西崎 紀衣

 修士論文要旨

1860年代のマネ
 -「構成の難点」、カンバスの切り取り、単独像・群像
表現を巡るベラスケスの受容の問題を中心に-


 エドワール・マネ Edouard Manetの1860年代は、旧来の歴史画的表現から脱却し、自己表現を確立するための模索の時代であったといえる。古今の巨匠たちに学びつつ、当代の生活と社会に取材して様々な実験的な表現を試み、70年代にいたる自己発見の途上にあった。それ以降の安定したマネの表現と比較して、筆者は60年代にこそマネのマネたるゆえんを、さらに言えばマネの歴史的な意味を認めたい。
 そのような60年代のマネの画業で、従来議論されてきた問題に「構成の難点 compositional difficulties」、カンバスの切り取り cut canvas、単独像・群像表現におけるベラスケスの受容の問題がある。
 本稿ではこの3つの論点を取り上げるが、従来ほぼ議論し尽くされたカンバスの切り取りの問題に触れつつも、「構成の難点」の問題と、ベラスケス受容の問題を主として論ずる。
 マネの「構成の難点」について。これを指摘する代表的な論者にリチャードソン(1958)がいる。リチャードソンは、描かれたモチーフと背景、またモチーフ相互の関係からみて構成に難点があるとして、60年代のマネの一面を否定的に見る。これに対してボウネス(1961)らは、マネのこのような表現を、旧来の表現法を破る試みであり、一見するとまとまりがないかのように見える画面に見えざる構成があることを指摘し、リチャードソンに反論する。
 マネの構成を巡る評価が分かれることについて、筆者は60年代のマネの全航跡を見渡し、結論的にはボウネスと同じく積極的に評価した。すなわち、当時から構成の難点を指摘されたにもかかわらず、それは近代絵画に向けてのマネの実験的試みの結果であったと考える。次に、カンバスの切り取りについて、筆者は卒業論文で触れた。それを要約するならば次のようになる。「構成の難点」やデッサンの狂いについて当時から指摘されていたマネは、カンバスを切り取り、加筆して、単独像表現において、一つの解答を見いだした(《死せる闘牛士 Le Torero Mort》)。このような破格の方法によって得られた充実した単独像表現は、続く、カンバスの切りによらない《笛吹き Le Fifre》において確固とした表現となったが、両者の制作の間にはマネのベラスケス体験があった。
 1865年にプラド美術館でベラスケスの《パブリリョス・デ・バリャドリト》を実見した体験と、マネの《笛吹き》の制作(1866)は、マネ自らが納得し確信するにいたった過程をはっきりと示す関係にある。こうして、60年代の単独像表現の達成を巡って、カンバスの切り取りの手法とベラスケス体験という2つの主要因が指摘される。しかし、なおマネには久しく群像表現の問題が残っていた。
 次に、マネが修業時代に感銘を受けたルーブル美術館の《13人の騎士たち》(当時ベラスケス作に帰され、現在では弟子の作とされる)は、マネが少なくとも1867年のアルマ街における個展の時点まで、油彩や銅版画で模写しつづけ、マネにとって重要な作品であり続けた。しかし60年代のマネの群像表現にとって欠くことのできないベラスケスの別の作品も、マネはプラド美術館で見ていた。すなわちファンタン=ラトゥール宛ての手紙(1865年、9月3日)でマネの言う「巨大なカンバス un tab1eau enorme」と《ラス・メニーナス》である。
 まず「巨大なカンバス」とはどの作品をさすのか。その同定に触れたのはウィルソン=バロウ(1988)のみであるが、その論拠は特に示されていない。筆者は、「巨大なカンバス」のなかに《13人の騎士たち》の人物群に類似する表現を見いだした旨を記した前述のマネの手紙に着目した。マネの手紙にある、風景のなかに多くの男女が描かれている画面という記述、当時のプラド美術館の所蔵の状況、またマネの補彩への言及などを根拠として、問題の作品を《サラゴサの眺め》と同定した。(なおマネは、《サラゴサの眺め》の前景の人物群にベラスケスの筆を認めつつ、そのほかの部分に別人の手を指摘している。)
 この作品に筆者が注目するのは、マネが模写を繰り返した前出の《13人の騎士たち》と、《サラゴサの眺め》の人物群の構成との類似のためである。この類似を指摘したのは、P.M.ジョーンズとされるが、しかし筆者はジョーンズの著作を読んでいないため、私見を述べる。すなわち、《13人の騎士たち》と「巨大なカンバス」=《サラゴサの眺め》に共通する群像表現が、60年代におけるマネの群像表現、具体的には《皇帝マクシミリアンの処刑 L' exe cution de Maximilien》(1867)の成立に欠くことのできない存在であった、ということである。その3つのバージョンとエスキスの中でも、とりわけ第三バージョン(完成作)の直前に位置つけられているコペンハーゲンのニイ・カールスベルク彫刻館のエスキスには、リズミカルに配された単独の人物群の緩やかな集合が群像表現として、充実してみられる。
 こうした群像表現におけるベラスケス(ないしベラスケス派)の受容の問題は、《ラス・メニーナス》の場合にも同様に見られる。同じく前述のファンタン=ラトゥールに宛てた手紙でマネは「すぐれた人物群である」と書き、画面の全体よりは、間を置いて配列された群像表現に着目している。マネは《ラス・メニーナス》個々の登場人物についてのみ言及し、その緩やかな人物構成に注目しているのである。
 最後に、《皇帝マクシミリアンの処刑》には、以上のようなスペイン画派から得られた単独像表現(《パブリリョス・デ・バリャドリト》)と、《13人の騎士たち》《サラゴサの眺め》《ラス・メニーナス》の総合が見られる。すなわち、処刑という衝撃的な、そして第二帝政の根幹を揺るがすような大事件を即時にテーマに取り上げた絵画であったが、処刑する兵士らの群像表現と、背後の壁とが組み含わされて生み出される情景描写には、上述のスペイン絵画の受容、そしてカンバスの切り取りの手法によって得た、60年代のマネの新しい語法が見られるのである。それでもなお、この作品の完成作に認められる「歪んだ視覚 distorted vision」(リオネロ・ヴェントゥーリ)をいかに解釈したらよいか。今後の課題にしたい。
 以上は、修士論文を要約しつつも、しかし《皇帝マクシミリアンの処刑》の群像表現と個々の人物像表現の関係や、背景のことについて、その後の考えを取り入れ、1860年代のマネの画業の意味するところを、一層鮮明にするようまとめ直したものである。

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