有延 悠
卒業論文要旨 「カキツバタを題材に」―――記号から広がる意味の世界

序章 「記号と意味」「情報と知識」
第一章 記号と意味
(1) イコノグラフィー・イコノロジーの理論と実践
(2) 「記号」の意味
(3) 光琳筆「燕子花図屏風」の解釈
第二章 情報操作の過程
(1) 資料収集からデータベースへ
(2) データベースの機能と項目
(3) 分類結果の記述
第三章 カキツバタの意味=イメージ
(1) 「かきつばた」の意味
(2) 幻のカキツバタ
(3) 私のカキツバタイメージ
第四章 言葉と絵
(1) 歌と絵における「記号」
(2) 変容する『伊勢物語』
終章 「表現と解釈」

 論文の要旨を述べるに当たって、一言その表題に触れることが適当かと思う。この表題に目を止めた人の中には、何かその意味するところを想像してくださった方もあろうし、曖昧さを頼りなく感じた方もいらっしゃろう。特に後半部分の「記号」「意味」「世界」という言葉の使用が気になったのではないだろうか。

 ところで、論文を仕上げる方法として、最初にテーマをはっきり設定した上で内容を肉付けしてゆく場合と、曖昧なまま書き進めて最終的にひとつのテーマにまとめる場合がある。たいていは両者の混合型であり、予め設定したテーマを随時修正し完成にもってゆくというのが理想的だ。しかし私の場合は全くもって後者の例である。表題も提出間際に考えたものなので、この言葉による表現がどのような意味を伝えるのか、読者をどのような解釈へ導くのか、ということに不安と疑念が絶えない。この表題の意味は本文を読んだ後に改めて解釈してほしい。と言いたいところではあるが、そんな稀有な好奇心と暇の持ち主を期待しても望みは少ない。せめてここに論文の目次を提示し、順にあらすじを述べてさせていただきたいと思う。

 まず序章では、以下の各章を読んでいただく上での前提、私が書いてきた姿勢というものをおおまかに示す。そのために、散漫に書き散らした諸々の事柄に共通するテーマをキーワードとして提示した。「記号と意味」そして「情報と知識」がそれである。これら四つの熟語は日常生活でもごく一般に使われている一方、記号論や情報学、それらに関連する多くの学問分野で特別な位置を与えられており、その役割も様々であろう。私の論文中でもこれらの言葉を定義付けようなどとは思っていない。

 しかし、このような曖昧で含蓄めいた言葉をキーワードに話を進めるとしても、具体的な事や物を対象に据える必要がある。そして芸術学の卒業論文である以上、それは芸術作品でなければならない。この論文では私の収集したカキツバタの図像群がそれに当たる。尤も、実際はこちらが論文の出発点であった。

 第一章は、主に「記号」について、対象を「記号として」捉えることについての話である。美術史研究の記号学的方法論とされるイコノロジーから、解釈の三段階を取り上げる。私がカキツバタの図像を集めて試みたことをその理論に照らし合わせた上で、一義的な解釈、つまり記号からその意味を限定することの難しさを述べた。またここでは「記号」という言葉を、何らかの「意味」を喚起し認識・伝達するという、その作用に注目して用いている。(3)では光琳の「燕子花図屏風」をめぐる論叢を通して意味の多様性を考えてみたい。

 第二章は、「情報と知識」が相互に作用しながら進む研究・考察における〈情報操作〉を話題にする。私が考えた図像研究の方法であるデータベースの作成は、研究の(ごく一部ではあるが)実態を示すよい材料であると思っている。(1)では資料収集とデータベース作成に共通する〈操作〉の過程を説明する。さらに「データベースの著作権」を取り上げ、そこに見る「創作」なるものが情報操作の言い換えであると捉えた。(2)は私が試みたカキツバタデータベースの具体的な内容である。データベースの機能や項目の説明を通して、対象を情報として認識し解釈することが〈分類〉の作業であると位置付ける。そして、カキツバタの図像群を分類することで見えてきた各類型の特徴を記述したのが(3)である。この記述は中途半端に投げ出したデータベースの結果であり、都合よく言えばここまで述べてきた「意味の不確実性」や「無意識の情報操作」を具現したものである。

 第三、四章はカキツバタをとっかかりに、日本で培われてきた文化・伝統の一端を、「知識」が記号と意味を媒介し豊かな世界を育むという観点から垣間見てゆく。この「知識」という言葉も、あらゆる記憶を含むものとして曖昧に受け取ってほしい。

 特に、植物であるカキツバタという記号の意味に焦点を当てたのが第三章である。不確定で実体がなく、それにもかかわらず人と人の間に豊かな世界を築いている、「意味」とはすなわち個々の「イメージ」なのではないか。(2)では歌の世界に咲く幻の花、「花かつみ」の例にカキツバタを重ね合わせて考えてみた。(3)は私のカキツバタという題材の選択が、自身のカキツバタイメージ、無意識に思い描いていた理想の姿に端を発していることを述べる。

 第四章(1)は和歌における「季語」や「歌枕」が、知識を土台に共有されるべき意味を導き出す〈キーワード〉として力を発揮することを指摘し、このようなキーワード性が四季絵・月次絵・名所絵なる伝統的な絵画形式の中にも見出せるであろうという筋立てである。ここではカキツバタを四季の中に位置付けて描いた琳派の諸作品を例として挙げる。

 さて、カキツバタと常に結び付けられてきた文学テキストといえば、『伊勢物語』第九段、八橋の場面である。(2)はカキツバタから飛躍して、『伊勢物語』とその絵画化による物語享受、ひいては物語そのものの変容をたどる。まず『源氏物語』その他の記述から、平安時代における「物語絵」の存在とその受容のされ方に想像をめぐらす。時代は降り江戸時代に至ると、物語は「絵入り版本」を主な担い手として広く大衆に普及する。新しいメディアの活躍によって、新しい物語の解釈・表現の世界が展開する。『伊勢物語』本文じたいに各時代各人の解釈を許容する余白、豊かな想像をかきたてる巧みな表現が備わっていることは度々指摘されてきた。さらに現代に見る『伊勢物語』の変容とはいかなるものであろうか。

 終章は、第三のキーワードとなるべき「表現と解釈」を軸に全体のまとめとした。記号から意味を「解釈」することと意味を記号として「表現」することは、常に知識の介入による情報操作を伴う。と同時に、知識と情報の絶えざる相互作用によって、豊かな共有されるべき意味の世界が築かれてきた。特に終章では、論文を書く作業を、さらに日常の諸々の活動を「表現と解釈」として捉え、そこから美術作品の「表現と解釈」に踏み込んでみてはどうかと考えた。

 この論文は特定の作品、作家あるいはテーマについての研究でも考察でもなく、問題提議もなければ結論もない。唯一確かなのは、私の乏しい経験と知識を素材に編集し、表現したものだということである。表現したものには無限に広がる意味の世界がある。そして論文の素材となった経験や知識はすべて、私とひと、もの、こと、との〈関係〉から生じ、私の中に蓄積されてきたものである。いつも一回限りの関係、そしていつもこの私を形作っている関係、を感じていたい。


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