(分量は、30字×600行になりました) 近世出版機構における藩版の問題 ---- 江戸時代の情報化 ---- 高橋明彦 一 はじめに 大会テーマは「情報化時代の教育と文学」である。日文協らしか らぬテーマではあるが、また日文協らしい大きなテーマだとも言え るかも知れない。どちらであるにせよ、このテーマの持つ意味をは っきりさせその意図するところを自分なりにではあっても解釈して おかないかぎり、本報告の意味も理解されず、私の報告は「日文協 らしからぬ版本の書影のコピーがならんでいる発表」と思われてし まうだろう。「情報」とは何か、あるいは「情報化」とは何か。そ してそれをどのように捉えるべきか。なお今回の場合「文学」はと りあえず自明のものとして考えておいてよいのだろう。 「情報」あるいは「情報化」について次の三点を考えてみた。 まず一点目。われわれは「情報環境世界」とでも言えるような世 界に生きているのだろう、ということ。ユクスキュル風というか ハイデガー風というか、世界・現実はまさに「情報」として成立し ており、われわれはそこで生きているいわば「情報内存在」である。 昨日の森下氏の「無数の情報の束としての<ヒト>」という言い方 も同様の事態と考えられるだろう。 二点目として、では、その「情報」とは何か。その「情報」のモ デルをどのように考えればいいのか。とは言っても、このあたりの 理論は私はまるっきりの素人である。なので、ここは耳慣れた「記 号」のモデルで考えてみたい。「記号」は意味するもの(シニフィ アン)と意味されるもの(シニフィエ)との表裏一体のものとしてモ デル化されている。この「記号」をアナロジーとすれば、媒体(メ ディア)が意味するものであり「情報」が意味されるものと考えら れるだろう。分かり易く言えばメディアは形式であり情報が内容で あるが、ふつう記号論では形式/内容という言い方は避ける。さて、 記号論的発想では、意味は記号に内在せずシニフィアンの差異でし かない。そして、文脈(コンテキスト)に依存して初めて意味が成 立する。同様に、媒体/情報において成立する意味も、共同体とい うコンテキストに依存し、相互的な関係を持っているだろう。文脈 が変われば記号の意味も変るように、共同体が違えば情報の内容も 変化する道理である。 ついでに言えば、マクルーハンは「メディアの内容は、常に別の メディアである」という言い方をしていたが(『メディア論』みす ず書房・8頁)、これを記号論的に誤読すれば、メディアとはつねに メタ言語であると考えることができる。すなわちメディアはメッセ ージ(情報)をメタ化する道具である。なおこれを「文学」の問題 として考える場合には、どのようなメディア(形式・様式あるいは 伝達媒体)を持つことで意味がメタ化されて作品が個別化されるの かという問題になるだろう。たぶん、そういう報告をこの場では期 待されているのかもしれないが、今日はそうした意図はない。 三点目であるが、では「情報化」とは何か。これについては二つ ある。一つは、○○化と言った場合、細分化、巨大化、液状化等、 ○○化とは、非AがAに変化することをいう。ところが、今日IT革 命云々等で言われる「情報化」は、情報を入れる器(メディア)の 変化、具体的には通信手段の広域化・高速化を意味しているようで ある。情報の質的変容を意味しているのではなく、量的な増大を言 っているに過ぎない。これを「シニフィアンの過剰」と云う、とい うのは冗談であるが、今日の「情報化」はメディアの広域高速化で あり、情報の量的な増大を言っており、この増大によって共同体の あり方が変容し危機感を誘発しているのであろう。そのために、大 会テーマにまでなるのだろうと思う。 しかし、「情報化」の意味の二つめとしては、より本質的な事柄 として、やはり非AがAになるという点を考えるべきである。すな わち非情報が情報になるという意味での情報化である。 素朴に考えると、「情報はすでに以前から存在していて、ニュー スバリューとしての価値が内在しており、その価値に応じてメディ アにのる」などと考えがちである。しかし、記号論ではそうは考え ない。言語化されない思考は意味がない(成立しない)。シニフィ アンから超越したシニフィエは認めない。情報モデルは、記号モデ ルと同じく、発見モデルではなく発明モデルである。 たとえば、「米国大統領はまだ確定しません」、「ハイジャック 犯人からの要求はまだ有りません」の類のニュースなど、何も起っ ていないということが、定時のテレビニュースというメディアシス テムに載ることによってニュースバリューを持つのである。別の例 として、アルバイト情報やリクルート情報、江戸時代で言えば吉原 細見や武鑑の類の情報誌など、これも発見された情報と考えるより も、発明された情報と考えるべきである。吉原細見などは、そのメ ディアの内容として、実際の遊郭や遊女は、もちろん吉原細見に先 立って存在している。