にかへらんことも叶ふま じ。さりとては返したび給へ。ワキ「此御 詞を聞くよりも。いよ/\白竜力を得。 詞「本より此身は心なき。天の羽衣とり かくし。かなふまじとて立ちのけば。 シテ「今はさながら天人も。羽根なき鳥の 如くにて。あがらんとすれば衣なし。 ワキ「地にまた住めば下界なり。シテ「とや あらんかくやあらんと悲しめど。ワキ「白 竜衣をかへさねば。シテ「力及ばず。 ワキ「せんかたも。地「涙の露の玉鬘。か ざしの花もしを/\と。天人の五衰も目 のまへに見えてあさましや。 シテ「天の原。ふりさけみれば。霞たつ。 雲路まどひて。ゆくへ知らずも。地下歌「住 み馴れし空にいつしかゆく雲のうらやま

しきけしきかな。上歌「迦陵頻迦のなれ なれし。/\。声今さらにわづかなる。 ・雁{かりがね}のかへりゆく天路を聞けばなつか しや。千鳥鴎の沖つ浪。ゆくか帰るか春 風の空に吹くま でなつかしや空 に吹くまでなつ かしや。 ワキ詞「いかに申し 候。御姿を見た てまつれば。あ まりに御痛はし く候ふ程に。衣 をかへし申さう ずるにて候。シテ 「あらうれしや こなたへ給はり候へ。ワキ「しばらく。承 り及びたる天人の舞楽。たゞ今こゝにて 奏し給はゞ。ころもをかへし申すべし。

シテ「嬉しやさては天上にかへらん事をえ たり。此悦にとてもさらば。人間の御遊 のかたみの舞。月宮をめぐらす舞曲あり。 たゞ今こゝにて奏しつゝ。世のうき人に 伝ふべしさりながら。衣なくては叶ふま じ。さりとては先かへし給へ。ワキ「いや 此衣をかへしなば。舞曲をなさで其ま

まに。天にやあがり給ふべき。シテ「いや 疑は人間にあり。天に偽なきものを。 ワキ「あら恥かしやさらばとて。羽衣を返 しあたふれば。シテ「少女は衣を着しつゝ。 霓裳羽衣の曲をなし。ワキ「天の羽衣風に 和し。シテ「雨に湿ふ花の袖。ワキ「一曲を かなで。シテ「舞ふとかや。地次第「東遊の駿 河舞。/\此時や始めなるらん。 地クリ「それ久堅の天といつぱ。二神出世 の古。十万世界を定めしに。空は限 もなければとて。久方の空とは。名づけ たり。シテサシ「しかるに月宮殿のありさま。 玉斧の修理とこしなへにして。地「白衣黒 衣の天人の。数を三五にわかつて。一月 夜々の天乙女。奉仕を定め役をなす。 シテ「我もかずある天乙女。地「月の桂の 身を分けて仮に東の。駿河舞。世に伝へ たる。曲とかや。クセ「春霞。たなびきに けり久かたの。月の桂も花やさく。げに花

かづら色めくは春のしるしかや。おもし ろや天ならで。こゝも妙なり天津風。雲 の通路吹きとぢよ。乙女の姿。しばし留 りて。此松原の。春の色を三保が崎。月 清見潟富士の雪いづれや春のあけぼの。 たぐひ浪も松風ものどかなる浦のありさ ま。そのうへ天地は。何を隔てん玉垣の。 内外の神の御末にて。月も曇らぬ日の本 や。シテ「君が代は。天の羽衣まれに来て。 地「撫づとも尽きぬ巌ぞと。聞くも妙な り東歌。声そへてかず/\の。笙笛琴箜 篌孤雲の外に満ち/\て。落日の紅は蘇 命路の山をうつして。緑は浪に浮島が。 払ふ嵐に花ふりて。げに雪をめぐらす白 雲の袖ぞ妙なる。シテ「南無帰命月天子

本地大勢至。地「東遊の舞の曲。序ノ舞「。 シテワカ「あるひは。天つ御空の緑の衣。地「又 は春立つ霞の衣。シテ「色香も妙なり乙女 の裳。地「左右左。左右颯々の。花をかざ しの天の羽袖。なびくもかへすも舞の 袖。破ノ舞 キリ地「東遊のかず/\に。/\。その 名も月の色人は。三五夜中の空に又。満 月真如の影となり。御願円満国土成就。 七宝充満の宝を降らし。国土にこれを。 ほどこし給ふさるほどに。時移つて。天 の羽衣。浦風にたなびきたなびく。三保 の松原浮島が雲の。愛鷹山や富士の高嶺。 かすかになりて。天つ御空の。霞にまぎ れて。失せにけり。 旅僧 従僧 里の女 落葉宮の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「月を都のしるべにて。/\。越 路の秋に出でうよ。ワキ詞「これは北国方よ り出でたる僧にて候。我未だ都を見ず候 ふ程に。此秋思ひ立ち都に上り候。サシ「万 里にして人南に去り。三春の雁北に飛ぶ。 三人歌「花は唯越路の春やまさるらん。 /\。都の空を別れ来し名残を今も音 にたてゝ。月にも急ぐかり衣。はるけ き旅の行方かな/\。ワキ詞「急ぎ候ふ間。 これは早都のほとりにて小野とかや申す げに候。あら笑止と立ち重りたる霧や候。 唯今の景色にて古き事の思ひ出でたるぞ や。荻原や軒端の露にそぼちつゝ。八重 立つ露をわけぞ行くべき。シテ詞呼掛「なう/\ 御僧今の歌をば何と思ひよりて詠じさせ 給ふぞ。ワキ「これは始めて都に上る者に て候ふが。まだふみ馴れぬ道のべに。い とゞ八重立つ夕霧を。分けん方なき哀さ に。古事の思ひ出でられて何となく口ず

さみ候ふよ。シテ「是は古。夕霧の大臣と聞 えし人の。此処にて詠ぜし歌なり。其心を も知し召して口ずさみ給ふかと思へば尋 ね申すなり。ワキ「いやそれ迄は知らねど も。唯秋霧のわけま憂きに。よそへて思ひ 出でたるなり。シテ「扨は心をば知らせ給 はざるか。いたはしやゆかん都の伝とて も。まだ程遠き夕霧に。いかでかまがは せ給ふべき。詞「草の扉はいぶせくとも。 一夜を明させ給ふべし。ワキ「実にありが たき御事かな。さらば御共申さんと。 シテ「そことも知らぬ小野の細道。ワキ「末 もつゞかぬ。シテ「かたへの野べを。地「入 方に成り行く秋の夕日影。/\。空の気 色も冷じく。日ぐらしの声さへしきる山 のべは。をぐらき心地のみ心ぼそき夕か な。我が住む方の庵とて。帰り馴れずば 旅人の。いかでか分けん道ならん/\。 ワキ詞「今夜の御宿ありがたう候。さて/\

先の詠歌につき夕霧とやらんの此処へ御 出有りたる由聞え候。扨この小野にはい か様なる人の住み給ひし処にて候ふぞ。 シテ「此処には一条の御息所の御物の気 にて暫く住ませ給ひしに。同じく御息女 落葉の宮も。母御にうちそひ住ませ給ひ て候。ワキ「あら面白や落葉の宮とは。いか やうなる御名にて候ぞ御物語り候へ。 シテ「さなきだに女の身は。五障三従の 罪深きに。世を背かんの心の本意も。叶 はぬ其身の昔語。語りて聞かせ申すべ し。跡よく弔ひ給ひ給へ。地クリ「抑此落葉 の宮と申すは。光源氏の御兄。朱雀院女 二の宮。一条の御息所の。御息女なり。 シテサシ「其頃柏木の右衛門の督と申しゝ人。 地「をりしも春の暮つかた。風吹かずか しこき日影を興じつゝ。故ある木立の花 盛。わづかなる四本の蔭に乱れつゝ。い どみ争ふ鞠の数。暮れ行く庭を思はずも

手飼の猫のまとはりし。シテ「こすの外も れし面影の。地「身にそふきづなとなりた るなり。クセ「恋の奴となりはつる思やの べんとばかりに。ゆかりの露を結びしに。 契の中は身に染まで。もとより染みにし 方こそなほ茂り行く草の名の。慰めがた きをばすてにて。もろかづら落葉を何に 拾ひけん。名はむつましくかざしなれど も。かくいひし言の葉の我が名にあふぞ 悲しき。其後をりを得て思の末はなよ 竹の。一夜結びし手枕を。かはすほどな ききぬ%\の。袖にあまれる白露の。お きて行く空も知られぬ明暮に。いづくの 露のかゝる袖の。思の色をさすがとや。 人のあはれの露かけて。シテ「明暮の空に 浮身は消えなゝん。地「夢なりけりと見て もせめて。慰むべくといふ声を聞き捨て 出でし魂は我を離れてさながらに。人 にとまれるこゝちして。うつし心も涙の

み。其身をせめて絶えし人に。我が身はか なき契こそ消えしにまさるつらさなれ。 ロンギ地「昔語の言の葉の。おくゆかしき を同じくは心に残し給ふなよ。シテ「世語 を語ればいとゞ古に。又立ち帰る袖の 浪の。あはれはかなき身の果能々弔ひ てたび給へ。地「思ひよらずや其跡を。弔 ふべき御身誰ならん。シテ「恥かしながら この上は。地「わが名をいはん。シテ「夕霧 の。地「迷を晴らしおはしませ。我も音を なく雲居の雁寒み吹く風の。誘ふとば かり失せにけり/\。中入間「。ワキ詞「唯今見 えし夢人は。たゞ人ならず思ひしに。扨 は古の夕霧に迷の心を残し。我に言葉 をかはしけるか。いざや御跡弔はんと。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「とくや御法の花のひも。/\。 ながき闇路も終に今は。若生人天中受 勝妙楽。若在仏前蓮花化生。シテ一声「あら有 難の。御経やな。/\。ありし世を思ひも

出でじ今は早。妙なる御法の値遇の縁に。 玉磬の声は管絃を奏する事を思ひ。衲衣 の僧は綺羅の人にかはりたり。いよ/\ 仏果を授け給へ。ワキ「ふしぎやな千種の 露の色々に。錦を連ぬる花の袖。そこは かとなき面影は。ありし一夜の主やらん。 シテ「御弔のありがたさに。恥かしな がら古の。草の蔭なる魄霊の。これまで現 れ参りたり。詞「思ひ出でたり此処にて。 なにがしの律師貴き御声をあげて。陀羅 尼読みたりし事。唯今のやうに思はるゝ ぞや。阿檀陀意。檀陀婆帝。地「檀陀婆帝。 序ノ舞「。シテ「得聞是陀羅尼者。当智普賢。 神通之力。地「若但書写。是人命終。当生 〓{新字源:2391。たう}利天。是時八万四千の天女。伎楽の声 声。有難や。破ノ舞「。シテ「嵐に従ふ木々 の落葉。/\は。簫瑟を含み。シテ「石に そゝぐ。地「飛泉の声は。シテ「雅琴の翫 ぶ。伎楽の遊。地「御法の御声あひにあひ

たり。虫の音鹿の音。滝つ響も一つに乱る る。小野の千草の。露に立ちそふ野分の

風に。錦をかざりし梢の紅葉。/\は。 木蔭の落葉と。朽ちにけり。 遊行上人 従僧 老人 柳の精

ワキ、ワキツレ二人次第「帰るさ知らぬ旅衣。/\。法 に心や急ぐらん。ワキ詞「これは諸国遊行の 聖にて候。我一遍上人の教を受け。遊行 の利益を六十余州に弘め。六十万人決定 往生の御札を。普く衆生にあたへ候。此 程は上総の国に候ひしが。これより奥へ と志し候。道行三人「秋津州の。国々めぐる法 の道。/\。まよはぬ月も光添ふ。心の 奥を白河の。関路と聞けば秋風も。立つ 夕霧の何くにか今宵は宿をかり衣。日も 夕暮に。なりにけり日も夕暮になりにけ り。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。音にきゝし白河 の関をも過ぎぬ。又これに数多の道の見

えて候。広き方へゆかばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\遊行上人の御供の人に申 すべき事の候。ワキ詞「遊行の聖とは札の御 所望にて候ふか。老足なりともいま少し 急ぎたまへ。シテ「有難や御札をも賜はり 候ふべし。まづ先年遊行の御下向の時も。 古道とて昔の街道を御通り候ひしなり。 されば昔の道を教へ申さんとて。はるば るこれまで参りたり。ワキ「不思議やさて は先の遊行も。此道ならぬ古道を。通り し事の有りしよなう。シテ「昔は此道なく して。あれに見えたる一村の。森のこな たの川岸を。御通りありし街道なり。其

上朽木の柳とて名木あり。かゝる尊き上 人の。御法の声は草木までも。成仏の縁 ある結縁たり。地「こなたへいらせたまへ とて。老いたる馬にはあらねども。道し るべ申すなり。いそがせたまへ旅人。 上歌「げにさぞな処から。/\。人跡たえ て荒れはつる。葎蓬生刈萱も。乱れあひ たる浅茅生や袖に朽ちにし秋の霜。露分 衣来て見れば。昔を残す古塚に。朽木の柳 枝さびて。影踏む道は末もなく風のみ渡 る。けしきかな風のみ渡るけしきかな。 シテ詞「これこそ昔の街道にて候へ。又こ れなる古塚の上なるこそ朽木の柳にて候 よく/\御覧候へ。ワキ詞「さては此塚の 上なるが名木の柳にて候ひけるぞや。げ に川岸も水絶えて。川そひ柳朽ち残る。 老木はそれとも見えわかず。蔦葛のみ這 ひかゝり。青苔梢を埋む有様。誠に星霜 年旧りたり。詞「さていつの世よりの名木

やらん。くはしく語り給ふべし。 シテ「昔の人の申しおきしは。鳥羽の院の 北面。佐藤兵衛憲清出家し。西行と聞え し歌人。此国に下り給ひしが。頃は水無 月半なるに。此川岸の木のもとに。暫し 立ちより給ひつゝ。一首を詠じ給ひしな り。ワキ「謂を聞けば面白や。さて/\西 行上人の。詠歌はいづれの言の葉やら ん。シテ詞「六時不断の御勤の。隙なき内 にも此集をば。御覧じけるか新古今に。 地歌「道のべに。清水流るゝ柳蔭。/\。 しばしとてこそ立ちどまり。涼みとる言 の葉の。末の世々までも。残る老木はな つかしや。かくて老人上人の。御十念を 賜はり御前を立つと見えつるが。朽木の 柳の古塚に寄るかと見えて失せにけり。 寄るかと見えて失せにけり。中入間「。 シテ詞「不思議やさては朽木の柳の。われ に詞をかはしけるよと。三人待謡「念の珠の数

数に。/\。御法をなして称名の声打 ち添ふる初夜の鐘。月も曇らぬ夜もすが ら。露をかたしく。袂かな露をかたしく 袂かな。 シテサシ出端「〓{ゲン 17186}水羅紋海燕かえる。柳条恨を ひいて荊台にいたる。徒らに。朽木の柳時 を得て。地「今ぞ御法に合竹の。シテ「直に みちびく。弥陀の教。地「衆生称念必得 往生の。功力にひかれて草木までも。仏 果に至る。老木の柳の。髪も乱るゝ白髪 の老人。忽然と現れ出でたる烏帽子も。 柳さびたる有様なり。 ワキ「不思議やなさも古塚の草深き。朽木 の柳の木の本より。其様怪したる老人 の。烏帽子狩衣を着しつゝ。現れ給ふは不 審なり。シテ詞「何をか不審し給ふらん。 はや我が姿は現し衣の。日も夕暮の道し るべせし。其老人にて候ふなり。ワキ「さ ては昔の道しるべせし。人は朽木の柳の

精。シテ「御法の教なかりせば。非情無心 の草木の。台に到る事あらじ。ワキ「中々 なりや一念十念。シテ「唯一声のうちに生 るゝ。ワキ「弥陀の教を。シテ「身に受け て。地「此界一人念仏名。西方便有一蓮生。 但使一生常不退。此花。帰つてこゝにむか ひ。上品上生に。到らん事ぞ嬉しき。 シテ「釈迦すでに滅し。弥勒いまだ生ぜ ず。弥陀の悲願を頼まずは。いかで仏果 にいたるべき。地クリ「南無や灑濁帰命頂 礼本願偽ましまさず。超世の悲願に身を 任せて。他力の舟にのりの道。シテサシ「すな わち彼岸に到らん事。一葉の舟の力なら ずや。地「彼の黄帝の貨狄が心。聞くや秋 吹く風の音に。散りくる柳の一葉の上に。 蜘蛛の乗りてさゝがにの。糸引き渡る姿 より。巧み出せる舟の道これも柳の 徳ならずや。シテ「其外玄宗華清宮にも。 地「宮前の楊柳寺前の花とて。眺絶えせ

ぬ名木たり。クセ「そのかみ洛陽や。清水 寺の古。五色に見えし滝浪を。尋ねの ぼりし水上に。金色の光さす。朽木の柳 忽ちに。楊柳観音とあらわれ。今に絶え せぬあと留めて。利生あらたなる。歩を はこぶ霊地なり。されば都の花盛。大宮 人の御遊にも。蹴鞠の庭の面。四本の木 蔭枝たれて。暮に数ある沓の音。シテ「柳 桜をこきまぜて。地「錦をかざる諸人の。 花やかなるや小簾の隙洩りくる風の匂よ り。手飼の虎の引綱も。ながき思になら の葉の。其柏木の及びなき。恋路もよし なしや。これは老いたる柳色の。狩衣も 風折も。風にたゞよふ足もとの。弱きも よしや老木の柳気力なうして弱々と。立 ち舞ふも夢人を。現と見るぞはかなき。 シテ「教嬉しき法の道。地「迷はぬ月に。つ れてゆかん。序ノ舞「。 シテ「青柳に。鴬伝ふ。羽風の舞。地「柳

花苑とぞ。思ほえにける。シテ「柳の曲も 歌舞の菩薩の。舞の袂をかへす%\も。 上人の御法を受け。よろこぶ報謝の舞も。 これまでなりと。名残の涙の。地「玉にも 貫ける。春の柳の。シテ「暇申さんと。木 綿附の鳥も鳴き。地「別の曲には。シテ「柳 条を綰ぬ。地「手折るは青柳の。シテ「姿も たをやかに。地「結ぶは老木の。シテ「枝も

すくなく。地「今年ばかりの。風や厭はん と。たゞよふ足もとも。よろ/\よわ/\ と。倒れ臥柳仮寝の床の。草の枕の一夜 の契も他生の縁ある上人の御法。西吹く 秋の風打ち払ひ。露も木の葉も。散り%\ に。露も木の葉も。散り%\になり果て て。残る朽木と。なりにけり。 西行上人 花見の人々 寺男 桜の精

ワキツレ三人次第「頃待ち得たる桜狩/\山路の 春に急がん。ワキツレ詞「かやうに候ふ者は。 下京辺に住居仕る者にて候。さても我春 になり候へば。こゝかしこの花をながめ。 さながら山野に日を送り候。 昨日は東山 地主の桜を一見仕りて候。今日はまた西 山西行の庵室の花。盛なるよし承り及び

候ふ程に。花見の人々を伴ひ。唯今西山 西行の庵室へと急ぎ候。道行三人「百千鳥。囀 る春は物毎に。/\。あらたまりゆく日 数経て。頃も弥生の。空なれや。やよ止ま りて花の友。知るも知らぬも諸共に。誰 も花なる。心かな誰も花なる心かな。 ワキツレ詞「急ぎ候ふ程に。これははや西行

の庵室に着きて候。暫く皆々御待ち候へ。 某案内を申さうずるにて候。いかに 案内申し候。狂言「誰にて渡り候ふぞ。 ワキツレ「さん候これは都方の者にて候ふ が。此御庵室の花。盛なる由承り及び。 遥々これまで参りて候。そと御見せ候へ。 狂言「易き間の御事にて候へども。禁制 にて候さりながら。御機嫌を見てそと申 して見うずるにて候。暫く御待ち候へ。 男「心得申し候。 ワキサシ「夫れ春の花は上求本来の梢にあら はれ。秋の月下化冥暗の水に宿る。誰か 知る行く水に。三伏の夏もなく。澗底の 松の風。一声の秋を催す事。草木国土。 おのづから。見仏聞法の。結縁たり。 詞「さりながら四つの時にも勝れたるは 花実の折なるべし。あら面白や候。 狂言「日本一の御機嫌にて候やがて申さ う。如何に申し候。都より此御庭の花を

見たき由申して。これ迄みな/\御いで にて候。ワキ詞「何と都よりと申して。此庵 室の花をながめん為に。これまで皆々来 り給ふと申すか。狂言「さん候。ワキ「およ そ洛陽の花盛。何処もと云ひながら。西 行が庵室の花。花も一木我も独と見るも のを。花ゆゑありかを知られん事いかゞ なれども。これまで遥々来れる志を。見 せではいかで帰すべき。あの柴垣の戸を 開き内へ入れ候へ。狂言「畏つて候。いか に方々へ申し候。よき御機嫌に申して候 へば。見せ申せとの御事にて候ふほどに。 いそいで此方へ御出で候へ。ワキツレ「心得申 し候。 ワキツレ三人「桜花咲きにけらしな足びきの。 山のかひより見えしまゝ。此木の本に立 ち寄れば。ワキ「我は又心ことなる花の本 に。飛花落葉を観じつゝ独り心を澄ます ところに。ワキツレ「貴賎群集の色々に。心

の花も盛にて。ワキ「昔の春にかへる有 様。ワキツレ「かくれ所の山といへども。 ワキ「さながら花の。ワキツレ「都なれば。 地歌「捨人も。花には何と隠家の。/\。 処は嵯峨の奥なれども。春には訪はれて山 までも浮世の嵯峨になるものを。実にや 捨てゝだに。此世の外はなきものを何く か終の。住家なる何くか終の住家なる。 ワキ詞「いかに面々。是まで遥々来り給ふ 志。返す%\も優しうこそ候へさりなが ら。捨てゝ住む世の友とては。花独なる 木の本に。身には待たれぬ花の友。少し心 の外なれば。花見んと群れつゝ人の来る のみぞ。あたら桜の。とがには有りける。 地「あたら桜の蔭暮れて。月になる夜の 木の本に。家路忘れて諸共に。今宵は花の 下臥して。夜と共にながめ明かさん。 シテ「埋木の人知れぬ身と沈めども。心の 花は残りけるぞや。花見んと群れつゝ人

の来るのみぞ。あたら桜の。とがには有 りける。ワキ「不思議や朽ちたる花の空木 より。白髪の老人現れて。詞「西行が歌を 詠ずる有様。さも不思議なる仁体なり。 シテ「これは夢中の翁なるが。いまの詠歌 の心をなほも。たづねん為に来りたり。 ワキ「そもや夢中の翁とは。夢に来れる人 なるべし。詞「それにつきても唯今の。詠 歌の心を尋ねんとは。歌に不審の有るや らん。シテ「いや上人の御歌に。何か不審 の有るべきなれども。群れつゝ人の来る のみぞ。あたら桜のとがにはありける。 詞「さて桜のとがは何やらん。ワキ「いや これは唯浮世を厭ふ山住なるに。貴賎群 集の厭はしき。心を少し詠ずるなり。 シテ「おそれながら此御意こそ。少し不審 に候へとよ。浮世と見るも山と見るも。 唯其人の心にあり。 非情無心の草木の。 花に浮世のとがはあらじ。ワキ「実に/\

