テキストの作者

  ----『阿漕浦三巴』における非多田南嶺論


高橋明彦  

    1 構想と粉本
    2 構想の破綻
    3 南嶺実作の可能性
    4 作者とテキスト

 阿漕浦三巴(大本五巻五冊、延享二年刊。所見は国文学研究資料館マイクロ・京大潁原文庫蔵)は、多田南嶺が代作執筆したとされる八文字屋守勢期に出板された八文字屋本時代物浮世草子である。この時期の八文字屋本の作者については、既に説かれる如く、また私も何度か論究を加えてきているが、かならずしも実作者は判明していない。中村幸彦氏は、「この年間の八文字屋本をあげて、彼が作ならざるはないと断言したい念慮にかられている」(中村幸彦「多田南嶺の小説」著述集第六巻)と述べてはおられるが、その論考から本作『阿漕浦三巴』は漏れている。また、長谷川強氏は中村氏の論を受け、さらに作品の中から多田南嶺的な特徴を捉え、多田南嶺作の可能性の高い作品を追加されたが、本作はその言及が無い二作品のうちの一つでもある。

 実際、本作を一読すれば感じることだが、凡そストーリー展開にテンポが無く、文章にくだくだしい点が多く、いささか精彩を欠く。本稿冒頭に当って、端から面白くない作品だなどと断罪しておいては元も子もないのだが、少なくとも、多田南嶺浮世草子のめくるめくストーリーと文章の切れ味を期待すると、まことにはぐらかされた気持ちにさせられる作品ではある。

 さて、しかし本稿は、本作品が駄作であるなどという感想を述べる事を目的としているわけでは勿論無い。本稿は、まず本作のストーリーが如何に構成されているかを検証する。加えて、本作が多田南嶺実作である可能性について考える。そして、その結論において新たに提起される問題、即ちテキストにとって作者とは何かといった問題について考えて行きたいと思う。

 


1 構想と粉本

 本作の粉本については、既に長谷川強氏の指摘が有り(長谷川強『浮世草子の研究』五〇八頁)、豊竹座の浄瑠璃『播州皿屋舗』(時代物三巻、為永太郎兵衛・浅田一鳥作、寛保元年七月初演)と『田村麿鈴鹿合戦』(時代物五段、浅田一鳥・豊田正蔵作、寛保元年九月初演)がそれである。前者はいわゆるお菊の亡霊で馴染みの「皿屋舗」が世界で、その集大成的な作品であり、後者は「田村麿」の世界で、その一部に「阿漕」が組込まれていて、文化五年には『勢州阿漕浦』と解題される作品である。本作は、これら皿屋舗と阿漕の世界を綯交ぜにして構想されている。以下、梗概を示しておきたい。

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 大和国の城主、山木判官高信が死して既に三周忌、跡目未だ定まらず、二人の家老有り、田結民部は、故正妻絹江御前の腹駒若(巴之介)十八歳を押す善玉。荒川伊達右衛門は、後室当麻御前の腹乙若を押す佞臣。乙若は今出奔して行方知れずであるが、荒川は当麻御前の威光を借り、あくまで乙若跡目たるを譲らない。二家老、論争の果てに、競馬で決着せんとし、荒川方負け、駒若が世継ぎと決り、元服して巴之介と名を改める。

 さて当麻御前も、息子の跡目だけを気に掛ける邪なる人柄。巴之介を失脚させようと、荒川方に計略あり。巴之介が傾城狂いをしているとの由を聞き付ける。さて、荒川方の手下である弥太七は既に駒若に近づいて居た。

 月日は流れ、巴之介は二十一歳。生得仁心強く諸芸に秀で、一国の大守として敬われる。田結民部も、後室当麻・荒川らの陰謀に油断無く忠義を尽す。一方、巴之介は田結の目を盗んで、釣瓶大尽と異名を取って奈良の木辻町住之江屋の傾城玉の井に馴染じみ放蕩三昧。いっそ身請をと思うが、相続間もなく、当麻・荒川等の目も気になり、身請金三百両はもとより遊ぶ金にさえ困っている有様。が、揚屋で会った摺鉢大尽(実は荒川の手下弥太七)に、家の重宝唐絵の皿を形に三百両を借り身請を済ます。有頂天の巴之介は玉の井を寵愛している。

 この不行跡から荒川方より難がつき、重宝唐絵の皿を売払ったという風聞があるが、事実か否か、と問い質される。巴之介、返答出来ず、知らざる田結も仰天。結果、二人は追放の身となる。

 荒川は、屋敷に残された玉の井に懸想するが、玉の井つれなく、怒って縄で縛りあげ責める。そこへ後室当麻の腰元お菊が割って入り、計略あり。玉の井に贋の恋文を書かせ伊達右衛門をそそのかし、二人で欠落させる。お菊の恋人で、田結民部の弟(不行跡より勘当、今は浪人)である弥五郎が待ち受けて、伊達右衛門を泥田にぶちこみ玉の井を救う。お菊は頃を見て、唐絵の皿を盗みだし、弥五郎の後を追うが、帰途の伊達右衛門に鉢合せして捕われる。