しかし、存在それ自体は決して情報ではない。 情報は、それが言語的に分節され意味として成立し具体的に横本冊 子として造本され販売されることで初めて情報となるのである。ま さに情報化されたのである。 以上、前置きとしてはいささか長くなったが、ここでまとめてお く。述べ来った事は、とんちんかんで見当ハズレの素人意見なのか、 あるいは、当っている場合ならそれはそれで当たり前の事なのか、 今ひとつ自信がないが、これらについて要するに、記号の問題がシ ニフィアンの問題であるように、「情報」の問題はメディアの問題 なのではないかと言うことである。いずれにせよ、メディアの問題 として近世出版機構そしてその一側面である藩版の問題について考 えてみたいと思う。こういう前置きだけだと先々を心配されそうな ので予め本稿の結論を言っておけば、メディア環境上での重層性・ 複数性の問題として、近世の出版現象像を考えてみたいと思うので ある。 二 「近世の出版」論 一般に、「江戸の出版」と言う場合、だいたい次のようなかたち で語られるのではないかと思う。 まず、近世初期に朝鮮版・キリシタン版の影響下に古活字版の時 代があった。一通りの開花はしたが、しかし出版が商業資本化する ためには、整版の持つ出版効率の良さや版木の財産化等の面で、整 版印刷の方法に戻る必要があった。そして、京都・江戸・大坂とい う三都で商業出版が成立する。幕府による出版統制において最も影 響力のあったものとして、享保七年(一七二二)の江戸での町触れ がある(その中に「一、何書物によらず此以後新板之物、作者并板 元実名、奥書に為致可申候事」がある・後述)。これと同時期に江 戸では書物問屋仲間が、寛政期には地本問屋仲間が、幕府に公認さ れる。これらの株仲間組織によってなされたことは、ひとつは板株 (いたかぶ)の保証であり、ひとつは内容の検閲(重版類版の駆逐・ 後述)である。これらの機構整備に伴い、単独書肆による出版から 複数の書肆による相板、また地域を超えた三都版・四都版などが増 え、全体的に京阪から江戸へ重点が移りつつ出版の広域化が進む。 売弘書肆の地方化も進む。天保の改革で株仲間は解散させられ、そ の機能が混乱し新興書肆も乱立し、そのまま明治維新を迎える。新 政府の政策ともあいまって教科書出版販売を中心に全国的な出版網、 流通網が成立してゆく。江戸時代の出版物を検索するには、江戸の 『割印帳』をはじめ、三都の出版記録がいろいろあるから参考にし なさい……云々と、かなり乱暴なまとめではあるが簡単に言えばこ んな感じである。 一般的に、江戸の出版機構とか出版文化とかいう場合、上述のよ うな三都の町版を中心としたものになってしまう。そして、三都の 町版以外のもの、たとえば官版、藩版、寺社版、個人蔵版などや、 また三都以外の地方町版などは、派生的・補足的なものとして捉え られ、それらの研究は言わば「すきま産業」的に見られがちである。 特に、高級品扱いの近世以前の寺社版や近世初期の勅版などに比べ て、時代も下る藩版などの研究はその最たるものであろう。加えて、 ある現象の把握のためにその中心的な部分を捕らえる、ということ は悪いわけではない。が、その場合どこが中心でどこが周辺部なの かの判断は、案外難しいだろうと思うし、また中心と周辺とがどん な関係になっているかを考えることも大切であろう。 さて、本稿の狙いは、この派生的なもののひとつである藩版とい うメディアについて考えてみよう、というものである。藩版につい ての先行研究には、笠井助治(文献 1)や長沢規矩也(文献 2)の ものがある。が、膨大な笠井氏の著作を通読しても、案外に藩版の 何たるかは分かりづらい。むしろ、中野三敏氏執筆にかかる『日本 古典籍書誌学辞典』の「藩版」の項目ほうが、分かりやすい。次が その全文である(番号は高橋)。 藩版 (1)諸藩の藩主や藩校の出費によって刊行された出版 物。(3)費用は藩が負担するが、実際の出版に関する作業や 実務は、多くはその藩と関りのある書肆が行うのが通例だが、 中には藩士や一般人を技術者として養成して行う場合もある。 (5)おおむね好学・好事の藩主自身の著作や藩儒もしくはそ れに準ずる学者等の著述を刊行する。(2)享保以前は書物の どこにもその旨を表記せず、奥付なども付けないものが多いが、 享保以後は見返しや奥付に「○○藩蔵版」といった蔵版記や印 記を以て示す例が多くなる。(4)また、初めは藩版として刊 行しておいて、後にはその板木を製作者である版元に下げ渡し て、その店の刊行物として、奥付にもその書肆名を表して売り 出す例も少なくない。従って、元禄頃までの藩版は、それが藩 版であるかどうかを判断することがかなり困難な場合が多い。 東条琴台『諸藩蔵版書目筆記』には、そのような例が多数記載 される。(中野三敏執筆・岩波書店『日本古典籍書誌学辞典』 1999) 短文ながら藩版の様相を多角的に捕捉している解説であり、永年 の調査とご自身の博覧とにより初めて達成された解説であって、少 なくとも私にはこの解説の持つ重要さと達成度が分るつもりである。 