星乃 由佳

卒業論文要旨

アイヌの美
―衣服と文様―


 “アイヌ”とはアイヌ語で「人間」を意味する。彼らは“アイヌモシリ”(人間の世界)にて生きる存在であり、“カムイ”(神)と彼らは等しく共存している。
アイヌ文化の成立は、一般的に13世紀から14世紀といわれる。彼らの居住圏は、北海道、樺太南部、千島列島、東北北部と幅広く、地方によって文化的特色も様々といえる。

 本論は、衣服と文様という切り口から、アイヌの精神世界を知り得ないかと模索したことにはじまる。衣服は人間の第二の皮膚であり、文様は民族の記号といえる。切伏せと刺繍という限られた技法を使って、女たちは何をあらわしたのであろうか。

 第一章では、アイヌの衣服について概観している。彼らは素材豊かに様々な衣服を用い、周辺諸民族の影響を積極的に受容してきた。獣皮衣、魚皮衣、鳥皮衣、樹皮衣、草皮衣、そして海外から流入される木綿や絹などの輸入材料。しかし、現存するアイヌ衣服のほとんどは“晴着”と称されるもので、日常着や労働着は早くに姿を消した。晴着とは、儀式や儀礼の際にのみ着用される位の高い存在であり、切伏せと刺繍によって美しい文様が施されている。本論ではそれらを「繍衣」と呼び、アットゥシ、レタラペ、チカルカルペ、ルウンペ、カパラミプ、チヂリ、と形式別に六つを取り上げている。
第二章では、彼らの用いる文様に焦点を当てて論を展開している。第一節ではアイヌ文様の基調となる、アイウシ<ay'us>とモレウ<morew>という二つの文様を取り上げて、昭和の主な研究史を参照し、第二節では『アイヌ民俗調査資料報告書』(1968)と『アイヌ衣服調査報告書T』(1985)という、北海道教育委員会が刊行した2冊の調査報告書をもとに、類例をあげて文様考察を試みている。そこには、アイヌ民族の視点に立った、現地聞き取り調査の結果が記されており、現在では集めることのできない多くの貴重な資料が提示されている。

 また、第二節の文様の形と呼称から、第三節ではそこにあらわされた意味を探り、彼らの世界観を探求している。つまり、文様には単なる装飾だけでない“呪術”的な意味が含まれており、「神の眼」「神の刺」などと称することからも、神の加護を願う側面が窺われるのである。また、襟元、袖口、裾廻り等開口部に文様が施されることから、体内に悪霊が入り込むのを防ぐ除魔敵役割も併せて考えられる。

 なお、文様と共に重要な特徴として、アイヌの抽象表現があげられる。彼らは徹底的に具象を嫌い、大方の造形において何ら具体をあらわさない。文字を持たず、絵画を描くという習俗もなく、神像や偶像もつくらない。彼らは名前を呼ぶことを避けて人称代名詞を用い、姿を写されることを嫌い、人形をつくることを極端に恐れたのである。

 最後に、文様の役割を3つ要約している。
    1、文様それ自体のもつ意味性
    2、社会的認識機能としてのサイン性
    3、文様の装飾性
 ”1”の「意味性」とは、ここでは文様の“呪術性”を指し、“守護性”と“除魔性”という二つの側面を内包している。前述したとおり、アイヌは文様に神の力を感じており、祈りと信仰は女たちの針使いの技に集約され、緊張感ある仕上がりとなって製作された。それは、彼らが繍衣を日常では決して着用しなかった例によっても意味づけられ、簡素な文様のみという、和人用に製作された衣装を見ても解釈される。特にアイヌは背面を重要な場所と考え、神の加護を信じ、開口部に文様を張り巡らせて悪霊の進入を回避した。

 ”2”の「社会的認識機能としてのサイン性」とは、文様を施すことによって認識される地位や出身、用途などを指し示す。衣服にあらわされた文様は、着る人の戸籍を示す役割を帯び、誰がどこの出身か一目でわかったといわれる。文様は親から子へ受け継がれるものであり、地域によって多様に展開されるのは系譜の連なりに他ならない。また、衣装は着る人の地位によって差別され、男性と女性によっても装飾の違いがあったといわれる。

 ”3”の「文様の装飾性」とは、単純に美の視覚効果のことであり、アイヌの美的感覚を体言するものといえる。男は小刀や煙草入れ、木皿や木鉢などに彫刻を施しその腕をふるい、女は縫物や織物にてその技を駆使する。彼らは余暇の時間をこうした造形表現に費やし、その腕を磨いた。また、こうした彫刻と縫いの技術は、時にその人間の優劣を計る物差しとなり、恋愛においても重要な手段の一つとなった。

 また、多くの研究者が追求している“文様の起源”について、最近では北方諸民族の影響が色濃く考えられているが、その起源は未だ確立されていない。大塚和義氏は考古資料から、アイヌ文様はおそくとも15世紀から16世紀には見られるようになり、しだいに造形的に成熟し、18世紀には顕著なアイヌ文様の世界が形成されたと考えられている。しかし、今なお縄文の遺物との関連も無視できない側面をもち、今後の考古学研究に期待が寄せられる。また衣服においては、繍衣に用いられる素材と技法によって、明らかに周辺文化からの影響、特に北方諸民族の影響が指摘され、針や糸、木綿などの材料を考えてみても、アイヌの繍衣は、近代になってから急速に展開された過程が推測される。

 アイヌ文化は自然と非常に密接な関係にありその影響を色濃く受けている。彼らはものには魂が宿るとし、全てのものは役割をもって存在していると考えている。“アイヌ”と“カムイ”は等しく共存しており、アイヌはカムイを、カムイはアイヌを助け、その加護を得る。文様においても、カムイの力と、装飾という人の力が融合して、はじめて輝きを放つものであり、彼らがみだりに扱われることはない。アイヌの繍衣は、家族を想う女の真摯な感情と、カムイを敬う自然への揺るぎ無い信仰によって、かように妖美で、力強く優しい装飾を築き上げたものと言えよう。

 近年、アイヌ民族は独自の文化を見直して、声高らかにアイデンティティーを叫び、活動的に運動しはじめた。これまでアイヌは「閉ざされた狩猟採集民族」として捉えられてきた感が強く、傲慢に「滅びゆく民族」として位置づけられてきた。しかし、事実的にはアイヌは開かれた国際性をもつ優れた民族であり、その姿をみれば、大きな文化交流のうねりを感じずにはいられない。また、彼らは一方的に日本本州や北方諸民族の影響を受けたわけでなく、一民族としての強さも持っていた。アイヌ風俗は、北前船の漁師をはじめ、本州において度々流行となり、歌舞伎の衣装にもアイヌ衣服は再現された。金沢においても、北前船によって運ばれたと推測されるアットゥシ5点が、加賀友禅研究家花岡慎一氏によって所蔵されており、遠い北の大地との繋がりが思い起こされ、感慨深いものといえる。

 本論において、“文様”はその精神世界、アイヌの美の概念を探る一つの手段であったといえる。文字を持たず、具象表現を好まない彼らにとって、衣服にあらわされた文様は、一つの価値ある記録であり、メッセージであると言って過言ではない。アイヌの女は家族を想い、カムイを想って衣服を製作したのであり、二つと同じものはないといわれる。その、何ら下準備もせず、左右対称性に優れた装飾は、鮮やかに民族の心と、女の情愛と、カムイの神秘な力を体現したものと言え、我々を惹きつけて止まない。


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