永宮 勤士
卒業論文要旨 「八田豊論」―その作品と文化運動が語るもの―

 東京中心の日本においては、地方で新しい美術を生み出すことは容易ではない。本論文では、福井を拠点に地方で活動する八田豊の美術家としての活動を、彼の人生、美術運動、作品などに関して分析・検証し、他の美術家や美術運動との比較しながら、八田豊という美術家の総合的な位置付けを試みた。

 第1章は八田豊の半生を追い、第1節では失明前の生い立ちから活躍期まで、第2節は失明から再出発してから2003年までを取り上げた。八田豊は1930年福井県今立郡中河村(現・鯖江市)に生まれた。1947年には金沢美術工芸専門学校洋画専攻に入学し、卒業後は郷里福井に帰り、北美文化協会会員になる。1953年からは創元会に出品し、1963年創玄会を退会するまで保守的な絵画を描いていた。1962年の入院をきっかけに、抽象へと作風が変化し、それ以降急速な展開で独自の作風を築き、60年代の半ばから70年にかけて、<北陸中日美術展>や<シェル美術賞展>などで受賞、<現代美術の動向展>や<長岡現代美術館賞展>、<今日の作家‘66展>などの各地の展覧会に招待さるなど活躍華々しかった。しかし北美の終了直後から、1979年に恩師土岡秀太郎が死去、続いてその後を追うかのように、親友であり美術運動の良きパートナーの河合勇が死去した。さらに、この頃網膜色素変性症にかかり、視力が低下。制作活動に支障をきすようになり、失明を宣告される。T美術作家の失明Uこのことは通常では作家としての死をも意味するが、八田の体に染み付いた美術運動に対する使命感は、この困難を乗り越える力を持っていた。八田は河合勇の提唱で始まった<現代美術今立紙展>を1983年第3回から公募展として開催。その後、今立から地元である武生に本拠地を移し、<丹南アートフェスティバル>を1993年より立ち上げた。さらには、作品制作も再開させ、86年に大規模な個展を開いたのを最後に、それまでの作風を一変させた。完全に失明した80年代後半からのドローイングによる模索の期間を経て、90年代前半から八田は紙、特に和紙を使った表現を試みる。そして90年代半ばからは、新たに和紙の原料を素材とした楮による独自の作風を確立するのである。

 第2章では八田豊の関わった文化運動をたどった。第一節では、土岡秀太郎と彼が生涯をかけて推進した<北荘画会>から<北美文化協会>と60年にも及ぶ文化運動をとりあげた。現在八田が進めている文化運動は、本質的に言うと土岡の進めた運動の延長線上にあるといえ、裏を返すと、土岡秀太郎が進めた北荘・北美における運動の精神を見つめれば、八田の進める文化運動の精神の根底がおのずと見えてくるともいえる。八田の芸術活動を理解するには、「運動と創作を不可分のものとする」という主張を掲げた土岡秀太郎の北荘・北美の運動、特に北美の精神を理解することに他ならない。<北荘画会>は1922年当時東京で大正期の先端的前衛運動のひとつ未来派美術協会の中心人物であった木下秀一郎が福井に2年間帰郷した際の土岡との出会いからに結成され、当時印象派ですら珍しかった福井の地において、ロシア未来派などの紹介を行った。その後も土岡は、1930年に福井駅前に<アルト会館>というギャラリーを建設し、北荘所属の作家の展示のみならず、1932年に開かれた<第2回独立美術展>や1937年の<海外超現実主義作品展>など、全国規模の団体展も呼びこんだ。終戦後に福井市は大震災に見舞われたが、土岡は1948年<北美文化協会>を創立し、北荘の精神と方法を継承しつつ、一期10年として三期30年の継続を宣言して運動を始めた。北美の運動は、特定の傾向を持った現代美術を創造する作家を養成するというよりも、むしろ新しい美術の考え方を根付かせる教育普及的な活動でもあった。第2節は現代美術今立紙展を取り上げた。この展覧会は、河合勇が地場産業として和紙が有名な今立町でこれを使って何かできないか?と思い立ったのがきっかけで始まったのである。1983年の第三回現代美術今立紙展からは素材を紙に限定した全国規模の公募展が開催される。河合勇の亡き後、八田豊が運営指導に献身的に携わり、全国的にも注目される紙の造形作家の登竜門として知られるまでに成長させた。第3節は丹南アートフェスティバルを取り上げた。1990年に現代美術今立紙展から手を引いた八田は次なる展開を模索し、1993年には、武生市や鯖江市を含む広域地区の総称である丹南地方を母体とした現代美術展の公募展〈丹南アートフェスティバル'93〉を開催する。展覧会としての特色を、丹南地区の産業の柱となっている、〔鉄〕、〔土〕、〔木〕、〔布〕、〔紙〕、これら5つの素材を表現媒体とした新しいユニークな表現の実験に求めた。丹南アートフェスティバルは国際性を増し、今立紙展のような単一素材ではなし得なかった、複数の素材による多様な表現を可能にした全国的にも珍しい手作りの公募展となった。この公募展によって様々な地方から作品や人々が福井に集まり、それらのつながりは岡山、群馬、神戸、大阪、高知など全国に広まり、さらには海を越えて韓国、イスラエル、イタリア、ブラジルなどの海外にも広がった。八田はこれらの地域に招待されたり、逆に福井に招待したりしながら、芸術と人間関係の交流を通した独自の運動を続けている。

