芸術学 Aesthetics & Art History
間島 円
修士論文要旨
金沢からかさ職人―松田弘―

 世界からみれば小さな島国である日本には、丁寧な手仕事から成るものが数多くある。われわれの祖先が、試行錯誤してつくりだしてきた手技から生まれるものには、われわれ日本人の美の根底が集約されている。からかさも、その手技の一つである。そのからかさ作りを、現在も石川県金沢市で受け継ぎ伝えているのが、松田弘氏である。松田氏は1925年6月19日に生まれ、2003年現在御年78歳である。からかさづくりにたずさわって70年あまり、現在も旺盛な制作意欲にあふれて常に前向きな姿勢で生きる松田氏は、北陸最後のからかさ職人でもある。

 憂鬱な雨の日に、からかさをさすと実に心が躍る。ぱりぱりと音をたてながらからかさを開くと、そこには色鮮やかな世界が広がり、ぱらぱらと油紙にはねる雨音と、まるで格子窓のような美しい骨からもれてくる光はなんとも甘美である。からかさを用いる機会のない現代では、逆に、新鮮な体験でもある。

 松田氏は、実用性も失われ、後継者のいない現在、からかさ屋の消えてゆくことは自然の成り行きだという。しかし、金沢に、ぽっと灯っているからかさ屋の明かりが町から消えることは寂しいものだ。北陸最後のからかさ職人となるまで店を支えてきた職人の心意気、からかさの魅力もそこで消えてしまうのだろうか。私は、そのからかさ屋の明かりを守りながらも広めたい一心で、からかさ研究をはじめた。北陸のからかさ屋は現状ではいつか消えざるをえないだろう。その明かりの灯っているほんの一瞬の出来事でも、私が、責任を持って記録したい。

 第1章では、傘の成り立ちを述べた。中世まで日本で「かさ」といえば頭に直接かぶる「笠」を示しており、柄がついた開閉可能な「かさ」は、「さしがさ」あるいは「からかさ」と呼ばれて区別されていた。私たちが日常あまり触れることのない「からかさ」、そして、雨の多い日本において日常生活の必需品であり続ける「かさ」の歴史的変遷について記した。

 第2章では、松田弘氏と金沢からかさの魅力を伝えたいと考え、筆者による聞き書きを主体とした。文化の発展は、からかさに豊かな表情を与えて、多雨多雪の金沢に適したからかさも生まれることとなった。以前は180人もいた金沢からかさ職人も、今は松田氏ただ一人。竹と紙にむかう孤独な作業は、忍耐力、強靭な精神力がなければつづけて来ることはできなかっただろう。松田氏の日常生活や仕事を通して垣間見える、人柄、生き方は、人々に勇気を与え、生き方のヒントのようなものを与えるはずである。松田氏自身では残すことのないそれらを、私は、微細でほんの一部ではあるものの書き記しておきたい。松田氏のさまざまな逸話や加賀友禅の大家由水十久氏(1913〜88)とのエピソード、また、台所に立つ松田氏の日常の姿。それら一つ一つにも、からかさに限らず何事にも真摯に向き合う松田氏の姿勢が見られる。

 第3章では、松田傘店の兼ねる他の仕事を紹介した。松田氏にとって、提灯をつくることも重要な仕事の一つである。また、からかさは作り売るだけではなく、アフターケアや修繕もする。その修繕の仕事も現在他所では難しくなり、松田氏のもとには修理を必要とする傘が全国から集まってくる。料亭や個人、そして、地域の祭りで用いられる傘などだ。祭りも伝統に根付いたものであり、からかさ屋がなくなると、修繕などもかなわなくなってしまうのだ。

 また、松田氏は、ただからかさ屋として仕事をこなすのではなく、常にからかさの発展を考えている。伝統的なからかさの復元や新しいデザインの考案などを行っている。からかさには雨具としての機能性のみを求めるのではなく、人の個性や好みにフレキシブルに対応できるのだ。

