芸術学 Aesthetics & Art History
猪瀬 学
修士論文要旨
『ヴァティカン1162 』の装飾について
−特にそのヘッドピースを中心に−

 本稿では『ヴァティカン図書館蔵ギリシア語写本1162番 Codex Vaticanus Graecus 1162(コキノバフォスの修道士ヤコボス作の聖母マリア讃詞[説教]集;以下、ヴァティカン1162)』におけるヘッドピースについて考察した。

 『ヴァティカン1162』は、コムネノス朝時代に制作された挿絵付き写本である。ヨアンニス2世(位1118-1143年)の息子アンドロニコスと結婚したイリニのために制作されたと考えられ、制作年代は1126年から1150年の時期と推測されている。この時期は、外交的には外面的多難さ、文化的には豊穣な展開を成した時である。一方で、その制作地、写字室は特定できない。

 ビザンティンの写本のヘッドピースの一般的な定義は、「一つのコラムの横幅と等しく、縦の長さに変化のあるほぼ左右対称の装飾帯で、豪華写本の場合、主に冒頭頁、または、冒頭頁の挿絵の対になるレクト頁の上部に置かれ、章の始まりを、たいてい装飾頭文字と共に知らせる役目をもつ」ものである。

 『ヴァティカン1162』のヘッドピースについて今まで詳しい分析がなされてこなかった。先行研究としては、フランツ女史(1934年)、辻成史氏(1975年)、ブフタル、ベルティング両氏(1978年)、スパタラキス氏(1981年)の研究を管見ながら見い出すのみであるが、しかしながらそれらは適合した分析方法ではなかった。

 そこで私は従来の方法は取らず、ヘッドピースの組織構成の全体に着目し、外から内へ向かう視線の流れにそった、換言すると、外、境界、内という関係を示すことに力点を置いた。

 【先端飾り(terminal)】外部の付随モティーフ。このモティーフの多くは、上端では斜方向き、下端では上方向きである。下端において、しばしば左側の先端飾りがイニシャルと絡むことがある。(11世紀後半頃から、両下端が飾り付き輪奈状結びを持ちはじめるようになる)

 【枠組み】枠組みは外部枠、内部枠からなり、基本的に二〜三層である。

 外部枠…額縁のアナロジーとして縁取り(surround)、欄外飾り(border)と呼ばれる。節状、縄状、ジクザグ線入り、節状+ジグザグ線入り、波状、蔓状のいずれからなる枠組み線と幾何学文、組紐文、パルメット文・円形モティーフ、植物モティーフなど、の装飾帯から構成される。

 内部枠…枠組みの形態には、ヘッドピースに多い長方形、パイルにやや多い正方形、十字形を強調した格子中央の長方形、十字形を強調した格子中央の正方形、円形、半円形、馬蹄形、四葉形、萼付き四葉形などがある。構成は、外部枠とほぼ同じで枠組み線と装飾モティーフからなる。

 【内部装飾】外部枠の装飾帯が数種類のモティーフを繰り返しているのに対して、内部装飾は動物や蔓のいくつかのモティーフをほぼ左右対称に配することで活気ある構成をもつ傾向がある。

 このような分節化によってヘッドピースの構成を図示すると以下のようになる。

ヘッドピースの構成

 以上のヘッドピースの構成を確認した上で、デスクリプションを試みたのだが、本稿ではそれによって得られたデータから、私なりの見解を結論に代えて述べておいた。

 この写本にはマリアの前半生が、彼女の両親ヨアキムとアンナの物語から始まり、マリアの誕生、神殿行、受胎告知、エリザベト訪問、呪いの試し水へと詳細に叙述されているのだが、その物語の展開は、教会図の扉絵から始まる第一篇では、まず、アンナの懐妊で物語を歌い起こされる。第二篇では前篇の懐妊を承けマリアが誕生し、続いて第四篇まで受肉の奇跡を行う以前のマリアが描かれる。第五篇では、大天使ガブリエルのお告げによって場面が一転する。そして、第六篇では、呪の試し水の成功によって受肉の正統性が歌われ、物語が結ばれるというように、ちょうど起(第一篇)承(第二篇から四篇)転(第五篇)結(第六篇)の構成を持ち合わせている。

 ここで私の得た推論は、「『ヴァティカン1162』のヘッドピースは、もとより人物像抜きの装飾モティーフ本位の表現ではあるが、章を追ったテキストの展開に対応して構成されているのではないか」ということである。その答えは、この讃詞集のマリア物語の起承転結の結に当たる部分、第六篇に見えてくるだろう。私は、各々の章のヘッドピースが並列的な配置ではなく、物語の展開に対応した章の頭として、本然の機能に基づいた構成を成している、と推測する。詳しく述べよう。

 本稿で私は、ヘッドピースの組織構成の(2)と(3)(左頁模式図参照)に当たる、枠組みと鳥獣モティーフについて比較、考察を行った。

 まず、枠組みについては、その一帯の模様が第一篇と第六篇が連続菱形花文を取り、第二から第五篇まで枠付きの花文を取っていた。また鳥獣モティーフについては、第一篇から第四篇までは鳥獣がおり、第五篇と第六篇では鳥獣が姿を消していたことが分かった。ここから第六篇のヘッドピースは、第一篇、第五篇のヘッドピースの組み合わせから成り立つことが分かる―その見た目において各層が第一篇と第五篇のパーツから成り立つことを含めて。つまり、物語の展開に即応するかのごとく結に相当する第六篇は起の第一篇と転の第五篇から持ち出された混交であることが分かる訳だ。

 しかしながら、第六篇のヘッドピースにおける枠組みの線が縄状であること、第一篇のパーツから成り立つ中心枠に、存在するはずの鳥獣モティーフの姿がないこと、の二点について着目したとき、第六篇のヘッドピースは新たな様相を開示してくれる。

 第一篇から第五篇へと移る過程において、まず第一篇から第四篇へと次第にその存在を大きく主張する鳥獣たちが観者の注意を喚起する。そして第五篇に至ると、鳥獣モティーフの喪失が、鮮やかな段状十字文を観者の目に強く印象づける。それは赤・紺・白の色彩の効果によってある種の静謐さを画面に呼び寄せる。第六篇では、一見すると第一篇と第五篇の文様の混交である。しかしながら、その構成を見ると、枠組み線は節状ではなく縄状であり、第一篇にいた鳥獣文は姿を消し、植物文のみである。また、所々の模様の色彩が違う組み合わせで描かれている。先端飾りの下端が洋紅色の雄蕊をつけている、などの独自性がある。

 つまり、第一篇と第五篇の混交であると思われた第六篇は、実は単なる混交ではなく、そこにずれを作り出し新たな展開を導き出しているのだ。物語でいうと、読者の意識を結へと移行する漸層法の手法を取っていると言えよう。

 抽象的文様からなるヘッドピースであるが、その構成展開がテキストの章立てで見るところの起承転結に対応することは、考えてみれば、不自然なことではなかろう。クライマックスボーダー



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