中野 志保

卒業論文要旨

上方役者絵師廣貞の大首絵
−実作品調査をふまえて−

 歌川廣貞、号は五粽亭。彼は幕末の上方役者絵を誰よりも多く描いた、人気の役者絵師であった。しかし、現代の日本人の中でも彼の名を知る人は、殆どいない。そもそも、「上方絵」と呼ばれる、江戸時代に大阪、京都で作られた多色摺り版画の存在を知る人が少ないようだが、これは浮世絵の一般向け基本書である『原色浮世絵大百科辞典』(全11巻 大修館書店 1980〜82)にも載っている、れっきとした浮世絵の一ジャンルである。

 上方絵は、主題の殆どが役者絵に限定されている。しかも19世紀までは兼業絵師によって作画が行われていたので、いわゆる江戸絵に比べるととても量が少ない。それゆえ、蒐集・研究は江戸に比べて遅れている。しかも、上方絵の日本国内での美的評価は、江戸絵に比べると格段に低い。それは、学生である筆者が購入可能な位の値段で売られているという上方絵の現状からも明らかだ。その原因として認知度の低さが挙げられるが、むしろ上方絵が、浮世絵と言えば江戸のもの、という認識の下で形成された浮世絵の美的範疇から外れていたことも、その一因として考えられる。上方と江戸、二つの歌舞伎の美意識の違いは、やはり役者絵にも反映されていると考えて間違いない。どちらが良いという問題ではなく、江戸と上方の役者絵は異なった美的尺度で作られたものとして観賞されるべきであろう。
 研究が遅れていた上方絵ではあるが、国文学者松平進氏によって最近の二十年で上方絵研究は随分と進展した。けれども廣貞個人についての美術史的研究は海外に先行され、国内では殆ど行われていないのが現状である。

 18世紀後半に始まった上方の一枚摺り役者絵の流れは、天保13(1842)年の役者絵版行禁止令によって一旦は途切れる。江戸でも役者絵は禁じられたが、違法に出版する者が出始め、ついに弘化3,4(1846,7)年には禁令を無視する形で役者絵は従来通りに版行されはじめた。

 禁令後五年間は、役者絵版行が行われなかったと言われるが、江戸を追う形で上方役者絵も再び出版され始めた。「廣貞」の落款が入った役者絵が初めて世に出たのは、まさにこの時である。廣貞は最初「広国」の落款を使い、その後「広国改め廣貞」と記した役者絵があるので、前に「広国」を名乗っていたことが判明している。

 廣貞は、名を改めた弘化4(1847)年には、10作品15枚の役者絵を制作し、その翌年から精力的に作画活動を始める。筆者が確認した限りでは、その後五年間で291作品648枚の作品が遺されている。有名な東洲斎写楽は九ヶ月間で、計146点の役者絵と相撲絵を描いたと言われる。単純計算すると、写楽は一ヶ月で約16枚、廣貞は弘化5(嘉永1)年以降五年間は一ヶ月につき約11枚のペースで制作していたことになる。廣貞の作画ペースを、江戸の浮世絵師の中でも早い方だと言われる写楽と比べても、大きな差がある訳ではない。廣貞は上方役者絵史上最も作画数が多いだけでなく、東西の両都市の浮世絵師を併せた内でも、作画ペースが早い方だと言える。

 現存する作品数の多さは、廣貞の役者絵が当時の購買層に広く受け入れられたことを示している。加えて、天保改革以前から活躍していた國升と貞信という二人の上方絵師が、廣貞の版下絵をもとにして、自分の落款を入れた役者絵を制作したと伝えられているので、彼の画技の実力は同業者の間でも認められていたのだろう。

 幕末の上方で人気を博した廣貞の役者絵とはどの様なものだったのかを考えるために、阪急学園池田文庫が所蔵する290作品736枚と筆者が架蔵する2作品5枚の大首絵を調査し、廣貞役者絵の技法使いと表現の多様性を観察した。その上で、そうした技巧的役者絵が作られた背景についての考察を試みた。さらに、廣貞の特徴をより明らかにするために、色や線といった他の造形要素について、江戸の国貞など他絵師の作品と比較した。

 廣貞の役者絵の特徴としてよく指摘されるのはその豪華な技法の使用である。彼の大首絵に使われた技法は10種類にものぼり、金銀摺りを始め空摺りや正面摺り、ぼかしなど、まさに古今東西の浮世絵版画の技巧を結集させたかの様な画面をつくりだしている。この様な役者絵を制作できたのは、時代と地域という二つの大きな条件が整っていたからだと考えられる。廣貞が活躍した時代は、浮世絵版画の技術がその頂点に到達したと言われる時期であった。それに加えて、錦絵への取り締まりが江戸にくらべて随分と緩やかであり、役者絵版行に際して歌舞伎の贔屓連中や役者絵師、版元などが資金を提供していた上方の土地柄もまた、豪華役者絵の制作を支えた大きな要因であるに違いない。

 贅沢な技法使いの他に廣貞役者絵の特徴的な造形要素として、重厚で鮮やかな色彩が挙げられる。この点についてルボール・ハーエック氏はオストワルト表色系を用い、色同士の絶妙なバランスによって、色が鮮やかに見えると論じている。筆者がPCCS表色系を使用し、廣貞の実作品から色を抽出した結果、作品の色一つ一つが鮮やかさ、暗さ、重さを持つことが分かった。そうした色彩が用いられた原因を解明するには至らなかったが、図版で見る限りでは、廣貞以外の上方絵で同様の色の特徴を持つものもあった。東西役者絵の色彩感覚の違いは、後の研究が待たれる興味深い問題点である。

 廣貞作品の構図は、絶妙なバランス感覚を持った動きを持つのが特長であろう。同時代の江戸の役者絵師国貞や他の上方絵師の大首絵の構図と比較してみても、彼の大首絵の構図は画面の枠からモチーフをはみ出させるなど様々な手法を用いて、動きを感じさせるようにつくられている。

 構図を支えている輪郭線は、絵師一人一人で微妙に異なるが、大きく捉えた場合、江戸と上方の違いがある。国貞の輪郭線は、あまり抑揚がなく、筆勢を強調せずに描かれているが、廣貞を含む上方絵師の輪郭線は「はね」「とめ」といった筆の動きが目立つ。これは、19世紀以降の上方絵と四条派との関わりを示唆するものであるという。当時、四条派の絵師が制作した摺物も発見されており、まるで摺物の様な豪華な役者絵を制作していた上方役者絵界との結び付きが推察される。廣貞は四条派の上田公長に一時期弟子入りしたという説もある。だが本研究の観察では、廣貞の墨線はどちらかと言えば円山派の人物画の輪郭線に近い、という結果を得た。
 比較的安価なものが多かったと思われる江戸役者絵と豪華な摺りの上方役者絵の、質と量の違いを考えた時、両都市の役者絵生産の世界は明らかに異なった性格を持っていたことがうかがい知れる。そうした制作環境の違いに加え、地域的な嗜好の違いが上方絵と江戸絵の造形の違いに反映されているのである。しかし、廣貞役者絵の膨大な作品数と、技法を省略した廉価版の存在は、大衆性の薄い従来の上方絵の性格からは逸脱しているように思われる。これは、より広い需要者層の獲得を企てていた当時の上方歌舞伎界の動向にも通じるものである。

 今後の研究として、廣貞を始め幕末の上方に生きた浮世絵師達の役者絵制作の実体や、上方絵の造形的特徴の背景にあるものをより明らかにするには、当時の上方の歌舞伎界と絵画界、版元や本屋など出版界の実態と、これらの相互関係を捉えていく必要があるだろう。


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