 第4章では、現在でも全国各地に点在するからかさ屋に筆者自身が実際に足を運んでみた際の記録を記述した。からかさはそれぞれの地域の気候風土に応じた特色あるからかさがつくられ、職人模様もさまざまである。京都の日吉屋商店では四代目をになうからかさ職人西堀江美子さんにお会いし、職人としての人生観、現状をうかがった。優しく笑う江美子氏には、自然と受け継いだ気負いのない職人気質と傘を本当に愛しているのだという気高さが感じられた。手技を受け継ぐ職人たちには、地域は違っても共通する一途な考えがあるようだ。

 第5章では、からかさ作りに欠かせない材料である紙、竹、柿渋の特性を記した。長い時を経て生み出された手技には、先人の知恵が凝縮されている。それぞれの素材もこれまでに厳選されてきたものである。からかさへの造詣を深めるためにも、素材の特性をより深く知っておきたい。

 からかさに用いられる材料は、天然の素材である。竹、楮から漉かれる紙、果実の柿からつくられる柿渋。からかさ作りに適した竹や柿への生長、採集時期は考え抜かれたものだ。また、割裂性の高く加工しやすい竹は柔軟性に富み湿気に強く伸縮しにくい特性を備え、柿渋に含まれるタンニンは防水、殺菌、殺虫、素材の強化などの効果をもたらすのだ。これらの特性は、先人の知恵と苦心の末最大限に活かされてからかさを形成するにいたったのだ。

 材料への拘泥は、松田氏の職人としての姿を映し出す。松田氏は、生漉きの紙を用いることにこだわっている。機械漉きやまぜものの多い紙が流布している現在、それらと比べて圧倒的な存在感が生漉きの紙にはある。また、折る、染める、塗るといった傘の製作工程にも耐え、風雨にも耐えて使い手を安心させることができる。「自信を持って売ることのできる商品を常に作っていたい」と松田氏は語り、実際の作業を通して材料の大切さを伝えてくださる。この、手技への頑な姿勢は松田氏のつくるからかさに確実にあらわれているだろう。松田氏のからかさを実際に手にとった人たちの感嘆の声が、それを物語っている。

 金沢からかさは、堅牢・優美・豪壮とされる。私は、以前からさまざまな工芸品に興味を抱いていたが、特に、華やかなからかさは私の目を引いて衝撃的でもあった。すっとのびた傘骨、ぱんと張った手漉きの傘紙、そして赤、緑、黄、青の鮮やかな千鳥掛け、手のこんだ作りはからかさに対する概念をくつがえすものがあった。そして、何よりも、松田氏という作り手の顔が見えるというところは最大の魅力であった。熟練の手技から生まれるものには、作り手の心情や人生が込められているものだ。

 柳宗悦はかつて『手仕事の日本』に、日本で育まれた手技が日本から消え去ったとしたら、日本は特色のないみすぼらしい国になってしまう、と記した。手技がなくなったからといって、わたしたちの生活がみすぼらしくなるとは思われないが、日本人としての「ほこり」の一つを失うことは確実であろう。また、柳氏は手技を「深く根のはった、大木である」と言っている。立派な大木も、土、水、日という環境が整わなければ、枯れはて、あるいは、どさりと倒れてしまうのである。手技は使い手があってこそ活き活きと輝く。だからこそ、多くの手技はこの時代にあわないのかもしれない。使い手となる、われわれ日本人こそが、伝統の手技がほろびゆく意味合いを親身に考えていかなくてはならないのであろう。私は、金沢からかさと出会いから3年間、金沢からかさの魅力とは何なのかということを追い、その魅力を受け継いで後世へ残していきたいと考えてきた。そのような一方的な私の行動に、金沢からかさ職人松田弘氏は懇ろに接してくれた。70数年の職人人生、心身に染み込んだ職人感、そして、その手技をも惜しげもなく披露してくださったのだ。金沢とはかけはなれた土地で、からかさや職人の世界に全く接したことのなかった私が、松田氏と出会えたことは本当に幸福な偶然であった。松田氏とからかさ、そして、それらを通してさまざまな人に出会えたことにも感謝したい。「ぱあっと傘をふって高へつっとけばええげんて」。雨に打たれたからかさの扱い方をたずねる客に、松田氏がいう言葉である。からかさの扱いは、案外簡単なものなのだ。



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