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坪内 広子

修士論文要旨


肥前有田焼における色絵磁器置物

―色絵婦人像を中心とした年代決定の一考察―

 卒業論文「マイセン磁器における肥前磁器の影響」では近世の鎖国政策下にヨーロッパに大量に輸出され、彼の地でさかんに模倣された有田焼について、その背後に存在する東西の文化の比較をふくめて論じてきた。精巧な造りと、端正な上絵付けが醸し出す有田磁器の美しさは両者ともに認めて愛好しているが、その様式の好みにおいて、用を重視する日本と装飾を重視するヨーロッパという違いが顕著にあらわれる。ヨーロッパでは、装飾が主目的となり、その結果絵画的であり、華やかな絵付けが施される柿右衛門様式が特にもてはやされた。

 しかし卒業論文においては、皿や壷などに注目し、当時同様に輸出され、海外にも伝世品が多く存在する、純粋な装飾品である人形、動物像にはほとんどふれなかった。

 有田焼に関する先行研究においては、「…人形は輸出品としてかなり早い頃から生産されていたようである。」とか「柿右衛門様式の色絵に携わった陶工の中には、彫塑的な作品に優れた技術を持つ職人がいたにちがいない。婦人立像、若者の立像、相撲を取る男子像など、天和・貞享ごろの作品と推定されるものが多い…」等と、その存在にふれられてはいるものの製作された事実の提示だけに留まり、それ以上の論の発展はほとんど見られない。表や裏、そして高台の文様まで鑑賞され、分類研究がなされる壷、瓶、皿等に比べると本当に乏しい研究状況である。

 今回本論文では、多様な種類を誇る有田産色絵磁器置物の中でも、それらを代表すると思われる人物像、特に技術的にも美術品としても最高級品である、柿右衛門様式の婦人像(1670〜1700年代製作)を中心に論を進めた。

 従来のやきものの年代決定は、技術的な考察と考古学的な考察によるのが一般的である。本論文は、染織史や風俗史、さらには当時の絵画資料や文献資料等、やきもの以外の分野からの考察もおおいに可能であることを示唆した。

 ただし、このような婦人像はやきものの形としては特殊なものであり、また現時点では、他の分野からの年代決定には絶対的な決定打に欠けるという弱点もある。

 しかし、これらの限定条件を念頭におきつつも、やきもの史だけにしばられない、さまざまな分野をまたにかけた、広い視野からの考察が、今後の工芸史において必要とされるのでははないだろうか。

 また、嵯峨人形等の他の人形類とは異なり、製作年代が比較的明確な色絵磁器人形は、江戸初期の時代風俗をうつしだした立体造形としては貴重なものであり、工芸史上の位置付けだけでなく、美術史全体の中で位置付けされ、評価されるべきであると思われる。

 本論では、まず有田産色絵磁器婦人像を大きく10タイプに分類し、それぞれの特徴、技法、表現されている風俗等についての考察をおこなった。
これらは濁し手と呼ばれる、柿右衛門様式特有の乳白色の素地に、鮮やかな色絵を施した人形である。板状の粘土を土型(雌)に押し付けて型をとり、表と裏をひとつに接ぎ合わせ、最後に手や頭部などの別作りの部分を加え、底が付けられる。

 人形用の土型は、上絵付けを専業とした工房である赤絵町から多く出土している。このことは赤絵町で柿右衛門人形が作られた可能性を提示し、柿右衛門様式と呼ばれる製品が酒井田家個人の専売特許ではなかったことになる。現在、柿右衛門様式は有田全体で作られたやきものの一様式と定義されている。

 その後本焼きをおこない、上絵付けを施し、さらに低温で焼く。彼女達の衣裳は、ひとつとして同じものがなく、大柄な意匠が特徴の寛文小袖、その雛形本にも共通する文様が描かれている。

