村田 康祐
卒業論文要旨 「MATTHEW BARNEY 『CREMASTER』ポストモダンの物語としてゲームマスターによる不可視な純粋虚構の世界−あるいはイニシエーションの可能性」

 2002年5月、マシュー・バーニー(MatthewBarney)<1967〜>は『CREMASTER 3』を完成させ、それによって94年からのシリーズ5作品『CREMASTER CYCLE』が完結された。「クレマスター」とは、“睾丸につながる腱を包み込む筋肉”のことであり、胎児の性未分化状態からその上下運動によって確定の状態へシフトさせるという筋肉は、作品に於いてフォームの不確定の状態から確定した状態へと移行するプロセスの象徴として、また睾丸の宙吊りから中間性や不明瞭性のシンボルとして機能している。

 『クレマスター』はフィルム、彫刻、ドローイング、写真などの多岐に渡る媒体を通して現前化される、5つのエピソードによって構成される1つの虚構世界である。それは実質的な媒体によって作品化された可視的なものではなく、バーニー自身の想定する不可視な修辞学的内宇宙であると考える。本論では作品を映画としてのフィルムだけに焦点を当てるのではなく、バーニーの内宇宙としてある『クレマスター』という不可視な虚構の世界観たる「世界」と、その可視化する媒体(メディア)である「物語」という図式で捉え、それが所謂アート系映画というよりは極めて大衆映画に近い位置から、オタク系文化や消費のスタンスに於ける1980年代以降のポストモダンという時代性を大きく組み込んだものとして考察している。

 その観点のもと、序章から『クレマスター』を映画だけに着目するのではないという視点の導入として、実験映画との非連続性を提起している。『クレマスター』を映画表現として解釈するのは、フィルムだけを対象化した場合においてのみであり、彫刻や写真、ドローイングを考慮すると、短絡的にポストモダンな表現性の組み込まれた映画作品とすることは出来ない。バーニー自身自らを彫刻家として述べていることからも、フィルムだけに限定して「世界」を固定化するのは不可能であると考える。その上で1章でフィルムに於けるストーリーを提示し、そこから『クレマスター』の世界観を形成するものとして4つの要素である物語性、キャラクター、身体アレゴリー、場所性を提起する。この4要素を提起することで、『クレマスター』というバーニーによって描かれる漠然とした世界観の構造を明確に捉えていく試みが可能となると考える。

 2章では、具体的に1節でその4要素からの『クレマスター』の世界観を考察する。ここでは『クレマスター・サイクル』展のカタログにおける唯一の明確な論考テクストとして、詳細なデータや言説を確証のあるものと捉えたナンシー・スペクター氏の『クレマスター』の論文を参照しながら、「世界」の1解釈として4要素を捉えていく。続く2節において、不可視な修辞学的世界観の可視化である「物語」として、フィルムと他のメディアの等価性を考察する。その等価性とは物質的媒体としての素材であり、ここでは作品の素材へのプラスチックの使用を指摘する。ここで素材として採用されているプラスチックのほとんどが、石油を起源とする熱可塑性プラスチックであり、石炭を中心とする燃料から、石油へとシフトした1950年代以降の時代性をみることが可能であると考察している。バーニーが生まれた60年代は、大戦によって不足していた鋼鉄材の代価物としてプラスチックが注目され、生活に浸透していく過程であった。1960年代以降、キッチュとしてモダン美術に断罪される大衆芸術は、多くがこのプラスチックによって作られるもので、プラスチックはもはやここでキッチュとして、日常性、通俗性の体現として捉えることも可能であると考える。それによってやはり『クレマスター』は映画作品ではなく、不可視な世界観そのものが作品であるという、所感にもとづく本論のテーマを提示している。

