テキストの作者
----『阿漕浦三巴』における非多田南嶺論
1 構想と粉本
2 構想の破綻
3 南嶺実作の可能性
4 作者とテキスト
阿漕浦三巴(大本五巻五冊、延享二年刊。所見は国文学研究資料館マイクロ・京大潁原文庫蔵)は、多田南嶺が代作執筆したとされる八文字屋守勢期に出板された八文字屋本時代物浮世草子である。この時期の八文字屋本の作者については、既に説かれる如く、また私も何度か論究を加えてきているが、かならずしも実作者は判明していない。中村幸彦氏は、「この年間の八文字屋本をあげて、彼が作ならざるはないと断言したい念慮にかられている」(中村幸彦「多田南嶺の小説」著述集第六巻)と述べてはおられるが、その論考から本作『阿漕浦三巴』は漏れている。また、長谷川強氏は中村氏の論を受け、さらに作品の中から多田南嶺的な特徴を捉え、多田南嶺作の可能性の高い作品を追加されたが、本作はその言及が無い二作品のうちの一つでもある。
実際、本作を一読すれば感じることだが、凡そストーリー展開にテンポが無く、文章にくだくだしい点が多く、いささか精彩を欠く。本稿冒頭に当って、端から面白くない作品だなどと断罪しておいては元も子もないのだが、少なくとも、多田南嶺浮世草子のめくるめくストーリーと文章の切れ味を期待すると、まことにはぐらかされた気持ちにさせられる作品ではある。
さて、しかし本稿は、本作品が駄作であるなどという感想を述べる事を目的としているわけでは勿論無い。本稿は、まず本作のストーリーが如何に構成されているかを検証する。加えて、本作が多田南嶺実作である可能性について考える。そして、その結論において新たに提起される問題、即ちテキストにとって作者とは何かといった問題について考えて行きたいと思う。
1 構想と粉本
本作の粉本については、既に長谷川強氏の指摘が有り(長谷川強『浮世草子の研究』五〇八頁)、豊竹座の浄瑠璃『播州皿屋舗』(時代物三巻、為永太郎兵衛・浅田一鳥作、寛保元年七月初演)と『田村麿鈴鹿合戦』(時代物五段、浅田一鳥・豊田正蔵作、寛保元年九月初演)がそれである。前者はいわゆるお菊の亡霊で馴染みの「皿屋舗」が世界で、その集大成的な作品であり、後者は「田村麿」の世界で、その一部に「阿漕」が組込まれていて、文化五年には『勢州阿漕浦』と解題される作品である。本作は、これら皿屋舗と阿漕の世界を綯交ぜにして構想されている。以下、梗概を示しておきたい。
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大和国の城主、山木判官高信が死して既に三周忌、跡目未だ定まらず、二人の家老有り、田結民部は、故正妻絹江御前の腹駒若(巴之介)十八歳を押す善玉。荒川伊達右衛門は、後室当麻御前の腹乙若を押す佞臣。乙若は今出奔して行方知れずであるが、荒川は当麻御前の威光を借り、あくまで乙若跡目たるを譲らない。二家老、論争の果てに、競馬で決着せんとし、荒川方負け、駒若が世継ぎと決り、元服して巴之介と名を改める。
さて当麻御前も、息子の跡目だけを気に掛ける邪なる人柄。巴之介を失脚させようと、荒川方に計略あり。巴之介が傾城狂いをしているとの由を聞き付ける。さて、荒川方の手下である弥太七は既に駒若に近づいて居た。
月日は流れ、巴之介は二十一歳。生得仁心強く諸芸に秀で、一国の大守として敬われる。田結民部も、後室当麻・荒川らの陰謀に油断無く忠義を尽す。一方、巴之介は田結の目を盗んで、釣瓶大尽と異名を取って奈良の木辻町住之江屋の傾城玉の井に馴染じみ放蕩三昧。いっそ身請をと思うが、相続間もなく、当麻・荒川等の目も気になり、身請金三百両はもとより遊ぶ金にさえ困っている有様。が、揚屋で会った摺鉢大尽(実は荒川の手下弥太七)に、家の重宝唐絵の皿を形に三百両を借り身請を済ます。有頂天の巴之介は玉の井を寵愛している。
この不行跡から荒川方より難がつき、重宝唐絵の皿を売払ったという風聞があるが、事実か否か、と問い質される。巴之介、返答出来ず、知らざる田結も仰天。結果、二人は追放の身となる。
