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新発田藩版とその版木
新発田藩版書の版木が当地の廣澤山寶光寺に遺蔵されている。寶光寺は藩主溝口氏の菩提寺である。版木は明治維新時に一度県へ接収されたが、新発田市民の熱意によって払下げが為りその後寶光寺内の経蔵に遺蔵される。これらの遺蔵板木は、新発田市教育委員会により昭和四十三年に一度調査がなされ、また近時再調査がなされた (1) 。私も所蔵者である寶光寺ご住職寺前敬道氏のご許可と市教委のご厚意により、平行して再調査をさせていただくことができた。九八年十月現在、版木は新発田市民俗資料館に置かれており、教育委員会の先生方の手によって作品毎に分類されている。十枚一組くらいで紐が掛けられ、分別のための札が付けられている。 これは大変参考になった。記して感謝いたします。 今後版木は再び寶光寺において保管されることになるそうで、寶光寺でも準備をされている。
[画像]民俗資料館に置かれた版木のたば(1)83Kb
[画像]民俗資料館に置かれた版木のたば(2)28Kb
一、版木払下げ一件
さて、これらの版木は、残念ながら藩政時代の版木が総て残っているわけではない。明治維新のごたごたや新発田市への払下げ後にも散佚の憂き目をみているからである。まず、この払下げについて記しておく。
明治維新により藩の財産は一旦すべて県に接収され、版木も県の管理下となった。その後、明治十五年に三之丸学校での教育に使用したい旨を願い出、一旦貸与がなった。しかし、版木はこの時点で散佚したものや蟲損甚だしきものがあり摺版はなされなかったようで、そのままほうって置かれたらしい。そして、明治二十九年から三十年にかけて、旧新発田藩士窪田武安らが尽力し、あらためて新発田本村で買取ったのである。これら一連の経過を示す文書類に「版木払下願書」という資料が現存する(新発田図書館・V00-49)。県とのやり取りの公文書の控えや、版木のリストなど、二〇数点の文書が残る。これらのうち、「窪田武安ヨリ/版木御払下請願書類 一綴/明治廿九年十月改 村長控」と墨書がある共表紙の綴りが最終的な形を残すものと思われる。全十一葉 (2) 。 このうち四〜五葉目の「道学堂蔵版目録」と十葉目の「版木払下之儀ニ付願」を翻字しておきたい。新字体に直し、句読点を附した。( )は高橋の補足。〔 〕は別資料により訂正したもの。
道学堂蔵版目録 一旧刻白鹿洞 全五枚 一新刻白鹿洞 全弐枚 一四書 全三百五十七枚 一大学或問 全拾九枚 一中庸輯略 全五拾六枚 一近思録 全九拾四枚 一五経 全三百枚 一家礼抄略 全弐拾六枚 一朱子行状 全三拾五枚 一道学標的 全五枚 一鞭策録 全弐拾八枚 一排釈録 全弐拾六枚 一鬼神集説 全拾八枚 一敬斎箴 全拾枚 一冬至文 全三枚 一四箴附考 全七枚 一程子性論(ママ)諸説 全五枚 一学者論 全七枚 一四書活字版 全壱箱 一農家心得 全拾枚 以上廿通旧知事(旧藩主)納戸費ヲ以彫刻セシメ学校ヘ付与致シ置管内学問有志ノ徒願出候節分職〔賦〕致来候事 一人民告諭 全拾八枚 但御布告ニ付彫刻 一小学 〔全七拾枚〕 但旧知事納戸費ヲ以テ従来彫刻ノ版木磨滅多ニ相来不用立辛未(明治四年)年公費ヲ以テ再刻 一朱子書節要 三拾枚 但公費ヲ以彫刻中之所廃校ニ付止候事 〆
この資料は明治での版木の状況を示していて貴重である。が、これはいまの現状とは必ずしも一致しない、それも単純に減っているわけではなく、『憑几録』『諸先輩国字筆記』『春秋四伝抄略』『資治通鑑綱目』など現存する版木がここにリストアップされていない、等が不審である。詳細は分からぬが、それらの版木は或いは接収されず新発田に残されたままだったのか。あるいはまた、この明治三十年以降に新発田に払下げられたのか。
さて、このリストによって確認される事がいくつかある。例えば『白鹿洞学規集注』は新旧二版があること、これは既に前稿でも述べたが、この資料によってより明確になる。尤も、現状ではこの版木は一枚も残っていない。また、『小学』も新版があり明治四年になっても彫板していたことは新事実であろう。旧版『小学』の版木は明治の段階でも無かったと思われる。また「四書活字版壱箱」というのも興味深い。高橋礼弥氏などに伺ったところ、この活字の存在は聞いたことがないと言われ、昭和に入ってからはもはや散佚していたのであろう。活字版四書については、すでに前稿でも触れたが、始めは京都の書肆の委託していたが、後には藩内でも植字したのである。
次に溝口名儀の願書を掲げる。
版木払下之儀ニ付願 旧新発田藩道学堂蔵版之儀、別紙目録通、県庁江引継ニ成タル分、三之丸校ノ願ニ因リ、貸下ニ相成居タレドモ、当即不用ト相成絶テ摺立モ不致、相当手入ヲ加フルモ漸次蠢蝕スルヲ不免ニ付、此際返上ノ談モ有之。元来右版木之儀ハ、祖先直養代中山崎学ヲ純信シ道学堂ヲ設置シ藩士ノ子弟ヲ入校セシメ市在講席ヲ設ケ、普ク道学ノ旨趣ヲ聞カシム為メニ学ニ志ス徒日々月ニ増加スルモ、尚書籍ノ乏キヲ憂フ時ニ藩政多端ノ折ナレハ自ラ納戸金ヲ出シ版木ヲ彫刻シ書籍ヲ製シテ志願者ヘ分与シタルヲ以テ、全ク領内読書セサル者ナキニ至レリ。然ルニ時勢ノ変遷ニ遭遇シ右版木不用ト相成、遂ニ朽腐スル場合ニ至ルトキハ、祖先ノ深志ヲ空クシ不安儀ニ付、相当代価上納、払下ヲ請願シ、永ク庫中ニ保存シ聊カ祖先ノ志ヲ継キ、将来志願者アルトキハ摺立相渡度ニ付、願意御聞届相成度。此段請願致候也。 東京市麻布区麻布市兵衛町 壱丁目三番地 従三位伯爵溝口直正[印] 明治三十年十月三十日 新潟県知事勝間田稔殿
この資料によって、この段階でかなり蟲損・散佚があって、恐らくはもはや版木としての機能を全うできるものはあまり無かったのではないかと推測される 。
二、福井久蔵本『新発田侯開板評議』
次に紹介しておくのは、国文学研究資料館蔵の写本一本である。福井久蔵筆の臨模写本。半紙本一冊、縹色地亀甲繋艶出表紙。全三六丁。外題に「新発田侯開板評議/溝口直養侯疑問/全」と書き題簽。二著を合冊してある。一丁オ左寄りに「文政丙戌年五月/開板評議並再評及蔵板調」云々と墨書。二丁目から本文が始り「開板評議」との内題を持つ。印記に「福井氏蔵書印」(二丁オ内題下)。大名研究で知られる氏はこうした貴重な資料の収集で知られ、臨模した写本を多数有しているとの由である。特に文政九年時での藩版の開板時期を調査した部分が有効で、今まで微細な資料からモザイク的に構成してきた開板時期について、ここでは一覧表になっている (3) 。当該箇所は四丁ウから六丁オに掛けて存する。但し難読箇所有り。
[画像]『開板評議』4ウ(誰か、難読箇所を読んでください)83Kb