 弥五郎は、玉の井を伴い、楽焼屋を営むお菊の母妙閑の家でお菊を待つが、お菊は亡霊となって現れ、伊達右衛門に殺された始終を語り、消える。

 妙閑の家に、供人あまた連れ立派な侍が来る。見れば、幼少の頃出奔せし息子の弥太七。再会を驚く。弥太七言うに、伊達右衛門の策略にて、唐絵の皿の贋物を作り、後室に掴ませる算段。贋物には焼物の名手が必要、父五兵衛は既に死んだが、家の秘伝があろうと拙者が来た次第、云々。妙閑言うに、弥太七は実は山木家の家臣出石平馬の子で、我等には養子。幼少の頃の出奔故知るまいが、お菊はそなたの妹に当る事を言う。弥太七、悪人に加担した事を悔み、改心し、着したる衣類をを打棄てて出奔する。

 伊勢の海、安濃の浦は天照大神の御贄の場として禁漁の海であったが、破るものがいるとの噂、当地の代官が伊達右衛門の家臣竹原藤内を同道し、ひとつにはその詮議の為、また一つには追放された巴之介・民部の行方探索の為、来る。村中衆議、阿漕平次が怪しいと。さて、その平次こそ山木家の後室当麻御前の実子乙若であり、母の悪心を諌めかねて、十四歳の時に出奔、この地で漁りを生業としていたのであった。また、追放された巴之介・民部も、たまたまここで平次に出会い、その厄介になっていた。平次は、巴之介らの饗応に生鯛を出していた。巴之介も、当地の禁制を承知しており、訝り、また大和に帰ることを乙若に勧めていた。その折、代官の命を受けた平蜘蛛の次郎蔵が単身平次宅に乗込み、魚網を見つける。平次が次郎蔵に事の次第を説明する。即ち、欲にはあらず、一つには国をのがれし兄の饗応のため貧苦より魚を捕えて売っていた、四知の天命により顕れたもの、私が捕まれば兄をかくまうものが居ない、七日だけ待ってほしい、兄巴之介は山木家に大切な人であり、私が国法に裁かれむ、と。次郎蔵聞いて、平次は我が弟か、とつぶやく。訝る巴之介・民部に、次郎蔵云う、我実は弥太七、実父は大和浪人出石平馬、母は後に山木家へ入り今の後室当麻。平馬は我を楽焼屋五兵衛の門に捨て京に上るが程なく死去、我は今、巴之介・乙若の行方を尋ね、風聞を耳にし今この村に在る、と。さて、巴之介・弥太七・乙若は三兄弟なる事を知り、手を取合う。

 そこへ庄屋等が来る。庄屋は既に、浜辺で平次宛の請求書を拾っており、魚盗人なる証拠を掴んでいた。さて、平次はその場で切腹。曰く、魚盗みは天照大神への罪、逃るべからず。そもそも我出奔せしは兄を立てんため、刑は国法通り、簀巻にされ海に沈められむ、と。弥太七は、魚盗人の件は落着、と言うが、庄屋等は、深手の平次とともに巴之介・民部も連れ、代官所まで行く。代官は、刑罰通り深手の平次を簀巻にしようとすると、弥太七は、皆の素性をすべて明かし、後室の悪心を翻す手だてあり、何卒温情の沙汰を、と言えば、代官も感心し、平次の首を弥太七に打たせ、亡骸は海へ、首は弥太七に預ける。国法は立ち、巴之介ら一行は本国大和へ帰る。

 一方、伊達右衛門には、井戸へ落して殺したお菊の亡霊が付きまとい、病気となっていた。亡霊は本人にしか見えない。養生の為、武州に下り鉄山と名を替え、一ヶ月程平穏な日を暮していた。が、突然、竹原藤内に当麻を殺すよう命じたことなどを語りだし、武州下りも含めこの一ヶ月の間の記憶が無い。お付きの医者に見吉快験。その施薬で本復したかに見えたが、お菊はまた荒川に乗移り、医者が実は探索のため潜入していた弥五郎なる事を見抜き、懐かしみ、唐絵の皿を渡し消える。弥五郎、お菊の志に感服し、鉄山に縄を掛け出んとすれば、藤内らの追手。が、藤内、弥五郎の槍で死ぬ。弥五郎、鉄山を縛りあげ、かくまっていた玉の井と共に大和に急ぐ。

 大和では、六月十五日、土用の虫干。改めれば、唐絵の皿が無い。驚く当麻の前に、巴之介・民部・弥五郎らが現れる。弥太七が乙若の首を見せると、当麻は狂乱するが、弥太七は自身が当麻の子なる事を名乗る。巴之介は自刃して弥太七に跡目を譲ろうとするが田結が留める。その時、弥太七は母を諌めるため既に自刃し、当麻は実子の諌めに前非を悔い改心、巴之介を世継ぎと認め、髪を下ろして尼となる。また、忠孝の者として弥太七は山木の次男と定められ巴次郎と名を与えられる。乙若にも巴三郎の名を与えられ、阿漕の平次なる事は隠密にされた。深手の中で弥太七は喜ぶ。田結、唐絵の皿の行方を尋ねると、後室、始終を語る。田結等、伊達右衛門の在る東武へ馳せ下らんとする時、弥五郎、鉄山を引立て現れる。同道した玉の井も、弥五郎の忠義を述べる。唐絵の皿は戻り、弥五郎は勘気解け鉄山の領地を受ける。弥五郎、お菊と恋仲であったこと、その惨殺を述べ、鉄山捕縛がお菊の亡魂の導きであった事を語り、みな不思議の想いをなす。鉄山、正気に帰り、首を刎ねられる。

