間島 円

卒業論文要旨


笠翁細工にみられる意匠と技法


 小川破笠は寛文3年(1663)に生まれ、延享4年(1747)84歳でこの世を去った。破笠の前半生は俳諧師として、後半生は漆芸師として知られている。漆芸師としての破笠は、「笠翁細工」といわれる独特な意匠法により特徴づけられる。陶片、玉、染角、鼈甲、ガラスという、それまで脇役として用いられていた多種の材料を主役として意匠にとり入れた。それによって、従来の漆芸に多彩な色と効果的な凹凸をもたらしたのである。

 破笠の活躍当時の評価はもちろんのこと、19世紀ジャポニザンの間で、北斎、広重、光琳らと同等の評価をうけ、もてはやされた。そのことが、贋作をうみだす一要因となり、作品の実像をゆがめ、破笠の実体を遠ざけたことも事実である。今回、人々に受け入れられ、逆手にとれば贋作がつくられてしまうほどの魅力の所以に少しでも迫りたい。

 笠翁細工とされる一連の作品は、享保年間(1716〜36)以降にみられる。初期では、とくに、古墨、筆といった中国の文物を意匠に用いている。漆芸で香合を古墨様に仕上げたり、それを意匠の一部として調度類にとり入れた。その意匠は、伊藤若冲にもつながるといわれ、徹底した写実に端を発している。一見奇抜な意匠であるが、蓋を返して裏をみればしっとりとした金蒔絵の世界がひろがっていたりするのだ。 

 作品の多くには、明代の文物を真似て、「萬暦」「享保年製」などの元号、制作年が記された。また、古墨様の意匠には、確実なデザインソースが存在していることはすでにいわれている。明万暦(1573〜1619)のころに中国で刊行された『方氏墨譜』『程氏墨苑』である。破笠は、中国の意匠を漆芸で忠実に再現したのである。これら稀覯本をみる機会を破笠に与えたのは、津軽信寿公であった。

 信寿公(1669〜1746)は津軽家5代藩主である。公は書、詩歌を佐々木玄龍に、畫を狩野常信や洒脱な画風で知られる英一蝶に学び、小野派一刀流の奥義をも極めた。当代随一の幅広い人物たちに師事した勉強熱心な文武両道の殿様であった。津軽家は、尾形光琳の〈紅梅白梅屏風〉の旧蔵者として知られるように優れたコレクターでもあり、中国文物にも高い関心を持っていた。

 中国では古来、文房(書斎)を清玩とする風潮があった。この風潮が最高潮に達したのが明代も末の萬暦年間であった。文房を中心とした調度によって構成される空間は、美術品が一堂に会する総合鑑賞の場となり、志や教養の高さを象徴するものとしてとくに尊重された。日本でもこの好尚を早くから学んでおり、江戸時代にも故実として継承され、大名らに広く伝播した。文房をめぐる鑑賞の有り様は、大名らの価値観、人生観そのものであった。破笠を召抱えた信寿公も例外ではなかったでであろう。

 破笠の作品はその独特な意匠で、公をはじめとした文人らの目をたのしませたのである。同時に、精巧な意匠の施された古墨様は、実在する文房具を第一のコレクションとすると、第二のコレクションとして尊ばれたのである。また、破笠は袋戸、棚なども制作していることから、文房清玩の理を徹底した一つの空間、書斎そのものを創りあげていたとも考えられる。

 破笠は中国製画譜から意匠を借用し、忠実に模すのみでなく、多種の材料を用いた色鮮やかな作品へと転化させている。破笠研究の先駆け灰野昭郎氏は、笠翁細工とは素材を変えて中国の意匠を日本風にアレンジしたものだとしている。日本で育まれた漆芸技法の延長線上に、独自の笠翁細工を開花させたというのである。しかし、その意匠の源泉が中国製画譜であったのと同様に、技法面でも日本の漆芸以上に中国的なものに依存していたのではないかと考える。その中国的な漆芸技法の一つが〈百宝嵌〉である。

 百宝嵌とは多種の貴重な材料、すなわち珊瑚、玉、鼈甲、螺鈿、牙などを漆器の上に嵌め込む技法である。華やかで美しい装飾技法として明末に登場し、清代に隆盛した。百宝嵌は調度類、家具類に施され、それらは日本にも伝来している。破笠は、そのような文物に触れる機会を得、あるいは制作を依頼した人物のたっての願いを受け入れたのかもしれないが、いずれにせよ独自の作風を追求する上で百宝嵌に着想を得たものと思われる。

 日本に将来されていた中国文物に対して破笠が高い関心をもったことは事実である。制作上、とくに、櫃、屏風といった中国製家具類の影響がみられる。中国で工芸技術を駆使した木製の家具類が制作され始めるのは、遅くとも16世紀中頃からである。当時、上流階級では権威や財力の象徴となり、さらに文人の間では遊戯の一種にまで発展したという。清代も近くなると、その装飾性を競いあうかのように漆芸技法、とくに百宝嵌が多用された。家具類の中でも櫃には独特のおもしろさがある。

 清代の櫃には、いくつもの棚がしつらえられて、それぞれの棚や仕切りの前面には縁取りの装飾が施されているものが多い。その棚には文房をはじめとする調度品が置かれ、鑑賞の対象とされた。と同時に、櫃門にもまた同様の品々が表現されて鑑賞の対象とされたのである。本物の調度品が第一の清玩であるのならば、櫃門には第二の清玩が存在しているのだ。また、櫃の意匠には吉祥文様も好んで用いられ、それらは百宝嵌の技法によって臨場感あふれる演出がなされていた。それらは、実に簡潔明瞭な意匠で、さらに櫃前面の縁取りが額縁の役割を果たし、一見、絵画作品のような趣を呈する。破笠の初期の作品にも、簡潔明瞭な構図のものが多く、枠で囲うことで漆芸品の蓋面を一幅の絵画作品として成り立たせたものがある。また、清代の屏風には、百宝嵌の技法を以て絵画的な図様を表現した作品があった。破笠にも、硯箱や料紙箱などに中国の故事にまつわるモチーフで地を埋め尽くすように施した作品がある。破笠がこういった櫃や屏風の類を実見したか否かは定かでないが、日本へ将来されたこれらの文物から技法の点、あるいは意匠の点で何らかのヒントを得たことは充分に考えられる。初期の破笠は、明から清にかけて隆盛した清玩としての文房や櫃・屏風などの装飾的技法を強く意識し、中国文物とその忠実な表現に拘泥を示していたのである。

 享保末年ころ、笠翁細工はさらなる発展をみせる。契機となったのは、奈良三作の一人に数えられる金工師土屋安親と出会であった。安親は味わい深く滋味あふれる日本的な作風で知られている。破笠は、安親と硯箱を合作し、その経験を通して作風に新たな展開が示した。中国を基調とした意匠に和様がとり入れられ、ときには和様に徹した作品をも制作した。そして、最終的には唐様と和様とを巧みに融和させた独自の様式を創出したのである。

 破笠は、漆芸師として活躍しはじめたころ、文房清玩を尊重する思潮から中国趣味に徹して数々の作品を手がけた。そして、信寿公を中心とした交遊関係からさまざまな影響を受け、和様への傾斜も示しながら84歳で没するまで制作に没頭した。その生涯を通じて破笠作品の根底に流れていたのは、〈忠実に写しとる〉という精神であった。


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