山岡 希望
卒業論文要旨 「背中の絵画」―和彫りはどこから来たのか、どこへ行くのか―

 「刺青=ヤクザ」と思っている人は結構多いが、実は一口に刺青といっても、様々な種類がある。ヤクザ映画の唐獅子牡丹、洋画の水兵の胸にある、ハートや髑髏。アイヌ女性が口の周りにする習俗的なものもある。また、現代の日常においても街中でタトゥーの入った人を見つけることも珍しくはない。思いつくままあげただけでも、様々な種類である。ヤクザが背中に背負っているようなものは一般に「和彫り」と呼ばれ、日本の刺青の代表的イメージだ。そして大抵の場合、負の意味合いを帯びている。「怖い人」の印である。フィクションの世界でも悪のイメージは再生産されるが、その一方で刺青そのものに関してはあまり知られていない。

 辞書による定義は『国史大辞典』(吉川弘文館)では縄文土偶や『古事記』『日本書紀』から見る、古代の習俗や墨刑、江戸時代の墨刑、アイヌや奄美大島の刺青習俗に関する記述が主であり、『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)では近世の身体装飾に関する説明がほとんどである。現在「和彫り」と呼ばれているのは後者の一部に含まれるものである。

 習俗としての刺青は世界に普くある。たとえば南米先住民やポリネシアの部族、エジプトのミイラからも刺青の跡が発見されており、またアイヌや奄美大島、沖縄の習俗も明治時代まで続いていた。これらの習俗はいまや瀕死の状態であり、すでに絶えて久しいものがほとんどである。近現代以降の非習俗的刺青も世界中にあるが、その中でも日本近世に生まれた「和彫り」は構造・美学両面において独特の存在である。その最大の特色は背中を中心として身体全体を一つのデザインに統一してしまう点にある。

 本稿では、江戸時代における誕生から現代の状況までを通覧し、「和彫り」とは何であるのかを考察する。

 第一章「和彫りの誕生」ではそのルーツを文献資料中心に探る。まず、日本以外の地域ではどのような刺青習俗があったのか、和彫り誕生以前の我が国ではどのような刺青があったのかを概観する。そして、和彫りはいつ、どのように誕生し、どのような性格を持っているのかを、江戸時代の随筆や戯作文学などから探る。第一節では世界の習俗を紹介する。皮膚に針を刺して色素を入れ、模様や絵を描く行為は、古代より世界中にあり、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸、南洋、アジアに置けるそれらの記録や遺物が残されている。わが国でも、アイヌや琉球、奄美大島の刺青習俗が、明治時代まで残っていた。これら習俗的刺青は抽象的な模様や簡素な記号のような絵が多く、その目的としては種族や男女の標識・階級標識・婚期の女子の印・身体装飾・魔よけ・刑罰・呪的な医療などが挙げられる。第二節では古代の文献におけるわが国の刺青に関する記述を見る。我が国の刺青に関する最古の記録は『魏史』倭人伝中にあるが、これによると刺青は男子がつけ、地方・階級による違いが見られ、水中事故を防ぐまじないとしての意味合いもあったとのことである。また、我が国の文献からは、『古事記』と『日本書紀』から刺青に関する記述をいくつか見つけることができる。『古事記』には、大久米命が目の周りに刺青をしていた話が載っており、『日本書紀』では天皇が科した墨刑に関する話がある。『魏史』や『古事記』に登場するのは習俗・呪術的要素が強く、『日本書紀』では刑罰である。奈良時代以後は、江戸時代までのおよそ千年間、刺青に関する記録は無くなってしまう。第三節では先の断絶を経て、歴史に再登場する様を追う。最初、刺青は墨刑と記請彫という形で復活する。この二つはどちらも絵画的な要素を持たない。墨刑は享保五年に八代将軍吉宗によって正刑として発令された。入墨は消えない罪の烙印であり、腕に入った線や文字によって、その人が罪を犯したことが知れた。起請彫とは、深い仲にある男女が互いの愛情の証明として腕などに彫るもので、江戸の遊女たちは、相手の名前や年の数だけのほくろを彫ることによって客の心をつなぎとめた。起請彫は男女関係の誓い立てから、神仏への誓いへと拡大し、文字彫りが生まれることとなった。武士や侠客の中には、生命の危険にさらされる事の多いため、背中に経文を彫るものもいた。これらは次第に勇気の誇示や威嚇のために彫られる刺青を生み出した。文字ばかりではなく神仏や竜などの姿が彫られるようになり、水滸伝の流行などを経て、はなやかに体全体を統一した、一枚絵の身体装飾としての江戸の彫物を産み出した。これこそが今なお続いている「和彫り」のはじまりである。

