深山 路子

卒業論文要旨

ルイス・キャロルの写真
―少女のポートレイトを中心に―


 19世紀中葉、産業革命の進むイギリスとフランスでほぼ同時に産声をあげた写真術は、当初"Black Art"(黒魔術)とも呼ばれ、いかがわしいものとも芸術とも科学ともつかないものとして扱われた。しかし、その新しいメディアにいちはやく飛びついた人々がいた。童話『不思議の国のアリス』で知られるイギリス、ヴィクトリア朝の作家ルイス・キャロルもその一人だった。キャロルはオックスフォード大学の数学教師でありながら文学者であり、また当時非常に珍しかったアマチュア写真家でもあったのである。

 キャロルは写真術に新しい表現メディアとしての可能性を見い出し、1880年に突然止めるまでの24年間、親しかった少女たちの姿を永遠に写真として焼き付けた。『アリス』本を始めとする彼の文学作品がそうであるように、キャロルの写真もまた少女友達からのインスピレーションを受けている。キャロルが撮った少女の写真は、当時の記録を目的とした類型的なパターンの肖像写真の域を超え、物語性と被写体の個性を感じさせるという点で、表現の欲望をはらんだ芸術作品としての可能性を持っている。

 本論文では、キャロルが撮影した少女の写真のシリーズを、同時代の写真や絵画との比較といった美術史的見地から、加えて写真哲学的見地からとらえてみる試みをしている。また、キャロルに少女愛の傾向があったということを認め、それを優れた文学作品、写真作品を生み出した要因の一つとして見ていった。

 キャロルは伯父の影響で写真術に興味を覚え、1856年にコロジオン湿板写真術用のオットウィル製カメラを購入した。当時の写真術は、フィルム作りから現像までが写真家の仕事であり、機械や薬品の取扱の難しさ、手順の多さから、アマチュアと言っても今日とは意味が異なり、特殊な知識と技術が必要だった。

 キャロルが写真に夢中になった要因の一つに、美の表現手段の可能性を写真に見い出した点が指摘できる。キャロルは美術に造詣が深く、批評家としての目を養っていたが、美術作品と呼べるものを自ら生み出す手腕はないことを知っていた。それが、写真の登場によって、美術愛好家から創作者へと転身することが可能になったのである。

 キャロルは大家族の長男として生まれ、常に弟妹たちと過ごしていた環境にいた事もあり、大人になってからも、子どもたちとの触れ合いに無上の喜びを見い出した。そうした中で培ってきた、子どもを楽しませることができるという才能は、彼の写真術において重要な役割を果たすことになる。大学のキャロルの部屋は、子どもにとって魅力的な玩具やからくりなどで満ちており、そこで遊んだり「お話し」を聞いたりして子どもが楽しんでいると、その楽しげな雰囲気が残っているうちに、キャロルは写真に収めた。当時の記録を目的とした子どもの肖像写真の多くは、子どもの頭をヘッド・レストで固定して、自然の風景が描かれた背景板の前に立たせて撮るというものだったが、キャロルはそうした固定的な手法を嫌い、子どもの個性と息吹を重んじた。現在のカメラと違い、露光時間に数秒から数十秒を要した事実を考えると、キャロルの写真の中の子どもたちの生き生きとした様は、当時の子ども写真の中で群を抜いている。

 キャロルの生きた時代、W.ブレイクやW.ワーズワスらロマン主義の流行により、人々は子どもという存在を純真無垢で高貴な、人間の本来あるべき姿として理想視する傾向にあった。ヴィクトリア朝にあって子どもは、愛情の対象となり、大人の憧れや郷愁を誘うものと見られ、極端な場合には神に近い天使のような存在として崇拝された。そうした時代にあって、キャロルが撮った写真の中の少女は、ときに悪魔的な表情を見せる。例えば、キャロルのお気に入りのモデルの一人、ベアトリス・ヘンリーを撮った作品では、ベアトリスは不敵な笑みを浮かべ、幻想世界を見やるかのような視線を送っている。キャロルは「幼い天使も一皮むけば幼い悪魔であることを発見した最初の芸術家であった」とも言われている。

 しかし、それに加えて、キャロルは子どもを「個人」として見、表現していたということを指摘できるのではないか。前述のベアトリスはおしゃまに、『不思議の国のアリス』のモデルとなったアリス・リデルは、気難しく見えるほど思慮深気に、もう一人のお気に入りのモデル、エクシー・キッチンは優雅で穏やかに、というように描き分けられている。キャロルは自室に少女を招くときに、付き添いが来るのを嫌い、少女と差し向かいで接しようとした。一対一で少女と対峙するということは、少女の外面・内面と直接対峙するということであり、よって、「子どもはこうあるべき」という括りから解放される。キャロルの写真に少女の個性が表現されているのは、少女との一対一という接し方へのこだわりが反映されている。

 キャロルの写真に登場する少女の中には、こちらをにらむような疑いの視線を投げかけるものもある。例えば腰布を着けただけの姿で写されている、モードという少女の写真がそうである。モードは脚を投げ出してリラックスした体勢を保っているが、その視線だけは鋭くキャロルを見据えている。またアリスの妹、イーディスが椅子に横たわる写真でも、彼女の表情には疲労の色が目立ち、キャロルの写真にかける情熱には付き合いきれないとでも言いた気である。いわゆる「子どもらしい」という言葉が当てはまらない、これらの憂いを帯びた表情は、キャロルの写真の魅力の一つであるが、はたしてすべてがキャロルの狙ったところなのであろうか。ある美学者の指摘に「絵画のどんな細部も、画家の絵筆のタッチに支えられているが、写真映像の細部は、写真家が意識して見、意図してねらったものをこえた意識の刻印である」というものがある。少女の表情はここで言う「細部」の一つであり、キャロルの意図を超えて、撮る者と撮られる者との間の、ただ楽しいだけではない緊張した関係の存在を語っており、かつキャロルの無意識が表われ出ているのである。

 キャロルの写真は、二人きりの密室の中で生まれたが、それが写真となって写し出されるやいなや、そこに第三者の匿名の視線が介在することになる。この事から生じる問題に関して、前に挙げた美学者はまた次のように指摘している。「写真の物語は、その語り手つまり写真を見る個々人が、おたがいにズレて拡散する視線の偏重をいかに調整するか、そのつどどの位置にみずからの語りの視線を置くかに応じて、多様なものとなるだろう。」
 ピクトリアリズムを脱したキャロルの写真が、芸術とポルノの境界を行き来し、様々な見解を呼ぶのはこういった構造によるものである。彼の少女愛的傾向に語りの視線を置けば、その写真はポルノであると言える。しかし、キャロルは美術に造詣が深く自らも絵を描いていたが、自分の技量には限界を感じており、そこへきて新しい表現メディアとしての可能性を写真術に見い出した点に語りの視線を置けば、その作品は芸術であると言える。キャロルの写真を芸術かポルノか、どちらかに区分することにはあまり意味がない。キャロルの写真は、ポルノの要素を含む芸術だからこそ、見る者を高揚させて惹き付け、芸術の要素を含むポルノだからこそ、読み解いて鑑賞させる力をもっている。ただ、もし芸術がある種の過剰さ――美に対しての、描く対象に対しての、あるいは生きること自体に対しての過剰さ――にその存在を負っているのだとしたら、キャロルの写真は間違いなく芸術であると言える。キャロルの写真には少女への、そして子ども時代への過剰な思い入れが込められているのである。


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