◆蕉門正統を自任する唯我の人

森川許六(もりかわ/きょりく)

  • 生没:明暦二年(一六五六)〜正徳五年(一七一五)
  • 閲歴: 本名は森川百仲、別号は五老井など。三百石取りの彦根藩士。多能で槍剣・漢詩、特に絵画に優れ、俳諧は初め季吟流などに学んだが、元禄二年頃から蕉門俳諧へ傾倒し、同五年江戸深川で芭蕉と対面。その軽みの境地を評価され『白砂人集』の相伝を受ける。一方、狩野安信門の絵画の力量は芭蕉に師と仰がれた。元禄七年、芭蕉の死後、蕉風の本質を闡明せんと盟友李由と『宇陀法師』等を共撰。元祿十・十一年には去来と(俳諧問答)正徳四・五年には野坡と(許野消息)それぞれ書簡論争を行い、血脈説・取合せ論を中心とする俳論を展開する。また蕉門俳文集の嚆矢『風俗文選』『歴代滑稽伝』纂編という大事業も手掛け、蕉門正統は我一人とたかぶる性格ではあったが、よくその遺志を全うした。

  • HTML補記:角川の逸話辞典に書いたものの流用だが、ゆるせ(笑)


◆浪花ぶりの大富豪は上方俳壇の親玉

松木淡々(まつき/たんたん)

  • 生没:延宝二年(一六七四)〜宝暦十一年(一七六一)
  • 閲歴: 別号半時庵。大坂の商家に生れた。元禄六・七年頃江戸へ出て芭蕉にまみえ呂国の号を得たと自ら言うが、今日では否定されている。元禄十三年頃、江戸へ下り渭北と号して其角に従う。其角の没後、淡々と改号。翌正徳五年、上京。鷲峰山に半時庵を構えた享保元年頃から、本格的な活動を始める。点取俳諧で成功し、「浪花ぶり」と称する付合無視の淡々流の高点付句は京俳壇を席捲した。享保十九年、大坂に移る。大商人で俗気も多く豪奢な生活をし、長寿だったことも加え斯界ヘの影響力は大きかった。釈迦・孔子に比して、弟子は三千人に及ぶと喧伝する。俳風は理屈っぽく晦渋。門外不出の秘句「梅の花答へて曰く梅の花」は、禅問答を模して、ウメとムメとで有無の境地を悟る、と言った具合い。

  • HTML補記:淡々、斯くの如き有名人で、多田南嶺も淡々と会ったときの思い出を記している(南嶺『敗箒添塵』)。どっか芝居小屋であって、その時分南嶺は「男鈴(なんれい)」という俳号もあった、つまり俳諧も捻った。「男鈴」って、意味わかります(笑い)? でもって、南嶺は淡々のことをひどくバカにしてたような気がするが、資料が手元にないし覚えていない(だったら書くな、って)。『敗箒添塵』には南嶺の発句も書かれていたかなあ。


◆尾張藩高級官僚に俳文の妙趣あり

横井也有(よこい/やゆう)

  • 生没:元禄十五年(一七〇二)〜天明三年(一七八三)
  • 閲歴: 横井氏は北条高時の後裔で、尾張国の名門。也有は、享保二十年二十六歳で家領を嗣ぎ千石を食み、御用人。のち大番頭・寺社奉行も兼ね加増二百石。職務には忠実で武道にも達した。学芸でも、俳諧・詩歌・狂歌・謠曲・平曲・書画など、みな達人の域にあったというが、これは祖父や父の教育によるもので、上級武士のお家芸とも言えよう。俳系は、自ら「師なく、また門人なし」と言うが、支考に私淑し、その門葉の俳人と交流もあったため美濃派と言える。また前句付けからの影響もあり、俳風は平易通俗。家格にうぬぼれず人柄は庶民的で、宝暦四年五十三歳で隠棲し悠々自適、趣味三昧の生活を送る。長年書きためていた『鶉衣』の機知にあふれ軽妙自在な境地は、古来俳文の極致と賞された。


◆御存じ、『雨月物語』の作者

上田無腸(うえだ/むちょう)


◆伝説化された近世最大の女流俳人

千代尼(ちよに)

  • 生没:元禄十六年(一七〇三)〜安永四年(一七七五)
  • 閲歴: 加賀国松任の表具屋福増屋の娘。千代女、剃髪して素園。十二、三歳頃より俳諧を学んだらしく、享保四年十七歳頃には当地で女流俳人として名高く、時に北陸に来た支考の来訪を受け、師と仰ぐ。享保十一年乙由を訪ね、この頃にははや全国的名声を得る。ただし代表作「朝顔に」の句は兎も角、「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さ哉」「渋かろうか知らねど柿の初ちぎり」「とんぼ釣り今日はどこまでいったやら」などは彼女に仮託されて広まった句で本来は別人の作。美濃派の勢力拡大の風潮に加え、その才能と美貌と若さによってアイドル視され、広く庶民にいれられて、伝説化されたのである。結婚伝説についても、十八歳から二十五歳頃までの間にしたとはされるが、諸説紛々としており不明である。