荒川は、屋敷に残された玉の井に懸想するが、玉の井つれなく、怒って縄で縛りあげ責める。そこへ後室当麻の腰元お菊が割って入り、計略あり。玉の井に贋の恋文を書かせ伊達右衛門をそそのかし、二人で欠落させる。お菊の恋人で、田結民部の弟(不行跡より勘当、今は浪人)である弥五郎が待ち受けて、伊達右衛門を泥田にぶちこみ玉の井を救う。お菊は頃を見て、唐絵の皿を盗みだし、弥五郎の後を追うが、帰途の伊達右衛門に鉢合せして捕われる。
弥五郎は、玉の井を伴い、楽焼屋を営むお菊の母妙閑の家でお菊を待つが、お菊は亡霊となって現れ、伊達右衛門に殺された始終を語り、消える。
妙閑の家に、供人あまた連れ立派な侍が来る。見れば、幼少の頃出奔せし息子の弥太七。再会を驚く。弥太七言うに、伊達右衛門の策略にて、唐絵の皿の贋物を作り、後室に掴ませる算段。贋物には焼物の名手が必要、父五兵衛は既に死んだが、家の秘伝があろうと拙者が来た次第、云々。妙閑言うに、弥太七は実は山木家の家臣出石平馬の子で、我等には養子。幼少の頃の出奔故知るまいが、お菊はそなたの妹に当る事を言う。弥太七、悪人に加担した事を悔み、改心し、着したる衣類をを打棄てて出奔する。
伊勢の海、安濃の浦は天照大神の御贄の場として禁漁の海であったが、破るものがいるとの噂、当地の代官が伊達右衛門の家臣竹原藤内を同道し、ひとつにはその詮議の為、また一つには追放された巴之介・民部の行方探索の為、来る。村中衆議、阿漕平次が怪しいと。さて、その平次こそ山木家の後室当麻御前の実子乙若であり、母の悪心を諌めかねて、十四歳の時に出奔、この地で漁りを生業としていたのであった。また、追放された巴之介・民部も、たまたまここで平次に出会い、その厄介になっていた。平次は、巴之介らの饗応に生鯛を出していた。巴之介も、当地の禁制を承知しており、訝り、また大和に帰ることを乙若に勧めていた。その折、代官の命を受けた平蜘蛛の次郎蔵が単身平次宅に乗込み、魚網を見つける。平次が次郎蔵に事の次第を説明する。即ち、欲にはあらず、一つには国をのがれし兄の饗応のため貧苦より魚を捕えて売っていた、四知の天命により顕れたもの、私が捕まれば兄をかくまうものが居ない、七日だけ待ってほしい、兄巴之介は山木家に大切な人であり、私が国法に裁かれむ、と。次郎蔵聞いて、平次は我が弟か、とつぶやく。訝る巴之介・民部に、次郎蔵云う、我実は弥太七、実父は大和浪人出石平馬、母は後に山木家へ入り今の後室当麻。平馬は我を楽焼屋五兵衛の門に捨て京に上るが程なく死去、我は今、巴之介・乙若の行方を尋ね、風聞を耳にし今この村に在る、と。さて、巴之介・弥太七・乙若は三兄弟なる事を知り、手を取合う。
そこへ庄屋等が来る。庄屋は既に、浜辺で平次宛の請求書を拾っており、魚盗人なる証拠を掴んでいた。さて、平次はその場で切腹。曰く、魚盗みは天照大神への罪、逃るべからず。そもそも我出奔せしは兄を立てんため、刑は国法通り、簀巻にされ海に沈められむ、と。弥太七は、魚盗人の件は落着、と言うが、庄屋等は、深手の平次とともに巴之介・民部も連れ、代官所まで行く。代官は、刑罰通り深手の平次を簀巻にしようとすると、弥太七は、皆の素性をすべて明かし、後室の悪心を翻す手だてあり、何卒温情の沙汰を、と言えば、代官も感心し、平次の首を弥太七に打たせ、亡骸は海へ、首は弥太七に預ける。国法は立ち、巴之介ら一行は本国大和へ帰る。
一方、伊達右衛門には、井戸へ落して殺したお菊の亡霊が付きまとい、病気となっていた。亡霊は本人にしか見えない。養生の為、武州に下り鉄山と名を替え、一ヶ月程平穏な日を暮していた。が、突然、竹原藤内に当麻を殺すよう命じたことなどを語りだし、武州下りも含めこの一ヶ月の間の記憶が無い。お付きの医者に見吉快験。その施薬で本復したかに見えたが、お菊はまた荒川に乗移り、医者が実は探索のため潜入していた弥五郎なる事を見抜き、懐かしみ、唐絵の皿を渡し消える。弥五郎、お菊の志に感服し、鉄山に縄を掛け出んとすれば、藤内らの追手。が、藤内、弥五郎の槍で死ぬ。弥五郎、鉄山を縛りあげ、かくまっていた玉の井と共に大和に急ぐ。
