【注記】


( 1) 高橋明彦「新発田藩版とその原版」『江戸文学』16号・ぺりかん社・一九九六年。そもそも藩版の研究は書誌的見地からはほとんど手付かずの状態であるので、まだ確たる事は言えないが、ここで取上げる新発田藩版はかなり特異な性格を持っているように思われる。特に一般書肆との関係について、それらと提携せずに完全に自前で版行している点、その発行書の多くに一般書肆からの覆刻版が多くある点などがそうである。これが本当に特殊であるか否かは、今後の他所の藩版・藩校版の研究を俟つ以外に無く、また新発田藩版全出版物のリストも未だ作成し得ない段階ではあるが、いまはこうした資料紹介を進める。
( 2) 帆刈喜久男「十代藩主溝口直諒と藩校教授たち(上)」『新発田郷土誌』十九号・一九九〇年。『御記録』は歴代藩主の政務記録で新発田市史編纂委員会『新発田市史資料』第一巻所収。
( 3) 文政十一年九月成「続世臣譜」(市史編纂委員会編『新発田藩資料』2 藩臣編)。および編纂委員会編『新発田市史』上巻・第四章「文化----新発田藩崎門学派系譜」を参考にした。
( 4) 坂口仁一郎『北越詩話』巻三「清治維徳」。藤間登「社講宗之丞の寺を訪う」(『新発田郷土史』十二号・一九七八年)。生年・享年は分からぬ様だが、藤間論文はそれまで不明であった宗之丞の菩提寺を発見し過去帳を示した研究。
( 5) 『新発田市史』上巻・第四章「文化----教授役・都講人名表」に歴代都講の一覧が有る。
( 6) 倭板小学の開板は安永九年(刊記より)、倭板四書は寛政十二年(別に記録がある。前稿注15参照)であり本資料通りである。他方、近思録の開板時期に関しては、長沢規矩也『和刻本漢籍分類目録』九九頁が新発田藩版近思録を安永九年刊行とするが(活字版近思録とは別に立項されているので整版を言っているのだろう)、当該刊記を持つ本も関係資料も未見である。本資料[92]の文化十三年の記事は近思録の二版刊行などの可能性もあるかもしれないが、いずれにせよ安永九年刊は疑わしい。
( 7) 日本思想大系『山崎闇斎学派』解説・五三二頁
( 8) 後藤憲二『近世木活留真譜』(稀本零葉集)が中庸輯略、孟子集注、論語集注の活字版の写真を載せ、「傳新発田藩木活」と記すが、これであろう。また、『近世活字版目録』(日本書誌学大系50)一一一頁の四書章句集注の記事も同じであろうか。次注の『近思録』と同じく、「大本四周単辺無界九行十七字」という版式が共通する。所蔵先を御教示願いたい。
( 9) なお、この上申書には年付けがないが、前稿では天明五年成とした。これは新発田図編『郷土資料目録』同書の年代認定で、それを是としたため、加えて本資料[22]の天明四年七月六日「此度活字版四書近思録緘方皆出来」の記事を鑑みてである。但し疑問も残る。「覚」の「来十一月中ニ者全部摺立出来仕」が、本資料[22]の「七月」と齟齬する。その点、「覚」の成立を安永十年とし、同十年十一月までに数百部を摺り上げその後天明年間にも活字版を摺った、という可能性もなくはない。いずれとも決しがたいが、何にせよ完全に京都にあつらえているのではなくて活字版についても自前で刊行していたことに注目すべきであろう。
(10) 後藤憲二『近世木活留真譜』(稀本零葉集)に「傳新発田藩木活」とし、寛政十二年の所蔵者墨書があると言う。また、『近世活字版目録』六三頁にも記事が有る。
(11) 『和刻本漢籍分類目録』九八頁による。町版の所見は小浜市立図書館(請求番号・崎297、および崎299)。元禄十一年『増益書籍目録』に「白人板」とあるのがこれか。新発田藩版はV09-32、V09-44、V09-45で何れも同版。但し、摺りの具合いはかなり異なり、多く摺られていることを物語っている。
(12) 町版の所見は小浜図蔵(崎299、崎305、崎306、何れも同版)。藩版は新発田図蔵(V09-47)。


(前稿注8)(前略)……御版行方は、恐らく扶持を与えられた町家の職人であろう。ただし、職人全員が抱え職人ではなく、臨時雇いのような立場から追々抱えられるというのが実態のようである。藩儒佐藤尚志の天明五年の申上書「覚」(新発田市図蔵・V00-5)に、活字版四書の植字摺版を行った御版行方職人について「御板行方之者出精仕数百部之四書早速出来仕候間、御板行方之内未召抱御家中方向等仕罷有候者共、其人相応ニ被召抱可然候」とある。

(前稿注9) 例えば、天明二年刊『儀礼経伝通解続』全二十巻は「新發田侯蔵」(20冊目62丁オモテ)、「天明二年壬寅冬十一月/皇都/山本平左衛門/林権兵衛/梓行所」(そのウラ)とある(同書は正編とともに汲古書院の影印が有り、戸川芳郎の解説も参考になる)。大部の書でもあり、藩版としては手に余ったか。実際、四書(整版)・近思録・小学、あるいは歴史書などをのぞき、藩版の殆どが多くても百丁以下、小さいものは二〜三丁の薄い本である。また、本稿では触れないが、活字版の四書も京都の書肆へあつらえている。が、いずれにせよ書肆への委託はその程度に過ぎない。

なお余談ながら、完全に自前で作っている点、純粋な教科書という実用本位である点、この二点があいまった結果と思うが、新発田藩版の造本はみな質素である。表紙は檜皮色に染めた紙を貼った薄い漉返しを用い、摺りは典型的な地方版の雰囲気を伝える。ただし彫りはさほど遜色無く、後代のものほどシャープになるが、これは技術的な面より、字体のはやりすたりなども影響しようかと思われる。また平仮名文字の彫りは、藩主自筆の摸刻などはなかなか上手である。

(前稿注22) 新発田藩版に藩主直養編「諸先輩国字筆記」という、崎門の儒者の仮名文を翻刻した一大集成があり、これは町版からの覆刻などではなく、闇斎学派を信奉する該藩ならではのオリジナルの業績である。安永九年頃から刊行が開始され、集成として計画しつつも、迂斎稲葉先生国字筆記、佐藤先生国字筆記などと、出来毎に装丁して逐次発行していた(参考「御記録」安永九年五月五日)。よく摺られたと思しく、版木が磨滅したためか別版まである(例えば、諸先輩国字筆記の二冊目所収の剛斎野田先生国字筆記は新旧の版を取合わせて摺ったもので、磨滅甚だしい丁が旧版)。

ほかにオリジナルとしては、藩主直養の著述の勧学筆記、昨非抄、礼書抄略、朱子文集抄略、春秋四伝抄略などがある。ただ、資治通鑑綱目抄略は新発田藩版としてよく取り上げられるものだが、新発田市立図書館では所蔵が確認できず未見。


HTML版補記 新発田の研究をしてらっしゃる帆刈喜久男先生(新潟高校)のご論文のこととかいろいろあるけど、またいずれ。

HTML版補記1999-03-31

兵次郎板倉震斎の通称を、平次郎と書いてました。ご子孫のご指摘により、訂正いたします。ご迷惑をおかけしました。

その後、「伝常憲院下賜三宅尚斎・久米訂斎相伝の『孔子画像』消息」(無窮会編『東洋文化』復刊七八号・一九九七年三月)という論文が発表され、板倉兵次郎の記事が有ります。紹介しておきます。