 後にはお菊の霊も収まり、初瀬寺に供養される。安濃の浦は阿漕が浦と呼ばれ、閻魔堂を立て、当麻がここに移って平次の菩提を弔った。

 巴之介は玉の井と、山木の家をますます繁栄させた。(以上、梗概)


    ○

 さて、本作の登場人物名は、ほぼ『播州皿屋舗』に拠っている。ただし、ストーリーに於いては、少なからぬ改変が施されている。『播州皿屋舗』の梗概も示しておきたい。

 細川家の城主巴之介は、今は将軍の勘気を受けている身。山名宗全の娘柾の前は、その正妻で、住之江屋の傾城玉の井との子喜代若を預っている。

 一方、山名宗全は喜代若を殺し細川家の乗取ろうと企んでいたが、楽焼屋の弥太七から細川家の重宝唐絵の皿を手に入れ、巴之介とその執権青山忠太が召された冷泉院御所に行き、皿を披露する。が、忠太はそれを贋と見破り、割る。巴之介の家臣舟瀬三平が真の皿を持って来るが、箱の中は空。手紙があり、二十年以前、皿は出石平馬に盗まれ、三平の父三大夫がその落度によって自害した旨が記されている。冷泉院は、三平と腰元お菊を夫婦にさせ、皿を探すよう命ずる。

 また、弥太七は釣瓶大尽と言う替名を持っており、贋の皿を売った金で傾城玉の井を身請しようと思っている。宗全の家来竹原藤内が弥太七の親楽焼屋の弥五兵衛を連れだし、本物の皿を出させる約束をさせる。そこへ帰ってきた娘のお菊と三平は、親弥五兵衛が出石平馬なるを知る。母は身代りになる積りで弥五兵衛を討つように勧めるが、実に三平は弥五兵衛を過たず射る。弥五兵衛は覚悟しており、皿は弥太七が持っていった事を語る。一方、お菊は身売りをして金を作り、皿は買戻す。

 また、藤内と弥太七は喜代若の命を狙っている。弥太七は、巴之介の忠臣園右衛門の女房お花の家に忍込み、闇中お花は息子の紅松を、園右衛門は弥太七を切る。紅松を喜代若の身代りに藤内に差出し油断させる。

 山名宗全に追われる巴之介は、玉の井、お菊と共に、播磨の青山宅へ逃れる。青山鉄山・忠太の兄弟の前に家来の蟻介が来て、喜代若の様子を告げる。兄弟、蟻介を毒殺する。鉄山は巴之介の忠臣として仕えており、皿の拝謁を許されるが、お菊が持ってきたところを十枚のうち一枚抜取り、お菊に濡れ衣を着せ、切殺し井戸へ棄てる。お菊の皿を数える声が聞え、三平は鉄山から皿を取戻し、お菊は消える。三平は、軍勢を従えてやってきた鉄山等と戦い、鉄山を囲むが、鉄山逃げる。お菊の霊に責められた鉄山は切腹、宗全は捕縛される(以上、梗概)

 『播州皿屋舗』と本作を較べてみれば、登場人物名の一致、重宝唐絵の皿、お菊の亡霊といった基本要素以外は、全く違ったストーリーとなっている事が分る。登場人物の数においても、本作では粉本より少なく設置し話をコンパクトにしてあるため、例えば中心人物からその家臣や縁者等のストーリーに視点を移してゆく事で成立する世話物的な性格など、多くが『阿漕浦三巴』においては捨象されている。


    ○

 本作のストーリーに、より幅を持たせているのは、もう一つの粉本『田村麿鈴鹿合戦』の利用に拠ってである。『田村麿鈴鹿合戦』の世界は田村麿であるが、その中に阿漕伝承が仕込まれている。皿屋舗と阿漕の世界の綯交ぜによって、本作のストーリーの複雑さは保障されている。

 『田村麿鈴鹿合戦』のストーリーは桓武天皇の御代に設定され、善玉の武将坂上田村麿と、悪玉の氷上皇子早良親王と妖術師周翁(実は藤原千方)とが、三種神器の争奪をめぐって争う。それが主筋である。この中で、田村麿方の桂平次が勘当され落魄して阿漕の平次となる。本作と関連するのはこの阿漕平次に関る部分だけで、他の田村麿、早良親王の争いは殆ど無関係である。

