田中 有

 卒業論文要旨

ホルバインの『死の舞踏』
 -「死と女性像」にみる中性末期社会-


 変わりなく日常生活を営む人々の前に、ある日突然「死」が現れ終わりの時を告げる。人々は無力で、「死」から逃れることはできない。
 ハンス・ホルバイン(1497/8−1543)の『死の舞踏』は、1538年にフランスのリヨンでメルキオールおよびガスパール・トレクセル兄弟によって出版された41葉の木版画の挿絵入りの活版印刷本である。『巧妙に構想され、優雅に描かれた死の像と物語』と題されているが、描かれているのは「死の舞踏」の主題である。
 「死の舞踏」とは、「死は万人に平等である」ことを説き、生前の善行と悔悛を求める思想であり、中世後期の15、16世紀にテキストと図像で構成された作品が多くつくられた。初期には壁画が多く描かれたが、印刷術の発展に伴い、版画の挿絵入りの「死の舞踏」の本が多く出版された。ホルバインの『死の舞踏』もその内の一つであり、この時代の「死の舞踏」を代表する作品である。
 ホルバインの『死の舞踏』は、その他の15、16世紀の代表的な「死の舞踏」の作品に比べて非常に登場人物が多いという特徴がある。ホルバイン以前の作品では、死と生者のペアが一組ずつ描かれていて、舞踏する身振りをしている。しかしホルバインの作品では、「死の舞踏」の基本要素である舞踏、音楽の要素は少なくなり、死に襲われている生者以外にも多くに人物が登場して一つの場面を構成している。そのためそれぞれの図像には個々に独立したストーリーがあるように感じられ、普段通りの日々を過こしている人々の前に突如死が現れて猛威を振るう様がリアルに描かれている。
 また、ホルバインの作品では、登場人物の多さやそのストーリー性豊かな表現を通して、ホルバインがどのように当時の社会を見つめていたかということまで感じ取ることができる。
 例えば、ホルバインの作品に登場する権力者たちは、優雅な暮らしをし、貧しい者たちの訴えを無視しているという無慈悲な姿で描かれている。裁判官のように公正であるべき人物が賄賂を受け取ろうとしている場面もある。また聖職者は世俗から離れて神につかえるべきであるにもかかわらず私利私欲にとらわれている。これらの図像表現にみられるように、ホルバインは階級社会の上位を占める人々の矛盾した行為に対して批判的な感情を抱いていたと考えられている。このように「死の舞踏」の作品の中で、図像に作者の意図が反映した表現がみられるのはホルバインの作品が最初であるといえる。
 以上のように、全体を通してホルバインの『死の舞踏』の特徴はいくつかあげられている。そこで、この論文では「死と女性像」に焦点を当てて比較、分類し、ホルバインの『死の舞踏』の新たな特徴を明らかにすることを試みた。
 中世後期は「死の舞踏」だけでなく、様々な死の美術がつくられた時期であり、そのような死の美術の中には、老若男女の生者と死が対比されて表されるものがある。この「死と生者」の図像の根底にあるのは「死の舞踏」と同じく、生前の善行と改悛を強く促す思想であった。「死と女性像」はその思想に加えて、「七つの大罪」の一つである「淫欲」という罪に対する戒めが表現されている。この図像では、若い女性が女性的な魅力を強調して表されている。このような「死と女性像」の研究はされているが、「死の舞踏」における死と女惟像に対する言及があまりされていない。そこで今回の分析に際して、死と女性像に着眼してホルバインの『死の舞踏』の考察を進めることにしたのである。
 本論文で扱う作品は15、16世紀の代表的な「死の舞踏」の諸作品と、ホルバインによる『死の舞踏』とその前身である《死のアルファベット》である。《死のアルファベット》は1523、24年に制作されバーゼルの出版物に使われた、全24文字のイニシアル装飾であり、その直後につくられたと考えられる『死の舞踏』の下絵との関連からも重要である。
 まずホルバインの「死の舞踏」作品と、その他の「死の舞踏」作品に登場する女性像を統計的に検証した。「死の舞踏」ではあらゆる階級の人物が登場するので、死と生者のペアを階級別に分類したところ、女性像の登場率がスイスのバーゼルの《死の舞踏》や、マヌエル=ドイチュの《死の舞踏》といった壁画作品に近いということが分かった。特にバーゼルはホルバインと関係の深い土地であり、『死の舞踏』の下絵もバーゼルで制作されていることから、この壁画から影響を受けている可能性は高いと考えられる。「死の舞踏」の発祥の地であるフランスでは女性像が登場することは少なく、「死の舞踏」に女性像を描くという伝統はフランスのものではなく、スイスやドイツのものだということができる。
 次に中・下層の女性である「母子像」、「若い女性」に焦点を当て検討した。
 「母子像」は、それが描かれている全ての「死の舞踏」の作品において子供とともに描かれるか、あるいは「死と予供」に対応して描かれていて、母のみが単独で描かれていることはない。ホルバイン作品においても同じことがいえ、母は「死と子供」の中の登場人物として描かれている。「若い女性」は、その他の「死の舞踏」作品では若葉の冠という若者の象徴を被った伝統的な表現がされていて、テキストにおいてのみその「淫欲」や「傲慢」の罪を戒められている。唯一マヌエル=ドイチュの《死の舞踏》の「死と娘」像はそのような象徴は身につけていないが、やはり「淫欲」の罪を表していることがテキストや図像表現から分かる。ホルバイン作品では《死のアルファベット》の「S」に「若い女性」が描かれている。この「若い女性」像は長く「娼婦」であると考えられていた。しかし最近の研究書では「若い女性」とされている。「死の舞踏」は登場する人物がどのような身分の者であるか、テキストの内容や題目、そしてその人物の衣装によって知ることができる。この「S」に描かれている「若い女性」は、衣装からは「娼婦」とは断定できず、恋人たちを表す表現に近い。しかしこの「S」の図像はやはり「淫欲」の罪を表していると考えられ、マヌエル=ドイチュの「死と娘」像と類似点も見出すことができる。
 またホルバインの『死の舞踏』に描かれている上流階級や聖職者の女性たちの図像の中にも「傲慢」や「淫欲」の罪を表していると考えられるものがある。
 これらのことから、結論としてホルバインの『死の舞踏』は、その図像表現から「死の舞踏」の基本要素である舞踏と音楽の弱化や、ストーリー性の豊かさによってこれまでの作品にみられない斬新な印象を与えるが、女性像の分析から明らかになったように多くの点で伝統的な表現に基づいていることが分かった。しかし伝統的な表現のみにとらわれず、社会批判を含むリアルな表現を達成したという点で、ホルバインの作品は美術史上において重要であり、そのために後世に多大な影響を与えたのだろう。

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