これは理なり。さて/\かやうに理 をなす。おん身は如何さま花木の精か。 シテ「誠は花の精なるが。此身もともに老 木の桜の。ワキ「花物いはぬ草木なれども。 シテ「とがなき謂を木綿花の。ワキ「影唇 を。シテ「動かすなり。地「恥かしや老木 の。花も少なく枝朽ちてあたら桜の。と がのなき由を申し開く花の。精にて候ふ なり。およそ心なき草木も。花実の折は 忘れめや。草木国土皆成仏の御法なるべ し。シテ詞「有雑や上人の御値遇に引かれ て。恵の露普く。花檻前に笑んで声いまだ 聞かず。鳥林下に鳴いて涙尽き難し。 地クリ「夫れ朝に落花を踏んで相。伴なつ て出づ。夕には飛鳥に随つて一時にかへ る。シテサシ「九重に咲けども花の八重桜。 地「幾代の春を重ぬらん。シテ「然るに花 の名高きは。地「まづ初花を急ぐなる。近 衛殿の糸桜。クセ「見渡せば。柳桜をこ

き交ぜて。都は春の錦。燦爛たり。千本 の桜を植ゑ置き其色を。所の名に見する。 千本の花盛。雲路や雪に残るらん。毘沙 門堂の花盛。四王天の栄花もこれにはい かで勝るべき。上なる黒谷。下河原。むか し遍昭僧正の。シテ「浮世を厭ひし花頂山。 地「鷲の御山の花の色。枯れにし。鶴の 林まで思ひ知られてあはれなり。清水 寺の地主の花松吹く風の音羽山。こゝは また嵐山。戸無瀬に落つる。滝つ波まで も。花は大井河。ゐせきに。雪やかゝる らん。 シテ「すはや数添ふ時の鼓。地「後夜の鐘 の音。響きぞ添ふ。シテ詞「あら名残惜の夜 遊やな。をしむべし/\。得難きは時。 逢ひ難きは友なるべし。春宵一刻価千 金。花に清香月に影。春の夜の。序ノ舞「。 ワカ「花の影より。明け初めて。地「鐘を も待たぬ別こそあれ。別こそあれ/\。

シテ「待てしばし待てしばし夜はまだ深き ぞ。地「白むは花の影なりけり。よそはま だ小倉の山陰にのこる夜桜の。花の枕の。 シテ「夢は覚めにけり。地「夢は覚めにけ

り嵐も雪も散り敷くや。花を踏んでは同 じく惜む少年の春の夜は明けにけりや翁 さびて跡もなし翁さびて跡もなし。 {注

「澗」は、本来は{さんずい+門+月}} 羽黒山の山伏 同行の山伏 賎の女 葛城の神

ワキ、ワキツレ二人、次第「神の昔の跡とめて。/\。かづ らき山に参らん。ワキ詞「これは出羽の羽黒 山より出でたる山伏にて候。我此度大峯 葛城に参らばやと存じ候。道行三人「篠懸の。 袖の朝霜おきふしの。/\。岩根の枕松 が根の。やどりもしげき嶺つゞき。山又 山を分けこえて。ゆけば程なく大和路や。 葛城山につきにけり/\。 ワキ詞「いそぎ候ふ間。ほどなく葛城山に 着きて候。あら笑止や。また雪のふり来 りて候。これなる木蔭に立ちよらばやと

思ひ候。 シテ詞、呼掛「なう/\あれなる山伏は何方へ御 通り候ふぞ。ワキ詞「此方の事にて候ふか。 御身はいかなる人やらん。シテ「これは此 葛城山に住む女にて候。柴採る道のかへ るさに。踏み馴れたる通路をさへ。雪の ふゞきにかきくれて。家路もさだかにわ きまへぬに。ましてや知らぬ旅人の。末 いづくにか雪の山路に。迷ひ給ふはいた はしや。詞「見苦しく候へども。わらはが 庵にて一夜を御あかし候へ。ワキ「うれし

くも仰せ候ふものかな。今にはじめぬ此 山の度々峯入して。通ひなれたる山路な れども。今の吹雪に前後を忘じて候ふ に。御志ありがたうこそ候へ。さて御 宿はいづくぞや。シテ「この岨づたひのあ なたなる。谷の下庵見苦しくとも。程ふ る雪の晴間まで。御身を休め給ふべし。 ワキ「さらば御供申さんと。夕の山の常陰 より。シテ「さらでも険しき岨づたひを。 ワキ「道しるべする山人の。シテワキ二人「笠は おもし呉山の雪。靴は香ばし楚地の花。 地歌「肩上の笠には。/\。無影の月をか たぶけ。擔頭の柴には不香の花を手折り つゝ。帰る姿や山人の。笠も薪も埋もれ て。雪こそくだれ谷の道をたどり/\帰 りきて柴の庵に着きにけり柴の庵につき にけり。 ワキ詞「あらうれしや候。今の雪に前後 を忘じて候ふ所に。こよひの御宿かへす

がへすも有難うこそ候へ。シテ詞「あまりに 夜寒に候ふほどに。これなる標を解きみ だし。火に焼きてあて参らせ候ふべし。 ワキ「あらおもしろや標とは。此木の名に て候ふか。シテ「うたてやな此葛城山の雪 の内に。結ひあつめたる木々の梢を。標 と知し召されぬは御心なきやうにこそ候 へ。ワキ「あらおもしろやさてはこの。標 といふ木は葛城山に。由緒ある木にて候 ふよなう。シテ「申すにや及ぶ古き歌の言 葉ぞかし。標を結ひたる葛なるを。この葛 城山の名に寄せたり。これ大和舞の歌と いへり。ワキ「げに/\古き大和舞の歌の 昔を思ひでの。シテ「をりから雪も。ワキ「降 るものを。地歌「標結ふ葛城山に降る雪 は。/\。間なく時なく。おもほゆるか なとよむ歌の。言の葉そへて大和舞の袖 の雪も古き世の。よそにのみ。見し白雲 や高間山の峯の柴屋の夕煙松が枝そへ

て。焼かうよ松が枝そへてたかうよ。 クセ「葛城や。木の間に光る稲妻は。山伏 の打つ。火かとこそ見れ。実にや世の中 は。電光朝露石の火の。光の間ぞと思へた だ。わが身のなげ きをも取り添へて 思ひ真柴を焼かう よ。シテ「捨人の。 苔の衣の色ふか く。地「法に心は墨 染の。袖もさなが ら白妙の。雪にや 色をそみかくた の。篠懸もさえま さる。標をあつめ 柴をたき寒風をふせぐ葛城の。山伏の名 にし負ふ。かたしく袖の枕して身を休 め給へや御身を休め給へや。 ワキ詞「あらうれしや篠懸を乾して候ふぞ

や。いそぎ後夜の勤を始めばやと思ひ候。 シテ「御勤とは有難や。我に悩める心あ り。御勤のついでに祈り加持して賜はり 候へ。ワキ「そも御身に悩む事ありとは。 何といひたる事やらん。シテ「さなきだに 女は五障の罪ふかきに。法の咎の咒詛を 負ひ。この山の名にしおふ。葛かずら にて身を縛めて。なほ三熱の苦あり。

此身を助けてたび給へ。ワキ「そも神なら で三熱の。苦といふ事あるべきか。 シテ「はづかしながら古の。法の岩橋か けざりし。其とがめとて明王の。策にて 身をいましめて。今に苦絶えぬ身なり。 ワキ「これはふしぎの御事かな。さては昔 の葛城の。神の苦尽きがたき。シテ「石 は一つの身体として。ワキ「蔦かずらのみ かかる巌の。シテ「撫づとも尽きじ葛の 葉。ワキ「はひ広ごりて。シテ「露に置かれ。 霜に責められ起きふしの。立居もおもき 岩戸のうち。地歌「明くるわびしき葛城の。 神に五衰の苦あり祈り加持してたび給 へと。岩橋のすゑ絶えて。神がくれにぞ なりにける。/\。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人、歌待謡「岩橋の。苔の衣の袖そへて。 /\。法の筵のとことはに。法味をなし て夜もすがら。かの葛城の神慮。夜の行 声すみて。一心敬礼。

後シテ、出端「われ葛城の夜もすがら。和光の影 にあらはれて。五衰の眠を無上正覚の月 にさまし。法性真如の宝の山に。法味に 引かれて来りたり。よく/\勤めおはし ませ。 ワキ「ふしぎやな峨々たる山の常陰より。 女体の神とおぼしくて。玉のかんざし玉 かづらの。なほ懸けそへて蔦かずらの。 はひまとはるゝ小忌衣。シテ「これ見たま へや明王の。策はかかる身をいましめ て。ワキ「なほ三熱の神慮。シテ「年経る雪 や。ワキ「標ゆふ。地「葛城山の岩橋の。夜 なれど月雪の。さもいちじるき身体の。

みぐるしき顔ばせの神姿ははづかしや。 よしや吉野の山かずら。かけて通へや岩 橋の。高天の原はこれなれや。神楽歌は じめて大和舞いざや奏でん。 シテ「ふる雪の。標木綿花の。白和幣。序ノ舞 地「高天の原の岩戸の舞。/\。天のか ぐ山も向に見えたり。月白く雪白く。 いづれも白妙の。けしきなれども。名に 負ふかづらきの。神の顔がたち。面なや おもはゆや。恥かしやあさましや。あさ まにもなりぬべし。あけぬ先にと葛城の。 /\夜の。岩戸にぞ入り給ふ。岩戸のう ちに入りたまふ。 旅僧 従僧 巫女 <後シテ>龍田姫

ワキ、ワキツレ二人、次第「教の道も秋津国。/\。数あ る法を納めん。ワキ詞「これは六十余州に御

経を納むる聖にて候。我此程は南都に候 ひて。霊仏霊社残なく拝み廻りて候。又こ

れより龍田越にかゝり。河内の国へと急 ぎ候。道行三人「ふるき名の。奈良の都を立ち 出でて。/\。有明残る雲間の西の大寺 をよそに見て。早暮れ過ぎし秋篠や。外 山の紅葉名に残る。龍田の川に。着きにけ り龍田の川に着きにけり。ワキ詞「急ぎ候ふ 程に。これは早龍田川に着きて候。此川 を渡り明神に参らばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なうその川な渡り給ひそ申すべき 事の候。ワキ詞「不思議やな。此川を渡り。龍 田の明神に参り候ふ所に。何とて其川な 渡りそとは承り候ふぞ。シテ「さればこそ 神に参り給ふも。神慮に合はんためなら ずや。心もなくて渡り給はゞ。神と人と の中や絶えなん。よく/\案じて渡り給 へ。ワキ詞「実に今思ひ出したり。龍田川 もみぢ乱れて流るめり。渡らば錦なかや 絶えなんとの。古歌の心をおもへとや。 シテ「なか/\の事この歌は。紅葉の水に

散り浮きて。錦を張れる如くなれば。渡ら ば錦中や絶えなんとなり。それにつきな ほ/\深き心もあり。紅葉と申すは当社 の神体。神の畏もあるべければと。いま しめ給ふ心もあり。ワキ「実に/\それは さる事なれども。紅葉の頃も時過ぎて。 川の面も薄氷にて。立つ波までも見えぬ なり。許させ給へ渡りて行かん。シテ詞「い や/\なほも御科あり。氷にもまた中絶 えんとの。その戒もあるものを。ワキ「不 思議や紅葉の錦ならで。氷にもまた中絶 えんとの。いはれは如何なる事やらん。 シテ「紅葉の歌は帝の御製。又その後家隆 の歌に。龍田川紅葉を閉づる薄氷。詞「わた らばそれも中や絶えなんと。重ねてかや うに詠みたれば。必ず紅葉に限るべから ず。地歌「氷にも。中絶ゆる名の龍田川。 /\。錦織りかく神無月の。冬川にな るまでも。紅葉をとづる薄氷を。情なや

中絶えて。渡らん人は心なや。さなきだ に危きは薄氷をふむ理のたとへも今に。 知られたりたとへも今に知られたり。 ワキ詞「御身はいかなる人にて渡り候ふ ぞ。シテ詞「これは巫にて候。明神へ御参り 候はゞ御道しるべ申し候ふべし。ワキ「あ ら嬉しや御共申し。宮めぐり申さうずる にて候。 シテ「これこそ龍田の明神にて御入り候 へ。よく/\御拝み候へ。ワキ「不思議や な頃は霜降月なれば。木々の梢も冬枯れ て。景色淋しき社頭の御垣に。盛なる紅 葉一本見えたり。これは御神木にて候ふ か。シテ「さん候当国三輪の明神の神木は 杉なり。当社は紅色を愛で給ふにより。紅 葉を神木と崇め参らせ候。ワキ「ありがた や我国々を廻り。今日は又この御神に参 る事の有難さよ。和光同塵は結縁の始。 八相成道は利物の終。地下歌「下紅葉。塵に

交はる神慮。和光の影の色添えて。我等 を守りたまへや。地上歌「殊更に此度は。 /\。幣取りあへぬをりなるに。心して 吹け嵐。紅葉を幣の神慮。神さび心も澄 み渡る。龍田の嶺はほのかにて。川音も なほ冴え増さる夕暮。いざ宮めぐり始め んとて。名におふ龍田山。同じかざしの榊 葉を。とり%\に乙女子が。裳裾をはへ て袖をかざし。運ぶ歩の数々に。度重な ると見る程に。不思議やな今まではたゞ 巫と見えつるが。我はまことはこの神 の。龍田姫は我なりと。名乗りもあへず 御身より。光を放ちて紅の袖を打ちかづ き。社壇の。扉を押し開き御殿に入らせ 給ひけり御殿に入らせ給ひけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人、歌待謡「神の御前に通夜をして。/\。 ありつる告を待たんとて。袖をかたしき 臥しにけり。/\。 後シテ、出端「神は非礼を受け給はず。水上清し

や龍田の川。地「御殿しきりに鳴動して。 宜禰が鼓も声々に。シテ「有明の月。燈の 光。地「和光同塵おのづから。光も朱の。 玉垣かゝやきて。あらたに御神体あらは れたり。 シテ「我劫初よりこのかた。この秋津州に 地をしめて。御代を守りの御鉾を守護し。 紅葉の色も八葉の葉。即ち鉾の刃先なる べし。剣の験僧の法味引かれて。夜半 に神燈。明かなり。 地クリ「そも/\瀧祭の御神とは。即ち当 社の御事なり。シテ「昔天祖の詔。地「末 明かなる御国とかや。シテサシ「然れば当国宝 山に至り。地「天地治まる御代のためし。 民安全に豊なるも。偏に当社の御故なり。 シテ「梢の秋の。四方の色。地「千秋の御 影。目前たり。クセ「年毎に。もみぢ葉流 る龍田川。港や秋の泊なる。山も動せず。 海辺も波静かにて。たのしみのみの秋の

色。名こそ龍田の山風も静かなりけり。 然れば世々の歌人も。心を染めてもみぢ 葉の。龍田の山の麻霞。春は紅葉にあら ねども。たゞ好色にめで給へば。今朝よ りは。龍田の桜色ぞ濃き。夕日や花の。 時雨なるらんと。よみしも紅に心を。染 めし栄歌なり。シテ「神なびの御室の岸や くづるらん。地「龍田の川の。水は濁ると も和光の影は明けき。真如の月はなほ照 るや。龍田川紅葉乱れし跡なれや。古 は錦のみ。今は氷の下紅葉。あら美しや 色々の。紅葉重ねの薄氷。渡らば。紅葉 も氷も。重ねてなか絶ゆべしやいかで今は 渡らん。 シテ「さる程に夜神楽の。地「さる程に夜 神楽の。時移り事去りて。宜禰が鼓も数 至りて月も霜も白和幣。振り上げて声澄 むや。シテ「謹上。地「再拝。神楽「。 シテ「久堅の。月も落ち来る。瀧祭。地「波

の。龍田の。シテ「神の御前に。地「神の御 前に。散るはもみじ葉。シテ「即ち神の幣。 地「龍田の山風の。時雨降る音は。シテ「颯 颯の鈴の声。地「立つや川波は。シテ「それ ぞ白木綿。地「神風松風。吹き乱れ吹き乱

れ。もみぢ葉散り飛ぶ木綿附鳥の。御祓 も幣も。翻へる小忌衣。謹上再拝再拝再 拝と。山河草木。国土治まりて。神は上 らせ。給ひけり。 玄賓僧都 里の女 三輪明神

ワキ詞「これは。和州三輪の山陰に住居す る玄賓と申す沙門にて候。さても此程い づくともなく女性一人毎日樒閼伽の水を 汲みて来り候。今日も来りて候はゞ。い かなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。 シテ次第「三輪の山本道もなし。/\。檜原の 奥をたづねん。サシ「実にや老少不定と て。世の中々に身は残り。幾春秋をか送 りけん。あさましや成す事なくて徒らに。 憂き年月を三輪の里に。住居する女にて  

候。詞「又此北山陰に玄賓僧都とて。貴き人 の御入り候ふ程に。いつも樒閼伽の水を 汲みて参らせ候。今日もまた参らばやと 思ひ候。 ワキ「山頭には夜孤輪の月を戴き。洞口に は朝一片の雲を吐く。山田もるそほづの 身こそ悲しけれ。秋はてぬれば。訪ふ人も なし。シテ詞「いかに此庵室のうちへ案内申 し候はん。ワキ「案内申さんとはいつも来 れる人か。シテ「山影門に入つて推せども

出でず。ワキ「月光地に敷いて掃へども又 生ず。二人「鳥声とこしなへにして。老生 と静かなる山居。地下歌「柴の編戸を押し開 き。かくしも尋ね切樒。罪を助けてたび 給へ。上歌「秋寒き窓の内。/\。軒の松 風うちしぐれ。木の葉かきしく庭の面。 門は葎や閉ぢつらん。下樋の水音も苔に。 聞えて静かなる此山住ぞ淋しき。シテ詞「い かに上人に申すべき事の候。秋も夜寒に なり候へば。御衣を一重たまはり候へ。 ワキ詞「易き間の事この衣を参らせ候ふべ し。シテ「あらありがたや候。さらば御暇 申し候はん。ワキ「暫く。さて/\御身は何 くに住む人ぞ。シテ「妾が住家は三輪の里。 山本近き処なり。その上我が庵は。三輪の 山本恋しくはとは詠みたれども。何しに 我をば訪ひ給ふべき。なほも不審に思し 召さば。訪ひ来ませ。地「杉立てる門をし るしにて。尋ね給へと言ひ捨てゝ。かき

消すごとくに失せにけり。中入間「。 ワキ詞「この草庵を立ち出でて。/\。行 けば程なく三輪の里。近きあたりが山陰 の。松はしるしもなかりけり。杉村ばから り立つなる神垣はいづくなるらん神垣は いづくなるらん。 ワキ「不思議やなこれなる杉の二本を見 れば。ありつる女人に与へつる衣の懸か りたるぞや。詞「寄りて見れば衣の褄に金 色の文字すわれり。読みて見れば歌なり。 三つの輪は清く浄きぞ唐衣。くると思ふ な。取ると思はじ。 後シテ「千早振る。神も願のあるゆゑに。 人の値遇に。逢ふぞうれしき。ワキ「不思 議やなこれなる杉の木蔭より。妙なる御 声の聞えさせ給ふぞや。願はくは末世の 衆生の願をかなへ。御姿をまみえおはし ませと。念願深き感涙に。墨の衣を濡ら すぞや。シテ「恥かしながら我が姿。上人

にまみえ申すべし。罪を助けてたび給へ。 ワキ「いや罪科は人間にあり。これは妙な る神道の。シテ「衆生済度の方便なるを。 ワキ「暫し迷の。シテ「人心や。地歌「女姿 と三輪の神。/\。〓{チハヤ}掛帯引きかへて。 唯祝子が着すなる。烏帽子狩衣。もすそ の上に掛け。御影あらたに見え給ふかた いけなの御事や。 地クリ「それ神代の昔物語は末代の衆生の ため。済度方便の事業。品々もつて世の 為なり。シテサシ「中にもこの敷島は。人敬つて 神力増す。地「五濁の塵に交はり。しばし 心は足引の大和の国に年久しき夫婦の者 あり。八千代をこめし玉椿。変らぬ色を 頼みけるに。クセ「されどもこの人。夜は 来れども昼見えず。ある夜の睦言に。御 身いかなる故により。かく年月を送る身 の。昼をば何と烏羽玉の夜ならで通ひ給 はぬはいと不審多き事なり。唯同じくは

とこしなへに。契をこむべしとありしか ば。彼の人答へいふやう。実にも姿は羽 束師の。漏りてよそにや知られなん。今 より後は通ふまじ。契も今宵ばかりなり と。懇に語れば。さすが別の悲しさに。 帰る処を知らんとて。苧環に針をつけ。裳 裾にこれを閉ぢつけて。跡をひかへて慕 ひ行く。シテ「まだ青柳の糸長く。地「結ぶ や早玉の。おのが力にさゝがにの。糸く り返し行く程に。この山本の神垣や。杉の 下枝に留りたり。こはそもあさましや契 りし人の姿か其糸の三わけ残りしより。 三輪のしるしの過ぎし世を語るにつけて 恥かしや。 ロンギ地「実に有難き御相好。聞くにつけ ても法の道なほしも頼む心かな。シテ「と ても神代の物語。くはしくいざや現し彼 の上人を慰めん。地「先は岩戸のさおの初。 隠れし神を出さんとて。八百万の神遊。

是ぞ神楽の始なる。シテ「千早振る。神楽「。 ワカ「天の岩戸を。引き立てゝ。地「神は跡 なく入り給へば。常闇の世と。早なりぬ。 シテ「八百万の神たち。岩戸の前にてこれ を歎き。神楽を奏して舞ひ給へば。地「天 照大神其時に岩戸を少し開き給へば。又 常闇の雲晴れて。日月光り輝けば。人の面

白々と見ゆる。シテ「面白やと神の御声の。 地「妙なる始の。物語。キリ地「思へば伊勢 と三輪の神。/\。一体分身の御事今更 何と岩倉や。その関の戸の夜も明け。か く有難き夢の告。覚むるや名残なるら ん/\。 大臣 神子

ワキ詞「抑も是は当今に仕へ奉る臣下な り。さても我が君あらたなる霊夢を蒙り 給ひ。千疋の巻絹を三熊野に納め申せと の宣旨に任せ。国々より巻絹を集め候。 さる間都より参るべき巻絹遅なはり候。 参りて候はゞ神前に納めばやと存じ候。 ツレ次第「今を始の旅ごろも。/\。紀の路 にいざや急がん。サシ「都の手ぶりなりと

ても。旅は心の安かるべきか。殊更これ は王土の命。重荷をかくる南の国。聞く だに遠き千里の浜辺。山は苔路のさかし きを。いつかは越えん。旅の道。休らふ 間も無き心かな。下歌「これとても。君の 恵によも洩れじ。上歌「麻裳よい。紀の関 越えて遥々と。/\。山また山をそこと しも。分けつゝ行けばこれぞこの。今ぞ