それゆえにこそ、後学者の目指すべき標的ともなるものとして批判 的な取り上げかたになる。私の番号に即してコメントしたい。 (1)は極めて明解な藩版の定義であり、特にコメントは要らな い。むしろ、予測される反論を逆に先に封じておけば、一口に藩版 というが、藩主の出費、藩の出費、藩校の出費とでは、金の出所に よりその出版物の意味も違ってくるはずで、この違いをもって藩主 版・藩版・藩校版・藩儒版・藩臣版などと分類すべきではないか、 と言った反論が立ちそうに思う。出来ればそれに越したことはない が、これを厳密に区別するのはかなり難しいし、そしてより本質的 な事として、無意味かもしれない。区別したところで、なにか有意 義な現象を把握することがないからである。少なくとも、後述する 町版と個人蔵版と藩版との区別程には重要な意味を持つまい。 (2)の無刊記について、「享保以後」「享保以前」と分けてい るのは、先にも触れた江戸の町触れと関係があるのだろうか。ある とすればどのような関係なのか。後でも述べるが、江戸の町触れは 町人に対して出されたものであり、諸藩の営為には本来まったく関 係が無いと考えるべきではないかと思われる。すくなくとも、これ は私が分かってないだけかもしれないが、だれかが実証して一般的 な知見として広まっているものではなく、中野氏ならではの調査と 経験から導き出されたものである。しかし、いずれにしても、刊記 はもとより蔵版記・蔵版印さえ無い藩版もかなり多いのではないか と思う。 (3)の彫板・摺刷・造本等の作業実務であるが、町版がそれに 当るのが「通例」というが、そしてたぶんそうなのかも知れないが、 しかし実際にそれを数値として数えた人はまだ居ないはずである。 藩版の総数じたいもまだ確定できていない。 (4)払い下げの例も後述するが、はたしてそれが「通例」なの かどうか、これを問題にしなければならないと思う。 (5)の著作物として、藩校内で使用する四書五経の類の教科書 類について触れていない。たぶん藩版で最も量的に多い(タイトル 数も摺版部数も)のは、藩校の教科書類であろう。とは言っても、 これも「たぶん」という感覚的な言い方しか私も出来ない。将来い ずれきっちり調査する必要がある。 以上、『日本古典籍書誌学辞典』の記述によると、藩版は藩がお 金を出すが、通常は実際の作業は商業出版者が行ない、板木も払い 下げる例が多い、という印象を持つ。これをすこし誤解してしまう と、藩版と言えどもその主体は結局町版にある、という印象を持ち かねない点である。すなわち藩版の営為は網羅的な町版研究で完全 な把握が可能であり、それは個人蔵版などとほぼ同じ機構形態であ る、と。しかしくり返しになるが、後述の東条琴台も含めて藩版の 数や書誌的性格をまだ正確に数え調査した人はいないはずであり、 ここは慎重になるべきである。 また、藩校の教科書よりも好事好学の大名や学者の著作を優先し て列記するあたりは、藩版の目指す実学性や藩士領民教化の面より も、文人趣味的な側面が強調されて誤解されはしないか、とも思わ れる。というわけで、この記述にレッテルを貼ってしまえば、町版 主義と大名主義とがわずかながら窺われるように思う。 三 藩版の特徴 藩版をどのように捉えるべきか。そこで、特に藩版の特徴といっ た面を、次の三点から捉えてみたいと思う。(なお本稿では、資料 はリストのみ掲げ、書影は省略した) (1) 無刊記 刊記は、出版年月日、出版地、出版者で一セットである。書誌学 的には、刊記と奥付けとを区別する場合もあるが、ここでは特に区 別しないで論をすすめる。 藩版や大名版の大きな特徴の一つに、無刊記という点が挙げられ る。これは、享保七年以後の書物には、必ずしもその年の刊行かど うかはともかくも、一応刊記が附いているはずという常識に慣れて いるわれわれにとっては、無刊記の藩版などは奇異な書物に映り、 また刊年の決め手やヒントが無い点で、扱いもしにくい。 資料3は新発田藩版の『鬼神集説』、資料4は井上清兵衛版の同 書(覆刻の底本)である。同部位を影印で掲げたが、後者に「壽文 堂刊行」と刊記が附くのに対し、前者新発田藩版にはそれが全くな いのである。ここでは特に一例しか挙げていないが、こうした無刊 記本は藩版類にはかなり多く、少なくとも新発田藩版に関してはほ とんどがそうである。 次に、同じ新発田藩版で資料5の『白鹿洞学規集注』であるが、 この本には他とくらべて例外的に刊記と思しきものがある。終丁ウ ラに「天保十五年甲辰春三月 芝田 濱崎喜助智治 謹刻」とある。 この濱崎喜助は新発田藩内において半ば召し抱えの業者としての活 動していたことが知られている人物であるが、しかし、藩版の無刊 記性を考えて見れば、この部分は享保七年の触書きに言う「奥書」 (刊記)、すなわち彫板者の責任と権利を保証する証拠ではなく、 たんにいつ誰が彫ったかという記録に過ぎないのではないかと思わ れる。