○右評議已前、都講方江講堂蔵板之書開版年月日御調□□候様申付置候処、戌二月中六日出候ニ付合候所左之通置之 一 礼書御抄略 安永五申五月御開板 一 昨非抄 同六酉九月 一 白鹿洞学規 同七戌六月 一 勸学筆記 同八亥五月」(4ウ) 一 敬斎箴 同八亥八月 一 御講学筆記 中庸小学 同九子三月 一 幼君輔佐心得 同九子五月 一 小学 同九子五月 一 綱目御抄略 天明四辰五月 一 静座集説 寛政十二申七月 一 四書嘉点 享和三亥四月 一 程子論性諸説 文化十二年亥十二月 一 四箴附考 同亥十二月」(5ウ) 一 近思録 同十四丑六月 一 活字板 但四書近思録 彫刻年同子相前 尤活字之義は安永 七戌八月京都分被取処 一 春秋四傳御抄略 彫刻年同前 尤序は安永九子五月 一 学者論 山野辺友意蔵板之処文化十二年亥 十一月講堂預ケに相成彫刻年同子相前 一 道学標的 同前 一 先輩国国字筆記 但左之通 おたまき 佐藤先生国字筆記 聖学図講義 尚斎三宅先生国字筆記」(五ウ) 佐藤先生語録 与興津氏女書付 迂斎先生学話抄略 同語録抄略 同国字筆記 剛斎野田先生国字筆記
三、新発田藩版書の書誌とその版木
以下、版木が現存する作品について、当該書の書誌も含めて記してゆく。まず、版木の記述について凡例めいた事柄を記す。
【諸先輩国字筆記】 溝口浩軒編。安永九年以降成立。闇斎学派諸賢の仮名文の一大集成すなわちアンソロジーであり、本書により初めて刊行された著作が殆どで、貴重な業績である。現存版本も少なからず存在し、他の藩版書よりは藩外にも流布したものと思う。新発田藩版書を代表する出版物と言って良いだろう。このアンソロジーの所収作品はそれぞれ版式も微妙に異なり、また各々独立していて、単独での刊行も可能なように出来ている。それゆえ、現存諸本の比較に於いてはこの『諸先輩国字筆記』のほか、単独で冊子化されたもの(当然書名も異なる)も考慮する必要がある。また、同じ『諸先輩国字筆記』という題を持っていても、その所収が微妙に異なるものも存在している。
さてこの『諸先輩国字筆記』は、最終的な形としては三冊本であったと思われ、その形を完全に保っているものに、架蔵の一本がある。書誌とともにその内容をまず示し全体像を示しておく。
[画像]架蔵本『諸先輩国字筆記』1オ「抄出先輩筆記目録」と表紙・題簽(33Kb)
本書冒頭に「抄出先輩筆記目録」とあるが、これは内題ではない。この部分は全二丁の小文で、文末に「安永庚子三月 浩軒識」すなわち編者八代藩主溝口直養による安永九年の年記を持つ序文兼目録である。文中で所収作品も示し、列記すれば「おだまき/佐藤先生国字筆記/聖学図講義(以上一冊目)/尚斎三宅先生国字筆記/佐藤先生語録/幼君輔佐之心得/与興津氏女書(以上二冊目)/迂斎先生学話抄略/迂斎先生語録抄略/迂斎稲葉先生国字筆記/剛斎野田先生国字筆記」とある。これは実際の所収に合致し、目録と内容とが一致する完本である。
表紙の相違の他、A本と「剛斎野田先生国字筆記」が重複する点、取合わせ本と考える。このB本は「抄出先輩筆記目録」を持ちながらその所収内容が一致しない点から、三冊本完成後に新たに装丁されたダイジェスト版のようなものではないかと思われる。なお、「佐藤先生国字筆記・講近思録為諸生記」と「孟子曰舜発於〓畝之中章」は、浩軒の序に言う「佐藤先生国字筆記」の一部に含まれるもの(後述)。
次に、各々の所収作品について、その版式と残存版木を示す。また、単独で刊行されたものがあるのでそれも触れる。版木は端食も無く一部を除いて二糎程度の薄いものが殆どである。
たった二丁の文章だが、これを一冊の本として単独刊行したものが有る。新発田図書館に一本あるのみだが(番号、V09-428)、摺題簽「抄出先輩筆記説」(四双)を備えていて、前後に遊び紙各一葉を配している。原装。これは出版意識を持って作られたものであり、たまたま誰かがこれだけ抜出して別に綴ったものではない。
これも単独で刊行されている。確認したのは新発田図書館本の二本だが、一本(V09-493)は大本一冊枯葉色無地表紙(二五・七×十八・〇糎)、一本(V09-493a)は大本一冊檜皮色無地表紙(二六・一×十八・〇糎)で、中味は同版、文字の欠け状態や墨の乗り具合いなどより、印(摺り)も同じ頃と思われる。
以上三本はそれぞれ所収を異にするが、ウは今対象外として、アのほうがイより早印である。
さて、以下で各々所収作品について示す。版心の丁付には飛び丁などは無く、みな実丁数に対応している。
(以上が、「佐藤先生国字筆記」)
この「聖学図講義」のみ、匡郭を持ち版心に魚尾を備える等、版式が極端に他の作品と異なるが、どうも覆刻らしい。覆刻の原版の所見は小浜図書館本 (4) で、匡郭が二一・〇×十六・〇糎。無刊記本。
(以上が、「佐藤先生語録」)
同版での単独刊行本あり、新発田(V09-222a)大本一冊桧皮色無地表紙。原摺題簽「幼君輔佐之心得」(四双)、見返白紙、遊び紙前一葉、ほか全二十三丁。
刊記で分るとおり、この書は本来町版であった。とは言ってもおそらく純粋な町版ではなくて、藩の肝煎により出版せしめたものかと思う。彫板あるいは刊行の後、版木が版に引取られ、藩内でも摺刷されこの叢書の一部に加えられた、と見る。なお、本書の版木はみな四〜五糎ほどあり、かなり厚い。
同版での単独刊行本あり。新発田図書館蔵(V09-221)。大本一冊、檜皮色無地表紙。無窮会図書館織田文庫本も同版、但し改表紙。
単独刊行本に、無窮会図書館蔵(織田1542)、大本一冊、憲法色無地表紙。早印と思われる。新発田図書館蔵(V09-228)、大本一冊、檜皮色無地表紙。同蔵(V09-228a)、大本一冊檜皮色無地表紙。文字などが欠けており、後印。
単独刊行本に、新発田図書館蔵(V09-229)、大本一冊桧皮布目地表紙。同蔵(V09-229a)、大本一冊、憲法色無地。後印本。ほか先掲の内閣文庫蔵本(「佐藤先生国字筆記」)がある。
単独刊行本に新発田図書館の三本がある。初印と思われるものは請求番号 V09-230c の一本。大本一冊、憲法色無地表紙。題簽欠。二印(V09-230a)は大本一冊、茶色無地表紙。題簽は黄色地に四双「(同題)」。後印(V09-230b)は大本一冊、茶色無地表紙。題簽は二印と同版ながら白地である。
単独刊行本に、新発田図書館蔵の三本。一に請求番号V09-488、大本一冊、檜皮色無地表紙、題簽後補。遊紙無し。二にV09-488a、大本一冊、憲法色無地表紙、題簽は後補ながら、本文の中に別に題簽が挟みこまれていた(黄色地に四双「(同題)」)が、該書の物かどうかは判然とはしない。遊紙前一葉。三にV09-488b、大本一冊、渋引表紙、題簽欠、遊紙前一葉。三本とも摺りはよくないが、二には文字の欠けなどもあって、特に後印かと思われる。
(以上が、『諸先輩国字筆記』)
【礼書抄略】 溝口浩軒著。『新発田侯開板評議』では、「安永五申五月御開板」と有る。以下の二本を見た。
内閣文庫本(別20-4)。これは後述する『春秋四伝抄略』『資治通鑑綱目』『續資治通鑑綱目』と合せ、幕府に献上されたもので、紅葉山文庫本として登録されている。またこの四著を収める書箱も所蔵していて、普通なら閲覧は難しいとのことだが(箱には請求番号もないので)、特別に見せて頂いた。箱の蓋のオモテに貼り紙があり、墨書で「春秋四伝抄略五本/礼書抄略十三本/資治通鑑綱目十三本/同続三本/献主/溝口主膳正」とある。主膳正すなわち直養であるが (5) 、献上の年記は分からない
