寺地 亜衣
卒業論文要旨 「イサム・ノグチのプレイグラウンド」―彫刻による子供達の楽園づくり―

 イサム・ノグチ(Isamu Noguchi, 1904‐1988)は日本人の詩人野口米次郎と、アメリカ人の作家レオニー・ギルモアとの間に生まれた、日系アメリカ人の彫刻家である。幼い頃から日米間を往き来し、生涯にわたって東西の狭間で揺れ動いていたノグチは、東洋の伝統と西洋の最新の技術とを折衷させた作品で知られている。また、ノグチの作品は石や金属の彫刻だけにとどまらず、広場や庭園などのランドスケープ・デザインを手がけたり、椅子やテーブルをデザインしたり、そして照明彫刻「あかり」を考案したりと、東洋と西洋との境界を越えて活躍していたノグチは、表現の上でも従来の彫刻という領域を越えていた。実際、ノグチを彫刻家ではなく、建築家やデザイナーとして認識している人も数多い。

 ノグチの死後、その評価は晩年の石彫に対するものが中心であり、プレイグラウンドを手がけていたというのはあまり知られていなかった。しかし、最晩年にマスタープランを手がけた、北海道札幌市の「モエレ沼公園」が完成に近づくにつれ、徐々に話題を呼ぶようになった。「モエレ沼公園」は、今年2004年に全体が完成する予定であるが、造営の終わった箇所から順に開放しているため、既に札幌市民に馴染み深い公園となりつつある。

 その「モエレ沼公園」の中心的存在とも言えるのが、「プレイマウンテン」〔図〕である。高さ30mにもなるこの築山は、公園を訪れた人なら誰でも一度は登る。頂上からは公園とその周囲を取り囲むモエレ沼、そして札幌の広々とした風景を一望でき、冬場はスキーやそり遊びで楽しむこともできる。実はこの「プレイマウンテン」の原案は、「モエレ沼公園」のマスタープランが完成する50年以上も前の1933年に考案されていた。「プレイマウンテン」は、彫刻を大地と結びつけるアースワークとして、また、市民の日常生活に直接的に関わるパブリック・アート、とりわけ子供が触れて遊ぶことで彫刻家の制作の追体験ができる参加型美術作品として、先駆的な位置にあった。この案は結局、ニューヨークの公園局に認められず実現に至らなかったが、ノグチはこれ以後、次々とプレイグラウンドを考案し、さらに庭園や広場にまで発展してゆく。そしてノグチが生涯に手がけたランドスケープ・デザ実現しなかったものも含めると全部で30点以上とされているが、そのうちプレイグラウンイン作品は、ドがおよそ3分の1の11点を占めている。とりわけ初期のランドスケープ・デザインはプレイグラウンドに集中していたことからも、ノグチがいかにプレイグラウンドに思い入れがあったかがうかがえる。

 さらに、ノグチは「モエレ沼公園」のマスタープランを完成させるとすぐにこの世を去ってしまったため、結果的に「モエレ沼公園」は、ノグチの遺作となってしまった。ノグチが考えたランドスケープ・デザインが最初がプレイグラウンドであり、最後もまたプレイグラウンドであった。つまり、プレイグラウンドはノグチの制作の上でも、特に重要な位置を占めていたと言っても過言ではない。

 ノグチは、プレイグラウンドをエデンの園のような楽園にすることを願っていた。それはノグチ自身が少年時代を日本で過ごし、当時まだ珍しかった混血児であったために周囲にいじめられていたという暗い過去を反映している。ノグチは自らの思い出を払拭するために、明るく平和な世界を作りたいと考え、その思いがプレイグラウンドづくりへと駆り立てたのである。したがって、ノグチのプレイグラウンドは教育的というよりもむしろ理想的な空間づくり、つまり造形的な側面が強い。プレイグラウンドそのものは建築家やデザイナーの仕事として見られがちであるが、ノグチのこうした姿勢は、まさに彫刻家の制作そのものであるといえる。