尤も、この『白鹿洞学規集注』は新発田の町版の可能性も無 くはない。が、少なくとも新発田藩においては、三都の株仲間から の影響を直接に受けていてその影響下とは有ったとは考え憎い。 刊記に関連して、蔵版という点からも見ておく。資料1は、会津 藩版『四書訓蒙輯疏』の見返し部分である。四周双辺、界線で三分 され、文言に「嘉永元年戊申鐫/四書訓蒙輯疏/[会津藩蔵版]」 とある。[会津藩蔵版]は朱印で、これを蔵版印と言う。また右上 には魁星印も捺されている。堅い書籍においては最も典型的な見返 しのあり方といってよいが、町版の場合だと通常こうしたきちんと した見返しを持つ本でありながら刊記が無いということは有り得な い。しかし、この会津藩版書は全二十九冊の大部なものだが、無刊 記である。その点で、町版に較べたとき、やはり奇異な感じがする。 さて、これが会津藩版である由はこの見返しの蔵版印によって分る。 この例などは、まさに先の中野氏の記述の(2)の事例にぴったり あてはまるものであろう。無刊記ではあるが、会津版が蔵版主であ ることは銘記されているわけである。が、逆に言うと、蔵版主だけ を銘記し、その彫板・摺刷・造本に当たった者(書肆)の名前を示 す必要が無い、「奥書」にする必要が無い、という点で享保七年の 触書きの埒外にある本である。 これとの比較のためにあげたのが、資料2の紫芝園蔵版・小林新 兵衛版『古文孝経』の刊記部分である。太宰春台校訂の本書は須原 屋小林新兵衛のドル箱と言われいくつも版があるが、これは文化四 年版である。刊記は「享保十七年壬子仲冬朔旦/東都 紫芝園蔵版 [紫芝園蔵版不許翻刻]/文化四年丁卯三月 新板/書肆嵩山房小 林新兵衛発行」。一般に言う狭義の蔵版とは、彫板・摺刷・装丁を 行う書肆に対して、実際にその本の権利を有する著者等に付随する 権利である。そして、蔵版主自身には出版権・販売権がなく、出版 販売権を持つ株仲間傘下の書肆に印刷・出来を任せ、市販も委託す る。こうした委託を「支配させる」と呼んでいた。この『古文孝経』 は太宰春台の個人蔵版本(入銀本)である。さて、この蔵版という 点で、「会津藩蔵版」も「紫芝園蔵版」も、近世出版機構において 同じ並列の関係にあるように思える。が、たぶん微妙な違いがある。 藩版で言う蔵版と、一般書肆に委託して作る個人蔵版とで、何が違 うかと言えば、個人蔵版の場合は必ず書肆名が附く(しかも刊記に) ということである。藩版の場合には、この刊記が無くても構わない (あっても良い)という点が大きく異なる。 この刊記の有無の差違は、単に市販をするか否か、という点だけ にかかっているものなのであろうか。市販しない書物(たとえば弟 子に配るだけ等)の場合であれば、株仲間等の書肆の管理外にある のかも知れない。が、藩版の場合、率直にそういうものと同じであ るのかどうか、まだなんとも言えないのではないか、という感じが する。尤も、蒔田稲城『京阪書籍商史』(文献13・108頁、321頁) や、それを敷衍した宗政五十緒(文献14・44頁)などは、市販する か否か、つまり販売・流通権の問題として明解に位置付けている。 が、特に、蔵版主として藩の名前を銘記した藩版書の場合は、それ が実際に市販されていたかどうかが問題になるだろう。それは、町 版によって支配されていた本なのかどうか、ということの具体的解 明である。これについてはより調査が必要である。 (2) 重版・類版の規制外 刊記を銘記する目的の一つは、重版・類版の駆逐にあった。しか し、藩版は、その重類版禁止の規制外にあったと思われる事例があ る。この事例は、前述の町版の刊記と藩版の「刊記」との差違にも 関連する。 資料6は町版の『近思録』、資料7は新発田藩版の『近思録』で あるが、新発田藩版は町版からの被せ彫り(覆刻)なのである。町 版の『近思録』は幾種類も存在するが、この大本・半葉九行毎行十 六字のかたちのものは、江戸前期刊行の井上清兵衛版を嚆矢として、 幕末まで武村市兵衛・同佐兵衛版、藤村治右衛門版、菱屋孫兵衛版 などがあり、これら町版は正規の手続きで板株が移動してきたと考 えてよいだろう。しかし新発田藩版は、それらを底本として覆刻を 行っているが、おそらく町版へは断り無しに覆刻をしたのだろうと 思われる。 これはひとり新発田版だけのものか。藩版による町版書の覆刻の 例はまだあまり報告が無いが、決して新発田版特有のものではない。 資料8は、鹿児島藩版『近思録』であるが、これも図版を見れば一 目瞭然、町版からの覆刻である。新発田藩版と鹿児島藩版どうしも 直接の関係はなく、それぞれが別個に無断で町版から覆刻をしてい たと思われる例である。 もう一例、鹿児島藩版から例をあげると、資料9は河内屋茂兵衛 他三都十肆版『箋註蒙求』 (三巻三冊)である。資料10は、鹿児島 藩版『箋註蒙求』で、見返しに「明治辛未年新鐫/標題 箋註蒙求 読本/鹿児島藩蔵板」とあるが、これも覆刻である。