泉 美穂

 卒業論文要旨

伊藤若冲の「枡目画」作品を再考する
―西陣織「正絵」との関係から―


 伊藤若冲(1716〜1800)は、その特異な表現方法から、従来「モザイク画」と称される作品を残している。墨線で画面全体を約一センチ区画に仕切り、数万もの区画を一区画ごとに彩色する表現方法は、江戸時代は勿諭、まして現代においては奇絶とまで評された特異な作品である。彩色表現が歌舞伎衣装の模様に使われていた「枡文」に類似し、根拠のないモザイク画よりは「枡目」という表現のほうが適切のため、本論では新たに「枡目画」と称することにした。現在、この枡目画作品は《樹花鳥獣図屏風》《鳥獣草花図屏風》(六曲一双)と《釈迦十六羅漢図屏風》(八曲一隻)、《白象群獣図》(掛軸)の計四点が報告されている。本論では、これらの作品を取り上げ、主として染職分野からの考察を行った。

 第一章では、まず関連作品や従来の研究から、これらの作品がもつ問題を明確にし、幾つかの新たな問題点も指摘した。

 四点の枡目画作品の内、厳密に言えば、若冲の真筆は《白象群獣図》だけである。このことは、《樹花鳥獣図屏風》や《鳥獣草花図扉風》に落款や署名がなく、若冲画とのみ伝承されてきたことや、経緯・伝来に関する文献や資料が残されていないことによる。作品に関する記録がないため、この作者問題の他、制作年代や作品の主題についても不明な点が多い。制作年代については、若冲の真筆作品との比較から、晩年となる寛政二年(1790)前後という指摘もある。枡目画作品と関係のある染職分野からこの時期を見れば、山鉾懸装品のような、絵画的な表現による大画面の織物が享受されていた時期であったと言える。

 染織との具体的な関連性については、枡目画作品における模様や方眼画面などの発想源といった面で、西洋のタペストリーや綴織法を用いた絹織物である中国の刻糸など、舶載品との関係が指摘されている。画面が織成した布を感じさせる以外にも、顔料による盛り上がりやざらついた質感、簡略化したモティーフ、鮮やかな色彩など、確かに織物的な表現が、枡目画作品には読み取れる。

 しかし、従来の研究では、発想源と考えられる染織技法の提示にとどまっており、当時の染織業界の状況や制作工程などの具体的な考察は未だない。この点からも本論では、特に染職分野からの検討に基づき、密接な関係を見出した。

 第二章では、画面から受ける染織的な印象を手掛かりとして、当時の京都における染職業界の状況や制作工程、絵画的な織物との関連性から画面の発想源や利用上の制作目的について考察した。

 その結果、ジャカード機で使用する紋紙との類似が指摘されていたが、ジャカード機が導入される以前の空引機の工程で使う、織物用の図案「正絵」の存在が浮かび上がってきた。正絵は、織物の図案という性質上、上下左右に連続する構成となっているが、中にはその連続性を考慮しない、「一画面におさまった絵画然とした正絵」がある。これは、明和頃(1764〜)より織成された「掛軸や衝立あるいは屏風などに仕立てられた鑑賞用の織物」のためのものであり、当時の有名な絵師に正絵の下図を依頼していたことも分かった(『近世正絵図譜』)。

また、この鑑賞用の織物、即ち「美術織物」を早い段階から織成していた人物として「金田忠兵衛」の名が文献に散見され、彼は応挙や景文など有名絵師に描かせた下図をもとに織成している。興味深いことに若冲の人間関係について再検討を行ったところ、同姓同名の人物が法要の記録『参暇寮日記七十二』に若冲の親戚として登場していることを発見した。現在は、両者が同一人物とは確定できないが、江戸時代中期頃よりこういった絵師の下図による美術織物の織成が展開されており、同時代に活躍した若冲ら絵師に、何らかの影響を与える背景があったことは明瞭になった。