 総じて言えることは、八田は北美に参加し、運動をやり遂げたために、地方における文化運動推進の仕方を叩き込まれ、作家と運動家という2つのことが同時にこなせる美術家になりえたということである。そして河合勇がやりかけた、T足元にある素材Uつまり、地元の産業が生み出す素材を新しい美術表現に結び付ける、という発想を引き継ぎ、文化運動に導入した。それから素材を増やし、地方を拡大することによってさらに多様な作家との交流を促し、交流する地域も日本全国から世界に拡大した。そして、行政から独立して運動を進めたことにより、資金面では苦しみながらも独自の運営方式を勝ち得ることにつながったのである。

 第3章では素材の変遷という観点から作品論を展開した。八田の作風はその作風から、油彩による具象・抽象、刻みによる平面作品、アクリル絵の具や水性塗料によるドローイング、和紙による表現、と大きく4つの素材の変化を示したが、本論文では失明前と失明後で大きく2つに区切り、第1節では油彩表現の脱却から独自性の確立まで、第2節では素材主義への到達までを論じた。八田の作品の変化はいずれにおいても、運動に身を置くことによって生じたものであり、運動が作品を徐々に変化させていったことが読み取れる。

 第4章では八田豊の芸術活動における特性を探るために、戦後の福井の他の前衛美術家との対比、国内外の他の戦後の前衛美術運動との対比を同時代に行われていた美術運動・美術作家の中から選択して対比し、美術史上の八田豊の位置付けを試みた。第1節では戦後の福井の前衛美術家達との対比として三上誠、小島信明、小野忠弘、橿尾正次らと対比し、第2節の戦後の日本・世界の美術家・美術動向との対比では吉原治良と具体美術協会、九州派、もの派、シュポール/シュルファス、アルテ・ポーヴェラ、アルベルト・ブッリ、リチャード・ロングらとの対比を行った。その他にも紙の造形の流れやアジア美術の中の八田豊を最後に書き記した。

 八田は紙を制作の手段としているが、紙の作家ということに特にこだわりは無いかのように思える。極端に言えば、いわゆるT紙の作家Uではないように思う。90年代以降の作品に使用している楮は、紙の素材としての魅力を表現すると同時に、その素材を生み出し、育んできた歴史やその土地や人に思いを見る人に与えるものであり、作品の形を成形するためであるとか、作品の表面に質感を伴ったマチエールを獲得するために使用されていない。そこには現代の社会において軽視されがちである、その土地に深く根を下ろしている産業を支える素材を我々はもう少し見直していってもよいのではないか?という思いがこめられているのである。八田豊は“紙の造形作家”として同列に並べてみることは間違いではないが、むしろ紙を作品の素材として使用することや文化運動によって、地方の力が秘めている魅力を提示している美術家であるといったほうがよいだろう。


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