『箋註蒙求』 は岡白駒著で初版は明和四年である。 以上これらは、町版が先にありそれを覆刻しているのである。次 節で述べる、藩版の払い下げとは全く異なる事例であり、また複数 の藩版に存在している。こうした事例は、これからも発見されてゆ くだろう。 さて、本節を要するに、これはいわゆる重類版の問題に関わるだ ろう。重版・類版問題は商業出版資本において最重要課題であった。 その点で、こうした藩版による覆刻をどう考えるべきか。刊記の記 載が重版・類版の駆逐を保証するとすれば、逆に、藩版の無刊記は 重版・類版の埒外にあることを示しているのであろうと思われる。 個人蔵版(入銀)本では、重類板の禁制を犯すことは考えられない。 なぜなら、個人蔵版の出版物は、町版の支配下に完全におかれてい るからである。しかし、藩版はそうではなかったのではないか。し かも、覆刻本を「鹿児島藩蔵板」と称する『箋註蒙求』など、本来 的な「蔵版」の持つ意味を無視していると思わざるをえない。これ も、市販するか否かという販売権に関わるだけの問題なのであろう か。 (3) 町版との提携 先程から触れてきた、「初めは藩版として刊行しておいて、後に はその板木を製作者である版元に下げ渡して、その店の刊行物とし て、奥付にもその書肆名を表して売り出す例」について考えてみる。 これについて触れているのは天保頃成立したと思われる東条琴台 『諸藩蔵版書目筆記』である。凡例の一条に次のようにある。 蔵版の名目は、水府彰考館にて編修ありし新編鎌倉志、参考保 元平治物語など、そのころの先鞭なるべし、皆貞享元禄の中に あり、正徳享保にいたりては蔵版の唱へ比々として起りぬ、そ れより已前紀府にて那波道円が明備録、永田善斎が膾余雑録を 雕刻して、京師の書肆へ命じて発販ありし例多し、また蔵版の 名目はなけれども、右様の藩の失費にて上木出来して、後には 版木を書肆へ下されしこと、世間一様の風習なりしゆゑ、其後 には版木書肆の有となるとも、其はじめは藩にて出来せしもの 悉く是を其藩へ記す、 これら払い下げの実例は『諸藩蔵版書目筆記』に多数示されるの で(一つ一つについで実証されているわけではないが)、すこし微妙 にズレが無くはない例を挙げる。資料11は、先程から例を挙げてい る新発田藩版のうち『儀礼経伝通解続』(14巻15冊)の終冊終丁ウ と同見返部分である。「新発田侯蔵」(終丁ウ)、「天明二年壬寅 冬十一月/皇都 山本平左衛門/林権兵衛/梓行所」(後表紙見返) とある。新発田藩版の多くは、自前で工房を持ち職人を抱えて雇い 藩内で(町版の被せ彫りではあるが)印刷出来を行っている。それ にくらべて本書は、数少ない町版へあつらえた例である(尤も本書 は明代の唐本を底本とする覆刻であるのだが)。なお、本書はこの 「新発田侯蔵」版のみが知られ、町版として払い下げられた物はま だ管見に入っていない。 資料12は、福山藩誠之館蔵版の『重訂小学纂注』(全四冊)の一 冊目見返と四冊目後表紙見返の刊記部分である。刊記には「福山誠 之館蔵版/製本所 江戸下谷池端仲町 岡村屋庄助/大阪心斎橋通 唐物町 河内屋吉兵衛」とある。書肆を称するに「製本所」という のが興味深い。なお余談であるが、本書も覆刻らしく、見返しに「 福山藩歳寒堂蔵版」という蔵版記を持つ同著(底本)が存在する。 資料13は、富山藩広徳館版の四書(全十冊)で、刊記に「……書 林 越中 真田善次郎」とある。これは明治期まで活躍した富山の書 肆である。本書は幾つも刷りが存在し、表紙等装丁が異なる本も多 い。なお、柱刻象鼻には「広徳館蔵版」とあるが、見返には「鶴棲 堂蔵版」などともある本である。「鶴棲堂」は真田であろうかまだ 確認がとれないが、藩版を下賜した例と言えるかも知れない。 資料14は、紀州藩南嶺館蔵版の『名数画譜』(全四巻四冊)であ る。四巻目後表紙見返に「紀藩 南嶺館蔵[蔵版印]/文化七年庚午 夏六月/発行書林(中略)帯屋伊兵衛」と、紀州の書肆名五肆が連 名している。 新発田藩が自前で工房を持ち藩内で印刷・出来していたことは先 にも述べた。が、なぜ自前で行っていたかは、その理由さえまだ明 らかではない。また、木曽代官山村蘇門も自前の出板工房を抱え、 かなり高度な彫板技術を持っていた。こうした例は、決して少なく はないとおもわれる。しかし、実際にはやはり、既成の書肆に彫板・ 印刷を委託する例は多いはずである。 余談ながら提携した町版にしても、既に実績ある三都の大書肆に あつらえるのと、地元の商業出版者にあつらえるのとでは、おそら くその意図は違っていただろう。前者の場合は、本作りのノウハウ を知悉した大書肆に完全に委託し、出来上がりもそれなりに秀麗な 冊子となることを期待しているだろう。後者の場合には、予算規模 が小さいためだったり、地元の殖産興業的な意味合いもあったに違 いない。