荒川 奈央美

 卒業論文要旨

素朴絵画に関する考察
 -coeur sacreの画家たち-


 素朴絵画とは、一言でいえば、正規の美術教育を受けていない素人画家の手による絵画のことである。彼らは正統的な理論や技法にとらわれず、気持ちのおもむくままに、内的な要求に従って、正規の美術の型にはまらない形式をもって制作を行なう。むろん絵画だけではなく彫刻なども存在し、そのような作品を「素朴派の美術(ナイーブ・アート)」と呼ぶ。
 伝統的な技法や訓練によらずに、天与の才で美術作品を制作するというのは、新しい現象ではない。そのような人々はずっと昔から存在したはずである。20世紀にこの分野で何か新しいことが起こったとすれば、それは、こうした一見稚拙な画家たちの仕事に、教養ある専門家たちや観衆が真面目な尊敬を払い、正規の美術教育がなかったがゆえに幸いしたと思われる彼らの作品の価値を称賛するようになったことである。
 ドイツ人批評家ヴィルヘルム・ウーデをはじめとする素朴派礼賛の風潮は、20世紀初頭にフランスにおいて税官吏アンリ・ルソーの芸術を認知することからはじまった。
 ルソーの死後、ウーデは彼に続く素朴派の画家たちであるアンドレ・ボーシャン、カミーユ・ボンボワ、ルイ・ヴイヴァン、セラフイーヌ・ルイをフランス国内から次々と捜し出した。1928年には、彼ら5名を「聖なる心の画家たち(Les peintres du coeur sacre)」と命名し、パリで展覧会を開いた。この展覧会は、素朴派美術が公式に認証されたいわば原点である。
 本論文では、日本ではあまり知られていないボ一シャン、ボンボワ、ヴィヴァンの3人の作品を紹介しながら、素朴絵画の概念について考察した。第一章では、素朴絵画が一つのジャンルとして確立するまでの流れを述べた。第一節では、19世紀末から20世紀はじめにかけて素朴絵画が登場した背景について、2つの側面から考察した。
 1つは、19世紀ヨーロッパにおけるプリミティヴィズムの風潮である。それは硬直したアカデミズムに反発したナザレ派やラファエル前派によるロマン主義の時代及びルネサンス初期の美術の再評価に始まり、印象派の日本の浮世絵への関心、ピカソらフォーヴの画家やキルヒナーをはじめとするブリュッケの画家たちによるアフリカやオセアニアの仮面・彫刻の収集に及ぶ。
 「プリミティブ」なものに対する眼差しは、従来美術品とは見なされなかったフォークアートや子供の美術、精神病者の美術、そしてアンリ・ルソーの登場を機に素朴絵画というジャンルにも向けられた。
 もう1つは、産業革命による社会の変化である。工場生産品は、農村の手工芸品や職人達の伝統的な技の活力を弱めた。それまでの無名の作品はいったん地下にもぐり、共同体が崩壊すると、個人という形をとって再浮上し、定型化した類似表現から抜けだして大胆で個性的な表現をするようになった。これが素朴派の美術となったのである。
 第2節では、「素朴派の芸術(ナイーブ・アート)」という語が定着するまでの用語の変遷と、各研究者による素朴絵画のさまざまな定義、指摘を取り上げた。
 第3節では、日本における素朴絵画の浸透について記した。1950年代に海外の素朴画家たちが美術雑誌によって紹介され始め、また山下清、谷内六郎ら国内の素朴画家に対しても注目が集まった。1986年には「芸術と素朴」という問題を提起する美術館が設立され、また素朴派の作品を専門に収集する美術館も登場した。
 第2章ではアンドレ・ボーシャンの芸術について考察した。彼は1873年にフランス中部シャトールノーに庭師の息子として生まれた。14歳まで学校に通った後、家業を継いで苗木商を営み、この頃から歴史や神話を読むことを好んだ。第一次世界大戦中、ギリシアのダーダネルス海峡で従軍し、初めてギリシア古典の舞台である地中海の景色を見て深い感銘を受ける。土地測量をつとめていたが、測距図の正確さが上官の目にとまり、デッサンの訓練を続けるよう薦められ、彼は44歳にして初めて油絵を手掛けた。