始めて三熊野の。御山に早く着きにけ り。/\。詞「急ぎ候ふ程に。三熊野に着 きて候。先々音無の天神へ参らばやと思 ひ候。や。冬梅のにほひの聞え候。いづく にか候ふらん。げにこれなる梅にて候。 この梅を見て何となく思ひ連ねて候。南 無天満天神。心中の願を叶へて給はり候 へと。地「神に祈の言の葉を。心の内に手 向けつゝ。急ぎ参りて。先づ君に仕へ申 さん。 ツレ詞「いかに案内申し候。都より巻絹を 持ちて参りて候。ワキ「何とて遅なはりた るぞ。その為に日数を定め参るなかに。 汝一人おろかなる。地上歌「その身の科はの がれじと。/\。やがて縛めあらけなき。 苦を見せて目のあたり。罪の報を知ら せけり/\。 シテ詞「なう/\ その下人をば何とて縛め 給ふぞ。その者はきのふ音無の天神にて。

一首の歌をよみわれに手向けし者なれ ば。納受あれば神慮。少し涼しき三熱の。 苦を免るそれのみか。人倫心なし。詞「 その縄解けとこそ。解けや手櫛のみだれ 髪。地「解けや手櫛の乱れ髪の。神は受けず や御注連の縄の。引き立て解かんとこの 手を見れば。心強くも岩代の松の。何と か結びし。なさけなや。ワキ詞「これはさて 何と申したる御事にて候ふぞ。シテ詞「この 者は音無の天神にて。一首の歌を詠みわ れに手向けし者なれば。とく/\縄を解 き給へ。ワキ「これは不思議なる事を承り 候ふ物かな。かほど賎しき者の歌など詠 むべき事思もよらず。いかさまにも疑 はしき神慮かと存じ候ふよ。シテ「なほも 神慮を偽とや。さあらば彼の者きのふ我 に手向けし言の葉の。上の句をかれに問 ひ給へ。我また下の句をばつゞくべし。 ワキ「この上はとかく申すに及ばず。いか

に汝真に歌を詠みたらば。その上の句を 申すべし。男「今は憚り申すに及ばず。か の音無の山陰に。さも美しき冬梅の。色殊 なりしを何となく。心も染みてかくばか り。音無にかつ咲きそむる梅の花。 シテ「匂はざりせば 誰か知るべきと。 詠みしは疑なきも のを。地「もとより 正直捨方便の誓。 曇らぬ神慮。すぐ なる故にかくばか り。納受あれば今 ははや。疑はせ給はで歌人を。宥させ給 ふべし。または心中に隠し歌も。神の通 力と知るなれば。げに疑のあだ心。打ち 解けこの縄を。とく/\許し給へや。 クリ「それ神は人の敬ふによつて威を増

し。人は神の加護によれり。シテサシ「されば 楽む世に逢ふ事。これ又総持の義によれ り。地「言葉少うして理を含み。三難耳 絶えて寂念閑静の床の上には。眠はるか に眼を去る。クセ「これによつて。本有の 霊光忽ちに照らし自性の月。漸く雲をさ まれり。一首を詠ずれば。よろづの悪念 を遠ざかり。天を得れば清く地を得れば 安しあらかじめ。唯有一実相唯一金剛と

は説かずや。シテ「されば天竺の。シテ「婆羅 門僧正は。行基菩薩の御手を取り。霊山 の。釈迦の御もとに契りて真如朽ちせず 逢ひ見つと詠歌あれば御返歌に。伽毘羅 衛に契りし事のかひありて。文殊の御顔 を。拝むなりと互に。仏々を現すも和歌 の徳にあらずや。又神は出雲八重垣片そぎ の寒き世のためしいはずとも伝へ聞きつ べし。神のしめゆふ糸桜の風の解けとぞ 思はるゝ。 ワキ詞「さあらば祝詞を参らせられ候ひ て。神を上げ申され候へ。シテ「謹上再拝。 そも/\当山は。法性国の巽。金剛山の 霊光。この地に飛んで霊地となり。今の 大峰これなり。地「されば御嶽は金剛界の 曼荼羅。シテ「華蔵世界。熊野は胎蔵界。 地「密厳浄土有難や。神舞「。 地「不思議や祝詞の神子物狂。不思議や祝 詞の神子物狂のさもあらたなる。飛行を

いだして。神がたりするこそ。恐ろしけ れ。シテ「証誠殿は。阿弥陀如来。地「十悪を 導き。シテ「五逆をあはれむ。地「中の御前 は。シテ「薬師如来。地「薬となって。シテ「二 世を助く。地「一万文殊。シテ「三世の覚母 たり。地「十万普賢。シテ「満山護法。地「数

数の神々。かの覡につくも髪の。御幣も 乱れて。空に飛ぶ鳥の。翔り/\て地に 又踊り。数珠を揉み袖を振り。高足下足 の。舞の手をつくし。これまでなりや。神 はあがらせ給ふと云ひ捨つる。声の内よ り狂覚めて又本性にぞ。なりにける。 静御前 佐藤忠信 衆徒

ワキ詞「これは都道者にて候。衆会の御座 敷とも存ぜず候御免あらうずるにて候。 狂言「さては都人にて候ふか。判官殿の御 行くへをば何と申し候ふぞ。ワキ「上は御 一体なれば。終には御中直らせ給ふべき よし申し候。狂言「さていかやうにて御落 ありたると申し候。ワキ「十二騎とこそ承 つて候へ。狂言「十二騎ならば追つかけ討 ちとめ申さう。ワキ「暫く。十二騎と申す

とも。余の勢百騎二百騎にも向ふべし。 かやうに申すは都の者。当山を信じ参る 上は。いかにも御寺も宿坊も。難なくお はしませかしと。思へばかやうに申すな り。此上はともかくも。地上歌「御はからひ ぞ吉野山。/\。よしなき申しごと。洩れ 聞えなば判官の。後のとがめも恐ろしや 御暇申し候はん/\。 シテ、アシラヒ出「さても静は忠信が。その契約を

違へじと。舞の装束ひきつくろひ。忠信 遅しと待ち居たり。ワキ詞「これは都道者に て候ふが。法楽の舞の由承り。下向道 を忘れて候。はや/\舞を始め給ふべし。 シテ「都の人と聞けばなつかしや。判官御 道せばきこと。世上の聞いかなるぞ。都 人こそ知るべけれ。ワキ詞「終には御中直ら せ給ふべしと。聞くより人々先非を悔い て。皆々恐れ申すなり。シテ「偖は嬉しや 委しくも。知らせ給ふか都人。ワキ詞「あま りに事延び時移りぬ。心得給へ舞の袖。 シテ「げになう語多き者は品すくなし。か やうにわれら言の葉過ぎば。なか/\人 も怪みて。もしもそれとか三吉野の。か つて知らすな。一セイ静かに囃せや静が舞 に。地「衆徒も時刻や移すらん。シテ「神こ そ納受ましますらめ。地「げにこの御代も 静がまひ。 シテサシ「しかるにかの判官は。神道を重んじ

朝家を敬ひ。地「ひとへに忠勤を抽んで て。 私の心さらになし。シテ「人は讒し申 すとも。地「神は正直の頭に宿り給ふなれ ば。静が舞の袖に。暫くうつりおはしま し。我が君を守り給へと。祈るぞあはれ なりける。クセ「そも/\景時が。その讒 言の水上を。思へば渡辺や。流るゝ水に 満潮の。逆櫓立てんと浮舟の。梶原が申 しごと。よも順義には候はじ。されば義 経はすぐに修めし三吉野の。神の誓の真 あらば。頼朝も聞しめし。直され・義経{ぎけい}。ふ せつの勅を受け。洛陽の西南は。これ分 国となるべし。さあらば当山の。衆徒悉 く参洛し。帰依渇仰の御袖に。恵をいだ き給ふべしあなかしこ不忠なし給ふな御 科は候はじ。シテ「たゞし衆徒中に。ひと り憤深うして。地「進みて追つかけ給 ふとも。その名きこゆる人々を。討ちと どめ申さんは。片岡増尾鷲の尾さて。忠

信はならびなき。精兵ぞよ人々に。防矢射 られ給ふなと。語ればげには衆徒中に。 進む人こそなかりけれ。 シテ「賎や賎。序ノ舞(又ハ中ノ舞)「。ワキ「賎やしづ賎の苧 環繰り返し。地「むかしを今に。なすよし もがな。あまりに舞の。面白さに。時刻 を移して。進まぬもありけり。又は判官 の武勇に恐れてよし義経をば。おとし申 せと詮議を加ふる。衆徒もありけり。さる ほどに時移つて。主君も今は忠信が。は かりごとにて難なくはるかに。落し申し つ。心しづかに願成就して都へとてこ そ。帰りけれ。 随身(能ニテハ二人) 惟光 源氏の君 侍女(能ニテハ三人) 明石の上 住吉神主

ワキ詞「これは摂州住吉の神主。菊園の何 某にて候。さても此頃都において誉なら び無き光源氏。さる宿願の子細あつて。 当社御参詣と仰せ出され候ふ程に。社人 どもを召し出し社内をも清め。其心得を なすべき由申しつけばやと存じ候。 惟光立衆一声「小車の。轅も続く都路の。直に治 まる時世かな。惟光サシ「抑これは誉世に超 え威光曇らぬ。光源氏にておはします。 さても此君頼をかけし。住吉の神に所願 を満てんと。惟光立衆「けふ思ひ立つ旅衣。薄 き日影も白鳥の。鳥羽の恋塚秋の山。過 ぐればいとゞ都の月の。面影隔つる山崎 や。関戸の宿も移り来ぬ。下歌「払はぬ塵

の芥川。猪名の笹原分け過ぎて。上歌「見 渡せば。薄霧まがふそなたより。/\。 ほの見えそむる村紅葉。これや交野に狩 り暮れて春見し花のそれならん。猶行先 は渡辺や。大江の岸による波も。音立ち 変へて住吉の。浦曲になるも程ぞな き。/\。 源氏サシ「聞きしに超えていよ/\ありがた き。神の誓も潔き。浦曲の浪の瑞籬の。 久しき御代を守り給へ。地上歌「日の本の。 神の誓はおしなべて。/\。和光同塵は。 結縁の御始。八相成道は利物のはてしな きまで国富み。民を憐む御心を誰かは仰 がざるべき/\。

ワキ詞「唯今の御参詣めでたう候。惟光「さ あらば祝詞を参らせられ候へ。ワキ「いで いで祝詞を申さんと。神主御幣を捧げつ つ。すでに祝詞を申しけり。謹上再拝。 敬つて白す神慮をすゞしめの神楽。八人 の八乙女。五人の神楽をのこ。颯々の鈴 の音。丁々の鼓の声々に。諷ふ榊葉の神 歌。幾久方の天地開闢。泰平諸人快楽。 福寿円満に守らしめ給へや。抑立つる所 の。諸願成就皆令満足。有難や。地上歌「来 し方の。御願に猶もうち添へて。/\。さ もありがたき神慮の。納受もかくやと感 涙肝に銘じけり。いよ/\悦の御盃。 神主に賜びければ。をりふし御供に河原 の。大臣の御例とて。内より賜はれる。童 随身其時に。お酌に立ちて慰の。今様 朗詠す。 随身「一樹の蔭や一河の水。地「皆これ他生 の縁といふ。白拍子をぞ奏でける。掛リ、中ノ舞「。

随身「われ見ても。久しくなりぬ。すみよ しの。地「岸の姫松幾代経ぬらん。地上歌「千 代万代の舞の袂。/\。いよ/\廻る盃 の。有明になる沖つ舟の。ほの%\明く る住吉の。浦より遠の淡路島。あはれは てなきながめかな/\。 シテ、ツレ三人一声「明石潟。月待つ方に行く舟の。波 しづかなる浦伝ひ。上歌「舟出せし。後の山 の山颪。/\。関吹き越えて行く程に。 須磨の浦わもいつしかに跡の名残もおし てるや。難波入江に寄するな る。波はさながら白雪の。津 守の浦に着きにけり/\。 ツレ女「松原の深緑なる木蔭よ り。花紅葉を散らせる如くな る。色の衣々数々に。のゝし りて詣づる人影は。いかなる 人にてあるやらん。惟光「これ は都に光君。過ぎにし須磨の

御願はたしに。詣で給ふといさ知らぬ。人 もありける不思議さよ。シテ「あら恥かし や光君と。聞くより胸うち騒ぎつゝ。い とゞ心も上の空の。惟光「月日こそあれけ ふこの頃。詣で来んとは。シテ「白露の。 地上歌「玉襷。かけも離れぬ宿世とは。 /\。思ひながらもなか/\に。此あり さまをよその見る目も恥かしや。さりと ては浦浪の。帰らば中空に。ならんも憂 しやよしさらば。難波の潟に舟とめて。

祓だに白波の。入江に舟をさし寄する。 ロンギ「不思議やな。ありし明石の浦浪の。 立ちも帰らぬ面影の。それかあらぬか舟 かげの。信夫もじずり誰やらん。シテ「誰 ぞとは。よそに調の中の緒の。其音違は ず逢ひ見んの。頼めを早く住吉の。岸に 生ふてふ草ならん。源氏「忘草。々々。生 ふとだに聞く物ならば。其かね言もあら じかし。地「実になほざりに頼めおく。そ の一言も今ははや。源氏「ありし契の縁あ らば。地「やがての逢瀬も程あらじの。心 は互に。変らぬ影も盃の。度重なれば惟 光も。惟光「傅御酌をとり%\の。地「酔に 引かるゝ戯の舞。面はゆながらもうつ りまひ。中ノ舞(序ノ舞ニモ)「。 シテ「身をづくし。恋ふるしるしにこゝま でも。地「めぐり逢ひける。縁は深しな。 シテ「数ならで。難波の事もかひなきに。 何みをづくし思ひ初めけん。互の心を夕

汐満ちきて。地「入江の田鶴も 声をしまぬほど。哀なるをり から。人目もつゝまず逢ひ見 まほしくは。思へども。はや 漕ぎ離れて。行く袖の露けさ も。昔に似たる旅衣。田蓑の 島も。遠ざかるまゝに。名残 もうしの車にめされて。のぼ れば下るや稲舟の。舟影もほ の%\と明石の浦曲の舟をし思ひの。

別かな。 旅僧 松風 村雨

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我い まだ西国を見ず候ふ程に。此度思ひ立ち 西国行脚と志して候。あら嬉しや急ぎ 候ふ程に。これははや津の国須磨の浦と かや申し候。又これなる磯辺を見れば。

様ありげなる松の候。いかさま謂のなき 事は候ふまじ。このあたりの人に尋ねば やと思ひ候。 ワキ「さては此松は。いにしへ松風村雨と て。二人の海人の旧跡かや。痛はしや其身

は土中に埋もれぬれども。名は残る世の しるしとて。変らぬ色の松一木。緑の秋 を残す事のあはれさよ。詞「かやうに経念 仏してとぶらひ候へば。実に秋の日のな らひとてほどなう暮れて候。あの山本の 里まで程遠く候ふほどに。これなる海人 の塩屋に立ち寄り。一夜を明かさばやと 思ひ候。 シテツレ二人真ノ一声「汐汲車。わづかなる。うき世に めぐる。はかなさよ。ツレ二ノ句「波こゝもとや 須磨のうら。二人「月さへぬらす。袂かな。 シテサシ「心づくしの秋風に。海はすこし遠け れども。かの行平の中納言。二人「関吹き 越ゆるとながめたまふ。浦曲の波の夜々 は。実に音近き海人の家。里離れなる通 路の月より外は友もなし。シテ「実にや浮 世の業ながら。殊につたなき海人小舟 の。二人「わたりかねたる夢の世に。住む とや云はんうたかたの。汐汲車よるべな

き。身は蜑人の。袖ともに。思を乾さぬ。 心かな。地下歌「かくばかり経がたく見ゆる 世の中に。うらやましくも。澄む月の出 汐をいざや。汲まうよ出汐をいざや汲ま うよ。上歌「かげはづかしき我が姿。/\。 忍車を引く汐の跡に残れる。溜水いつ まで澄みは果つべき。野中の草の露なら ば。日影に消えも失すべきにこれは磯辺 に寄藻かく。海人の捨草いたづらに朽ち 増りゆく。袂かな朽ちまさりゆく袂かな。 シテサシ「おもしろや馴れても須磨のゆふま 暮。海人の呼声幽にて。二人「沖にちひさ きいさり舟の。影幽なる月の顔。雁の姿 や友千鳥。野分汐風いづれも実に。かゝ る所の秋なりけり。あら心すごの夜すが らやな。 シテ「いざ/\汐を汲まんとて。汀に満干 の汐衣の。ツレ「袖を結んで肩に掛け。 シテ「汐汲むためとは思へども。ツレ「よし

それとても。シテ「女車。地「寄せては帰 るかたをなみ。/\。芦辺の。田鶴こそは 立ちさわげ四方の嵐も。音添へて夜寒な にと過さん。更け行く月こそさやかなれ。 汲むは影なれや。 焼く塩煙心せよ。 さのみなど海士人 の憂き秋のみを過 さん。松島や小島 の海人の月にだに 影を汲むこそ心あ れ影を汲むこそ心 あれ。 ロンギ地「運ぶは遠き 陸奥のその名や千 賀の塩竈。シテ「賎が塩木を運びしは阿漕 が浦に引く汐。地「その伊勢の。海の二見の 浦二度世にも出でばや。シテ「松の村立か すむ日に汐路や。遠く鳴海潟。地「それは

鳴海潟こゝは鳴尾の松蔭に。月こそさは れ芦の屋。シテ「灘の汐汲む憂き身ぞと人 にや。誰も黄楊の櫛。地「さしくる汐を汲 み分けて。見れば月こそ桶にあれ。シテ「こ れにも月の入りたるや。地「うれしやこれ も月あり。シテ「月は一つ。地「影は二つ満 つ汐の夜の車に月を載せて。憂しともお もはぬ汐路かなや。

ワキ詞「塩屋の主の帰りて候。宿を借らば やと思ひ候。いかにこれなる塩屋の内へ 案内申し候。ツレ詞「誰にて渡り候ふぞ ワキ「これは諸国一見の僧にて候。一夜の 宿を御貸し候へ。ツレ「暫く御待ち候へ。 主にその由申し候ふべし。いかに申し候。 旅人の御入り候ふが。一夜の御宿と仰せ 候。シテ詞「余りに見苦しき塩屋にて候ふ程 に。御宿は叶ふまじきと申し候へ。ツレ「主 に其由申して候へば。塩屋の内見苦しく 候ふ程に。御宿は叶ふまじき由仰せ候。 ワキ「いや/\見苦しきは苦しからず候。 出家の事にて候へば。平に一夜を明かさ せて賜はり候へと重ねて御申し候へ。 ツレ「いや叶ひ候ふまじ。シテ「暫く。月の 夜影に見奉れば世を捨人。よし/\かゝ る海人の家。松の木柱に竹の垣。夜寒さ こそと思へども。芦火にあたりて御泊り あれと申し候へ。ツレ詞「此方へ御入り候

へ。ワキ「あらうれしやさらばかう参らう ずるにて候。 シテ詞「始より御宿参らせたく候ひつれど も。余りに見苦しく候ふ程に。さて否と 申して候。ワキ「御志有難う候。出家と 申し旅といひ。泊りはつべき身ならね ば。何くを宿と定むべき。其上此須磨の 浦に心あらん人は。わざともわびてこそ 住むべけれ。わくらはに問ふ人あらば須 磨の浦に。詞「藻塩たれつゝわぶと答へよ と。行平も詠じ給ひしとなり。又あの磯 辺に一木の松の候ふを。人に尋ねて候へ ば。松風村雨二人の海士の旧跡とかや申 し候ふ程に。逆縁ながら弔ひてこそ通り 候ひつれ。あら不思議や。松風村雨の事 を申して候へば。二人ともに御愁傷候。 これは何と申したる事にて候ふぞ。 シテツレ二人「実にや思内にあれば。色外にあ らはれさぶらふぞや。わくらはに問ふ人

あらばの御物語。余りになつかしう候ひ て。なほ執心の閻浮の涙。ふたゝび袖を ぬらしさぶらふ。ワキ詞「なほ執心の閻浮の 涙とは。今は此世に亡き人の詞なり。又 わくらはの歌もなつかしいなどと承り 候。かた%\不審に候へば。二人ともに 名を御名告り候へ。二人「恥かしや申さん とすればわくらはに。言問ふ人もなき跡 の。世にしほじみてこりずまの。恨めしか りける心かな。クドキ「此上は何をかさのみ つゝむべき。これは過ぎつる夕暮に。あの 松蔭の苔の下。亡き跡とはれ参らせつる。 松風村雨二人の女の幽霊これまで来りた り。さても行平三年が程。御つれ%\の御 船あそび。月に心は須磨の浦夜汐を運ぶ 海人乙女に。おとゞひ選ばれ参らせつゝ。 をりにふれたる名なれやとて。松風村雨 召されしより。月にも馴るゝ須磨の海人 の。シテ「塩焼衣。色替へて。二人「〓{カトリ:大漢和27750}の衣

の。空焼なり。シテ「かくて三年も過ぎ行 けば。行平都にのぼりたまひ。ツレ「幾程 なくて世を早う。去り給ひぬと聞きしよ り。シテ「あら恋しやさるにても。又いつ の世の音信を。地「松風も村雨も。袖のみ ぬれてよしなやな。身にも及ばぬ恋をさ へ。須磨の余りに。罪深し跡弔ひてたび 給へ。 地歌「恋草の露も思も乱れつゝ。/\。心 狂気に馴衣の。巳の日の。祓や木綿四手 の。神の助も波の上。あはれに消えし。 憂き身なり。クセ「あはれ古を。思ひ出 づればなつかしや。行平の中納言三年は こゝに須磨の浦。都へ上り給ひしが。此 程の形見とて。御立烏帽子狩衣を。残し 置き給へども。これを見る度に。弥益の 思草葉末に結ぶ露の間も。忘らればこそ あぢきなや。形見こそ今はあだなれこれ なくは。忘るゝ隙もありなんと。よみし

も理やなほ思こそ深けれ。シテ「宵々に。 脱ぎて我が寝る狩衣。地「かけてぞ頼む同 じ世に。住むかひあらばこそ忘形見もよ しなしと。捨てゝも置かれず取れば面影 に立ち増り。起臥わかで枕より。後より 恋の責め来れば。せんかた涙に伏し沈む 事ぞ悲しき。 シテ「三瀬河絶えぬ。涙の憂き瀬にも。乱 るゝ恋の。淵はありけり。あらうれしやあ れに行平の御立ちあるが。松風と召され さむらふぞやいで参らう。ツレ「あさまし やその御心故にこそ。執心の罪にも沈み 給へ。娑婆にての妄執をなほ。忘れ給はぬ ぞや。あれは松にてこそ候へ。行平は御 入りもさむらはぬものを。シテ「うたての 人の言事や。あの松こそは行平よ。たと ひ暫しは別るゝとも。まつとし聞かば帰 りこんと。連ね給ひし言の葉はいかに。 ツレ「実になう忘れてさむらふぞや。たと

