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[森川許六] [山東京山]


もりかわ きょりく
森川許六
一六五六(明暦二年)〜一七一五(正徳五年)

[概説]:

江戸時代前期の蕉門俳人。本名は森川百仲(ひゃくちゅう)、近江彦根藩士で三百石を領した。別号は五老井・風狂堂・碌々庵・菊阿仏など。生来多能にて槍剣・漢詩、特に絵画に優れ、俳諧は初め季吟流のちに常矩門に学んだという。家族の死なども原因して、元祿二年(一六八九)頃から閑寂美を専らとする蕉門俳諧への傾倒を強め、同五年江戸深川で芭蕉と対面。その軽みの境地を高く評価され『白砂人集』の相伝を受ける。一方狩野安信門の絵画の力量は芭蕉に師と仰がれた。元祿七年(一六九四)芭蕉死後、蕉風俳諧の本質を闡明せんと尽力し、盟友李由と『宇陀法師』等を共撰。元祿十・十一年には去来と(『俳諧問答』)正徳四・五年には野坡と(『許野消息』)それぞれ書簡論争を行い、血脈説・取合せ論を中心とする俳論を展開する。また蕉門俳文集の嚆矢『風俗文選』『歴代滑稽伝』纂編という大事業も手懸け芭蕉の遺志を全うした。正徳五年、六十才で没する。

[逸話]:

  1. ○許六の絵画は狩野派に属し、狩野安信に学んだと言われている。ある時芭蕉が問うて言った。「絵画は何の為に好むのか」。許六は答えて「俳諧の為に好むのです」。「俳諧は何の為の好むのか」。すると許六は「絵画の為に好むのです」と答えた。これは学ぶ所を二つにして、肝要とする所は一つである、との謂いである。君子は多能多芸を恥じると言うが、根本的な目的を一つとするこの態度には学ぶべきである。(竹本石亭『石亭画談』)

  2. ○ 秋の暮れ客か亭主か中柱  芭蕉

    芭蕉は、江戸赤坂の井伊家の屋敷に許六を訪ねた。許六はたまたま留守にしており、彼の帰るのを待っていた時に、芭蕉が詠んだ句がこれである。その中柱というのは今でも残っていて、芭蕉柱と呼んで井伊家が宝蔵しているということである。(夏目成美『随斎諧話』。遠藤曰人『蕉門諸生全伝』)

  3. ○許六は、芭蕉の没後、芭蕉が愛でた桜の木を伐って肖像を刻み、大津の智月尼に贈った。その添状は次の通りであった。

     ゆかしき折、消息御無事にて大慶に存じます。私は病床にてすっきりいたしません。師の像を刻むのも延び延びになってしまいました。このたび、師も手をお触れになりました我が庵五老井の古木で、像を刻みました。かねてから立派な像を刻みたいと願っておりましたが、病気のためにかないません。なおまたお目にかかろうと存じます。 不備

      霜の後像に添ゆべき菊もなし

     十月三日             許六

        智月尼様

    このように、師の深い恩を忘れなかった。(竹内玄玄一『俳家奇人談』)

  4. ○許六は世間では、自負放言の人と思われているが、実際は温厚謙遜の人であったようだ。ある時、一人の武士が許六に俳諧の指南を乞いに来たが、許六は承知しなかった。武士は「私に才能が無いと思っての事ですか」と多少あららかに問い正すと、迷惑がって「そうではない。私には俳諧を人に教える程の心得もないからです」と答える。武士は怒って「それは嘘です。御著作を熟読するに、芭門俳諧の正統を受け継いでいらっしゃる方は君一人でございます。だからこそ教授を望むのです」。許六はそれを聞いて言った。「まさか、そんなことはありますまい。あの著作はみな一時の戯言に過ぎませんよ。あの類を真実とお思いだとしたら、全く痛み入ります。もとより根無し事ですから、あんなものに騙されてはいけませんよ」。武士は閉口して帰っていった。この話を思うに、己をほこり他をそしる輩の多い中で、許六はよく俳諧の境地に遊んでいるというべきである。(夏目成美『随斎諧話』)