大和では、六月十五日、土用の虫干。改めれば、唐絵の皿が無い。驚く当麻の前に、巴之介・民部・弥五郎らが現れる。弥太七が乙若の首を見せると、当麻は狂乱するが、弥太七は自身が当麻の子なる事を名乗る。巴之介は自刃して弥太七に跡目を譲ろうとするが田結が留める。その時、弥太七は母を諌めるため既に自刃し、当麻は実子の諌めに前非を悔い改心、巴之介を世継ぎと認め、髪を下ろして尼となる。また、忠孝の者として弥太七は山木の次男と定められ巴次郎と名を与えられる。乙若にも巴三郎の名を与えられ、阿漕の平次なる事は隠密にされた。深手の中で弥太七は喜ぶ。田結、唐絵の皿の行方を尋ねると、後室、始終を語る。田結等、伊達右衛門の在る東武へ馳せ下らんとする時、弥五郎、鉄山を引立て現れる。同道した玉の井も、弥五郎の忠義を述べる。唐絵の皿は戻り、弥五郎は勘気解け鉄山の領地を受ける。弥五郎、お菊と恋仲であったこと、その惨殺を述べ、鉄山捕縛がお菊の亡魂の導きであった事を語り、みな不思議の想いをなす。鉄山、正気に帰り、首を刎ねられる。
後にはお菊の霊も収まり、初瀬寺に供養される。安濃の浦は阿漕が浦と呼ばれ、閻魔堂を立て、当麻がここに移って平次の菩提を弔った。
巴之介は玉の井と、山木の家をますます繁栄させた。(以上、梗概)
○
さて、本作の登場人物名は、ほぼ『播州皿屋舗』に拠っている。ただし、ストーリーに於いては、少なからぬ改変が施されている。『播州皿屋舗』の梗概も示しておきたい。
細川家の城主巴之介は、今は将軍の勘気を受けている身。山名宗全の娘柾の前は、その正妻で、住之江屋の傾城玉の井との子喜代若を預っている。
一方、山名宗全は喜代若を殺し細川家の乗取ろうと企んでいたが、楽焼屋の弥太七から細川家の重宝唐絵の皿を手に入れ、巴之介とその執権青山忠太が召された冷泉院御所に行き、皿を披露する。が、忠太はそれを贋と見破り、割る。巴之介の家臣舟瀬三平が真の皿を持って来るが、箱の中は空。手紙があり、二十年以前、皿は出石平馬に盗まれ、三平の父三大夫がその落度によって自害した旨が記されている。冷泉院は、三平と腰元お菊を夫婦にさせ、皿を探すよう命ずる。
また、弥太七は釣瓶大尽と言う替名を持っており、贋の皿を売った金で傾城玉の井を身請しようと思っている。宗全の家来竹原藤内が弥太七の親楽焼屋の弥五兵衛を連れだし、本物の皿を出させる約束をさせる。そこへ帰ってきた娘のお菊と三平は、親弥五兵衛が出石平馬なるを知る。母は身代りになる積りで弥五兵衛を討つように勧めるが、実に三平は弥五兵衛を過たず射る。弥五兵衛は覚悟しており、皿は弥太七が持っていった事を語る。一方、お菊は身売りをして金を作り、皿は買戻す。
また、藤内と弥太七は喜代若の命を狙っている。弥太七は、巴之介の忠臣園右衛門の女房お花の家に忍込み、闇中お花は息子の紅松を、園右衛門は弥太七を切る。紅松を喜代若の身代りに藤内に差出し油断させる。
山名宗全に追われる巴之介は、玉の井、お菊と共に、播磨の青山宅へ逃れる。青山鉄山・忠太の兄弟の前に家来の蟻介が来て、喜代若の様子を告げる。兄弟、蟻介を毒殺する。鉄山は巴之介の忠臣として仕えており、皿の拝謁を許されるが、お菊が持ってきたところを十枚のうち一枚抜取り、お菊に濡れ衣を着せ、切殺し井戸へ棄てる。お菊の皿を数える声が聞え、三平は鉄山から皿を取戻し、お菊は消える。三平は、軍勢を従えてやってきた鉄山等と戦い、鉄山を囲むが、鉄山逃げる。お菊の霊に責められた鉄山は切腹、宗全は捕縛される(以上、梗概)。
『播州皿屋舗』と本作を較べてみれば、登場人物名の一致、重宝唐絵の皿、お菊の亡霊といった基本要素以外は、全く違ったストーリーとなっている事が分る。登場人物の数においても、本作では粉本より少なく設置し話をコンパクトにしてあるため、例えば中心人物からその家臣や縁者等のストーリーに視点を移してゆく事で成立する世話物的な性格など、多くが『阿漕浦三巴』においては捨象されている。