さてこの本は、大本二十四巻十三冊、原装、表紙は菊小紋艶出に薄く漆を塗ってある。丁子色の花布。帙入り。原題簽は「(同書名) 幾」とあり各冊とも同版で「幾」の部分のみ墨書。見返は白紙。遊び紙が各冊前後各一葉。料紙は厚手の楮紙。他の藩版書が実に質素簡略な造本であるのに対して、献上用のこちらは全般に美しく仕立てている雰囲気がわかる。退蔵されたのであろう、全く手ズレも無く仕立てたままの美本と言ってよい。但し、本文は巻によって字体が変化するなど(巻十五まではほぼ楷書、巻十九までは細い明朝体、二十巻以降は宋朝体)、不揃いの感は免れない。これは数人の筆耕により多年に渉って作られてきたことを物語っている。また、汚い墨溜りこそ無いが摺りは概して甘いし、本の綴じ方も下手でノド側がきつすぎるのか、帙もノド側とミミ側とで深さが違うという代物、こうしたちぐはぐさも地方版の愛すべき味だろう。前付に「礼書抄略序」〜「安永丙申仲夏/浩軒識」、「抄略経伝諸書説」〜「安永己亥夏浩軒/某操筆東都之邸」。何れも浩軒自筆の摸刻で、彫りは見事である。無刊記、後付も無し。その他、本文の版式は版木とともに示す。
次に、新発田図書館蔵本(V09-514)。大本二十四巻十三冊。原装、六冊目まで檜皮色無地表紙、七冊目から憲法色無地表紙。内閣文庫本に比べて簡易な装丁である。原題簽は内閣文庫本と同版。遊び紙各冊の前にのみ一葉しかなく、料紙も質は落ちる。六冊目以前と七冊目以降とで表紙の色も微妙に異なるが、これは多年を掛けて作っており装丁の時期が違うためであろう、揃い本と見る。摺りの状態は献上本である内閣文庫本のほうがはるかに良いが、中味は同版、巻冊立ても同じである。
以下、各巻ごとに、版式、丁数、そして現存する版木について示す。版木については蟲損甚だしきものもあり幾つかは同定不能であった。版木のうち注目されるのは、恐らく彫工によると思われる墨書や刻識で、彫板年月日や彫工名と思しき物を記してある。これらは丸カッコの丁付情報に続いて文字と部位を示した。特に「墨」としたもの以外は刻識である。
巻一は全十九丁。版木は、1(1,2)、1(3,4)、1(7,8)、1(11,12)「内山」(一一丁郭外左下)、1(15,16)「内山」(一五丁郭外左下)、1(17,18)、1(19,-)「拾九終/寛政九巳年四月廿六日」(墨・版木ウラ)。
刻識では「内山」が注目される。版木上の墨書や刻識はおよそ彫工名と考えて良いだろうと思うが、この場合特にこの「内山」が根拠となる。藩版『倭板小学』の末に「安永庚子仲夏内山居成謹刊」とある人物がいるが、時期的にも一致するしこの人物であろうと考える (7) 。なお、他書の版木の墨書や刻識にも内山ほか天保から安政頃に活躍した「山岸」など(後述)、御馴染みの名前が見える。
また、年月を記した物は少ないが、「拾九終/寛政九巳年四月廿六日」は注目される。この「拾九」は丁数だろう、全巻の彫板終った時期が分るわけではないが、いままで言われていたような、序記から単に安永年間の出版とするわけにはゆかないと思う。安永年間は版行方が出来たばかりで、まだこれほど大部な著作を作り上げることは不可能だったと思われる。
「忠蔵」も彫工であろう。名(通称)であるが、名字を記した他のものと異なるのは、身分が違うためではないか。忠蔵すなわち抱え職人と見、他の者とは別(例えば、内山忠蔵居成ではない)と考えておく。
彫工には内山のほか、大池などが見える。「大」という文字もあるが、同じ版木の表裏で「大池」「大」とあるので、同一と見る。ほかに「吉山」も居る。これらの実態はよく分からない。入木については、ガッチリ嵌まっているものも多く墨溜りが邪魔して調査を徹底出来なかったが、版心の柱題下「第十六」を入木してあるものがかなり多かった。これは巻十八も同様で、内容の入替えでもしたのかと推測される。
彫工では上述の者のほか安田、加藤がみえる。版木のほとんどで丁付が連続しているうち、(7,88)のような例は、事実は分からないながら、彫り直しなどをしたのかとも思われる。
一丁目は巻二十の終丁と同じ版木に彫ってある。 「かと」は加藤だろう。
以上、版木は総数で三百三十五枚にのぼり遺蔵版木中最も多い。ただし、割合で言えば四割弱が散佚している。また、巻八、十一、十四、十五だけが長板を使っているが、この理由は分からない。何か特殊な理由があるのか、あるいは単に板の供給の問題なのか。長板はみなセオリー通り天地逆で彫板してある。何にせよ、同一書の中で短板と長板とが混在しているという点を思えば、板のあり方は、どちらかに統一せねばならぬ式のこだわりは無かったのだろうと思われる。
彫工名は、「坂」「右蔵」「作すけ」(他書の版木にも見えない)がよく分からないが、それ以外は、数の多少はあるがまんべんなく内山、加藤、安田、吉山、大池、忠蔵が見える。取り敢えずこの六人前後の人数が中心となって彫板していたと考えておく。
【春秋四伝抄略】溝口浩軒著。四巻附録一巻全五巻四冊。『新発田侯開板評議』には「春秋四傳御抄略 彫刻年同前(文化十四年) 尤序は安永九子五月」とある。諸本として、次の二本見た。
内閣文庫本(別20-1)。浩軒献上本のひとつ。装丁は『礼書抄略』と同じで、表紙は菊小紋艶出に漆塗り。花布は丁子色。有帙。原題簽は四周双辺「(同書名) 一(〜四、附録)」、巻四までは各冊同版で巻数のみ墨書。附録のほうは全くの別版の摺題簽。巻首題尾題ともに「春秋四傳抄略巻之一(〜巻之四、附録)」(ただし附録巻は尾題無し)。見返は白紙。遊び紙が各冊前後各一葉。料紙は厚手の楮紙で極めて白い。摺りはちょっとあまく、印面の薄いところなども見受けられるが、墨溜りなどは無く、概してこれも美本である。無刊記。後付も無し。その他、本文の版式は版木とともに示すが、版式や柱刻の形式も『礼書抄略』と似ている。無刊記。
新発田図書館蔵本(V09-662)。一冊目を欠く端本。渋引き(刷毛目横)表紙は原装。題簽は内閣文庫本に同じ。献上本に対してこちらは普及版とでもいうべきものであろう。
全十丁。毎半葉六行、文字は草書体で摸刻。末に「安永己亥仲秋/浩軒識」。版木は完備している。序(1,2)、(3,4)、(5,6)、(7,8)、(9,10)
[画像]浩軒漢文序1。版木、第九丁。71Kb
[画像]浩軒漢文序2。版木、第十丁。66Kb
[画像]浩軒漢文序。内閣文庫蔵本、第九丁ウ、十丁オ。いまはちょっと虫食いになった版木だが、印刷効果はそれでも抜群。かなり上手な摸刻でしょう。23Kb
巻一は全七十四丁。版木はみな長板で八枚のみ存、(1-2,3-4)、(10-?,11-12)、(17-19,18-20)、(21-22,23-24)、(37-40,38-39)「内山」(四〇丁郭外)、(45-47,46-48)「カンタツネ子」(四七丁郭外)、(49-50,51-52)、(65-66,67-68)「加」(六六丁郭外間下)。
刻識のうち「カンタツネ子」は意味不明、あるいは読み違いなのか。「加」は彫工の加藤であろう。「内山」も前出の彫工。
刻識のうち、「新」は未詳。
刻識のうち「ハ」「山」は未詳。