新発田藩の場合『儀礼経伝通解続』は前者の例であり、『 白鹿洞学規集注』がもし町版であるとすれば後者の例である。また、 資料13『四書』や14『名数画譜』なども後者の例である。特に『名 数画譜』などは諸家の名筆、篆刻、絵画などを摸刻していて高度な 彫板印刷技術が要求される本かと思われるが、三都についで出版が 盛んだった仙台・金沢・広島などと並んで第二グループ的な紀州藩 などでは当然のレベルとしても、それとは格として落ちる富山藩領 にさえも既に江戸後期にはこうした技術の広がりが有ったと考えて もよいのであろう。 本題に戻るが、こうした例、藩蔵版が銘記され同時に書肆の刊記 も附くという藩版書は多いとされる。が、まだこれを数として数え た人はいないはずである。たしかに実際にも多いのであろうが、こ うした本のほうが、無刊記の藩版よりも目立つということは言える だろう。 さて『諸藩蔵版書目筆記』の記述を振り返っておく。正徳享保期 から「蔵版の唱へ比々として起りぬ」とあるのは、やはり享保七年 の出版統制による刊記の義務付けと何らかの連動があるのかも知れ ない。蔵版記・蔵版印については、『日本古典籍書誌学辞典』に「 享保あたりから一般化するようで、それ以前の実例を見ない」とも ある(中野氏執筆)。 次に、「藩の失費にて上木出来して、後には版木を書肆へ下され しこと」が「世間一様の風習」であると記されている。この「世間 一様の風習」というのは、かなり強い表現であり、半ばこれを持っ て実証されたように思わせられる。が、これも実際は、なかなか実 証は難しい。中野氏は『諸藩蔵版書目筆記』の載った本について、 次のように述べている(文献11・200頁)。 例えば黒田藩の場合、前記の『諸藩蔵版書目筆記』では貝原益 軒の著述などは大半が藩版として出されたものだが、実際に現 存する板本について確かめると、殆どが小川柳枝軒や村上平楽 寺、永田調兵衛、吉野屋権兵衛といった京都の大書肆の奥付の ものであり、藩の蔵版印や蔵版記は見当らない。即ち江戸前記 には藩版であることを証するための蔵版記や蔵版印は用いられ ないのが通例であったらしい。しかし後記になると、藩儒亀井 南冥の『論語語由』(文化三年板)には黒田の支藩秋月藩の、 同じく藩儒竹田春庵の『小学句読集疏』(天保九年板)には藩 校修猷館の蔵版印が備わって明白である。 江戸前期には蔵版記や蔵版印は用いられず後期になると蔵版印が 備わる、という差違は何に依存するのか。享保七年の町触れによる ものなのか、あるいは藩の出版に対する考えた方自体が変ったから なのか。例えば、出版資本が未だ整ってない時期の御上の慈善事業 的な発想から、藩校が林立してくる時期の実益的な発想へ、といっ た具合いに藩の出版に関する考え方が異なってくるのは時代の流れ として必然的なものであろう。益軒の例で言えば、黒田藩儒だった 益軒にとって、著書の出版の際に藩から助成金が出る可能性はあろ う。その程度の関りを藩版と呼ぶべきなのか。科研費出版助成金に よる出版は官版か、普通そうは言わない。ともあれ、益軒の本など はかなり調査が進んでいる段階ではあろうと思うが、今一度藩版と いう視点からきちんと見直す必要があるだろう。 中野氏は、今の引用に続けて「右のような藩版なども『入銀』と 呼んだかどうかはいささか危ないが、個人的な私版の場合は明白な 『入銀』による出版という事になろう」と言っている。これは示唆 的である。つまり、刊記の節で前述したが、個人蔵版(入銀)本は、 それを入銀と呼ぶ限り、町版の支配下に有るのである。それに対し て、藩版は、少なく見積もっても「入銀=町版の支配下にある」と はまだ言える研究段階にはないのである。但し、勿論これも市販す るか否か、販売権の問題も関わってくるだろう。が、実際に販売さ れていたのか、その調査は不可欠である。 四 おわりに 事例的には未だ全く不足していて、推測で述べているところも多 い。その点では、今後改めなければならない点も出てくるかとは思 われる。しかし、次のような事は言えるのではないか。すなわち、 刊記(奥書)の記載義務や、それが保証する重類版の禁止など、三 都の町人・株仲間組織が勝ち取ってきた権利というものは、まさに 町人の論理のうちにあり、またうちにしかなく、武家の論理で動い ている藩版には必ずしも通用しないのではないか。少なくとも、そ う考えざるを得ない事例は存在する。刊記のみならず蔵版という概 念も、もしかしたら時と場合によっては藩版には通用しないかも知 れない事例もある。個人蔵版の場合、多くは町版に完全に「支配」 されているようである。が、藩版は必ずしも町版の管理下にはなか ったのではないか。恐らくは藩版書が市販される場合に限って書肆 からの「支配」を受けるのかとは思われるが、藩内の地元書肆の場 合でも三都株仲間の支配と同様なのかは、まだ分からない段階であ る。 ここで垣間見えるのは、武士と町人という、封建身分制に反映さ れた文化構造である。