 これらの技術は、中国から、あるいは韓国から移入されたのであろうか。お互いに影響を及ぼせる時代範囲の磁器製の人形、特に女性像と彼女たちとの関係を調べたが、当時の風俗をリアルに写す色絵磁器人物像は、彼女たち以前には存在せず、有田独自であると思われる。

 そこで、誰が、どうして彼女達を作り出そうとしたのかということが最大の疑問となる。

 江戸初期において、かなり高価であった磁器製の婦人像がつくりだされるには、特別注文という確かな需要が必要である。オランダへの本格的な輸出開始が1659年であり、オランダ東インド会社が彼女たちを欲した可能性は高い。実際オランダ東インド会社からの注文は有田磁器において大きな影響力を持っていた。しかし、伝世品は国内外ともに存在するので、海外、国内のどちらからの需要であったのかは、具体的な文献等があらわれてこないかぎり決定は難しい。

 かなり時代は下がるが、色絵婦人像についての記述が見られる。『睡余小録』(1807年刊)は、彼女たちのモデルを、伝説的スターであった京都の遊女、吉野太夫としている。さらに、

…昼は机下にすへて眼によろこひ、夜は枕上
に休ませて寝覚の伽とす。…
…物いはす、蚤蚊の痛を覚えねは、いつ迄も
居住在を崩さず、留主に待らんとの心遣ひな
し。酒をのまぬは心憂けれと、さもし遣に物
くはぬはよし。…
…四時おなし衣裳なれども、寒暑をしらねは、
この方気のはる事更になし。夏はむかふに涼
しく、よるに心よく、冬は煙のもとをゆるさ
ねは、よいか減にあたたかなり、…

 と、まさに「物言わぬ理想の美女」として彼女たちを日夜愛玩した例も記されている。

 実際に京都の遊女をモデルとして佐賀・有田で彼女たちが製作されたのであろうか。

 私は京都・吉野太夫ではなく、長崎の丸山遊郭の遊女がモデルであると考える。長崎・丸山遊郭は三都に次ぐ隆盛を誇っており、オランダ東インド会社とのつながりも深い。さらに興味深いのは、諏訪神社の奉納舞を丸山遊女がおこなっており、寛永頃(1624〜44)から始まった、この祭りは、出島からの外出が許されなかったオランダ人も桟敷席から見学できたということである。まさに丸山遊女の晴れ舞台である。

 活気に溢れる日本唯一の国際港・長崎の歓楽の里、丸山町のスターである遊女の舞姿。その姿を自分のものにしたいという欲求は、日本人でも外国人でも関係なく生じただろうし、その強い気持ちが募った結果、婦人像が誕生したと考えるとロマンがある。

 ここで寛文美人図の影響について考える。寛文美人図とは、寛永期の風俗画の後を受けてから菱川師宣様の美人図が他の様式を駆逐するまでの、正保から貞享の間(1644〜1688)に製作された美人図の総称で、その中心となる年号をとってこう呼ばれている。基本的には無背景で、遊女や舞妓、若衆が一人立ちの姿で小型の掛幅にとらえられ、感情を加え、細く引かれた描線で洗練された美人として表現されている。多くは工房作とおぼしく、同じような姿をとった作風を共通させる作品群がいくつか指摘できる。

 その寛文美人図にも「伝吉野太夫図」等とモデルを限定する美人画が数多く存在する。しかし、ほとんどが写生ではなく後世の仮託だと考えられている。このような仮託が、同様の性格を有する立体造形、色絵婦人像にもおこなわれた可能性は大きい。そうなると吉野太夫説の信頼性は薄れてくる。

 彼女たちの風俗が京都、長崎、それとも第三のモデルがいるのか、どれも決定的な根拠に欠ける。特に地域による流行の違い、風俗の特徴を判断するのは困難を極める。

 今回、彼女たちの小袖の形態、髪型、化粧法等の違い、流行の時間的ズレ、文献による典拠を集めて長崎遊女モデル説の主張を試みたが、資料が充分ではなく、注文主とモデルの特定は今後の課題として残されている。


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