◆天明期・江戸俳壇の代表的俳人

加舎白雄(かや/しらお)

  • 生没:元文三年(一七三八)〜寛政三年(一七九一)
  • 閲歴: 信州上田藩士の次男として江戸藩邸に生れた。二十代前半までの経歴は諸説在る。明和三年に江戸の鳥酔--烏明の俳系に付き昨烏と号し、処女句集『面影集』(明和六年)を編み、また信州・北越・近畿・伊勢・熊野・奥州などを旅した。安永三年江戸で烏明派と仲違いがあり同五年には絶縁する。同八年から白雄と号し、翌九年に江戸で春秋庵を開き烏明一派に対抗し勢力を張った。俳論『加佐里那止』もあり、詩人として資質は卓抜、態度は真摯。叙情句は繊細、叙景句は格調高く閑寂味をたたえ、その誠実かつ透徹した観照による作風は、天明俳人の中で蕪村に次ぐとも評価される。勢力圏は関東・信州・奥羽・伊勢に及び、門弟四千人、うち有力俳人が二百人いたと言い、化政期俳壇の主流を形成した。


◆天明期・蕉風復興の先駆者

加藤暁台(かとう/きょうたい)

  • 生没:享保十七年(一七三二)〜寛政四年(一七九二)
  • 閲歴: 尾張藩士岸上林右衛門の子で、同藩士加藤仲右衛門の養子。十七歳で出仕、宝暦七年江戸詰となるが同九年に致仕。既に二十歳の時に伊勢派の巴雀門下にあったが、致仕後名古屋に戻り新たに門弟を集め、宝暦十三年には暮雨巷暁台と改号。既に美濃・伊勢派からは離れ、安永元年、門人騏六の家に伝わる荷兮筆芭蕉の七吟歌仙の翻刻を含む選集『秋の日』を刊行し、蕉門『冬の日』の幽玄を理想とする蕉風復興の新風運動を興した。これは全国の蕉風運動の先駆と評価された。安永三年、兼てから文通のあった蕪村に初めて会い、同五年頃まで親しく何度も上京し、この交流は暁台の句作に一段の躍進をもたらした。安永四年には『去来抄』を校訂・刊行する等、芭蕉の連句や俳論の紹介などの功績も大きい。

  • HTML補記:代表句、っていうのかどうか知らんけど、僕の知ってる句。

    時鳥鳴くや蓴菜(ぬなわ)の薄加減  暁台


◆元禄俳書の大版元

井筒屋庄兵衛(いづつや/しょうべえ)

  • 生没:初代・元和七年(一六二一)〜宝永六年頃(一七〇九?)
  • 閲歴: 京都寺町二条上ルの井筒屋は、承応元年の俳書出版を嚆矢とし、文化五年頃まで営業した俳書専門書肆。初代の庄兵衛は、名は重勝。貞徳の門人で、広く貞門諸派の俳書を出版。延宝期には全盛の談林俳書も手掛けたが、この時は談林の拠点大坂の新興書肆深江屋などに出版点数で並ばれている。だが、貞享・元禄期に蕉門が興るや、その俳書の八割以上を手掛け、他書肆を完全に圧倒し元禄俳書の版元として君臨した。庄兵衛は俳人としても、言水との両吟歌仙などもあり力量もあったらしい。以下、五代目まで確認されている。井筒屋の手代が橘屋治兵衛で、正徳末年頃やはり蕉門俳書所として独立。実績を伸ばし、享保期以降は立場が逆転。宝暦以後、井筒屋もその傘下に命脈を保つに過ぎなくなった。


◆江戸一の書物問屋の俳書出版は?

須原屋茂兵衛(すはらや/もへえ)

  • 生没:生没年未詳
  • 閲歴: 明暦〜万治頃に成立した江戸の民間書肆は、京都に本店を持つ江戸支店が多かった。だが、江戸前の板元が育つにつれ、元禄頃には通町組と中通組の二つの書物問屋を形成していた。が、享保十二年、中通組から分裂して新たに南組を作った九軒の板元の筆頭格が、この須原屋茂兵衛である。姓は北畠氏。京都に本店を持つ江戸支店の旧勢力に対し、須原屋の南組は江戸で生れた本屋であり、京都勢力と江戸自前の本屋との江戸出版界を二分した寛延三年の係争事件により、須原屋等は裏通りにあたる左内町横町から、日本橋通一丁目に堂々たる店を構え進出。武鑑の出版権を獲得した事に象徴されるように、江戸随一の大板元に成長する。物の本を中心に地本まであらゆるジャンルの出版を手掛け、またその一統からは須原屋新兵衛・市兵衛・伊八・善五郎、等が育ち、一大勢力を築く。俳書の出版については許六や寥太のものなど出しているが、特に専属的な関係が在ったのかどうか。

  • HTML補記:全然俳書と関係ないよ。須原屋市兵衛なら、綾足関連の俳書(片歌)を出してますがね。
    この特集号には、矢羽勝幸氏(二松学舎大学教授)が「近世の俳書出版事情」という論文も書いていて、分かり易くて便利です(国文・歴史学系の人が書く記事は根拠を示して論述するからいい)。簡単に紹介しておきます。

