芸術学 Aesthetics & Art History
立浪 佐和子
卒業論文要旨
曽我蕭白筆《群仙図屏風》再考 −仙人イメージを探る

 奇想、狂騒、異端。曽我蕭白という画家を表現するときには、このような個性的な言葉が並ぶ。それというのも、彼の描く作品の登場人物たちが浮かべる表情や、ダイナミックな自然描写、鮮やかな色彩が常人の枠をはるかに超えたものに見えるためである。それらは単にきれい美しいという表現を超えて、灰汁の強い個性的な表現をなしており、人を一瞬にして引き込む強烈な力を持っている。

 曽我蕭白は享保15年(1730)に生まれ、出生地に関しては確証はないが、おそらく京都と考えられ、丹波屋あるいは丹後屋の屋号を持つ商家の出身であったらしい。彼の幼少時代に関する資料はなく、画家を志した時期や動機なども不明である。彼が曽我派の画系の継承者を自負し、曽我姓を名乗り曽我蛇足十世孫と称するようになった時期は20代後半のころと推定される。そして二度の伊勢遊歴、播州地方や播磨地方への遊歴を経て、安永10年(1781)に没している。本論文で取り上げる《群仙図屏風》は明和元年(1764)、蕭白35歳の時の作品である。

 私が蕭白を取り上げようと思ったのは、近年の研究の中に、蕭白に関する相反する見解があるように思われたためである。一つは、蕭白画の狂者のような表情の人物などには18世紀京坂に流行した中国の陽明学左派の影響があるとの指摘である。18世紀文学界で爆発的に流行していた徂徠学に対抗する、反徂徠学の面々が支持した陽明学左派では、狂者とは常に聖人と直結せんと欲するあまりにしばしば世俗から逸脱してしまう人間をいい、「狂」こそ聖人に至る近道としている。蕭白が悪趣味でデモーニッシュとされる人物を描いたのは、この思想ゆえだというのだ。他方は、蕭白画に関して「民衆の美意識を反映する卑俗な表現、庶民の粗野な想像力を代弁する蕭白画」という言い方がされているということである。はじめの知識人層の説く陽明学左派という思想と、ここでいう庶民・民衆に近い蕭白の姿勢とが相容れない気がして仕方がなかった。

 本論文の出発点は、そこにある。蕭白画を支えているのは陽明学左派支持という姿勢だけではなく、他に何か、もっと庶民的な気安い感情であったり、《群仙図屏風》の主題である仙人に関しても、陽明学左派以外に一般的に共通して抱かれていた仙人に対する支持があったのではないか。そして、本論文ではその思いつきともいえる推察を少しでも説得力のあるものにしようと、他の画家の作品はもとより画譜・絵手本や黄表紙などの江戸で出版された版本類を比較対象として、自由な発想で論を進めていった。

 第1章では《群仙図屏風》の制作環境、ついで仙人図の変遷など基本的なことから始めた。第1節では《群仙図屏風》が誕生を祝う慶祝画であるとの指摘を踏まえながら、図像および色彩の面から慶祝画というものについて考察した。《群仙図屏風》を発注した京都・京極家の他に、松阪出身の豪商・三井家と円山応挙筆《雪松図屏風》の例を挙げ、武家や豪商が画家に子供の成長を願う慶祝画を発注していたことを示し、また図像に関しては、中国における吉祥図案約四百図を集めた野崎誠近著『吉祥図案解題』を参照し、中国でも仙人図が誕生祝の図像であること、また江戸の文人画家・中山高陽が記した『画談肋』を取り上げ、日本でも同じく仙人図が誕生祝と結びついていた可能性が高いことを指摘した。続いて、《群仙図屏風》の特異な色彩の面から考察を行うために、色彩に関しての記述を抜粋し、従来蕭白画の色彩がどういった風に認識されてきたのかを観察した。彼の死後20年を経て書かれた中林竹洞著『竹洞画論』をはじめとし、江戸後期から明治初期の文献では蕭白の奇矯な作画態度に関する記述はあるものの、色彩に関するものはない。それというのも、水墨画に比べ蕭白の残した彩色作品が少なく、蕭白は曽我派の特徴を引き継いだ水墨画家として認識されていたからであろう。色彩に関して主に言われるようになるのは、蕭白が奇想の画家として再評価されるようになった近年の文献においてであって、しかも「不協和音」などのマイナスイメージの伴う単語が並ぶ。しかし本論文では、《群仙図屏風》が誕生を祝う慶祝画であるとするなら、この強烈な色彩は吉祥性を伝えるのに最もふさわしい吉祥の色彩ともいえるものなのではないかと考え、中国の吉祥画ともいえる年画との比較を通して、一目みただけで単純明快な感覚を与え、また同時に中国ムードの喚起により仙人という画題を際立たせる《群仙図屏風》の色彩が効果的かつ妥当性のあるものだという見解を示した。

