菊池 妃呂子

 卒業論文要旨

古代ギリシャにおける美の契機
 -コスモロジ−からの惹起-


 形式美の問題は古代から現代に至るまでのすべての美学と必ずつながるべきものだが、アリストテレスにおいて初めて、宇宙や装飾、大きさ、適合、明確さの概念と共に、均整、秩序、限定性、大きさが美の形式原理としてまとめて取り上げられた。その有効性は今日でも失われていないであろう。その形式美の概念自体は、すでに竹内敏雄氏の『アリストテレスの芸術理論』において相当な比重で取り上げられていることもあり、本論では、アリストテレスが美を客観的な関係に存する形式原理として認める、その認識的根拠の追及に主眼を置いた。それに際しては、コスモロジーを起点とし、古代ギリシャ人の認識構造と関連して解明を試みた。本論の構成は以下の三章からなる。
 第一章:古代ギリシャ人の認識構造
  1. 世界をつかさどるコスモス
  2. コスモス対カオス
  3. 数による世界把握
    -ピュタゴラス学派の試み-
 第二章コスモスが規定する美の特性
  1. 総合的な美的理念 -調和-
  2. 相似変換される構造
  3. 知覚可能性
 第三章:アリストテレスにおける美の形相とコスモス
  1. コスモスの本質的一体性
  2. 知覚と「大きさ」と付加性
 まず第一章では、古代ギリシャ人の世界観とそこに見られる彼ら特有の認識構造を検討した。1節では、ギリシャ初期の宇宙の構造についての理論(コスモロジー)が美の形而上学へも発展していくのを見るための序章として、コスモスという概念に含まれていた観念を分析する。古代ギリシャ人たちにとって世界は、その字義通り、コスモス「秩序」の意であった。一般的な言葉としての「コスモス」は、軍事・市民生活・政治・建築学・道徳等々の広範な領域に適用されるもので、いずれにも、適正な配置(配列・構造)という意味が見られ、その底にはこの意味を支える<宇宙の自然的秩序>という概念があることを確認できる。それが基となってできたのが「宇宙の秩序」「全体の秩序」を意味する学術用語のコスモスで、この新たな言葉の中には二つの要素が含まれる。(1)世界はそこに在るものすべて、対立するものも混沌としたものも何もかもを、一つの枠組みの中に内包する。そのような世界が完全な秩序ある統一体であるためには、万物を結合する法則、万象を貫く一つの秩序法則が要求されること。(2)この秩序法則という観念においては、考える側の特別な(神的)客観的視点が、必要だったこと。2節では、全体としてのコスモスに含まれた二元的対立構造を検討した。反向・対立(Polarity)の設定は、古代ギリシャ人の思考パターンとして共通して見られるものだが、コスモス対カオスという二元的世界観にも見られる。この二元的世界における諸価値の振り分けにおいて、コスモス側に配分される諸特性の基準は法則性と知覚可能性に絡みがあり、美の特性に根拠を与えるものでもあることを指摘した。3節は、和音の発見から始まるピュタゴラス学派の数による世界把握について取り上げた。すべてを統合する秩序法則が宇宙において働いているのだとすれば、その合理的な構成そのものを明らかにすることが求められる。ピュタゴラス学派は初めてこの秩序構成を表す有効な手段として数を用いた。和音が数学的に解明できるという「和音の発見」によって、彼らは、数を事象を説明するものと考え、また数で特定される事物だけが本当の意味で存在するという極端な認識さえ持つに至る。つまり、和音は内在する調和の現われというよりも、諸事物の本質、真の構造にある秩序(コスモス)の表現と捉えられたので、数が存在の根本形態と考えられたのである。彼らの数の概念は「組み立て」(構造的なもの)とされるものであることから、形相やイデアヘの思考的な準備段階にあるとも言える。
 第二章ではコスモスの構造や諸特性が、美の構造や特性に写し出されていることの確認のために、その概念史として検討した1節では、和という観念のコスモスにおける重要性をピュタゴラス学派を例に述べた。和音の法則を、天界法則へと拡大したこの学派は、宇宙の完全な状態、その統一体としての<かたち>も調和的であるべきだと推察し、調和を沢山の混ぜ合わされた要素の統一だとしている。これは、全体としての秩序としてのコスモスと似ているが、同じではない。秩序と調和の第一の相違は、共に作用として持つ統一を、どう行うかという方法の違いにある。秩序は法則性によって統一するが、調和は統一をたとえば調子をあわせることで行う。また調和には秩序よりも大きな条件づけが必要で、それに従って結果としての美が成立する。秩序も均斉も統一も、世界の調和のための形式原理として要求されるのである。ゆえに調和はコスモスを介して総合的な美的理念と認められる。2節ではコスモスの構造についての理論が美の構造の理論に映されていることを、古代ギリシャ人の認識パターン「アナロジー」(Analogy)をキーワードに考察した。アナロジーは類推、比喩、類比という意味の概念で、未知のものを、既知の相似な形に移しかえて測定する、相似変換の原理による認識方法である。美の形式原理の一つ、均斉は、アナロジーの「比」の概念につながるという指摘がされている。対立構造における双方のバランスという概念から、そのバランスをめぐる対称性(均斉)の概念に発展したものとも考えられるからである。またこの相似変換の適用は、いくつかの特別な現象においては宇宙の構造がより小さなサイズに映されるという、ミクロコスモスの概念にも現れる。仮設的に、美もまた一つの(ミクロ)コスモスと考えると、ピュタゴラス学派の、美は秩序と均斉の問題という観念は、世界を調和とした時点から、引き出されるべき答えとして存在していたと言える。コスモスの構造はほとんどそのままの形で美の構造に映されているのである。3節では、カオスの対立概念の狭い意味でのコスモスの特性が、一般的な美の概念の中に見られる諸特性に通じていることに言及した。ギリシア人にとって美の証明と考えられた明確に知覚できるという特性(知覚可能性)もその一つであり、美の形式原理の一つである限定性も、この知覚可能性が根拠となっている。
 第三章では、アリストテレスにおける世界観と、それが彼の美の規定に与えた独自性を考察した。1節では、彼の自然学的な宇宙(コスモス)観における命題、一つのコスモスしか存在しないという考えから導き出される、世界の本質的一体性と、その意味を確認した。アリストテレスのコスモスは、あるべき世界がこの現実の世界だという彼の認識に支えられている。彼の世界では、対も本質的に関連し合うものとして、ある同一のものの局面と捉えられる。現実の事物は形(形相)と質量の不可分な結合体であり、それ自体の内に原因も運動も目的も含まれているというような、世界の本質的一体性の根拠は、彼にとつての世界が、あくまで<この>一つの現実の具体的事象世界であったからと言える。2節では、コスモスがこの現実の世界とされたように、アリストテレスが美の規定として付け加えた現実的な具体規定「大きさ」という概念を、知覚の問題と絡めて考察した。アリストテレスにおける美の形相(形式原理)の独自性は、秩序、均斉、限定性に加えて<大きさ>を挙げた点にある。しばし限定性の概念と混同される大きさの概念は、限定性が「知覚可能性に適う限界内」という消極的な規定なのに対し、大きさは「その限界内でも相対的に高度な大きさを有すること」という付加的な意味を持つ。これは、形式美が具現化される際にさらに美を高めるものとして付随する“Das Kosmetische”<美的にするもの>というカテゴリーに属すると考えられ、装飾的な意味を帯びる点で、「装飾」という意味を持つコスモスと間接的に関わっているのである。このように、古代ギリシャにおける美の形式原理は、コスモスロジーに認識的根拠をおくものであると言える。美はコスモスより惹起されるのである。

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