    江戸時代、俳書は尤も盛んな出版物で三万点以上あるだろう。ただし、これは営利を考えない趣味的な出版であって、ほぼ九割が自費出版である。あとの一割つまり営利出版として成立つのは、俳諧の作法書・俳論書・季寄せ(歳時記プラス実例)・古典化した俳書(芭蕉七部集など)などである。
    九割の自費出版のうちよくあるパターンは、出版手続き(御上に対するもので、けっこう面倒)から彫摺版・造本一切を版元に任せ、作者は費用を全額負担し、出来た本は「配り本」すなわち友人らへの贈答品で、店頭に並ぶ事はない。
    こんなパターンもある。エライ宗匠だと弟子や門人が全国にいて、彼らから句を集め、入句代金を取り、費用を済ます。白雄の『春秋稿』の例では、一句銀五匁(銀一匁は1000〜1500円ってとこか)、春夏秋冬各四句で金百疋(=金一分)などというお金を取っている。出来た本は投句者にあげている。高桑蘭更『花供養』の例では、一句銀三匁という。
    俳書の版元は、店の主人自身が俳人で、その俳系の俳書を出版する、というパターンが多い。そもそも俳諧というのは「座の文学」といって、共同体・結社意識が強い。個の文学でなく、共同体の文学なのである。俳書出版も、おのずと俳系と版元の専属関係が成立つ。井筒屋庄兵衛の初代重勝は貞徳の弟子で貞門俳書を多く出した。額田庄三郎(京)は志田野坡の門人で九十九庵風之とも言う。
    結社と書肆の専属関係では他に、美濃派各務支考と橘屋治兵衛、与謝蕪村・高井几董の夜半亭関係の出版が多い京都の橘仙堂平野屋善五郎、建部綾足(涼袋)は俳諧のみならず画や国学にも達したが、江戸では叢桂堂梅村宗五郎、国学関係や片歌だと須原屋市兵衛、京都では風月荘左衛門ってところ。大島寥太は、江戸の須原屋太兵衛から。
    「座の文学」という性格から、そして「趣味的な出版」という点から、俳書はかぎりなくミニコミに近い。年毎、季節毎に出版され、仲間意識をかきたてる定期刊行物である。だから本屋が絡む場合でも、筆耕(版下書き)などは、自らの結社内の能書を使う。俳書の雰囲気も統一感が出るし、当然費用は浮く。本屋に頼めば金も掛る。越後六日町の今成慮呂の『山里集』(橘屋治兵衛刊)の筆耕料は一丁銀三分。俳書ではないが『北越雪譜』は一丁一匁五分だそうだ。
    筆耕のみならず、彫工も抱えていたり専属関係にあったりする。これもまた、俳諧の師弟関係にある。勢い地方の例になるが、信州伊那の儒医中村白先は俳系は白雄門だが、その著作(俳書以外もある)は総てその俳諧門人で上伊那の彫師・玉楮堂松沢弥兵衛(俳号菊叟)の彫板であった。越中富山の彫師・荻田一蓬は俳諧も能くし、その彫板になる『葛の実』は田舎版とは思えぬ美本だそうである。出来の良い本は三都で売りに出されることもあり、白先の芭蕉建碑句集『葛の葉表』は、菊叟彫板ながら名古屋の風月孫助・京都菊舎太兵衛・江戸の前川権兵衛が売弘めをしている。
    俳書の値段はあって無きが如きものであった。店頭で売られる俳書にはいわゆる「定価」というものがあったろうが、これは小数のはずである。俳書は普通は配り本、つまり只。売る場合にも、いわゆる「見計らい」に近い形で、勝手に送りつけ金を払わせる。クーリングオフの代りに、買った者はまた別の人に転売する。東海道鳴海の千代倉・下里家も俳人も多く排出した文化人の家系だが、西鶴の頃の当主であった下里知足と西鶴の手紙のやり取りをしている。知足はそろそろ西鶴の談林派に飽きて蕉門に興味が湧いている。西鶴から送られた俳書などは、倍くらいの値段で人に転売している。

    俳書の出版数は、百部前後くらいで、二〜三百部も売れればベストセラーであった。先に、俳書はミニコミと言ったが、江戸中期から幕末にかけて俳諧は庶民文芸の代表であった。出版刊行された俳書は、その隆盛を物語る氷山の一角であり、どんな地方・田舎でも俳諧の集り・グループがあって、俳諧を吟じていた。いま、古文書の残っている所であれば、俳書の写本は必ず残っているものである。写本といっても、誰かが書いてくれるから、文字すら書ける必要はない(いや、勿論文字が書ける程度の人々の趣味だったけど)


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初出 :『江戸三大俳人 芭蕉・蕪村・一茶』
新人物往来社『歴史読本増刊号』(1996年 3月)


(c)高橋明彦 1997年8月10日 HTMLによる公開