ひ暫しは別るゝとも。待たば来んとの言 の葉を。シテ「こなたは忘れず松風の立ち 帰りこん御音信。ツレ「終にも聞かば村雨 の。袖しばしこそぬるゝとも。シテ「まつ に変らで帰りこば。ツレ「あら頼もしの。 シテ「御歌や。地「立ち別れ。中ノ舞「。シテワカ「いな ばの山の峰に生ふる。松とし聞かば。今帰 り来ん。それはいなばの遠山松。地「これ はなつかし君こゝに。須磨の浦曲の松の 行平。立ち帰りこば我も木蔭に。いざ立ち 寄りて。磯馴松の。なつかしや。破ノ舞「。 キリ地「松に吹き来る風も狂じて。須磨の 高波はげしき夜すがら。妄執の夢に見ゆ るなり。我が跡弔ひてたび給へ。暇申し て。帰る波の音の。須磨の浦かけて吹く や後の山おろし。関路の鳥も声々に夢も 跡なく夜も明けて村雨と聞きしも今朝見 れば松風ばかりや残るらん松風ばかりや 残るらん。 平宗盛 従者 朝顔 熊野

ワキ詞「これは平の宗盛なり。さても遠江 の国池田の宿の長をば熊野と申し候。久 しく都にとゞめおきて候ふが。老母のい たはりとて度々暇を乞ひ候へども。この 春ばかりの花見の友とおもひ留めおきて 候。いかに誰かある。ワキツレ詞「御前に候。 ワキ「熊野きたりてあらば此方へ申し 候へ。ワキツレ「畏つて候。ツレ次第「夢の間惜し き春なれや。/\。咲く頃花を尋ねん。 サシ「これは遠江の国池田の宿。長者の御 内につかへ申す。朝顔と申す女にて候。 詞「さても熊野久しく都に御入り候ふ が。此程老母の御いたはりとて。度々人 を御のぼせ候へども。更に御くだりもな く候ふ程に。此度は朝顔が御むかへにの

ぼり候。道行「此程の旅の衣の日もそひ て。/\。幾夕暮の宿ならん。夢も数そ ふ仮枕。明かし暮らして程もなく。都に 早く着きにけり/\。 詞「急ぎ候ふ程に。これは早都に着きて 候。これなる御内が熊野の御入り候ふ所 にてありげに候。まづ/\案内を申さば やと思ひ候。いかに案内申し候。池田の 宿より朝顔が参りて候。それ/\おん申し 候へ。シテサシアシラヒ出「草木は雨露のめぐみ。養 ひ得ては花の父母たり。況んや人間に 於てをや。あら御心もとなや何とか御入 り候ふらん。ツレ詞「池田の宿より朝顔がま ゐりて候。シテ詞「なに朝顔と申すか。あら めづらしや。さて御いたはりは何と御入

りあるぞ。ツレ「以ての外に御入り候。こ れに御文の候御覧候へ。シテ「あらうれし や先々御文を見うずるにて候。あら笑止 や。此御文のやうも頼みずくなう見えて 候。ツレ「左様に御入り候。シテ「此上は朝 顔をも連れて参り。又此文をも御目にか けて御暇を申さうずるにてあるぞこなた へ来り候へ。誰か渡り候。ワキツレ「誰にて渡 り候ふぞ。や。熊野の御まゐりにて候。 シテ「わらはが参りたる由御申し候へ。 ワキツレ「心得申し候。いかに申し上げ候。 熊野の御まゐりにて候。ワキ「こなた へ来れと申し候へ。ワキツレ「畏つて候。 こなたへ御参り候へ。シテ「いかに申し上 げ候。老母のいたはり以ての外に候ふと て。此度は朝顔に文をのぼせて候。便な う候へどもそと見参に入れ候ふべし。 ワキ「なにと故郷よりの文と候ふや。見る までもなしそれにて高らかに読み候へ。

シテ文ノ段「甘泉殿の春の夜の夢。心を砕く端 となり。驪山宮の秋の夜の月終なきにし もあらず。末世一代教主の如来も。生死の 掟をば遁れ給はず。過ぎにし二月の頃申 しゝ如く。何とやらん此春は。年ふりま さる朽木桜。今年ばかりの花をだに。待 ちもやせじと心弱き。老の鴬逢ふ事も。 涙に咽ぶばかりなり。たゞ然るべくはよ きやうに申し。しばしの御暇を賜はり て。今一度まみえおはしませ。さなきだ に親子は一世のなかなるに。同じ世にだ に添ひ給はずは。孝行にもはづれ給ふべ し。唯かへす%\も命の内に今一度。見 まゐらせたくこそ候へとよ。老いぬれば さらぬ。別のありといへば。いよ/\見 まくほしき君かなと。古事までも思出の 涙ながら書きとゞむ。地歌「そも此歌と申 すは。/\。在原の業平の。其身は朝に 隙なきを。長岡に住み給ふ老母の詠める

歌なり。さてこそ業平も。さらぬ別のな くもがな。千代もと祈る子の為とよみし 事こそ。あはれなれ詠みし事こそあはれ なれ。 シテ「今はかやうに候へば。御暇を賜は り。東に下り候ふべし。ワキ詞「老母の痛は りはさる事なれどもさりながら。この春 ばかりの花見の友。いかで見すて給ふ べき。シテ「御ことばをかへせば恐なれど も。花は春あらば今に限るべからず。こ れはあだなる玉の緒の。永き別となりや せん。たゞ御暇を賜はり候へ。ワキ「いや いや左様に心よわき。身に任せてはかな ふまじ。いかにも心を慰めの。花見の車 同車にて。ともに心を慰まんと。地歌「牛 飼車寄せよとて。/\。これも思の家の 内。はや御出と勧むれど。心は先に行きか ぬる。足弱車の力なき花見なりけり。 シテ「名も清き。水のまに/\とめくれ

ば。地「河は音羽の。山桜。シテ「東路と ても東山せめて。其方のなつかしや。

サシ地「春前に雨あつて花の開くる事早 し。秋後に霜なうして落葉遅し。山外に山 有つて山尽きず。路中に路多うして道き はまりなし。シテ「山青く山白くして雲来 去す。地「人楽み人愁ふ。これみな世上の 有様なり。下歌「誰か言ひし春の色。げに 長閑なる東山。上歌「四条五条の橋の上。 /\。老若男女貴賎都鄙。色めく花衣袖 を連ねて行末の。雲かと見えて八重一重。 さく九重の花ざかり。名に負ふ春の。けし きかな名におふ春のけしきかな。 ロンギ地「河原おもてを過ぎゆけば。急ぐ 心の程もなく。車大路や六波羅の。地蔵 堂よと伏し拝む。シテ「観音も同座あり。 闡提救世の。方便あらたにたらちねを守 り給へや。地「げにや守の末すぐに。たの む命は白玉の。愛宕の寺も打ち過ぎぬ。 六道の辻とかや。シテ「実に恐ろしや此道 は。冥途に通ふなるものを。心細鳥辺山。

地「煙の末も薄霞む。声も旅雁のよこたは る。シテ「北斗の星の曇なき。地「御法の花 も開くなる。シテ「経書堂はこれかとよ。 地「其たらちねを尋ぬなる。子安の塔を 過ぎ行けば。シテ「春の隙行く駒の道。地「は や程もなくこれぞこの。シテ「車宿。地「馬 留。こゝより花車。おりゐの衣播磨潟飾 磨の徒歩路清水の。仏の御前に。念誦し て母の祈誓を申さん。 ワキ詞「いかに誰かある。ワキツレ「御前に候。 ワキ「熊野はいづくにあるぞ。トモ「いまだ 御堂に御座候。ワキ「何とて遅なはりたる ぞ急いでこなたへと申し候へ。ワキツレ「畏 つて候。いかに朝顔に申し候。はや花の 本の御酒宴の始まりて候。急いで御まゐ りあれとの御事にて候。其由仰せられ候 へ。ワキツレ「心得申し候。いかに申し候。は や花の本の御酒宴の始まりて候。急いで 御まゐりあれとの御事にて候。シテ「何と < P 225c> 早御酒宴の始まりたると申すか。ワキツレ「さ ん候。シテ「さらば参らうずるにて候。 シテ「なう/\皆々近う御参り候へ。あら 面白の花や候。今を盛と見えて候ふに。 何とて御当座などをもあそばされ候はぬ ぞ。クリ「実に思ひ内にあれば。色外に 現る。地「よしやよしなき世のならひ。歎 きてもまた余あり。シテサシ「花前に蝶舞ふ 紛々たる雪。地「柳上に鴬飛ぶ片々たる 金。花は流水に随つて香の来る事疾し。鐘 は寒雲を隔てゝ声の至る事遅し。クセ「清 水寺の鐘の声。祇園精舎をあらはし。諸 行無常の声やらん。地主権現の花の色。 娑羅双樹のことわりなり。生者必滅の世 のならひ。実にためしある粧。仏ももと は捨てし世の。半は雲に上見えぬ。鷲の 御山の名を残す。寺は桂の橋柱。立ち出 でて峯の雲。花やあらぬ初桜の祇園林下 河原。シテ「南を遥に眺むれば。地「大悲擁

護の薄霞。熊野権現の移ります御名も同 じ今熊野。稲荷の山の薄紅葉の。青かり し葉の秋また花の春は清水の。唯たのめ 頼もしき春も千々の花盛。シテ「山の名の。 音羽嵐の花の雪。地「深き情を。人や知る。 シテ詞「妾御酌にまゐり候ふべし。ワキ詞「い かに熊野。一さし舞ひ候へ。地「深き情を。 人や知る。中ノ舞。 シテ詞「なう/\俄に村雨のして花の散り 候ふは如何に。ワキ詞「げに/\村雨の降り 来つて花を散らし候ふよ。シテ「あら心な の村雨やな春雨の。地「降るは涙か。降る は涙か桜花。散るを惜まぬ。人やある。 イロエ「。ワキ詞「由ありげなる言葉の種取上げ 見れば。いかにせん。都の春も惜しけれど。 シテ「なれし東の花や散るらん。ワキ詞「げに 道理なりあはれなり。早々暇とらするぞ 東に下り候へ。シテ「何御いとまと候ふや。 ワキ詞「中々の事とく/\下り候ふべし。

シテ「あら嬉しや尊やな。これ観音の御利 生なり。これまでなりや嬉しやな。地「是 までなりや嬉しやな。かくて都に御供せ ば。またもや御意のかはるべき。たゞ此 まゝに御いとまと。木綿附の鳥が鳴く東

路さして行く道の。やがて休らふ逢坂の。 関の戸ざしも心して。明け行く跡の山見 えて。花を見すつる雁のそれは越路我は また。東に帰る名残かな/\。 帝王 紀貫之 小野小町 大伴黒主 凡河内躬恒 壬生忠岑 官女二人 同従者

ワキ詞「これは大伴の黒主にて候。さても明 日内裏にて御歌合あるべしとて。黒主が あひてには小野の小町を御定め候。小町 と申すは歌の上手にて。更にあひてには かなひがたく候ふ程に。あすの歌を定め て吟ぜぬ事は候ふまじ。かの私宅へ忍び 入り。歌を聞かばやと存じ候。 シテサシアシラヒ出「それ歌の源を尋ぬるに。聖徳太 子は救世の大仙。片岡山の製をろせいに 弘め給ふ。詞「さても明日内裏にて御歌合

あるべきとて。小町があひてに黒主を御 定め候ひて。水辺の草といふ題を賜はり たり。面白や水辺の草といふ題に浮みて 候ふはいかに。蒔かなくに何を種とて浮 草の。波のうね/\生ひ茂るらん。此歌を やがて短冊にうつし候はん。シテ中入「。 ワキ「いかにたゞ今の歌を聞いてあるか。 狂言「さん候承つて候。ワキ「何と聞いてあ るぞ。狂言「蒔かなくに何を種とて瓜蔓の。 畠のうねをまろびあるくらん。ワキ「いや

さやうにてはなきぞ。道の道たるは常の 道にはあらず。知れるを以て道とす。不 得心なることにて候へども。唯今の歌を万 葉の草子にうつし。帝へ古歌と訴へ申し。 明日の御歌合に勝たばやと存じ候。 貫之、黒主、立衆、次第「めでたき御代の歌合。/\。詠じ て君を仰がん。サシ「時しも頃は卯月半。清 涼殿の御会なれば。花やかにこそ見えた りけれ。貫之「かくて人丸赤人の御詠を懸 け。貫之、黒主、立衆「各々よみたる短冊を。われも われもと取り出し。御詠の前にぞ置き たりける。貫之「さて御前の人々には。 貫之、黒主、立衆「小町を始め河内の躬恒紀の貫之。 貫之「右衛門の府生壬生の忠岑。一同「ひだ りみぎりに着座して。貫之「既に詠をぞ始 めける。ほの%\と明石の浦の朝霧に。 島隠れ行く舟をしぞ思ふ。地「げに島隠れ 入る月の。/\。淡路の絵島国なれや。 はじめて歌の遊こそ。心和ぐ道となれ。

その歌人の名所も。皆庭上に並み居つゝ。 君の宣旨を待ち居たり。/\。 王詞「いかに貫之。貫之「御前に候。王「始よ り小町が相手には黒主を定めたり。まづ まづ小町が歌を読み上げ候へ。貫之「畏つ て候。水辺の草。蒔かなくに何を種とて 浮草の。波のうね/\生ひ茂るらん。 王「面白とよみたる歌や。此歌に優るはよ もあらじ。皆々詠じ候へ。貫之「畏つて候。 ワキ「暫く候。これは古歌にて候。王「何 と古歌と申すか。ワキ「さん候。王「いかに 小町。何とて古歌をば申すぞ。シテ「恥か しの勅諚やな。先代の昔はそも知らず。 既に衣通姫此道のすたらん事を歎き。和 歌の浦曲に跡を垂れ給ひ。玉津島の明神 より此方。皆此道をたしなむなり。それ に今の歌を古歌と仰せ候ふは。古今万葉 の勅撰にて候ふか。又は家の集にてある やらん。作者は誰にてましますぞ。委しく

仰せ候へ。ワキ詞「仰の如く其証歌分明なら ではいかでか奏し申すべき。草子は万葉 題は夏。水辺の草とは見えたれども。読人 しらずとかきたれば。作者は誰とも存ぜ ぬなり。シテ「それ万葉は奈良の御宇。撰 者は橘の諸兄。歌の数は七千首に及んで。 皆わらはが知らぬ歌はさむらはず。万葉 といふ草子に数多の本の候ふかおぼつか なうこそ候へ。ワキ「げに/\それはさる 事なれどもさりながら。御身は衣通姫の 流なれば。憐む歌にて強からねば。古歌を 盗むは道理なり。シテ「さては御事は古の 猿丸太夫のながれ。それは猿猴の名をも つて。我が名をよそに立てんとや。正し くそれは古歌ならず。ワキ「花の蔭行く山 賎の。シテ「その様賎しき身ならねば。何 とて古歌とは見るべきぞ。ワキ「さて詞を たゞさで誤りしは。富士のなるさの大将 や。四病八病三代八部同じ文字。シテ「も

じもかほどの誤は。ワキ「昔も今も。シテ「あ りぬべし。地「不思議や上古も末代も。三 十一字のそのうちに。一字もかはらで 詠みたる歌。これ万葉の歌ならば。和歌 の不思議と思ふべし。さらば証歌をいだ せとの。宣旨度々下りしかば。初は立春 の題なれば。花も尽きぬと引き開く。夏は 涼しき浮草の。これこそ今の歌なりとて。 既に読まんとさし上ぐれば。我が身に当 らぬ歌人さへ。胸に苦しき手を置けり。 ましてや小町が心のうち、唯轟きの橋う ち渡りて。危き心は隙もなし。 シテ「恨めしや此道の。大祖柿の本のまう ちぎみも。小町をば捨てはて給ふか恨め しやな。クドキ「此歌古歌なりとて。左右の 大臣其外の。局々の女房たちも。小町ひと りを見給へば。夢に夢見る心地して。さ だかならざる心かな。此草子を取り上げ 見れば。行の次第もしどろにて。文字の

墨つき違ひたり。いかさま小町ひとり詠 ぜしを黒主立ち聞きし。帝へ古歌と訴へ 申さんために。此万葉に入筆したるとお ぼえたり。余りに恥かしうさむらへば。 清き流を掬び上げ。此草子を洗はゞやと 思ひ候。貫之詞「小町はさやうに申せども。 もし又さなき物ならば。青丹衣の風情 たるべし。シテ「とに角に思ひ廻せども。 やるかたもなき悲しさに。地「泣く/\立 つてすご/\と。帰る道すがら。人目さ がなや恥かしや。貫之詞「小町暫く御待ち候 へ。其由奏聞申さうずるにて候。如何に奏 聞申し候。小町申し候ふは。唯今の万葉の 草子をよく/\見候へば。行の次第もし どろにて。文字の墨付も違ひて候ふ程に。 草子を洗ひて見たき由申し候。王「げにげ に小町が申す如く。さらば洗ひて見よと 申し候へ。貫之「畏つて候。如何に小町勅 諚にてあるぞ。急いで草子を洗ひ候へ。

シテ「綸言なればうれしくて。落つる涙の 玉だすき。結んで肩にうちかけて。既に 草子を洗はんと。地次第「和歌の浦曲の藻汐 草。/\。波寄せかけて洗はん。 シテ「天の川瀬に洗ひしは。地「秋の七日の 衣なり。シテ「花色衣の袂には。地「梅のに ほひや。まじるらん。ロンギ地「かりがねの。 翅は文字の数なれど。跡さだめねばあら はれず。頴川に耳を洗ひしは。シテ「濁れ る世をすましけり。地「旧台の鬚を洗ひし は。シテ「川原に解くる薄氷。地「春の歌を 洗ひては。霞の袖を解かうよ。シテ「冬の 歌を洗へば/\。地「袂も寒き水鳥の。上 毛の霜に洗はん/\。恋の歌の文字なれ ば。忍ぐさの墨消え。シテ「涙は袖に降り くれて。忍草も乱るゝ。忘れ草も乱るゝ。 地「釈教の歌の数々は。シテ「蓮の糸ぞ乱る る。地「神祇の歌は榊葉の。シテ「庭火に袖ぞ 乾ける。地「時雨にぬれて洗ひしは。シテ「紅

葉の錦なりけり。地「住吉の。/\。久し き松を洗ひては岸に寄する白波をさつと かけて洗はん。洗ひ/\て取り上げて見 れば不思議やこはいかに。数々の其歌の。 作者も題も文字の形も。少しも乱るゝ事 もなく。入筆なれば浮草の。文字は一字 も。残らで消えにけり。ありがたや/\。 出雲住吉玉津島。人丸赤人の御恵かと伏 し拝み。喜びて龍顔に差上げたりや。 ワキ詞「よく/\物を案ずるに。かほどの恥 辱よもあらじ。自害をせんとまかり立つ。 シテ地「なう/\暫く。此身皆以て。其名 ひとりに残るならば。何かは和歌の友 ならん。道を嗜む志。誰もかうこそあるべ けれ。王詞「いかに黒主。ワキ「御前に候。 王「道を嗜む者は誰もかうこそあるべけ れ。苦しからぬ事座敷へ直り候へ。ワキ「こ れ又時の面目なれば。宣旨をいかで背く べき。黒主御前に畏る。

サシ「げに有難きみぎんかな。小町黒主遺 恨なく。小町に舞を奏させよ。おの/\ 立ちより花の打衣。風折烏帽子をきせ申 し。笏拍子をうち座敷を静め。シテ「春来 つては。遍くこれ桃花の水。地「石に障り て遅く来れり。シテ「手まづさへぎる花の 一枝。地「もゝ色の絹や。重ぬらん。 シテ「霞たつ。中ノ舞「。ワカ「霞たてば。遠山に

なる。朝ぼらけ。地「日影に見ゆる。松は 千代まで松は千代まで四海の波も。四方 の国々も。民の戸ざしも。さゝぬ御代こ そ。尭舜の嘉例なれ。大和歌の起は。あ らがねの土にして。素盞鳴尊の。守り給 へる神国なれば。花の都の春も長閑に。 /\。和歌の道こそ。めでたけれ。 山姫 里人

ワキ次第「ながめもつきぬ四つの時。/\。 山又山を尋ねん。詞「これは此あたりに住 居する者にて候。さても四季折々の眺に も。とりわき春の花盛。言葉も尽きぬ景 色にて候ふ程に。山めぐりせばやと存じ 候。道行「四方の山霞は春のしるしとて。 /\。のどかに通うふ風までもよぎて

吹くらん桜咲く。梢はそれとしら雲の。 花にめがれぬ心かな/\。急ぎ候ふ程に。 春の山辺に着きて候。暫く此花の蔭に 休まばやと存じ候。シテ、アシラヒ出「あかで見る心 を花の心とや。したへばなれも。したひ 顔なる。ワキ「不思議やなこれなる山の 木蔭より。女性の声のきこゆるは。い

かなる人にてましますぞ。シテ詞「今は何を か包むべき。此山姫の現れて。春夏かけ て一年の。梢の色に我も亦。暫し心を慰 むなり。さて旅人は何を御眺め候ぞ。 ワキ「さん候四季折々の眺といへども。取 りわき春の花盛。言葉も尽きぬ頃なれば。 しばし木蔭に休らひて。咲き添ふ花を眺 むるなり。シテ「実に心ある旅人の。四季の 眺の其中にも。春は霞に馴れきつゝ。声 ものどかに聞ゆなり。地「黄鳥の声なかり せばゆききえぬ/\。山里いかに。春を 知るらんと詠みしも。のどけき春の心な り。花に馴れぬる人心。神も納受の道な れや。しばし休みて此花を眺め給へや。 ワキ詞「とてものことに四季の眺の有様委 しく御物語り候へ。 シテクリ「夫れ四季折々の眺といつぱ。地「其 歌人の言の葉に。泄るゝ事なき例とかや。 シテサシ「然れば四季のをり/\にも。眺こ

となる例あり。地「春は霞のひまよりも。 遊ぶいとゆふ青柳の。いとうちはえて緑 添ふ。野辺の景色はのどかなる。シテ「秋 は草葉の虫の音も。 地「聞けば心の。友なりけり。クセ「春たつ や谷の戸出づる黄鳥の。声長閑なる山風 も。吹くか軒端の梅が香も。いつしか霞 む里までも。匂ふやにほやかに咲ける沢 辺の杜若。水の流を隔てゝも色むつまし やゆかりある。藤の浪よる池水の。岸に馴 れぬる蛙の鳴き交ふ声も心あれ。シテ「卯 の花の垣根にしのぶ時鳥。地「なく音そら なる五月山の。暗き夜半にも蛍飛ぶ影も

星とや見えぬらん。神山の岩根に生ふる 葵ぐさ。取る手を結ぶ泉川の。夏くれて 秋風の。身にしむ頃になりぬらん。秋風 の。中ノ舞「。シテ「秋風の。吹くや千草に乱れ てぞ。地「野辺の虫の音こゝに聞くらん。 こゝにきくらん/\。シテ「露の情ぞ牡鹿 鳴くなる。地「露の情ぞ牡鹿鳴くなる。常 磐の山の秋の夕暮。シテ「月もすめるや霜 夜の池に。地「浮寝しつらん鴛鴦の。上毛 の雪をうち払ふ。白波の。よるかと思へ ば東雲の空の。よるかと思へばしのゝめ の空の。明け行く春こそ久しけれ。 瀬尾太郎 仏御前 祇王

