芸術学 Aesthetics & Art History
出店 健志
卒業論文要旨
古代ローマの庭園画について −MIHO MUSEUM の作例を中心に−

 紀元後79年8月24日正午、イタリアのカンパニア地方にあるヴェスヴィオ山が噴火した。小プリニウスの書簡にも残るその噴火は非常に大規模なもので、周辺地域の都市を完全に埋め尽くした。それらの都市は吸湿性のある軽石の火山礫に埋まったため、家屋などの壁面を飾った壁画は、1748年に発掘が始まるときまでその姿をとどめることとなった。そのことは、知られざる古代の絵画を知る上で非常に有効である。現在、知られている古代絵画のほとんどは、この地域から発掘されたものである。

 その中にあって庭園画は非常に希有な絵画ジャンルであり、かつ最も見るものの目を楽しませてくれるものである。そこには噴水、彫像、植物、鳥、花綱、オスキルム、柵など実際の庭園にも見られるものが描かれている。その中にはエジプトやヘレニズム世界から持ち込まれたモティーフもある。しかし、作例が乏しいため、庭園画の成立・展開を歴史的に概観することはほとんど不可能である。充分に発達した形で描かれた庭園画があらわれるのは、紀元前1世紀末頃で、アウグストゥス帝の時代である。その最初期の例としてはローマ近郊プリマ・ポルタにあったリウィア(アウグストゥス帝の后)の別荘の庭園画である。

 ローマ絵画には四つの様式があることが知られているが、庭園画は第三様式期に表れる絵画ジャンルである。第二様式は非常に重厚な絵画的イリュージョンを用いた様式であるが、それから脱却し図式的な様式に変化したのが第三様式である。また、壁面は縦と横の厳格な三分割がなされ、縦軸では下から腰羽目、中間部、上部に分割される。庭園画のほとんどは中間部に描かれた。

 しかし庭園画という語自体はそのジャンルに当てられた現代の用語であって、展覧会カタログなどにおいて、壁面から庭園が描かれた部分のみをはがす場合には様々な呼ばれ方がされる。≪庭園図≫や≪描かれた庭園≫、≪庭園の風景≫などである。呼称の語の問題、そして絵画ジャンルの定義については第一章第一節で述べたが、本論においては、壁面中間部に描かれた庭園の絵画をすべて「庭園画」と呼称することにした。

 庭園画の成立を用意した背景としては、当時の貴族階級の間にあった自然への憧憬ともとれる強い関心と、エジプトからもたらされたトピアリア(造園術)の導入が挙げられる。貴族階級は別荘を持つようになり、そこには必ずといってよいほど私的な庭園が設けられた。また列柱式庭園がもたらされると、ポンペイなどの都市部では、一般市民の家屋であっても大なり小なり必ず庭園が確保されるようになった。このような庭園文化の爆発的流布は、アウグストゥス帝の文化政策の表れと見ることもできる。ローマ人の規範としてとるべき態度として往古の慣習の復古が叫ばれ、田園での農耕生活は当時の人々の心をとらえるようになる。自然回帰の気風は当時の宮廷詩人たちによっても広められ、そのことは当時の文学作品にも見ることができる。長い内戦を終えた退役兵を農民化し、国力の増幅と安定を意図したこの政策において、芸術は政治的なプロパガンダとして利用されたのである。

 このような風潮の中、庭園は社会的なステータスを示すものとなったが、それは庭園が豊かさと幸福感に満ちており、閑暇を楽しむ場であったからでもあろう。庭園は純粋な自然ではなく人工的な自然であるが、それは人間にとっていっそう好ましい場所である。ローマ人はそのような場所を「ロクス・アモエヌス(喜ばしい場所)」と呼び、生活の中で楽しんだのである。

 風景表現が壁面装飾の中で大きな面積を占めるようになるのは、このような自然への関心が影響していると思われる。当時の風景画としては、牧歌的神域風景画や別荘の風景などが描かれた。庭園画もこのような風景表現の中の一種であると思われる。大プリニウスは『博物誌』の35巻において、そのような庭園を含む風景画の創始者として、アウグストゥス帝の時代の画家・タディウスという人物を紹介している。彼がこうした絵画ジャンルの創始者であることを疑う声もあるが、そのような需要が増加していたことは明らかである。この自然への関心と庭園画との関係は第一章第三節において述べた。