○
本作のストーリーに、より幅を持たせているのは、もう一つの粉本『田村麿鈴鹿合戦』の利用に拠ってである。『田村麿鈴鹿合戦』の世界は田村麿であるが、その中に阿漕伝承が仕込まれている。皿屋舗と阿漕の世界の綯交ぜによって、本作のストーリーの複雑さは保障されている。
『田村麿鈴鹿合戦』のストーリーは桓武天皇の御代に設定され、善玉の武将坂上田村麿と、悪玉の氷上皇子早良親王と妖術師周翁(実は藤原千方)とが、三種神器の争奪をめぐって争う。それが主筋である。この中で、田村麿方の桂平次が勘当され落魄して阿漕の平次となる。本作と関連するのはこの阿漕平次に関る部分だけで、他の田村麿、早良親王の争いは殆ど無関係である。
その点、謡曲「阿漕」、古浄瑠璃「阿漕平次」だけでも本作の粉本たりうるようにも一見思えなくはない。例えば、本作の悪家老荒川伊達右衛門は、古浄瑠璃の登場人物名で、そこからの利用である。また、本作の山木家も古浄瑠璃での山吹家の利用であろう。本作の駒若・乙若といった名も、幼名としてはありふれていようが、浄瑠璃の喜代若の影響とともに、或いは古浄瑠璃の山吹勘解由介の子友若も関係するか。さて、しかし一方で、『田村麿鈴鹿合戦』が粉本たるも動かない。本作の平蜘蛛の次郎蔵は『田村麿鈴鹿合戦』に見える平瓦次郎蔵からのもじりであろう。役割においても、平瓦次郎蔵は実は中川宇内で、今は勘当の身。阿漕平次を追求する身とみせて、それをかばうという点で、弥太七に通じる部分がある。
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さて、以上、登場人物名を比較し、梗概を見てその構想の差異を確認した。登場人物名および彼らの設定を粉本の浄瑠璃作品に負っていることは、浮世草子時代物の有り方として充分了解できる事である。そもそも演劇的構成法としての「世界」の利用という発想自体が時代物浮世草子の常套的かつ典型的手法であり、また本作の序においてもこの事は既に告知されているものであった。序には、「伊勢の海阿漕が浦に引網も度重れば顕にけりと詠し古事を新しき唐絵の皿に書まぜ破れても破れぬ兄弟の中垣義理と情を咲分たお菊が貞節浄瑠璃哥舞妓の文作を拾ひ五冊に綴りて阿漕浦三巴と号狂言戯語の弄となし侍りぬ」(全文)と見え、阿漕・唐絵の皿・お菊、等と粉本へのほのめかしがあり、「浄瑠璃歌舞妓の文作を拾ひ」という辺りからもそれが知れる。
しかし一方、ストーリー展開の面では、浄瑠璃作品と、殆ど共通する所が無かった。共通するお菊・皿という要素においても、本作では、唐絵の皿は一枚物であり、お菊の失態で無くすこともなく、よって霊が皿を数えるという件もない。『田村麿鈴鹿合戦』についても、共通する阿漕が浦の段のみである。また、文辞をそのまま利用した部分も無い。そうした点からして、本作のストーリーは、ほぼオリジナリティを保障されていると言ってよかろう。浄瑠璃二作品に見える多くの登場人物を、より少数に設定してコンパクトにまとめ、ストーリーの複雑化は世界の綯交ぜによって保障する。そうした本作の特徴は、概括的に見れば、なかなかよく出来ている。
2 構想の破綻
だが、一方で、随所に見られるストーリーのあまさ、構成・設定の安易さ、文辞の冗長さ、等において、本作の精細のなさには決定的なものが有る。
たとえば、巴之介の放蕩と改心のコントラストが、上手く書かれていない。当初放蕩の若君である主人公がストーリーの中で立派な武士に成長して行くといった筋は、浄瑠璃や浮世草子において、世話物風と時代物風とを矛盾なく成長ドラマの中で配置するための手法であろう。しかし本作では、二十一歳の名君誉れ高い若君などとと紹介しておきながら、その直後に廓通いの様相を描いてあり、名君の評判の蔭で実は‥‥といった設定でもなく、ただ単純に人物造型の焦点がぼけている。言わば、性格の差異にインパクトが無い。それかなしか、巴之介が荒川方の術中に陥り摺鉢大尽(弥太七)にだまされる折も、漫然とした進行で、スリリングな展開に欠ける。