ワキ詞「これは入道大相国に仕へ申す。瀬尾の 太郎何某にて候。さても浄海掌に天下

を治め給ひ。栄花の・央{なかば}にて御座候。こゝ に祇王御前と申す遊女。唯かりそめに浄

海の御目に懸かり給ひしが。御寵愛なら びなし。日夜朝暮の御酒宴申しはかりな く候。又加賀の国より仏御前と申して。 これも白拍子にて候ふが。浄海の御目に 懸かりたき由を申し出仕申され候へど も。浄海の御諚には。いかなる神なりと も仏なりとも。祇王があらん程は御対面 叶ふまじき由仰せ候ふ所に。祇王の御申 には。いづれも流を立つるは同じ事にて 候へば。御対面なくては叶ふまじき由た つて御申し候ひて。此四五日は出仕をと どめ給ひて候。さる間今日御対面あるべ き由仰せ出され候ふ間。この由祇王御前 に申さばやと存じ候。いかに案内申し候。 浄海の御諚にて。祇王御前も仏御前も御 まゐりあれとの御事にて。瀬尾の太郎が 参りて候。いかに祇王御前。何とて此間は 御出仕もなく候ふぞ。ツレ詞「唯今参り候ふ 事も。仏御前の訴訟故候ふよ。ワキ「あら

今めかしの御事や候。既に御申により。 仏御前の御参の上は候。いかに仏御前。 唯今の御出仕めでたう候。 シテ「申すにつけて憚おほく。御心の中も 恥かしやさりながら。申さで過ぎばいと どしく。願の糸の色見えぬ。闇の錦のた とへても。身のはて如何になりぬらん。 同じかざしの花鬘。かゝる恨は。身ひと りかや。下歌「さしも名高き御事の人をえ らばせ給ふかや。上歌「我が方の越の山風 吹くたびに。/\。高嶺に残る天雲の。 隠るゝ空も憂き旅の何に心の急がれん。 都人。いかにと問はゞ山高み。晴れぬ思 にかきくれて。唯言の葉も泣く露の。そ れならで故郷の人目にかゝる事あらじ。 ワキ詞「いかに仏御前。あらおもしろの御 述懐や候。又御諚には。御前にてそと 御舞あれとの御事にて候。シテ「仰に随ひ 立ち上り。まづ悦の和歌の声。いで祇王

御前同じくは。相曲舞に立ち給へ。ツレ「妾 はいつもの舞の袖。事ふりぬれば人々も。 目がれて興やなからまし。シテ「実に/\ さぞと夕顔の。花の狩衣烏帽子を着。袖 めづらかに出で立たん。ワキ「実におもし ろや舞人の。衣裳を飾らば今ひとしほ。 地「有明月の影ともに。/\。面つれなき 心とは我だに知れば恥かしや。思は朝ま だき。花の衣裳を飾らんと。二人伴ひ立 ち出づる/\。 ツレ「うれしやな今ぞ願は陸奥の。今日を 待ち得て舞人の。なまめき立てる女郎花。 後シテ「女姿に立烏帽子。ツレ「折から花の狩 衣に。シテ「袖を連ねて。ツレ「立ち出づる。 二人一セイ「よろづ代を。治めし君が例には。 地「巷にうたふ。和歌の声。中ノ舞「。二人クリ「そ れ金谷の春の花は。一衰の色を見せ。 地「姑蘇台の秋の月は涅槃の雲に隠れぬ。 二人サシ「一去不来の名残送離累別の袂。

地「いづれの日を経てか・乾{ほ}す事を得ん。誰 あつて終日をかたらはんや。あはれなり ける。クセ「世の中の夢現。昨日にかはり 今日にさめ幻の夢も幾度ぞ。我等賎しく も。遊女の道を踏みそめし。心はかなき 色好みの。家桜花しぼみ。たゞ埋木の人知 れぬ。世の交や芦垣の。まめなる所とて。 初花薄露重み。穂に出でがたき身なるべ し。こゝに平相国。清盛の朝臣とて。今 の世の武将たり。誰かは恐れざるべき。 金玉玉殿に。美女の数を集めては。漢宮 四台もこれにはいかで勝るべき。中に祇 王は好色の。その名にめでて参殿の。始 よりも色深く比翼連理の其契。天長く地 久し漆膠の約と聞えしに。二人「時に仏と 号しては。地「一人の遊女あり。名にしお ふ。仏神の御感応か人心うつれば。変る習 故か彼に心掛帯の。引きかへて舞の袖。 実におもしろく花やかに。見るこそやが

て思草。言の葉もなか/\。恥かしき余 なりけり。 ワキ詞「いかに申し候。いづれも御舞面白 く思し召され候。然れども祇王御前は御 休み候ひて。仏御前一人舞はせ申され候 へとの御事に候。ツレ「妾はこれにありて もよしなし。まづ/\家路に帰り候は ん。ワキ「いや/\さやうに仰せられ候ひ ては。御機嫌もいかゞにて候。暫くこれ に御座候へいかに仏御前。浄海の御諚に は。仏御前一人御まひあれとの御事にて 候。シテ「いや祇王御前の御舞なくは。 妾ひとりは舞ひ候ふまじ。ワキ「御意にて

候ふ程に。急いで御まひあらうずるにて 候。シテ「羅綺の重衣たる情なき事を機婦 に妬む。いつしか人の心も煩はし。さり とては。地「さりとては心に任せぬ此身の 習。仏はもとより舞の上手。和歌をあげ ては袂を返し。返してはうたふ。声もか すむや春風の。花を散らすや舞の袖返す %\も。おもしろや。破ノ舞「。シテ「人は何とも 花田の帯の。地「人は何とも花田の帯の。 引きかへ心は変るとも。祇王御前心に かけ給ふな。わが名は仏神かけて。深き 契の中ぞとはよしなや聞かじともろとも に空言なくこそ。契りけれ。 天女 都人

ワキ三人次第「花の雲路をしるべにて。/\。吉 野の奥を尋ねん。ワキ「これは都方に住居 <232c> する者にて候。偖もわれ春になり候へば。 こゝ彼処の花を一見仕り候。中にも千本

の桜を年々に眺め候。此千本の桜は。三吉 野の種取りし花と承り及び候ふ間。若き 人々をも伴ひ。此度は和州に下向仕り候。 道行三人「この春は。殊に桜の花心/\。色香 に染むや深緑。糸捻かけて青柳の露も乱 るゝ春雨の。夜ふりけるか花色の。朝じめ りして気色立つ。吉野の山に着きにけり /\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是は早吉野の 山に着きて候。御覧候へ嶺も尾上も花に て候。尚々奥深く分入らばやと思ひ候。 シテ呼掛「なう/\ あれなる人々は何事を仰せ 候ふぞ。ワキ「さん候これは都の者にて候 ふが。此三吉野の花を承り及び。始めて此 山にわけ入りて候。又見申せばやごとな き御姿なるが。この山中に入らせ給ふは。 いかなる人にてわたり候ふぞ。シテ「これ は此あたりに住む者なるが。春立つ山に 日を送り。さながら花を友として。山野に 暮らすばかりなり。ワキ「げに/\花の友人

は。他生の縁といひながら。われらも同 じ其心。シテ「処も山路の。ワキ「友なれや。 地上歌「見もせぬ人や花の友。/\。知るも 知らぬも花の蔭に。合やどりして諸人の。 いつしか馴れて花衣の。袖ふれて木の下 に立ちよりいざや眺めん。げにや花のも とに。帰らん事を忘るゝは。美景により て花心。馴れ/\初めて眺めんいざ/\ 馴れて眺めん。ワキ詞「いかに申すべき事の 候。かやうに家路を忘れ花を眺め給ふ事 いよ/\不審にこそ候へ。シテ「げに御不 審は御理。今は何をか包むべき。真はわ れは天人なるが。花に引かれて来りたり。 今宵はこゝに旅居して。信心を致し給ふ ならば。その古の五節の舞。小忌の衣の 羽袖を返し。月の夜遊を見せ申さん。暫 くこゝに待ち給へと。地上歌「夕ばえ匂ふ花 の蔭。/\。月の夜遊を待ち給へ。少女 の姿現して。必ずこゝに来らんと。迦陵

頻伽の声ばかり雲に残りて失せにけ り/\。来序中入「。 ワキ「不思議や虚空に音楽聞え。異香薫じ て花降れり。地「これ治まれる御代とか や。上歌「云ひもあへねば雲の上。/\。 琵琶琴和琴笙篳篥。鉦鼓羯鼓や糸竹の。 声澄み渡る春風の。天つ少女の羽袖を返 し。花に戯れ舞ふとかや。中ノ舞「。地「少女 は幾度君が代を。/\。撫でし巌もつき せぬや。春の花の。梢に舞ひ遊び。飛び 上り飛び下る。げにも上なき君の恵。治 まる国の天つ風。雲の通ひ路吹き閉づる や。少女の姿。留まる春の。霞もたなび く三吉野の。山桜うつろふと見えしが。 又咲く花の。雲に乗り。/\て行くへも 知らずぞ。なりにける。 胡蝶の精(前ハ里女) 旅僧

ワキ次第「春たつ空の旅衣。/\日も長閑な る山路かな。ワキ詞「これは和州三吉野の奥 に山居の僧にて候。われ名所には住み候 へども。未だ花の都を見ず候ふ程に。此春 思ひ立ち都に上り。洛陽の名所旧跡をも 一見せばやと思ひ候。道行三人「三吉野の高嶺 のみ雪まだ冴えて。/\。花遅げなる春 風の吹きくる象の山越えて。霞むそなた や三笠山茂き梢も楢の葉の。広き御影の 通すぐに花の都に着きにけり。/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ間。程なう都に着きて候。 此処を人に尋ねて候へば。一条大宮とや らん申し候。心静かに一見せばやと思ひ 候。又これなる処を見れば。由ありげなる 古宮の。軒の檜皮も苔むして。昔しのぶの

忘草。誠に由ある処なり。詞「又車寄の辺 なる。柴垣の隙より見れば。御階のもと に色殊なる梅花の今を盛と見えて候。立 ち寄り眺めばやと思ひ候。 シテ呼掛「なう/\御僧はいづくと思し召し て。この梅を眺め候ふぞ。ワキ「不思議やな 人ありとも見えぬ屋づまより。女性一人 来り給ひ。我に詞をかけ給ふぞや。偖こ こをばいづくと申候ふぞ。シテ「さては始 めたる御事にてましますかや。まづ/\ 御身はいづくより来り給へる人なるぞ。 ワキ「これは和州三吉野の奥に山居の者に て候ふが。始めて都に上りて候。シテ「さ ればこそ見慣れ申さぬ御事なり。こゝは 又昔より故ある古宮にて。大内も程近く

処からなる此梅を。雲の上人春ごとに。 詩歌管弦の御遊を催し。眺たえせぬ花の 色。心とゞめて御覧ぜよ。ワキ「あら面白 や処から。由ある花の名所を。今見る事 の嬉しさよ。詞「さて/\御身はいかなる 人ぞ。御名をなのり給ふべし。シテ「名所 の人にてましませば。そなたの名こそ聞 かまほしけれ。ワキ「名所には住めども心 なき。身は山賎の年を経て。シテ「住む家 桜いろ変へて。これは都の花盛。ワキ「心を とめて。シテ「色深き。上歌地「梅が香に。昔 を問へば春の月。/\。答へぬ影も我が 袖に。移る匂も年を経る古宮の軒端苔む して。昔恋しき我が名をば。何と明石の 浦に住む。海士の子なれば宿をだに定な き身や恥ずかしや/\。 ワキ詞「猶々この宮のいはれ。又御身の名 をも委しく御物語り候へ。シテ「さのみつ つむもなか/\に。人がましくや思し召

されんさりながら。真はわれは人間にあ らず。われ草木の花に心を染め。梢に遊 ぶ身にしあれども。深き望のある身なり。 などやらん昔より。梅花に縁なき事を歎 き来る春ごとに悲の。涙の色も。紅の。 梅花に縁なき此身なり。 地クリ「げにや色に染み。花に馴れ行くあだ し身は。はかなきものを花に飛ぶ。胡蝶 の夢の。戯なり。シテサシ「されば春夏秋を経 て。地「草木の花に戯るゝ。胡蝶と生れて 花にのみ。契を結ぶ身にしあれども。梅 花に縁なき身を歎き。姿を変へて御僧に 詞を交し奉り。シテ「妙なる法の。蓮葉の。 地「花の台を。頼むなり。クセ「伝へ聞く唐 土の。荘子があだに見し夢の。胡蝶の姿 現なき浮世の中ぞあはれなる。定なき世 と言ひながら。官位も影高き。光源 氏の古も。胡蝶の舞人いろ/\の。御 舟に飾る金銀の。瓶にさす山吹の。襲の

衣を懸け給ふ。シテ「花園の。胡蝶をさへ や下草に。地「秋まつ虫は。疎く見るらん と詠めこし。昔語を夕暮の。月もさし入 る宮のうち。人目稀なる木の下に。宿ら せ給へ我が姿。夢に必ず見ゆべしと。夕 の空に消えて夢のごとくなりにけり夢の 如くになりにけり。中入「。 ワキ三人上歌待謡「あだし世の。夢待つ春のうたゝ寝 に。/\。頼むかひなき契ぞと。思ひな がらも法の声。立つるや花の下臥に。衣 かたしく木蔭かな/\。 後シテサシ一声「ありがたやこの妙典の功力に引 かれ。有情非情も隔なく。仏果に至る花 の色。深き恨を晴しつゝ。梅花に戯れ匂に 交はる。胡蝶の精魂あらはれたり。 ワキ「有明の月も照り添ふ花の上に。さも 美しき胡蝶の姿の。あらはれ給ふはあり つる人か。シテ詞「人とはいかで夕暮に。か はす詞の花の色。隔てぬ梅に飛び翔りて。

胡蝶にも。誘はれなまし。心ありて。地「八 重山吹も隔てぬ梅の。花に飛びかふ胡蝶 の舞の。袂も匂ふ。気色かな。中ノ舞「。 上「四季をり/\の花盛。/\。梢のこゝ ろをかけまくも。かしこき宮の所から。 しめの内野の程近く。野花黄鳥春風を領 じ。花前に蝶舞ふ紛々たる。雪をめぐ らす舞の袖。返す%\も。おもしろや。 シテ「春夏秋の花も尽きて。打「春夏秋の花 も尽きて。霜を帯びたる白菊の。花折り 残す。枝をめぐり。廻り廻るや小車の。 法に引かれて仏果に至る。胡蝶も歌舞も 菩薩の舞の。姿を残すや春の夜の。明け 行く雲に。羽根うちかはし。明け行く雲 に。羽根うちかはして。霞に紛れて失せ にけり。 帝王 蔵人 大臣

ワキ、ワキツレ一セイ「久方の。月の郡の明らけき。光 も君の。恵かな。ワキ、ツレ、サシ「それ明君の御代 のしるし。万機の政すなほにして。四季 をり/\の御遊までも。捨て給はざる叡 慮とかや。ツレ「まづ青陽の春にならば。 ワキツレ「処々の花のみゆき。ツレ「秋に時雨 の紅葉狩。ワキツレ「日数も積る雪見の行幸 ツレ「寒暑時を違へされば。ワキツレ「御遊のを りも。ツレ「時を得て。ワキワキツレ上歌「今は夏ぞ と夕涼。/\。松の此方の道芝を。誰踏 みならし通ふらんこれは妙なるみゆきと て。小車の。直なる道を廻らすも同じ雲居 や大内や。神泉苑に着きにけり/\。 ツレサシ「面白や孤島峙つて波悠々たるよそ ほひ。誠に湖水の浪の上。三千世界は

眼の前に盡きぬ。 十二因縁は心の裏 に空し。げに面白 き景色がな。地「鷺 の居る。池の汀は 松ふりて。/\。 都にも似ぬ。住居 はおのづからげに めづらかに面白 や。或は詩歌の舟 を浮め。又は糸竹 の。声あやをなす曲水の。手まづ遮る盃 も浮むなり。あら面白の池水やなあら面 白の池水やな。 ツレ「いかに誰かある。ワキツレ「御前に候。

ツレ「あの洲崎の鷺をりから面白う候。誰 にても取りて参れと申し候へ。ワキツレ「畏つ て候。いかに蔵人。あの洲崎の鷺をりから 面白うおぼしめされ候ふ間。取りて参ら せよとの宣旨にて候。ワキ「宣旨畏つて承 り候さりながら。かれは鳥類飛行の翅。 いかゞはせんと休らへば。ワキツレ「よしや いづくも普天の下。卒土のうちは王地ぞ

と。ワキ「思ふ心を便にて。ワキツレ「次第々々 に。ワキ「芦間の蔭に。地「狙ひより狙ひよ りて。岩間のかげより取らんとすれば。こ の鷺驚き羽風を立てゝ。ぱつとあがれば 力なく。手を空しうして。仰ぎつゝ走り 行きて。汝よ聞け勅諚ぞや。勅諚ぞと。 呼ばはりかくれば。此鷺立ち帰つて。本 の方に飛び下り。羽を垂れ地に伏せば。 抱きとり叡覧に入れ。げに忝き王威の恵。 ありがたや頼もしやとて。皆人感じけり。 げにや仏法王法の。かしこき時の例とて。 飛ぶ鳥までも地に落ちて。叡慮に適ふあ りがたや。/\。猶々君の御恵。仰ぐ心 もいやましに。御酒を勧めて諸人の。舞 楽を奏し面々に。きぎの蔵人。召し出され 様々の。御感のあまり爵を賜び。ともに なさるゝ五位の鷺。さも嬉しげに立ち舞 ふや。シテ「洲崎の鷺の。羽を垂れて。地「松 も磯馴るゝけしきかな。舞

シテ「畏き恵は君朝の。地「畏き恵は君朝 の。四海に翔る翅まで。靡かぬ方も。な かりければ。まして鳥類畜類も。王威の 恩徳逃れぬ身ぞとて。勅に従ふ此鷺は。 神妙々々放せや放せと重ねて宣旨を下さ

れければ。げにかたじけなき宣命を。ふく めて。放せばこの鷺。心嬉しく飛びあが り。心嬉しく飛びあがりて。行くへも知 らずぞなりにける。 安居院の法印 従僧 里の女 紫式部の霊

ワキ、ワキツレ二人、次第「衣も同じ苔の道。/\。石山寺 に参らん。ワキ詞「これは安居院の法印にて 候。我石山の観世音を信じ。常に歩を運 び候。今日もまた参らばやと思ひ候。 道行三人「時も名も。花の都を立ち出でて。 /\。嵐につるゝ夕波の。白河表過ぎ 行けば。音羽の瀧をよそに見て。関の 此方の朝霞。されども残る有明の。影も あなたに鳰の海実に面白き景色かなげに 面白き景色かな。下歌「さゝ波や志賀唐

崎の一つ松。塩焼かねども浦の波立つこ そ水の。煙なれ立つこそ水の煙なれ。 シテ詞呼掛「なう/\安居院の法印に申すべき 事の候。ワキ詞「法印とは此方の事にて候ふ か何事にて候ふぞ。シテ「我石山に籠り。 源氏六十帖を書き記し。亡き跡までの筆 のすさび。詞「名の形見とはなりたれど も。かの源氏に終に供養をせざりし科に より。浮ぶ事なく候へば。然るべくは石 山にて。源氏の供養をのべ。我が跡弔ひて

たび給へと。此事申さんとて。これまで 参りて候。ワキ詞「これは思もよらぬ事を 承り候ふものかな。さりながら易き間の 事供養をばのべ候ふべし。さて誰と志し て廻向申し候べき。シテ「まづ石山に参 りつゝ。源氏の供養をのべ給はゞ。其時 我も現れて。共に源氏を弔ふべし。ワキ「嬉 しやそれこそ奇特なれ。いで源氏を書き しは。シテ「恥かしや此身は浮世の土とな れども。ワキ「名をば埋まぬ苔の下。シテ「石 山寺に立つ雲の。ワキ「紫式部にてましま すな。シテ「恥かしや。色に出づるか紫の。 地「色に出づるか紫の。雲も其方か夕日 影。さしてそれとも名のり得ずかき消す やうに。失せにけりかき消すやうに失せ にけり。中入間「。 ワキ「さて石山に参りつゝ。念願の勤事終 り。夜も更方の金の声心も澄めるをりふ しに。ワキツレ「ありつる源氏の物語。誠し

からぬ事なれども。ワキ「供養をのべて紫 式部の。ワキツレ「菩提を深く。ワキ「弔ふべき なり。ワキ、ツレ二人 歌待謡「とは思へどもあだし世 の。/\。夢にうつろふ紫の。色ある花 も一時の。あだにも消えし古の。光源 氏の物語。聞くにつけてもそのまこと頼 少なき。心かな頼少なき心かな。 後シテ一声「松風も。散れば形見となるものを。 思ひし山の下紅葉。地「名も紫の色に出 でて。シテ「見えん姿は。恥かしや。ワキ「か くて夜も深更になり。鳥の声をさまり。 心すごきをりふし。詞「灯の影を見れば。さ も美しき女性。紫の薄衣のそばを取り。 影の如くに見え給ふは。夢か現か覚束な。 シテ「うつろひやすき花色の。襲の衣の下 こがれ。紫の色こそ見えね枯野の萩。も とのあらまし末通らば。名乗らずとしろ し召されずや。ワキ「紫の色には出でずと あらましの。言葉の末とは心得ぬ。紫式

部にてましますか。シテ「恥かしながらわ が姿。ワキ「その面影は昨日見し。シテ「姿に 今もかはらねば。ワキ「互に心を。シテ「おき もせず。地「寝もせで明かす此夜半の。月 も心せよ。石山寺の鐘の声。夢をも誘ふ 風の前。消えしはそれか灯の光源氏の。 跡とはん光源氏の跡とはん。 シテ「あら有難の御事や。何をか布施に参 らせ候ふべき。ワキ詞「いや布施などとは思 もよらず候。とてもこの世は夢の中。昔 に返す舞の袖。唯今舞うて見せ給へ。 シテ詞「恥かしながらさりとては。仰をばい かで背くべき。いで/\さらば舞はんと て。ワキ「もとより其名も紫の。シテ「色珍 らしき薄衣の。ワキ「日もくれなゐの扇を 持ち。シテ「恥かしながら弱々と。ワキ「あは れ胡蝶の。シテ「一遊び。地次第「夢の中なる 舞の袖。/\。現に返す由もがな。シテ「花 染衣の色襲。地「紫匂ふ。袂かな。イロエ「。

シテクリ「それ無常といつぱ。目の前なれども 形もなし。地「一生夢の如し。誰あつて百 年を送る。槿花一日唯おなじ。シテサシ「こゝ に数ならぬ紫式部。頼をかけて石山寺。 悲願を頼み籠り居て。此物語を筆に任す。 地「されども終に供養をせざりし科によ り。妄執の雲も晴れ難し。シテ「今逢ひ難 き縁に向つて。地「心中の所願を発し。一 つの巻物に写し。無明の眠を覚ます。南 無や光源氏の幽霊成等正覚。クセ「抑桐 壷の。夕の煙すみやかに法性の空に至 り。箒木の夜の言の葉は終に覚樹の花散 りぬ。空蝉の。空しき此世を厭ひては。 夕顔の。露の命を観じ。若紫の雲のむかへ 末摘花の台に座せば。紅葉の賀の秋の。 落葉もよしや唯。たま/\。仏意に逢ひ ながら。榊葉のさして往生を願ふべし。 シテ「花散る里に住むとても。地「愛別離苦 の理まぬかれ難き道とかや。唯すべから