 第1章第2節では《群仙図屏風》に限らず、仙人図の始まり、その展開を知るために、仙人発祥の地ともいえる中国を中心にその起源を探り、その後仙人図の日本での変遷を辿った。結果として、今では仙人伝説の全てが中国道教に起源をもつように思われるが、元来はそうではなく、インド・日本でも道教以外の仙人が存在していたことがわかった。そして、それら仙人は、日本において鎌倉・室町期に道釈人物画の一画題として整理され認知しなおされたが、だんだんと宗教性から解き放たれることにより、世俗化され画家の自己意識を投影するかたちになり、純粋に画題としての説話的興味を追う結果になったこと、また一方で隠逸思想と合致して、城郭・寺院の襖・障子などの大画面に山水風景と共に、崇高なイメージを保ちつつ八仙などの複数の人物を主題として描かれたようになったことを作例を挙げて示した。

 第2章は、《群仙図屏風》の登場人物たちを検証することからはじめた。第1節では、従来の研究者の人物同定をもとに、確実だと思われる五人の人物、西王母、蝦蟇仙人、左慈、林和靖、鉄拐仙人の特徴を確認した。第2節では、本来は別個である呂洞賓と陳楠という名の仙人図像が合体し、一人の仙人となっていることを示すのを手始めに、イメージの合体・複合という点に注目しながら、右隻の右端に描かれる簫史、麻衣子といわれる人物に関しての考察を試みたが、その材料として画譜や黄表紙などの江戸の版本を取り上げてそれらの図像の合体例をできるだけ多く紹介した。そして、この二人が、人々の抱く仙人イメージを統合させたかのような、蕭白によって作り上げられた見紛うことなき仙人であるということを示した。第3節では、それまで仙人たちを個別にみてきたのに対し、群仙という一塊としてみなおし、《群仙図屏風》全体に目を向け、蕭白が灰汁の強い仙人、強烈な背景描写をまとめ上げた工夫の一端、作画技術の高さを確認した。

 第3章では、少し《群仙図屏風》からはなれ、江戸中期という大きな枠組みで、仙人図を支えていた思想の一部を論じた。第1節第1項では、江戸の人々が中国という異国に憧れた理由、ひいては仙人に興味を示した理由として黄檗禅と中国通俗小説の流行を紹介し、第2項では蕭白自身のみせる中国への憧れを伝記や款記などから推測した。第2節では、前章の第2節、図像の合体を考えるときに用いた黄表紙について再び言及した。黄表紙は元々は江戸庶民の抱く仙人観のヒントがないだろうかとさして期待もせずに読み始めたが、実際は想像以上に有意義なメディアで、仙人を取り扱った挿絵が多く存在し、図像の合体を推察する手がかりとなったものも多くみられたが、前章ではそれらの全てを紹介することができなかった。思えば元来は、画譜・絵手本から絵画への図像の転用や応用は多少語られることはあっても、庶民文学本である草双紙、黄表紙と絵画との相互関係は全く言及されたことは無い。そこで、私が面白いと思った存在を少しでも詳しく紹介するため、また、今までは注目されていなかった存在に、今後も注目していきたいという意味も込めて最終章の最後の節に黄表紙をとりあげた。黄表紙の中での仙人は、奇想天外・荒唐無稽な存在であり、その強烈な面々は読者達の脳裏に強く刻み込まれ、それによって仙人とは卑俗で滑稽で、面白い存在であるという風な側面がさらに強調されたと思われる。さらには、蕭白筆《群仙図屏風》にみられる、滑稽であるために親しみの感じられる、しかし、人知を超越したミラクルな存在でもある仙人たちも、このような江戸の仙人イメージを体現していたということができるのである。



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