芸術学 Aesthetics & Art History
本多 彩子
卒業論文要旨 石本正の描く裸婦について

 日本画家、石本正(1920〜)は、1974年に結成された創画会に当初から在籍し、現在に至るまで、舞妓、裸婦を主題にした多くの作品を描いている。石本の作品は近代日本画から続く女性の風俗性を主体とした画風ではなく、女性の裸体と美意識を結びつけた西洋的な「ヌード」を主体とした作品を発表し続けている。

 2000年、石本は故郷である島根県三隅町に一千点以上の作品を寄贈し、翌年4月、石正(せきしょう)美術館が開館した。石本の作品がまとまった形で見れるようになったと同時に、今まで一切の取材を拒否し、賞を辞退してきたが、美術館開館をきっかけに自らの画業について語り、その真意を明らかにした。本論文は石本の作品、著述を考察し、画風の変化の中で、どのように石本独自の「ヌード」が確立されたか、また日本画において石本の描く裸婦画がどのように位置付けられるかを考察した。

 第一章では、日本画の中で裸体画がどのような経緯をもって浸透し、石本が活躍する舞台が整ったのかを考察した。この問題を、石本が学生時代から現在に至たるまで在住する京都において展開した京都画壇の歩みを軸に検討した。明治期の京都画壇の活動は、江戸期から続く岸派、四条派のなどの流派が主流で、そのほとんどが水墨であった。明治維新以後、西洋文化の影響が押し寄せる近代化の中で、大きな転換期を担った竹内栖鳳と山元春挙の活躍と、大正期により新しく自由な表現を打ち出した国画創作協会(国展)の活動に注目した。この二つの活動の特質は、近代化が怒涛のように押し寄せる中、西洋文化の合理的な面を摂取し、滋養とし、新しい日本画の創造の道を歩んだことを実証している。石本の青年時代に、作品の制作、日本画に定着させる契機に及ぼした影響であり、源泉のひとつと言えることができよう。

 では日本画で「裸体」が描かれるようになったのはいつからだろうか。明治以前の日本画は儒教に基づいた中国の伝統を受け継いでいたため、裸体を意識した作品が描かれることはなかった。洋画の方では西洋で学んだ画家達が、西洋的なヌードを発表し始めていたが、黒田清輝の「裸体画論争」に象徴されるように、裸体は生活様式の欧米化を背景に否定され、裸体画を大体的に発表することは禁じられた。流派を重んじる日本画においても裸体画は厳しく取り締まられ、洋画での裸婦モデルという存在が一般的になっても直接的な裸体表現は退けられた。西洋美術における裸体の美意識を取り入れようとした日本画家たちの活躍を考察するため、竹内栖鳳、土田麦僊の人物画を取り上げた。栖鳳、麦僊の人物画に見られる新しい技法、表現方法から裸体、人物においての意識の変貌をうかがうことができる。それは、日本画の特質を生かしつつ、西洋の美意識を取り入れるもので、モデルや被写体の直接的な描写ではなく、独自のイメージや美意識で「再構成」することであった。再構成という表現の広がりが石本に影響を与え、そして石本が日本画において裸体画を描き、活躍できる舞台が整っていく過程であったと言える。

 第二章では、石本の作品の変遷をたどり、裸婦というモチーフに対する石本の思いをを、画家の著書やスケッチ、作品などから検証した。石本といえば誰もがすぐに「女」、魅惑の深い濃厚な「ヌード」を連想するだろう。それは、他の追随を許さない独自の表現が熟している証拠と言えるだろう。しかし、石本の「女」が出現してくるには、いくつかの段階があった。