【資治通鑑綱目抄略・續資治通鑑綱目抄略】浩軒著。所見は内閣文庫本(別20-2)。現存するのはこの一本だけなのか、他の所蔵を知らない。大本、正編十三巻十三冊続編三巻三冊計十六冊。帙は正編と続編とでそれぞれ付く。表紙の装丁、花布、遊び紙などは先の『春秋四伝抄略』など献上本と同じ。原題簽も同様で、四周双辺「資治通鑑綱目抄略 一(〜十三)」および「續資治通鑑綱目抄略 一(〜三)」、それぞれ同版で巻数のみ墨書。内題は「(題)巻之一(〜十三)」、尾題はそれに「終」が付く。
前付けに浩軒序あり「(題)序」〜「天明四年孟春/浩軒」、全四丁。左右双辺、毎半葉五行無界。本文は、左右双辺、毎半葉五行有界。版心は「(題)」下魚尾「巻幾○(丁付)」。無刊記。書体は細明朝(巻一〜五、十〜十三)・明朝(巻六〜九)・楷書(続編三巻)などバラバラである。巻毎の丁数は、巻一・六十二丁、二・九十七丁、三・百二丁、四・八十八丁、五・百四丁、六・百五丁、七・百丁、八・百二丁、九・百六丁、十・九十八丁、十一・九十六丁、十二・百五丁、十三・七十一丁、續一・百四丁、續二・六十九丁、續三・六十三丁。大部の著である。
さて、版木であるが、八割方散佚している。確認出来たのは二丁掛け版木のみで、6(45,47)、6(46,48)、10(51,52)、10(73,74)、10(75,76)、10(77,78)、10(85,86)の七枚。墨書や刻識などは特にない。他に長板61枚あったが、こちらは蟲損甚だしく触るだけでぼろぼろと崩れてしまうものばかりで、さらに手に取る勇気も無く、調査しなかった。以上、全一三八〇丁のうち二五八丁分の版木しか残っていない。
【憑几録】浩軒の著であるが、刊本は未見である。『國書總目録』でも所蔵を記さず、新発田図書館にも無い。しかし版木が有るということは、刊本も存在したと考えていいだろう。版木から推察するに、大本一冊、外題簽「憑几録」。版式は四周単辺、半葉十二行毎行二十一字、本文漢字、附訓に返り点、小字双注。版心「憑几録 (丁付)」。序一丁、本文五十丁。無刊記 (8) 。
さて、しかし残念なことに版木は完備していない。(序,-)、(題簽F,-)「憑几録一部/右安政四巳年/四月刀始六未/七月彫成/見事/山岸篤雅」(- の表面刻識)、(5,6)、(7,8)、(11,12)、(13,14)、(17,18)、(19,20)、(21,22)、(23,24)、(25,26)、(27,28)、(29,30)、(37,38)、(39,40)、(41,42)、(43,44)、(45,46)、(47,48)、(49,50)「安政己未初秋日山岸篤雅謹刻」(50ウ刻識)。
題簽のFは、同じ面に『家礼抄略』と並べて彫ってある。
刻識のうち、端食両側面に「ヒヤウキ(丁数)」といった体のものが幾つか有るが、端食が元から付いていたものだろう事を想像せしむるだけで、あまり重要な情報ではないからここでは省略した。しかし、題簽および五十丁の版木の刻識は得難い情報である。安政四年四月から始めて七月に刻成したのである。この書きぶりからして一人で彫板したようにも見える。「見事」とはもちろん上手に彫ったという意味ではない。この彫工は、山岸氏、名は篤雅・雅澄、字は見というのである。町人ではなく、武士らしい名前と言えよう。
山岸見は、天保から安政頃に活躍した彫工である。版本にその名を記すものだけでも、『白鹿洞書院掲示』「天保癸卯年 山岸見謹刻」(終丁)、『講学鞭策録』「嘉永壬子十二月 山岸見謹刊」(跋丁匡郭左外)、『排釈録』「安政丙辰冬十月/山岸見謹刻之」(終丁)があり、また、版木の刻識では『講学鞭策録』題簽の版木に「講学鞭策録壹冊/嘉永五子年十二月奉山岸雅澄敬刀」(欄外)とあり篤雅のちに雅澄と、同一人と考えるべきだろう。『家礼抄略』や『中庸輯略』にも見える。
[画像]山岸氏の刻識。『講学鞭策録』題簽の版木に「講学鞭策録壹冊/嘉永五子年十二月奉山岸雅澄敬刀」54Kb
[画像]その部分拡大。49Kb
【講義筆記】浩軒著。版本の現存をしらず未見。書名も『講義筆記』というのは通称で、正式な内題は『中庸章句第三章講義』というべきもの。安永二年、道学堂での浩軒の講義を纏めたものである。版木は題簽以外は完備していると思しく、それによって推測すると、大本一冊、前付けに堀政徳の漢文序、全五丁。序末に「安永癸巳冬十二月/臣 堀政徳恐惶頓首謹識」。四周単辺、半葉五行毎行九字。柱刻に上花口魚尾下花口魚尾丁付「一(〜五)」、但し魚尾は何れも同じ向き(尻尾が下)。本文は漢字片仮名文。全十四丁。内題に『中庸章句第三章講義』(本文一丁オ一行目)。四周単辺半葉十行毎行十九字前後、柱刻は序文に同じ意匠で丁付が「一(〜十四)」。続いて、「到講堂再為初学講小学序剳記」と題する文がくる。漢字片仮名文。全十一丁。四周単辺半葉十行毎行十九字前後は先に同じだが、柱刻の意匠が少し異なる。上花口魚尾下魚尾丁付「一(〜十一)」、但し魚尾はいずれも同じ向き(尻尾が下)だが、下魚尾は丸く白抜きの飾り魚尾である。無刊記。
版木は完備している。即ち、序(1,2)、序(3,4)、序,本文(5,1)、本文(2,3)、本文(4,5)、本文(6,7)、本文(8,9)、本文(10,11)、本文(12,13)、本文,剳記(14,1)、剳記(2,3)、剳記(4,5)、剳記(6,7)、剳記(8,9)、剳記(10,11)
【勧学筆記】新発田藩版中最も有名なものである。浩軒著。安永八年刊。大本一冊、枯葉色無地表紙。新発田図書館にも八本以上所蔵されていて、表紙の色などを異にするものもある。遊び紙前一葉。本文全八丁。無辺無界八行、草体。刊記があり「安永己亥秋 越後新發田 藤間得康謹刊」(八丁オ終行)。この藤間得康も版行方の一人だろう。版木だが、一枚も遺蔵されていない。先に掲げた明治三十年時の版木目録にも載っていない。
【昨非抄】浩軒著。新発田図書館蔵(V09-427)。版本の現存はこれ一本のみのようである。大本一冊焦茶色無地表紙。全二十四丁。刊記に「安永丁酉末秋 越後新發田 藤間得康謹刊」。これは『勧学筆記』と同じである。版木は、残念ながら一部を欠く。(1,4)、(2,3)、(7,8)、(9,10)、(11,12)、(13,14)、(15,19)、(17,18)、(20,21)、(22,23)、(24,-)
【告諭大意】原本不明。半紙本か、匡郭は15.4×11.0。四周双辺無界四行十五字内外、かな草書。浩軒自筆のように見えるが不明。版木は一枚のみ (10,11)
【倭板四書】嘉点の四書で、その柱題から『倭板四書』と呼んでおく。大学章句・同或問・中庸章句・同或問・同集略・論語集注・孟子集注の七部全十四冊から成る。笠井助治『近世藩校における出版書の研究』ほかほとんどの研究が、この著を七著づつ別に立項したり、あるいは四書章句集注、四書或問、中庸集略、等に三分したり等するが、みな倭板四書の内である。また、この著が寛政七年刊井上清兵衛板からの覆刻であることは既に述べた。
以下、藩版の所見はみな新発田図書館蔵本で、表紙はほぼ檜皮色無地表紙、題簽は四双「(同題)」、版式もほぼ四周双辺半葉八行、柱刻は「倭板四書」上魚尾「(書名)」下魚尾「(丁付)山崎嘉点」、但し魚尾はいずれも同じ向き(尻尾が下)。以下、内容毎に説明する。表紙、題簽、題簽、版式、柱刻意匠は例外のみ示す。新発田図書館も含め所蔵を確認できず原本未見のものもある。この場合、覆刻原版を以って示す。
