神道講釈の思想と文芸.works.半魚文庫

増穂残口 --神道講釈の思想と文芸

高橋明彦  

 増穂残口は、まずもって『艶道通鑑』の作者である。その著述を種とした神道講釈なども含め、近世を通じて絶大な人気と影響力をもっていた。近代においては「忘れられかけた思想家」(家永三郎)であったが、中野三敏氏によって伝記や著述の研究がなされ、また『神道大系』(論説編巻二十二・増穂残口)がその一冊に残口を加える等、今日ではその存在の意義がほぼ見直されている。なお、本稿もこうした先行研究の成果に与っている。

○ 伝記

 伝記については中野三敏氏の諸論が極めて詳細である(「増穂残口伝」『近世中期文学の研究』。「増穂残口伝(下)」九大文学部『文学研究』七十三輯。「増穂残口の人と思想」岩波日本思想大系『近世色道論』)

 残口は、竹中氏(『神道大系』解題、十五頁)。明暦元年豊後国臼杵の松岡に生まれ、若年時に浄土僧となったが、やがて日蓮宗に改宗した。この日蓮宗の僧侶時代の残口については、「『艶道通鑑』を述作する六十一歳までの消息を述べた殆ど唯一の文献」(中野氏)として、三田村鳶魚「滑稽本概説」(『同全集』二十二巻。二十六頁)が紹介する『貴耳録(きじろく)(原本未詳)なる書に、「残口翁最中は元谷中感応寺の所化にてありける、常憲院様の御代、感応寺や四谷千本木の寂光寺やなんど流罪にあひし時、銀座の大黒屋長左衛門と同道にて京へ上り、大黒屋寄宿の中、艶道通鑑を作る」とある。

 谷中感応寺は日蓮宗不受不施派の寺で、元禄四年・元禄十一年などに幕府から弾圧を受け、多くが流罪に処せられ、元禄十一年度の弾圧で寺は天台宗に改宗された。この記事からすれば残口も連座したらしいが、流罪は免れたらしく、それを契機に寺籍を離れたか、と中野氏は推測される。

 大黒屋長左衛門は常是包所の御用商人で、鋳造銀貨を幕府への貢納用に包封する役を一手に引受けた特権商人。法華僧と特権商人とのこの結び付きは興味深いが、しかし同道して京に上った時期については、元禄十一年直後では無いらしい。奥州八戸白山権現の縁起『白山縁起』及び『白山縁起跋』は、それぞれ元禄十六年、享保十六年の年記が記された残口の著作(『神道大系』)。よって中野氏は、残口の上京は宝永期に入ってからか、とされる。また『艶道通鑑』述作も享保元年と確定しうることを鑑みれば、『貴耳録』の信憑性もいささか問題とはなる。ただし、不受不施派の熾烈なまでの信仰ぶりと、残口後年の神道宣揚の熱烈さとは共通の精神基盤から成るようにも思われる、とも中野氏は説かれ、首肯すべき説である。

 さて、残口の具体的な履歴は、正徳五年、六十一歳で還俗し、似切斎(じせつさい)残口と号して『艶道通鑑』を述作するところから始ると言って良い。その事跡については中野氏の諸論に尽されている。

○ 著述

 著述については、先の中野氏諸論文や『神道大系』に諸本の調査が備わる。今そこから、刊年と書肆とを簡略に拾い出してみる。

 『艶道通鑑』(五巻六冊・正徳五年)は、京の加登屋長右衛門の単独板。享保四年に再板本が出るが、これらは大坂の瀬戸物屋伝兵衛、武川善右衛門、山本九右衛門などの相板、または単独板である。後に江戸の須原屋茂兵衛板も出る。また以下の七部の書と合せて『残口八部書』という叢書が板行されるが、これは山本九右衛門板である。後には須原屋茂兵衛からも『八部書』が出される。  

『異理和理合鏡』(三巻三冊・享保元年)は、板元不明。享保四年にも再板され、(坂)武川善右衛門、山本九右衛門などの相板。『八部書』が山本板、須原屋板と有るのは『艶道通鑑』と同様だが、以下の六部の書を合せ、『残口七部書』として、(江)須原屋茂兵衛・(京)伏見屋半三郎・(京)近江屋治助の相板がある他、『有像無像小社探』『直路の常世草』『神国加魔祓』『神路乃手引草』と合せて五部書『神代物語』が、(京)風月荘右衛門、(江)須原屋茂兵衛、(江)岡田屋嘉七、(坂)柏原屋清右衛門、(坂)柏原屋与左衛門、(坂)柏原屋清兵衛の六書肆三都相板で出される。

