芸術学 Aesthetics & Art History
櫻田 しのぶ
卒業論文要旨
マリー・ド・ブルゴーニュの画家の作品にみる空間表現の変化

 《マリー・ド・ブルゴーニュの時トウ書》(Wien,Die Osterreichische Nationalbibliothek, Codex Vindobonensis 1857)は、およそ1477年から1482年に、最後のブルゴーニュ侯シャルル豪胆王の娘マリー・ド・ブルゴーニュと後に神聖ローマ帝国の皇帝となるマクシミリアン1世の結婚を期に、ゲントで制作されたと考えられている。15世紀フランドルを代表する時トウ書の一つである。ミニアチュールの制作には、リーフィン・ファン・ラテムを中心に、複数人の画家の手が認められている。画家たちは、祈祷文の冒頭を美しいミニアチュールで飾り、バ・ド・パージュにドゥロルリー・モチーフを描いた。全190フォリオに57枚のミニアチュールを含む豪華な彩飾写本である。本論文で扱うのは、そのうちの二つのミニアチュール、「注文主と聖母子」(fol.14v)、「十字架にかけられるキリスト」(fol.43v)である。二点のミニアチュールは、この時トウ書の中でも最もよく知られている作品で、この時トウ書によって名付けられた「マリー・ド・ブルゴーニュの画家」によって描かれた。

 《マリー・ド・ブルゴーニュの時トウ書》とマリー・ド・ブルゴーニュの画家についての研究は、フリードリッヒ・ヴィンクラー以来多くなされているが、その中でも、1948年に発表されたオットー・ぺヒト(OttoPacht)の論文「マリー・ド・ブルゴーニュの画家TheMasterofMaryofBurgundy」は、マリー・ド・ブルゴーニュの画家およびフランドルのミニアチュールの研究に現在でも大きな影響を与えている。画家が活躍した15世紀の後半にはすでに写本画は衰退期に入っていた。写本画の衰退を引き起こした最大の要因は、画面ではなく一つの有機体としての写本におけるページの平面と奥行きがある絵画空間との矛盾が解決できなかったことにある。ペヒトは、マリー・ド・ブルゴーニュの画家は古代ローマの天井画やモザイクに見られるトロンプ・ルイユを再発見し、トロンプ・ルイユを用いたミニアチュールを確立した人物であるとし、画家が行った写本画面の再構成が、衰退しつつある写本画の命を永らえさせた、と考えた。ぺヒトが、新しい写本画面の構成に到達するまでの過渡期的な作品であるとしてあげたのが、本論文で取り上げる「注文主と聖母子」と「十字架にかけられるキリスト」である。これまで二点のミニアチュールは、ペヒトの説のようにトロンプ・ルイユを用いた写本画の流れの中で論じられることが多く、一つのミニアチュールの絵画表現として充分に考察されてきたとは言えない。本論文ではこの二点のミニアチュールを、画家の空間表現の工夫とその変化の過程に注目して、その特徴を明らかにする。

 「注文主と聖母子」には、窓辺で時トウ書を読む注文主と、窓の向こうの礼拝堂で注文主と聖母子が対面している姿が描かれている。マリー・ド・ブルゴーニュの画家は、本来主要画面を飾る平面的欄外装飾であるボーダーを絵の最前景としたことで、「聖母子と対面している注文主」<「窓辺に座り瞑想する注文主」<「実際にこのミニアチュールを見ている現実の注文主(鑑賞者)」という三重の入れ子構造を作った。画家は、この入れ子構造によって、鑑賞者をミニアチュールの中にいざなおうとする効果を狙ったのだろう。中世末期の人々は祈ることによって、聖なるヴィジョンを得ようと試みた。そのための瞑想を助ける時トウ書に描かれるミニアチュールには、鑑賞者を瞑想に没頭させ、あたかも聖なる人々と対面し、聖なるイベントに立ち会っているような錯覚を起こさせるような表現が登場する。

