芸術学 Aesthetics & Art History
中神 明夏
卒業論文要旨 霊獣の和様化 −貘を中心に−

 人の想像力は時に奇怪な生きものを生み出す。想像によって生み出された生きものの多くは、創り出されたその一時代を生きるとやがて姿を消し、その後何百年も残ることは多くない。だが稀に、移りゆく時代を越えて何百年、何千年と存在し続けるものがある。時を経てもなおその図様を呈し続けるイメージの強さ、そしてそのイメージを創り出した人間の想像力には驚くばかりである。

 想像によって創り出された多くの生きものは、実在するものの優れた部位、あるいは特徴的な部位を寄せ集め、組み合わされて誕生するのが普通である。これは、古来より人々が人間以外の生物に宿る霊性を信じ、神の化身またはその使い神使であり、神と人とを繋ぐ役割を担っていると考えていたこと。そして、それらの霊力は、体躯の最も優れている箇所や特徴的な部分にこそ宿っていると信じていたためであろう。すなわち、霊力の宿っていると信じられていた特長をつなぎ合わせて生み出されたのが想像上の生きものであり、その奇怪な容姿は、単なる部位の寄せ集めというだけではなく、同時に強い霊力を保持すると考えられたのである。そして、この人をはるかに凌駕する力を持つと信じられた生きものに、人々は何らかの希求を託した。いやむしろ、人の力ではどうにもならない願望や希求を託し、心の拠り所とするために生み出されたと言うべきかもしれない。それ故、その存在は人々がその希求を託さなくなったとき、たとえそれが長い時を生き抜いてきたものであったとしても忘れ去られていく運命にあるといってよい。そして今まさにその時を迎えているのが、東アジア古来からの霊獣・貘なのである。

 長い時を経てなお今に存続する想像上の生きものの主たるものが、龍や麒麟、鳳凰などであり、これらは言うまでもなく多く中国大陸で創り出されたもので、日本に伝わるそれも中国のそれを移入したものである。これらは四霊思想等確固たる基盤の下に形成されているためか、日本におけるその性質も、発祥の地である中国のそれと大差ない。これに対し、同じくその発祥は中国大陸であるものの、その形成が民間の伝聞からであったためか、日本へ移入された際にその性質を中国のものから著しく脱すという、他に類を見ない変化を遂げたのが、今廃れつつある霊獣・貘であった。

 貘のイメージは早くも平安時代には完成しており、平安から江戸に至る800年間にわたって大きく変化することもなく続く。だが、このイメージすら中国のそれを踏襲したものではない。そしてその性質に至っては、中国で伝聞によって創り出された、文字通り想像上の奇怪極まりない一獣から脱し、最終的には龍、麒麟、鳳凰にも匹敵するほどの霊性を認められるに至るのである。

 貘に関する研究は、民俗学的観点からのものがほとんどであり、美術史的・図像研究的に体系化されたものはない。本論文は、今まさに忘れられかけている霊獣・貘のイメージの見直しと、およそ一千年もの間存続し続けた貘という想像上の生きものに、人々が何を願い、何を求めてきたのかを探る試みの一端である。

 さてこの貘という生きもの。現在でも「ばく」と聞けば多くの人が夢を食らう生きものだと答え、「ばく」が夢を食べるという逸話は周知のことと言ってよい。だが、それがどのような容姿をしたものかと問うと、少なくとも筆者と同年代の回答は動物園で目にするマレーバクであり、おそらく多くの人々が霊獣・貘の姿を思い浮かべることができないのではないか。貘が今まさに忘れられはじめた最中にあると先に述べたのは、こうした点からである。また、日本では貘と言えば夢と思われているにもかかわらず、中国では夢を食らうという説は文献上には一切存在しない。中国における貘は、銅や鉄及び竹を食らい、「他物を食らわず」とさえ書かれている。これらを受け、第1章では第1節において、まずは実在するバクとの相違、及び霊獣・貘の図像的特徴を挙げるとともに、第2節によって中国と日本両国における貘の認識の差異を文献に残された伝聞を通して見た。