 その点、謡曲「阿漕」、古浄瑠璃「阿漕平次」だけでも本作の粉本たりうるようにも一見思えなくはない。例えば、本作の悪家老荒川伊達右衛門は、古浄瑠璃の登場人物名で、そこからの利用である。また、本作の山木家も古浄瑠璃での山吹家の利用であろう。本作の駒若・乙若といった名も、幼名としてはありふれていようが、浄瑠璃の喜代若の影響とともに、或いは古浄瑠璃の山吹勘解由介の子友若も関係するか。さて、しかし一方で、『田村麿鈴鹿合戦』が粉本たるも動かない。本作の平蜘蛛の次郎蔵は『田村麿鈴鹿合戦』に見える平瓦次郎蔵からのもじりであろう。役割においても、平瓦次郎蔵は実は中川宇内で、今は勘当の身。阿漕平次を追求する身とみせて、それをかばうという点で、弥太七に通じる部分がある。


    ○

 さて、以上、登場人物名を比較し、梗概を見てその構想の差異を確認した。登場人物名および彼らの設定を粉本の浄瑠璃作品に負っていることは、浮世草子時代物の有り方として充分了解できる事である。そもそも演劇的構成法としての「世界」の利用という発想自体が時代物浮世草子の常套的かつ典型的手法であり、また本作の序においてもこの事は既に告知されているものであった。序には、「伊勢の海阿漕が浦に引網も度重れば顕にけりと詠し古事を新しき唐絵の皿に書まぜ破れても破れぬ兄弟の中垣義理と情を咲分たお菊が貞節浄瑠璃哥舞妓の文作を拾ひ五冊に綴りて阿漕浦三巴と号狂言戯語の弄となし侍りぬ」(全文)と見え、阿漕・唐絵の皿・お菊、等と粉本へのほのめかしがあり、「浄瑠璃歌舞妓の文作を拾ひ」という辺りからもそれが知れる。

 しかし一方、ストーリー展開の面では、浄瑠璃作品と、殆ど共通する所が無かった。共通するお菊・皿という要素においても、本作では、唐絵の皿は一枚物であり、お菊の失態で無くすこともなく、よって霊が皿を数えるという件もない。『田村麿鈴鹿合戦』についても、共通する阿漕が浦の段のみである。また、文辞をそのまま利用した部分も無い。そうした点からして、本作のストーリーは、ほぼオリジナリティを保障されていると言ってよかろう。浄瑠璃二作品に見える多くの登場人物を、より少数に設定してコンパクトにまとめ、ストーリーの複雑化は世界の綯交ぜによって保障する。そうした本作の特徴は、概括的に見れば、なかなかよく出来ている。

 


2 構想の破綻

 だが、一方で、随所に見られるストーリーのあまさ、構成・設定の安易さ、文辞の冗長さ、等において、本作の精細のなさには決定的なものが有る。

 たとえば、巴之介の放蕩と改心のコントラストが、上手く書かれていない。当初放蕩の若君である主人公がストーリーの中で立派な武士に成長して行くといった筋は、浄瑠璃や浮世草子において、世話物風と時代物風とを矛盾なく成長ドラマの中で配置するための手法であろう。しかし本作では、二十一歳の名君誉れ高い若君などとと紹介しておきながら、その直後に廓通いの様相を描いてあり、名君の評判の蔭で実は‥‥といった設定でもなく、ただ単純に人物造型の焦点がぼけている。言わば、性格の差異にインパクトが無い。それかなしか、巴之介が荒川方の術中に陥り摺鉢大尽(弥太七)にだまされる折も、漫然とした進行で、スリリングな展開に欠ける。

 あるいは、弥太七のもどりの趣向も、あまい。弥太七は楽焼屋弥兵衛の子として設定され、物語冒頭で弥太七は荒川方の悪玉陰陽師安倍仲善(殆ど活躍しない)の手下として当麻御前に対面し、巴之介が釣瓶大尽の異名で傾城玉の井に放蕩を尽している事態を報告する。当麻はその時、出奔中の実子乙若の瓜二つであると、感想を漏らす。これは物語終末近くで判明するが、弥太七実は楽焼屋弥兵衛の実子でなく、当麻御前が山木判官に召される以前に出石平馬を父として生んだ子であり、山木巴之介・弥太七・乙若の三兄弟、つまり兄弟の三巴という伏線になっている。物語は、長く巴之介(善玉)と乙若(出奔中)との二兄弟を示すのみであるから、題名の「三巴」の意味はずっと伏されてあり、弥太七は当初悪方のままである。こうして梗概を見れば、ストーリー展開にも工夫が感じられ、場面毎の独立性が強く悪く言えば前後の脈絡にさえ欠ける粉本『播州皿屋舗』よりも優れているようにも思われるが、実際の話の運びや改心の件などは唐突であって人物の内的な必然性・ドラマ性には欠けている。弥太七は、住之江屋で摺鉢大尽と名乗り、釣瓶大尽こと巴之介に近づき、御為ごかしに玉の井身請の金を貸し、唐絵の皿を質にとる。その褒美に荒川に取り立てられ、唐絵の皿の贋を作る為に実家に帰るが、梗概にも記したように、母の内明け話を聞いて、そのまま改心する。このあたり、ストーリーを急ぎ過ぎている感も有り、いささか単純すぎる。