  5. ○許六は晩年に癩病を煩い、人に対面しなかった。たまたま俳諧の教えを乞う者が面会を求めても、屏風を仕切って話をした。ある時、名古屋の生駒万子が馬で駆け付け、面会を求めた。許六は「どうして屏風越しで話ができようか」と、病床のまま、明るい障子の際で対面した。眉がただれ落ちた許六の姿は、仇討ちの為に漆を塗って癩となった晋の予譲さながらであった。終日蕉門の正統を語りあい、女童に酒を用意させて許六は言った。「私はこの病を煩ってから、妻子にさえ恥じる気持ちでいた。が、今日あなたに対面して少しも恥ずかしく思わない。これはあなたの人徳によるものだ。あなたは今、各務支考を師匠としているが、蕉門の正統に関しては、師匠はこの私であるのだよ。あなたに盃を差し上げよう」と、溢れんばかりになみなみと注いで、自分で口をつけてから万子に差し出した。すると、癩病のため許六の唇が盃の欠け落ちてしまい、臭気が強く、飲めるような酒ではなくなってしまった。しかし万子は近くに寄って盃を受け取り、とくとくと飲んで喉をならす。その様子は、芸妓に酌をとらせて、朱雀の花に向かっているかのような様子であった。許六は涙をおさえ、「あなたは全く風雅の大丈夫であるよ。こんな人のために何を惜しむものがあろうか。どうせ私はこの病で余命いくばくもないのだ」と、長の別れの言葉を万子に残した。(建部綾足『芭蕉翁頭陀物語』。なお竹内玄玄一『俳家奇人談』に同趣異聞あり。)

  6. ○許六は終生自身の才能を自負し、他はとるにたらないものと考えていた豪傑の修行者であった。芭蕉翁の腹中に足駄を履いて踏み込めるのは我一人だと高ぶり、また臨終に際してはこんな狂歌を詠んだ。

     今までは下手が死ぬぞと思ひしに

      上手も死ねばくそ上手なり

    老いて後も膚もたゆまず、その自負の姿は自撰の『風俗文選』『篇突』『韻塞』『宇陀法師』などにも窺える。今の世にも自負する者は多いが、殆どが慢心から出て、人をそしり自分の句を採ることを旨とするため、あらぬ道に走ったり、年齢とともに気力も衰えたり、自負が却って人の笑いの種となる。が、許六はこれと異なる。風流から出て最後まで風流を忘れなかった。始めも終りもなく、宛転たる環のようであった。誠に仰ぐべき自負の姿である。(高桑闌更『俳諧世説』。なお早川丈石『誹諧家譜』、竹内玄玄一『俳家奇人談』等に同趣異聞あり。)


 





さんとう きょうざん
山東京山
一七六九(明和六年)〜一八五八(安政五年)

[概説]:

江戸時代後期の合巻作者。本名は岩瀬百樹(ももき)。字は鉄梅、通称は相四郎・利一郎、号は覧山(らんざん)・鉄筆堂・山東庵・凉仙など。明和六年、質商伊勢屋伝左衛門の二男として生まれる。母は大森氏。実兄は山東京伝。幼少より漢学・書を学び、寛政三年二三才で町医鵜飼氏の養子となるが寛政十一年に離縁、文化元年頃には書家佐野東洲の婿養子となるも同三年頃離縁。後に田村養庵の娘くみをめとり、筆之助・京水らをもうける。兄京伝の死後、紙煙草入を商う京伝店を文化十五年筆之助に相続させ、自らは後見人となって繁昌させる。文化四年(一八O七)の合巻『復讐妹背山物語』が処女作。篆刻・茶の湯を手懸けながら、安政五年九十才で没するまでに百六十余の合巻を執筆、代表作は『墨田春芸者容気』『大晦日曙草紙』『教草女房形気』等、平明で教訓的な作風を持つ。『歴世女装考』『高尾考』などの考証随筆もあり、また鈴木牧之著『北越雪譜』刊行等、江戸戯作界での世話役的存在でもあった。

