新発田藩校道学堂の出版費用
一、「出版費用明細」について
二、成立について
三、関連人物
四、書目
越後国新発田藩の藩校道学堂(講堂とも称す)における出版については、既に述べたことがあるが( 1)(「新発田藩版とその原版」以下、前稿とする)、本稿では、それを補完する資料として新発田市立図書館蔵「出版費用明細」を紹介し、いささか愚考をめぐらしたい。なお、本稿は前稿との内容の重複を避け、また概説も一切省いている。願わくば、当該前稿も御参照頂けると幸いである。
「出版費用明細」は、道学堂の出版に関わる費用を記した文書である。全本文を稿末に翻刻し、記してある年月日ごとに[1]〜[92]までの通番号を振っておいた。翻刻に当っての凡例なども当該部分を適宜御参照願いたい。まず、書誌を紹介しておく。
【形態】半紙本一冊共表紙仮綴じ。
さて、この「出版費用明細」という書名は、表紙の青鉛筆書きからも分かろうが近代の仮題である。が、新発田市立図書館編『郷土資料目録』にその書名で立項され、また表紙からも原題とすべき適切な語句も見当たらないので異をとなえぬが賢明であろう。
また、やはり表紙に「抜書」とある点で、安永八年から文化十三年に渡るまで版行に掛った費用を網羅しているものでもない。実際内容を見ても、省略があるのだろう、前後の脈絡が分かりにくかったり、また確実にその頃の出版にかかるはずの本の記載が無い、といった問題がある。これは残念な事であるが、しかし、かといって本資料が無価値であるわけではないだろう。特に、出版にかかる金額などの記載は貴重と思われる。以下、本資料で注目すべき点をいくつか取上げてゆくことにしたい。なお、[1]等の数字は、翻刻に附した通番号である。
本資料の基本的性格については実は良く分からないことが多い。特に、どの管轄においてこれが記されたものなのか。支払いの段階での控、すなわち出納簿を抜出したものなのか。とすれば、勘定方の管轄にあった文書ということになる。或いは、出納簿から御版行方(藩校の出版局)が抜出したものか。または、そうではなくて、御版行方が出版に掛る費用を計上し勘定方へ提出する際の控のようなものであったのか。等々、良く分からない。例えば[2]を見れば、次のようにあるが、
これは、藩主溝口直養著『勧学筆記』を刊行するため、本文を印刷する五分広紙二千枚の代金銭三貫四百文を、新発田藩儒佐藤八右衛門から申し出があり次第に支払いなさい、この件は安永八年九月十一日に届出られた、という意味である。
新発田藩の資料には、藩の財政全般を記す出納帳のようなものは、郷土資料類を見る限り無いようでもあり、比較もままならぬ以上ここは全くの推測であるが、いささか考えを示しておく。
本資料が文政九年の段階でなんらか藩の収支全体に関わる出納簿のようなものから版行方に関わる記事を抜出したのではないかと思われる。抄出された記事が完全に版行方の出費を網羅していない点などから見れば、その抜出し方もいささか恣意的に行われたのではないか。なお、抄出者は勘定方が行ったか、版行方が行ったかは分からぬが、例えば版行方の過去の業務を振返る等、これをまとめるなんらかの必要があったのだろう。その点では版行方の手になる可能性のほうが高いように思われる。実際、文政九年という年は、翌十年も含め十代藩主直諒が率先して学制の改革を行った年であり、その改革の中には、書籍版行の職務のそれまでの都講の職務から「勉学のため御免」(『御記録』文政九年七月二十五日)として外し、新たに版行方二名を任命したという件がある( 2) 但し書きの部分に数名の人物が見える。これを拾っておこう( 3) 【板倉理兵衛】名は知崇、初め平太郎、後に理兵衛と称す。寛保元年生れ、安永六年家督、天明元年九月十四日御目付、同七年十一月九日番頭、寛政四年五月二十一日武頭、寛政十一年十月十三日御徒支配大目付兼役など歴任。享和二年三月十四日致仕、文化六年六月三日病没、七十歳。藩校の教授役ではないが、本資料に見るように藩版に関わっている。その職歴から推測してもどのような関りであったのか少々判断に苦しむ所が有る。父は彦兵衛(名は行恒)といい、その長男。二男が次項の兵次郎。