 あるいは、巴之介と乙若との再会の場面の偶然性。唐絵の皿がなく追放された巴之介と田結民部は、伊勢に逃れ乙若に再会する。が、この再会はまったくの偶然であるばかりか、再会の場面すら描いていない。物語は、「一方その頃追放されし巴之介は」という文で、既に阿漕平次に出会っているところから始っており、しかも、その直後に阿漕平次は実は乙若である、と種を明かしてしまっている。この例に限らず、張られていた伏線が徐々に解明かされるのでなく、一気に明かされる、または、伏線を張った端から張った順序通りに単調に解明かされる。凡そこれではスートリーに複雑な絡みあいを期待するのは無理であり、力量がないストーリー・テラーの未熟な常套的手法と言ってしまえば、ほぼそれまでであろう。

 また、あるいは、人間関係におけるストーリーの破綻と言ってもいいような部分もある。巴之介と弥太七は、釣瓶大尽・摺鉢大尽として互いに既に面識がある。二人が再び出会うのは、改心した弥太七が平蜘蛛の次郎蔵として阿漕浦に潜入した時である。阿漕平次宅には巴之介がかくまわれており、次郎蔵(弥太七)はまずそこへ単身乗込む。さて、この段階で、巴之介が相手の男は唐絵の皿を質に与えた摺鉢大尽であると気付かぬのは不自然であろう。だが、物語にはそうした点への注意が全く欠落している。あたかもこの二人は初対面であるかのような扱いがなされており、読者としては、かなり喰い足りない。尤も、終末部においては、実母当麻御前を諌めるため弥太七が自害するに及び、巴之介はその忠義を称揚し、住之江屋で既に面識があったという事も述べている。が、それだけに逆に、阿漕浦での再会において端折った部分に、ストーリーの細部へのあまさを感じざるを得ない。

 また、これは些細な事かも知れぬが、改心し、荒川方から返り忠をする弥太七が阿漕が浦に現れる、という事自体、安易に出来過ぎた話である。人物が何の説明もなく偶然都合良く出会うなどという展開は浮世草子のみならず近世小説全般にありがちな行き方であるし、本作のこの部分は典拠『田村麿鈴鹿合戦』の平瓦次郎蔵実は中川宇内という設定に依拠したものかも知れない。そして、なぜ弥太七がここに居るかと言う自身の説明もある。が、風聞で知ったからなどという説明では、およそ緊密な物語空間を紡いでゆくようなわけにはゆかない。


    ○

 中村幸彦氏は、南嶺没後の八文字屋本の幾つかを、「もはや小説家の筆つきではない」(前掲論文、一七一頁)と評する。本作に対しても、世界の綯交ぜといった工夫は見られるが、しかし、この中村氏評が当嵌まらなくもないのである。そして本作には、南嶺の文章に於ける特徴的な文体、言い回し、穿った視点、警句など、凡そ全くないのである。

 


3 南嶺実作の可能性

 さて、本作に南嶺的な浮世草子の面白さを期待するとかなり裏切られた気分になるが、ストーリー展開の面からでなく、別の視点から、本作が南嶺実作か否かという問題を改めて考えてみる必要があろう。

 御伽草子に「阿漕の草子」がある。『室町時代小説集』『室町時代物語大成』などに既に飜刻され、適切な解説もなされている。現存写本のうち神宮文庫本は、「明徳二年一一月三日 兵部少輔俊宗/借菅少帥之御本写得了 少外記中原師好」云々という識語を持ち、謡曲「阿漕」は作者未詳ながら永正期(一五〇四〜一五二一)頃に文献初出というから、明徳二年(一三九一)はその遥か百年も前の成立という事になる(岩波書店『日本古典文学大辞典』の「阿漕」の項目)。そして、この神宮文庫蔵写本は、識語に続けて「丙午孟春上浣 源政仲」とある。多田政仲、つまり多田南嶺の筆写に拠るものである。『室町時代物語大成』の解説では、別筆で多田南嶺自筆本の由も記してあるとも言う。解説では続けて、津藩儒津坂東陽『勢陽考古録』などの指摘を引き、南嶺の偽書である可能性があるとしている。同解説、或いは『日本古典文学大辞典』の「阿漕の草子」の項目などでも、その識語の「明徳二年」に疑問を呈している。

 さて、「阿漕の草子」が偽書か否かは、今は判断出来ない。例えば、識語に見える俊宗は実在の人物なのか。今『尊卑文脉』(国史大系版第二編、八三頁)には、藤原高藤公孫系に「俊宗 兵部少甫」という名が見え、その父資顕に「明徳二二二卒」という記述があるから、俊宗は実在である。こうした点で、些かの信憑性もあるようでもあり、また逆に系譜類を参照すれば実在の人物名に擬する事は至極簡単なわけだし、偽書か否かは、ともあれ即断は出来ない。

 兎も角、重要なのは、この説話が多田南嶺を通して伝えられていたという点である。丙午は南嶺生存中で探せば、享保一一年である。つまり、享保一一年の段階で、南嶺の記憶の中に御伽草子「阿漕の草子」が存在していたわけである。

