廣田 恵美
修士論文要旨 「香月泰男「シベリア・シリーズ」と画家の物語」

目次
序章 
第1章 作品と言葉の関係
    ―「戦争を描いた絵画」をめぐって―
  第1節「戦争を描くことの戦後」再考
  第2節太平洋戦争期の戦争記録画と
     共有された物語
  第3節シベリア・シリーズと画家の
     「説明文」に関する考察
第2章 関連素描・画稿からみるシリーズ作品と
   「シリーズ外作品」との関連性について
  第1節《埋葬》―戦前との連続性―
  第2節《涅槃》―複数イメージの並存―
  第3節《運ぶ人》―「シベリア」から
     〈人・母子シリーズ〉への展開―
第3章 〈黄土・褐色系絵具+方解末〉の下地と
    〈墨色の絵具〉の発見と展開
  第1節香月泰男の1956年以降の表現技法
  第2節実験〈方解末の下地〉・〈墨色の絵具〉
  第3節〈方解末の下地〉・〈墨色の絵具〉の
     用途の変化
第4章 「語られる」香月泰男
    ―絵本『シベリアの豆の木』―
  第1節物語の枠組みと導入
  第2節物語の展開
  第3節絵本の形式と画家の物語
  第4節「語る」香月泰男
    ―著書『私のシベリヤ』をめぐって―
  第5節記憶の分有と「語り直し」
終章

                      
匍匐訓練をさせられる演習の折、地球に穴を
うがったという感じの蟻の巣穴を見ていた。
自分の穴に出入りする蟻を羨み、蟻になって
穴の底から青空だけを見ていたい。
そんな思いで描いたものである。
深い穴から見ると、真昼の青空にも星が見え
るそうだ。
             《青の太陽》1969年

 上の文章は、香月泰男のシベリア・シリーズのうち、《青の太陽》に画家自身が添えた説明文である。太平洋戦争にて徴兵された香月が、訓練中の一時に目にした蟻の生の姿に自己を投影し、兵役の拘束から逃れ地中深くから天空を眺めるような自由を想う、その情景について述べたものである。

 香月泰男は、1911年山口県大津郡三隅村生まれ。東京美術学校西洋画科在学中から国画会に出品、やがて文展特選を経験する等、画業と生活の基盤を築き始めるが、1943年に徴兵され旧満州国ハイラル市の第19野戦貨物廠に配属される。終戦後もなかなか帰国は果たせず、1945年11月から極寒のシベリアで抑留生活を強いられる。過酷な労働、寒さ、飢餓等で同胞達が倒れ行く日々を絵描きの眼差しと故郷への想いを糧に乗り越え、1947年に無事帰国を果たす。しかしこの4年余りの体験が、彼の後半生と画業にとって大きな意味を持つことになる。復員後、家族との平穏な暮らしを取り戻した彼は即座に制作活動を再開し、《牛〈雨〉》《埋葬》など、大陸で取材したモチーフを描き始める。当初は彩度ある色調で描かれたこの〈大陸モチーフ〉が急展開を見せるのは1950年代後半のこと。黄土・褐色系の油絵具と日本画材である方解末を混合した厚みある下地の上に、木炭粉を溶剤で溶いた〈墨色の絵具〉で、正面性の強い「個性を捨象した」兵隊の「顔」を描き始め、戦争・虜囚期の記憶に基づくとされる制作が本格化する。『画集〈シベリヤ〉』刊行、1969年には第1回新潮社芸術大賞を受賞し、シベリア・シリーズの名は世に知られ、画家もこのライフ・ワークに亡くなる1974年まで取り組み続けるのである。

 本論はこの画家香月泰男の作品を通じ、作品制作過程とその手法についての視点を提示し、また彼の絵画作品が世間に受容される際に付属する言葉や社会的な物語の性質ついて考える試みである。

