せき きゅうかく
関 九鶴○江戸中後期の字彫り板木師。生没年未詳。丘鶴とも。堂号に寿字堂。江戸の剞〓氏の名手と亀田鵬斎に賞され、その技術は、経典、史書、詩文の諸書を彫り、篆書隷書など古い書体にも通じ、山水人物動植物など絵の彫りにも達していた。堂号の由来は、板に彫ることで字を寿(ひさし)く無窮に伝える事から自ら名付けたと言う。九鶴の名を刻する作品には、藤堂龍山著『学書弁』の大沢文山序(寛政八年、牛島箕騰書)などがある。(高橋明彦)
【参考文献】亀田鵬斎「寿字堂記」『鵬斎先生文鈔』文政九年刊。丸山季夫「刻師名寄」『国学者雑攷』別冊、吉川弘文館、昭和57年。
よねかわ ぶんとう
米川 文濤○近世後期の版木彫り師。法帖などの字彫りを専らとし、篆刻も能くした。名澹生、号文濤・古梅園。寛政四年生れ、嘉永三年正月十三日没。常陸国の人で、水戸藩主徳川斉修に仕えた。斉修が文政十二年に没した後も技術の名声は高く、遠く京都にもその技を慕う者がいたという。嘉永二年京都に移り住み、古梅園と号し、貫名海屋、牧野青霞らと交友があった。作品に、巻菱湖筆『草書酔翁亭記』などがある。(高橋明彦)
【参考文献】丸山季夫「刻師名寄」『国学者雑攷』別冊、吉川弘文館、昭和57年。
みやた ろくざえもん
宮田 六左衛門○江戸後期から近代の字彫り板木師。代々六左衛門を称した。六世以前は未詳。七世六左衛門(名連行)は天保八年没。作品に『群書類従』『江戸名所図会』『集古十種』など。八世(その三男清次)は早世。九世(次男。常次郎とも。名之行)は文化十一年生れ、明治十年一月没。須原屋茂兵衛に愛され、その懇願で紀州家から二人扶持を賜ったという。明治六年(一八七三)文部省に入り多くの作を残した。晩年の佳作として榊原芳野『文芸類纂』(明治十一年刊)など。その長男が十世(名兼之)。嘉永六年生。十二三才頃から修行し十八才で十世襲名。父の没後は三世木村嘉平の下で研磨した。明治十年第一回内国勧業博覧会に出品した『烈祖成績』(全二十巻。明治十年刻、同十一年追刻)は東京の板木師が技術を結集した作で、その代表五人のうちの一人。なお『群書類従』の最初の板木師は前川氏だが、これを五世六左衛門とする説もある。(高橋明彦)
【参考文献】木村嘉次『木村嘉平とその刻業』日本書誌学大系13、青裳堂書店、昭和55年。斎藤政雄「群書類従版木彫刻者考」『温故叢誌』15、昭和33年。丸山季夫「刻師名寄」『国学者雑攷』別冊、吉川弘文館、昭和57年。
おき かくねん
沖 鶴年○近世後期の版木彫り師。名家の書や序跋文の摸刻など、字彫りを専らとした。生没年、伝未詳。鶴年の名を刻する作品には、文化十一年刊『諸家人名録』の亀田鵬斎序(秦星池書)、文化十四年刊三輪東朔『刺絡見聞録』の大田錦城序文、文政二年刊大窪詩仏著『西游詩艸』大田錦城序(秦星池書)、文政四年刊大田錦城著『仁説三書』源半千序(秦星池書)、松本董斎序(書も)、同年刊林国雄著『興哥考』松本董斎序(書も)など。(高橋明彦)
【参考文献】丸山季夫「刻師名寄」『国学者雑攷』別冊、吉川弘文館、昭和57年。
あさくら いはち
朝倉 伊八○江戸後期の彫工。初世は伊八郎とも言い、台霞堂(亭)と号した。生没年未詳。絵彫りを得意とし、文化文政年間に曲亭馬琴『南総里見八犬伝』初、二輯(重信画)、柳亭種彦『勢田橋竜女本地』(北斎画)はじめ、多数の江戸読本の挿絵や繍像の彫板に携った。他に『江戸名所図会』など。弟子も多く名工を輩出した。二世は字彫りと思しく天保十二年刊『仮名類纂』、慶應三年刊『日蓮大士真実伝』など巧みな仮名や摸刻がその作だが、その他天保年間の伊八鐫字とされる作品は、安政期まで活動したと言われる初世との区別が難しい。
【参考文献】丸山季夫「刻師名寄」『国学者雑攷』別冊、吉川弘文館、昭和57年。樋口二葉『浮世絵と板画の研究』日本書誌学大系35、青裳堂書店、昭和58年。
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初出 :『日本古典籍書誌学辞典』岩波書店(1999年 3月)
(c)高橋明彦 1999年4月12日 HTMLによる公開