稲垣 秀一

卒業論文要旨

−プラトンのカロカガティア(Kalokagathia)−
としてのカロカガティア解釈の一試論

 まず、(カロカガティア)という語の存在について、過去において如何にして取り扱われてきた事に関して説明する必要がある。つまり、とは、ギリシア語で(カロス・カイ・アガトス)を母音縮約してできた造語であり、文献ではクセノポン以前にみられない。は美学では古代ギリシアの美論を象徴する表現とされており、西洋古典学や哲学、倫理学等と異った扱われ方がなされていることに問題がある。この点に関して、特に西洋古典学と照応して検討していくことが必要とされる。

 西洋古典学研究では、の原型となるものはホメロスの『イリアス』にも登場し、その後の抒情詩人や、又前5世紀に活躍した歴史家、そして喜劇作家の諸作品に見られると指摘している。それは先人の文献学者達がが頻出するクセノボンの著作に加えて、アリストテレスの倫理学に見られるこの語の定義を重要視し、その類語である、又(カロン)(アガトン)をもその範疇に入れて、又古代ギリシアから連綿と継承されてきた理想的人物像を想定するところから、の理念を「ホメロス時代以来の古代ギリシアの理想的人間像と捉え、次第にポリスの間で優れたものを指すようになり、後にソクラテスやプラトン、アリストテレスによって哲学的に深化されたもの」とする史観を生む原因となった。このWerner Jaegerを中心にして構築された史観は、西洋古典学研究においては甚だ強い影響を残し、20世紀前半においてはこの史観を見直す作業が幾つか見られたにも拘わらず、決定的に覆すことはできずにいた。

 この史観については18世紀のドイツに於ける古典主義が問題となる。18世紀後半から19世紀の初頭まで、ドイツではヴィンケルマンやフンボルト(W.von Humboldt)そしてゲーテ等により、古代ギリシアに傾倒する風潮があった。そして、彼らは古代ギリシアの政治的、文化的形態の模倣を推進した。特に美に関しては熱烈な讃美が行われ、シラーの「美しき魂」は人間の精神美を唱導することは、古代ギリシアに於ける理想的人間像と適応させるものとして相応しいものであった。それ故、19世紀中葉の文献学の高揚から、 、又その類似表現を総括することによりというが結合した、ホメロスの時代の古代ギリシアから連綿と続いてきた「理想的人間像」を生み出す結果となった。その史観を創りだしていく作業が、Werner Jaeger等により後に継承されたものと考えられる。

 此処二三十年の研究に於いてはこの史観を検討していくことが課題となっている。事実の素性に関する文献学研究が進められている。そして美学に於けるkalok使ayロaについて注目されている状況を説明しておく必要がある。それは、美学では西洋古典学とのの解釈とは異なる、文献に沿ったものではない独自の解釈がなされている為である。その点は、第一章で触れることになっている。

 第一章では美学におけるの位置付けと最近の文献学におけるの研究を取り入れることから生まれた疑問点に注目することが念頭にある。欧米諸国では当時殆ど注目されなかった論文であるJ.Juhner,Kalokagathia in:Festshr.f.Alois Rzach,1930が上記のをホメロス時代以来の理想的人物像という理念に関して疑問を投げかけた画期的ものであったが、我が国の美学では注目され西洋古典学よりも早くにカロカガティア研究の典拠となっており、多くの美学研究書の参考文献に挙げられている。西洋の美学研究ではは西洋古典学研究を参照にして行われているものが多く、我が国の様に飛躍した解釈は皆無に等しいのが現状である。そして又、J.Juhnerを参考文献にした竹内敏雄編『美学事典』のの項でも、誤った史観が展開されている。先ずプラトンはを著作において一度も使用しておらず、それ故、ソクラテスによる合目的性によるは、プラトンのイデア論に関する記述として転化されたという説は説得力に欠ける。さらに、アリストテレスそしてプロティノスによって展開され、近世になり、シャフツベリーにより復興し、18世紀のシラーによる「美しき魂」(schone Seele)として、は道徳美として継承されるようになったとされているのである。

 又、最近の文献学研究では、をアテナイで流布された語として使用されたに過ぎないことが, Felix Bourriotが著書KALOS KAGATHOSーKALOKAGATHIA 1995で検討している。著者は結論としては、スパルタで軍事的に卓越していたもので構成された長老会を起源とするのではないかと、後世の著作から推測している。それは、アリストテレスの著作によるこれらの語も例外ではない。著者は従来のがホメロス以来の理想的人物像という史観を覆すことが念頭にあり、アリストテレスの諸倫理学のについても、ポリスにおける理想像、つまり地位や名誉をもち、そしてその行為も美的な様相を呈している人物を指すに過ぎないものであるとし、徹底的にそれらの語が哲学的意義をもたないと主張している。

 だが、例外的に著者はプラトンの項に於いてが「愛智者」 「哲学者」を意味する箇所が僅かに見られると指摘している。筆者はこの論点に注目し、が「立派で優れた者」と解釈されるのではなく、正しく「美にして善なる者」つまり、 「美や善のイデアヘと志向する者」即ち「哲学者」として解釈を試みる。それについては第三章で論ずることになる。

 以上の様な論の展開は先人の美学者達により考察されることはなかった。それは、がプラトン哲学の象徴しているものとされていた為であった。先述した文献学の考察から、 = 「美善合ー」という図式は適応されないことが判明されつつある。だが、の哲学的概念としての合一と捉える、これまでの美学者による思索は無意義なものではないと考える。只、そのような過去の業績、つまり = 「美善合ー」という枠組みを問い直すために、 ≠ "Kalokagathia" (をKalokagathiaとローマ字表記した訳は、(美)と(善)という哲学的概念の結合という、これまで数多の哲学者によって形成された哲学観をー括して捉え直そうとする為である。 )という図式を提起することにした。事実、プラトンやプロティノスそして中世のやトマス・アクィナスに至るまで、その哲学的世界観を多くの美学者はから影響されたものとして扱っている。美学者によるKalokagathiaについては第二章で扱うことになる。

 其処から帰結されるのはプラトン哲学によるKalokagathiaの必要性であり、そしてKalokagathia = (美にして窮極、完全なる状態)という図式を呈示することであった。そして、第三章で論じることになる、先述した様に、プラトンの著作からを「愛智者」 「哲学者」の意味で用いていることを確認し、彼らが(彼らだけではないが) 、つまり筆者が思索したKalokagathiaつまり( 『結びに』では「真実在」と解釈した)に至ることができるのかについて、結びで『パイドロス』を引用し説明を行った。そして最後に筆者はKalokagathiaという語を提起する必要性は、 に関する研究の少なさによる弊害からではないのか、と思案するに至ったのである。




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