 この「阿漕の草子」は、阿漕伝承の中でも、内容面で些か特殊な性格を持つ。梗概は次の通りである。伊勢平氏の平次盛(左京進平盛光の孫、木工允貞光の子)は性格悪しく、伊勢少掾に任ぜられ、禁制の阿漕の浦で漁をし、国司や神宮と対立する。戦となり、次盛は捕えられ、ふしづけの刑に処せらる。後、次盛の祟りで疫病が起り、僧行鎮が次盛の塚を弔うが止まず、平氏である三安友盛という神主が祠を建てて祀り漸く鎮まった。この祠は、後には平貞盛を祀った八幡社だと解されてしまうが、建長年中の建替えの折の棟札にははっきりと平次八幡社三安友盛奉行としるしてある。この棟札は、何故か摂津の天王寺にあるという(以上梗概)

 ふしづけは簀巻の刑のことと解してよかろう。謡曲では単に、沖に沈めるというだけで、簀巻云々は無いが、古浄瑠璃でもふしづけ、浄瑠璃でもすまきにして沈みにかける、とあり、その点では御伽草子にはさして特徴はない。また、悪霊となり祟りを為すという点は、謡曲・浄瑠璃等にこそ見えないが、一般の阿漕伝承においては特徴的な事であろう。が、一方特異な点としては、平次という名を平次盛の訛化とし、この話を伊勢平次に関る伝承として捉えられている。『尊卑文脉』などでも盛光・貞光までは見えるが、次盛は見出せない。関連して出て来る僧行鎮や三安友盛なども、御伽草子のみの特徴である。また、平次を祀った社が貞盛(盛光の四代前。国香の子)のものに紛れた云々に至っては、阿漕伝承に於いても特異なものであろう。

 さて、南嶺の問題に戻る。南嶺の浮世草子執筆態度の一つに、自前の知識を作品の中に忍ばせるという衒学的な態度がある。が、今述べた特異な阿漕伝承は、本作には全く反映されていない。逆に、阿漕平次を祀った阿漕浦の祠は、本作『阿漕浦三巴』では閻魔堂であるという。これなどは、何が根拠なのか不明である。

 尤も、本作執筆の延享二年と、「阿漕の草子」筆写の享保一一年との間は、二〇年近くもあるのだから、そもそも関係が薄かろうと言えば、それまでである。また、たとえ本作が多田南嶺執筆にかかるものだとしても、ならば御伽草子との間に何らかの関係がある筈だ、など考えるもの予断に過ぎない、とも言えば言える。だが、衒学性と無縁であるのも、かなり不自然であるのには変りない。


    ○

 では、もう一つ。南嶺には『宮川日記』(写本・延享三年)がある。延享三年正月末から三月中旬まで、伊勢神宮滞在の折の事を日記風に記したものであるが、これには、伊勢神宮に奉る鯛である伊吹鯛の記事が見える。帝国文庫『續々紀行文集』にも飜字されているが、いくらか意味が通りにくいので、今バークレー三井文庫本(国文学研究資料館マイクロ)から引用しておけば、「三祭礼に供する干鯛は尾張国智多郡(篠の字欠カ)嶋神主より一度に奉る。是を神供とし其余を正員の輩、三祭の翌日宿館にて拝味す。此鯛を名付て伊吹鯛(イフケタヒ)といふ。いかなる子細とも知れずとなん。予、尾張に在し時、寺社奉行のもとにて篠嶋氏神の社人辻三大夫より出せし一通みて覚しまゝ爰にあはせてしるしぬ‥‥」とあり、三節祭の折に奉られる干鯛を伊吹鯛と呼んでいるが伊勢の神人らもその謂れを知らない、という。それについて、尾張滞在時の知識により、続けて考証を加えるのであるが、この尾張滞在というのは、古相正美氏のまとめによれば(古相正美「多田義俊年譜考」近世和歌文学誌・第一集)、それ以前の四年間の事である。本作刊行が延享二年であるから執筆は延享一年中であろうが、ほぼその時期なのである。ところが、本作には、伊吹鯛と言った言葉すら全く出て来ない。伊吹鯛の名前のいわれは、御幣をいぶけと訓むことと関連すると言ったもので、篠嶋の神主からの実地の見聞も合せて、南嶺の独自の見解の様である。余談めくが、神宮文庫本「阿漕の草子」は式亭三馬の旧蔵本で、近世においてこの「阿漕の草子」が世に広まったのは、三馬の『阿古義物語』(文化三年刊)に附録として飜刻されてからだろう。三馬は、同作品中の「勢州阿漕浦事跡并名考証」という部分で、『宮川日記』も引用文献として引き、伊吹鯛という名にも触れている。伊吹鯛の考証にしても、『阿古義物語』以降は一般化しうるであろうが、南嶺存命中ではごく限られた知識だったと思われる。

 さて、作品中に御贄の鯛を扱いながら、伊吹鯛も含めこうした言及が全くないという点で、神道家南嶺の知識の在り方として、こういう衒学性を表に顕さない態度は、極めて不自然ではある。


    ○

 話を戻す。こうした南嶺独自の説の開陳が、浮世草子作品中に見られれば、中村氏がやられた様に、南嶺実作を即決出来る。本作においてそれが出来ないという事態は、単に決め手が無く残念だといったレベルの問題ではなく、神道家として一言あってもよさそうな所で何の言及もないという事自体の問題である。ストーリー展開にしてからも、凡そ「多田南嶺らしさ」へと収斂してゆかなかった。こうした点では、本作は多田南嶺実作ではない、と考える方がより自然な感すらある。とは言っても、かつても現在も八文字屋守勢期の代作者として多田南嶺以外の人物は想定されたことはないし、非多田南嶺実作という仮説は今は空論に過ぎない。ここに至って、南嶺実作認定はアポリアを抱込んでしまう。