 『有像無像小社探』(二巻二冊・享保元年)は、(江)本屋彦九郎、(坂)近江屋与次郎兵衛の相板の初板本ほか、須原屋板、無刊記板などがある。先述の『八部書』『七部書』『神代物語』もある。

 『直路の常世草』(二巻三冊・享保二年)は、初板本は板元不明。また『八部書』『七部書』『神代物語』がある。

 『神国加魔祓』(三巻三冊・享保三年)は、初板が瀬戸物屋伝兵衛・武川善右衛門。再板本に須原屋茂兵衛。ほかに無刊記本、また『八部書』『七部書』『神代物語』がある。

 『つれ%\東雲』(二巻二冊・享保三年)は、『八部書』『七部書』『神代物語』があり、『八部書』と同板の単独板もあるが、これは板元不明。

 『神路乃手引草』(三巻三冊・享保四年)は、初板本が瀬戸物屋伝兵衛、武川善右衛門の相板。同じ書肆による再板本もある。ほかに須原屋の単独板、また『八部書』『七部書』『神代物語』がある。

 『死出の田分言』(二巻二冊・享保四年)は、単独本には刊記がないが、初板本については『割印帳』享保十五年十二月に小川彦九郎により再板の願出があり、小川板かとも中野氏は推測される。ほかに『八部書』『七部書』がある。なお、以上の八著はみな『神道大系』に飜刻があり、他の著作についても本節冒頭の諸論に詳しい。

 以上、その著述が板を重ねてゆく様を見れば、大いに世に入れられた事がわかろう。また正徳五年から享保四年までの間に精力的に述作した事もわかる。書肆との関連を見れば、初めに京の加登屋、または瀬戸物屋、武川、山本などの大坂の書肆が初板本またはその再板本を出し、それを山本九右衛門が『八部書』として売出したと見える。江戸においては須原屋が一手に板行を握ったらしく、単独板のほか『八部書』の再板を出し、また京の伏見屋・近江屋との相板で『七部書』を、三都板で五部書『神代物語』を出していったのである。山本九右衛門は、竹本座の浄瑠璃を中心に板行した正本屋であるが、残口の神道書の出板も行う辺り、興味深い。また江戸の小川彦九郎は、儒書神道書などを精力的に出板した京の柳枝軒小川多左衛門の江戸店だが、『死出の田分言』の再板願いに見られるように、残口著作の人気を見て板行への参入を狙ったようにも思われる。

○ 思想

 残口の思想的側面については、特に家永三郎「増穂残口の思想」(『日本歴史』第四十一号)がユニークである。残口は、儒仏思想に対抗する形で、日本固有の思想を捉えようとした点において国学者の先駆的な位置を占める、と言う。しかも、残口がその論拠を古典籍に求めるのみならず、浮世草子・咄本・草双紙など同時代の俗文芸の中からも旺盛に捉え、加えて民間信仰や口碑など風俗的な面からも日本固有の思想を導きだそうとした点について、家永氏は「柳田国男翁の提唱する新国学は実は国学の出現に先立って残口により第一歩がふみ出されてゐたのであり、荷田春満に始る狭義の国学はむしろ広義の国学の文献学への偏向と評すべきものではなからうか」とまで述べる。それは神道による民衆教化という実践的具体的な基範倫理であり、礼をもととする朱子学的道徳に対立し、誠をもととするもであった。

 この「誠の倫理説」は、先に伊藤仁斎などの説く所であったが(中村幸彦「文学は「人情を道ふ」の説」著述集1)、残口は誠の根拠を夫婦の和においた点で、礼を第一とし親子の主従関係を中心とする倫理から、誠を第一とし夫婦の和合を中心とする倫理への転換がある、とする。この倫理観は、男尊女卑を排し男女平等を唱え、必然的に恋愛至上主義の立場を取る。宣長は恋愛に人間の真情を見たが、それは文芸を道徳から解放したに過ぎない。が、残口はそれを直接に実生活の恋愛の倫理として提唱し、その真情においては婚姻以外の恋愛も是認するという残口の思想を「破天荒の勇敢なる試み」として、氏は宣揚する。

 尤も家永氏は、こうした残口の画期的にして特異な思想も、こと身分秩序や政治問題においては現封建制を賞揚する保守思想家であった、と冷静に釘を指してはいるが、しかし、その恋愛至上主義思想は当時の小説や演劇に見られる情緒と通底する反封建道徳思想でもあった、と論ずる。