【板倉兵次郎】名は弘毅、号は震斎、兵次郎と称す。延享三年生れ、朱子学を学び明和六年八月十五日中小姓に召され三人扶持、翌七年三月十四日二十一歳にして三年間を暇を乞うて京の久米訂斎に入門する。安永四年閏十二月十五日藩校教授役。勘定奉行・郡奉行・御使役などを兼任し文化十二年二月二十二日致仕。文化十三年十月十三日病没、七十一歳。
【佐藤八右衛門】名は尚志、号復斎、八右衛門と称す。寛延二年生れ、寛政三年八月三日没。藩儒、野田剛斎門。父は弥平太(名は安澄)といい、その長男。二男に次項の平次郎、三男に惣蔵(名尚義、後に重遠)、四男に東四郎(名明善)、五男に松五郎(名は懋徳)とあり何れも藩儒として新発田あるいは江戸藩邸で教鞭を執った。
【佐藤平次郎】名は誠明、称は平次郎、後に名を熙明、称を杢右衛門とする。寛延三年生れ、天明元年一月十六日藩校教授役。勘定奉行・郡奉行なども兼任したが文化十四年八月二十六日他職を免除して教授専一に勤むべき旨を仰せ付けられる。文政八年二月二十三日致仕、文政十年八月二十九日病没、七十八歳。幸田子善門。
【井上兵馬】名は行恒、兵馬と称す。寛延四年生れ、安永八年藩校都講、天明三年八月十七日教授役。普請方・賄方・御金地払方なども兼任。享和三年十一月二十三日江戸藩邸にて病没、五十三歳。久米訂斎門。
【清治宗之丞】『資治通鑑綱目抄略』の筆耕として見える人物である([25][38])。名は維徳、字は子裕、号は牧山、宗之丞と称す。北蒲原郡松浦村川北組浦新田の名主の長男に生れたが、学問に志し弱冠にして弟に譲り京都に遊学すること数年、学成りて新発田藩に仕える。九代藩主溝口直養は領民の教育のため領内各地で定期的な勉強会を開くという制度を作り、その講師は領民のなかで篤学の者が勤めた。これを社講といい、宗之丞もその一人である。『御記録』安政七年五月十四日に、ほか三人とともに「不絶致講書奇特成義に付」き、四書・小学・白鹿洞掲示の諸書を下賜されている。また同月十八日には「浦新田名主伜宗之丞に講釈いたさせ」云々という記事も見え、これが社講となった年と考えてよいか。詩を能くしたが、中年に至って異疾を得、享和元年十一月八日没す( 4)
一、「出版費用明細」について
【表紙】共紙で「文政九戌年/安永八亥年より文化十三子年迄/御版行彫刻其外紙代諸品代/追々御断書拔/六月」と打付書き(墨書)。
また「出版費用明細」と青鉛筆で記される(近代後補)。
【構成】墨付き二十五丁(表紙含む)。毎半葉およそ七行。上下をほぼ二段に分け、上段に金額、下段にその費目を記す。
【所蔵】新発田市立図書館(郷土資料)請求番号 V00-36
【備考】筆跡は一人の手になるものであり、表紙に見える「文政九年」の段階で一時にまとめられたものと思われる。
二、成立について
[2] 安永八年亥年九月十一日御断
一 銭三貫四百文 五分廣紙 弐千枚代
但御筆記板行物御入用佐藤八右衛門方より申出次第相渡訳
三、関連人物
○
