福本 明代
卒業論文要旨 「未来の古里・ニュータウン」

 私は奈良の出身だが、「奈良」が故郷のような気がしない。様々な伝統や郷土性を持ち、文化遺産や長い歴史がある「奈良」には何の感慨も沸いてこない。不思議な事に故郷であるはずの「歴史ある奈良」の話をされても懐かしいとは思えず、全く別の地方の(例えば東京の近郊の)ニュータウンの話を聞いたり、映像を見る方が「故郷」の姿を見ているような気になる。私の故郷である「奈良」は、歴史と伝統に彩られた郷土・文化的な意味での「奈良」というよりも、どこにでもあるようにあった。エベネザー・ハワードは1898年発表のその著書『明日の田園都市』の中で過密化する都市と過疎化する農村の問題を解決する方法を提案した。農村と都市の中間に街をつくり「都市と農村を結婚」させることで、『都市・農村』−「田園都市」を造ろうというものだった。「健康な生活と勤労を確保できるように定義された町で、社会生活が完全に営める範囲を越えては大きくせず、しかも周囲は田園地帯で取り囲まれている。したがって、土地は全て公有ないしその町に信託されているものとする。」(『都市はどのようにつくられてきたか―発生から見た都市のタイポロジー―』)と定義づけられたこの考え方は、各国に伝わり、その概念を変えていった。

 イギリスにおいて産業を持った自給自足の「田園都市」が伸び悩み出す1920年頃、アメリカに伝わった「田園都市」の考え方は、産業を持たない自然豊かな生活のための町「田園郊外」つまり「郊外住宅地」をこの世に生み出した。はじめから産業による収入を期待せず、「住宅地」に機能を絞り込む事で成功した「郊外住宅地」はその後、多くの国々の、もちろん日本の郊外開発にも影響を与える事になる。

 日本において、ニュータウンに「田園都市」の名を与える事は多いが、これはハワードの提唱する意味ではなく、長い年月を経てイギリスやアメリカで「郊外住宅地」の形に変容した「田園郊外」の姿なのだ。

 この論文の第1章ではこの「田園都市」がハワードによってイギリスで提唱され、自立した産業を持ったレッチワースという実験的田園都市を経た結果、生活のためのみの場である「田園郊外」への発展し、やがて「郊外住宅地」という「住」のプロフェッショナルへと変容していき、世界に広がっていく様子を論じている。第2章においては、この田園都市が日本に伝わり、現在のニュータウンの形にまで発達する様子を論じている。

 戦前にはハワードの田園都市理念の影響を受けて計画された東京郊外の田園調布や、関西を中心として発達した鉄道会社主導の郊外住宅地が開発された。しかし、それらは庶民には高級なものであったため、まだ「普通」といえるには遠かった。郊外住宅地が、廉価化され、多くの人の住みかになったのは戦後からである。戦後の経済成長と工業化の結果、人口の激増がおこり速やかな解決が必要とされた。住宅金融公庫、日本住宅公団が相次いで発足し、公営住宅法が制定され、それまで借家が一般的であった都市の住環境に劇的な変化が訪れた。一般金融機関から住宅融資を受けるのが困難な人を対象に公的融資を行なう住宅金融公庫という制度が設けられ、民間の住宅不動産業会を後押しする形となり、公庫融資住宅の分譲を行なった。公営住宅法により、木造低層住宅主体の公営住宅の建設がはじまり、そして、日本住宅公団が発足して、ステンレス流し台を備えたダイニングキッチンや、洋式水洗トイレなどその後一般化する「現代的」生活設備を備えた公団住宅が建設されていく事となった。

 大人数を収容できる公団住宅は広い土地が確保できる郊外に造られた。これが「ニュータウン」の始まりである。昭和37年に入居の始まった日本初のニュータウン、大阪郊外の千里ニュータウンは集合住宅の割合が高く、住居建造物の約85%を占めていた。だが、昭和46年、多摩ニュータウンの建設において最盛期を迎えた公団住宅も、その後は下降し、近年では低迷していく。

 公団住宅に変わり、ニュータウン住宅の主流となっていくのは、大量生産技術の進歩によるプレハブ式のハウスメーカーによる、廉価な戸建て住宅であった。人口増加の落ち着きや、消費者の中の「持ち家一戸建願望」、そして、公団住宅などに見られたような「現代的な」生活を営むための機能を備えた大量生産型の一戸建住宅を供給できるハウスメーカーの発展と増加により、ニュータウンは低層の住宅が立ち並ぶ現在もっともよく見る形式の郊外住宅地へと変化していく。

 一世代でその住民が入れ替わる変容の町であるニュータウンでは街の一つ一つに「永遠性」は無い。だが、常に新しい世代のためのニュータウンがどこかに用意されていて、古い世代と同じ様な人生を営む人々が暮している。日本の各地に同じ様な形態のニュータウンが造られ続け、ニュータウンがどこにでもある環境のひとつとなった現代、私達の中にある意識にも変化が生じてゆく。第2章までで技術や社会状況など「現実」の側面から追ったニュータウンを、第3章では「普通感」や「古里」という「心」の側面から迫う。

 ニュータウンと同じく戦後に発達したテレビを中心とした視覚メディアには、「普通の生活をしている人」は郊外の住宅地に住んでいるという設定がなされる事が多い。日常的な世界が舞台であるアニメや漫画の主人公達は、住宅地の一戸建に会社員の父と専業主婦の母と共に暮らしているものが多い。また、番組の間に流れる住宅の宣伝とは特に関係の無い洗剤などのCMも、システムキッチンなどが舞台として使われている。こうして、政府や企業のニュータウン開発と並行するように、テレビによる新しい「普通の生活」の形が提示され、人々の心に新しい「普通」の典型が生じていく事となった。

 「普通」の変容。「ニュータウン」はその原型となる「田園都市」自体が変容に満ちたものであり、「ニュータウン」自身も、野山→分譲→住宅→売却→再開発と常にその姿を変えてきた。過去においても未来においても永遠不変のものではなく、変容そのものである。しかし、その変容の内に、テレビなどによって映し出される「よくある生活」を内包し、どこにでものあるという「普遍性」をもっている。そして、この「普遍性」は現実的だがどこか現実味を感じない「典型化」にもつながる。「典型化」を得た事で「ニュータウン」は、かつて「ふるさと」の唄に歌われた「典型化」された田舎がどこにでもあったように、そしてその田舎がもはや現実味が感じられないほどに希少化した現在、新たなる「典型化」であるニュータウンは「古里」の可能性を秘めているのではないかと思う。

 そこに建つ建物一つ一つには「永遠性」は無いが、古い住宅を壊して新しい住宅を建て、そこに入居してくる若い人々は、かつての住人の若き日の姿と同じであり、街の中には常に同じ光景が繰り返される。これは、地縁や血縁といった繋がり自体が以前ほどに意味をもたなくなった現代における、新しい「古里」の形であったらいいと私は願いたい。


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