李 殷子

 修士論文要旨

写真は再現芸術である


 今日誰もが家族の写真や恋人の写真を持っている。守り神のように。また家族の一人が亡くなると、その人の写頁を形見として保管する。そして恋人と別れたときは、その人が写っている写真を燃やし、切って捨てる。このような我々の振る舞いは、原始時代に行われた呪術の儀式に類似しているように見える。そしてまた絵画や彫刻もかつて呪術的な使われ方をしていたとするならば、写真は絵画や彫刻と同類のものであることになろう。だが、それにもかかわらず、今日多くの学者たちは写真を絵画から区別しようとする。そしてそのときの論拠が、写真は「再現芸術」(representational art)ではないという点に求められている。果たして彼らの言うように写真は本当に「再現芸術」ではないのか。
 本稿は写真を再現芸術ではないとする見解に対して反論を提示し、写真が「再現芸術」であることを論ずることを目的としている。まず第1章では、再現の意味を考察する。再現の古典的意味は、自然を模倣することつまり自然を写すことであったが、近世の古典主義理論は写すことではなく、写す方法を倣うこととみなした。19世紀になると、表現という目に見えない観念的なものに目に見える形を与えるという新たな意味、すなわち「表現」が再現の中に加えられることになった。「再現」が「表現」をも表わすようになった背景には、写真による影響があったことは十分考えられる。
 複製技術は芸術全般に大きな影響を与えた。印刷技術によって本が出版され、文学に極めて大きな影響を与えた。また版画は写真が登場するまで本の挿絵または新聞の挿絵として大きな役割を果たしていたが、1839年の写真の誕生によってその役割は縮小した。1844年タルボットが初めの写真集『自然の鉛筆』を発表した時、「今日限りで絵画は死んだ」とポール・ドラローシュは語っている。この言葉が暗示するように、その時から写真と絵画の戦いが始まったのである。多くの精密画家や肖像画家たちは職を失った。彼らは写真を非難すると同時に、口を揃えて絵画の優れた点を強調したが、無駄であった。そして彼等が得た結論は、絵画は模倣のレヴェルで写真と競い会っても無駄であること、模倣以上の何かを「表現」しければならないということであった。このような観方は、後期印象派の画家たちが登場する19世紀末頃になるとますます明瞭になり、絵画は想像力に関係するものと見なされるようになったのである。後期印象派の作品に共通しているのはカメラによって見られる物理的世界を徹底的に拒否することである。彼らは強い線、大胆な色など使い歪んだ画面を作りだした。視覚を通して得られるものの再現ではなく、感情を「表現」しようとしたのである。絵画の要素は客観性ではなく主観性、リアリティではなく抽象的観念であるという考え方は、今日にまで続いていると言える。
 第2章では、写真が再現芸術ではないとする見解を取り上げ、それぞれを吟味し反論を加える。この写真は再現芸術ではないとする考え方は、19世紀に一般的となった「再現」の解釈、即ち主観的な表現を再現と見なす考え方に依拠する。それによって、写真は再現芸術ではないと主張しているのである。つまり写真が表現ではないことを主張していると言ってよいだろう。しかし写真は本当に表現することができないのか。
 第1節では、写真は主題にたいする写真家の思いを表現することができることについて述べる。ロジャー・スクルートンは、再現(表現)芸術である絵画は、主題に対して志向的つまり主題について画家の思いを表現しているが、写真は因果的であるため映像しか提示できず、主題に対する思いを現わすことができないと論じている。しかし写真は写真独自の様式で主題に対する写真家の思いを表現することができるのである。例えば、写真家はカメラのシャッターを押す前に、ライト、絞り、シャッタースピード、レンズそしてモデルのポーズ等を決める。その選択の全ては写真家がモデルに対する思いを表現する手段である。同じモデルを撮影しても各々違う写真に出来上がるのは、そのモデルに対する写真家の思いが異なっているからなのである。写真家は自分が思っていることをモデルから引っぱり出すためシャッターを押す前に色々なことをする。一枚の写真に写真家の志向性をみることはもちろん可能だが、彼の全作品あるいはシリーズ写真ではこのことがよりはっきりみることができる。シンディ・シャーマンは『Untitled Film Stills』でステレオタイプ化された状況を設定しながら、操り人形のような、60、70年代の女性像を表現している。
 第2節では、ステンリ・カヴェルの議論、写真は工学や化学によって客観的に自然を写し撮ることができるということに対して、写真が必ずしも客観的ではないことを提示する。写真家は、主題の選択からはじまってほとんどの過程で主観性を働かしている。ウェストンはピーマンを女性のヌード、キャベツを下着のように見せている。このような見せ方は以前にはなかった新しいスタイルである。またメイプルソープは男女を問わず、モデルに陰をつくらないようにライティングをしている。その結果彼らモデルの外見はとても美しくなるが、人間味の全くない物体になってしまう。ウェストンもメイプルソープも各々主観的な観念をもって、写真を撮っているといえる。
 第3節では、絵画は物語を時間の流れの中で表現することによって、道徳的知識を伝えることができるが、瞬間を撮る写真は情報しか伝えられないとするスザン・ソンタクの論に対して、写真は偶然的に写った細部によって物語を作ることが可能であることを論じる。我々は過去の写真を見ながらその時代の服装や流行を読むことができる。それはスナップ写真にしろポートレートにしろ写真を撮る人が意識しなかった細部から得ることができる。ある意味で偶然性が運んだものと見ることができる。その細部は我々にその主題になった人物の社会的身分や状況を想像させるのである。例えばコン・ウェシングの写真「ニカラグア、街路をパトロールする兵士たち」は、戦争に壊された街路と銃をもってパトロールする兵士たちの表情から、戦争の被害やまた残っている戦争の緊迫感を伝えている。しかしこの画面には、道路をはや足で渡ろうとする2人の修道女の姿が偶然に写し出されいる。これによって我々は戦争の状況でありながらも、しかし戦争とは全く異なった別の事態を知ることができる。それはニカラグアの山地に教会が設立されていること、そしてその教会は彼女たちの服装からカトリックであることが分かるのである。このように写真は、写真家が伝えようとする事柄だけではなく、偶然に画面に写し出された事物からある種の物語が派生するという2重構造をもっている。絵画においては画家は画面の中の物語りを全てコントロールすることができるのだが、写真はそれにくらべてこの2重性によってはるかに複雑な物語となりうるのである。
 第4節では、写真を見ることは対象そのものを見ることであると主張するヴァルトンに対して、写真が提示するのは対象そのものではないことを述べる。写真をみることは、鏡のようにイリュージョンをみることである。我々は鏡のイリュージョンを信じたくなる。同じように、写真を見る時もそれが映し出す対象を本物だと信じたくなるのである。ただ一点鏡と異なっているのは、写真を前にしている観賞者は事物の現在のイリュージョンではなくて過去のイリュージョンを見ていることである。
 以上、写真が芸術ではないと主張している学者たちは、写真家がコントロールできないほんの一部分を取り上げて、写真が再現芸術ではないことを論じているにすぎない。工学や化学の力に頼ってはいるが、写真は写真家の志向なり主観によって作られる再現(表現)芸術なのである。

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