つまり出版機構・文化といえども町版のみの 解明で全てが分るといった状況は言えないと思う。また藩版と提携 した商業出版のあり方を考えても、商業書肆にとって藩版は良い得 意客であっただろう。その点、町版の研究においても、彼らが藩版 にどう対処してきたかという点は十分に考慮してゆくべきであろう。 次に、以上述べ来った藩版は、非三都版、非町版の一例であるが、 江戸のメディアとしては、文字媒体だけに限っても、ほかにも摺物 (一枚物)や写本などがある。写本は、印刷されはしないが手書き の出版物であろう。これらの事情から見て取れるものは、メディア の重層性とでも言うべき、状況である。今日現在の出版メディアと して印刷的な媒体に限っても書籍、雑誌、新聞などがあり、流通面 でも複層している。 メディアにはそれぞれが作り上げる現実性(リアリティ)という ものがあるだろう。われわれも江戸時代の人々も、本来的にはそれ らの重層的で複数の現実の中で生きているのである。しかし、あま りに複雑な現実というのは認識しにくいものである。そして「現実 は一つである」と考えるほうが考えやすいし生きやすい。藩版をど う認識するかという点をひとつ取っても、「世間一様の風習」とい う風に町版を中心としてモデル化・一元化してゆくのも一つの可能 性ではあろう。しかし、先程上げた藩版の特徴、すなわち無刊記、 町版の制度外、町版の技術を利用という特徴は、かならずしも一元 化されない契機を孕んでいるように思われる。この非一元性は江戸 の厳然たる身分社会の反映でもある。 冒頭の「情報」「情報化」と繋げて、結論としたい。 メディアの重層性が産み出すのは、おそらく、世界認識の重層性 であろう。われわれの生きる世界は情報環境世界である。すなわち、 メディアの現れ方のよって(一人ひとりの人間にとってさえも)複 数の現実として世界は立ち現れ、その中で人は複数の役割(アイデ ンティティ)を生きている。世界が単純に一つのものとして認識出 来る楽さからすれば、これはむしろ生きにくい世界である。しかし、 この複数性・重層性をありのままに生きるほうがあるべき正しい姿 である。 しかし、複数の認識・役割という生き方は、つらく、むつかしい。 そして、人は単一な世界にあこがれがちである。 資本主義・貨幣経済は、まさに世界を単一なものとして呑込んで しまう運動・現象である。そしてそれは現象を超えて、世界認識の 方法でもあるだろう。商業出版とはまさに資本主義である、などと 言えば付会というよりは冗談みたいに聞こえるかもしれないが、し かし、歴史的にも商業出版が版元網(相板)や販売網の拡大を全国 化してゆくのは、やはりその必然的本質である。 現実のレベルでの近世出版機構がどうだったのかという事はまだ 不明な点が多く、確たることは言えない部分も多い。他方、研究( 認識)のレベルでは、町版(資本主義的出版)の一元的認識で捉え ようとするのは了解しやすい。また、実際に歴史的にも、明治期に なれば、身分社会も株仲間も崩壊し、全国的な販売網の熟成によっ て一元化されるのかもしれない。しかし、わたしたちにとっての課 題は、我々が研究のレベルで、さまざまな「情報」によって、どの ような近世出版現象の現実を形作ってゆくかという点にある。藩版 という「情報」をどのように見るか。藩版のあり方を、町版に一元 化しえなかった近世出版の様相として考えるべきではないか、とい うのが本日の私の提案である。 【資料リスト】 1. 会津藩版『四書訓蒙輯疏』半紙本29巻29冊・見返 [半魚文庫蔵] 2. 紫芝園蔵版『古文孝経』1冊・後表紙見返 [半魚文庫蔵] 3. 新発田藩版『鬼神集説』1冊(覆刻)・終丁ウ [新発田市立図蔵] 4. 井上清兵衛版『鬼神集説』同冊・同部位 [半魚文庫蔵] 5. 新発田藩版『白鹿洞学規集注』1冊・終丁オウ [半魚文庫蔵] 6. 弘化三印菱屋孫兵衛版『近思録』14巻 2冊・序 1オ・巻一 1オ [半 魚文庫蔵] 7. 新発田藩版『近思録』覆刻・序 1オ [新発田市立図蔵] 8. 鹿児島藩版『近思録』覆刻・巻一オ [玉里文庫蔵(文献9)] 9. 河内屋茂兵衛他三都十肆版『箋註蒙求』 3巻 3冊・見返・ 1オ [半 魚文庫蔵] 10. 鹿児島藩版『箋註蒙求』同巻冊・同部位 [玉里文庫蔵、文献9] 11. 新発田侯蔵版『儀礼経伝通解続』14巻15冊・終冊終丁ウ・見返 [ 文献10] 12. 福山藩版『小学纂註』 6巻 4冊・見返・後見返 [半魚文庫蔵] 13. 富山藩版『四書集注』10冊・見返・終冊後見返 [半魚文庫蔵] 14. 紀伊藩版『名数画譜』 4巻 4冊・見返・終丁ウ・終後見返 [金沢 美大図蔵] 【文献】 1. 笠井助治『近世藩校に於ける出版書の研究』(吉川弘文館 1962) 2. 長沢規矩也『和刻本漢籍分類目録』(汲古書院 1986) 3. 市古夏生『近世初期文学と出版文化』(若草書房 1998) 4. 鈴木俊幸「本屋名寄 〜明治二十年」(科研報告書『日本近世にお ける書籍・摺物の流通と享受についての研究』1999) 5. 