 除隊後まもなく彼は止みがたい情熱にかられて絵を描き始め、家業をたたんで画家に転向した。彼は歴史や神話に題材を求め、イタリアのプリミティブ絵画にも比せられる灰味がかった柔らかい色調で描いた。次第にこのような主題を捨てて花や果物、人々の生活を描いた農村風景など、なじみのある場面を描くようになった。彼の絵はいづれも庭師として親しみ熟知した花々や自然への愛情に満ちている。
 第3章ではカミーユ・ボンボワの芸術について考察した。かれは1883年、ブルゴーニュ地方のヴナレ=レ=ロームに生まれた。父親は河船の船頭で、幼時を水上生活で送った。12歳のときに農場の作男に出され、以後パリに行くことを目標に、道路工夫、巡回サーカスのレスラー、かつぎ人夫など、ヘラクレスのように頑健だったという体で、あらゆる肉体労働をこなした。24歳のとき待望のパリに出、地下鉄工事人夫となるが、それ以前から絵を描く希望を持ち、昼間を絵を描く時間にあてるため、印刷所の夜勤の仕事にかわった。このような生活を続け、第一次世界大戦に従軍した後、39歳になってようやく画家になることを志した。
 彼はこれまでの自分の生活を彩ってきた景色や追憶を描いた。それは河や静かな山のたたずまい、橋のアーチを通して見える風景や田園風景、サーカスの情景などで、その細密描写は生き生きとした色彩と共に独特の美しさを持つ。また彼は、自らも持っていた健康で生命力あふれる豊かな肉体を、誇らしげに描いた。彼がパリの街角や田園風景を描くときにも、きまって独特のまるまると太った女性たちが登場する。
 第4章ではルイ・ヴィヴァンの芸術について考察した。彼は1861年、ヴォージュ県アドルに生まれた。幼時からヴォージュ地方の風景を家の壁や扉に描くのを好んだ。工業中学に入学し、デザインとデッサンを学んだ。18歳で郵便局に勤務し、翌年パリに配属された。メッソニエやミレーを敬愛し、仕事のかたわら趣味で記憶をたよりに一連の故郷の風景画を描いた。第一次世界大戦中も勤務を続けるが、戦後彼の絵には、狩りの情景を描いたものなど、血や死の影が映ずるようになる。62歳で郵便局を退職し、やっと絵画に専念できるようになった。彼は知りつくしている場所である、パリやセーヌ河畔の有名な建物や停車場などを熱心に描いた。中間色を主調とし、レンガや敷石の一つ一つに至るまで強い輪郭線によって表現され、その細かい縦横の網目は強い装飾的効果を発揮するが、画面には詩情のにじみでた雰囲気が漂う。
 ナイーブ・アーティストたちは「素朴派」という言葉にとってひとくくりにされているものの、彼らはある一定の理論や主義の下に派閥を形成している訳ではない。彼らは世界各地に散らばっており、お互いの存在も知らないことが殆どである。1984年に出版された「世界ナイーブ美術百科事典」には60か国におよぶ800人以上の素朴派の芸術家たちが紹介されているが、彼らの多くは作品を売って生計をたてるわけでなく、職業を持ち、その職業は会社員、公務員、農民、職人、主婦と多岐にわたる。
 素朴画家たちの作品は、主題・構図・表現・色彩ともに実に多様であるが、どこか独特の共通した雰囲気が漂う。それは個人のヴィジョンを、全くの個人的な方法で具体化したものであり、既成の表現方法にとらわれずに描く率直さが、彼らを呼ぶときの名称通りの共通点であろう。本論文は3名の画家を取り上げたが、上記以上の共通の特質を見出すには至らなかった。しかしこうした調査研究が、素朴派の芸術研究を進めていく上で、一助になれば幸いと思う。

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