あるいは、弥太七のもどりの趣向も、あまい。弥太七は楽焼屋弥兵衛の子として設定され、物語冒頭で弥太七は荒川方の悪玉陰陽師安倍仲善(殆ど活躍しない)の手下として当麻御前に対面し、巴之介が釣瓶大尽の異名で傾城玉の井に放蕩を尽している事態を報告する。当麻はその時、出奔中の実子乙若の瓜二つであると、感想を漏らす。これは物語終末近くで判明するが、弥太七実は楽焼屋弥兵衛の実子でなく、当麻御前が山木判官に召される以前に出石平馬を父として生んだ子であり、山木巴之介・弥太七・乙若の三兄弟、つまり兄弟の三巴という伏線になっている。物語は、長く巴之介(善玉)と乙若(出奔中)との二兄弟を示すのみであるから、題名の「三巴」の意味はずっと伏されてあり、弥太七は当初悪方のままである。こうして梗概を見れば、ストーリー展開にも工夫が感じられ、場面毎の独立性が強く悪く言えば前後の脈絡にさえ欠ける粉本『播州皿屋舗』よりも優れているようにも思われるが、実際の話の運びや改心の件などは唐突であって人物の内的な必然性・ドラマ性には欠けている。弥太七は、住之江屋で摺鉢大尽と名乗り、釣瓶大尽こと巴之介に近づき、御為ごかしに玉の井身請の金を貸し、唐絵の皿を質にとる。その褒美に荒川に取り立てられ、唐絵の皿の贋を作る為に実家に帰るが、梗概にも記したように、母の内明け話を聞いて、そのまま改心する。このあたり、ストーリーを急ぎ過ぎている感も有り、いささか単純すぎる。
あるいは、巴之介と乙若との再会の場面の偶然性。唐絵の皿がなく追放された巴之介と田結民部は、伊勢に逃れ乙若に再会する。が、この再会はまったくの偶然であるばかりか、再会の場面すら描いていない。物語は、「一方その頃追放されし巴之介は」という文で、既に阿漕平次に出会っているところから始っており、しかも、その直後に阿漕平次は実は乙若である、と種を明かしてしまっている。この例に限らず、張られていた伏線が徐々に解明かされるのでなく、一気に明かされる、または、伏線を張った端から張った順序通りに単調に解明かされる。凡そこれではスートリーに複雑な絡みあいを期待するのは無理であり、力量がないストーリー・テラーの未熟な常套的手法と言ってしまえば、ほぼそれまでであろう。
また、あるいは、人間関係におけるストーリーの破綻と言ってもいいような部分もある。巴之介と弥太七は、釣瓶大尽・摺鉢大尽として互いに既に面識がある。二人が再び出会うのは、改心した弥太七が平蜘蛛の次郎蔵として阿漕浦に潜入した時である。阿漕平次宅には巴之介がかくまわれており、次郎蔵(弥太七)はまずそこへ単身乗込む。さて、この段階で、巴之介が相手の男は唐絵の皿を質に与えた摺鉢大尽であると気付かぬのは不自然であろう。だが、物語にはそうした点への注意が全く欠落している。あたかもこの二人は初対面であるかのような扱いがなされており、読者としては、かなり喰い足りない。尤も、終末部においては、実母当麻御前を諌めるため弥太七が自害するに及び、巴之介はその忠義を称揚し、住之江屋で既に面識があったという事も述べている。が、それだけに逆に、阿漕浦での再会において端折った部分に、ストーリーの細部へのあまさを感じざるを得ない。
また、これは些細な事かも知れぬが、改心し、荒川方から返り忠をする弥太七が阿漕が浦に現れる、という事自体、安易に出来過ぎた話である。人物が何の説明もなく偶然都合良く出会うなどという展開は浮世草子のみならず近世小説全般にありがちな行き方であるし、本作のこの部分は典拠『田村麿鈴鹿合戦』の平瓦次郎蔵実は中川宇内という設定に依拠したものかも知れない。そして、なぜ弥太七がここに居るかと言う自身の説明もある。が、風聞で知ったからなどという説明では、およそ緊密な物語空間を紡いでゆくようなわけにはゆかない。
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(c)高橋明彦
1997年1月30日 HTMLによる公開