佐々木 玲奈

卒業論文要旨

デューラーの木版画《犀》
―ヨーロッパにおけるその受容と他者としての側面―


 アルブレヒト・デューラー(Albrecht D_rer, 1471-1528)は、絵画や版画、素
描、そして美術理論をも含む造形芸術のあらゆる分野で、その卓越した才能を発揮した北方ルネサンス期を代表するドイツの偉大な芸術家である。そのデューラーが1515年に制作した木版画《犀(Rhinoceros)》は、ヨーロッパにおいては、18世紀頃まで様々な分野で繰り返し転用される現象が認められる。

 デューラーが自然観察に基づく、「写実描写」を実践していたことは、他の動植物の素描などからもうかかがえる。しかしながら、この木版画《犀》に関しては、生物学的には正確なものとはいえないのである。現在、4属5種が認められている犀の中でもデューラーが描いた種は、インドサイ(Rhinoceros unicornis)である。これは、その名の通りインドに生息する一角の犀である。それにも関わらず、デューラーは鼻の上にある角に加え、肩の上に小さな二本目の角を描いており、鼻の上の角も、実際の犀と比べると長く、鋭く尖っており、その外皮も、装飾的に誇張され、甲冑を身にまとっているような様相である。

 では、なぜこの「いかにも本物らしい犀」の図像がヨーロッパ中に流布したのであろうか。これまでの研究によって、この《犀》は「科学的な写し絵」として科学史的な貢献をし、尚かつ当時の人々の自然に対する興味や、大航海時代以降に続々と発見される新種の動物に対する珍奇趣味を満足させるものとして、版画というメディアが大きな役割を果たしたこと、また科学的な正確さとは逆に、シンボルやアレゴリーといった文学的要素を含むものとして、特にルネサンス期以後に宮廷人や文化人の間で流行したエンブレム的な役割を担っていたのではないか、ということが指摘されてきた。しかし、この作品に対する盲目的ともいえる信頼はどこからくるのか。そして、何が、一つの「犀」の表象を生産させ続けたのか、という二つの疑問が浮かんできた。

 本論文では、木版画《犀》が継承された要因をデューラーに対する崇敬と、後の「巨匠」評価の定着という視点に着目すると共に、「普遍的」な犀の表象というものを生産し続けた要因について、「他者」という言葉をキーワードに、歴史的側面を考慮しつつ、考察した。

 まず前提として、デューラーの《犀》が制作される以前の、西洋における犀のイメージについて考察した。古代から、様々な著述家が犀について言及してきた。しかし、犀に関する見解は、その長い歴史のなかで、近代生物学においてその本来の姿や特質が科学的に明らかにされるまで、常に一角獣の性質と混同されつづけ、また、その存在自体も一角獣の存在とだぶらせて考えられてきた。犀に対する認識の歴史は、一角獣のそれと並行し、時に交わり合いながら、互いに大きく影響し合っているのである。特に、古代においては、インドまたは東方に生息する一角の動物という形態的一致を示す、各々著者自身が聞き得た情報、そして、実際に目にしたことのある動物を組み合わせながら、ひとつの動物を形成し、さらにそれらを語り継いでいくことによって生じた誤認が、この後も延々と続いていくのである。常に犀と混同されてきた一角獣及び、「一角獣伝説」は、キリスト教が広く認知され、伝播していくのと同時に形成されていく。中世半ばから末期にかけての犀の存在は、端的にいえば、犀と一角獣の関係について延々と論じられてきた時代といえる。しかしながら、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で、実際の犀について触れているにもかかわらず、その写本のひとつである『驚異の書』において、それは古典的な一角獣像として表されている。この『驚異の書』を生み出した14世紀初頭の宮廷文化においては、犀が生息する東方の「事実」よりも、古代からの「伝統」そのものを求めていたといえるだろう。犀の生息するインドは、当時のヨーロッパ人にとっては、非現実的な「地の果て」であった。

 しかし、デューラーの木版画《犀》が制作されることにより、その状況に変化が生じる。この木版画のモデルとなった犀は、インドのグジャラート王国から、ポルトガルのエマヌエル国王へ贈られたもであった。この犀について書かれたポルトガル在住のドイツ出身の商人からの手紙をもとに素描と木版画《犀》が制作されたといわれている。

 木版画《犀》の制作当時、デューラーは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世
(1459-1519)の宮廷画家として、制作活動を行っていた。木版画《犀》の銘文に、犀は「素早く、豪胆で狡猾」である、と記しており、これは、古代、中世と受け継がれてきたイメージと合致する。鋭い角と甲冑のような外皮の犀の表象とあてはまるだろう。そのような犀は、母親がポルトガルの王女であったマクシミリアン1世が偉大な存在であることを示そうとする、デューラーの敬意の表れとも考えらる。マクシミリアン1世の要請で制作された《凱旋門》という美術史上最大級の木版画にも、モルッカ諸島のエンブレムとして木版画《犀》と同様の「犀」が描かれている。また、2本目の角は、二角のアフリカ犀に関する古代の伝承から、デューラー自身が付け加えた「付加価値」と捉えられる。つまり、デューラーが木版画《犀》を制作した当時、観念的な部分で、古代、中世からの伝承に起源を求めるという「ルネサンス的現象」に
デューラーも、もれなく乗じていた、といえるだろう。犀に与えられたこれらの要素から、この木版画《犀》は本物のように見えながら、それ自体にエンブレム的要素が認められるため、エンブレムを集めたエンブレム集の中で、犀が使われている先駆けとして、芸術家によってモデルブックのように活用されていくことにより、「犀の図像」の規範となっていき、伝播していったと言える。しかし、ここにアジアへ進出していった当時のヨーロッパの社会的状況、つまり、犀という表象に、アジアを支配するヨーロッパという、構造も見えてくるのではないだろうか。

 さらに、デューラーの没後(1528年以降)、半世紀程過ぎて、デューラー・ルネサンスという現象が起こり、デューラーの作品がコピーされ、モチーフが引用されていく。デューラーの木版画《犀》が、次々と版を重ね出版されることも、このような現象のなかで捉えられるだろう。デューラーの作品は、王侯貴族などの間で、絵画、版画、共に蒐集されるようになる。他の作家の芸術作品も蒐集されたが、それと同様に「新世界」から持ち込まれた自然物が蒐集され、「美術=驚異陳列室(Kunst undWundertkammer)」に所蔵された。このような「美術=驚異陳列室」は、次第に体系的に分類されていき、18世紀に入ると、美術館や博物館へと発展していく。デューラーの木版画《犀》も、「秩序立てられた多義性」のなかに組み込まれ、もはや観念
的なものとしてよりも、意味を失った記号として、つまり、純粋な美術として、巨匠デューラーの《犀》という位置に置かれていくのである。

 エドワード・サイードの『オリエンタリズム』などに見られるように、西洋において、一般的には植民地時代に「他者」という概念が形成されたとされるが、それ以前にもそれぞれの時代にイメージされ、描かれた「犀」は、西洋のあり方を写し出す「他者」という側面をもっていたのではないだろうか。それは、犀が生息するインド、ひいては「西洋」と対極を成す概念として「東洋」という「他者」であった、ともいえるだろう。


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