 戦争が終結すると、美術界は戦争の反動的な空気に後押しされ、前衛美術などを積極的に受け入れようとする風潮が強まっていた。それと同時に海外の存在がより身近になり、情報収集や海外旅行が容易にできる状況へと変化していった。1950年から1970年初期までの期間は、石本にとって女性表現を摸索しさまざまな試みを重ね、舞妓、そして裸婦における独自の女性表現を確立するまでの期間ということができる。1970年代に入り、石本の女性表現にひとつの形が示された。装飾的で華やかな舞妓から裸婦へ。ヌードの作品の出展が相継ぐ中で、女性の表情、体、手足がより細密に濃厚に表現されるようになる。1970年代後半になると、薄物をまとった裸婦の作品を多く出展した。薄物の試みは、薄絹、もえぎ、スリップ、レースのショーツなど多くの題材を用いており、そのような薄物の下から透けて見える肌の美しさに主題をおいたものだった。これには、古来から薄物の表現をたくみに取り入れたエジプトや西洋の表現に影響を受けたことが見て取れる。そしてこの試みは以後石本のヌード表現において、ひとつの大きなテーマを示すものとなった。1980年前後になると、着物をまとった裸婦の形式が見られるようになる。着物の表現であることに違いないが、帯や襦袢は描かれず、着付けた状態でも脱いでいる状態でもない、まとっている状態であるといえよう。舞妓像の着衣の装飾美とは違うもので、その表現はあくまで着物が裸婦にエッセンスを与える役割を果たし、裸婦の追及においてのひとつの重要な要素と言える。裸婦の美しさを引き立たせ、裸婦の表現をより豊かにする装飾品と考えるべきだろう。その後も、絨毯、イスなどを裸婦表現に加えているが、これについても着物と同様の役割を果たしている。1964年から度々訪れているヨーロッパ旅行の著述から、ヨーロッパ中世の美術が石本の仕事に数々の影響をもたらし、滋養を補給したことは間違いない。そしてこれが、他方における石本の熱心な技法研究、モデル研究と相まって、画風において前進をうながした。石本特有の美意識は、そうした一歩一歩の中でさらに練磨されながら、現状の高さに至ったのである。

 第三章では、石本の描く三人の女性を一対としたモチーフについて一章、二章をもとに分析した。石本は、1964年のイタリア研修で研修でボッティチェリの『春』に深く感銘を受けて以来、舞妓、裸婦の三人像を何度も描いている。その画風は、年代を追うごとに多くの要素が組み込まれ、石本独自の裸婦表現へと高まっていく。石本は、ボッティチェリの『春』に見られる女性美の表現、「快楽」「貞潔」「美」の観念や構図をもとに、日本女性が秘めた美しさ、かたくなさ、自尊心などをモデルに投影させた。

 現代では、裸体は、芸術作品においてもメディアにおいても数多く氾濫し、人々の意識のなかでも醜悪なものでも不思議なものでもない。しかし、日本画に限定すれば、石本は戦後において、女性の裸体と美意識を結びつけた「ヌード」という主題を確立し、人々の意識に定着させた代表的な日本画家のひとりと言えることができる。日本画という分野で風俗画から逸脱したヌードを描き、新しい展開を示したことが日本画界においての石本の位置付けを明らかにする事実となるだろう。石本は女性の裸体を描いていることに違いはないが、「見た」ものを描くのではなく、「見たい」ものを描いているということができるだろう。男性が美しい女性の裸に憧れ、女性がより美しいプロポーションに憧れることは、至極当然のとこである。しかし、そういう外見的な美意識ばかりではなく、女性の内面に秘めたはかなさ、美しさ、女性の性を描きたいと石本は想っているのだ。女性の内面性への憧れは、西洋、日本美術の影響のほかにも、文学、そして石本の空想の世界を経て、裸婦表現へと託される。石本は、制作において下絵を作らない。描き溜めておいたスケッチを見返し、自らのイメージでもって再構成する。そこには、実際のスケッチをもとに女性美を追求したリアリティー、脳裏に焼き付けた芸術作品のイメージ、女性の持つ多面的な美しさへの憧れがせめぎあい、石本独自の裸婦、すなわち石本の「女」が生まれる。女性の美しさを発見し、追い続け、空想の中にまた新しい美しさを見出し、表現する。そのあくなき追求の故に、メディアに氾濫する裸体とは一線を画し、独特な石本の「女」となったと言うことができる。現在も女性の美しさを追求し、表現し続けている石本の活躍に注目していきたい。



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