 本論文は、プレイグラウンドによってノグチが何を表現したかったのかを考察する。第1章では、ノグチのプレイグラウンドの原点ともなった、1933年考案の「プレイマウンテン」(本論文では「ニューヨークのプレイマウンテン」と表記)がどのような影響の下に考えられたのかを考察する。

 第1節ではノグチが22歳の時に師事したコンスタンチン・ブランクーシの影響について述べる。ノグチは彫刻作品でもブランクーシの影響を非常に受けているが、作品と周囲の空間、彫刻のあり方についても大きく影響されており、その影響を、ブランクーシのアトリエや、公共空間のプロジェクトを挙げて考察する。第2節では、彫刻と社会とを結びつけて考えていたノグチへの時代的な影響、特にロシア構成主義やバウハウスを例に挙げて考える。第3節は、ピラミッド型という形態が、どのような影響から利用されるようになったのかについて考察する。

 第2章は、ノグチの制作において重要なコラボレーションという形式、特にプレイグラウンドにおいて重要となる建築家とのコラボレーションについて述べる。コラボレーションによって生まれた作品を一言で表すなら、ノグチの友人であったバックミンスター・フラーの提唱した「シナジー」という概念が当てはまる。第1節では、このシナジーという概念について説明する。第2節ではノグチが建築家とコラボレーションするようになったいきさつについて述べ、第3節では、実現には至らなかったがノグチのその後のプレイグラウンドにも重大な影響を及ぼすこととなった、ルイス・カーンとのコラボレーションである「アデル・リーヴィー・メモリアル・プレイグラウンド」について述べる。そして第4節では、「アデル・リーヴィー・メモリアル・プレイグラウンド」と同時期に、アメリカで次々とコラボレーションを成功させていた、ゴードン・バンシャフトとの2つの沈床園について述べ、カーンとのプレイグラウンドと比較しながら、コラボレーションによる作品の共通点と相違点について考察する。

 第3章は、プレイグラウンドを構成する上で重要な要素となる遊具(プレイスカルプチャー)について述べる。第1節では、遊び場そのものであるプレイグラウンドと、単体の彫刻としてのプレイスカルプチャーについて説明し、第2節ではプレイスカルプチャーの形態的な特徴とその機能性について、「モエレ沼公園」での観察を基に述べる。第3節は、石でできた螺旋形の滑り台「スライド・マントラ」について、ノグチと鑑賞者の「彫刻」という認識について考察する。

 第4章では、実際に実現したプレイグラウンドについて述べる。第1節では横浜「こどもの国のプレイグラウンド」とアトランタ・ピートモンド公園「プレイスケープ」について、第2節では「モエレ沼公園」について述べる。第3節では、多くの人々の生活に直接的に関わるプレイグラウンドと、自らの彫刻作品を永久に保管するための「イサム・ノグチ庭園美術館」について、「空間を作る」という点で比較考察する。

 そして最後に、プレイグラウンドの現状と今後の問題点について考察する。ノグチが初めて実現させたプレイグラウンドである「こどもの国のプレイグラウンド」の現状について述べ、それを踏まえた上で、「モエレ沼公園」に課せられた問題点と、これからの保存に関して考える。

 パブリック・アート作品は美術館が所有する作品と異なり、必ずしも恒久的なものではない。様々な事情により作品の周囲の環境が変化することもあれば、取り壊されてしまうこともある。ノグチの作品も実際に、これまでにいくつも取り壊されており、また、現存していても保存状態が著しく悪いことがしばしばであった。プレイグラウンドは単なる子供の遊び場だけでなく、ノグチの理想空間の表現でもある。プレイグラウンドを安全に利用するために管理することは大切なことであるが、芸術作品として後の世代まで残してゆくことも重要であると思われる。現在ではパブリック・アートはますます盛んになり、街中にはいたるところに作品が設置されている。パブリック・アートの先駆としても位置付けることができるノグチのプレイグラウンドの考察を通じて、これまであまり問題視されていなかったパブリック・アートの保存問題の重要性に改めて気付かされた。今後もこうした問題についてさらに考えてゆきたい。


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