 


4 作者とテキスト

 作者認定のアポリアは、しかし、特に本作のような先行研究においても持て余した類の作品について、そもそも最初から予想された事である。この認定方法は、たんなる実証レベルの問題ではなく、深く、作者とテキストとの関係に絡みあった問題であろう。今、この点について考えてみたい。

 まず、認定方法は、次のようなプロトコルを踏んでいた。即ち、南嶺作の神道・有職故実関係の著述は、署名もあり、はっきり南嶺作だと認定されている。そして、その中に見えるモチーフや思想と、浮世草子作品とを付合わせて見る。同じものが有れば、その浮世草子は南嶺作と言えるだろう、といったものである。

 そもそもこの方法は、同一人物は別の場所でも同じ発言をする筈だという、一個の人物の普遍的な同一性を前提としている。有職故実研究と浮世草子と、様式や表現方法が全く違っていても何らかの共通性が在るはずだという前提である。勿論、実際、常識的にもこの考えはある程度確かであろうが、一方、場面が変ればそれなりに人格も変るというもの常識的に納得出来るところである。その点で、この認定作業について言えることは、完全に客観的な認定などは出来ないという事である。結局、ここから得られる教訓は、モチーフを付合わせるという方法自体、完璧な方法などではなく、註釈を積み重ねればやがていつかすべてがはっきりするなどと考えるのはそもそも甘い幻想だという事である。実作実証の可能性は常に有限なのである。こうした方法論的限界への自覚無しに、モチーフの付合わせによって、あるいは印象論的に文章の在り方を云々する事によって、最大公約数的な説得力に依存して作品何々を南嶺作だと認定するなどとやっているだけでは、その作業は全く無意味、少なくともナイーブ過ぎる。


    ○

 ここで自覚すべき事は、そもそも作者の認定は何の為にするのか、ということである。この認定作業も、結局は認定は不能で人格は同一でないと言ったことを論証するだけであるならば、いささかニヒリスティックかつ悲惨である。少なくとも、より根本的な問題を浮きぼりにして行くような在り方が望ましいだろう。

 具体的には、例えばこういう事である。即ち、モチーフの付き合せによる作者の認定作業と言うのは、複数の作品の中に同一性を読取るという営為である。そして、その同一性は作者という観念において保証されている、または、保証されているかのように見える。そもそも、一見自明なこの構造を検討すべきではないかと言うことある。これを言い換えれば、テクストにとって作者とは何か、という問題になるだろう。

 この問題に関連して、既に論文に書いた事がある(「浮世草子における作者と代作者----多田南嶺論の(不)可能性」日本文学・九一年一月号)。いまそれを要約すれば概ね次の通りである。即ち、作者は一般に、テクスト理論を経た今日においても、一方で根強く、次のように考えられている。つまり、作品の起源・生成の場・所有者である、と。こうした考えは、単に一蹴すべきでなく、なぜそう考えて仕舞うのかを明らかにしなくてはならない。元来読解という営為は、現象の背後に意味を見出そうというものである。文芸理論というのはそもそも、この中心核の違いに起因している。作者を殺したテクスト理論でさえ、構造といったものを用意してあり、これも結局実体化して仕舞う。そうした挙げ句、作者もテクストだとか言って、作品を実人生の反映として読まないまでも、つまり超越論的意味として作者を見做さないまでも、結局作者はゾンビの如く蘇ってくる。読解が「意味」を読み見出そうとする営為である限り、それを保障する中心的な核が必要であり、あるいは少なくともテキストの外部の要素が必要である。作者という存在は、作品の起源・生成の場・その所有者として見做されやすく、最も中心的核として位置し易い存在である。言わば、意味への出口である。そういった点から、作者というのは、本来は、実体でも根元的な存在でもないにも関らず、意味を見出そうとする読解という営為によって要請された観念、機能と考えるべきである、云々。

 そういう点で、あるテキストをなにかしらの「意味」の下で理解しようとする場合に、この事態は必然的に直面するアポリアなのである。


    ○

 ところで、今改めて考えてみれば、作者が意味への出口として実体化してゆくのは、読解の立場からのみならず、作者自身の執筆の立場からも言えることである。言わば、書く事と読むこととは、まったく相似の関係にあるわけである。

 例えば、作者にとって書く事は自己展開であるというふうに考える場合。寓言論といった文学理論。あるいは、曲亭馬琴に『江戸作者部類』という随筆が有るが、これなども基本的に作家主義の典型と言うか、作品にとって作者は神であろう。こうした、作者本人が作者を実体化しようという在り方は、作者自身が第一の読者であり、その循環の中で意味を固定しようとしているに過ぎないのだが、それでも現実に起っている事態である。この自己展開という時の自己を、いま、表現主体と呼んでおく。

