芸術学 Aesthetics & Art History
岡部 香寿代
卒業論文要旨 「柴田是真 ―その造形と意匠に残る江戸―」

柴田是真(1807 〜1891 )は、幕末から明治初期において、蒔絵師としても絵師としても第一線で活躍した人物である。

 彼は、文化4 年(1807 )に町人の子として生まれ、11 歳のとき、古満寛哉に入門し、蒔絵を学んだ。16歳のとき、当時としては稀なことだが、蒔絵の下絵を自分で手掛けるために、自ら鈴木南嶺に入門し絵画を学んだ。蒔絵師として、一人前の仕事をするようになってからも、京都に二度遊学し、その教養を深める。一度目の遊学では、南嶺の紹介で四条派の画家岡本豊彦へ入門している。二度目は、蒔絵研究のためで奈良の諸寺院の宝物を拝観するなどしている。

 このように、蒔絵師として研鑚をつんでいた是真であるが、天保7 年(1836 )の『広益諸家人名目録』では、本業を画家として記載されている。実際、是真の名が一躍有名になるのは王子稲荷神 社に奉納された《額面著色鬼女図》(図)であった。しかし、蒔絵のほうの仕事も、弘化2 年(1845 )に、 青海波塗という変塗の復興ほか、精力的におこなっていた。

 明治になると明治6 年(1873 )のウィーン万国博覧会の出品を最初として、海外で開催される様々な博覧会や国内の内国勧業博覧会、内国絵画共進会といった博覧会に多く出品し、数々の賞を受けている。また、蒔絵の技法を蒔絵額面、漆絵といったかたちで発展させている。
特 に、漆絵に関してはその技法の特異性に注目されることが多いが、それよりも漆絵が生み出されるに至った背景には、何があるのか、あるいはなぜ漆絵なのかを考えることに、是真という存在を検証するに際して大きな意義がある。

 是真研究に関しては、その没後しばしば是真に関する逸話を集めたような伝記調のものが少なくなかったが、川崎千虎の「柴田是真」(『国華』97 号、1897 )が実証的な研究とされる以外、学術的な研究は少なくとも戦前においてされることはなかった。

 戦後、郷家忠臣氏によって是真の総合的な研究がなされるようになる。その著作は、従来の研究を総括した上で、郷家氏独自の知見を加えたものであり、私自身、本論を作成していく上で手放すことのできない書物であった。郷家氏の著作もその他戦後に出た是真関連の著書も1980 年前後に集中しており、ジャポニスム論に関しての盛り上がりに重なる部分があることに、是真の存在位置がどのようなものであるのかを考えるヒントになるように思う。

 本論では、柴田是真の存在意義を追求するというのが第一目的である。蒔絵師、画家としての顔をもち、多岐にわたる活動をしつづけた是真であるが、是真自身の制作に対する態度や是真への評価とは、どのようにして生まれたのか、ということを明らかにしたい。

 第1章では、是真の作家生活の大半を占める江戸期の作品の、その江戸的なものとはいかなる要素から成り立っているのかを検証した。まず、是真は、苦労を重ね大成した先人の作品から多くを学ぼうと努力した人間であった。模写・収集というのは、是真にとって自分自身が成功するためには、何よりも大切なことであったが、それとともに、是真の制作の中でどれほどの意義があったのかを考察した。そして、その中から得たものを、是真がどう自分のものとして取り込んでいったのかを確認した。得たものとは、具体的に、視覚的「だまし」の効果というのがそれに当たるのだが、絵画作品に頻繁に見られる描き表装の手法は琳派からの流れがみられ、材質のだましには小川破笠から学んだということがいえる。

 また、是真の作品を好んだ顧客の好みに関しての考察もおこなった。彼らの好みは、江戸にうまれた、いき・通の精神に支えられたもので、確かな技術、豊富な知識によって裏打ちされているが、それをひけらかすことのない、滋味のある良さを好むというものであった。そのような江戸人の社会的・精神的背景を基にして、是真の得意とした青海波塗をはじめとする変塗が作品の中に多用されることとなる経緯を明らかにした。

 第2章では、明治期特有と考えられる作品の、それが成り立つ要素を検証した。江戸期との大きな相違としてあげられる、是真へ制作依頼する顧客、つまりここでは、政府の存在に関して詳しく述べた。政府高官との関係が、是真の制作にどのような変化をもたらしたのか、その経緯を追って考察した。特に、龍池会設立に関わった佐野常民を中心とした人間との交流が深く、是真が多くの博覧会へ出品することになったのも、彼らの存在があったからである。

 また、漆絵の制作を促した西洋絵画への是真の対抗意識や政府高官の是真への期待がどのようなものだったのか、漆絵という妙技の裏にみえる意味を探った。そして、漆絵が、その後の蒔絵や漆に対して与えた影響を考えた。是真の漆絵制作のはじめには、西洋の油彩画のように耐久性もあり、 重厚な光沢をもった画面を漆でなら作ることができる、という思いがあった。そこから出発し、政府高官である塩田真から出された「紙本上での研ぎ出し蒔絵」という要望に応えるうちに様々な形で漆絵が展開することとなるのである。

 その中で、是真は、それまで工芸品の装飾技法でしかなかった蒔絵を、絵画表現の場である紙上に施すことで、工芸から絵画へとその領域を広げたのである。つまり、漆絵は、工芸品に従属する存在であった蒔絵を、絵画表現の一つとして独立させるような意味があったのである。
 第3章では、第1 章、第2 章でみてきた江戸的、明治的それぞれの要素は、生涯全体通した総合的な是真評価においてどのような役目を負っているのかを示した。

 まず明治的な要素は、是真に社会的な立場の要性を認識させるような作用があり、自らの携わる蒔絵技法の将来を考えた行動をとらせる結果をうんだ。そして是真の本質として位置づけられる江戸的な要素は、海外での是真の正統な評価を受ける要因となり、日本においてその通俗性を理由に芸術としての枠から離れがちになる要因となった。ここでは主に、是真の江戸的要素から導かれた日本での評価というのは彼の作品に即したものではないということを、改めて明確にするために、日本政府による美術のイメージ作成との関係性を問い直した。

 政治、経済との強い関連性を余儀なくされるなかで形成された日本における美術という概念は、絵画を上位に工芸を下位に位置づけた。それは、工芸のもつ産業的側面と、絵画表現のように視覚的に訴えるのではなく触覚に訴える生活に密着した面によるものである。こうした工芸軽視の傾向という要因のほかに、是真が交流をもっていた政府高官の旧派系が、新派系のように新しい美術教育の体制づくりにおいてその主流となることができなかったという要因、という二つの主な要因が是真の正統な作品評価に水を差していたといえる。

 このように本論は、全体を通して、是真の評価を形づくるいくつかの要素についての検証を行うとともに、時代変化が是真評価へおよぼした影響を、それを取除くことができるよう、明らかにした。
 また、是真作品の底流に流れる江戸らしさという、「いき」をキーワードにした第2章第2節での言及は、より具体的にその概念の検証が必要となるであろうし、「いき」の現代へのつながりという問題にも関わりながら、今後の課題となるであろう。

 その「いき」で表現される是真作品のよさを、西洋絵画のものさしで、思想性がないという一言で片付けることは決してできない。なぜなら、是真の作品とともに、そこには日本人の心と生活があるからである。

明治の花なり否江戸時代の残花なり

 これは川崎千虎が「柴田是真」(『国華』97 号、1897 )において、記したものである。

 彼の作品には、中国趣味も、西洋への傾倒もない、江戸という本当の日本らしさが息づき、今に残り花を咲かせつづけているということを忘れてはならない。



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