最終五十三丁の板の裏に「享和三亥年彫之忠孝」と墨書が有る。倭板四書の彫板時期については、前稿で別の資料により「寛政末年から準備が進められ、享和二年頃に出来したと思われる」としておいたが、これで確定した。享和三年の開板である。「忠孝」は彫工名だろうが、これ一回きり出る名である。「ワ」は渡辺氏(後出)かと思う。
刻識・墨書のうち、「享和二戌年十一月十七日納」などにより、彫板の時期を確定してよいだろう。笠井『藩版書の研究』は「寛政年間」の刊行とするが如何なものか。その他、「ワ」は「ワタナベ」に同じか。なお「ヒラタルイエモン」はここにしか見えず不明。
[画像]刻識「ワ」。版木の小口に彫ってある。向こうには棚に置かれた版木、資料館展示品の戸棚などがピンボケで写ってます。65Kb
[画像]刻識「ヒラタルイエモン彫」。30Kb
[画像]刻識「享和二戌年十一月十七日納」。彫った文字に対してこの刻識は上下逆さだが、端食は原装と考える。27Kb
【倭板五経】嘉点の五経である。これも藩版書原本は未見である。今、版木から推測するに、新発田藩版は町版の嘉点(雲川弘毅点)の五経からの覆刻である。まず町版を紹介しておく (10) 。
ア、明和七年刊 梅村三郎兵衛版
イ、安永二年刊 梅村三郎兵衛版(アと別版)
ウ、安永二年刊 勝村治右衛門版(イの刊記を後修)
このうち、イかウが、新発田藩版の原版である。イによって書誌を示す。大本、枯葉色無地表紙。易経・乾坤二巻二冊、書経・天地二巻二冊、詩経・呂律二巻二冊、春秋・一巻一冊、礼記四巻四冊の全十一冊。外題簽は四双「(外題)山崎闇斎點(幾)」、内題およびその下一二行目の界中央に「(内題)洛陽雲川弘毅改定」、柱刻は上象鼻から「明和新刊」上魚尾(柱題)(丁付)横棒「(下象鼻)」。丸カッコ内は各冊毎に次のように対応する。但し、柱題下に適宜章題が入ることがある。また下象鼻の文字は各冊一丁目では欠き、礼記にはない。
| (外題) | (幾) | (内題) | (柱題) | (丁付) | (下象鼻) |
| 易経 | 乾 | 周易 | 易上 | 一(〜三十六) | 山崎闇斎改點 |
| 易経 | 坤 | 易下 | 一(〜四十六) | 山崎闇斎改點 | |
| 書経 | 天 | 尚書 | 書経 | 一(〜二十九) | 山崎闇斎改點 |
| 書経 | 地 | 周書 | 書経 | 三十(〜七十九終) | 山崎闇斎改點 |
| 詩経 | 呂 | 詩経 | 詩上 | 一(〜四十六) | 山崎闇斎改點 |
| 詩経 | 律 | 詩下 | 一(〜七十二終) | 山崎闇斎改點 | |
| 春秋 | 一 | 春秋 | 春秋 | 一(〜八十四) | 山崎闇斎改點 |
| 礼記 | 一 | 礼記 | 礼記一 | 一(〜五十二終) | |
| 礼記 | 二 | 礼記二 | 一(〜六十七終) | ||
| 礼記 | 三 | 礼記三 | 一(〜五十九終) | ||
| 礼記 | 四 | 礼記四 | 一(〜五十九終) |
版式は四周単辺有界、毎半葉十行毎行二十字、返送縦、明朝体。刊記「安永貳癸巳年霜月/江戸日本橋壹丁目 須原茂兵衛/京堀川佛光寺下ル丁 梶川七郎兵衛/京寺町通松原下ル丁 梅村三郎兵衛」(礼記終冊終丁)。
さて、新発田藩版については、版木によれば、柱刻のうち上象鼻の「明和新刊」や、下象鼻の「山崎闇斎改點」は省略してある。前者は書肆の宣伝文句であるし、後者は新発田において嘉点なのは当然あるから省略したのであろうが、それよりも彫りの手間を省くということもあったに違いない。実際次に掲げる『倭板小学』では象鼻に「山崎嘉点」と丁寧に彫っている丁も有る。その他、ほかは版式の四単有界十行二十字という形式を踏襲し、また内題下の「雲川弘毅改定」文字なども同じであり(『春秋』で確認した)、本文も逐一照合したわけではないが、ほぼ同じであろう。ただし、礼記については巻三の途中から巻四までは柱刻に「礼書」とあり、ここのみ違いが有る。以下、版木のリストを掲げる。
刻識の「水原マチ」は地名。新発田の隣である。また「月潟忠兵衛」の月潟も地名。これらは何れも町人の雰囲気である。抱え職人と考えておく。
【倭板小学】嘉点の小学である。大本、内編外編全二冊。新発田図書館にはなく、所見は黒川村公民館本 (11) 。倭板小学については前稿で概略を述べた。即ち、延宝四年刊、壽文堂武村清兵衛版の精確な覆刻であり、外編最終丁の刊記部分に陰刻で「安永庚子仲夏内山居成謹刊」とあり、安永九年刊と分る。書誌を示す。縹色無地後補表紙。題簽も後補。版式は四周単辺、毎半葉八行毎行十六字、明朝体。柱刻は「倭版小学」上魚尾「(章題)(丁付)」下魚尾「山崎嘉点」。章題とともに丁数の対応を示せば、「書題」一丁、「題辞」一丁、「内編立教」一〜九丁、「内編明倫」十〜三十九丁、「内編敬身」四十〜五十一丁、「内編稽古」五十二〜七十丁、以上内編。「外編嘉言」一〜三十六丁、「外編善行」三十七〜七十二丁、以上外編。下象鼻の「山崎嘉点」の文字は、内編では書題一丁目、本文十、四十、五十二、七十丁のみ、外編では一、三十五、七十二丁のみ、すなわち内容に変化する部分にのみ存。
さて版木は次の通り。内(6,7)、内(17,18)、内(19,20)、内(21,39)、内(23,24)、内(27,31)、内(29,30)、内(32,35)、内(33,32ほりかけ)、内(34,47)、内(42,64)、内(45,46)、内(50,51)、内(65,66)、外(1,2)、外(3,5)、外(4,-)「辛未二月二月廿六日出来立/神田政敬」(墨・ナシの面)、外(6,11)、外(7,8)、外(9,10)、外(12,14)、外(15,31)、外(16,-)、外(17,18)、外(19,20)、外(22,23)、外(24,63)、外(25,26)、外(25,26)、外(27,33)、外(28,34)、外(30,72)「明治辛未仲秋神田政敬彫刀」(刊記・七十二丁)、外(32,35)、外(36,37)、外(38,45)、外(39,42)、外(43,44)、外(46,47)、外(49,50)、外(53,-)、外(56,57)、外(58,59)、外(60,61)、外(62,65)、外(64,67)、外(68,69)、外(70,71)
ところで、この版木の外編七十二丁には「明治辛未仲秋神田政敬彫刀」という刊記が有る。また同じく神田政敬の刻識もある。すなわちこの版木は、さきに掲げた安永藩版の版木ではなく、前掲明治三十年の「道学堂蔵版目録」に言う再刻本である。即ち、「一小学〔全七拾枚〕 但旧知事納戸費ヲ以テ従来彫刻ノ版木磨滅多ニ相来不用立辛未(明治四年)年公費ヲ以テ再刻」。安永藩版は磨滅し廃棄されたのだろう。こちらの版木は、表面に墨こそついているが、ほとんど磨滅はしていない。なお、この明治藩版も現物を見たことはない。
[画像]神田政敬の墨書。外篇四丁版木のうら。49Kb
[画像]その部分拡大。67Kb
[画像]外篇七十二終丁にある刊記、「明治辛未仲秋神田政敬彫刀」。字体は明朝、彫りは浅い。(今思うと、刊記というよりは、たんに「彫工名と彫刻年」なのだが、藩版に於いては、これを刊記といっても差支えないだろう。)75Kb