丹羽謙治「幕末薩摩の出版」(『江戸の文事』ぺりかん社 2000) 6. 高橋明彦「新発田藩版とその原版」(『江戸文学』16 ぺりかん社 1996) 7. 高橋明彦「新発田藩版とその版木」(『金沢美術工芸大学紀要』1 999) 8. 高橋明彦「展望・文学研究のやくにたつ近世出版研究」(『日本文 学』1999) 9. 鹿児島大学附属図書館『玉里文庫等善本図録』(同館編 1997) 10. 長沢規矩也・戸川芳郎編『和刻本 儀礼経伝通解』(汲古書院 1 988) 11. 中野三敏『書誌学講義 江戸の板本』(岩波書店 1995) 12. 林望『書誌学の回廊』(日本経済新聞社 1995) 13. 蒔田稲城『京阪書籍商史』(臨川書店 1982、原著は1929) 14. 宗政五十緒『京都書林仲間記録』第六巻(ゆまに書房 1980) 【補記】 本稿は、当日の発表のメモをもとに、ほぼその報告内容を再現した。 また、別掲の質疑応答およびシンポジウムの発言については、二三瑣 末な訂正を加えた以外には、まったく書き直しをしていない。意をつ くしさずとんちんかんな受け答えも多くて、それでは役に立たないわ けであるが、これもまた記録。意を得ぬ下手な回答という評価を甘ん じて受けたい。質疑応答等の記録をいじらないかわりに、質問や意見 にたいしてこの場で回答や補足を記したい。 高田氏の御意見については、文献 8でその回答に当るような事を書 いているかもしれない。そもそも、文学(研究)の自立性やリアリテ ィが現代において如何にして成立するのか、させうるのかという大問 題がそこにある(べきだ)と思う点では、私もその課題を氏とともに 共有しているつもりである。なお、高田氏の意図とは無関係に氏の意 見に賛同していらっしゃるかたも居たようである。私は「言葉を扱う のが文学研究」などというレベルでは、文学(研究)のリアリティは 回復できないと思う。というより、言葉とは何なのか、もうすこし考 えてほしいと思う。いずれにせよ「情報」「情報化」よりも「文学」 のほうが自明ではなかったという点では、私が甘かったと反省してい る。 稲田氏の意見は、その場では焦っていてぴんとこなかったのだが今 理解した。藩版の覆刻を、たんに武士が町人の侵しているというよう な理解ではなく、和刻本出版の場合のような積極的な意義を認めるこ とは出来ないか、というものであった。今の私には的確な回答は難し いが、示唆的な御意見である。なお、『名数画譜』に大坂版は無く、 紀伊藩版と考えてよいようである。稲田氏からその後御教示を頂いた。 感謝致します。 小二田氏の意見は、情報がメディア変換される場合の、その情報内 容の具体的な変容について二三の例も挙げたものである。報告の本編 の中でも、情報とメディアの関係については少し触れてはいるが、私 のシンポジウムでの回答は今読むと少々意味不明だが、こういう事が 言いたかった。即ち、メディア変換されることによって必然的に内容 の変容も蒙るだろう。正直言えば、そういう具体例の発表が「文学研 究の視点から」という方針にも相応しかっただろうと思う。私にそれ ができなかったのは、一つは単に私の力不足ではあるが、正直言って、 あまり文学々々した発表は気分的にしたくなかったのである。課題は 共有しているつもりだが、「文学は吾に有り」式の体質が嫌いなので ある(が、かなり「非連続」だったと反省もする、皮肉でなく)、と いう事である。 「抽象化能力」というのは曖昧な言い方ではあるが、どのようなメ ディアであっても、「意味を読み取る」式の文学研究・享受の網にか かると、メディア的な物質性がすべて抽象化されてしまい、統一的で 理想(観念)的な存在になってしまう。研究とは方法論であり、諸々 の方法論の違いの本質は、対象に何を見出すかという点の差異に尽き る。そして、文学(研究)はかつてそういう理想的な部分のみを見て いた。メディア変換にかかる微妙な変容のその微妙さを重要なものと して研究する態度は、小二田氏を始めとして既に始っているだろう。 そもそも意味の呪縛から如何に逃れるかが二十世紀文学研究の基本路 線である。しかし一方、その微妙さを抽象化して理想的な文学の神話 に埋没する思想は、私の中にもまだあるし、学会一般的に見ても結局 いまだ根強いように思う。「文学」の、古い意味での自明性である。 「校正の際にはコンピュータのほうが便利」みたいな回答をしてい るが、これは全く我ながら意味不明。お詫びしたい。 報告中の冒頭で情報や情報化について素人考えを述べたが、会場に はあまり聞こえなかったようである。マイクのせいではなくて、なん だか自分でも場違いな話を用意してきたのかなあなどと気をまわし腰 が引けたためである。しかし本稿では省略せずに書いた。 (たかはし・あきひこ/金沢美術工芸大学) [HTML付記] *全くお恥ずかしい限りだが、『名数画譜』は藩版ではない。紀伊の地 方版である。