豊山 育
卒業論文要旨 「名から庶民へ」―江戸時代における婚礼道具の諸相―

 婚礼道具とは、婚礼にあたり、女性の家から嫁ぎ先へと持参される嫁入り道具をいう。この婚礼道具には、地方や各家々によって独自のしきたりがあり、その内容も多様である。日本では近世に、大名、豪商などの富裕層を中心に、飾り棚、化粧道具、食器、香道具などの一定の決まった揃えをもった婚礼道具の慣習が行われていた。

 日本における、このような揃いの婚礼道具のはじまりの背景には、中世末から近世初頭にかけて生じた招婿婚から娶嫁婚いわゆる嫁入り婚へ、という大きな結婚形態の変化があった。それまでの公家社会では、天皇以外は殆どが招婿婚であり、結婚の際には女性の家のほうで寝殿にしつらいをし、婿はそこへ自分の手回り道具を持参するという形がとられていた。しかし、娶嫁婚になってからは女性が生活道具全体を嫁ぎ先へもっていくという形になる。

 室町時代になると有職故実が整備され、それに伴い婚礼の式方も次第に定まっていった。近世に続く複雑な婚礼儀式はこの時代から武家を中心にはじまったと考えられている。この武家の婚礼諸式は、武家階級にとって権力的にも、文化的にも盛期をむかえた安土桃山時代から江戸時代初期に一段と豪勢で大仰なものとなっていく。結婚形態の変化が定着し、その制度が整えられるに従い、婚礼道具もまたそのしきたりの一つとして、武家や公家の婚礼の際には必ず作られるようになる。

 この流れをうけて、江戸時代に入ると大名階級において、贅を尽くした蒔絵の婚礼道具が用意されるようになった。さらに、十七世紀末ごろになると、力を持ち始めた町人たちがこの大袈裟な武家の婚礼支度を真似るようになる。このようにして婚礼儀式やそれにのっとった婚礼道具の慣習が庶民にまで浸透し、広く行われるようになったのである。

 近世における揃いの婚礼道具を、一つの分野として括り考察を加えた研究の先駆としては、昭和五十五年・五十六年度と同五十九年・六十年度に行われた、大名婚礼調度の調査の報告書、『近世大名婚礼調度について―近世漆工芸基礎資料の研究―』(荒川浩和・灰野昭朗・小松大秀 『MUSEUM』四一九号・四二〇号 東京国立博物館 一九八六年 所収)がその代表として挙げられる。これは、現存する婚礼道具のうち、比較的数量が纏まって伝わっている道具類の器種内容を明らかにしたもので、五十を超える道具類がリストに挙げられている。これにより、近世の主な婚礼道具類の変遷とその道具内容についての概観が現存遺品によって明らかにされた。

 これ以降、現在までなされてきた揃いの婚礼道具に関する研究は、いずれも近世の婚礼道具のなかでも、とくに大名・公家のものに焦点をあてたものである。というのも、近世、時代が下るにしたがってT庶民にまで広まったU婚礼道具ではあるのだが、制作背景や所有者の地位によって道具の性格が異なるため、大名のものと庶民のものを一括して研究する事が困難であるからだ。また、大名婚礼道具と比較できるような纏まった庶民の婚礼道具の遺品が少なく、調査研究が進んでいないという事もその大きな理由として挙げられる。

 本論では、近世初期には大名特有の習慣であった揃いの婚礼道具がやがて庶民でも行われるようになったという、婚礼道具の受容層の拡大に主眼を置いた。そして、大名に限らず、江戸時代全体を通して行われていた揃いの婚礼道具を新たな枠組みで見直す事を、その課題とした。

 この課題を達成するには、大名婚礼道具の特徴を捉えるとともに、これに対応する形で、今まで注目されてこなかった庶民の婚礼道具の概要を知る事が必要とされる。そこで本論では、江戸時代の文献資料、そのなかでも特に女性に向けられた往来物のなかの記事をもとに、この庶民の婚礼道具の概要をつかむ事を試みた。

 そして、大名と庶民の両者に関連する由来をもつ、京都・洛東遺芳館所蔵の「柳海棠丸に隅立四つ目紋蒔絵婚礼道具」(以下、「柳海棠婚礼道具」と表記する)を取り上げ、ここに混在する二つの階級の気質を探ろうとした。また、これらの道具類ついて、その特徴的な由来のみに言及するのではなく、意匠や加飾、それに関連した道具揃え等の点から考察を行い、江戸時代中期の基準作例として、漆芸品や婚礼道具の歴史においての新たな位置付けを試みた。

 この道具は、播州出身で大名家相手に金融業を営んでいた京都屈指の豪商、那波家(那波屋)五代目九郎左衛門祐英の四女里代(一六九三〜一七六二)の婚礼道具である。里代が、同じく京都の豪商であった柏原家(柏屋)四代目九右衛門光忠に嫁いだ時のものと伝えられている。里代にはそれ以前に尾張徳川家の家老職にあった犬山城主成瀬家との縁談があったのだが諸々の事情により破綻となり、柏原家に嫁ぐ事となった。よってこの道具類は豪商であったとはいえ、単に町人同士の婚礼道具ではなく、当初は大名との婚礼のために制作されたものであるとみられる。

 里代の婚礼道具は、いくつか意匠違いのものも含まれるが、絡み合う柳と海棠の意匠が施された道具類を主とした約六十品が現在まで伝わっている。これらの道具の蒔絵意匠は金・銀・錫の彩りをもって切金、付描、梨子地などの様々な技術をつくして描かれている。この道具が作られたとみられる元禄時代、梨子地の装飾や蒔絵をほどこした大揃えの婚礼道具は、豪奢禁止の法令では既に一部の階級にしか許されていなかった。そのようななかで、商人によって作られたこの豪華な「柳海棠婚礼道具」は、非常に興味深い作品といえるだろう。

 実際のところ、本論を通して私が行ってきた事は、先に掲げた課題達成のためには充分な手段とはいい難く、手にした資料の数も乏しい。しかしながら、以上から私が判断した多少の事を、本論文の結論にかえて、ここに記しておく。

 武家階級の婚礼道具は、江戸時代の初期に黄金期を迎えた。この事は、武家階級といっても、そのなかの裕福なもの、つまり、将軍家や大名に限られた事であった。その後、十七世紀中頃から庶民が豪華な揃いの婚礼道具を真似るようになる。ただ、ここにおいても揃いの婚礼道具を用意できたのは一部の富裕層のみであった。このように江戸時代全体をみると、裕福な家の者のみが豪華な婚礼道具を用意することができた、という事実が一つ挙げられる。しかし、だからといって、揃いの婚礼道具を単に金持ちの道具と規定する事はできない。

 本論中で挙げた、婚礼道具に関する規制のなかにも覗う事ができるように、江戸時代を通して身分の差というものは社会的な活動においては決して無視する事のできないものだった。婚礼道具は、T婚礼Uという女性の人生の大舞台に使われる道具であるとともに、生活のなかで使われる道具である。そのため、道具のなかにその階級特有の気質を見る事ができる。

 庶民においての婚礼道具は、まず十七世紀中頃にその黎明期があり、十七世紀末から十八世紀初頭に確立期を迎える。その後の展開については遺品によって確認する事はできないが、大名のものが一定の規範内におさまっていたのに対し、庶民のものは往来物のなかにみるように時代に合わせた内容品の変化等、独自の発展を遂げる。

 このように、江戸時代全体を通じて、婚礼道具の流れを見るとき、元禄時代を中心とした江戸時代中期は庶民の婚礼道具が確立し、それが最も華やいだ一時代として、語る事ができるのではないだろうか。


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