くは。生死流浪の須磨の浦を出でて。四 智円明の。明石の浦に澪標。いつまでも ありなん。唯蓬生の宿ながら。菩提の道 を願ふべし。松風の吹くとても。業障の 薄雲は。晴るゝ事更になし。秋の風消え ずして。紫磨忍辱の藤袴。上品蓮台に。 心を懸けて誠ある。七宝荘厳の。真木柱の 本に行かん。梅が枝の。匂に移る我が心。 藤の裏葉におく霜の。其玉鬘かけしばし 朝顔の光頼まれず。シテ「朝には栴檀の。 蔭に宿木名も高き。地「官位を。東屋の内 に籠めて。楽栄を浮舟に喩ふべしとか やこれも蜻蛉の身なるべし。夢の浮橋を 打ち渡り。身の来迎を願ふべし。南無や 西方弥陀如来。狂言綺語を振り捨てゝ紫

式部が後の世を。助け給へともろともに。 鐘打ち鳴らして廻向も既に終りぬ。 ロンギ地「実に面白や舞人の。名残今はと鳴 く鳥の。夢をも返す袂かな。シテ「光源氏 の御跡を。弔ふ法の力にて。我も生れん。 蓮の花の宴は頼もしや。地「実にや朝は秋 の光。シテ「夕には影もなし。地「朝顔の露 稲妻の影。何れかあだならぬ。定なの浮 世や。 キリ「よく/\物を案ずるに。/\。紫式 部と申すはかの石山の観世音。仮にこの 世に現れて。かゝる源氏の物語。これも 思へば夢の世と。人に知らせん御方便げ に有難き誓ひかな。思へば夢の浮橋も。夢 の間の言葉なり/\。 万里小路中納言 官人 供奉 建礼門院 阿波内侍 大納言局 後白河法皇

官人詞「これは後白河院に仕へ奉る臣下な り。扨も此度先帝二位殿を始め奉り。平家 の一門長門の国早鞆の沖にして。ことご とく果て給ひて候。女院も御身を投げさ せ給ひ候ふを取り上げ奉り。かひなき御 命たすかりおはしまし候。三河の守範頼 九郎太夫の判官義経兄弟供奉し申し。 三種の神宝事故なく都に納まり給ひ候。 さるほどに女院は都にうつらせ給ふべか りしを。先帝安徳天皇の御菩提。ならび に二位殿の御跡御弔のため。大原の寂 光院に浮世をいとひ御座候ふを。法皇御 幸をなされ。御訪あるべきとの勅諚 にて候ふ間。御幸の山路をも申しつけば やと存じ候。いかに誰かある。大原へ御 幸あるべきなれば。行幸の道をもつくり その清を仕り候へ。 シテサシ「山里はもののさびしき事こそあ れ。世の憂きよりは中々に。シテ、内侍、局三人「住

みよかりける柴の枢。都の方の音信は。 間遠に結へる笆垣や憂き節繁き竹柱。立 居につけて物思へど。人目なきこそ安か りけれ。下歌「折々に心なけれど訪ふもの は。上歌「賎が妻木の斧の音。/\。梢の 嵐猿の声。これらの 音ならでは。正木の かづら青つゞら来る 人稀になりはてゝ。 草顔淵が巷に。繁き 思の行方とて。雨原 憲が枢とも湿ふ袖 の。涙かなうるほふ 袖の涙かな。 シテ詞「いかに大納言 の局。後の山に上り樒を摘み候ふべし。 局詞「わらはも御供申し。妻木蕨を折り供 御にそなへ申し候ふべし。シテ「譬へは便 なきことなれども。悉達太子は浄飯王の

都を出で。檀特山の嶮しき道を凌ぎ。菜摘 み水汲み薪。地「とり%\様々に難行し仙 人に仕へさせ給ひて。終に成道なるとか や。我も仏の為なれば。御花筐取り%\ なほ山深く入り給ふなほ山深く入り給 ふ。中入間「。 ワキ、ワキツレ一セイ「九重の花の名残を尋ねてや。青 葉を慕ふ。山路かな。次第「分けゆく露も ふかみ草。/\。大原の御幸急がん。

ワキ詞「行幸をはやめ申し候ふ間。大原に入 御候。かくて大原に行幸なつて。寂光 院の有様を見わたせば。露むすぶ庭の夏 草しげりあひて。青柳糸を乱しつゝ。池 の浮草波にゆられて。錦を曝すかと疑は る。岸の山吹咲き乱れ。八重立つ雲の絶 間より。山時鳥の一声も。君の御幸を。 待ち顔なり。法皇「法皇池の汀を叡覧あつ て。池水に。汀の桜ちりしきて。波の花 こそ。盛なりけり。地歌「旧りにける。岩 のひまより落ちくる。/\。水の音さへ よしありて。緑蘿の垣翠黛の山。絵にか くとも。筆にも及びがたし。一宇の御堂 あり。甍破れては霧不断の香を焼き。〓{新字源2799:とぼそ} 落ちては月もまた。常住の灯をかゝぐ とはかゝる所かものすごやかゝる所かも のすごや。 ワキ詞「これなるこそ女院の御庵室にてあ りげに候。軒には蔦朝顔はひかゝり。藜〓{大漢和32248:でう}

深く鎖せり。あら物すごの気色やな。 詞「いかにこの庵室の内へ案内申し候。 内侍詞「誰にてわたり候ふぞ。ワキ「これは 万里の小路の中納言にて候。内侍「それは さて人目まれなる山中へは。何とて御わ たり候ふぞ。ワキ「さん候女院の御住居御 訪のために。法皇これまで御幸にて候。 内侍「女院は上の山へ花つみに御いでに て。今は御留守にて候。ワキ「御幸のよし 申して候へば。女院は上の山へ花つみに 御いでにて。今は御留守のよし候。暫く この処に御座をなされ。御かへりを御待 あらうずるにて候。 法皇「やあいかにあの尼前。汝はいかなる 者ぞ。内侍「げに/\御見忘は御ことわ り。これは信西が娘。阿波の内侍がなれ る果にてさぶらふ。かくあさましき姿な がら。明日をも知らぬこの身なれば。恨 とは更に思はずさぶらふ。法皇詞「女院はい

づくに御渡り候ふぞ。阿波内侍「上の山へ花 つみに御いでにて候。法皇「さて御供には。 内侍「大納言の局。今少し待たせおはしま し候へ。やがて御帰にて候ふべし。 サシシテ「昨日もすぎ今日もむなしく暮れ なんとす。明日をも知らぬ此身ながら。 唯先帝の御面影。忘るゝ隙はよもあら じ。極重悪人無他方便。唯称弥陀得生極 楽。主上を始め奉り。二位殿一門の人々 成等正覚。南無阿弥陀仏。詞「や。庵室 のあたりに人音の聞え候。大納言局「暫くこ れに御休み候へ。 内侍「唯今こそあの岨づたひを女院の御帰 にて候。法皇「さていづれが女院。大納言 の局はいづれぞ。内侍「花筐臂に懸けさせ 給ふは。女院にてわたらせ給ふ。妻木に 蕨折りそへたるは。大納言の局なり。 詞「いかに法皇の御幸にて候。シテ「なか なかになほ妄執の閻浮の身を。忘れもや

らでうき名をまた漏せば漏るゝ涙の色。 袖の気色もつゝましや。地下歌「とは思へど も法の人同じ道にと頼むなり。上歌「一念 の窓の前。一念の窓の前に。摂取の光明 を期しつゝ十念の柴の枢には。聖衆の来 迎を待ちつるに。思はざりける今日の暮。 古に帰るかとなほ思出の涙かな。げに や君こゝに叡慮のめぐみ末かけて。あは れもさぞな大原や。芹生の里の細道朧の 清水月ならで。御影や今に残るらん。 ロンギ地「さてや御幸のをりしもは。いかな る時節なるらん。シテ「春過ぎ夏もはや。 北祭のをりなれば。青葉にまじる夏木立 春の名残ぞをしまるゝ。地「遠山にかゝる 白雲は。シテ「散りにし花のかたみかや。 地「夏草のしげみが原のそことなく。分け 入り給ふ道の末。シテ「こゝとてや。/\。 げに寂光の静かなる。光の陰を惜めた だ。地「光の影も明らけき。玉松が枝に咲

き添ふや。シテ「池の藤波夏かけて。地「こ れも御幸を。シテ「待ちがほに。地「青葉が くれの遅桜初花よりもめづらかに。なか なか様かはる有様をあはれと。叡慮にか けまくも。かたじけなしやこの御幸柴の 枢のしばしがほどもあるべき住居なるべ しや。あるべき住居なるべし。 シテ「思はずも。深山の奥の。住まひして。 雲居の月をよそに見んとは。かやうに思 ひ出でしに。此山里までの御幸。かへす がへすも有難うこそ候へ。 法皇詞「さいつ頃ある人の申せしは。女院は 六道の有様まさに御覧じけるとかや。仏 菩薩の位ならでは見給ふ事なきに不審に こそ候へ。シテ「勅諚はさる御事なれど も。つら/\我が身を案じ見るに。クリ「そ れ身を観ずれば岸の額に根を。離れたる 草。地「命を論ずれば、江のほとりに繋が ざる舟。シテサシ「されば天上の楽も。身

に白露の玉かづら。地「ながらへ果てぬ年 月も。つひに五衰のおとろへの。シテ「消 えもやられぬ。命のうちに。地「六道のち またに。迷ひしなり。クセ「まづ一門。西海 の波に浮き沈み。よるべも知られぬ船の 中。海に臨めども。潮なれば飲水せず。 餓鬼道の如くなり。又ある時は。汀の波 の荒磯に。打ちかへすかの心地して船こ ぞりつゝ泣き叫ぶ。声は叫喚の罪人もか くやあさましや。シテ「陸の争ある時は。 地「これぞ誠に目の前の。修羅道の戦あら 恐ろしや数々の。駒の蹄の音聞けば。畜 生道の有様を。見聞くも同じ人道の。苦 となりはつる憂き身の果てぞ悲しき。 法皇詞「げに有難き事どもかな。先帝の御最 期の有様。何とか渡り候ひつる御物語り 候へ。シテ語「恥かしながら語つて聞かせ申 し候ふべし。其時の有様申すにつけて恨 めしや。長門の国早鞆とやらんにて。筑

紫へ一先落ちゆくべきと一門申し合ひし に。緒方の三郎が心がはりせしほどに。 薩摩潟へや落さんと申しゝをりふし。上 り汐にさへられ。今はかうよと見えしに。 能登の守教経は。安芸の太郎兄弟を左右 の脇に挟み。最期の供せよとて海中に飛 んで入る。新中納言知盛は。詞「沖なる船 の碇を引き上げ。兜とやらんに戴き。乳 母子の家長が弓と弓とを取りかはし。其 まゝ海に入りにけり。其時二位殿鈍色の 二つ衣に。練袴のそば高く挟んで。我が身 は女人なりとても。敵の手には渡るまじ。 主上の御供申さんと。安徳天皇の御手を 取り舷に臨む。いづくへ行くぞと勅諚 ありしに。此国と申すに逆臣多く。かく あさましき処なり。極楽世界と申して。 めでたき所の此波の下にさむらふなれ ば。御幸なし奉らんと。泣く/\奏し給 へば。さては心得たりとて。東に向はせ

給ひて。天照大神に御暇申させ給ひて。 地「又。十念の御為に西に向はせおはしま し。シテ「今ぞ知る。地「御裳濯川の流には。 波の底にも都ありとはと。これを最期の 御製にて。千尋の底に入り給ふ自も。つ づいて沈みしを。源氏の武士とりあげて かひなき命ながらへ。二度。龍顔に逢ひ奉

り。不覚の涙に袖をしほるぞ恥かしき。 地「いつまでも御名残はいかで尽きぬべ き。はや還幸とすゝむれば。/\。御輿 を早め遥々と。寂光院を出で給へば。 シテ「女院は柴の戸に。地「暫しが程は見送 らせ給ひて御庵室に入り給ふ御庵室に入 り給ふ。 関寺の住僧 従僧 老後の小野小町 稚児

ワキ、ワキツレ二人次第「待ち得て今ぞ秋に逢ふ。/\星 の祭を急がん。ワキ詞「これは江州関寺の住 僧にて候。今日は七月七日にて候ふ程に。 七夕の祭を取り行ひ候。又この山陰に老 女の庵を結びて候ふが。歌道を極めたる 由申し候ふ程に。幼き人を伴ひ申し。か の老女の物語をも承らばやと存じ候。 ワキ、ツレサシ「颯々たる涼風と衰鬢と。一時にき

たる初秋の。七日の夕に早なりぬ。ワキ「今 日七夕の手向とて。糸竹呂律の色々 に。ツレ「ことを尽して。ワキ「敷島の。 ワキ、ワキツレ二人歌「道を願の糸はへて。/\。織るや 錦のはた薄。花をも添へて秋草の露の玉 琴かき鳴らす。松風までも折からの。手向 に叶ふ。夕かな手向に叶ふ夕かな。 シテサシ「朝に一鉢を得ざれども求むるに能

はず。草衣夕の肌を隠さゞれども。おぎ ぬふに便あり。花は雨の過ぐるによつて 紅まさにおびたり。柳は風に欺かれて緑 漸く垂れり。人更に若き事なし。終には 老の鶯の。百囀の春は来れども。昔に 帰る秋はなし。あら来し方恋しや/\。 ワキ詞「いかに老女に申すべき事の候。これ は関寺に住む者にて候。此寺の児達歌を 御稽古にて候ふが。老女の御事を聞き給 ひ。歌をよむべき様をも問ひ申し。又御 物語をも承らん為に。児達もこれまで御 いでにて候。シテ「これは思も寄らぬ事を 承り候ふものかな。埋木の人知れぬ事と なり。花薄穂に出すべきにしもあらず。 心を種として言葉の花色香に染まば。な どか其風を得ざらん。優しくも幼き人の 御心に好き給ふものかな。ワキ「先々普く 人の翫び候ふは。難波津の歌を以て。 手習ふ人の始にもすべきよし聞え候ふよ

なう。シテ「それ歌は神代より。始まれど も。文字の数定まらずして。事の心分き 難かりけらし。今人の代となりて。めで たかりし世継をよみ治めし詠歌なればと て。難波津の歌を翫び候。ワキ「又浅香山 の歌は。王の御心を和らげし故に。これ まためでたき詠歌よなう。シテ「実によく 心得給ひたり。此二歌を父母として。 ワキ「手習ふ人の始となりて。シテ詞「高き 賎しき人をも分かず。ワキ「都鄙遠国の鄙 人や。シテ「我等如きの庶人までも。ワキ「好 ける心に。シテ「近江の海の。地「さゝ波や。 浜の真砂は尽くるとも。/\。よむ言の 葉はよも尽きじ。青柳の糸絶えず。松の 葉の散失せぬ。種は心と思召せ。仮令時 移り事去るとも。此歌の文字あらば。鳥の 跡も尽きせじや鳥の跡も尽きせじ。 ワキ詞「有難う候。古き歌人の言葉多しと いへども。女の歌は稀なるに。老女の御

事例少なうこそ候へ。我が背子が来べき 宵なりさゝがにの。蜘蛛の振舞かねてし るしも。これも女の歌候ふか。シテ「これ は古衣通姫の御歌なり。衣通姫とは允 恭天皇の后にてまします。形の如く我等 もその流をこそ学び候へ。ワキ「さては衣 通姫の流を学び給ふかや。近年聞えたる 小野の小町こそ。衣通姫の流とは承れ。わ びぬれば身を浮草の根を絶えて。誘ふ水 あらばいなんとぞ思ふ。シテ「これは小町 の歌候ふな。シテ「これは大江の惟章が心 がはりせし程に。世の中物うかりしに。 詞「文屋の康秀が三河の守になりて下り し時。田舎にて心をも慰めよかしと。我 を誘ひし程によみし歌なり。忘れて年を 経しものを。聞けば涙のふる事の又思は るゝ悲しさよ。ワキ「不思議やなわびぬれ ばの歌は。我よみたりしと承る。又衣通姫 の流と聞えつるも小町なり。実に年月を

考ふるに。老女は百に及ぶといへば。た とひ小町の存ふるとも。いまだこの世に 在るべきなれば。今は疑ふ所もなく。御身 は小町の果ぞとよ。さのみな包み給ひそ とよ。シテ「いや小町とは恥かしや。色見 えでとこそよみしものを。地歌「移ろふも のは世の中の。人の心の花や見ゆる。恥 かしやわびぬれば。身を浮草の根を絶え て。誘ふ水あらば今も。いなんとぞ思ふ 恥かしや。 地クリ「実にや包めども。袖に溜らぬ白玉 は。人を見ぬ目の涙の雨。古事のみを思 草の。花しをれたる身の果まで。なに白露 の名残ならん。シテサシ「思ひつゝ寐ればや 人の見えつらん。地「よみしも今は身の上 に。存へ来ぬる年月を。送り迎へて春秋 の。露行き霜来つて草葉変じ虫の音も枯 れたり。シテ「生命既に限となつて。地「唯。 槿花一日の。栄に同じ。クセ「あるは無く。

無きは数添ふ世の中に。あはれいづれの。 日まで歎かんと。詠ぜし事も我ながら。 いつまで草の花散じ。葉落ちても残りけ るは露の命なりけるぞ。恋しの昔や。忍ば しの古の身やと。思ひし時だにも。また 古事になり行く身の。せめて今は又。初 の老ぞ恋しき。あはれ実に古は。一夜泊 りし宿までも。玳瑁を飾り。垣に金花を 懸け。戸には水精を連ねつゝ。鸞輿属車 の玉衣の色を飾りて敷妙の。枕づく。妻 屋の内にしては。花の錦の褥の起き臥し なりし身なれども。今は埴生のこや玉を 敷きし床ならん。シテ「関寺の鐘の声。地「諸 行無常と聞くなれども老耳には益もな し。逢坂の山風の。是生滅法の理をも得 ばこそ。飛花落葉のをり/\は。好ける 道とて草の戸に。硯を馴らしつゝ筆を染 めて藻塩草。書くや言の葉の枯々に哀な る様にて強からず。強からぬは女の歌な

れば。いとゞしく老の身の。弱り行く果ぞ 悲しき。子方詞「いかに申し候。七夕の祭遅 なはり候。老女をもともなひ御申し候へ。 ワキ「いかに老女。七夕の祭を御いであつ て御覧候へ。シテ「いや/\老女の事は憚 にて候ふほどに。思も寄らず候。ワキ「何 の苦しう候ふべき。唯々御出で候へと よ。地歌「七夕の。織る糸竹の手向草。幾 年経てかかげろふの。小野の小町の。百 年に及ぶや天つ星合の。雲の上人に馴れ 馴れし。袖も今は麻衣の。浅ましや痛は しや目もあてられぬ有様。とても今宵は 七夕の。/\。手向の数も色々の。或は糸 竹に懸けて廻す盃の。雪を受けたる。童 舞の袖ぞ面白き。星祭るなり呉竹の。 シテ「代々を経て住む。行末の。地「幾久し さぞ。万歳楽。子方舞「。シテ詞「あら面白の唯 今の舞の袖やな。むかし豊の明の五節の 舞姫の袖をこそ五度返しゝが。これは又

七夕の手向の袖ならば。七返にてやあ るべき。詞「狂人走れば不狂人も走るとか や。今の童舞の袖に引かれて。狂人こそ 走り候へ。百年は。序ノ舞「。 シテワカ「百年は。花に宿りし。胡蝶の舞。 地「哀なり/\。老木の花の枝。シテ「さす 袖も手忘れ。地「裳も足弱く。シテ「たゞよ ふ波の。地「立舞ふ袂は翻せども。昔に 返す袖はあらばこそ。シテ「あら恋しの古

やな。地「さる程に初秋の短夜。はや明方 の関寺の鐘。シテ「鳥もしきりに。地「告げ 渡る東雲の。あさまにもならば。シテ「羽束 師の森の。地「はづかしの森の木がくれも よもあらじ。暇申して帰るとて杖にすが りてよろ/\と。本の藁屋に帰りけり。 百年の姥と聞えしは小町が果の名なりけ り小町が果の名なりけり。 大納言行家 小野小町

ワキ詞「これは陽成院に仕へ奉る新大納言 行家にて候。扨も我が君敷島の道に御心 を懸けられ。普く歌を撰ぜられ候へど も。叡慮に叶ふ歌なし。こゝに出羽の国 小野の良実が娘に小野の小町。彼はなら びなき歌の上手にて候ふが。今は百年の

姥となつて。関寺辺に在る由聞し召し及 ばれ。帝より御憐の御歌を下され候。そ の返歌により。重ねて題を下すべきとの 宣旨に任せ。唯今関寺辺小野の小町が方 へと急ぎ候。 シテ一セイ「身は一人。我は誰をか松坂や。四の

宮河原四つの辻。いつ又六つの。巷なら ん。サシ「むかしは芙蓉の花たりし身なれ ども。今は藜〓{大漢和32248:でう}の草となる。顔ばせは憔 悴と衰へ。膚は凍梨の梨の如し。杖つく ならでは力もなし。人を恨み身をかこ ち。泣いつ笑うつやすからねば。物狂と 人は言ふ。歌「さりとては。捨てぬ命の身 に添ひて。/\。面影につくも髪。かゝ らざりせばかゝらじと。昔を恋ふる忍寐 の。夢は寐覚の長き夜を。飽きてはてた りな我が心/\。 ワキ詞「いかにこれなるは小町にてあるか。 シテ「見奉れば雲の上人にてましますか。 小町と承り候ふかや何事にて候ふぞ。 ワキ「され此程はいづくを住家と定めける ぞ。シテ「誰留むるとはなけれども。唯関 寺辺に日数を送り候。ワキ「実に/\関寺 は。さすがに都遠からで。閑居には面白 き処なり。シテ「前には牛馬の通路あつて。

貴きも行き賎しきも過ぐ。ワキ「後には霊 験の山高うして。シテ「しかも道もなく。 ワキ「春は。シテ「春霞。地歌「立出で見れば 深山辺の。/\。梢にかゝる白雲は。花 かと見えて面白や。松風も匂ひ。枕に花 散りて。それとばかりに白雲の色香おも しろきけしきかな。北に出づれば湖の志 賀辛崎の一つ松は。身の類なるものを。 東に向へばありがたや。石山の観世音瀬 田の長橋は狂人の。つれなき命のかゝる ためしなるべし。 シテ詞「かくて都の恋しき時は。柴の庵に暫 し留むべき友もなければ。便梨の杖にす がり。都路に出でてものを乞ふ。詞「乞ひ 得ぬ時は涙の関寺に帰り候。ワキ「いかに 小町。さても今も歌をよみ給ふべきか。 シテ「我いにしへ百家仙洞の交たりし時こ そ。事によそへて歌をもよみしが。今は 花薄穂に出で初めて。霜のかゝれる有様