 続く第2章では、第1節において貘が眠るという行為と結びつく要因となったであろう風習について記したのち、『古事類苑』において「獏ノ事ハ,尚ホ歳時部年始雑載篇初夢條ヲ参看スベシ」と述べられていること、ならびに貘の絵が多く枕に描かれている、もしくは貘字を書いた紙を枕の下に敷くいう事例から、貘と枕の関係に着目。枕の役割と慣習を通して、貘がなぜ枕に描かれなければならなかったのかを第2節及び第3節で考察した。

 さらに第3章第1節で、先学たちの「貘は追儺の伯奇と間違えられたのではないか」という考察、ならびに小林太市郎氏の「辟邪絵巻に就て(5)」(『国華』646号昭和19年(1944)9月)という論の、理解し難い唐の行事や風習を平安の和様化の進むなか、自分たちの親しみあるものへ転化させていったという見解から、貘と伯奇の混同も、単なる音の近似等による間違いから生じたというばかりではなく、こうした転化させていく行為が、中国からの移入である伯奇においても積極的に行われた結果生じたのではないかという考えに基づき一考察を試みた。また、貘としばしば間違われることのある白澤を、その図像的特徴・性質・変遷について第2節で記し、これによりこの白澤もおおよそは貘と同じく日本において独自の発展を見たものであろうという見解に至ったが、未だ不十分であるため、これに関する充分な考察は別の機会にしたい。そして第3節において、枕以外に貘の表現される場所を取り上げ、貘に吉祥性が認められていたことを見、さらに建築彫刻について、その頂点とも言える日光東照宮における貘の役割と象徴性について一考察をした。

 平安時代中期、和様化の進むなかで人々が疎ましく思っていた夢は、現在では単なる睡眠中に脳が見せる映像にすぎないとされよう。しかし、古くは神託の場であり、現実と対をなすもう一つの現実であると信じられていた。信仰の対象として生活と密接に関わりがあり、またその影響力は皇位継承に及ぶほど、古人にとって夢の比重は現代の比ではなかったのである。加えて平安の中期といえば末法へ向かう世。仮初めと信じた現実での憂愁はまだしも、本当の世界と信じた夢の世界での悪夢は耐え難いものだったろう。追儺の儀式が中国から伝えられた際、それを食べてくれるという伯奇は、おそらくは古人の耳にことさら魅力的に響いたに違いない。だが、神使として祈りを捧げようにも肝心の姿が分からない。そんななか伝来した『白氏文集』に記された「象、犀、虎」という当時の霊獣の姿を併せ持つ貘に、彼らはこの姿を重ねたのだろう。こうして日本独特の夢を食らうという属性をもつ貘が誕生した。そして夢という確固たる個性を持つことによりその存在を定着させた貘は、夢だけではなく辟邪獣としてその範囲を広め、儀式及び慣習に乗って辟邪の図像として階層の上下を問わず浸透し、日光東照宮においては霊獣の最高峰とも言える四霊とも肩を並べるに至ったのだという結論に本論文は達した。

 今でこそそのイメージはすっかり影を薄くし、その存在は「夢を食らう」という逸話の中にしか残っていない貘であるが、時を遡ればそこには輝かしい歴史があった。おそらくは確固たる思想を基盤としない伝聞からの発生であったからこそ、異国の地で柔軟に人々の希求を受け入れることができたからだろう。一獣が霊獣としての地位を上り詰めたという点においても、また中国の性質を完全に捨て去るという著しい和様化を見せたという点においても、このまま忘れ去られてしまうのはあまりに忍びない。当の中国では、貘は一獣のまますでに忘れ去られてしまっている。こうした時代の流れに忘れられ、埋もれかけたイメージに、本論文が今一度目を向ける些細なきっかけとなれば幸いである。



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