その他、内編三十二丁のほりかけというのは、文字の際に刀は入っているが余白を攫っていない、つまり彫りかけてやめた版木である。みたところ何が不都合だったのかはよく分からないが、三十二丁自体は、三十五丁の裏面に彫ってある。
[画像]彫りかけてやめた版木。彫りかけの版木というのは、案外めずらしいと思う。字彫りの作業は、字の際を彫るのが命で有り、あとで助職人がその他をさらえば良い。その事がよく分る。129Kb
【近思録】所見は新発田図書館(V09-636)。安永三年刊井上清兵衛版の覆刻。大本十四巻二冊、檜皮色無地表紙。四周単辺八行十五字。丁数は序四丁、目録甲乙二丁、巻一・十三丁、二・二十五丁、三・二十一丁、四・十六丁、五・十一丁(以上上冊)、六・八丁、七・十二丁、八・十一丁、九・十二丁、十・十五丁、十一・六丁、十二・六丁、十三・七丁、十四・九丁、後序・二丁。版木は、序(1,2)、序(3,4)、目録(甲,乙)、1(1,2)、1(5,6)、1(7,8)、1(9,10)、2(3,4)、2(21,22)、3(3,4)「キ」(三丁郭外右下)、3(7,8)、3(9,10)「キ」(一〇丁郭外右下)、3(13,14)、3(15,16)「キ」(一五丁郭外右下)、3(17,18)、4(11,12)、4(13,14)、4(15,16)、5(1,2)、5(11,-)、5(23,24)、6(1,2)、6(3,4)、7(1,2)「山岸稚偕梓」(一丁郭外左下)、7(3,4)「山岸刀」(三丁郭外左下)、7(5,6)「山岸氏」(六丁郭外左下)、7(7,8)「山岸梓」(七丁郭外右下)、7(9,10)、7(11,12)「ヤマキシウヂ」(一一丁郭外右下)、8(1,2)、8(3,4)、8(5,6)、8(9,10)、8(11,-)、9(1,2)、9(3,4)「山岸氏」(三丁郭外左下)、9(7,8)「山岸氏」(七丁郭外左下)、9(9,10)「山岸氏」(九丁郭外左下)、9(11,12)、10(1,2)、10(3,4)、10(7,8)、10(13,14)、11(1,2)、11(3,4)、11(5,6)、12(1,2)、12(3,4)、12(5,6)、13(1,2)、13(3,4)、13(5,6)、14(1,2)、14(5,6)、14(7,8)、14(9,-)、後序(1,2)。なお、刻識の山岸は先の山岸篤雅(後に雅澄)と同人かどうかは判断に苦しむところ。
【程子論性諸説】 (12) 無刊記町版からの覆刻。大本一冊。全十丁。版木は(1,2)、(3,4)、(7,8)、(9,10)の四枚。
【四箴附考】 (13) 無刊記町版からの覆刻。大本一冊。四箴三丁、附考九丁、跋二丁の全十四丁。版木は四箴(1,2)、附考(1,3)
【敬斎箴】 (14) 大本一冊、渋引表紙。序二丁、本文三丁、附録十三丁(丁付は四〜十六丁)の全十八丁。版木は序のみ欠く。本文(1,2)、本文,附録(3,4)、附録(5,6)、附録(7,8)、附録(9,10)、附録(11,12)、附録(13,14)、附録(15,16)
【朱子行状】まずは町版三版から (15) 。
ア、江戸前記無刊記古活字版
イ、寛文五年刊 壽文堂版(アの覆)
ウ、寛文五年刊正徳二年修 壽文堂版(イの修)
エ、文化元年刊 朝倉儀介他版(別版)
オ、出雲寺和泉掾版(ウの後印)
カ、出雲寺松栢堂版(前同)
さて、新発田藩版はエの朝倉儀介版の覆刻である。藩版現物は未見ゆえ版木で照合した。四周単辺九行十六字付訓。柱刻に白口上魚尾「朱子行状(丁付)」。ただし、新発田藩版には扉に朱子の立像を有する。これはウにしかないもので、流用覆刻している。版木を示す。(朱子立像,-)、(3,4)、(5,6)、(7,8)、(9,10)、(11,12)、(13,14)、(15,16)、(17,18)、(19,20)、(21,22)、(23,24)、(25,26)、(26,27)、(29,30)、(31,32)、(35,36)、(37,38)、(39,40)、(41,42)、(43,44)、(45,46)、(47,48)、(49,50)、(51,52)、(53,54)、(55,56)、(57,58)、(59,60)、(61,62)、(63,64)、(65,66)、(67,68)
[画像]朱子立像の版木。これだって、最初は何の版木なんだか、全然わかんなかったんですよ。63Kb
【朱子書節要】笠井『藩版書の研究』では二十巻八冊として立項するが、「道学堂蔵版目録」にも記されているように彫板中に維新を迎え完成しなかった書である。版木を見る限り一巻分の彫板で終ったのであろう。先立つ町版が有る (16) 。
ア、寛文十一年刊 上村次郎右衛門版
イ、宝永六年 伏見屋藤三郎(アの復刻か)
新発田藩版は、このアの覆刻をしようとしていたと思われる。版木は、目録,1(2,38)、序(1,3)、序(5,6)、総目録(2,3)、1(5,6)、1(9,10)、1(11,12)、1(19,20)、1(23,24)、1(25,26)、1(29,30)、1(31,32)、1(33,34)、1(35,36)
【道学標的】町版には正徳三年刊武村市兵衛版、および他書肆による後印本がある。藩版はその覆刻 (17) 。大本一冊、全十丁。版木は三枚、(2,3)、(4,5)、(6,7)
【排釈録】藩版は、貞享三年刊壽文堂井上清兵衛版の覆刻 (18) 。大本一冊。本文五十一丁、跋文一丁。版木は(3,4)、(13,14)、(15,17)、(23,24)、(27,28)、(33,34)、(39,40)、(45,46)、(51,52)
【鬼神集説】藩版は、壽文堂版の覆刻 (19) 。大本一冊。版木は、序(3,4)、(1,2)、(3,4)、(5,6)、(9,10)、(11,12)、(13,14)、(15,16)、(21,22)、(23,24)、(25,26)、(27,28)、(29,30)、(31,32)「安政三丙辰秋八月濱崎喜助献刻」(三二丁郭外右下)。刻識の濱崎喜助は他に藩版の白鹿洞学規集注などの彫板にも携っている (20) 。
【講学鞭策録】藩版は、町版からの覆刻。ウが藩版である (21) 。
ア、貞享以前刊、壽文堂版
イ、寛政十一年刊、朝倉儀介ほか版(再刻)
ウ、嘉永五年刊、山岸見謹刻新発田藩版
ウは「嘉永壬子十二月 山岸見謹刻」という刊記を持ち、またこれは版木の刻識とも一致する。版式は四周単辺八行十四字、序文五丁、本文四十九丁。版木は、序(3,4)、序,本文(5,1)、(2,3)、(4,5)、(6,7)、(8,38)、(9,40)、(10,11)、(14,15)、(16,17)、(18,19)、(20,21)、(24,25)、(26,27)、(28,29)、(30,31)、(32,33)、(36,37)、(43,44)、(45,46)、(47,48)、(題簽,跋)「講学鞭策録壹冊/嘉永五子年十二月奉山岸雅澄敬刀」(題簽の欄外)。