 第1章第1節では、戦後日本において戦争体験に根ざした制作を行ったとされる丸木伊里・俊の〈原爆の図〉連作に関する先行研究から、戦争の記憶の絵画化と作品享受の間にある問題について考える。戦争や人の死を絵画の主題とすることを画家の「罪業」として捉えうるという指摘は、戦前の戦争記録画受容に関する一連の論考に由来するが、本論では、戦争記録画の読み取りに際し戦前のマスメディアが喧伝する国民国家の物語の影響が決定的だとする意見に疑問を呈す。第1章第3節では、戦後の作品で同じく画家の戦争体験とあわせて語られることの多い香月泰男のシベリア・シリーズを取り上げ、画家が本シリーズの一作ごとに添付した「説明文」の内容から、制作者自身が語る言葉と絵画作品との関係について考える。本節では絵画作品と作品を語る言葉とは、互いを規定し合うものではなく、共に補完し合うことで画家の記憶の在り様を示すものとして捉えた。実際、戦争に関する事象は多様な立場からの語りや心情を呼び起こし、又それらが重要な位置を占める。ただ、画家にまで戦争協力の罪を問わずにはいられなかった世代の体験の重さを思いつつもなお、作品の像や物質感が自律的に鑑賞者に働きかける事象に今一度目を向けた上で、本シリーズのもつ性質について考えたい。

 第2章では香月の「シベリア」作品57点のうち《埋葬》(1948年)(第1節)、《涅槃》(1960年)(第2節)、《運ぶ人》(1960年)(第3節)の3作品を取り上げ、関連素描・画稿等から作品の制作過程や着想について考察し、香月作品における戦前と戦後の表現の関連性や、一作品中の複数イメージの並存(ダブル・イメージ)、油彩小作品や晩年の〈母子シリーズ〉への展開について述べた。

 第3章では、シベリア連作本格化の要因といわれる〈黄土・褐色系油絵具+方解末の下地〉と〈墨色の絵具〉の展開について、素材面の実験を交えて考察した。上の2つの要素が成立した背景には、香月が抑留期に身の回りの素材を工夫し画材として用いたその体験や、香月の「日本的油絵」への志向との関連が語られてきた。こうした見解を受けて本論では、「シベリア」の様式成立「以降」のマチエールの変遷を辿り、シリーズ本格化以降も下地に含有される方解末の粒子や〈墨色の絵具〉の定着量、画面の物質感に変化が加わえられ、画家の試行錯誤は絶えず行われていた軌跡を作品から辿れる可能性を指摘した。

 第4章では、香月泰男のシベリア・シリーズが画家の人生の物語とともに語られる一例として、絵本『シベリアの豆の木』を取り上げた。香月の人生を扱う本書の内容から、画家の制作活動が、他者によって受容・解釈され、新たな物語として「語り直されること」の在り方について考えた。しばしば物語は、現在の地点から振り返る過去を、現在の価値基準に基づいて整頓してしまう側面があり、その傾向が進みすぎると伝えられた内容全体の受容や過去の出来事の美化ということも起こりうる。上の事柄に留意しながら本論では、生前の画家の言葉が発せられる背景に関心を置いた上で、作品メッセージや画家の生き様をさらに次世代に語り継ぐことを、現在の私達の問題として捉えることを試みた。

 以上、本論の関心は多岐に渡り、さらなる考察を要することは必至である。しかし、香月泰男の戦争・虜囚体験とともに語られる側面を確かにもってきたシベリア・シリーズは、画家の過去の抑留体験との事実関係だけではなく、彼の戦前・戦後も一貫した制作姿勢、復員後の日常への眼差しや記憶の想起の在り様や当時の社会背景など、多様な要素が入り交じる中に生成した纏まりである。そのため「事物を正邪にふり分ける」という戦争の政治的な在り方に伴って、安易かつ一義的に言説化されうるものではない。香月泰男と懇意だった人物の語る「香月は死者に対する、生き残った者の義務として描いた」という画家像は決して疑われるものではないが、一方で冒頭の《青の太陽》に見られる暗闇に浮かぶ青空と星々は、画家の戦争体験を知らぬ者に対しても、過ぎ去る時間や命を心深く想い、そして生きた画家の存在を私達に伝えてくれるのである。


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