泉 直史
卒業論文要旨 「エゴン・シーレの自画像」1909〜1911年の考察を中心に

 どのような外套でぼくらを覆うとしてもそれは虚無を覆うのと等しいのです、というのはそういう外被は、他の機関と絡みつく欲求を持つかわりにぼくらを隠すのだから。―ぼくがもし自分を完全に見るなら、ぼくは自分自身を見なければならないだろう
(1911年9月エゴン・シーレの手紙より抜粋)

 夭折の画家エゴン・シーレ、彼は28年という短い生涯のうちの約10年間という非常に短い創作活動期間の中で、300点を越える油絵と約2500点にも上る素描やドローイングの作品を残した。

 シーレの全作品の中で一番多く描かれたモチーフは油絵作品では風景・静物画であるが、風景画家としてシーレを認知する人はまずいない。また、素描・ドローイング作品で最も多くシーレが描いたモチーフは女性像であるが、女性像が彼の画業の主要な主題であったと言うのもやや外れている。確かにシーレはエロチックな女性裸像を描いたことでもよく知られているが、やはりシーレは自画像の画家である。

 シーレはその28年の生涯で、油絵で45点、素描・ドローイングで165点の自画像を残した。63歳と、シーレよりはるかに長命であり、自画像を多く描いたとされるレンブラントの油絵・銅版画・素描を合わせた自画像数が約60点であるということから考えてみても、シーレが自画像を数多く描いた画家であるということは明らかであるだろう。しかし、シーレはただ多くの自画像を描いたという数の問題だけで自画像の画家であると考えられているのではない。裸体の自画像や自慰行為をしている自画像、勃起したペニスを持つ自画像など、それらの自画像は20世紀のオーストリアにおいてだけでなく、現代的な視点から見ても非常に先鋭的である。しかし、シーレの評価はそのような衝撃的な自画像を描いた画家という範疇に留まることはない。

 自画像とは、当然であるが自分自身を描く。自分自身を描く際には、鏡などを用いてであろうが、そうでなかろうが、自分自身を見つめて向き合わなければならない。自分自身の未熟さや不完全さといった、普段は目を背けて見たくない部分にもしっかりと向き合って、うそ偽りなく虚飾なしで描き現さなくてはならない。そうでなくては、いくら表面の形態だけを明確に描き記したところで、それは表面の記録であって自画像ではあり得ない。勇気を奮って自分の中に飛び込み引きずり出して来た本当の自分を描き出さなければそれは何の意味も持たず、人の心を打つことはない。自らを描くことは非常に難しく恐ろしい行為である。シーレは生涯を通してそれを行った。

 その中でも、シーレが最も多く自画像を描いたのは二十歳の頃である。二十歳というのは、誰であれ子供から大人へと思春期を終え成長する過渡期であり、自分の将来への希望を膨らませたりするだけでなく、芽生え始めた性への関心と葛藤したり、社会や多くのしがらみとの軋轢に苦しむ時期である。恋人の出現であったり、叔父との確執であったり、慢性的な貧しさであったり、シーレにとってもこれらのことは同様に訪れている。そんな時期にシーレは最も多くの自画像を描いているのである。

 本論文では、エゴン・シーレの生涯のうちの約10年間という短い創作期間の中から、1909年から1911年の3年間というさらに短い期間に考察範囲を絞っている。1909年からの3年間は、シーレにとっては19歳から21歳という、少年から大人へと成長する過渡期であり、画家として自らを認識し、師と仰いでいたクリムトから脱却し、自らの中に澱む熱情を初めて世界にさらけ出した、非常に重要で魅力的な時期である。その時期を分析することで、どのようにしてエゴン・シーレが自画像を描くようになったのか、どのようにして裸体の自画像や自慰行為に耽る自らの姿を描くに至ったのか、どのようにして彼自身の表現を獲得していったのかを考察していく。

 第1章では、クリムトという巨大な存在にシーレがどのような影響を受け、またその影響からどのようにして脱却していったかについて考察している。クリムトは当時のウィーン画壇のトップに君臨する存在であり、同時代のウィーンで彼の影響を受けていない画家はいなかった。それはシーレにも同様に言えることであり、1909年のシーレの作品にはクリムトと同様に非常に豪華な背景や衣服に身を包んだ人物が描かれている。そのことについて、同様のモチーフを描いたシーレとクリムトのそれぞれの作品を挙げて1節で考察している。

 2節では、1910年になり、シーレがクリムト的な装飾の背景から人物を引き剥がし、無地の背景に嵌め込み、スポットを当て、最終的には人物を覆う衣服まで奪ってしまうことでクリムトから完全に脱却し、自らの表現を確立していこうと試みることについて、5枚の油絵のシリーズを例に挙げて考察した。また、この時期にシーレは新芸術家集団結成時のメンバーの一人であり、幼少時代にはウィーンの宮廷オペラ劇場のバレエ団に所属していた経歴を持つ男、エルヴィン・ドミニク・オーゼンに出会い、オーゼンをモデルに多くの異質なポーズのドローイングを描き、身体が神聖なものではないことに気づいたということについても言及した。

 1911年までのシーレの自画像を見るときに不思議に思うのは、裸体の自画像が多く描かれているにもかかわらず、自らの陰部をはっきりと描いた自画像が全くないということである。正確にいうと、陰嚢だけをかいたものはあるが、陰茎を描いたものはないのである。横を向いていたり、股間の寸前で途切れていたり、たとえ、股間が露わにされていても、陰茎と陰嚢が一つになっているようであったり、曖昧にぼかされていたりして、陰茎は描かれていないのである。それに対し、1911年にはシーレ自身の性器が描かれた作品は2つある。その2作品に描かれた性器は普通の状態のものではなく、充血し巨大に勃起したものが描かれている。第2章ではその描かれた性器と描かれなかった性器の比較を中心にシーレがどういう意図でそのような表現をしたのかを考察していく。

 シーレの芸術が世に現われてから1世紀を迎えようとしている現在、自慰していたり、勃起した巨大なペニスを持っていたりするショッキングな自画像を描いた彼の芸術への評価は高まってきている。その理由の一つに、現代では性や生々しい肉体といったものがもはや不可侵なものでなくなったということがあるだろう。しかしその結果として、性が様々な場所に氾濫し、気軽に売買され、誰であろうと簡単に入手することができるという問題も発生している。シーレはその作品で自己の性を扱い支配しようと試み、失敗した。しかし、皮肉にも彼の作品は、性は簡単に扱えるものではなく、扱うことが不可能ならば軽い気持ちで近づいてはいけないということを警告しているのである。現代において最も必要な警鐘を、彼はすでに持ち、鳴らしているのである。このような点からも、シーレの芸術はいっそう多くの人々の目に触れ、さらなる評価を受けるべきであろう。


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