 3章ではそういった『クレマスター』の不可視な「世界」と、「物語」としての媒体によるその顕在化というシステムがどのように形成されてきたのかを、『クレマスター』以前の作品群を見ていくことで考察する。ここではバーニーの作品に於ける「project」と「version」という概念が、「世界」と「物語」に相当するものであると指摘し、『クレマスター』の構造を図式と共に分析する。更にその「世界」と「物語」の図式を、ポストモダン社会の通俗性だけに考えるのではなく、美術動向と照合しているのが4章1節である。ここで『クレマスター』が、アプロプリエイションをはじめとする現実社会への批判性とは乖離した大衆文化との異種混合、エンタテインメントの方向示唆や物語性、視覚性の取り込みであるという指摘を援用し、現実社会との非関係性による純粋な虚構性を提起する。この虚構性はやはり、同時代のサブカルチャーやあるいはその消費行為の具体的な場であるオタク系文化に於ける虚構重視の動向とも整合するものである。オタク系文化における虚構重視の動向の背景には、近代国家のシステムである、成員を1つにまとめあげる為の象徴秩序たる理性やイデオロギーの弱体化による社会の細分化があり、それはジャン・フランソワ・リオタールの提示する「大きな物語の凋落」に明確化されている。2節では、『クレマスター』の虚構性が、この大きな物語の代価としての世界の創造であり、こういったサブカルチャーの形成と大きな物語の凋落というスタンスが取り込まれたものとして捉えることを試みる。

 そして3節において、『クレマスター』の「世界」・「物語」の構造とサブカルチャー動向との実質的な整合として、「物語消費」という消費のスタンスを挙げる。「物語消費」とは消費の対象が送り手による具体的なモノ(小さな物語)ではなく、その背後にあるシステム(大きな物語)そのものであるという状況の指摘である。このとき大きな物語・小さな物語を各々、『クレマスター』に於ける「世界」・「物語」に整合するものとして考える。システムを消費の対象とすることによって、消費者はその小さな物語たる可視化されている具体的なモノ(システムの断片)を手がかりに、不可視な大きな物語のシステムを擬似的に創作することが可能となり、ここで消費者(受け手)の擬似的な創作は、構造的に送り手による「物語」と全くの等価なのである。本節では『クレマスター』の「世界」・「物語」も同様の構造として、鑑賞者による自由な「世界」への解釈や夢想が可能な虚構性を指摘している。また「物語消費」における大きな物語の対象化は、自由に個人が各々の「物語」を創造(想像)できるものであり、このとき送り手・受け手両方による「物語」とそれを生み出す不可視な「世界」の管理をする存在が必要となる。マーケティングにおける「ゲームマスター」と称されるこの管理者は、「物語」を創造する為の実質的な能力を伴う1人の「作者」ではなく、多くの作者(送り手・受け手)を管理する存在であり、その「物語消費」と整合する『クレマスター』に於いてはマシュー・バーニーがそれに相当することを提起する。

 以上から、『クレマスター』を映画として、洗練されたヴィジュアルや物語性によってジェンダーや身体観が表現の中に投擲されたポストモダンな表現とするだけではなく、作品の構造として消費やサブカルチャーとの整合を捉えることで、8年という時間をかけて制作された1つの作品に内包される、現在という未完の時間性も対象化できると考える。そしてそのポストモダンの虚構性が担う機能の考察は又、より多くの現代美術表現の可能性へと接続できるものであり、『クレマスター』はそれを考察する上でも有効なシステムを提示していると言える。

 5章では、その1可能性としての考えを補遺として提示している。近代社会に於ける大きな物語は、実質的な社会的通過儀礼との関係性の下でも機能しており、ポストモダン社会のその凋落は社会共同体への参入プロセスの弱体化、個の成熟の経験の困難さをもたらすと考える。その中で、大きな物語の代価として考えることができる、ゲームマスターによる『クレマスター』の虚構世界が、鑑賞という枠に収束できない個人の1つのイニシエーションの機能を担う可能性を提起する。バーニーは今後も作品を制作していく事が予期され、この考察を現代美術における表現性の1つとする試論として提示することができれば幸いである。


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