武藤 麻矢

 修士論文要旨

アンドレ・マルローの作品評価における価値の体系


 本論では、アンドレ・マルロー(Andre Malraux)の芸術論“Psychologie de l'art”に対する多くの批判を、批判者を通して我々に提示された、マルローの芸術論の特性の反映とみなし、これを足掛かりとして、マルローの作品評価における価値の体系を明らかにすることを試みた。
 第一章では、マルロー批判の主なものを挙げて分類した。マルロー批判は、大別して次の五つの項目に纏めることができる。
1. マルローは歴史的、祉会的コンテクストから芸術作品を切り離す。
2. マルローの主張は、ほとんどが他の人の論からの借用である。
3. マルローの記述は実証的ではない。また主張された事実関係が不正確である。
4. マルローはその主張を正しくみせるために、図版を恣意的に選択している。
5. マルローの論は、それ自体のなかに相いれない主張を同時に含んでいる。
 項目2・3・4は、本論で扱われる問題に直接には関係しないものとみなされる。それゆえ扱われるのは項目1と5である。第二章では、項目5、すなわちマルローの論が含むとされた諸矛盾に関するものを扱っている。その矛盾は以下のようなものである。
(a)一方では近代芸術を、芸術的創造のもっとも高度な発展の成果とみなしながら、もう一方では同じ近代芸術を「絶対」の衰退の悲劇的な相とみなしている。
(b)ギリシアやルネサンスの芸術は、マルローの主張する実存的な人間性を体現するもののように解釈される。しかしそれらの芸術より、「絶対」に人間が従属していることを示すとみられる宗教芸術のほうに、より多くの愛着を持っているようにみえる。
(c)ある時には、芸術を超個人的な形態的特性としての様式で判断するのに、別の時には、表現における実存的な個性の存在を意味するものとしての様式で判断している。
(d)マルローは、色彩や線や構成、量感などといった形態的な要素が、造形芸術において優位を得るべきであると主張している。しかしマルローの著作のなかに、その主張を実際の制作で示していると考えられる現代芸術の図版は殆ど挙げられていない。
(e)天才は歴史を超越するとされるが、しかしその天才は、その時代における古いものに対して、より新しいものを創造した、といった歴史的相対性から判断されている。
 ステファン・モラウスキ(S.Morawski)は、これらの矛盾の要因を、マルローの主張が、フォルマリスムと実存主義という、二つの傾向の間を揺れ動いていることに置いている。しかしこれらの矛盾を分析してみると、これらの矛盾のそれぞれの対立項が、そのままMorawskiの指摘する二つの傾向の間の揺れ動きに、単純に当てはまるのではないことが分かる。
 (a)、(b)は、その矛盾が、実存主義それ自体のなかの揺れ動きに由来していると考えられる。つまりマルローの主張する実存的態度と、マルローの態度が噛み合っていないのである。また(c)を分析していくと、フォルマリスム的傾向と実存主義的傾向とが、互いに等分な重要性を持っているのではなく、実際は実存主義的傾向にかなりの重点が置かれていることがわかる。マルローにおいては、純粋なフォルムが実存に意義を付与するのではなく、実存的人間性がフォルムに意義を付与している。この一方通行のゆえに、二つの傾向のうちで実存主義的傾向がより重要であると考えられるからである。(d)もまた、このことを裏付けている。さらに(c)、(e)を分析すると、マルローにおける「様式」概念の性質が、これらの矛盾に関わることが分かる。マルローにおける「様式」概念には、超在的・絶対的・価値的な意味と、相対的、質的な意味が同時に含まれていると考えられる。前者は、“より良い”という意味での価値であり、その有無によって作品が判断されるゆえに相対的ともいえるが、それを有する作品群においては、それぞれの作品は対等なものとされるという意味で絶対的価値である。後者は、マルローが、「様式」とは個人性すなわち、ある個人がある個人であるところの本質の表現のうえに成り立つと主張している、その質の差異を示す。これら二つの意味は、人問の条件を超克する意志という、実存的人間性の人間における普遍的な存在によって統合されていると考えられる。
 このような分析を基として、第三章では、まずマルローの作品評価の際の基準である、近代的特性(現実の事物の模倣の拒否、ある芸術ジャンルに固有のものでない要素・手段を用いることの否定、造形的要素の優位)について述べ、それが同じく判断基準である「様式」と如何なる関係にあるかを考察し、「様式」には近代的特性のみでは説明不可能な要素があることを明らかにした。そしてマルローの、「様式」は宗教芸術にその源を発しているという言葉、また《呪われた芸術家》という言葉から、次のような仮説を立てた。すなわち、超克が行われるに際し、そこにまず「運命」が、すなわち超克の対象があらねばならない。あるものの価値がその代価と等しいように、超克の行為の価値は、その対象としての「運命」の重さによっている。「運命」の存在こそが超克に意味を与える根拠である。このような仮説である。
 この仮説によって前述の諸矛盾を解釈しようと試みた。(a)については、「運命」の存在はそれに対置される「絶対」によっているために、何らかの「絶対」の存在が求められる、ということが言える。(b)については、ギリシャの芸術は、既に「運命」を征服“してしまった”ことを示し、宗教芸術はいまだ「運命」を保存しているゆえに、特にキリスト教においては「運命」が個人化したと見なされるがゆえに、ある個人の「運命」の超克は人間全体の超克の可能性を示しながら、同時にいまだ超克されざる「運命」が現存することを示すゆえに、宗教芸術に精神的血縁を見いだすと考えられる。(d)については、超克の対象がそこに明らかな形で認められることが必要なのではないか、つまりその絵画が事物を支配したと分かるためには、その絵が事物を描いたと分かる必要があるのではないか、と言える。
 (c)と(e)の分析で言及したように、マルローは芸術において、“より良い”という意味での価値の存在を肯定している。その価値=「様式」は、マルローにおいては、写真複製による「空想の美術館」によって明らかになるものである。作品は写真複製によって歴史的・社会的コンテクストから切り離される。写真複製における「様式」の存在は、歴史的・社会的コンテクストを乗り越える天才の存在を示す。「即ち天才は、それを生んだものにたいして不可分離的である。しかしそれは宛も火事と火事が焼くものとの関係においてである」という言葉により、ここでも“天才=「様式」(価値)を獲得するもの”は「運命」(コンテクスト)の存在に依拠していることが分かる。そして複製という手段の是非はおくとして、芸術においてその価値の存在を肯定することは、人間において何らかの価値が存在することの肯定に繋がる。このようにマルローは、我々の生は意味を持ちうることを示唆するのである。

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