    [逸話]:

  1. ○文化年中、処女作を発表した後のことである。京山が、儒学者山本北山を訪ねた。北山が言うには、「あなたは京伝の弟であるが、京山と号するのは甚だ宜しくない。兄弟で京の文字を使っているが、京京とは憂いが去らない様を意味する言葉だ。改号したほうが宜しかろう」。しかし、世間には既に京山の号で知られてしまっていて、結局改号は果たせなかった。数年の後、兄京伝を亡くすという憂いを見ることになるが、これを偶然と言ってしまえるだろうか。(曲亭馬琴『伊波伝毛乃記』)

  2. ○京伝の没後、曲亭馬琴は京山を訪ねることが全くなかった。だから、京山も馬琴を訪ねることをせず、十年以上顔を見なかった。ある年、芝明神前の甘泉堂和泉屋市兵衛という地本屋が亡くなり、その葬式の折、増上寺で京山は久しぶりに馬琴に逢った。昔と変わらず楽しく歓談した。ただ、馬琴は剃髪してひどく老衰してあり、それを見た京山は大変驚いたとのことである。(鈴木牧之宛鳴蛙樵者書翰「蛙鳴秘抄」、天保元年頃。森銑三『近世人物夜話』。および鈴木卯三郎「馬琴の側面観」・ゆまに書房『江戸時代文化』巻三所収。差出し人である鳴蛙樵者は京山その人らしい。)

  3. ○京山が越後に遊んだ折、小千谷の岩淵家に滞在した。岩居と号する若い息子は、京山を厚くもてなし、信濃川の鮭を天麸羅にして御馳走してくれた。京山が聞いて「これはこの地方では、何と言う料理か」と言うと、岩居は「テンプラと言いますが、理由は村の古老も知りません。先生には何かお考えがありますか」。京山は、「食事が終わったら、その由来を聞かせよう」と言い、先ずは鮭の天麸羅を味わった。

    さて、京山が言うには、「五十年以前、天明初年に大坂から欠落ちして来て、我家の裏に住んでいた利助という男がいた。利助が『魚肉のつけ揚げを夜店で出そうと思うが、何かよい名前はありませんか』と尋ねると、兄京伝は天麸羅という文字を書き示して『そなたは現在天竺浪人。ふらりと江戸へ来て売り初めるから、天ふら。また麸は小麦粉の意、羅は薄物。小麦粉の薄物をかけたとの意味だ』との言葉。利助も洒落者で、大喜び。夜店の行燈には子供だった私京山が文字を書いた。一月もたたぬ内に追随する者が出るほど流行して、今ではこの小千谷にまで名前が広がったわけだ。しかし、京伝翁が名付け親で利助が売り初めたなどとは、いかなる碩学鴻儒でさえも知らないであろう。天麸羅の講釈をするのは、天下に我一人だ」と戯れると、岩居も手を打って大笑いした。(鈴木牧之著・山東京山増補『北越雪譜』二編二之巻。天麸羅の来歴講釈は、京山『蜘蛛の糸巻』にも見え、彼の十八番の一つと言える。)

  4. ○京山の妻くみは、三度の食事毎に飲酒が習慣化しており、朝昼はグイ呑み、夜は六時頃から九時頃まで伏したり起きたりしながら呑み続ける。私村田と女中とで交代に、肩や足をもんだりして相手をするが、長い酒なので、こちらは肩に攫ったまま寝入ったりする。余計に肩が凝りそうだが、決して小言はいわない。酒は樽で付けていたが、京山は一滴も呑まない。「自分が呑まないのに女房の酒を樽で付けるというのも外聞が宜しくない。何度でも買いにやれ」と、京山は樽で付けるのをやめさせた。(村田代次郎談。三田村鳶魚「京山の妾因妾果」・『三田村鳶魚全集』第十七所収。嘉永安政の頃の話であると言うから、京伝の最晩年である。)


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初出 :『世界人物逸話大事典』角川書店(1996年 2月)

(c)高橋明彦 1997年2月3日 HTMLによる公開