 そこで、枡目画作品を正絵と仮定し、一区画内に相当する経緯糸の数を割り出してみた。その一区画内の糸数で、《日象群獣図》や《鳥獣草花図屏風》に見られる主要な彩色表現のタイプを織り表せるか検討し、これらの作品に見られる彩色表現の内、規則的な彩色表現のタイプは割り出した糸数で織成できると推察した。

 このような考察から、析目画作品は、舶載の染織品そのものよりも西陣織の制作工程にある正絵に触発された、もしくは美術織物を織成するために描かれたと結論した。また、作者問題に関わる若冲には、《動植綵絵》の構図に蒔絵図案的な描き方が見られることや、版画に友禅型染の技法との親近性があることなど工芸分野への関心が窺われる。その面からも枡目画作品は、当時の染織や文化を反映している作品ではないかと指摘した。  第三章では、まず絵画理念や仏教思想、世界観などから若冲の作画姿勢について触れ、これらと当時の博物学の状況から表現やモティーフの検討を行った。そして、最終的な結論では、枡目画作品の主題について再検討すると共に、作画上の目的、追求したものが何であったのかを考察した。

 枡目画作品は、前章において正絵に触発されたと指摘したが、通常の正絵とは異なる彩色表現、つまり枡目画法が示すように独自の表現が見られる。だが、むしろこの異なる部分に枡目画作品を描いた作画上の目的や主題が窺われる。

 若冲の絵画理念とは、「自己の作画原理にしたがえばいかなるものでも自由に描出」(《旭日鳳圏図》自賛)でき、「執勘に物を凝視する姿勢」(『若冲居士寿蔵碣銘』)を打ち出したものである。この理念が、枡目画作品における彩色表現、即ち濃彩にも反映している。つまり一つは、抽象化されたモティーフと形式化された彩色表現が、若冲の作画原理に基づいた主観的映像によって生まれたものであるという点。もう一つは、陰影を可能とする表現は避け、二色以上の色彩が一区画内を占める割合変化で表すことによって、「物」公来の色彩を見つめるといった若冲の「物」に対する凝視の姿勢が、一区画ごとを濃彩に平面的に賦彩している点に働いていることである。

 一方、仏教信仰は、弟や母親の死によって《動植綵絵》が相国寺に寄進され、《野菜涅槃図》が描かれたことなどから、若冲にとって絵画制作の動機となることを推察した。つまり枡目画作品も若冲の仏教信仰に基づいて描かれたものと思われる。また若冲には、「草木国土悉皆成仏」の思想がみられ、若冲に関連する資料からも、この世のすべてのものが仏性のある生前を宿し成仏するといった世界観がみられる。

 《樹花鳥獣図屏風》や《鳥獣草花図屏風》は、舶来の珍鳥獣を買い集めていた大阪の豪商「吉野五雲」との地縁やネットワークの繋がりなどから依頼を受けて制作された可能性がある。当時の博物学や鳥獣収集の流行に対して剥製技術が未発達であったこと、また若冲が敬虔な仏教信者の思想をもち、それが絵画制作の動機となっていることから、二点の作品の主題としては、動物たちを永遠化させようとし、かつ作画に当たって衆生の帰する所、動物たちの「浄土」を思い描いたのではないかと考えられる。

 「絵画」と「染織」との中間に存在するものとして見られるのは、文字どおり織物の下絵という他に、枡目画作品の最終的な作画上の目的が、正絵に触発されたことから、作画する段階において織物そのものを表現しようとしたことにあったからではないかと指摘した。当時の染職において、技術の発達により友禅染の着物をはじめ、美術織物のような絵画的な表現が取り入れられ展開していく中で、反対に若冲は、絵画に染織的な表現を取り入れたと考えられる。それゆえ、あえて質感や素材などの描出をし、理念に基づきつつ織物の本来もつ意匠性や抽象性の面白さに着目した描法や表現をしたと言える。枡目画作品は、「絵画」と「染織」の両要素を併せ持つ新鮮な感覚に、早くから着眼し取り組まれた作品と言えよう。

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