 同時に、画家が用いた入れ子構造は、板絵からの影響により三次元的絵画空間を持った主要画面と二次元的に描かれたボーダーが同一画面に存在するという、伝統的な形式で描かれたミニアチュールが抱えていた矛盾を解決するものだった。画家は主要画面とボーダーを一つの遠近法で捉え、統一した絵画空間を実現させた。しかし「注文主と聖母子」は写本画らしさを失わなかったのは、まさに画家が、主要画面/ボーダー、主/従、聖/俗の対立を残したためである。ペヒトが指摘しているように、「注文主と聖母子」はファン・アイクによる《ロランの聖母》の基本構造を引き継いでいる。しかしここでは、従来の写本画の構造に従い、主要画面に聖なる空間を、ボーダーに“絵(主要画面)のこちら側”を描いた。その結果、中世的価値の遠近法は逆転したが、聖母子は光の中に描かれ、聖性を保っていると考えられる。

 マリー・ド・ブルゴーニュの画家は「十字架にかけられるキリスト」も「注文主と聖母子」で試みたように、主要画面とボーダーを固定した一つの視点から描いている。「十字架にかけられるキリスト」には、直接注文主が登場しないが、ボーダーには鑑賞者がいるであろうと想定される空間、鑑賞者を取り巻く空間を描き、鑑賞者に対して開かれた時トウ書が描かれている。そうすることによって、主要画面とボーダーを結びつけ、更にボーダーと鑑賞者がいる空間を結びつけようと試みたのである。絵画空間と現実の空間の結合、つまり鑑賞者に絵画空間を現実の空間であると錯覚させようとするのがトロンプ・ルイユである。しかし、「十字架にかけられるキリスト」で用いられたトロンプ・ルイユは不完全なものであった。というのは、小さな時トウ書に描かれた“こちら側”と鑑賞者がいる現実の世界との間には大きさに差がありすぎたせいだろう。トロンプ・ルイユの原則の一つは、対象を原寸大に描くことにある。またこれら二点のミニアチュールはまだ垂直に立てられた状態で見られる、板絵のようなイリュージョンしか想定していない。時トウ書が手にとってやや斜めに開かれるか、あるいは水平に開かれて鑑賞されるものであるということを無視しているのである。画面の外にある、絵の外のページの余白という問題も解決されてはいない。

 16世紀のゲント・ブルージュ派に特徴的なトロンプ・ルイユは、ボーダーが描かれる面を余白と同一の羊皮紙の平面とみなし、その上にまるで置かれたように虫や花を描いた。マリー・ド・ブルゴーニュの画家がこのような彩飾ページの構成の創始者であるとするならば、ページの上に物を置くという発想はどこから生まれたのだろうか。そこで「十字架にかけられるキリスト」のボーダーに描かれた台に置かれた宝石箱と、書見台に置くようにやや斜めに立てかけられている時トウ書に注目する。宝石箱は絵画空間の中で重力に従っている。対して時トウ書は写本ページに並行になるようにページが開かれている。画家は、図像学的にも、鑑賞者をミニアチュールの中にいざなうためにも、描かれた時トウ書の中の「磔刑」のミニアチュールを鑑賞者に見せる必要があった。この“鑑賞者に見えるように立てかけて描かれた時トウ書”が偶然にも“ページの上に置く”という発想を生んだのではないか、と筆者は推測した。宝石箱と時トウ書を並べて描いたことによって、これらのイリュージョンの矛盾に気付き、“時トウ書”そのものを描くことによって、有機体としての写本、余白を意識したのではないだろうか。

 マリー・ド・ブルゴーニュの画家は、最初から彩飾ページにトロンプ・ルイユを用いることで、破綻しつつある彩飾ページを再構成しようとしたのではないだろう。むしろ絵の中に鑑賞者をとりこもうとする画家の表現が、入れ子構造を生み、統一した空間を完成させた。そしてページを広げた時トウ書が、結果としてトロンプ・ルイユの発想に繋がったのだと考えられる。構造的な必然性が、写本画芸術において彩飾ページを再構成したのだと言えるだろう。



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