 尤も、文学作品は自己展開として読まれるように書かれたものばかりではない。浮世草子などは、まさにそうである。その点、浮世草子における作者は、後代の読本作者などと違い、井原西鶴も含め凡そ表現主体として理解されにくい。実際、浮世草子研究と言うのは、だいたい典拠論である。例えば代表的浮世草子作者である江島其磧など、つまりは其磧の手法・方法といった形で論じられる。これはすなわち、典拠を如何に改変するかという問題である。其磧自身になにか主張したい思想があるわけでなく、この場合作者は小説をつくる時の方法の管理者、方法主体である。

 さて、では、多田南嶺は、どういう作者なのか。時代物浮世草子などを見るかぎり、基本的には浄瑠璃を組みかえ、その複雑さの妙味を見せ所としているという点において、江島其磧などと同じく、娯楽に徹した職業作家、つまり方法主体と言えるだろう。しかし一方で、主張思想といったもの、南嶺の自己展開というものも見られる。かつて、『忠盛祇園桜』について明らかにした事があったが(「多田南嶺・マイナーな作者」ぺりかん社『見えない世界の文学誌』)、これは自身の祖先に当る多田家を顕彰するといった意図を読取ることが出来る。そういう意味で、南嶺は表現主体でも有る。また、気質物浮世草子についても既に書いたことがあるが(「多田南嶺・齟齬の位相」都大論究28号)、南嶺的な特徴・南嶺的発想といったものを抽象化して論ずることが可能であり、正しく表現主体として南嶺は成立している。そもそも、先に述べた作者認定の方法、つまりモチーフの付合わせも、南嶺の主義主張を述べた学術的著述と浮世草子とを比べるものであって、基本的には作品の中に表現主体を読取ろうと言う試みである。この作者認定の方法が、ある程度有効なのは、南嶺が表現主体として読みうる存在だからでもある。


    ○

 では、この方法主体と表現主体と、二つの作者の在り方は、南嶺の中でどういう関係になっているのか。

 南嶺の場合は、表現主体としていささか不完全な状況を強いられている。例えば、南嶺実作と確実に認定しうる作品『忠盛祇園桜』の例でいうと、多田家を褒めたたえるような事をかいていながら、そもそもそれは秘伝であり、たまたま今日の註釈的媒介によって判明はしたが、当時の読者に対してテキスト上で大星伝は南嶺のメッセージとして全くコード化されていない。コード化されていないということは、表現されたものと表現する主体とを、読者が結び付けるすべを全くもっていないということであり、これでは表現主体として意味をなしていない。この事は、この大星伝が秘伝であるからというだけではなく、南嶺の他の主義主張にしても、匿名作者の代筆というシステムの中で、南嶺と言う名前と結び付けることができない構造になっているのである。即ち、南嶺の浮世草子は南嶺という表現主体へ向って行かないという事である。これは決して、作者が意味付けから逃れようとしているだとか、作者が作品から逃走しようとしているだとか、一昔前の物語論のような事を言おうとしているわけではない。半ば表現主体として自己展開を行う作者が、しかし、代作と言うシステムのなかで作者名を与えられず、その展開されたものを読者に対してコード化出来ないという南嶺の具体的な在り方の謂いである。


    ○

 さて、本作『阿漕浦三巴』は、どうなのか。本作はそもそも、先行研究においても数少ない、南嶺実作という証拠さえあげられぬ作品である。しかし、八文字屋守勢期の浮世草子作品は、今日の文学史のエピステーメーにおいて、実作の論拠以前に、南嶺代作という幻影がつきまとっている。その意味で、この時期にたとえ南嶺以外の代作者が実際には居たとしても、それが判明しないうちは、本作と南嶺は無関係ではない。そういう風に、我々の思考基盤は形成されている。本作と同じく延享二年正月に出された八文字屋本『今昔出世扇』も、やはり小説家の筆つきとは思えず、実に南嶺的要素のおよそない気質物である。しかし、たとえそうであっても、南嶺という影はこの時期の八文字屋本には色濃いのである。

 多田南嶺とは何者なのか。南嶺実作の認定という作業が、テキストから表現主体を読取ろうとする作業であるかぎりにおいて、その半分しか南嶺に到達する事は出来ないだろう。粉本の利用における方法主体の在り方を検討しても、やはりあとの半分は残されたままであろう。そもそもテクストの作者は、作品にではなく、署名された作者名のなかにしか存在しないからである。そして、南嶺は、主体以前の影の存在だからである。勿論、到達が不能なのは、基本線として、実作者の分からない作品を相手にしてその作品をある主体へと収斂させようとしている虚無的な試みであるからかもしれない。しかしその不幸は、作者が判明している多くの作品において、その弛緩した円満さの中で諸テキストの同一的意味を作者に保障させてゆくイデア論的思考の重力に無自覚なよりは、未だしも幸福な緊張感である。

【附言】本稿は、一九九三年度文部省科学研究費(特別研究員補助金)による成果の一部であり、また、一九九四年七月、神戸大学での日本文学協会部門別発表会近世部門における口頭発表に基づく。



 

初出 : 東京都立大学人文学部紀要『人文学報』262号(1995年 3月)
(c)高橋明彦 1997年1月30日 HTMLによる公開

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