【学者論】 (22) 克庵山野辺友意著。元来は新発田藩版でなく越後出来の地方町版。前掲『開板評議』によれば文化十二年に新発田藩校預けとなったもの。大本一冊。桧皮色無地表紙。原題簽は茶色布目地で「(同題)」。通常の藩版とは違って見返題を持ち「克庵先生著/学者論/含章堂蔵刊」(四周単辺有界三分、右辺に魚尾等の柱刻風の意匠を持つ)。前付に新発田藩儒浅見東皐序二丁(安永八年記)、本文五丁、後付に新発田藩儒佐藤尚志の跋六丁(安永三年記)。終丁ウに刊記あり「越後三条/和泉屋文四郎謹刊」。『幼君輔佐之心得』を出版した書肆である。 版木は序(1,2)、(1,2)、(3,4)、跋(1,2)、跋(3,4)、跋(5,6)
【静座集説】本書については原本未見、未考。版木のみ示す。(1,2)、(3,4)「加藤氏」(三丁郭外右下)、(5,6)、(7,8)「加藤氏」(七丁郭外右下)、(9,10)、序(1,2)「加藤氏」(序一郭外右下)。
【家礼抄略】稲葉黙斎著。ただし、原本未見である。版木は、(1,2)、(3,4)、(5,6)、(9,10)、(11,12)、(13,14)、(15,16)、(17,18)、(31,32)、(33,34)、(35,36)、(41,42)、(45,46)、(47,-)、(48,-)「文久壬戌夏四月山岸篤雅刻」(四十八丁ウの刊記)、(題簽F,-)。四十八丁目が終丁と思しく山岸の刊記が有る。即ち文久二年刊。また、これらとは別に浄書用用箋の版木があり、柱刻に「家礼抄略」、升目で十八行×十七字。裏面は周単辺無界の用箋。
【農家心得】新発田図書館に一本所蔵されているのだが未見。高橋礼弥氏に、これも覆刻ではないかと具体的にご教示を頂いているが未調査である。絵入りの農業書である。版木は完備しているように思われる。(1,2)、(3,4)、(5,6)、(7,8)、(9,10)、(11,12)、(13,14)、(15,16)、(17,18)、(19,L)
【その他不明の版木】その他、柱刻のないものや、あっても蟲損甚だしく読みかねるものなどはみな版本で本文を照合したのだが、結局不明の版木が三枚残った。版式の雰囲気からそれぞれ、諸先輩国字筆記と倭板四書かと思われるものが各一枚都合四丁分。また、直養の自筆と思われるものが一枚。
以上、版木は総数で一一三八枚に上る。完備したものがあまり無かったのは惜しむべき事であるが、散佚分もあわせれば恐らくこの五倍以上の版木を有していたはずである。これだけの数の版木を有しているところは全国的にもあまり無いと思う。まずはこの事を驚くべきである。越後において新発田藩は学問的にも経済的にも雄藩であったが、それは越後が小藩の林立する土地だからであって、全国的に見れば六万石の小藩に過ぎない。しかし、六代梅郊、八代浩軒、十代健斎等の有名藩主を生み、領内は学問好きの武士町人であふれ、その偉業を支えたのがこれら藩版・藩校版の出版であり、版木である。調査はまだ不十分であるが、予定の枚数もかなり超過しているので、ひとまず筆を措く。
【注】
「版木払下願書」の中に、ガリ版摺り一枚の「寶光寺大法蔵所収藩学用書木版概要調査報告(昭和四三・四・一五)(支教委・社教委・市文化財調査審議委)」と題する調査書が在る。また近時のご調査については教育委員会の平山靖夫氏よりその調査報告書を頂戴した。
「版木払下願書」の閲覧にあたり帆刈喜久男氏の御高配に与った。
尤もこの資料は藩校の都講等の調査によるので実に正確なものと思ってよいだろう。が、二三疑問は残る。例えば、『礼書抄略』は「礼書御抄略 安永五申五月御開板」とあるが、これは序文の年記そのままであり、果してこの時期に二十四巻十三冊の大著をすべて刊行できたのかどうか。
小浜図書館には『聖学図講義』を二本所蔵するが同版。請求番号は230、および617。
藩主の中で主膳正を名乗る者に直養のほか十一代直溥がある。その可能性も無くはない。
帆刈喜久男「新発田藩の藩版について(下)」(『国語研究』43号1997年・新潟県高等学校教育研究会)によれば、この浩軒序はのみ単独で別冊刊行されていて新発田図書館蔵という。が、図書館目録には記載が無く現物未見。
『倭板小学』については拙稿「新発田藩版とその原版」(ぺりかん社『江戸文学』16号)でも述べた。なお、他の藩版書のいくつかにも山岸や内山と言った名を巻末に名を刻しているが、これは職人に近い彫工名なのか、それとも版行方の監督的立場にある者(実際には彫板には携らない)の名前なのか判断しかねていた。実際、版行方の多くは抱え職人であったが、他方侍帳などに名字入りで名前が記されている者も有る。こういう者達の名をわざわざ本に記載するのか。一方、藩版出版の監督は講堂教授、現場監督は都講たちのはずでもあるが、彼らの名前を藩版書の内に見ることはまずない。というわけで、前稿の段階では少々判断材料が不足していたが、この山岸・内山らの例を以って、恐らく彫工のうちの長の名前と考えてよかろうと思う。版行方の実質的な長であり、そして実際の彫板も行っているのである。身分は、名字で記された者は武士、名の者は抱え職人なのであろう。
『増補山崎闇斎と其門流』三二七頁は本書を「安政年間に至つて漸く上木せられた」とする。当っているようにも思うが、根拠は不明。
所見は小浜市立図書館本。請求番号は崎102。なお、前稿「新発田藩版とその原版」で「4寛政七年刊、井上清兵衛板(3の覆刻)」としたのは失考。「3の修訂」に訂正されたい。
所見は小浜図書館本。ア(請求番号・崎79)は周易二冊、書経一冊、礼記四冊のみ存。各冊の題簽に「(題名)山崎闇斎點 (幾)」、内題下に「洛陽雲川弘毅改定」とある。版式は四周双辺無界、毎半葉十行毎行十八字、返送縦、明朝体。刊記「明和七年庚寅夏五月/江戸日本橋南壹丁目 須原屋茂兵衛/京堀川通佛光寺下ル 銭屋七郎兵衛/同寺町通松原下ル町 梅村三郎兵衛」(礼記終冊終丁)。イ(崎81)は、全十一冊の完存本。ウ(崎84)はイと同版だが刊記のうち「梅村三郎兵衛」を「勝村治右衛門」に入木してある。
黒川村は新発田のすぐ北にある。旧黒川藩およびその後の蔵書を胎江書院と号して集めていたものを収めている。該書には「天保十二年丑年辛正月吉辰市嶋七三郎」と見返に墨書がある。新発田藩を越えて入手していた例である。
所見本については拙稿「新発田藩道学堂の出版費用」(金沢美大『紀要』41号)で触れた。
所見本とともに簡単に版式や刊記を示す。ア(小浜・崎532)は、大本一冊全五十五丁、四双十行十八字白文注双行明朝体、版心は黒口上花魚尾「朱子行状 一(〜五十五)」下花魚尾黒口、無刊記。イ(無窮会織田文庫1616)は丁数版式柱刻ともアに同じだが訓点付き(返送縦)、終丁ウラに刊記「寛文五稔乙巳四月吉旦/二條通松屋町 壽文堂」。ウ(崎533)はイの修訂で扉オモテに朱子の立像を附しそのウラに刊記「寛文乙巳四月鏝梓/朱子行状輯註/正徳壬辰二月正點 平安二條街 壽文堂蔵板」(四単)、即ち実丁数は五六丁。なお、イで刊記のあった五五丁ウラは刊記を削ったのであろう匡郭のみで文字はなく、同刊後印本(崎534)に至っては匡郭も印刷せず白紙のままで後表紙に貼付してある(つまり五五丁オが後表紙見返にあたる)。エは所見三本(新発田・V09-521、小浜・56、架蔵)いずれも同版で、大本一冊全六八丁、版式は本文に記した。刊記は後表紙見返全面にあり「文化元年甲子二月/江戸 須原屋平助/大阪 泉本八兵衛/京都 朝倉儀介」(四単)。オ(小浜・57)は後表紙見返の刊記のみ異なり、「京師三條通升屋町/御書物所/出雲寺和泉掾」(四単・全面)、カも同様で後表紙見返が出雲寺松栢堂の書目となっている。なお、オとカの先後については今は不明としておく。また、エとオ・カの先後は、朝倉の崎門書を出雲寺松栢堂が引継いだと考える(後掲の道学標的・講学鞭策録も参照)。