ほかに坂部道賀[30]・坂部次郎右衛門[80]、新観[14]という人名が見えるが、不明。両坂部は同一人物かどうか。一方は筆耕で、清治宗之丞などと同格の学術的な作業であるが、他方の「直し」は「道具」を用い、また[83]でも見えるので職人仕事であろう。その点、同一人物たりえぬように思う。また、これ以外に都講[9][15][88]、普請奉行[8][19]、御納戸方[1][ 6]の役職名が見えるが、一番多いのは御版行方である。御版行方については概要を前稿で記した。都講は藩校において言わば助手のような役職である( 5)。文政九年に藩版事業が都講から版行方の統括になったことは先に述べた。
次に本資料に見える書名について見ておく。ゴシックで掲げた文字が資料中での表記で、適宜通番号を併記した。このうち、小學(倭板小学)[11][87]、四書(倭板四書)[88]、近思録[92]については前稿で既に述べたので省略する( 6)
四、書目
○御筆記[ 2] 八代藩主直養著『勧学筆記』である。この著を「御筆記」と呼ぶ用例は『御記録』などにも多い。因みに後述の資治通鑑綱目抄略なども通鑑御抄略などと呼んでいる。大本一冊、墨付き八丁、遊び紙前一丁。後表紙見返に「安永己亥秋 越後新發田 藤間得康謹刊」とある。初見は新発田市立図書館蔵本・請求番号V09-424(以下、V09- 番代の本は総て同館所蔵本)。
○敬斎箴[ 4][ 8] 既に阿部隆一の的確な紹介が有る( 7)。『敬斎箴』には明暦元年刊本(全十六丁)、およびその覆刻の江戸前期無刊記刊本があり、新発田藩版は後者の忠実な翻刻(覆刻ではない)。「刊記はないが、崎門学の信奉者たる新発田藩主溝口浩軒が刊刻せる闇斎校点本の一つで、板木が今も新発田に残っている。単辺(一九×一四・三糎)無界七行一三字、注小字双行。版心白口双黒花魚尾「敬斎箴(丁付)」。藩が盛んに崎門関係の出版を行った安永年刊か天保頃の刊であろうか。」と記す。匡郭は一丁オ(序丁オ)でなく内題下(本文初丁)を計っている。板木は溝口氏菩提寺寶光寺の経蔵に保管されており、御住職の御厚意により一部を拝見した。全十八丁。初見はV09-760。同館には江戸前期無刊記本(V09-761)もある。
○活字版四書[22] 新発田市立図書館などには現存せず未見( 8)。活字版
四書は『御記録』安永九年二月二日に「御家中一統町在へ申達趣」という
記事があり、これが活字版四書刊行の嚆矢であろう。
一御家中より町在迄学問心懸候者、次第に相増候得共、末々に至ては
学問志候者も、書籍の用意いたし兼、不得已延々に罷成候義可有之哉
と被思召、於京都活字板被仰付、此度致出来候付、末々迄貧窮にて四
書相調候義、心外いたし兼候者へ、可被下置候間向々支配頭町在方は、
庄屋検断社講共兼執心の者得と遂吟味可申立候。尤右体の者へは四書
全部成共又は大学論語孟子中庸の中一色充成共、願次第可被下置候間、
等閑にいたし不置、支配下の者落無之様に相糺、来る廿日迄に山嶋組
々は三月朔日限以書付都講迄可申立候
一活字板四書の義故、訓点無之候間、其組社講共に有之嘉点の訓点に
したかひ誦読可致候
本資料[22]は天明三年七月「此度活字版四書近思録緘方皆出来」とあるが、これは数年を掛けて摺っていたと、取敢えず考えておく。また、右の引用から京都へあつらえていることが分かるが、実際にはどうやら御版行方の職人も植字・摺版に携っているらしく、京へ出張したか、あるいは摺版の現場を京都から新発田に移した可能性もある。
というのも、前稿注8でも示したが、これに触れた佐藤八右衛門の上申書「覚」(V00-5)がある。未紹介でもあるので引用しておく。仮名漢字、平出は原文のまま。読点を附した。ただし難読箇所が有る( 9)。冒頭の「去子春」は安永九年二月である(明和五年は時期が早すぎ、寛政四年は八右衛門の没後)。
