芸術学

 

慶野 由紀子

卒業論文要旨


西洋のドラゴンに関するユング的考察


 想像上の幻獣であるドラゴンは世界中のあらゆる文明において「存在」し続け、複雑で深い意味を持つなんらかの象徴であり続けている。中国の龍、インドのナーガ、バビロニアのティアマトなど、世界のそれぞれの場所で、それぞれのドラゴンが「存在」し、崇高なるもの、忌むべきもの、世界の主など様々な意がそれらに与えられている。

 しかし、その複雑であるはずのドラゴンが、西洋では、英雄や聖人によって倒される「悪」の化身というイメージのみがあまりにも先行しているように思われる。例えばそれは、聖ゲオルギオスのドラゴン退治、ジークフリードとファーニブルなどが特に有名である。実際今回、調べたドラゴンに関する文献でも、その殆どが退治されるドラゴンについての話が多かった。もちろん、ドラゴン退治の物語の中にも英雄がドラゴンを倒すことによって、ドラゴン、つまり自らの(専ら「悪」としての)影を克服し、それに同化し、より彼の英雄としての個性化を進めていく、といった象徴的意味が存在している。しかし、ドラゴンは常にいつも「悪」としてあるのだろうか。そして常に西洋世界の中で「影」としてあり続けているだけなのだろうか。そうではないはず、と私には思えた。なぜなら、ドラゴンのような人間の無意識から湧き出た象徴的動物が1つの文明の中で限られた意味のみを持つはずはないからである。仮に悪の化身だとしても、「動物シンボル事典」の著者であるジャン=ポール・クレーベルは、その著書のなかでドラゴンについて「本能的だが、だからこそものを孕む力に富んで豊潤な生命の、ありとあらゆる力と恐怖をことごとく、その一身に体現している」と書いている。その言葉に私も共感し、次のように考えた。ドラゴンが生命を体現しているのなら、それは繁栄をもたらす限り無いものであり、謎に包まれた神秘の対象であるということであろうし、またそれは決して1つの意味のみで語られるものではない、と。たとえ、最終的には倒される運命のドラゴンであっても、それが常に「悪」を象徴しているとは限らないのではないだろうか。加えて、心理学者C.G.ユングは象徴について、「習慣的で明白な意味に付け加える何らかの特定の含蓄を持ったものであり、あいまいで、知られざる、われわれには隠されたなにものかを包含している」と彼独特の言葉で語っている。ならば、ドラゴンも西洋において一側面では語れない多様な「含蓄」を持っているはずではないか。そして、その「含蓄」を読み込んでいくことによって西洋における新しいドラゴン像が見えてくるのではないか、とそう考えた。さらにクレーベルは「ドラゴンに迫って、その最後の隠れ家にまで追い詰めるにはおそらく一生を費やしても足りないだろう。しかし、こうした調査が行われれば、人間というこの輪郭のはっきりしない存在の様々な側面に光が当てられることもまた確かなのである」と付け加えている。これらの言葉に動かされ、西洋のドラゴンに関するものの中で広い意味で肯定的、悪とは言い切れないドラゴンをピックアップして集め、ユング及びユング派の解釈に沿って調べを進めることにした。

 論文は、次のように構成した。

 はじめに
  第1章
   ・ドラゴンの種類
   ・ドラゴンの形態的分類
   ・物語における肯定的ドラゴンとその事例
  第2章
   ・母なるドラゴン
   ・アニムスとしてのドラゴン
   ・呑み込むドラゴン
 おわりに

 第1章では西洋の様々な種類のドラゴンを収集し、それらを分類した。また、ドラゴンに関するおとぎばなしや神話を集め、紹介した。第2章では、それらを、「母なるドラゴン」「アニムスとしてのドラゴン」「呑み込むドラゴン」として大きく分け、ユング派的、心理学的な分析に基づいて解釈を行った。

 しかし、このように試みてみたものの、このドラゴンという存在はあまりにも大きな象徴的存在であった。そのため、論文としては、あまりに未完成で結論のないままで終らせたところも多々あるという状態にならざるをえなかった。それ自体は非常に残念で心残りではあるし、自身の力不足を身にしみて感じもしたのだが、それでも、なお、やはり、何かと向かい合い、考え、言葉にするということは意味のないことではなかったと思っている。私がこの論を進めるなかで、最も強く感じたことは、ドラゴン(及び想像によって創り出されたあらゆるものは)非常に複雑で、可も不可も善も悪もなく、また同時に、男女、動物的なもの、神秘的で超自然的なもの、何もかも全てを含んで、我々と共に常に生きているものであるということであった。そして、それは私も含めた人間の底知れない心の深さとも繋がっている。先にユングの解釈に沿ってと書いたが、ユングこそは、この心の深く、広大な世界と独り向かい合って生きた学者であり、今回、その著書を再読し、取り上げることで、その業績の偉大さを実感することが出来た。

 最後にユングについて、書いておきたいと思う。ユングはフロイトと同時代の心理学者であり、その歩みの初期においてはフロイトの門下にあったが、その後フロイトとの心理的解釈の違いから彼と決別し、独自の論を発展させ、今日では様々な分野の研究者がユングの論を取りいれている。日本では河合準雄氏が日本初のユング派の心理学者となってから、その研究は広まり箱庭療法など、一般的にも、よく知られたものも多くある。彼の心理学は分析心理学と呼ばれ、その論は人間には個人的な無意識と、さらにそれより深い普遍的無意識が存在し、それは人類共通に持っている潜在的な精神の世界であるというものである。このようなユングの研究は幅広く、心理学だけではなく民俗学、宗教、神話、錬金術、占星術、文学と多岐に渡っているだけではなく、大変、慎重で綿密、熟考されたものである。おそらく、これらの様々なことがらは、ユングにとっては異なったものたちではなく、多分に共通しており、重なり合い交じり合った、心をあらわす象徴であったに違いない。ユングの研究は論理的ではない、オカルトじみていると言われることもあるのだが、彼の著書を読めば、その緻密に調べ上げられた文献や治療の数々、客観的で慎重に選ばれた言葉から、学者として、また精神科医として実に冷静な眼を持っていたのかが分かる。そして、1人の人間がこれだけの仕事を成したことに驚かされ、つくづく尊敬させられずにはいられない。私個人にとっては、ユングは先のわからぬ道をいく際の秘密の書かれた難解な文字の、しかし価値ある書である。このようなユングを卒論に選び、携わったことはおこがましいことであったかもしれないが、大変、貴重な体験でもあった。

 


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