にて。浮世にながらふるばかりにて候。 ワキ「実に尤も道理なり。帝より御憐の御 歌を下されて候。これ/\見候へ。シテ「何 と帝より御憐の御歌を下されたると候 ふや。あらありがたや候。老眼と申し文 字もさだかに見え分かず候。それにて遊 ばされ候へ。ワキ「さらば聞き候へ。シテ「い かにも高らかに遊ばされ候へ。ワキ「雲の 上は。シテ「雲の上は。ワキ「雲の上は。あ りし昔にかはらねど。見し玉だれの。内 やゆかしき。シテ詞「あら面白の御歌や候。 悲しやな古き流を汲んで。水上を正すと すれど歌よむべしとも思はれず。詞「又申 さぬ時は恐なり。所詮この返歌を唯一字 にて申さう。ワキ詞「不思議の事を申す者か な。それ歌は三十一字を連ねてだに。心 の足らぬ歌もあるに。一字の返歌と申す 事。これも狂気の故やらん。シテ詞「いやぞ といふ文字こそ返歌なれ。ワキ「ぞといふ

文字とはさていかに。シテ「さらば帝の御 歌を。詠吟せさせ給ふべし。ワキ「不審な がらも指し上げて。雲の上はありし昔に かはらねど。見し玉だれの。内やゆかし き。シテ詞「さればこそ内やゆかしきを引き のけて。内ぞゆかしきとよむ時は。小町が よみたる返歌なり。ワキ「さて古もかゝる ためしのあるやらん。シテ「なう鸚鵡返と いふことは。地歌「この歌の様を申すなり。 帝の御歌を。ばひ参らせてよむ時は天の 恐もいかならん。和歌の道ならば神もゆ るしおはしませ。貴からずして。高位 に交はるといふこと。たゞ和歌の徳とか や/\。 地クリ「それ歌の様をたづぬるに。長歌短歌 旋頭歌。折句誹諧混本歌鸚鵡返。廻文歌 なり。シテサシ「なかんづく鸚鵡返といふこ と。唐土に一つの鳥あり。地「その名を鸚 鵡といへり。人のいふ言葉を受けて。即ち

おのが囀とす。何ぞといへば何ぞと答 ふ。鸚鵡の鳥の如くに。歌の返歌も。か くの如くなれば。鸚鵡がへしとは申すな り。クセ「実にや歌の様。語るにつけ古の なほ思はるゝはかなさよ。されば来し方 の。代々の集の歌人の。その多くある中 に。今の小町は妙なる花の色好み。歌の 様さへ。女にて唯弱々とよむとこそ家々 の。書伝にも記し置き給へり。シテ「和歌 の六義を尋ねしにも。地「小町が歌をこそ 唯事歌のためしに。引くのみか我ながら。 美人の形も世に勝れ。余情の花と作られ。 桃花雨を帯び。柳髪風にたをやかなり。 紫笋はなほ動きほこり梨花は名のみなりし かど。今憔悴と落ちぶれて。身体疲瘁す る小町ぞ。あはれなりける。 ワキ詞「いかに小町。業平玉津島にての法楽 の舞をまなび候へ。シテ詞「さても業平玉津 島に参り給ふと聞えしかば。我も同じく

参らんと。都をばまだ夜をこめて稲荷 山。葛葉の里も浦近く。和歌吹上にさしか かり。地「玉津島に参りつゝ。/\。業平 の舞の袖。思ひ廻らす信夫摺木賊色の狩 衣に。大紋の袴の稜を取り。風折烏帽子 召されつゝ。シテ「和光の光玉津島。地「廻 らす袖や。波がへり。序ノ舞「。シテ「和歌の浦 に。汐満ち来れば。かたを浪の。地「芦辺 をさして。田鶴鳴き渡る鳴き渡る。シテ「立つ 名もよしなや忍音の。地「立つ名もよし

なや忍音の。月には愛でじ。シテ「これぞ この。地「積れば人の。シテ「老となるもの を。地「かほどに早き光の陰の。時人を待 たぬ。習とは白波の。シテ「あら恋しの昔 やな。地「かくてこの日も暮れて行くまゝ に。さらばと云ひて。行家都に帰りけれ ば。シテ「小町も今は。これまでなりと。 地「杖にすがりてよろ/\と。立ち別れ行 く袖の涙。立ち別れ行く袖の涙も関寺の。 柴の菴に。帰りけり。 岩戸山の僧 老女 桧垣嫗の霊

ワキ詞「これは肥後の国岩戸と申す山に居 住の僧にて候。さても此岩戸の観世音は。 霊験殊勝の御事なれば。暫く参籠し処の 致景を見るに。南西は海雲漫々として万 古心の内なり。人稀にして慰多く。致景

あつて郷里を去る。誠に住むべき霊地と と思ひて。三年が間は居住仕つて候。詞「こ こに又百にも及ぶらんとおぼしき老女。 毎日閼伽の水を汲みて来り候。今日も来 りて候はゞ。いかなる者ぞと名を尋ねば

やと思ひ候。 シテ次第「影白河の水汲めば。/\。月も袂 や濡らすらん。サシ「それ籠鳥は雲を恋 ひ。帰雁は友をしのぶ。人間もまたこれ同 じ。貧家には親知少なく。賎しきには故 人疎し。老悴衰へ形もなく。露命きはま つて霜葉に似たり。下歌「流るゝ水のあは れ世のその理を汲みて知る。上歌「こゝは 処も白河の。/\。水さへ深き其罪を。浮 びやすると捨人に。値遇を運ぶ足引の。 山下庵に着きにけり。山下庵に着きにけ り。詞「いつもの如く今日もまた御水あげ て参りて候。ワキ「毎日老女の歩返す%\ も痛はしうこそ候へ。シテ「せめてはか やうの事にてこそ。少しの罪をも遁るべ けれ。亡からん跡を。弔ひ給ひ候へ。 詞「明けなば又参り候ふべし御暇申し候 はん。ワキ「暫く。御身の名を名乗り給 へ。シテ「何と名を名乗れと候ふや。ワキ「な

か/\の事。シテ「これは思もよらぬ仰か な。かの後撰集の歌に。年ふれば我が黒 髪も白河の。詞「みつはぐむまで老いにけ るかなと。詠みしもわらはが歌なり。昔筑 前の太宰府に。庵に桧垣しつらひて住み し白拍子。後には衰へて此白河の辺に住 みしなり。ワキ「実にさる事を聞きしなり。 その白河の庵のあたりを。藤原の興範通 りし時。シテ「水やあると乞はせ給ひし程 に。その水汲みて参らするとて。ワキ「みづ はくむとは。シテ「よみしなり。地「そもみ づはくむと申すは。/\。唯白河の水に はなし。老いて屈める姿をばみつはぐむ と申すなり。そのしるしをも見給はゞ。か の白河の辺にて。我が跡弔ひてたび給へ と夕まぐれして。失せにけり夕まぐれし て失せにけり。中入間「。 ワキ詞「さては古の桧垣の女仮に現れ。我 に言葉をかはしけるぞや。一つは末世の

奇特ぞと。思ひながらも尋ね行けば。 歌「不思議や早く日も暮れて。/\。河霧 深く立ちこもる。陰に庵の燈の。ほの かに見ゆる。不思議さよほのかに見ゆる 不思議さよ。 後シテ「あら有難の弔やな。/\。風緑野 に収つて煙条直し。雲岸頭に定まつて月 桂円なり。朝に紅顔あつて。世路に楽 むといへども。地「夕には白骨となつて郊 原に朽ちぬ。シテ「有為の有様。地「無常の まこと。シテ「誰か生死の理を論ぜざる。 地「いつを限る習ぞや。老少といつぱ分 別なし。変るを以て期とせり誰か必滅を。 期せざらん誰かはこれを期せざらん。 ワキ「不思議やな声を聞けばありつる人な り。同じくは姿を現し給ふべし。御跡 とひて参らせん。シテ「さらば姿を現し て。御僧の御法を受くべきなり。人にな 現し給ひそとよ。ワキ「なか/\に人に

現す事あるまじ。早々姿を見え給へ。 シテ「涙曇りの顔ばせは。それとも見えぬ 衰を。誰白河のみつはぐむ。老の姿ぞ 恥かしき。ワキ「あら痛はしの御有様やな。 今も執心の水を汲み。輪廻の姿見え給ふ ぞや。早々浮び給へ。シテ詞「我古は舞女 の誉世に勝れ。その罪深き故により。今も 苦をみつ瀬河に。熱鉄の桶を荷ひ。猛 火の釣瓶を提げて此水を汲む。其水湯と なつて我が身を焼く事隙もなけれども。 詞「此程は御僧の値遇に引かれて。釣瓶は あれども猛火はなし。ワキ「さらば因果の 水を汲み。其執心を振り捨てゝ。とく/\ 浮び給ふべし。シテ詞「いで/\さらば御 僧のため。このかけ水を汲み乾さば。罪 もや浅くなるべきと。ワキ「思も深き小夜 衣の。袂の露の玉だすき。シテ「影白河の 月の夜に。ワキ「底澄む水を。シテ「いざ汲 まん。地次第「釣瓶の水に影落ちて。袂を月

や上るらん。 地クリ「それ残星の鼎には北渓の水を汲み。 後夜の炉には南嶺の。柴を焚く。シテサシ「そ れ氷は水より出でて水よりも寒く。地「青 き事藍より出でて藍より深し。もとの憂 き身の報ならば。今の苦去りもせで。 シテ「いや増さりぬる思の色。地「紅の涙 に身を焦がす。クセ「釣瓶の懸縄繰り返し 憂き古も。紅花の春のあした黄葉の秋の。 夕暮も一日の夢と早なりぬ。紅顔の粧 舞女のほまれもいとせめて。さも美しき 紅顔の。翡翠のかづら花しをれ。桂の眉 も霜降りて。水にうつる面影老衰。影沈 んで。緑に見えし黒髪は土水の藻屑塵芥。 変りける。身の有様ぞ悲しき。実にや ありし世を。思ひ出づればなつかしや。 其白河の波かけし。シテ「藤原の興範の。 地「そのいにしへの白拍子いま一節とあり しかば。昔の花の袖今更色も麻衣。短き袖

を返し得ぬ心ぞつらき陸奥の。けふの細 布胸合はず。何とか白拍子その面影のあ るべき。よし/\それとても。昔手馴れ し舞なれば。舞はでも今は叶ふまじと。 シテ「興範しきりに宣へば。地「浅ましなが ら麻の袖。露うち払ひ舞ひ出す。シテ「桧垣 の女の。地「身の果を。 序ノ舞「。 シテ「水掬ぶ。釣瓶の縄の釣瓶の縄の。繰 り返し。地「昔に帰れ白河の波。白河の波 白河の。シテ「水のあはれを知る故に。こ れまで現れ出でたるなり。地「運ぶ芦田鶴 の。ねをこそ絶ゆれ浮草の。水は運びて 参らする罪を浮べてたび給へ罪を浮べて たび給へ。 旅僧(又ハ男) 里の女 老女の霊

ワキ次第「月の名近き秋なれや。/\姨捨山を 尋ねん。詞「かやうに候ふ者は。都方に 住居仕る者にて候。我未だ更科の月を見 ず候ふほどに。此秋思ひ立ち姨捨山へと 急ぎ候。道行「此程の。しばし旅居の仮枕。 /\。また立ちいづる中宿の。明かし暮 らして行く程に。こゝぞ名におふ更科や。 姨捨山に着きにけり/\。詞「さても我姨 捨山に来て見れば。嶺平らかにして万里の 空も隔なく。千里に隈なく月の夜。さこ そと思ひやられて候。いかさま此処に休 らひ。今宵の月を眺めばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる旅人は何事を仰 せ候ふぞ。ワキ詞「さん候これは都の者にて 候ふが。はじめてこの処に来りて候。さ

て/\御身はいづくに住む人ぞ。シテ「こ れはこの更科の里に住む者にて候。今日 は名におふ秋の半。暮るゝを急ぐ月の名 の。殊に照り添ふ天の原。くまなき四方 の景色かな。いかに今宵の月の面白から んずらん。ワキ「さては更科の人にてまし ますかや。さて/\古姨捨の。在所は いづくの程にて候ふぞ。シテ「姨捨山のな き跡と。問はせ給ふは心得ぬ。我が心慰 めかねつ更科や。詞「姨捨山に照る月を見 てと。詠ぜし人の跡ならば。これに木高き 桂の木の。蔭こそ昔の姨捨の。其なき跡 にて候へとよ。ワキ「さては此木の蔭にし て。捨て置かれにし人の跡の。シテ詞「其ま ま土中に埋草。かりなる世とて今は早。

ワキ「昔語になりし人の。なほ執心や残 りけん。シテ「なき跡までも何とやらん。 ワキ「もの凄じき此原の。シテ「風も身にし む。ワキ「秋の心。地歌「今とても。慰めか ねつ更科や。/\。姨捨山の夕暮に。松 も桂もまじる木の。緑も残りて秋の葉の はや色づくか一重山。薄霧も立ちわたり。 風冷まじく雲尽きてさびしき山の。けし きかな。さびしき山のけしきかな。 シテ詞「旅人はいづくより来り給ふぞ。 ワキ「されば以前も申すごとく。都の者に て候ふが。更科の月を承り及び。始めて この処に来りて候ふよ。シテ「さては都の 人にてましますかや。さあらば妾も月と 共に。現れ出でて旅人の。夜遊を慰め申 すべし。ワキ「そもや夜遊を慰めんとは。 御身はいかなる人やらん。シテ「誠は我は 更科の者。ワキ「さていまは又いづ方に。 シテ「住家といはんは此山の。ワキ「名にし

おひたる。シテ「姨捨の。地歌「それといは んも恥かしや。/\。その古も捨てら れて。只一人此山に。澄む月の名の秋毎 に執心の闇を晴らさんと。今宵現れ出で たりと。夕陰の木の本にかき消すやう に。失せにけりかき消すやうに失せにけ り。中入間「。 ワキ待謡「夕陰過ぐる月影の。/\。はや出で 初めて面白や万里の空も隈なくて。いづ くの秋も隔なき。心もすみて夜もすが ら。三五夜中の新月の色。二千里の外の 古人の心。 後シテ一声「あら面白のをりからやな。あら面白 のをりからや。明けば又秋の半も過ぎぬ べし。今宵の月の惜しきのみかは。さな きだに秋待ちかねてたぐひなき。名を望 月の見しだにも。おぼえぬ程に隈もなき 姨捨山の秋の月。余りに堪へぬ心とや。 昔とだにも思はぬぞや。

ワキ「不思議やなはや更けすぐる月の夜に。 白衣の女人現れ給ふは。夢か現か覚束な。 シテ詞「夢とはなどや夕暮に。現れ出でし 老の姿。恥しながら来りたり。ワキ「何を か包み給ふらん。もとより処も姨捨の。 シテ「山は老女が住処の。ワキ「昔に帰る秋 の夜の。シテ「月の友人円居して。ワキ「草 を敷き。シテ「花に起き臥す袖の露の。 二人「さも色々の夜遊の人に。いつ馴れそ めてうつゝなや。地歌「盛ふけたる女郎花 の。/\。草衣しをたれて。昔だに捨て られしほどの身を知らで。又姨捨の山に 出でて。面を更科の。月に見ゆるも恥か しや。よしや何事も夢の世の。なか/\ いはじ思はじや。思草花にめで月に染み て遊ばん。 地クリ「実にや興にひかれて来り。興尽きて 帰りしも。今のをりかと知られたる。今 宵の空の気色かな。シテサシ「然るに月の名

所。いづくはあれど更科や。地「姨捨山の 曇なき。一輪満てる清光の影。団々とし て海〓{新字源2030:けう}を離る。シテ「しかれば諸仏の御誓。 地「いづれ勝劣なけれども超世の悲願あ まねき影。弥陀光明に。如くはなし。 クセ「さるほどに。三光西に行くことは。 衆生をして西方に。すゝめ入れんが為と かや。月はかの如来の右の脇士として。有 縁を殊に導き。重き罪を軽んずる天上の 力を得る故に。大勢至とは号すとか。天 冠の間に。花の光かゝやき。玉の台の数 数に。他方の浄土をあらはす。玉珠楼の 風の音糸竹の調とり%\に。心ひかるゝ 方もあり。蓮色々に咲きまじる。宝の池 の辺に。立つや並木の花散りて。芬芳し きりに乱れたり。シテ「迦陵頻伽のたぐひ なき。地「声をたぐへてもろともに。孔雀 鸚鵡の。同じく囀る鳥のおのづから。光 も影もおしなべて。至らぬ隈もなければ

無辺光とは名づけたり。然れども雲月の。 ある時は影満ち。又ある時は影闕くる。有 為転変の。世の中の定のなきを示すなり。 シテ「昔恋しき夜遊の袖。序ノ舞「。シテワカ「我が心 なぐさめかねつ。更科や。地「姨捨山に照 る月を見て照る月を見て。シテ「月に馴れ。 花に戯るゝ秋草の。露の間に。地「露の間 に。なか/\何しにあらはれて。胡蝶の 遊。シテ「戯るゝ舞の袖。地「返せや返せ。

シテ「昔の秋を。地「思ひ出でたる妄執の 心。やる方もなき。今宵の秋風。身にしみ じみと。恋しきは昔。しのばしきは閻浮 の。秋よ友よと。思ひ居れば。夜も既に しら/\とはやあさまにもなりぬれば。 我も見えず旅人も帰るあとに。シテ「ひと り捨てられて老女が。地「昔こそあらめ今 も又姨捨山とぞなりにける。姨捨山とぞ なりにける。 千満の母 稚児千満 三井寺住僧 従僧 狂女(千満の母)

シテサシ「南無や大慈大慈の観世音さしも草。 さしもかしこき誓の末。一称一念なほ頼 あり。ましてやこの程日を送り。夜を重 ねたる頼の末。などかそのかひなからん と。思ふ心ぞあはれなる。下歌「憐れみ給 へ思ひ子の。行末なにとなりぬらん/\。 上歌「枯れたる木にだにも。/\。花咲く べくはおのづから。いまだ若木のみどり 子に。再びなどか。逢はざらん再びなど か逢はざらん。詞「あら有難や候。少し・睡眠{すいめん} の内に。あらたなる霊夢を蒙りて候ふ は如何に。妾を何時も訪ひ慰むる人の候。 あはれ来り候へかし語らばやと思い候。 狂言シカ%\「。シテ詞「唯今少し睡眠の内に。

新たなる御霊夢を蒙りて候。我が子に逢 はんと思はゞ。三井寺へ参れと新たに御 霊夢を蒙りて候。狂言シカ%\「。シテ詞「あら嬉し と御合はせ候ふものかな。告に任せて三 井寺とやらんへ参り候ふべし。中入「。 ワキ、ワキツレ三人次第「秋も半の暮待ちて。/\。月に 心や急ぐらん。ワキ詞「これは江州園城寺の 住僧にて候。又是に渡り候ふ幼き人は。 愚僧を頼む由仰せ候ふ間。力なく師弟の 契約をなし申して候。又今夜は八月十五 夜名月にて候ふ程に。幼き人を伴い申し。 皆々講堂の庭に出でて月を眺めばやと存 じ候。四人上歌「類なき。名を望月の今宵とて。 /\。夕を急ぐ人心。知るも知らぬも諸

共に。雲を厭ふやかねてより。月の名頼 む。日影かな月の名頼む日影かな。 後シテ一声「雪ならば幾度袖を払はまし。花の 吹雪と詠じけん志賀の山越うち過ぎて。 眺の末の湖の。鳰照る比叡の山高み。上 見ぬ鷲の御山とやらんを。今目の前に拝 む事よ。あら有難の御事や。詞「かやうに 心あり顔なれども。我は物に狂ふよなう。 いや我ながら理なり。あの鳥類や畜類 だにも。親子の哀は知るぞかし。まして や人の親として。いとほし悲しと育てつ る。一セイ「子の行方をも白糸の。地「乱心や 狂ふらん。カケリシテ「都の秋を捨てゝ行 かば。地「月見ぬ里に。住みや習へるとさ こそ人の笑はめ。よし花も紅葉も。月も 雪も故郷に。我が子のあるならば。田舎も 住みよかるべしいざ故郷に帰らんいざ故 郷に帰らん。帰ればさゝ波や志賀辛崎の 一つ松。緑子の類ならば。松風に言問は

ん。松風も。今は厭はじ桜咲く。春なら ば花園の。里をも早く杉間吹く。風冷ま しき秋の水の。三井寺に着きにけり三井 寺に早く着きにけり。ワキ「桂は実る三五 の暮。名高き月にあこがれて。庭の木陰 に休らへば。シテ「実に/\今宵は三五夜 中の新月の色。二千里の外の故人の心。 水の面に照る月なみを数ふれば。秋も最 中夜も半。所からさへ面白や。地歌「月は 山。風ぞ時雨に鳰の海。/\。波も粟津 の森見えて。海越しの幽に向ふ影なれど 月はますみの鏡山。山田矢走の渡舟の夜 は通ふ人なくとも。月の誘はゞおのづか ら。船もこがれて出づらん舟人もこがれ 出づらん。狂言シカ%\。 シテ詞「面白の鐘の音やな。我が故郷にて は清見寺の鐘の音こそ常に聞き馴れしに。 是は又さゝ波や。三井の古寺鐘はあれど。 詞「昔に帰る声は聞えず。誠や此鐘は秀郷と

やらんの龍宮より。取りて帰りし鐘なれ ば。龍女が成仏の縁に任せて。妾も鐘を 撞くべきなり。地次第「影はさながら霜夜に て。/\。月にや鐘はさえぬらん。 ワキ詞「やあ/\暫く。狂人の身にて何と て鐘をば撞くぞ急いで退き候へ。シテ詞「夜 〓{新字源:2196ユ}公が楼に登りしも。月に詠ぜし鐘の音 なり許さしめ。ワキ「それは心有る古人の 言葉。狂人の身として鐘撞くべきこと。 思も寄らぬ事にてあるぞとよ。シテ「今宵 の月に鐘撞くこと。狂人とてな厭ひ給ひそ 或る詩に曰く。団々として海嬌を離れ。 冉々として雲衢を出づ。此後句なかりし かば。明月に向かって心を澄まいて。今宵 一輪満てり。清光何れのところにか無からん と。詞「此句を設けて余りの嬉しさに心乱 れ。高楼に登って鐘を撞く。人々如何に と咎めしに。これは詩狂と答ふ。かほど の聖人なりしだに。月には乱るゝ心有り。

鏡ノ段「ましてや拙なき狂女なれば。 地「許し給へや人々よ。煩悩の。夢を覚 ますや。法の声も静かに先初夜の鐘を撞 く時は。シテ「諸行無常と響くなり。地「後 夜の鐘を撞く時は。シテ「是生滅法と響く なり。地「晨朝の響は。シテ「生滅滅已。地「入 相は。シテ「寂滅。地「為楽と響きて菩提の 道の鐘の声。月も数添ひて。百八煩悩の 眠りの。驚く夢の夜の迷も。はや盡きたり や後夜の鐘に。我も五障の雲晴れて。真 如の月の影を眺め居りて明かさん。 地クリ「夫れ長楽の鐘の声は。色の外に盡 きぬ。シテ「また龍池の柳の色は。地「雨の 内に深し。シテサシ「其外こゝにも世々の人。 言葉の林の兼ねて聞く。地「名も高砂の尾 上の鐘。暁かけて秋の霜。曇るか月もこ もりくの初瀬も遠し難波寺。シテ「名所多 き。鐘の音。地「盡きぬや法の声ならん。 クセ「山寺の。春の夕暮れ着てみれば入相の