覚
一、去子春中被仰付四書活字板之義、来十一月中ニ者全部摺立出来仕、御家中より町在迄相願候者へ御渡方相済候由、朱子集注之四書一統〓渡リ、御領内末々之者迄所持仕候段、御太造之
思召立被為成、御成就御悦喜被遊候、其上活字板者文字植立並摺方ともに六ケ敷、〓〓労成義ニ御聞候所、御板行方之者出精仕数百部之四書早速出来仕候間、御板行方之内未召抱御家中奉公等仕罷有候者共、其人相応ニ被召抱可然候、乍去御当節大勢一度ニ被召抱候にも有御望間敷ニ付、明キ跡等御望之節追々被召抱、活字板行方相勤骨折候段、相立て御仕向け御望〓勤功相立候義故、此後段之御板行被仰付候物摺方励にも相成可然哉ニ
思召候事、右之通申上候様被仰付候ニ付、昨日御意之段口上ニ而申
上候所、書付差上可申とて被仰聞候間、則御板行方名前書付壱通相添別
書之通書付差上申候
以上
十月十三日 佐藤八右衛門
○活字版近思録[18][22] これも現物は未見である(10)。常識的に考えれば、整版の『近思録』に先立って刊行されたと思う。確証は特にないが、先述の四書も活字版が整版に先立っている。
○通鑑抄略[25]、通鑑綱目[38][80]、通鑑御抄略[86] これはいずれも同一で『資治通鑑綱目抄略』であろう。大本十六冊(正編十三巻十三冊、続編三巻三冊)という大部な本である。新発田藩版の多くが全一冊程度の薄い本が多い事を考えると異質な印象がする。無刊記。「天明四年孟春/浩軒」とする藩主溝口直養の序文を持つが、本資料によれば数年を掛けて清書がなされているようである。事実、本文の書体は明朝体(一〜五巻、九〜十三巻)・宋朝体(六〜八巻)・楷書(続編)と一貫しておらず、数の手になるか或いは多年に渉った事を示している。所見は内閣文庫本(別20-2)だが、渋染めの地に菊小紋の艶出し、丁子色の花布も附し、豪奢とは言えないまでも新発田藩版には似合わぬ美麗な装丁だが、恐らく原装と思う。寛政十二年三月[86]に「表紙下紙」(見返に貼る紙であろう。一冊に二枚使う勘定になる)を四百枚漉いているが、十六冊分に使えば、十部強にしか作れない。この時は後刷りをしたのではなくて、献呈本か何かしらの理由で装丁仕直したのではないか。
○續儀礼経伝通解[34] 『儀礼経伝通解続』である。全二九巻二〇冊。前稿注9でも触れた。補足すると、「天明二年壬寅冬十一月/皇都/山本平左衛門/林権兵衛/梓行所」(20冊目62丁ウラ)とあり、天明二年刊とすべきなのだが、天明六年に同書肆に「版行出来仕候ニ付被下」というのは時期が少しずれている。或いは、刊記とは別に天明六年が刊行年なのか。
○国字筆記類[87] 新発田藩版のオリジナルの刊行になる崎 門儒者の仮名文集成『諸先輩国字筆記』である。前稿注22で概略を記した。
○四箴附考[89] 町版で無刊記本が一種類知られているようであるが(11)、新発田藩版はこの精確な覆刻であるが、送仮名に少し違いが有る。無刊記。
○程子論性諸説[89] これも町版からの覆刻である。町版では一種類を確認した(12)。四箴附考ともども、文化十二年以降の刊行であることが分る。
【附記】成稿にあたって、新発田市立図書館・小浜市立図書館の方々のご高配に感謝します。特に、両館とも電子コピーによる複写を快諾して頂き、異版調査で大変有益でした。また、廣澤山寶光寺御住職、新発田市教育委員会・高橋礼弥氏にも御教示に与りました。記して感謝申し上げます。
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