 一方、中野氏は、「残口の思想と言えば、『艶道通鑑』に専ら説かれる、恋愛至上主義とでも言えば言える自由恋愛論が最も著名であり、‥‥が、残口の場合、その恋愛論はあくまで彼の神道思想の一節をなすものであって、いわば神道思想興隆運動の一貫として、直接彼の言によれば、「継絶荒廃」の意欲に燃えて説き出されたもの」(思想大系)であるとする。加えて、神道思想興隆の思想が排仏論を基調とする点については、熊沢蕃山の時・処・位の説による排仏論を援用した、としている。

 家永氏の論はいささか近代主義的な側面もぬぐえず、ピント外れと評されても仕方のない面はあるが、残口に宣長的な側面を垣間見る事は可能であろうし、「もののあはれ」説の底辺に浄瑠璃等の庶民文芸における恋愛など私情の肯定を見るならば(日野龍夫「宣長と当代文化」『宣長と秋成』)、思想の下で水脈的に通底する文芸を介して、二者に共通する面を見出す事も可能であろう。

○ 影響

 『艶道通鑑』の影響としては、同時代における思想的な批判と、後世に対する文芸的な影響とに分けることが出来よう。

 批判書には、逸士某『人間一生誌』(享保五年)、北水子『一座物語』(享保六年)、『残口猿轡』(享保七年)、伊藤栄跡『弁惑増鏡』(享保十五年)、などの刊行を見る。南嶺多田義俊も、写本『続遊和草』(享保十九年)、『蓴菜草紙』(寛保三年)で残口流神道の激しい仏教批判、追従者の狂信的な態度などを揶揄し、気質物浮世草子『大系図蝦夷噺』(延享元年刊)、『教訓私儘育』(寛延三年刊)などでも同趣の造型でモデルとする。

 残口の思想的影響については、安藤昌益への影響が指摘されるが(中野氏『思想大系』解説)、これ以外は特に直接的な関連はなかったと言えよう。残口の恋愛論も、宣長の「もののあはれ」の説に至るには、直接要因としての文献学の確立が必至であった(竹岡勝也「国学者としての増穂残口の地位」『史淵』第三輯)

 残口がもたらした直接の影響は、その講釈が有した文芸的側面であった。これには、中野氏「残口と江戸文学」(神道大系『増穂残口』月報10)が詳しい。そもそも佚斎樗山『七部の書』、平賀源内『六部集』などは残口の叢書に倣ったものである。あるいは、小説史の表舞台で八文字屋本が流行していたこの時期の上方に端を発した残口の文芸は、静観房好阿『当世下手談義』以下に成立する最初の江戸の小説である談義本の直接の母体となった。その生命は、当世風俗を風刺批判し自己の思想を展開するという執筆態度であり、『当世花街談義』や『当世滑稽談義』の序文では残口がその始祖として明記される。

 また残口の口吻は熱にうかされたような舌耕調の激しい破格狂体の文体でもあった。僧侶と見れば怒鳴り付け、「天とは二人と書、夫婦和合のとき流出る淫水‥‥」(『元無草』寛延元年)と説いた江戸浅草の講釈師深井志道軒は、残口をより下世話に引き下ろした夫婦和合論者でもあり、文芸のみならず思想的側面での唯一の継承者とも言えば言えようか。

 志道軒を師と仰いだ平賀源内は、『六部集』序に「全く、残口が無駄書を、八部にせんとするには非ず」との万象亭の一文を持ち、また『根南志具佐』巻四の冒頭、四六駢麗体風で名文と名高い両国橋の描写も『艶道通鑑』巻四「四季の段」に先例があり、「味噌のみそ臭きと学者の学者臭き」といった警句も、既に仮名草子『為愚痴物語』などに先従があるとは言え、やはり『艶道通鑑』巻一之十六の「味噌は味噌ながら味噌臭きは悪く‥‥」に求める事が出来よう。江戸では他に、大田南畝や山東京伝も書中に残口の名を挙げる。上方でも、『雨月物語』「青頭巾」で『艶道通鑑』を引用した上田秋成は、『世間妾形気』で既にその書名を挙げる等、恐らく楽しんで読んだであろう読者の一人であった。

(高橋 明彦 たかはし あきひこ / 東京都立大学助手)



 

初出 : 至文堂『解釈と鑑賞』759号(1994年 8月)
(c)高橋明彦 1997年11月14日 HTMLによる公開

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