鐘に。花ぞ散りける。実に惜めどもなど 夢の春と暮れぬらん。そのほか暁の。 妹背を惜むきぬ%\の。恨を添ふる行方 にも枕の鐘や響くらん。また待つ宵に。 更け行く鐘の声聞けば。明かぬ別の鳥 は。物かはと詠ぜしも。恋路の便の音信 の声と聞くものを。又は老いらくの。寝 覚程ふる古を。今思ひ寝の夢だにも。 涙心のさびしさに。此鐘のつく%\ と。思ひを盡す暁をいつの時にかくらべま し。シテ「月落ち鳥鳴いて。地「霜天に満ち て冷ましく江村の漁火もほのかに半夜の 鐘の響は。客の船にや。通ふらん蓬窓雨 したゞりて馴れし汐路の楫枕。浮寝ぞ変 るこの海は。波風も静かにて。秋の夜す がら。月すむ三井寺の。鐘ぞさやけき。 子詞「如何に申すべき事の候。ワキ詞「何事 にて候ふぞ。子「これなる物狂の国里を問 うて賜はり候へ。ワキ「これは思もよらぬ

ことを承り候ふものかな。さりながら易 き間の事尋ねて参らせうずるにて候。如 何にこれなる狂女。おことの国里は何く の者にてあるぞ。シテ「これは駿河の国清 見が関の者にて候。子「何なう清見が関の 者と申し候ふか。シテ詞「あら不思議や。今 の物仰せられつるは。正しく我が子の千 満殿ごさめれあら珍しや候。ワキ「暫く。是 なる狂女は粗忽なる事を申すものかな。 さればこそ物狂にて候。シテ「なうこれは 物には狂はぬものを。物に狂ふも別故。 逢ふ時は何しに狂ひ候ふべき。是は正し き我が子にて候。ツレ「さればこそ我が 子と申すが筋なき事と申し候。急いで退 き給へ。子「あら悲しやさのみな御打ち候 ひそ。ワキ「言語道断。早色に出で給ひ て候。此上はまっすぐに御名乗り候へ。 子「今は何をか包むべき。我は駿河の国。 清見が関の者なりしが。人商人の手に渡

り。今此寺に在りながら。母上我を尋ね 給ひて。かやうに狂ひ出で給ふとは。夢 にも我は知らぬなり。シテ「又妾も物に狂 ふ事。あの兒に別れし故なれば。たまた ま逢ひ見る嬉しさのまゝ。やがて母よと 名のる事。我が子の面伏なれど。子故に迷 ふ親の身は。恥も人目も思はれず。 ロンギ地「あら痛はしの御事や。よそ目も 時によるものを逢ふを喜び給ふべし。シテ 「嬉しながらも衰ふる。姿はさすがはづ かしの。漏りて余れる涙かな。地「実に逢

ひ難き親と子の。縁は盡きせぬ契とて。 シテ「日こそ多きに今宵しも。地「此三井寺 に廻り来て。シテ「親子に逢ふは。地「何故 ぞ。此鐘の声立てゝ物狂のあるぞとて御 咎ありしゆゑなれば。常の契には。別の 鐘と厭ひしに。親子のための契には。 鐘故に逢ふ夜なり嬉しき。鐘の声かな。 キリ地「かくて伴ひ立ち帰り。/\。親子 の契盡きせずも。富貴の家となりにけ り。実に有難き考行の。威徳ぞめでたか りける威徳ぞ。めでたかりける。 人商人 磯部寺の住僧 従僧 里人 桜子の母 桜子

男詞「かやうに候ものは。東国方の人商 人にて候。我久しく京に候ひしが。此度 は筑紫日向に罷り下りて候。又昨日の暮 程に幼き人を買ひ取りて候。彼の人申さ

れ候ふは。此文と身の代とを。桜の馬場の 西にて桜子の母と尋ねて。確に届けよと 仰せ候程に。唯今桜子の母の方へと急 ぎ候。此あたりにてにてありけに候。先々案

内を申さばやと存じ候。いかに案内申し 候。桜子の母の渡り候ふか。シテ詞「誰にて 渡り候ふぞ。男「さん候桜子の御方より 御文の候。又此代物をたしかに届け申せ と仰せ候ふ程に。是まで持ちて参りて候。 かまひてたしかに届け申すにて候。 シテ「あら思ひよらずや。先々文を見うずるに て候。文「さても/\この年月の御有様。 見るも余りの悲しさに。詞「人商人に身を 売りて東の方へ下り候。なう其子は売る まじき子にて候ふものを。や。あら悲し や。早今の人も行方知らずなりて候ふは いかに。これを出離の縁として。御様を も変へ給ふべし。唯返す/\も御名残こ そ惜しう候へ。地下歌「名残をしくは何しに か添はで母には別るらん。上歌「独り伏屋 の草の戸の。/\。明かし暮らして。憂 き時も子を見ればこそ慰むに。さりとて は我が頼む。神も木花咲耶姫の。御氏子

なるものを桜子留めてたび給へ。さなぎ だに住みうかれたる故郷の。今は何にか 明暮を。堪へて住むべき身ならねば。我 が子の行くへ尋ねんと。泣く/\迷ひ出 でて行く/\。 ワキワキツレ二人次第「頃待ち得たる桜狩/\山路の 春に急がん。ワキ詞「これは常陸の国磯部寺 の住僧にて候。又これに渡り候ふ幼き人 は。何くとも知らず愚僧を頼む由仰せ候 ふ程に。師弟の契約をなし申して候ふ。又 此辺に桜川とて花の名所の候。今を盛の よし申し候ふ程に。幼き人を伴ひ。たゞ 今桜川へと急ぎ候ふ。歌三人「筑波山。此面彼 面の花盛。/\。雲の林の影茂き。緑の空 もうつろうふや松の葉色も春めきて。嵐も 浮ぶ花の波。桜川にも着きにけり/\。 ワキツレ詞「いかに申し候ふ。何とて遅く御出で 候ふぞ待ち申して候。ワキ詞「さん候皆々 御伴申し候ふ程に。さて遅なはりて候。

あら見事や候。花は今を盛と見えて候。 ワキツレ「なか/\のこと花は今が盛にて 候。又こゝに面白き事の候。女物狂の候 ふが。美しきすくひ網を持ちて。桜川に 流るゝ花をすくひ候ふが。けしからず面 白う狂ひ候。これに暫く御座候ひて。此 物狂を幼き人にも見せ参らせられ候へ。 ワキ「さらば其物狂を此方へ召され候へ。 ワキツレ「心得申し候。やあ/\かの物狂 に。いつもの如くすくひ網を持ちて。此 方へ来れと申し候へ。 後シテ一声「いかにあれなる道行人。桜川には 花の散り候ふか。詞「何散方になりたると や。悲しやなさなきだに。行く事やすき 春の水の。流るゝ花をや誘ふらん。花散 れる水のまに/\とめくれば。山にも春 はなくなりにけりと聞く時は。少しなり とも休らはゞ。花にや疎く雪の色。桜花。 桜花。カケリ「散りにし風の名残には。地「水

なき空に。波ぞ立つ。シテ「おもひも深き 花の雪。地「散るは涙の。川やらん。シテサシ「こ れに出でたる物狂の。故郷は筑紫日向の 者。さも思子を失ひて。思ひ乱るゝ心筑紫 の。海山越えて箱崎の。波立ち出でて 須磨の浦。又は駿河の海過ぎて常陸とか やまで下り来ぬ。実にや親子の道ならず は。はるけき旅を。如何にせん。詞「こゝに 又名に流れたる桜川とて。さも面白き名所 あり。別れし子の名も桜子なれば。形見 といひ折柄といひ。名もなつかしき桜川 に。地下歌「散り浮く花の雪を汲みて。自ら。 花衣の春の。形見残さん。上歌「花鳥の。 立ちわかれつゝ親と子の。/\。行くへ も知らで天ざかる。鄙の長路に衰へば。 たとひ逢ふとも親と子の面忘れせば如何 ならん。うたてや暫しこそ。冬ごもりし て見えずとも。今は春べなるものを我が 子の花はなど咲かぬ我が子の花など咲

かぬ。 ワキ詞「此物狂の事にて有りげに候。立 ち寄りて尋ねばやと思ひ候。いかにこれ なる狂女。おことの国里は何くの人ぞ。 シテ詞「これは遥の筑紫の者にて候。 ワキ「それは何とてかやうに狂乱とはなりた るぞ。シテ「さん候唯一人ある忘形見の 緑子に生きて離れて候ふ程に。思が乱れ て候。ワキ「あら痛はしや候。又見申せば 美しきすくひ網を持ち。流るゝ花をすく ひ。あまつさへ渇仰の気色見え給ひて候 ふは。何と申したる事にて候ふぞ。シテ「さ ん候我が故郷の御神をば。木花咲耶姫と 申して。御神体は桜木にて御入り候。さ れば別れし我が子も其御氏子なれば。桜子 と名づけ育てしかば。神の御名も咲耶 姫。尋ぬる子の名も桜子にて。又此川も 桜川の。名も懐しき。花の塵を。あだに もせじと思ふなり。ワキ「謂を聞けば面白

や。実に何事も縁は有りけり。さばかり 遠き筑紫より。此東路の桜川まで。下り 給ふも縁よなう。シテ詞「先此川の名におふ 事。遠きにつきての名誉あり。彼の貫之が 歌はいかに。ワキ「実に/\昔の貫之も。 遥けき花の都より。シテ「いまだ見もせぬ 常陸の国に。ワキ「名も桜川。シテ「有りと 聞きて。地歌「常よりも。春べになれば桜 川。/\。波の花こそ。間もなく寄すらめ とよみたれば花の雪も貫之もふるき名の み残る世の。桜川。瀬々の白波しけけれ ば。霞うながす信太の浮島の浮かべ/\水 の花げにおもしろき。河瀬かなげに面白 き河瀬かな。 ワキ詞「いかに申し候。此物狂は面白う 狂ふと仰せ候ふが。今日は何とて狂い候 はぬぞ。男「さん候狂はする様が候。桜 川に花の散ると申し候へば狂い候ふ程 に。狂はせて御目にかけうするにて候。

ワキ「急いで。御狂はせ候へ。ワキツレ「心得 申し候。あら笑止や。俄かに山颪のして桜 川に花の散り候ふよ。シテ「よしなき事を 夕山風の。奥なる花を誘ふごさめれ。流 れぬさきに花すくはん。ワキ「実に/\見 れば山おろしの。木々の梢に吹き落ちて。 シテ「花のみかさは白妙の。ワキ「波かと見 れば上より散る。シテ「桜か。ワキ「雪か。 シテ「波か。ワキ「花かと。シテ「浮き立つ雲の。 ワキ「河風に。地次第「散ればぞ波も桜川。 /\。流るゝ花をすくはん。シテ「花の下 に。帰らんことを忘れ水の。地「雪を受けた る。花の袖。イロエ「。 シテクリ「それ水流花落ちて春。とこしなへ にあり。地「月すさましく風高うして鶴か へらず。シテサシ「岸花紅に水を照らし。洞 樹緑に風を含む。地「山花開けて錦に似た り。澗水たゝへて藍の如し。シテ「面白や 思はずこゝに浮れ来て。地「名もなつかし

み桜川の。一樹の陰一河の流。汲みて知 る名も所から。合ひにあひなば桜子の。 これ又他生の縁なるべし。クセ「実にや年 を経て。花の鏡となる水は。散りかゝる をや。曇るといふらん。まこと散りぬれ ば。後は芥になる花と。思ひ知る身もさ ていかに。われも夢なるを花のみと見るぞ はかなき。されば梢より。あだに散りぬ る花なれば。落ちても水のあはれとはい さ白波の花にのみ。馴れしも今は先だた ぬ悔の八千度百千鳥。花に馴れ行くあだ し身は。はかなき程に羨まれて。霞を憐 れみ露を悲しめる心なり。シテ「さるにて も。名にのみ聞きて遥々と。地「思ひ渡り し桜川の。波かけて常陸帯の。かごとば かりに散る花を。あだになさじと水をせ き雪をたゝへて浮波の。花の柵かけまく も。かたじけなしやこれとでも。木花耶 姫の御神木の花なれば。風もよぎて吹

き水も影を濁すなと。袂を浸し裳裾をし をらかして。花によるべの。水せきとめ て。桜川になさうよ。シテ「あたら桜の。 地「あたら桜の。とがは散るぞ恨みなる。 花も憂し風もつらし。散れば誘ふ。シテ 「誘へば散る花かづら。地「かけてのみ 眺めしは。シテ「なほ青柳の糸桜。地「霞の 間には。シテ「樺桜。地「雲と見しは。シテ「み よし野の。地「みよし野の。/\。川淀滝 つ波の。花をすくはゞ若し。国栖魚やか からまし。又は桜魚と。聞くもなつかし や。いづれも白妙の。花も桜も。雪も波 もみながらに。すくひ集め持ちたれども。 これは木々の花誠は我が尋ぬる。桜子ぞ 恋しき我が桜子ぞこひしき。 ロンギ地「いかにやいかに狂人の。言の葉

聞けば不思議やな。若しも筑紫の人やら ん。シテ「今までは。誰ともいさや知らぬ 火の。筑紫人かと宣ふは何の御為に問ひ 給ふ。地「何をか今は包むべき。親子の契 朽ちもせぬ。花桜子ぞ御覧ぜよ。シテ「桜 子と。/\。聞けば夢かと見もわかず。い づれ我が子なるらん。地「三年の日数程ふ りて。別も遠き親と子の。シテ「もとの姿 はかはれども。地「さすが見馴れし面だて を。シテ「よく/\見れば地「桜子の。花の 顔ばせの。子は子なりけり鶯の。逢ふ 時も泣く音こそうれしき涙なりにけれ。 キリ地「かくて伴ひ立ちかへり。/\。母 をも助け様変へて。仏果の縁となりにけ り。二世安楽の縁深き。親子の道ぞあり がたき/\。 小太郎 善光寺の住僧 花若 母(後ハ狂女)

ワキ次第「夢路も添ひて故郷に。/\。帰 るや現なるらん。詞「これは越後の国柏崎 殿の御内に。小太郎と申す者にて候。さ ても頼み奉りし人は。訴訟の事候ひて。 在鎌倉にて御座候ひしが。唯かりそめに 風の心地と仰せ候ひて。程なく空しくな り給ひて候。又御子息花若殿も。同じく 在鎌倉にて御座候ひしが。父御の御別を 歎き給ひ。何処ともなく御遁世にて候。 さる間花若殿の御文に。御形見の品々を 取りそへ。たゞ今故郷柏崎へと急ぎ候。 道行「乾しぬべき。日影も袖やぬらすら ん。/\今行く道は雪の下。一通り降る 村時雨。山の内をも過ぎ行けば。袖さえ まさる旅衣。碓氷の峠うち過ぎて。越後 に早く。着きにけり越後に早く着きに けり。 ワキ詞「急ぎ候ふほどに。故郷柏崎に着 きて候。まづ/\案内を申さうするにて

候。いかに申し候。鎌倉より小太郎がま ゐりて候それ/\御申し候へ。シテ詞「なに 小太郎とは。もし殿の御帰ありたるか。 あらめづらしや何とて物をば申さぬぞ。 ワキ「さん候これまでは参りて候へども。 何と申し上ぐべきやらん。更に思ひも弁 へず候。シテ「あら心もとなや。物をば申 さでさめ%\と泣くは。さて花若が方に 何事かある。ワキ「さん候花若殿は御遁 世にて御座候。シテ「何と花若殿が遁世した るとは。さては父の叱りけるは。など追 手をばかけざりしぞ。ワキ「いやさやうに も御座なく候。様々の御形見の物を持ち て参り候。シテ「何さま%\の形見とは。 さては花若が父の空しくなりたるな。此 程はそなたの風もなつかしく。便もうれ しかりつるに。形見を届くる音信は。中 中聞きても恨めしきぞや。たゞ仮初に立 ち出でて。やがてと言ひし其主は。地「昔

語に早なりて形見を見るぞ涙なる。 シテロンギ「さてや最期の折節は。いかな る事か宣ひし。委しく語り。おはしませ せめては聞いて慰まん。ワキ「唯故郷の御 事を。おぼつかなく思し召し。御最期ま でも人知れずひそかに御諚ありしなり。 シテ「実にやさこそはおはすらめ。三年離 れて其後は。我も御名残いつの世にかは 忘るべき。ワキ「御ことわりと思へども。 歎をとゞめおはしまし形見を御覧候 へ。シテ「実にや歎きても。かひなき世ぞ と思へば。地「形見を見るからにすゝむ涙 はせきあへず。 ワキ詞「花若殿の御文の候。これを御覧候 へ。シテ文「さても/\父御前。痛はりつか せ給ひ。程なく空しくなり給へば。心の 中の悲しさは。唯おぼしめしやらせ給へ。 我も帰りて御ありさま。見参らせたくは 候へども。思い立ちぬる修行の道。もし

や止められ申さんと。思う心を便にて。 心づよくも出づるなり。命つれなく候は ば。三年が内には参るべし。様々の形見 を御覧じて。御心を慰みおはしませと。 書いたる文の恨めしや。地下歌「なからん父 が名残には。子ほどの形見あるべきか。 上歌「父が別は如何なれば。/\。悲しみ 修行に出づる身の。などや生きてある。 母に姿を見みえんと。思う心のなかるら ん。恨めしの我が子や。うき時は。恨みな がらもさりとては。我が子の行方安穏に。 守らせ給へ神仏と。祈る心ぞ。なはれな る祈る心ぞあはれなる。 僧詞「かように候ふ者は。信濃の国善光寺 の住僧にて候。又こに渡候ふ人は。 いづくとも知らず愚僧を頼むよし仰せ候 ふ程に。師弟の契約をなし此ほど出家さ せ申して候。さる間毎日如来堂へ従ひ申 し候。今日も又参らばやと思ひ候。

後シテ詞一声「これなる童どもは何を笑うぞ。 何者に狂ふがをかしいとや。うたてやな 心あらん人は。訪ひてこそたぶべけれ。 それをいかにといふに。夫には死して別 れ。唯ひとり忘れ形見とも思ふべき。子 の行方をも白糸の。地「乱れ心や狂ふら ん。カケリ「。 シテサシ「実にや人の身のあだなりけりと。 誰かいひけん空言や。又思には死なれざ りけりと。詠みしもことわりや。今身の 上に知られたり。これもひとへに夫や子 の。故と思へば恨めしや。地下歌「うき身は 何と楢の葉の柏崎をば狂ひ出で。上歌「越 後の国府に着きしかば。/\。人目も分 かぬ我が姿。いつまで草のいつまでと。知 らぬ心は麻衣。うらはる%\と行くほど に。松風遠くさびしきは。常磐の里の夕 かや。我にたぐへてあはれなるは此里。 子故に身をこがしゝは野辺の木島の里と

かや。降れどもつもらぬ淡雪の。浅野と いふはこれかとよ。桐の花咲く井の上の。 山を東に見なして。西に向へば善光寺。 生身の弥陀如来。わが狂乱はさておきぬ。 死して別れし妻を導きおはしませ。 ワキツ詞「いかに狂女。御堂の内陣へは叶 ふまじきぞ急いで出で候へ。シテ詞「極重 悪人無他方便。唯称弥陀得生極楽とこそ 見えたれ。ワキツレ「これは不思議の物狂か な。そもさやうの事をば誰が教へけるぞ。 シテ「教へはもとより弥陀如来の。御誓にて はましまさずや。唯心の浄土と聞く時は。 此善光寺の如来堂の。内陣こそは極楽の。 九品上生の台なるに。女人の参るまじき との御制戒とはそもされば。如来の仰せあ りけるか。よし人々は何ともいへ。声こ そしるべ南無阿弥陀仏。地「頼もしや。頼 もしや。シテ「釈迦は遣り。地「弥陀は導く 一筋に。こゝを去ること遠からず。是ぞ

西方極楽の上品上正の内陣にいざや 参らん。光明遍照十方の。誓ぞしるき この寺の。常の灯影頼む。夜念仏申せ 人々よ。夜念仏いざや申さん。 シテ詞「いかに申し候。如来へ参らせ物の 候。此烏帽子直垂は。別れし夫の形見な れども。形見こそ今はあだなれこれなく は。忘るゝひまもあらましものをと。詠 みしも思ひ知られたり。これを如来に参 らせて。夫の後生善所をも。祈らばやと 思ひ候。物着あらいとほしやこの烏帽子直 垂の主は。よろづ何事につきても闇から ず。弓は三物とやらんを射そろへ。歌連 歌の道も達者なりし上。又酒盛などのを りふしは。いで人々に乱舞まうて見せん とて。鎧直垂とりいだし。衣紋うつくし く着ないて。へりぬり取つて打ちかづき。 手拍子人に囃させて。扇おつ取り。鳴る は滝の水。

クリ地「それ一念称名の声の内には。摂 取の光明を待ち。聖衆来迎の雲の上に は。シテ「九品蓮台の。花散りて。地「異香 満ち/\て人に薫じ白虹地に満ちて。 列なれり。シテサシ「つら/\世間の幻相を観 ずるに飛花落葉の風の前には。有為の 転変をさとり。地「電光石火の影の中には 生死の去来を見ること。始めて驚くべき にはあらねども。幾夜の夢とまとはりし。 仮の親子の今をだに。添ひ果てもせぬ道 芝の露の憂き身の置き所。シテ「誰に問は まし。旅の道。地「これも憂き世のならひか や。クセ「悲の涙。眼にさへぎり思の煙胸 に満つ。つら/\これを案ずるに。三界 に流転してなほ人間の妄執の。晴れがた き雲の端の月の御影や明らけき。真如平 等の台に至らんとだにも歎かずして。煩 悩の絆に。結ぼほれぬるぞ悲しき。罪障 の山高く。生死の海深し。如何にとして

か此生に。此身を浮べんと。実に歎けど も人間の。身三口四意三の。十の道多か りき。シテ「されば始の御法にも。地「三界 一心なり。心外無別法心仏及衆生と聞く 時は。是三無差別なに疑のあるべきや。 己身の弥陀如来唯心の浄土なるべくは。 尋ぬべからず此寺の。御池の蓮の得ん事 をなどか知らざらん。唯願はくは影たの む。聳を力の助船。黄金の岸に至るべし。 そも/\楽を極むなる。教あまたにうま れ行く。道さま%\の品なれや。宝の池 の水。功徳池の。浜の真砂。かず/\の 玉の床。台も品々の楽をきはめ量なき 命の仏なるべしや。若我成仏十方の。世 界なるべし。シテ「本願あやまり給はずは。 地「今の我等が願はしき。夫の行方をしら 雲のたなびく山や西の空の。かの国に迎 へつゝ。一つ浄土の縁となし望を叶へ給 ふべしと。称名も鉦の音も。暁かけて

灯の。善き光ぞと仰ぐなりや。南無帰 命弥陀尊願をかなへ給へや。 ロンギ地「今は何をつゝむべき。これこそ 御子花若と。いふにもすゝむ涙かな。シテ 「我が子ぞと。聞けば余りに堪へかぬる。 夢かとばかり思ひ子のいづれぞさても不 思議やな。地「ともにそれとは思へども。 かはる姿は墨染の。シテ「見しにもあらぬ 面忘れ。地「母の姿もうつゝなきシテ「狂人 といひ。地「衰といひ。互いにあきれてあり ながら。よく/\見れば。園原の伏屋に