 第二章「『和彫り』とはどういったものか」では画題と様式の面から特色を探る。伝統的な画題と、「型」という構成、「ぼかし」の技法は、時代や個々の彫師を越えた統一性を和彫りにもたらしており、同時に大きな特徴となっている。第一節では画題、第二節では型と技法の面から、和彫りらしさの理由を探る。画題の多くは、刺青同様江戸時代に発達した浮世絵と共通するものばかりであるが、とりわけ刺青画題に特徴的な性格があり、それは登場人物の強さ、物語の知名度の高さ、動きのある場面、わかりやすく評価の定まった性格などである。第二節では型と技法について述べる。型とは絵を彫る範囲の制限である。背中を中心として、刺青は段階的に拡大することができる。刺青範囲の境界線をミキリといい、そのミキリの内側は筋とぼかしによって埋められる。筋とは細い線で彫る輪郭で、筋と筋の間を埋めるのは、ぼかしと呼ばれる、炭の濃淡によって陰影をつける彫り方である。型とぼかしは和彫りの大きな特徴であり、まず型で刺青範囲を決定してしまうこと、ミキリの内部をぼかしの技法による背景で埋めてしまうことで身体を一つに統一することができる。型によって個別の図柄は一つの枠に取り込まれ、ぼかしによる背景の没個性な文様は、それらをまとめあげるつなぎの役割を果たす。

 第三章「継承」では、江戸の彫物は現在どのように継承されているのか、タトゥーの世界においてどのように扱われ、どんな影響を与えているのかについて述べる。現代における継承の形として、典型的と思われる三人を紹介する。伝統的彫物の継承者として、浅草の彫長、他ジャンルと並行して和彫りを扱う、日系ブラジル人のカルロス、和彫りに強く影響された西洋人タトゥー・アーティスト、フィリップ・ルーである。カルロスは東京でタトゥー・ショップを営んでおり、ここでは和洋様々な種類の刺青を彫ることができる。フィリップ・ルーはスイス在住。型とぼかしの技法を取り入れて、自らの作品を作り出している。

 刺青は一部の愛好家にしか知られておらず、流布しているのは曖昧なイメージばかりである。そして人々の目は否定的であることがほとんどだ。刺青を身に纏う大多数の職業性格上、それはやむを得ないことかもしれない。近年、刺青はタトゥーと呼ばれ、町に溢れている。タトゥー専門雑誌などを見ていると、様々な刺青が渾然一体となって世界中に溢れている。その中でも日本の彫物は非常に高い評価を受けている。では、それはどのように生まれたのか、どんなものなのか、これからどうなっていくのか。それを追いかけたのが本稿である。江戸時代に生まれた後、その形式を確立した過程についてはまだわからぬことが多く、これからの課題である。

 なお、本稿では針で突いて墨を入れる行為全般を指して「刺青」という語を用いる。江戸時代に生まれた、日本の伝統的刺青に対しては「彫物」、それを現代のものに限定する際は「和彫り」という語を用いる。現代の刺青全般を指しては「タトゥー」という語も用いる。刺青を表す言葉には様々なものがあり、それぞれに異なる意味や歴史がある。たとえば同じ「いれずみ」でも「入墨」ならば、古くは刑罰を表す言葉である。できるだけ中立な言葉として「刺青」を選んだのは、明治以降生まれた新しい言葉であるためと、比較的含意が少ないと判断したためである。


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