 充分に研究されてきたとはいえない庭園画であるが、庭園画については二つの異なる解釈がなされ、議論されてきた。先に述べたような庭園自体との関連の中で解釈をする方法と、宗教的象徴との関連の中で解釈をする方法である。それは、アレキサンドリア近郊で出土した古代墓地に見られる庭園表現や、ローマ近郊にある護民官の墓室を飾っていた庭園画(現在は失われている)が、死後の楽園を暗示しているという考えである。この護民官の墓の碑文には、そのことを示すかのように庭園の情景を記述している。しかし、これは墓という領域における庭園表現の場合に限られ、生の領域の庭園には当てはまらないように思われる。それについては第二節で述べた。

 次にこれらのことをさらに実例にそって確かめるために、ポッパエア荘の東区域の内庭に描かれた庭園画と庭園の関係を考えてみた。庭園画が実際の庭園と密接に結びついていた実例を挙げることで、庭園画がローマ人の自然観の現れであるということの理解をさらに深めることができよう。この点についてはさらに多くの実例を取り上げ考察するべきであったが、確実なことのみを述べるためポッパエア荘の東区域のみを取り上げた。また、ポッパエア荘の東区域は、その構想において非常に壮麗な空間を庭園と庭園画を用いて創り出していたことが考古学上明らかになっている。庭園画自体は特定の庭園を描いたものではないが、現実の庭園に置かれていたモティーフを描くことで現実との交感を成している。庭園画は実際の庭園をより広く見せる役割があったといわれているが、実際の庭園自体が庭園画との関係の中で空間を異質なものに昇華したということも指摘できる。庭園画を考える上で、現実の庭園との相乗効果は切り離せないものである。

 第二章においては、MIHOMUSEUMの庭園画を軸に庭園画といわれる作例の分析を試み、主に、モティーフの描写と空間表現に注目した。というのも、庭園画の空間表現は自然主義的なものではなく、ある法則に基づいているという確信からである。それは、モティーフの段階的な配置と、色彩効果によるコントラストを用いた空間表現である。その表れ方は庭園画によって異なっており、細かく見ていくと様々な表れ方があることがわかる。それを項目化し、さらに考察を加えたのが第三節である。

 結果としては、庭園画はいくつかの絵画的法則とそのアレンジによって描かれていること、それを用いることで描かれた庭園のムードを非常に洗練したものにしたことが明らかとなった。これらは、第一章で述べた庭園画を取り巻く背景に合致するものである。また、小プリニウスの書簡にある、「君にはこれが本物の風景とは思われずに、反対に多様性と配置に妙を懲らしつつ、最も精巧な美を探し求めて描かれた絵画のように思われるであろう」という記述に合致するものである。このようにいくつかの古代の文献に近しい形で庭園画が現れていることが、さらにはっきりとしたのではないだろうか。

 第四節ではMIHOMUSEUMの庭園画に類似する点が多いポッパエア荘の庭園画を取り上げ、比較し、類似の点をいくつか挙げてみた。これらの類似は非常に興味深いもので、背景にある工房の存在、制作された地域・年代を考証する上で重要である。また、図像の含蓄を知る上でこのような分析は有効である。結果としては、部分的に非常に近しい表現を発見することができた。両者は図像的に一致しているものもあり、工房や地方様式のレベルでの一致ないし類縁関係を見いだせる可能性は高い。しかし残念ながら、現段階では決定的といえる類似を指摘するまでには至らなかった。当時の幅広いモティーフのレパートリーのなかの類似なのか、同一の工房による類似なのか、地方様式による類似なのかは明確に分ける必要があるが、これは次の課題としたい。

 庭園画のもつ人を魅了する力は本論だけでは語り尽くせるものではない。しかし、その社会的・文化的背景は明らかに画面の装飾法に現れ、豊かなイメージを見るものに与える。現代の展覧会において庭園画が人々を魅了するように、それは現代においても、また、多くの異なる民族に対しても変わりないものであり、その点にそれらの作品の根ざすものの深さを感じる。



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