(1999-04-01)[HTML補記]断るまでもないが、出雲寺和泉掾と出雲寺松栢堂は、同じ本屋ですよ。
所見は、アは小浜34、新発田V09-657(但し巻九〜二十までの四冊のみ存)。小浜本は四周双辺、序文は八行十五字、本文十行二十字、楷書体、巻一は序六丁、総目三丁、巻一目録二丁、本文三十八丁の全四十九丁。イは内閣文庫298-279。アとの比較が不徹底により後印か復刻・覆刻か未調査。
藩版は新発田図蔵V09-565aで無刊記。町版で確認したものに、ア、武村市兵衛版(新発田・V09-565)、終丁終行に刊記「正徳三癸巳年四月 武村市兵衛刊行」。イ、出雲寺松栢堂版(架蔵)、武村版と同刊後印で刊記も武村のものをそのまま残すが、後表紙見返全面に広告「山崎闇斎先生門人編集略書目」を附す(朱子行状、講学鞭策録の注も参照)。なお、恐らく武村と出雲寺の間に、朝倉儀介版が在ったと思われるが、未見。
所見は藩版・町版ともに新発田図本で、前者はV09-566aと566b、後者はV09-566で、刊記に「貞享丙寅臘月吉辰/壽文堂刊行」。
所見は新発田図本。藩版はV09-567a、町版は567で刊記は尾題下に「壽文堂刊行」とある。
拙稿「新発田藩版とその原版」で触れた。なお、喜助という通称を出している点で抱え職人(町人)かと想像していたが、その可能性が高そうである。高橋礼弥氏のご教示によれば、維新の北越戦争の際に官軍の官報の印刷も請負っているとの由である。なお調査したい。
所見は、アは新発田蔵V09-568、および架蔵本。イは無窮会織田1553。ウの所見は新発田図V09-568a。ところで、イは、刊記に「佐藤直方先生著/大學全蒙擇言/鬼神集説/道学標的/排釈録/貞享元甲子歳原刻焼亡/寛政十戊午歳再刻/皇都書肆 久保権八/朝倉儀助 梓行」(四九終丁ウ)、後表紙見返に「山崎闇斎先生門人編集略書目/(著作数十九)/御書物所 京都三條通堺町 出雲寺松栢堂」の書目広告を持つ後印本。まず、この刊記と書目広告との関係により、朝倉から出雲寺に板株が渡ったことが知れる。
ただし、朝倉の言う「貞享元甲子歳原刻焼亡」というのは、正徳三年壽文堂井上清兵衛版がある点に鑑みて少し不可解では有る。それはともあれ、朝倉儀介は、近世初中期の武村・井上(壽文堂)に代り、寛政頃から崎門関係の出版を一手に担っている如くである。参考までに掲げるが、『朱子社倉法』(大本一冊、新発田藩版には無い)には「壽文堂」とのみ刊記を有するもの(所見は新発田・V09-656)と、「文化三年丙寅歳補刻/皇都書林 風月庄左衛門/朝倉儀助」と刊記を入木するものとある(所見は架蔵本)。この朝倉版には「垂加霊並門派編集書目 京柳馬場二条下ル 朝倉儀助」と題して四十三著を掲げる一丁分の書目広告が付く。その書名を記す。小学本註、西銘解、大極図説解、程書抄略、朱書抄略、四書序考、孝経刊誤、同附考、孝経外伝、武銘、仁説問答、知行書、山北紀行、朱子行宮便殿奏剳、刑経、夜寝箴、城南雑詠、敬斎箴、五友詩、中和集説、朱易衍義、雲谷記、経名考、性論明備録、朱子社倉法、大家商量集、倭小学、八景詩、訓蒙詩、朱子読書要、拘幽操、孟誥録、排釈録、講学鞭策録、鬼神集説、道学標的、大学全蒙訳言、大学記聞略説、朱子行状、孝経正文、鎌倉記行、楚辞全書、西銘考証講義、周子書。
次に、出雲寺松栢堂の書目広告は、先掲の朱子行状、道学標的のそれと同版である。因みに、その十九著作の書名を示しておく。小学本註、孝経刊誤、敬斎箴、五友詩、朱子社倉法、経名考、性論明備録、城南雑録、朱子行状、雲谷記、八景詩、道学標的、刑経、講学鞭策録、排釈録、鬼神集説、垂加霊社叢書、近思録。
以上の通り、本稿で示した町版にも、朝倉・出雲寺版について触れ得てないものもある。
【附記】
成稿にあたって、版木調査をご快諾くださった廣澤山寶光寺御住職寺前敬道氏、調査に際して御便宜を頂いた新発田市教育委員会高橋礼弥氏・鈴木秋彦氏に感謝申し上げます。また、新発田市立図書館・小浜市立図書館の方々のご高配に感謝します。特に両館とも電子コピーによる複写をご許可くださり異版調査で大変有益でした。また内閣文庫・無窮会図書館のお世話にもなりました。
版木の写真資料はホームページで公開しています。
半魚文庫 http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/
本稿は、平成九・十年度、文部省科学研究費補助金(奨励研究)による成果である。
【[再掲]画像一覧】
[画像]民俗資料館に置かれた版木のたば(1)83Kb
[画像]民俗資料館に置かれた版木のたば(2)28Kb
[画像]『開板評議』4ウ(誰か、難読箇所を読んでください)83Kb
[画像]架蔵本『諸先輩国字筆記』1オ「抄出先輩筆記目録」と表紙・題簽(33Kb)
[画像]浩軒漢文序1。版木、第九丁。71Kb
[画像]浩軒漢文序2。版木、第十丁。66Kb
[画像]浩軒漢文序。内閣文庫蔵本、第九丁ウ、十丁オ。いまはちょっと虫食いになった版木だが、印刷効果はそれでも抜群。かなり上手な摸刻でしょう。23Kb
[画像]内山の刻識。「内」とある。巻四の三十七丁。右下に見えるは摺版のための見当。75Kb
[画像]長板の『資治通鑑綱目抄略』。72Kb
[画像]山岸氏の刻識。『講学鞭策録』題簽の版木に「講学鞭策録壹冊/嘉永五子年十二月奉山岸雅澄敬刀」54Kb
[画像]その部分拡大。49Kb
[画像]刻識「ワ」。版木の小口に彫ってある。向こうには棚に置かれた版木、資料館展示品の戸棚などがピンボケで写ってます。65Kb
[画像]刻識「ヒラタルイエモン彫」。30Kb
[画像]刻識「享和二戌年十一月十七日納」。彫った文字に対してこの刻識は上下逆さだが、端食は原装と考える。27Kb
[画像]刻識「山岸氏」。巻四、七・八丁下小口。41Kb
[画像]神田政敬の墨書。外篇四丁版木のうら。49Kb
[画像]その部分拡大。67Kb
[画像]外篇七十二終丁にある刊記、「明治辛未仲秋神田政敬彫刀」。字体は明朝、彫りは浅い。(今思うと、刊記というよりは、たんに「彫工名と彫刻年」なのだが、藩版に於いては、これを刊記といっても差支えないだろう。)75Kb
[画像]彫りかけてやめた版木。彫りかけの版木というのは、案外めずらしいと思う。字彫りの作業は、字の際を彫るのが命で有り、あとで助職人がその他をさらえば良い。その事がよく分る。129Kb
[画像]朱子立像の版木。これだって、最初は何の版木なんだか、全然わかんなかったんですよ。63Kb
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(c)
高橋明彦
1999年4月1日 HTMLによる公開